闇に侵食された空気が陽の光によって浄化されている。澄んだ空気とはこういうことを言うのだろう。慶一は顔を洗ってから気付くこの瞬間が結構好きだった。それに感じるとようやく目覚めた気がするからだ。
昨晩から水に浸してあった昆布の入った鍋に火をかける。乾燥させてある昆布は旨味成分の一部が表面に押し出されて白い粉を吹いたようになる。これを水出しすることによって上品な出汁がとれるからだ。こうして二回に分けて出汁を取ると、低い温度帯で出る水出汁と沸いたお湯で出る深みの違う出汁を両方取ることが出来る。
弱火から中火の間で一時間かけてじっくり沸かせている間に、朝に使う材料を切り分けておく。
沸騰して昆布が出汁を吸ってしまわない内にボウルに取り出して、味噌汁に使う分はそのままで、煮物に使う分を別の鍋に移す。
大根と人参と厚揚げ、色を整えるために小松菜も入れる。醤油は少なめにして酒を多く入れると、さっぱりとした甘みが出来て煮物特有のしつこい味にならずに済む。これもまた弱火でじっくり煮込んでいいく。
だし巻きには白出汁を使う。煮物は野菜の旨味がでるし、味噌汁は味噌を使うのでシンプルな昆布の出汁でいいが、淡白な卵を使うだし巻きは白だしとみりんで味に深みを出したいからだ。
業務用のグリルに人数分の鮭を突っ込んで焼く。
そろそろ暑さが肌にまとわりつく季節になってきたので、きゅうりとわかめの酢の物を一品追加することにした。
朝は赤味噌、夜は白味噌。慶一が味噌にこだわるようになったのは川神院に来てからだった。
赤味噌の赤色のもとである“メラノイジン”は運動をすることによって大量に作り出されてしまう活性酸素を除去する効果がある。また、代謝を上げる効果もあり身体が目覚めて血糖値の上昇も抑えられる。
白味噌に含まれる“GABA”という成分は脳の興奮を抑え、ストレスや不眠を和らげるので夜はぐっすりと眠り体の疲れを取ることが出来る。
だし汁を少し水で薄めて味噌を溶いていると、朝の鍛錬終わりの喧騒が廊下に響きだす。
朝の澄んだ空気も、すっかりと家庭の匂いに変わっていた。
「おはよう」
最後にオレンジを切っていると鍛錬終わりの百代が調理場に顔を出した。
「おはよう百代。鍛錬ご苦労さん」
「それにしても器用だな」
百代は慶一の包丁さばきを見て感心していた。
オレンジをヘタの部分の反対側を切り落とし、林檎の皮を剥く要領でオレンジの皮を剥いていく。皮を剥き終えると、繊維にそって包丁を入れて一房ごとに切り分けていく。
慶一は一つオレンジを剥き終えると、包丁を厨房の光に反射させて言う。
「一家に一本ペティナイフってな。穴あき包丁より便利だぞ」
百代は慶一の話を聞かず、切ったばかりのオレンジをつまんでいた。
「おっ、このオレンジ甘いな」
「人の話を……。まぁいいか、この時期に甘いのは珍しいな」
慶一も味見しようとオレンジに手を伸ばすが、百代に腕を掴まれて止められる。
「せっかく早く鍛錬終わらせてワン子より早く来たんだから。……んっ」
目をつぶった百代に慶一は唇を重ねる。
行く宛のないキスは、落ち着く場所を探して唇が右往左往へと移動する。お互いの唇が収まりの良い場所に落ち着くと、感触を確かめるようにゆっくりと押し付け合った。
唇を唇で揉むように擦り合わせていると、今まで柔らかかった感触が微かに硬くなる。こじ開けられた二人の唇には僅かな空洞が出来上がっていた。
空洞を押し広げながら生温かい吐息とともに百代の舌が遠慮がちに口内へと侵入してくる。慶一は迎え入れるように舌で絡めとるが唾液が潤滑油のように働き、行き違いを起こした舌は甘く刺激される。
百代が先ほどつまみ食いをしたオレンジの香りが、口の中で暖められた空気と一緒に鼻から抜けていった。
舌と舌とが擦れる度に自分のではない熱に触れ、それが顔へと広がっていき身体を巡る。
幾度も異物の感触を確かめ合っていると、さっぱりとしたオレンジの味がねっとりとした唾液の味に変わる。何故か無味の味を感じた時の方が舌を痺れさせていた。
静かに脈打つ鼓動は、耳の外で捉えているのか身体の内で捉えているのかわからなくなっていた。
慶一は百代の舌を自分の舌で押し出すと歯列をなぞっていく。その刹那、吸い上げられたかと思うと鈍い痛みが慶一の舌の表面を駆け巡った。
「痛っ! いひなりはんだよ」
慶一は、痛みから舌を外気に晒したまま不器用に喋る。
「ワン子の気配だ……」
「なにも噛まなくても、他の知らせ方なかったのか?」
舌を引っ込めた慶一は、口の周りに付いたどっちのかわからない唾液を手で拭き取りながら顔を離していく。
「喋れないことしてたんだからしょうがないだろ」
「もっとこう……さり気に距離を取るとか」
「距離を取れないようにしてるのは慶一だぞ」
いつの間にか慶一は百代を引き付けるように腰に腕を回していた。
このまま離れるには名残惜しい温もりが体の前面を包んでいる。起き抜けの布団の離れがたさといい、人間は熱を求めるものなのだろうか。
「一子が来るまでどの位かわかるか?」
「走って来てるっぽいから三十秒ってところだろうな」
「それじゃ、あと十秒こうしてよう」
慶一はもう片方の腕を百代の背中に回すと首元に顔を埋める。
「仕方ないなぁ。甘えん坊な奴め」
百代も慶一の背中に腕を回すと力を込めた。
「この格好で何言っても反論出来ないから、存分に甘えることにする」
「ふふっ。甘える慶一もレアな気がして悪くないな」
一言二言会話を交わすとあっという間に十秒が経っていた。二人が体を離すと、廊下を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
「おっはよー慶一! お姉さまもいたのね、おはよー!」
「おう、おはよう」
ちょうどいい感じに魚の焼ける匂いもしてきた。このまま一子が来なかったら、忘れて焦がしていたかもしれない。
それだけ百代と二人でいると時間が経つのが早く感じていた。
「あれ? どうしたの慶一汗かいてるわよ」
「夏になって暑くなってきたからな」
「お姉さま唇濡れてるわよ」
「そこにあるオレンジつまみ食いしたからな。汁が付いたのかもしれん」
まな板の上に置いたままになっているオレンジは果汁を広げていた。それを一つ取ると百代は一子の口に放り込んだ。
「まぐまぐ。体を動かした後の果物は最高よね」
「ついでに鮭も焼けたから持って行ってくれ」
「了解よ! 直ぐに運んでまた取りに来るわ!」
一子は手早く皿を掴むと調理場に元気を残して走っていった。一子が運んでいる間に、途中で終わっていたオレンジを切るために慶一は再び手を動かす。
「川神院でいちゃついてると、一子に妙な罪悪感があるのはなんでなんだろうな」
「そうか? 私は気にならないぞ」
「オレも学長とかは全然気にならないのに、どうも一子に見られたら家庭にヒビが入るような気がして……」
「その年で父性愛に目覚める奴っていないだろうな。しかも同い年の女の子相手に」
呆れ半分関心半分といった風に、百代は目を細めていた。
「大和だって似たようなもんだろ。そういや、結局オレンジの味わからなかったな」
慶一は改めて一つ手に取り口に運ぶと、果汁があふれるオレンジは噛まれた舌に少ししみた。
東から昇った太陽が南の空に高く止まりじっくりと空気を焼き上げている。屋上にある青いベンチに腰掛けて、開いたスペースに手の平を置くとジワジワと太陽の暑さを感じた。
「でよー、店長とも話したんだけどよ、源氏セールで大儲けって寸法だぜ」
「チラシくらいは配ったほうがいいんじゃないのか?」
「川神先輩の言うとおり、少しくらいは宣伝した方がいいと思うぞ」
二人の意見を聞いたキャップは暫し腕を組むと、思い立ったように人差し指を立てた。
「そうと決まったらこうしていらんないぜ! オカズわけてくれてサンキュな慶一!」
屋上のドアを開けると駆け下りるというよりも、落ちるように素早く身を消していった。
「あのぶんじゃ午後の授業の時には教室にいなさそうだな……」
慶一は自由奔放な男の背中を見送って言った。
「キャップはいつも通りってことでいいが、まだ学校じゃ私のこと川神先輩って呼ぶんだな慶一は」
「結構こっちの呼び名が名残惜しくなっちゃったからな、今年度いっぱいしか使わないだろうし。……川神先輩が留年しなければ」
「縁起でもないこと言うなよ! これでもやることはやってるぞ」
「わかってるわかってる。でも、やることやらせてるのは大和だけどな」
慶一が百代の頭を撫でていると百代が溜め息を吐き出す。
最初からいたのか、キャップと入れ違いできたのかは分からないが、今までいなかった人物が姿を現していたからだ。
「はぁ……。なんかようか? 燕」
「いいのいいの。そのまま……そのまま」
「あからさまに見られてるのに気にするなって言うのは無理だぞ」
「大和君にちょっかいをかけに行く前に、邪魔が入らないか百代ちゃんの様子を見に来ただけだから」
燕は口元を手でおさえて悪戯に笑い、慶一と百代の二人を見ながら続ける。
「でも、その心配はなさそうだねぇ」
「松永先輩が煽りに来たことによって、邪魔しに行く確率上がりましたけどね」
「前口君が百代ちゃんの手綱を握ってる間は大丈夫だよん」
燕は満足すると早々に立ち去っていった。すると入れ代わり立ち代わり今度は与一が顔を出した。
「……まさか与一まで邪魔しに来たってわけじゃないよな」
慶一は疑心に満ちた目で与一に問う。
今日はいつもより気温が高くなっているので、屋上には人がいなかった。川神院では一子もいるし、折角だから昼は百代と二人きりでいようと慶一は昼飯に誘った。
匂いに釣られたキャップが現れたのは、弁当を食べ始めて直ぐだった。次に燕と、今は与一。今日は日が悪いらしい。
「なに言ってるんだ? オレはただ街を見下ろしに来ただけだぜ。ここなら万が一オレの力が暴走しても被害は最小限に収まるからな」
与一はどこか悲しそうに自分の右手を見ると、ズボンのポケットに収めた。
暗い影を落とす与一に反して、太陽はギラギラとその影を消すように輝いている。二人には興味が無いのか通り過ぎて行くと、与一は金網を鷲掴みにして外の景色を見下ろす。
「なんつーか気が削がれるなアレ」
「邪魔をするつもりはなさそうだが、嫌な空気を残していったな」
中二病が一人いるだけで、屋上では恋人の空気の方がマヌケに見えだしてきた。
「与一ダメじゃないか! 直江くんに言われただろう」
「オマエか…いちいち邪魔しに来るなよ」
(今の与一がそれを言うのか……)
突如現れた義経に対してぶっきらぼうに対応する与一に慶一は心の中でつっこんだ。
「与一ィ、主に恥をかかすなっていつも言ってるだろ。素直に言うこと聞きな」
「姉御まで!」
弁慶の「そおい!」という掛け声が聞こえると、与一の体が飛んでいった。水しぶきが上がったところを見ると、またプールに飛ばされたらしい。義経もそれに気付いて慌てて与一の落ちた方に走っていた。
「ごゆっくり~」
と一言を残して弁慶も屋上から去っていく。その時に含み笑いをしていたのを慶一は見逃さなかった。
そのことを気にする間もなくガクトが遠慮なしに屋上にやってきた。
「よう! 邪魔するぜぇい」
悪びれる様子もなくニヤニヤとした笑みを浮かべて片手を上げているガクトを見て、慶一は嫌々反応する。
「なんかようか?」
「大和が慶一はモモ先輩と屋上でのんびりしたそうだから邪魔するなってよ」
やたらと人が来る理由がこれで分かった。大和は気を利かせてくれたつもりだろうが、慶一と百代の場所はバレてしまったというわけだ。それでお腹を空かせたキャップが来たり、燕や弁慶が顔を出しに来たのだった。
与一は行くなと言われたから反って興味が出たのだろう。立ち寄っては行けない場所というのは中二病心をくすぐりそうだ。
「それを聞いてなんで、屋上に来たんだよ」
「友達からの祝福ってやつだ」
ガクトは腕を組むと自分の言葉に深く頷くように何回も頭を振る。
「要は邪魔をしに来たってわけか」
「オレ様はな……もちろん慶一とモモ先輩のことを心から祝福してるわけだが、学校の屋上で二人でイチャついてるのを知って我慢できるか!」
「姉パンチ!」
カエルが潰されたような呻き声を上げてガクトが放物線を描いた。
「情けないこと言うから仕置したにゃん」
「なにも吹っ飛ばさなくても」
「那須与一と一緒でプールの方に飛ばしたから大丈夫だ。それより慶一、決めたぞ。大和の邪魔しに行くことにした」
「そうだな……異議なし」
大和が気を使ってくれてるのはわかっていたが、結果的に邪魔をされたことになった二人は大和も同じ目に合ってもらおうと腰を上げた。
プールで思い出した……。
水上体育祭の話は、この小説では六月ではなく七月の行事ってことで書いていきます。