真剣で私に恋しなさい!N   作:挽きたて

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第五十二話

 ナメクジが首筋を沿って動いている。生温かい粘液をヌメリヌメリと後を残しながら鎖骨で止まり、音を立てるようにその場で往復を繰り返していく。音はやがて鎖骨から肩へ、肩から首筋へ、首筋から耳へと徐々に上って行き、耳たぶを包み噛む。

 夢見心地の状態は甘噛によって徐々に覚醒していく。薄目を開けたまつ毛の隙間からは、いつもの部屋の天井が見える。違ったのはいつもより布団が重たかったことだ。

 空気と水の音が混じり合う粘着質な音が聞こえると、すぐに声が聞こえてきた。

「んぁっ、起きたか?」

 その声は慶一の直ぐ耳元でささやいている。

「ん、おはよう百代」

「ふふん、今日はサービスで気持ちよく起こしてやったぞ」

 ナメクジが首を這っている夢を見ていたとは言わないほうがよさそうだった。

 時計を確認すると午前の四時を回ったところで、視線を合わせた目覚ましは電子音を鳴らすことなくチクタクと静かに時を刻んでいた。

「朝の三十分は命より大事……」

 慶一は薄目を閉じると意識も同じようにブラックアウトしていくのを感じた。夢現の快楽に身を委ねる前に頬を強くつねられる。その刺激は淡い眠気を取り除くには十分だった。

「せっかく朝早く起こしてやったんだから目を開けろよー」

「舐めるとつねるの間の起こし方なかったのか?」

 欠伸をしながら体を起こすと、お腹の上に乗っていた百代も布団と一緒に少しずつずれて慶一の膝の上に尻を付ける。

 慶一は百代の肩の上に顎を乗せると体の力を抜いて倒れこんでいった。髪と汗と体臭が混ざった不思議な甘い香りは、再び夢の世界へと誘おうと鼻孔を匂いで埋めていく。百代は慶一を支えるように背中に手を回している。

「普通に揺すって起こしてもつまんないだろ」

「日本人は普通って言葉が大好きだ。だからオレも普通でいい」

「嬉しいくせに、本当に素直じゃない奴だなぁ」

「同じことを男がしたら途端に変態になるんだもんな」

 百代から体を離すと、寝間着を脱いで制服のズボンとTシャツに着替える。昨晩から机に置いたままの飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばして飲み干し振り返ると、起き抜けの布団は新たな人型を作り出し盛り上がっていた。

「子猫は布団で二度寝するにゃん」

「それじゃ、なんの為に早起きしたかわからないだろ」

「たまには優しい彼女が彼氏を起こしてみたかったんだ」

「あぁ、確かに四時半に目覚ましかけてるオレを起こすには四時位にこないとダメだもんな」

 この時間帯が「おはよう」になるのか「こんばんは」になるのかはわからない。東の空が明る見始めたのを見ると夏の朝は早いのだと感じる。朝は早く夜は遅い。どうりで一日が長く感じるわけだ。

「鍛錬の時間には起こしてにゃん」

 百代はそう言うと布団を頭まで被ってしまう。布団の形から察するに、本当に猫のように丸くなっていた。

 朝御飯を作る最中にそんな暇はなく、目覚ましをセットして枕元に置くと慶一は静かに部屋を出た。

 

 

 朝御飯を作り終えた開放感から軽く体を伸ばす。小さく声が漏れるとつられて欠伸も出て来た。

「ずいぶん気持ちよさそうじゃないか」

 どこか恨めしそうな顔をした百代が調理場に顔を出した。

「体全体を伸ばす欠伸はなんで気持ちいいんだろうな」

「私はピーピーうるさい電子音に起こされて不機嫌だぞー」

「まぁ、気持ちはわかる。目覚まし時計の音ってなんか毎朝寿命を削られてる気するよな」

「他人事だーっ! 眠れる森の美少女を起こすように優しく起こしてくれるって言ったくせに」

「そんな約束した覚えはねぇな……。それにペロー版の眠れる森の美女だと、百年の眠りの魔法が解けて勝手に自分で起きるらしいぞ」

 慶一の手が百代の頬に触れると、百代は静かに目を閉じる。顔を近づけて、しばらくゼラチン質のような柔らかい唇を楽しんだ。

 唇を離すと同時に吐息が漏れ聞こえると、唾液で濡れた百代の唇が開いた。

「結局キスするんじゃないか」

「眠れる森の美女はグリム童話の方が好きだからな」

「それじゃ、目覚めるまでしっかりキスしてもらわないとな」

 再び百代が目を閉じるので同じ行為を繰り返す。幾度目かわからないキスをしていると、思い出したように百代が口を開く。

「忘れてた。大事な話があるってジジイが慶一を呼んでたんだ」

「……オーロラ姫も百年も寝てたんじゃ物忘れも激しくなるよな」

「なんか言ったか?」

「いいやなにも。さっさと学長に会って用事済ませて弁当作んなきゃ」

 慶一はポケットを探ると犬笛を取り出して吹くと、疾風のような速さで一子が現れる。

「呼んだ!」

「ちょっと用事が出来たから、料理を運ぶの任せていいか?」

「了解よ!」

 一子に後のことを任せると、慶一は百代と一緒に調理場を後にする。

 鉄心のいる部屋に入ると座布団の上に正座をしているのが見えたので、思わず慶一も正座をしてしまった。

 百代も慶一の隣に腰を下ろしたのを確認すると、鉄心が口を開いた。

「話というのは百代のことじゃ」

 鉄心はお茶を一口すすると続けた。

「お主と付き合うようになってからは、だいぶ戦闘衝動が抑えられてきておるようじゃ」

「そうだと嬉しいですけど、義経の挑戦者選びで発散してるというのもあるのでは?」

「もちろんそれもある。おそらくは力の発散はそれで緩和されておるのじゃろうな。そして、精神的なモヤモヤはお主で発散してると言ったところじゃろ」

 鉄心は慶一を見ると顎に生えた枯れた白い髭を撫でながら微笑んでいた。その笑顔からは、物事が良い方向に傾いているという事が伺えた。

「前から気になってたんですけど、百代の戦闘衝動が振りきれるとどうなるんですか?」 

「力を誇示するためだけに暴走するじゃろうな」

「鬱憤が溜まると暴走するって、蒸気機関車みたいな奴だな」

 慶一は自分の話をされているのに興味なさそうにしている百代を見た。

「ほっほっほ、まさしくそれじゃ。それも、1885年から1985年へタイムトラベル出来るくらいの力じゃ。数字にすると1.21ジゴワットくらいかのう。もうプルトニウム並じゃな」

「そりゃまたヘヴィな話で」

「重さとは関係ないわい」

「いいから話を続けろよジジイ。私は腹が減ったんだ」

 百代は叱られるわけでもなく、褒められるわけでもない。会話も横滑りになり自分と関係のない話題になってきているので早く帰りたいらしい。

「モモは辛抱が足らんのう……。ナイスなことを思いついたのじゃ」

 そう言った鉄心は少し間を開けて慶一と百代の反応を窺いながら続ける。

「それは山篭りじゃ」

「おいジジイ! それは前から言ってたことじゃないか。今の私には必要ないだろ?」

「そう思ったんじゃが……。どうせならとことんやろうと思ってのう。慶一がモモを弱らせて大人しくなったところで、精神鍛錬ゲットだぜっと言ったところじゃ」

「それなら川神院でだって出来――」

 百代が言い終える前に鉄心が口を挟む。

「モモは攻防どちらも荒すぎる。人里離れた山で己の肉体をもう一度見つめ直すことも必要じゃぞ」

 思い当たることがあるのか百代は黙っていた。それでもなかなか決心が付かないのか、頭は動かず静止していた。見かねた慶一が百代に声をかける。

「クローンや松永先輩が出て来たんだし、心境の変化のタイミングとしてはちょうどいいんじゃないか?」

 慶一に後押しをされた百代は、鉄心の提案を頷き受け入れた。

「決まりじゃな。夏休みに入って直ぐ行くからのう。慶一も用意しておくのじゃぞ」

「へ? オレも」

 慶一の間の抜けた声に鉄心はしっかり答える。

「そうじゃ」

 月の光も入らない鬱蒼とした草木の生い茂る人気の全くない山の中、視界に映るのはわずかに切り取られた懐中電灯の光の世界だけ。

 人か動物か、それとも人ならぬモノなのかもわからない音に怯えながら夜を過ごす。

 一足踏み出せば少し遅れて誰かの足音が鳴る。山の中では聞こえるはずのない、ヒタヒタと響く裸足の足音は歩く度に増えているような気がした。

 それが耳元で鳴っている事実に気付いた瞬間、思わず足を止める。背筋を蜘蛛や蜈蚣などの節足動物が這い上がってくるような悪寒が走る。吐く息の方が多くなった呼吸は荒く、上下の奥歯をぶつかり合わせガチガチと鳴らし、止めようにも体は言うことを聞かない。こんなにも自分の顔から騒音があふれているというのに耳元の足音は紛れるどころか、鼓膜を直接響かせているかのように不自然に大きな音を鳴らす。

 硬直した身体は小指一本すら動かすことが出来ない。恐怖で顕になった眼球だけをキョロキョロと右に左に動かして辺りの様子を伺うが、首を動かすことの出来ない視界は当てにならなかった。

 目を凝らせど眼先に広がるのは闇夜だけで、先の道程は曲がっているかすら確認できない。左右に映る木々の葉が、風に吹かれる度に怪しげに表情を作っていることだけを感じていた。

 ようやく懐中電灯を持っていることに気付く。しかし直ぐに視線を下に向けたことを後悔した。

 硬直した腕に持った懐中電灯は足元を照らしている。影は両足と見られる二つだけ。

 おかしい。この角度は自分の足の影は映らないはずだ。

 誰かが……前にいる。

 自分のツバを飲み込む音が耳の内側から外へと抜けだした。足音はまだ鳴っている。足音が確実に二つに増えている。気付いた時には影も増えていた。

 一つ、また一つと足音が増える度に、足元の影も数を増やしている。

 いつしか自分を取り囲むように影が放射状に伸びていた。乾いた口の中は自分の呼吸だけでも痛く、そのくせ口の端から無様に涎を垂れ流している。

 もう前を向いてはいけない。そんな気がしていた。骨を砕き、肉を切り、皮を張り裂けそうなほど膨張を繰り返す心臓を、いっそ鷲掴みにして潰してしまいたい。そうすれば闇に紛れることが出来るというのに、体のそこかしこでは呼吸、心臓、歯、様々な警報音が途切れず鳴っている。

 ひとつの影がこちらに這うように伸びるのが見えた。その不用意な光景に思わず目線を上げてしまった。

 視界は闇ではなく、真っ黒な赤に支配された……。

「そんな山籠りにオレを連れ出すと言うのか!」

「ひいい! やめろよそういう霊的表現! 私は行くことが決定してるんだぞ!」

「お主、空や大地と対話するの得意そうじゃし。慶一と一緒ならばモモもなにか掴めるじゃろて」

 空を眺め雲の行き先を辿るのは好きだが、メルヘンの世界のように草花と話すことは出来ない。精神鍛錬の母なる大地に触れてどうやらなんてものも理解出来ないはずだ。

「効果ないと思いますけどね……」

「お主と一緒に山に篭もれば、じじ臭い落ち着きが多少なりともモモに伝染れば儲けものじゃと言うのが本音じゃわい」

「学長にまでじじ臭いと言われたくないですけど、理由は納得しました」

 そこらの学生よりも若々しい鉄心に比べれば、確かに慶一の方がじじ臭いのかもしれない。少なくとも慶一は、無差別に女学生のブルマ姿を見て楽しむような若々しさはなかった。

「というより、私が行くんだから素直に納得して付いて来いよー」

「携帯の電波も入らないような山奥に現代っ子のオレが耐えられると思うか?」

「慶一は終始携帯の電源切れてるようなタイプだろ」

「決心がつかないなら、特別手当も出してやるぞい。あっちでも食事の世話になることだしの」

 百代とのデートの時間を考えると、屋台を引っ張る時間は惜しい。特別手当が出るということは一日分は自由な時間が開くわけだ。それだけでも慶一を後押しするには十分な提案だった。

「それじゃ、学費の返済分から引いといてください」

 

 

 

 

 

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