食品の悪変形態は千差万別であり、腐敗や酸化により劣化した食品は体内に大きなダメージを与える。それを治そうと体は、嘔吐、下痢、発熱などの症状を発症する。
これは衛生管理や食品保存の技術が発展していない時代から、人類が戦ってきた問題である。
現代のように防腐剤や日保ち剤などの添加物はない、冷凍技術もないような時代はどうしていたか。今でも変わらず残っている干物や塩蔵品などがそうである。
魚は腐りやすいものだが、よく乾かして干物にすると一週間以上も保存することができる。食べ物が腐る主な原因は水分による微生物の繁殖だ。干物は魚を乾かして水断ちすることによって繁殖しにくいようにしている。
干物はたいてい塩分に漬けてある。理由は魚から水分が出やすくなるのと、濃い食塩水の中では微生物が生育しにくということがある。塩が強い干物は、気を張ってからからに乾燥させなくても保存が効く。
水分は抜けるが魚の旨味が消えるわけではないので、魚介にはとても適した保存方法だ。
似たような方法で高濃度の砂糖を使い防腐効果を利用する、砂糖漬けという手もある。
食品中の水分が保持され固くなりにくく、水分も少なくなるため菌の繁殖を抑えることが出来る。糖の濃度が高い練り羊羹が腐らないのもこの為だ。
これらを利用すれば一、二週間程度の山篭りの食料など簡単に用意ができる。
特に砂糖と醤油を使った乾燥ひき肉を作っておくと、トマト缶と合わせてミートソースやポテトフレークと合わせコロッケなど少ない材料ながらレパートリーが増える。
タンパク質系は他にも、乾燥させたしじみや常温でも保存性が高い魚肉ソーセージ、魚介の珍味も食べたり出汁を取るのにいい。
炭水化物系は米に炒ったおから、小麦粉に乾燥パスタ。特にパスタは近年スポーツ選手も愛用している。パスタの原料となる複合糖質は吸収された時に、タンパク質や脂肪よりも先に燃焼されエネルギにー変わるからだ。
副菜系となると不味い乾燥野菜類ばかりになってしまうが、学長がいるのだから山菜で補うことも出来るだろう。
コーヒーやお茶などの粉末の飲み物に、ブドウ糖やドライフルーツなど糖分がとれる携帯食。
最後に調味料諸々。食品関係だけでも思ったよりも用意するものが多かった。
学長に食事を任せると言われそれっきりなので、慶一は川神学園の図書館で色々と調べながら持っていくものを決めていた。
二日三日のキャンプ程度なら経験はあるが、一週間以上ともなると結構未知の世界だった。念の為余分に持っていくとはいえど、食材だけでもバッグに入りきりそうにない。
持っていく食材三人分の計算も疲れてきたので腕を伸ばし、天井の蛍光灯を見るように仰いでいると、何処からともなく燕がやってきた。
「そんなあなたに松永納豆」
「納豆は賞味期限短いですし、過ぎると食べるのはともかく臭いが……」
「ドライ納豆という手があるのだよチミ」
「そういうのあるっていうのは知ってますけど、売ってるの見かけたことないんですよね」
燕は慶一の言葉を聞くと、舌先を上の歯の裏側に軽く当ててチッチッチと鳴らしながら、人差し指をワイパーのように振った。
「松永納豆をなめてはイカンよ。じゃじゃーん」
燕の手にはいつものパックの納豆ではなく、袋に何やら詰められているものを取り出していた。
「それがそうなんですか?」
「そだよ、食べてみる?」
慶一はピーナッツのような粒を一つ摘み臭いを嗅いでみるが、納豆特有の臭いが殆どしなかった。納豆なのに粘り気も臭いもしないとは面白いなと思いながら口へと運ぶ。スナック菓子を食べているようなサクサクの歯ざわりが楽しいが、味は納豆というよりも大豆の延長という感じがした。
「これならドライフルーツで間に合いそうですね」
「ありゃ、不評? 水も火も使わなくて食べられるから非常食に最適だよ」
「栄養もあるのもわかってるんですけどね……。うーむ……」
難しい顔で悩む慶一に燕が後押しをする。
「仕方がないなー、今ならとっておきも味見させちゃおう!」
「とっておき?」
「そうだよ。フッフッフッ、前口君。覚悟はいい?」
あまり良い予感のしない燕の笑顔に尻込みしそうになるが、せっかくなので慶一は恐る恐る頷いてみることにした。
燕がさっきと同じように袋を取り出す。が、袋を少し開けた途端に納豆の臭いが鼻に届く。それも、両方の鼻の穴に納豆を詰められているのではないかと感じるほどに強烈なものだった。
納豆は干すことによって栄養価が跳ね上がるが、臭いまで凝縮されたみたいだ。
慶一は思わず鼻を指で摘んだが既に遅かったようで、しっかりと納豆の臭いが鼻についていた。
「こ、これは食べても大丈夫なんでしょうか?」
「モチのロン。ちなみにさっきのはフリーズドライ製法ので、こっちのが天日干ししたやつだよ」
燕がどうぞと言わんばかりに袋口を慶一に向けているが、伸ばした手が動かない。
鼻を摘んでいるので呼吸をするために慶一の口は開いている。しびれを切らした燕が、その口めがけて納豆を放り込んだ。
慶一は情景反射で入ったものを落とさないように口を閉じる。仕方なく慶一は咀嚼を始める。
先に食べたのよりも固く、サクっとコリっの中間辺りの固さだった。咀嚼を繰り返せば繰り返すほど、粘り気と納豆の凝縮された旨みが広がっていく。
「こりゃ、美味いですね」
「でしょ? 買わない手はないよね?」
「でも、くさやと一緒で臭いがどうしても……」
「さぁさぁ、どっちを買う?」
いつの間にか燕に二択を迫れていた。
「……最初の方をお願いします。無理やり売り込まれた気がしないでもないですが」
「納豆のようにネバネバ売り込むよー」
「どっちかというと豆腐のように押し売りな気もしますけどね」
とりあえず一袋を買った。予備の予備くらいの食材にしようと言う気持ちなので二袋はいらない。そもそも、どう調理していいのかがわからなかった。
「二人共図書室で飲食は慎み給たまえ。それと臭いの元はどうにかならないのか?」
京極彦一が扇子で鼻を押さえながら顔を出した。
いつの間にか図書室は半数以上の生徒がいなくなっており、残っている生徒も臭いのせいで本を読むどころではなくなっていた。しかめっ面の視線がよく刺さる。
「せっかく納豆の匂いに包まれたし、本物の納豆はいかがっすかー」
燕は京極の注意を笑顔で往なし、残っている生徒に納豆を売っていた。
確かに、この臭いを嗅げば納豆を食べたくなる。むしろ納豆以外は食べたくなくなる。それほどまでに納豆臭が空間を支配していた。
とりあえず空気の入れ替えをと、慶一が図書室の窓を全て開け終える時には燕の姿は既になかった。
代わりに京極以外の生徒の傍らには納豆のパックが置かれていた。
京極に怒られ図書室に居づらくなった慶一は、読みかけの本を借りて教室へ戻った。
一子が一点を見つめただじっとしている。目線の先には二枚の写真。何を見ているのか近づいてみると、全く同じ肉料理の写真が平行に並べられていた。
どうやら、どっちが美味しそうかと見比べているわけではないらしい。
「なにしてんだ?」
「モロに教わったのよ。正攻法の炒った石とかってやつ」
一子は視線は写真から外さず言葉だけを返す。
その姿は初めて蟹を見た子犬のような姿に見えて、思わず頭に手が伸びる。わしゃわしゃと頭を撫でながら、一子が言っていた謎の言葉を反復する。
「正攻法? 炒った石?」
「なんでもこうして見ていると、立体に見えるらしいわ」
「炒った……立体視か」
同じ被写体を僅かにずれた角度から撮った二枚の画像を、左右の目でそれぞれ一枚を同時に見て立体的に浮き上がらせることだ。
前にモロがそのようなことを言っていたのを慶一も聞いていたことを思い出した。
「見えたわっ!」
一子は素早く写真の方へと手を伸ばし何かを掴もうとするが、当然手の中は空だった。
「わうぅ……ないわ~……」
「当たり前だろ。どれ、オレにも貸してみ」
写真をぼーっと見ていると、自分でもうつろな目になっているのがわかった。二枚の写真がボヤケてきている。
「なんだか慶一が病んでるよう見えてきたわ。私もあんな顔してたのね……」
一子の言葉に頷きで返すと、ぼやけて二重になっていた写真がリセットされてしまった。一度目をつぶり、軽く目蓋を指で擦ってもう一度チャレンジする。
写真がぼやけるところまではいくが、そこからが変わらない。少しずつ二枚の写真が真ん中によってきて立体になりそうかと思えば、陽炎のように揺れて左右に分離してしまう。
イライラしてきたから目眩がするのか、目眩がするからイライラするのか。そんなどうでもいいことを考えて、またイライラがお腹の奥でモヤモヤと温められていた。
「無理っ! これ以上やったら腹からなんか突き破って出来そうだ」
慶一は“お手上げ”と手を伸ばしたまま体を反らせる。そうして息を吐くだけでも、言いようもない不快感はましになった。
「確かに結構もどかしいわよね。出来ても現実に召喚出来るわけじゃないし」
「玄孫の代まで続く借金作って、ネコ型ロボットが来るのを期待でもするしかないってくらい無理な話だな」
「私も無理だとは思ったけど、もし出来たら慶一がいない間も慶一の料理の写真を撮ってれば、好きな時に食べられるかなーって思ったのよ」
「聞いたかゲンさん。この一子の健気さを」
「いきなりこっちに話を振るんじゃねぇよ。つーか、前口がいない間ってことは夏休み中どっか行くのか?」
「まぁな」
慶一は百代の修行に付き合う事になった経緯をかいつまんで説明した。
「ほう、わざわざ山の中でやるとは、やっぱ川神院は厳しいんだな。オマエは他の二人と違うんだから、生水飲んで腹壊しました。なんてことないように気を付けろよ」
「湧き水はあるだろうけど、念の為に煮沸消毒してから飲むよ。心配ありがとな」
「ちっ、勘違いするんじゃねぇ。帰ってきてからあーだこーだ苦労話を聞かされたくないだけだ」
ゲンさんのわざとらしい舌打ちは感情の裏返しで、優しく空気を弾いた。ぶっきらぼうな優しさは自分が女でなくでも心地良く感じる。
慶一は一子を見ながら自分がいない間の食事のことについて話す。
「レンジで温めるだけの夜食をいっぱい作っておくけど、もし食べ過ぎて早めになくなったら島津寮でまゆっちか大和かゲンさんに頼れよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「夏休みだからって浮かれて、親不孝通りとかに行くなよ」
「大和にもキツく言われてるし行かないわ」
不良の巣窟になっている親不孝通り。九鬼が出張ってきたおかげで目に見える犯罪は減ったが、悪いものが広がるとしたら大抵ここからだ。
「知らない人にお菓子貰ってついて行っちゃだめだぞ」
「それはさすがに侮辱だわ! 私をいくつだと思ってるのよ!」
「昼に食わなくて余ったコロッケパン食べるか?」
「わーい、ありがとう!」
リスのように頬袋をふくらませてパンを食べている一子の机の上へ、同じく飲めずじまいだった牛乳も置く。
慶一は鞄をあさるとノートを取り出し、その中の一頁を破ってゲンさんに渡した。
「もしもの時のために、ゲンさんにこれを渡しておく」
「なんだこれ」
「一子の好物の骨付き肉のレシピ。なにかあったらオレの代わりに作ってやってくれ」
「つーか、なんで勝手に話を進めてんだ。作るとは言ってねぇだろうが」
ゲンさんは手渡された紙を丁寧に四つ折りにして、大事にポケットに入れながら言った。
「正直言うとゲンさんの都合がどうこうよりも、一子のほうが大事だ」
「テメェ……本当に正直に言いやがったな」
「まぁ、一子は頼らないように我慢するかもしれないから、さり気なく差し入れにでも持って行ってやってくれ。メモしてある肉屋でオレの名前出せば、オレのツケで買えるから頼むよ」
「ちっ、味の保証はしねぇぞ」
ポケットにしまい込んだ紙を出して、店の名前と住所が書いてあるところに印をつけていた。そんなゲンさんを見て慶一も安心する。
「ゲンさんさ。ほんっ…と優しいのな」
「なに気持ちわりぃこと言ってやがんだ」
「そこは顔を赤らめて、“食うんだ”って言って欲しかった」
「うるせぇ、これ以上付き合ってられるか。バケツ一杯分の砂糖水飲ませるぞ」
ゲンさんはそう言うと腕に顔を埋めて眠りに入ってしまった。
付き合っていられないと言いながらも、しっかりと同じネタで返してきた。人の良いゲンさんのことだ、もう少し粘れば“復ッ活ッ”と言うまで付き合ってくれたかもしれない。