いつしか自然は眺められるだけの存在になってきている。
芝生が丁寧に手入れされた公園に、行き届いた修繕をされた川、レンガに囲まれたスペースに等間隔に植えられた並木道。加工された自然はあまりに人工的だった。
不格好に生え連なる木々から思うままに伸びる枝は濃い影を落とす。所々めくれ上がった土に、歩くのを邪魔するように転がっている岩。乾いた土が風に吹かれて周囲を土埃で汚していた。
それを“荒れ”ではなく“豊か”と思えるくらい、この地は自然に満ち溢れていた。
枯れた土と湿った土は褐色とも黒とも言えず混ざり合い、砕けた白い浮岩が顔をのぞかせる。天に伸びる密集した葉は、下にあるものほど露骨に優越をつけられているように皺を作り項垂れていた。
見上げる樹木は、葉の重なり具合によって色を変えながら空に張り出している。
夏の色はこんなにも濃く混ざり合っている。生命力を孕んだ色はここにいるだけで五感を刺激した。
土に腰を下ろした慶一が、一箇所を見つめながら鉄心に向かって口を開く。
「精神鍛錬て言っても滝行じゃないんですね」
「それはどっちかというと初心者向きじゃな。激しい音と水圧に打たれて精神統一はしやすいが、逆に言えばそこには水しかない。邪魔するものが一つしかなければ邪念も払いやすかろうて」
「邪念を払うってだけで難しいことだと思いますけどね」
「精神統一、瞑想なんて言葉を使うから難しく考えるが、要はリラックスじゃ。頭を空っぽにした時に残るものをだけをひたすらに思い描くと言った感じかのう」
木々の隙間を吹き抜ける風が荒い呼吸のように聞こえる。鉄心の髭も風に揺らされ、それを手で押さえるように撫でながら何度も撫でていた。
「空っぽにするのになにか残るんですか?」
「それが悟るということじゃな」
「要はリラックスと言っても容易くはなさそうだ」
「ほっほっほっ、そう簡単に出来たら誰も苦労せんて」
慶一と鉄心がそりゃそうだと笑い合っていると、禅を組んで静かに閉じていた百代の目が三角に開く。
「うるさいぞ! 集中出来んだろうが!」
「喝ッ! 本当に集中していたら周りの雑音など耳に入らぬわ!」
叫ぶ百代よりも一回り大きな鉄心の声は森を騒がせた。
「風は吹く、動物の鳴き声は聞こえる。雑音ばかりの中、更にじじいと慶一の話し声を聞かされる。どう集中すればいいんだよ」
「目を閉じ、耳を閉じ、口を閉じると周囲の雑音など感じず自らの世界にだけ浸る。そうすると今度は心雑音が纏わりつく、それも取り除き段々無へと近づけるのが禅の意味じゃ」
鉄心は目、耳、口を一つずつ指で差しながらゆっくりと話し続けた。
「戦闘の飢えへの執着を払いのけ、自分の身体をコントロールするにはあらゆる感覚を最大限に生かさなければならん。花の名を知り、月を愛で、風を感じるように、素直に自分と向き合わなければいかんのだ」
鉄心と百代はしばらく言い合いをしていたが、それで少し鬱憤が晴れたらしく、百代は再び目を瞑りじっとしだした。
慶一は鍛錬の邪魔にならないようにと、静かにその場から姿を消した。
百代と鉄心がいた所から、歩いて十分程度離れた拠点へと戻った。
お茶を淹れて一息ついてから料理を始めることにする。茶の道に準じたわび茶もいいが、外で無作法に飲むお茶もなかなか乙なものだった。
小麦粉に水と塩をひとつまみ入れて生地を作り、しばらく寝かせている間に他の調理に入る。
山に生えていた、あさつき・ヤブカンゾウ・行者ニンニクの山菜を細かく刻み、それに持ってきたひき肉を混ぜる。ウドがあればもう少しそれっぽい歯触りになるのだが、存外それっぽくなるものだ。
ダッチオーブンに水を張り、鶏ガラスープとの素とスルメと乾燥野菜をいれてスープを煮込む。野菜の味の広がりを見て塩と醤油で味を整えていく。
寝かせた生地を調度良い大きさに手で千切り薄く伸ばし、山菜とひき肉の餡を包む。山菜を多めにしたせいか生地からは随分と緑が透けて見えるが、見てくれは立派な餃子ができた。
スープからスルメを取り出し、香草代わりのあさつきを入れる。それに餃子を入れて胡麻油を少々、蓋をして再び煮込む。胡麻の芳烈な香りはそれだけで料理のランクを一つ格上げするような気がする。
煮込み途中のダッチーオーブンの蓋へ少し胡麻油を垂らす。取り出したスルメを細切りにしたものを蓋の上で軽く炒め、アク抜きしたふきを入れて更に炒める。酒に溶かしたブドウ糖と醤油と鷹の爪を混ぜ合わせて、味をなじませきんぴらをつくる。
醤油の香りが風に乗って広がると、鉄心がこちらに歩いてきているのに気付いた。
「あれ? 一区切り点いたんですか?」
「いや、モモ一人の方が集中できると思って、そっと抜け出してきたんじゃよ」
あれこれと言う割には孫に対する甘さが出ていが、確かにわざわざ邪魔する必要もないのだろうと慶一は納得した。
「後二十分くらいで昼飯が出来ますけどね」
「モモの集中力も切れかかっておるし、出来てから呼びに行って丁度いいくらいじゃろ」
鉄心は火から下ろした飯盒が気になるのか、手を伸ばしていた。慶一は枝で鉄心の近くの地面を叩き注意をする。
「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣くとも蓋取るな。今は蒸らし中だから、おいたしちゃだめですよ」
「ケチじゃの~。減るもんじゃなし」
「減りますよ。ご飯がふっくらしなくなる」
慶一は枝で、ここから近づくなと地面に線を引いた。
「そう小言を言われると、バーさんを思い出すわい」
昔を思い出したのか鉄心は少し遠い目をする。
弾むような鳥の声が居場所不明にそこかしこで響いていた。人為的な音は自分たちが立てる音だけなので、それに反する鳥の鳴き声は余計に響くように感じる。
「鳥の声とか風の音って雑音って感じはしないですけどね」
慶一は淹れた煎茶を鉄心に差し出しながら言った。
鉄心は溜め息を吐くようにお茶の湯気を飛ばすと慶一に答えた。
「ワシもそう思うぞ。モモが雑音に感じるということは、やはりまだ精神が安定していないんじゃろうな」
「それでも、心配はいらないくらいは抑えられているんですよね?」
慶一の言葉に鉄心は深く頷いてから答える。
「そうじゃ。今回の目的は薄れてきた戦闘“衝動”を“渇望”に変えることじゃ。強き者を求めるのは武闘家としては大切なもの。心の持ちようさえ変われば根っこは変える必要はないわい」
「それなら予定よりも早く下山出来るかもしれないですね」
「それでも最低一週間はいるぞい。後は純粋に己を高めるための修練じゃし。モモには力を“放つ”だけではなく“吸収”するということを覚えて欲しいもんじゃ。そうすれば攻撃一辺倒で瞬間回復にばかり頼ることもなくなるじゃろう」
水餃子が入ったダッチオーブンが吹きこぼれてきた。もう出来ただろうと慶一が確かめていると、鉄心が軽く空気を殴るような動作をした。
「なにしたんですか?」
「直ぐにわかるわい。ほれ」
鉄心が顎をしゃくり指した方を見ると、文字通り百代が飛んできていた。
「じじい! 精神を集中させてる時に、いきなり気で殴ることないだろ!」
「あれが躱せないようじゃ、まだまだじゃのう」
鉄心と百代はお互いに拳撃を繰り出しているが、動物同士が甘噛みで戯れ合うように微笑ましい光景だった。
慶一は百代の分の煎茶を入れると声をかけた。
「まぁまぁ、お茶でも飲んで落ち着けって」
「ん? わざわざお茶っ葉まで持ってきたのか」
「煎じ終わった茶っ葉はおひたしに出来るしな。これ上煎茶だぞ、高いんだぞ。まぁ、本当は玉露の方が美味いんだけど」
百代も落ち着いたのを見て、慶一は食事の用意を始める。飯盒の蓋を開けると、空気を押し上げて発する米の匂いに食欲も沸く。炊きたての真珠のように輝く米は、このまま卵と醤油をかけて食べたくなるほどにふっくらとしていた。
水餃子も煮込んだ野菜の甘い匂いがスープに溶けている。
「おぉーっ! 結構豪華じゃないか」
「オレとしては、見た目が緑ばっかりでちょっと不満もあるんだけどな」
山菜の水餃子、ふきとスルメのきんぴら、上煎茶のおひたし、見事に緑が連なっていた。
「それじゃ、明日はワシがきのこでも取ってくるか」
慶一は首を横に振って答える。
「野生のキノコは怖いから、学長が取ってきたのでも嫌です」
「お主は心配性じゃのう」
「二人はともかく、なにかあったらオレは確実に死にますからね」
我ながら味は悪くないが、同じ色ばかりが並べられている食卓は、やはり少しさみしく感じた。
「明日は川に釣りにでも行くかなー。サワガニとか入れば素揚げにしたいけど、油は処理が大変だからあんまり持ってきてないんだよな」
「……オマエだけ自然を満喫してるな」
早くも明日の計画を立てている慶一に、百代が不満そうに口を挟む。
「こっちは鍛錬しなくていいぶんキャンプ気分だし、他やることって百代の鍛錬に茶々入れるくらいしかやることないぞ」
「確かにやることはないかもしれんが、私に茶々を入れる必要もないだろー」
「わかってるよ。だから大人しく戻って茶を淹れてたんじゃねぇか」
「そう意味じゃないだろう。まぁ、料理が美味いからいいけどな」
食後にお茶を入れてまったりとしていると、「よいしょ」と言いながら鉄心が立ち上がった。
「午後は少し組手をした後に、また精神鍛錬じゃ。三十分後にさっきの場所に集合じゃぞモモ」
そう言うと、食後の散歩に山の奥へと歩いて行った。
鉄心がいなくなったのを見計らって、百代は大きく体を伸ばす。
「あーっ! やっぱ精神鍛錬は退屈だぞーっ!」
「ただ、ボーっとするのはオレも得意だけど、そういうもんじゃないもんな」
慶一は仰向けに寝転がると耳を傾ける。地を這うような風は、雑草同士を擦り合わせて鳴いていた。同じ場所でも上と下では聞こえる音が違うのだと気付いたら、秘密の場所を見つけた子供の時のような楽しさがこみ上げてきた。
片腕を広げて百代に頭を乗せるように催促をする。
「どうした?」
「小人が麻雀してる」
「んん? あーこの音か」
慶一の腕に頭を乗せた百代も音に気づいた。
「ぺんぺん草って実を下に剥がさなくても結構音が鳴るもんなんだな」
ハート型の実が隣同士ぶつかり合ってジャラジャラと麻雀牌を掻き回すような音がしているが、風が止むのと同時に音も止まってしまった。
その音を聞くために自然と呼吸を押し殺すようにしていたので、二人の間に静寂が流れる。
百代が喋りだそうとする、唇が開く音がやけに大きく響いた。
「自分のより、人の出す音の方がよく聞こえるんだな」
百代は慶一のゆっくり脈打つ心臓の音、息が喉を通る僅かな振動の音に耳を傾けていた。
「オレも前から思ってたけど、人の体温って眠くなる……。あと良い匂いするし柔らかいし」
慶一は抱きしめるように肘を曲げて、百代の体を包む。
「こらこら、匂いをかぐなよ。なんか恥ずかしいだろ」
「うーん。もうちょっと肩の方に頭乗せてくれ」
「んっ、こうか?」
慶一の肩に顔を埋めるように少し動いた。
「そうそう、ナイスポジションだ」
これで抱きしめやすく頭も撫でやすくなった。百代の頭を撫でる度に髪からシャンプーの香りが漂ってきた。
「って慶一、これ本格的に寝る体勢にはいってないか?」
「無とは寝ることと見つけたり」
「それは“無”じゃなくて“夢”の方だろ」
「自然と対話した結果、寝ろって言われたんだよ。木も御丁寧に影まで作って寝やすくしてくれてるし」
木陰に入り、風に揺れて擦れる葉の音を聞きながら、ちょうどいい温度の風を肌に受ける。深呼吸をすると新鮮な空気が身体を抜ける。一度目を閉じたらそのまま寝てしまいそうなほど心地よかった。
「それなら仕方ないな。私も頭を撫でられて眠くなってきた…し……」
その後、時間になっても集合場所に来ない百代に鉄心の雷が落ちた。