少し肌寒い山の早朝。外はまだ暗いが、いつもの癖でついついこの時間に目が開いてしまった。
手で触れなくても寝起きの顔や耳たぶが少し冷たくなっているのを感じる。反対に体が温かいのは、いつの間にか寝袋の中に侵入していた百代のせいだった。
空気の確保のために寝袋の縁を下へとずり下げられているので肩は寒いが、寝息が掛けられるので鎖骨の辺りだけが変に温かい。
百代の頬にかかった細い黒い髪をかきあげると猫みたいな寝顔を浮かべており、無警戒に慶一に身を預けて寝ている。
安心しきった寝顔を見つめている内に、慶一も同じように安らいでいた。
髪の毛の流れに添うように何度も優しく撫でるが、嫌がる気配もないし起きる気配もない。時折気持ち良さそうに目を細めているだけだった。
時間も忘れ添い寝をしていると、気づかぬ内に空の色が変わり始めていた。朝焼けの準備に入ろうと黒を薄めている。
火にでも当たろうと百代を起こさないように少しずつ動くが、シャツを掴まれているせいで上手く寝袋から出られない。しばらく静かに格闘した後、諦めて上着を脱いで寝袋の中に置いてきた。
テントから出ると外は濃い青色の空気に包まれていて、上半身裸だと身震いするほどだった。昨日洗濯して干してあったシャツは乾いているはずだが、朝露に晒されて冷たくなっている。これも火にあたれば乾くだろう。
鞄の中に入れていた松ぼっくりを手に取ると、乾燥して見事にかさが開いていた。
焚き付け代わりに松ぼっくり二、三を個薪の中に入れて火をつける。松ぼっくりは構造上空気がが入りやすいし、松脂成分も含んでいるので着火剤として使える。
汲んであった湧水を鍋にいれて火にかける。煙と湯気を見るだけでも身体が少し温まるのを感じた。
火によって木がパチパチと破裂する音とともに巻き上げられた火の粉が、蛍火のように強く光り直ぐに消えていく。
お湯が湧くまでの間、静かに焚き火を眺めていると、目を覚ました鉄心がテントから出て来た。
「相変わらず朝が早いのう」
「起きようとして起きてるわけじゃないんですけど、習慣ですかね」
ピラミッド型の紅茶のティーバッグをステンレスのカップに落とし、沸騰したお湯を注ぐ。
飲み物用に紅茶を用意したのは、山篭りで不足しがちなビタミンを補う為と、使い終わったら油汚れを落とすのに使えるからだ。
火を起こした後に出る灰も、山菜のアク抜きに使える。山に来てからは、人間は環境に上手いこと順応していくのだと感じることが多い。
「それにしてもティーバックとは英国紳士もムッツリよのう」
「バックじゃなくてバッグ。紅茶の鞄でTea bagですよ」
「なんじゃ、てっきり三角形の水着のパンツの形をしておるからそう呼んでると思っとったわい。つまらんのう、英国紳士も名折れじゃな」
「パンツを湯に浸して飲むのは、英国じゃなくて変態紳士ですよ」
結構曖昧な人が多いが、ティーパック(Tea pack)は和製英語、ティーバック(T-back)は下着や水着のことを指す。
朝に紅茶を飲む場合、あまり濃すぎると甘みで喉の奥が引っ掛かるので少し早めに茶葉をカップから引き上げる。
「学長も飲みます?」
「ワシはこれから朝風呂じゃ。これも山篭りの醍醐味じゃな」
細い目を余計に細めて楽しそうな表情を浮かべると、鉄心はタオルを持った手を少し上にあげて答えた。その隙間から酒瓶がちらちらと見え隠れしていた。
「朝から酒はダメですよ。後それ料理酒用に持ってきたやつだし」
「目ざといのう……。すこ~しくらいいいじゃろ」
鉄心は目の辺りで開いた人差し指と親指を近づけさじ加減を見せると、慶一の了承を取ろうとする。
「まぁ、お猪口一杯くらいなら。長風呂して倒れないでくださいよ」
「ワシを年寄り扱いするでないわ」
「学長を年寄り扱いしないで誰を年寄り扱いすればいいのやら……」
「お主にもまだまだ負けんて。それを証拠に、ワシが生きている限りはずっと川神学園はブルマじゃ!」
老人らしからぬ高笑いを響かせながら、鉄心は温泉がある方へと歩いて行った。
丸太を背もたれにして、両膝を立てて地面に座っていると、その足の間に割りこむように座り、慶一の肩を枕代わりに頭を乗せて、首元に擦り付くように百代がしなだれかかってきた。
「寒いと思ったら慶一が脱皮してた」
百代の手には慶一のシャツが握られていた。
「オレは昆虫の脱皮の大変さを痛感したけどな。紅茶飲むか?」
「慶一がぬくぬくしてるからいらなーい」
焚き火の炎で温まった体の熱が百代の背中に吸い取られ、代わりに百代の体温が流れ込んでくるような感覚は心地良かった。
山の澄んだ空気の中では、月も星もギリギリまで光り輝いている。夏でも朝方の冷たい空気の中では、温かい紅茶を一口飲むと喉から胃へと通って行くのを感じる。
紅茶から立ち上る湯気が光に引かれるように空へと上がっていくのを見ていると、時間という概念が消えてしまうような錯覚に陥る。
「こら、空見てるのはいいけど、撫でる手を止めるなよ」
百代の頭を撫でていた手はいつの間にか止まり、乗せるだけになっていた。再び手櫛をするようにゆっくりと手を動かす。
「髪キレイだよな。髪フェチの友達の気持ちがわかる気がする」
「その友達ってモロロだろ」
「さぁ、どうだったかな」
慶一はモロの名誉の為に誤魔化すように曖昧に答える。
「モロは髪の毛、大和は尻関係、ガクトは……ありすぎてわからんな」
「よくまぁ、ご存知で」
「隠すならしっかり隠さないとな。秘密基地の棚の二重になっている背板を外したら色々出て来たぞ」
「それは立派に隠したと言えるんじゃないだろうか……」
いつだったか秘密基地でまゆっちにエロ本の存在に気づかれたことがあった。その後に男達の緊急会議があり、もっと厳重に隠そうという話になった。
上から三番目の棚板を外し、背板にある左右のダミーの六角ネジを外すとネジ穴の奥に鍵穴がある。それを解錠すると二重になっている背板の奥の板をスライドさせることが出来き、その隙間に色々隠していた。大和が考えたこの仕掛の為ファミリーの男達はキャップを除き、皆財布の中に六角ドライバーと鍵を持っている。
いちいち棚の物を下ろさなければいけないので面倒くさいが、これでバレることはないと絶賛していたのだが。
「あっ、ちなみに京も隠し棚の開け方知ってるぞ」
「なん……だと……」
一刻も早く大和に報告したかったが、山の中では携帯電話の電波も通じず手段がなかった。大和が性癖を知った京の誘惑に負けていないように祈るしかない。
それとも付き合いが長いし、とっくの昔に知られているのだろうか。
大和の身を案じていると膝の上に手を置かれ軽く揺さぶられる。
「お尻が冷たくなってきから上に座る」
「あいよ」
持っていたステンレスのカップを百代に渡すと、ズボンの汚れを手で払い膝を下ろして胡座に座り直す。そこに静かに腰を下ろした百代は口の端を吊り上げながら言った。
「尻フェチの慶一にとっては嬉しいだろ」
「どっちかというと見るほうが好きなんだけどな。これはこれで嬉しいもんだ」
慶一はそう言ったが、実のところあまりお尻の感触は伝わってこない。
百代が上に座る時は、足首を少し股の下から離して輪を作るようにゆったりと胡座をかく。子供を座らせるのならば普通に胡座をかいてもお尻が乗るが、百代くらいの年になると体も成長しているので、足を少し開いてゆとりを持たせないと座りずらいからだ。
輪の中心にお尻がハマる形になるので、どちらかというと太腿の感触のほうが伝わってくる。
慶一が百代の背中の温もりで暖を取っていると、ステンレスのカップに口をつける音が聞こえた。
「それにしても紅茶は温まるなー」
「それオレのだぞ。いらないんじゃなかったのか?」
「さっきは寝起きだったからいらないと思ったけど、風が冷たいと飲みたくなったんだ」
「もう一回お湯沸かすか」
慶一が腰を上げようと動くと、百代が背中を押し付けて邪魔をしてくる。
「せっかく温まって来たんだから動くなよー」
「オレも温まるために紅茶を飲みたいんだよ」
「仕方ないな、ほら」
紅茶を口に含んだ百代が慶一を見つめる。唇の先を尖らせているので直ぐに意味が理解できた。
隙間ができないように唇を押し付ける、唇を僅かに開く、舌で紅茶を押し入れる、舌で紅茶を汲み取る、何か一つ動作をする度に水音がしていた。
百代の口内で冷めた紅茶を全て啜り終えると、しばらく唇を合わせたまま唾液の粘っこい音を響かせる。
「……ぬるい」
「とうっ!」
見つめ合ったままの体勢で百代に頭突きをされた。
「今の発言、あまりにムードがないから仕置にゃん」
「今のはオレが悪いだけに何も言えねぇ。つーか山に入ってからのオレは、飯作って寝てキスしかしてない気がするな」
「あはは、思う存分に人間の三大欲求を満たしてるなー」
「むしろキスだけだと、性欲は募るばかりなんだが」
「私も一緒だ。それは帰ってからゆっくりな」
そう言った百代は欠伸をして目を閉じたので、慶一は百代の頬を手で戯らしながら起こす。
「せっかく早く起きたんだから、たまには一緒に空でも眺めないか?」
「しょうがないな、たまには付き合ってやるか。でも、私が寝るまでの間だけだぞ」
二人で少し後ろに体を反らして空を仰ぐ。
黒から濃い青へ空は変わり、空が紫に変わると雲は濃い青で浮かび上がる。それからゆっくりと、空は薄く雲は濃く青色を広げていく。
空の変化を静かに見守るなか、慶一がポツリと呟く。
「ピンクの空って綺麗で好きなんだよな」
「ピンク?」
「そう、もう少しかな」
空が薄い青を広げ終わり朝日が昇る直前、青からオレンジへと変わる僅かな時間の間だけ空は桃色に照らされた。
「本当に綺麗だな」
直ぐに空は金色に燃え盛り、またゆっくりと薄い青を引き詰めていく。
一部始終を観察し終えると、花火を見終わったような高揚感と寂しさが込み上げてきた。
「それにしても見所の時間が短いな」
「確かに、数分しかないもんな。でもまぁ、毎朝見られるもんだし」
「それもそうだな。ああいうのを見ると心がざわつくな」
「わかるな。ざわざわするけど、悪い感じじゃないんだよな」
なんとも例えずらい心の在りようは、明確な言葉にしなくても伝わったようで、二人でしばらく変わりのなくなった空を眺めていた。
「空をじっと見てるのも悪くないな」
「だろ? 前はじじ臭いって言われたけどな」
「男なら細かいことを気にするなよ。後、今気付いたけど喋ると喉仏が震えるんだな」
百代は慶一の肩から頭を少し離して、喉元に手を当てている。
「今更気付くようなことか?」
「当たり前のことでも、自分で感じて気づくとなんか嬉しいんだ」
「そうじゃ、当たり前のことに気付くのは大事じゃぞ。いつのまにかではなく改めて知るというのは、心を豊かにするものじゃ。後、そろそろじいちゃんの存在も思い出して欲しいわい」
焚き火を挟んで対面の丸太の上に腰を下ろした鉄心が杖に手を重ねて付き、その上に顎を乗せて慶一と百代の姿を眺めていた。
「もう風呂上がったんですか?」
「じじい、あの風呂光が足りなくて暗いぞ」
「お主らこういう時にはポーズだけでも焦ったふりせんか。暇を見つけてはイチャつきおって」
鉄心は全く呆れたといった風に髭を撫でる。
「まぁよい……。それにしても、ワシの若いころを思い出すのう……。あれは日清戦争の頃じゃったろうか……」
鉄心がゆっくり昔語りを始めると、慶一に掛けられていた体重が少し重くなる。すっかり体の力を抜いた百代が目をつぶっていた。
「なんだ寝るのか?」
「じじいの昔話に付き合ってられないし、鍛錬始める頃には起こしてくれ」
慶一が頭を撫でると、直ぐに寝息を吐き始めた。
しばらく慶一は話に耳を傾けいたが、酒も入っているせいか鉄心の話は冗長でつまらないので、いつの間にか百代の頭を枕に眠りに入っていた。
「あのな……わしのおきにいりの……がな……でな……が……。かわいくてな……たまらん……くう……さらに……もう……すごすぎ……で……。ねるときも……じゃろ……ありゃ! 二人とも寝てしまったの」
鉄心はよいしょと爺臭く立ち上がると、近くにあったタオルを二人にかける。
「ほっほっほっ、寝顔はまだまだ子供じゃな」