まだ午前中だというのに気温は高く、水彩画のように澄んだ青空に白い雲がちらほらと浮かんでいる。空はのんびりと夏を彩っているが、その下では忙しそうに人が動いていた。
仲見世通りから川神院にかけて
川神院で開催される風鈴市では、全国四十七都道府県から送られた900種類、三万個の風鈴が一堂に集められ、眺めも音もなかなか壮大なものになっていた。
その中でも一際特徴的に音が鳴るものがある。
チリーンではなくチリ~ン。18金製の風鈴は余韻が長く、空気を震わせ残響を残していた。
慶一が会場を設営していると、一子がその音に惹かれてやって来ていた。
「良い鐘の音ねぇ」
一子は目を細めると、耳を澄ましてその音を聞いている。隣にいる慶一も、その言葉に同調した。
「良い金の音だなぁ」
「聞いてると、明日も頑張ろうって心が洗われるようだわ」
「確かに。明日は頑張るぞっていう心が現れるようだ」
そう言って遠くの屋台一帯を眺める慶一を、百代が呆れ顔で見ていた。
「慶一……。オマエのはなんか違うだろう」
「そうだった。明日は前夜祭だから、明後日は頑張るぞか」
「いや、もっと根本的なとこだろ。自分の方の準備はいいのか?」
「まだ少しやることが残ってるけど、こっちの準備が終わらなけりゃ意味ないからな」
一段落している慶一の元へ、両手に一つずつ南部鉄器風鈴を持った修行僧が心配そうに駆けて来た。
「慶一殿……。余った風鈴があるんですが」
「入り口の山門と大本堂に、都道府県分を一つずつ吊るす予定になってますから、持ち場の人に渡せば大丈夫ですよ。それでも余ったら一般玄関入って直ぐのところに、仲見世通りに配るように別にしてある箱がありますから、そこに一緒に置いておいてください」
「わかりました。あと、
「古くなったから新調してます。予定では今日の夕方までには届くはずですよ。皆さんに配るのは明日になってからですね」
腕時計で時間を確認すると10時に差し掛かる頃で、このままいくと予定通り準備が終わりそうだった。
「ありがとうございます。ルー師範代が青年団との会議で留守なんで、事情を知ってる慶一殿がいると助かります」
「あれ? 学長はどうしたんですか?」
「天神館の鍋島様がお見えになって、そのまま話し込んでいます……」
「まぁ、学長がいなくても今のところ滞り無く進んでいますし、午前中の作業はあと少しで終わりですから、もうひと頑張りしましょう」
慶一がそう言うと修行僧の男もそれに呼応して、風鈴の音を鳴らしながら歩いて行った。その姿を見送りながら、百代が慶一に関心の目を向けていた
「よく自分の仕事以外のことを覚えてるな」
「むしろ知らないって、跡を継ぐ気ないのか?」
慶一のからかい半分の問いに、百代は真面目な顔で答える。
「慶一が覚えてれば問題ないだろ?」
「その言葉を嬉しく感じるとは、オレも色呆けしてるんだな……」
「ずっと昔から美少女の魅力にメロメロだったくせに」
百代は慶一の頬を人差し指でつつくと、笑顔を浮かべた。
「相変わらずラブラブな二人ねー。そういえば慶一とお姉さまが結婚したらどうなるの?」
「ほぼ確実に、オレが婿に入ることになるだろうな。所謂、婿養子ってやつだ」
「そうなると、川神一子と川神慶一でイニシャルKKコンビになるわね!」
世紀の大発見をしたような得意顔の一子は、左手を腰に当てて右手の人差指を慶一に向ける。
「そうだな。甲子園でも目指すか」
「いいわね! 年齢的に甲子園は無理だけど、体を鍛えるのはいいことだわ!」
「やっぱなし」
慶一は鍛えるという言葉に反応し、間髪入れずに答えた。
「おおう……。いつも即答なんだから」
「これでも多少の運動はしてるからな。わざわざ鍛錬する必要はないだろ」
「今から鍛えておけば、いつか武道をやりたくなった時に有利よ?」
「武道をやる時間を作るなら、葡萄を育てて川神ワインでも売りだすよ」
慶一は誤魔化すように一子の頭を撫でる。
「なんだか腑に落ちないわねぇ……」
「まぁ、百代に愛想を尽かされない程度には引き締めとくって」
「そうしてくれ、ぶくぶくに太った男には抱かれたくないからな。でも、あまりタフガイっぽいのものなぁ……。結局、今くらいがちょうどいいのかな」
百代は後ろから慶一に抱きつくと、筋肉の凹凸を確かめるように身体に手を這わせた。腹筋から胸筋へと手を滑らせてそのまま肩を抱くと、首筋に唇を付けて吸い付く音を立てながら耳元へと上がっていく。
慶一の耳たぶは柔らかい唇に挟まれ、生温かく濡れた舌に何度も
しっとりと湿った耳たぶは、そこだけ涼しく風が通り抜けていった。
「外でこれ以上は勘弁願いたいんだけど……」
「イチャイチャ分が足りないんだ。この間は揚羽さんに途中で邪魔されたし……。少しくらいいいだろー、誰が見てるわけでもないし」
「つーか、愛娘がガン見してるから」
慶一の手は一子の頭に乗せたままになっていた。
当の一子は伸びた腕の隙間から、二人の様子をじっと伺っている。
「別に今更いいだろ。なーワン子」
「あわわ、私はノ、ノーコメントってことで」
「いいってさ」
「都合のいいように解釈したな」
百代は慶一の背中から身体をくっつけたまま正面に回りこむと、首を抱きしめるように腕を回し、ゆっくりと目を閉じて自分の顔を慶一の顔に近づける。
百代の唇から漏れる息が、慶一の唇をくすぐるように感じられる距離で止まる。
頬を赤く染めた一子が、興味深しげに唇の行く先を見守っていた。
(ドキドキ。本当にするのかしら)
慶一は一つ咳払いをすると、少し遠くに見える五重塔を人差し指でさす。
「コホン……一子。少し遠いけど、あそこの五重塔の屋根に瓦が何枚使われてるかわかるか?」
「え!? あ、ちょっとわからないわね」
「もし、10分以内に数えられたら、祭りの時に好きなだけ出店で買ってやるぞ。やってみるか?」
「もち、やるわ! 待ってるのよ、焼きとうもろこし! りんごあめ! わたあめ! イカ焼きぃ! 1,2,3,4,5,6――」
慶一に話をすり替えられた一子は、人差し指を指揮棒のように振って一心不乱に瓦の枚数を数え始めた。
「これで、前のようなことにはならないはずだ」
慶一が五重塔を向いて屋根瓦を数えてる一子の姿に安堵していると、首の後の襟を軽く数回、呼ぶように引っ張られた。
「問題は解決したんだろ? はやく……」
慶一は右手の親指の腹で百代の唇の位置を確認するようになぞってから唇を重ねる。ただ合わせるだけの単調なキスを繰り返していると、百代が物足りなさそうに吐息を漏らした。
慶一が長い横髪と耳の間に手を滑り込ませると、僅かに百代が顎を上げる。耳の後ろを優しく撫でながら唇を合わせていると、百代が唇から「ふふ」と息を漏らした。慶一はくすぐったそうにくねらせる身体をしっかりと抱きとめると、口吻を深めていった。
「おい、見ろよあれ」
修行僧の強面の男の一人が、隣にいる同門の優男に声をかける。
「百代殿と慶一殿がいつも通り睦み合っているだけではないか、もう見慣れてしまいましたぞ」
「いや、そっちもどうかと思うけど、まぁオレも見慣れた。じゃなくて……その隣だ」
男は指をさして一子を示す。
「4234! 4235! 4236!」
五重塔に向かい数字を叫ぶ一子の横では、抱き合って口吻を交わす男女。
「ふむ……一子殿はなにをしておられるのだ? もしや、新たな鍛錬だろうか」
「オマエ天然か? あんな間抜けな鍛錬光景があるわけねぇだろ」
「煩悩に惑わされず集中する。なかなか効率が良さそうじゃないですか」
嫌味を歯牙にも掛けず、笑みを浮かべて感心している。
「なんかオレ頭痛くなってきたぜ……」
「貴殿は小憩を取ったほうがいいのでは? 暑いですからね、日射病には気をつけなければ」
「……オマエの頭も一度休ませたほうがいいぜ」
「そうですね。早く終わらせて休憩をとりましょう」
強面の男は、優男に背中を押されるように歩いて行った。
「9987! 9988! 9989!――」
「はい、時間切れ」
百代と唇を貪り終えた慶一は、一子の目の前で両腕をクロスさせた。
「あぁ、無理だったわぁ……。時の流れは無情ね……」
「オレは10分で一万近く数えてたことに驚いたけどな」
「食べてあげられなくてごめんね。焼き鳥……。かき氷ぃ……」
一子は両肩と首をうなだれて、薄っすら涙を浮かべていた。
「まぁ、元々無理難題をふっかけたわけだし、3つまでなら買ってやるよ」
「本当!? わーい、慶一大好きぃ!」
「そうかそうか」
数えきろうが、数えきれなかろうが、端から奢るつもりだったが、素直に喜ばれると良心の呵責に苛まれてしまう。
慶一は自分の気持を誤魔化すため、一子の頭をシャンプーをするかのようにワシャワシャと撫でる。
「私も慶一だぁーいすきだ!」
あからさまに媚びた猫なで声の百代が、抱きつくというよりはおぶさる形で慶一の背中に体重をかける。
「そんな打算的な奴には奢らんけどな」
「彼女の妹に奢って、彼女には奢らないってどういうことだよ!」
「百代と遊ぶ度に奢ってたら破産するって。遠出するときは金出すから、近辺の時は自分で出してくれ」
「甘やかさない奴だなぁ」
「結構甘いと思うんだけどな。オレを甘やかして欲しいくらいだ」
思わずポロッと漏らした慶一の言葉を聞いた百代が、耳元で声を上げる。
「よし! それじゃ今日は慶一を甘やかしてやろう!」
「やろうって言ってる時点で上から目線じゃねぇか」
「細かいことは気にするなよ。それで要望はなんだ? なんでもいいぞ」
「改めてそう言われると悩むな。なんでもか……」
慶一は顎に手を当てると、空を見ながら思案を巡らせる。
「あー、こうなったら慶一は考えるの長いんだよなぁ。えいっ」
「悪戯されても気付かないくらい集中しちゃうものね。えいっ」
百代と一子の二人は、両側から慶一の頬を軽くつまみ、引っ張りながら話している。
「まぁ、美少女からの魅惑的な提案だ。慶一が悩むのも無理ないな」
「私だったら、美味しいものをいっぱい食べたいとかかしらねぇ」
もうすぐ昼時でお腹が空いたのか、さっきまで食べ物のことを考えていたからか、一子のお腹は今にも鳴りそうだった。
「あはは、それじゃいつもと変わらないだろ」
「それもそうね。お姉さまだったらどうするの?」
「私か? 私だったら、そうだな……。一日執事の真似事とかいいなぁ。お茶を淹れさせたり、わがままを聞かせたりとか」
「それもいつもの慶一と変わらない気がするわ」
それもそうだと二人が少し無言になっていると、慶一が突然口を開く。
「よし! 今日の昼飯でも作ってもらうかな」
「なんだ昼飯って……。もっとアダルトなのでもいいんだぞ?」
百代は艶やかな笑みを浮かべてみせると、吐息混じりの声を出し、最後に慶一の耳にそっと息を吹きかけた。
「そっち方面は恋人なんだから、なし崩し的にもっていくから大丈夫だ」
「そうはっきり宣言されたらされたで、ちょっと引くなぁ……。それにしても料理か……。出来ないことはないけど、川神院の人数分作るとなると大変そうだなぁ」
「無理なら他の考えるけど」
「ええい! 私も武士娘だ! 一度言ったことは取り消さん! 昼ご飯でもなんでもかかってこいだ!」
気力を振り絞るような声の百代の宣言は、声高らかに青空に響き渡った。
「あっ、やっぱりオレが作る。今日は皆普段より汗かいてるだろし、少し塩分を多めに取るために濃い目に作る予定だからな。百代じゃ調整できないだろうし」
「おい! せっかく意気込んだのが台無しだろ!」
「慶一を甘やかすことなんて無理なんじゃないかしら……」