夏らしく朝から日差しは照りつけている。きっと、いつも通り澄み切った青空で、河川敷の花は咲き乱れ、水は止まって見えるくらいの緩やかな川の流れだろう。
慶一は、いつものように風景を楽しむわけではなく、ただひたすらに両腿にムチを打って地面を蹴っていた。
「勇往! 邁進! 勇往! 邁進!」
「ゆう……しん。ゆう……しん」
「勇往邁進! 元気ないわよ慶一!」
早朝の多馬川に響く溌剌とした声に遅れるとこと20メートル。息も絶え絶えな慶一は、一子の揺れるポニーテールを見ながらひたすら走っていた。
「……掛け声は無理」
「自分からランニングに付き合うって言ったくせに、もうバテたの?」
「とっくの間にバテてるよ……」
百代のマッサージを受けて日頃の運動不足を実感した慶一は、ポロッと一子にそのことを漏らしていた。その日はいつも通り「もう少し体を動かしたほうがいいわよ」という一子の言葉に、慶一は「時間が出来た時にでも」と有耶無耶に答えて終えたのだが、一子はそれを好意的な意味と捉えたらしく、次の日、つまりは今日の朝。タオル片手に慶一の部屋に来たのであった。
幸い。慶一にとっては不幸だが、今日は朝御飯を作る日ではなく、一子に付き合う時間は充分にあった。
軽い体操に念入りなストレッチ。走りだしてしばらくは気持ちよかった。
早朝独特の靄の中に光が差すような空の色と、静けさが町を包みこんでいて、温められた空気ではなく清々しい空気が、呼吸をする度に体内を駆け巡るようだった。
多馬川に付く頃には、そんな朝の新しいエネルギーを感じることはなくなっていた。
太陽の光線のような陽射しと、自分の体温のせいで汗は噴き出すように流れだしている。
足はあげる時は重く、地面につく時は沈むようにガクッと落ちる。本当に鉛にでもなったようだ。
「今の重い一歩が、明日の為の一歩になると考えて走るのよ。勇往邁進!」
一子は慶一の周りをぐるぐると回りながら、リズム良い呼吸を繰り返していた。
「つーか、オレのペースに合わせないでいいんだぞ」
「んー……。サボらない?」
一子は小首を傾げて慶一の顔を覗く。
「ペースは落とすけど、サボらないって」
「確かに初日から無理して、体を壊したら元も子もないわね」
「初日って……。続けないといけないのか?」
思わずうんざりするように顔をうつむかせるが、一子は慶一の丸まった背中をバシッと叩き活を入れる。
「当然よ。一日だけ体を動かしたって意味無いでしょう。せめて残りの夏休み中くらいは続けなさいよ」
「そんな毎日走ったら、体力付く前に死ぬって……オレ」
「朝御飯作らない時に走れば、中休みがあってちょうどいいじゃない」
「立ち仕事の肩こり腰痛が良くなればいいだけで、軽い運動でいいんだけどな……」
汗を吸ったシャツが重く感じるガス欠のような体になるまでの運動は、かえって健康を害するような気もしてくる。
「だから今、軽い運動をしてるんじゃない」
どうも、一子と慶一の間では軽いの度合いが違うらしい。慶一に合わせて走るスピードは落としているものの、ジョギングではなくランニングなので、体外にも体内にも負担がかかっている。
先頭は一子が走っているので、慶一はそのスピードに従って走るしかなかった。
「軽い運動なら、ウォーキングでいいよ」
「ウォーキングって、お年寄りじゃないんだから」
「今は若者もやってるって」
慶一は追い越して、すれ違う女の子達を見て言った。機能性というよりもオシャレで選んだようなパステルブルーのランニングウェアは、よく見れば装飾も施してある。
それでも、慣れた風にウォーキングする姿を見ると、ずっと続けているのがわかった。思いつきで、しかも始めさせられた慶一に比べたら立派なことだった。
「川神院は体育会系なのよ。それとも本当に嫌?」
慶一の顔色を伺うように、少し気落ちした一子の顔を見るとはっきり嫌とは言えなかった。
「走るのも悪くはないと思うけど……」
「でしょ? もう少し慶一に付き合って走るわ」
慶一と一子は同じスピード走るが、足並みは違っている。慶一が一歩踏み出すと、一子は足踏みのように数回地面を蹴っていた。
「それじゃあ、鍛錬にならんだろう」
「慶一と走るのが嬉しいからいいのよ」
満面の笑みを浮かべる一子を見ると、少し疲れが和らいだ気がする。なんとなく腕を振り、なんとなく前へ足を踏み出すというだらけた格好ではなく、しっかりと走る姿勢に戻ることが出来た。
かと言って本当に疲れが飛んだわけでもなく、一子の「勇往邁進」の呼応に言葉尻を合わせることくらいしか出来ず、スピードはさして変わらないまま多馬川の遊歩道を走って行く。
走りながら喋ると疲れると、当たり前のことを考えながら橋のところまで着いた。
「さっ、これ以上オレに付き合うと、朝御飯までにノルマをこなせなくなっちゃうぞ」
「そうね……。よーし! 行くわよ!」
「気を付けろよ」
「慶一もね。疲れてもいきなり止まって休憩しないで、しばらくゆっくり歩いてから止まるのよ! ストレッチも忘れずにね!」
一子は途中何度も振り返ると慶一に手を振っていた。その姿も直ぐに見えなくなり、慶一はその後をゆっくりと走る。一子と同じ距離を走れるはずもないので、とりあえずの目標として次の橋で走るのを止め、折り返して帰ることに決めた。
一人になると、今度は景色がゆっくりと流れる。痛い横っ腹を誤魔化すように、それを眺めながら走った。
一子の嬉しそうな顔を見るのは好きだが、一子のペースに合わせて走るの不可能だ。時間をずらしてストレッチに付き合うくらいが、お互い無理がなさそうかもしれない。
色々と思いを巡らせて走るが、一向に橋が見えてこない。ここで目標を間違えたことに気付いた。有名な「あの電柱まで走ったら止めよう」みたいに、もっと目先の目標にしておけば少しは気が楽になっていただろう。
ようやく橋が見えた頃には、吐く息は錆びた鉄のような味がしていた。直ぐに足を止めてその場に寝転びたかったが、一子の言うことを思い出してゆっくりと歩く。
橋を渡り、ある程度呼吸が落ち着くまで歩くと、慶一は河川敷まで降りていった。足を伸ばして、顔にタオルをかけて寝転がる。草むらに横になるだけ疲れが土に溶けていくようだった。
川神院まで帰る気力は残っているのだろうかと考えていると、声をかけられた。
「何してんの?」
「見てわかるだろ。ストレッチだよ」
「私には、ただ寝てるようにしか見えないけど」
「人にはそれぞれ合ったやり方ってのがあんだって」
声の主が弁慶だと言うことは直ぐ気づいたが、顔にかけたタオルを取るのも面倒くさかったので、そのままの格好で話を続けた。
「それで、体のどこの部分を伸ばしてるの?」
「羽」
「はいはい。やるならちゃんとやらないと、疲労がとれなくなるよっと」
弁慶は慶一の足を掴むと、膝を曲げさせて足首をお尻のところまで持っていった。
「痛えって!」
太腿が伸びる痛さに、慶一は思わず上半身を起こした。
その拍子に顔にかかっていたタオルが膝に落ちる。弁慶はそれを拾うと、慶一の肩にかけながら少し呆れたような表情を見せた。
「慶一、体硬すぎ」
「それほどでもー」
「褒めてないって。てか、なんでこんな珍しいことしてんの?」
「いててっ。成り行きだよ。知らない間に一子の中でそういう話になってたらしい」
「それに付き合うとは律儀だねぇ。はい、次は反対側」
開放された足はジンジンと血液が巡るような感覚が走り、今度は反対の側の太腿にさっきと同じような痛みが走る。
「そういう弁慶こそ、こんな朝早くから活動してるとは思わなかったけど」
「誰かさんのせいで、義経に朝の鍛錬に誘われるようになったんだよね」
「そんなに嫌なら朝は断りゃいいじゃねぇか」
「いつもは、あの手この手で断ってるんだけどね。昨日の夜に深川神水をしてたら、ヒューム爺に説教されちゃったんだよ」
弁慶は溜め息のような長い息を吐く。それは、説教されてヘコんでいるというよりも、見つかっちゃって残念という感じだった。
「ヒュームっていうと、金髪のお髭のじいさんか」
慶一は彫りの深いヒュームの厳つい顔を思い出していた。
「そうそう、見た目通り厳しい人なんだよねぇ」
「学生がだらだら深酒してたら、そりゃ怒られるだろ」
「お酒じゃなくて川神水だって。今度は両足伸ばして」
慶一が足を伸ばすと、背中を押される。
「うっ……。深酒なら、酒でも川神水でも変わらんと思うけどな」
「だって、暑いと喉渇くじゃん。冷やし川神水とかやめられないって」
「そりゃまた……。冷やした夏野菜の漬け物とか、たこわさ、板わさとかが合いそうだな」
「いいねぇ。私はチクワでも充分だけど」
弁慶はまた溜め息のように息を吐く。今度は飲むのを想像して、川神水に思いを馳せているのだろう。
「チクワなら磯辺揚げがいいな」
「慶一が揚げてよ」
「わざわざ九鬼にまで天ぷら揚げに行けってか? 嫌だよ面倒臭え。自分で揚げろって」
「いいじゃん。どうせたまに九鬼来てるんだし」
さり気なく弁慶の押す力が強くなる。
「ありゃ、お菓子を作りに行ってんだよ」
「大丈夫大丈夫。ワインにチョコって感じに、川神水に合う甘いものもあるって」
「まぁ、日本酒にマシュマロとかウイスキーにあんことかって聞くもんな」
一通りストレッチが終わると、弁慶が立ち上がった。
「邪魔して悪かったね」
「いや、ストレッチのやり方なんて全然知らんから助かった」
「報酬はつまみでいいよ」
「気が向いたらな」
慶一は、河川敷の階段を上がっていく弁慶の背中にそう声をかけた。
しばらく休むと慶一も立ち上がり、足に力が入るかを確認する。問題なく立つことが出来たので、タクシーを拾って帰る羽目にはならなくて済みそうだ。
昼になり、鍋からは「どうだ暑いだろう」と言わんばかりに湯気が揺らいでいる。
「臭い……。湿布薬でも茹でてるの?」
調理場に顔を出した一子が露骨に顔をしかめて言った。
「なかなか良い皮肉だ」
調理場では、鼻を通り抜けていくようなメントールの匂いが充満していた。背中に六枚、腰に四枚と、慶一の体に湿布が貼り付けられている。
「お? うどんね。珍しいわ」
一子が鍋の中で踊る麺を眺めていた。
「うどんじゃないと、オレが食えないから」
激しい運動のせいで朝は胃が受け付けず、食べることが出来なかった。昼になっても食欲が湧くことはなく、このまま夏バテになってしまったら困るので、多少のびることは承知で昼は冷たいうどんを作ることにした。
「今日は暑いものねー。で、どう? 朝のランニングの効果はあった?」
「さすがに一朝一夕にもなってないのに、効果は現れないだろ」
言って直ぐに慶一は後悔した。
「そうねぇ。やっぱりしばらく続けないダメね」
「そのことなんだけどな……、一子」
「ん? なになに?」
「あーっと、ランニング……」
「うんうん」
慶一が止めるなんて言うとは夢にも思っていない純真な瞳が、真っ直ぐに慶一を見ている。
「ラ、ランニングで疲れたし、梅おろしうどんで疲労回復と行くか」
「いいわねぇ」
「更に豚しゃぶと温泉卵もつけちゃおう」
「いいわねぇ! ねぇねぇ、もう出来る? もう出来る?」
トッピングでテンションが上がるのが、如何にも一子らしかった。
「今茹で始めたばっかだから、まだ10分は掛かるなぁ」
「10分ねぇ……。のびたうどんを食べない為にも、早めに食べに来るように皆に言ってくるわ!」
一子と入れ替わるように調理場に入ってきた百代が、無言で慶一の肩を掴む。
「なんだよ……」
「ほどほどにしないと、体壊すぞ。お父さん」
「オレは、一子の顔を見て断れる気がしない……」
「私が誘っても断るくせにな」
百代が慶一の頬を軽くつねる。
「じゃあ、今日も一緒に寝るか? このままだけど」
「今日はちょっと遠慮したいな……」
百代は湿布のにおいに鼻をつまみながら言うと、慶一から距離をとった。
「本当にじじ臭くなるとは……」
慶一も自分の湿布のにおいを嗅ぎながら言う。
「まぁまぁ、マッサージなら後でまたやってやるから」
「夜中にトイレ行きたくなったら、百代のこと起こすからな」
「変態プレイか!」
「そこは「介護か!」って突っ込めよ……」