平坦な雨の音に耳を澄ますと、瓦に当たり高く、地面に当たり低く響くのが分かった。ただリズムを刻むその音は、時折強弱を織り交ぜて空気を重くする。メロディーを奏でるわけではないが音楽を聞いているような心地よさは、雨の日の数少ない癒やしに浸るには充分だった。
ふと慶一は雨を眺めたくなり、中庭を見渡せる縁側に向かい腰を下ろした。
屋根を伝い落ちる雨垂れは太く、水溜りに大きな音を立てて消えていく。
慶一はその音を暗示にかかったように静かに目を閉じて聞いていた。目を閉じると耳の感度が上がったように様々な音を拾う。
ぽつぽつ、ぽたぽた、ぱらぱら、ぴっちょん。雨粒が葉っぱを弾く音はどれか、雨粒が岩に叩きつけられる音はどれか。答えを探すつもりのない疑問だが、不思議と心が安らいだ。
雨音に混じり、ドタドタ走る音にギシギシと床が軋む音が遠くの廊下から近づいてくる。慶一は目を閉じたままで、人物像が浮かび上がっていた。
「慶一見っけ!」
一子は急ブレーキをかけるように止まると、慶一に人差し指を向けた。
「見つかったか。それじゃ今度はオレが鬼だな」
「ちゃんと100数えるのよ。……じゃなくって! 退屈なのよぉ」
「いつもは鍛錬だって言ってるのに珍しいな」
「私もそう思ってたんだけど、ルー師範代が体を休めることも鍛錬の一つだって」
慶一の隣に腰を下ろした一子は、足を伸ばしてつまらなさそうにバタバタさせている。
「そりゃいい。体を休めるならオレにも出来そうな鍛錬だ」
「休むのが鍛錬ってのが、いまいちピンとこないのよね」
「簡単だろ。まずは体を伸ばす」
慶一は床に頭をつけると、手を伸ばして体を伸ばす。それに習って一子も同じように体を伸ばした。
「こう?」
「もっと目一杯だな」
「押忍!」
一子はだらだらする術を学ぶには不釣り合いな気合を入れた声を上げる。
「力を抜いて目を閉じたら、体の脱力に合わせて深く息を吸って腹をふくらませて、ゆっくりと吐いていく」
「おぉ、なんだかそれっぽいわ」
「体の音が静かになるにつれて、雨の降る音はだんだん遠くになって、他にも色んな音が聞こえてくるってわけだ。後は身体が思うがままに精神を任せる」
雨の日は遠くの音がよく聞こえると言われる。一子が遠くから走ってくる音が近くに聞こえたように、他の人の足運びの音や、話し声も聞こえてくる。
「こらーッ、こんなところで転がってたら危ないヨ」
「確かに雨の音以外も聞こえてきたわ」
「慣れてくると、この邪魔な音も耳を通り抜けていくぞ」
「邪魔なのは君たちの方だヨ。ゴロゴロするのはいいけど、部屋でしなさイ」
ルーの声に、慶一と一子は体を起こした。
「それじゃ、組手に付き合ってください」
一子は立ち上がってルーに頭を下げると、満面の笑みを向ける。
手を伸ばして一子の頭を撫でながら、ルーは首を横に振った。
「さっきも言ったヨ。しっかり体を休ませることも鍛錬だってネ。ただでさえ一子はオーバーワーク気味なんだから、雨の日くらいはゆっくりしなさイ」
「鍛錬できないほうが、体に悪い気がするわ……。この雨じゃ外に出るのも躊躇うし」
「家でも出来ることはたくさんあるヨ。二人とも夏休みの課題は終わったのかネ?」
「えっと……、慶一は終わった?」
何故か一子は心配そうに慶一の顔色を窺う。
「オレは終わらせたよ。登校日には終わらせるつもりだったから、予定通りだな」
「私も終わりました!」
慶一の答えを伺っていた一子は、終わったと聞いて安心して元気な声で答えた。
「いや……オレも写させてやりたい気持ちは山々なんだが、学校で大和と答え合わせをした時に、一子が写さないようにと持ってかれちゃった」
「そもそも、写す前提はダメ! 慶一は一子を甘やかし過ぎだヨ」
「でも、こんな気持じゃ勉強にも身が入らないわ」
駄々っ子のような一子を見たルーは呆れたようにため息をつくと、少し笑顔を見せた。
「仕方ないネ。体を動かすのは禁止だけど、様々な武を見るのも鍛錬の一つだよ」
そう言ってルーは、左手を体の前で右手は胸の前。両肘を曲げて手首を下に曲げる。左足を左手と同じくらい前へ出して伸ばし、右足はその場で体重を支えるように膝を曲げる。
「これが蟷螂拳ネ」
「私が見たことあるのと、ちょっと違うわね」
「門派によって独自の構えがあるんだヨ。今私が見せたのは、七聖蟷螂拳と言う全ての蟷螂拳の原点とも言える門派の構えだネ」
「もっとこういう感じだと思ってたわ」
一子は足を大きく開いて深く腰を下ろす。両膝はそれぞれ外側を向いていて、ガニ股のようになっていた。
「確かにそのほうがカマキリに見えるネ。でも、その構えでどう動く気だイ? 一子」
「えっと……。無理です……」
「蟷螂拳に限らず象形拳とうものは、形を真似るわけではなイ。もっと言えば動きを真似るわけではないのだヨ。動作のイメージを大事にするんダ」
「イメージ?」
「私達人間は鋭い爪や牙があるわけでないネ。ただ手を突き出すのではなく、まるでトラが爪を立てて獲物を叩き伏せるかのように武術の動作に反映させるのだヨ。蟷螂拳だって、人間とカマキリでは体の構造は当然違ウ。カマキリにとっては動きやすい型でも、人間にとっては動きづらい型になってしまうネ。だから、蟷螂拳の構えはこウ」
ルーは先程と同じ構えを取って一子に見せた。
「なるほど。重心を低く、打撃の構えってわけですね」
「違うヨ。カマキリの鎌は獲物を引っ掛けて捕らえるためのものだヨ。だから蟷螂拳は関節技が多イ」
ルーが打ち込んでくるように手招きをすると、直ぐに一子は左手を伸ばした。
真っ直ぐに伸びてくる拳に対して、ルーは左手の手首の甲を一子の腕に当てて軌道をずらして止める。そこから少し手首を返して腕を掴むと、自分の体の方へと引き込んだ。
「この状態だと、一子の肘の関節が伸びた状態になるネ。このまま空いた右手で肘を押されれば関節が破壊されてしまうヨ」
「なら、こうすれば……っ」
一子はルーに掴まれ自由が効かない腕を、体重を前に掛けることによって肘を曲げた。
「引っ掛けやすい場所を増やしてどうするネ」
ルーは肘の関節の内側に手を引っ掛けると、腕相撲のように一子の腕を傾けていく。一子が前に倒れまいと後ろに重心を移動させたのを見ると、一子の顎に掴んでいない方の手の甲を当てる。そこから少し上に押すだけで、重心に向けて一子が背中から倒れこんだ。
「相手に腕を掴まれたまま倒れるのは危険だヨ。今の一子は重心を変えることが出来ないからネ。このまま関節を攻撃されるか、身動きできないところに急所を攻撃されるか、どちらにせよただでは済まないネ」
関節を壊すために伸ばしていたルーの手は、一子の体を起こすための手に変わる。
「なるほど、カマキリの代名詞は捕食者ですもんね。でも、オレも蟷螂拳は打撃のイメージがありましたね」
「蟷螂拳が打撃のイメージが強いのは、相手の関節を取る為に隙を作る連続攻撃のせいだネ。相手の隙を作るには急所を狙うのが一番だから、避けることが出来ない相手にとっては、威力大きい打撃になることもあるってことだヨ。特に一子の場合は武器が薙刀だから、振り下ろした時に伸びる肘の関節に気を付けるんだヨ」
「ルー師範代! もう一本お願いします!」
一子はルーに頭を下げると、ファイティングポーズをとった。
「ダメだヨ。今の一子の熱量だと組手になってしまうネ」
「あうう……」
「さっきも言った通り、人の武を見るのも鍛錬。たまには他の武術をじっくり見るのも大切だよ」
ルーの言葉に一子は小首を傾げる。数秒そのままの体勢でいたが、急に合点がいったように頷くと再び拳を握りルーに対峙した。
「それじゃ、次は蛇拳でお願いします!」
頭を抱えるルーの代わりに、慶一が親指で修行場を指しながら言う。
「ルー先生は、他の修行僧を見てこいってさ。今の時間帯なら組手が始まるから、色んな動きが見られるんじゃないか?」
「なるほど、そういうことね! 私も組手に混じってきまーす!」
「見るだけだヨー! 組手はダメー!」
一子は後ろ手に右手を振りながら廊下を曲がっていった。
「あれは絶対組手するけどいいんですか?」
「ハードトレーニングをするよりはマシだネ。素直な一子のことだ。少し体を動かせばゆっくり休息を取ってくれるだろウ」
「それで、素直じゃない方の問題児はどうします?」
「……出来ればこのまま気付かないふりで済ませたいネ」
雨で薄暗い世界を照らす電灯の光が、一人の影を作り出している。よく動くその影はウォーミングアップをしているようだった。
「さぁ、私とも組手をお願いします。もちろん蟷螂拳だけとは言わず、少林拳、八極拳、太極拳、全てを使ってで」
「こらこら百代。ルー先生に迷惑かけるなって」
慶一は百代の腕を掴むと隣に座らせる。組手をしたいのは本気だったらしく、ウォーミングアップを済ませた体は温かかった。掴んだ腕にも熱がこもっている。
「だって燕も来ないし、この雨じゃ対戦者も来ないんだぞー!」
「雨でイライラしてる百代と組手をするのは危険だネ。いい機会だから、慶一に習って精神修行でもしたらどうだイ?」
「オレは精神修行してるわけじゃないんですけどね」
適当なBGMにラジオやテレビを付ける代わりに雨の音を聞いてるだけで、禅を組んでいるわけでも、雨に打たれているわけでもない。慶一は、むしろダラケているつもりだった。
「雨の音に耳を傾けて楽しむのも、立派な精神修行の一つだよ。百代は、山籠りの時に自然と調和をして自身の感情をコントロールすることを学んだじゃないのかイ?」
「ワン子じゃないですけど、体を動かせないは辛いんですよー」
「まぁ、雨でイライラするだけに押さえられているくらいには成長したのかもネ」
ルーは、昔のような人を刺すような目つきではなく、子供がわがままを言う時のような百代の目に安心していた。
「別に死合がしたいってわけじゃないんですよ、少し組手をして鬱憤を晴らせればそれでも満足しますからー」
「組手というは鬱憤を晴らすためにやることじゃないヨ。百代の場合は普段から思いっきり体を動かすことは出来ないシ、鬱憤が溜まるのも分かるネ。しかし、雨垂れがやがて石を穿つという言葉があるように、精神鍛錬だって一朝一夕で出来るものではなイ。百代には石を穿つ術ではなく、穿つまでの根気を学んで欲しいんだヨ。もう一つ心技体という言葉もあるネ。身体の発育が“体”。勝負術の鍛錬が“技”。精神の修行が“心”。これはどれか一つが伸びればいいといわけではなく、“心技体”三つが一つのものとして修行するという意味だヨ。仏教の言葉で”身心一如“という言葉があるように――」
「あの……。ルー先生の話が長くて、百代が寝てます」
百代は、慶一の太腿に頭を乗せてわざとらしく寝息を立てている。
「全く……。百代も一子も一筋縄ではいかない子たちだヨ」
「夜寝てる時に、お経でも流しときます?」
「霊が集まってきて、返って百代の精神が乱れるんじゃないかイ?」
「追い払うためにシャーマン的なものに目覚めれば、精神修行をするようになるかもしれないですよ」
慶一が百代の頬撫でると、ピクピクと動いているのが分かった。
「いざとなる前に試してみるのもいいかもネ。幸い百代は“狸”寝入りして、この話を聞いていないよだシ」
「そうですね。ぐっすり“狸”寝入りしてるし、今夜から雨の音に混ぜてみますか」
「分かったよ! 起きればいいんだろ起きれば」
起き上がった百代は、納得がいかずに口を尖らせている。
「ルー先生の言うとおり、帰ってきてから精神修行なんてしてないし、たまには身体を動かす以外の鍛錬もいいと思うけどな」
「でも、山籠りの時は慶一と一緒に空を見てたけど、この雨じゃなぁ」
「心を落ち着けるって言うなら、昔を懐かしむとかいいんじゃないか?」
慶一は立ち上がると、少し屈んで柱にそっと手を触れる。
「例えば、柱の傷を見て思うんだよ。一子はこんなに小さかったのにな……って」
「それ、キャップが遊びに来た時に出来た傷だぞ」
「なんだよ。余計な想像させる邪魔な傷だな。後でパテ買ってきて埋めなきゃな」
「……慶一も精神修行足りないと思うぞ」
「というより、一子が小さい時に慶一は川神院にいないネ……。記憶を改ざんし過ぎだヨ」