島津寮に着いた慶一は、傘についた雨のしずくを外で払うと、玄関の傘立てに置いた。
「よーっす。百代と一子は午後の鍛錬があるから遅くなるとよ」
返事の代わりに聞こえたのは、廊下の奥からドアを叩く音と咆哮にも似た大きな声だった。
「おい! ガクト! 早く出てくれって!」
「そりゃ、無理だぜキャップ! 大人しく待っててくれ!」
「こっちにも限界っつーもんがあんだよ!」
「こっちは限界超えてる途中なんだよ!」
キャップがトイレのドアに拳をぶつけていた音が徐々に小さくなる。
「オレ……頑張ったから……ゴールしてもいいよね?」
そう言うとキャップは、お腹を押さえて崩れるように座り込んだ。
「ゴールしたらあかん! こんなところでゴールされたらオラどうしたらいいか分かんねぇぜ!」
「そうですよキャップさん! ここでゴールしたらバッドエンドになってしまいますよ!」
まゆっちがキャップの肩を揺さぶり懸命に励ますが、キャップの額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。
「まゆっち……。今揺すられたら……オレ……」
「えらいこっちゃ! えらいこっちゃ! よいよいよいよい! そりゃ、まゆっちも」
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」
まゆっちはどうしたらいいか分からず、ただいたずらに右往左往しながら喋っている。
何が起こっているのか分からず、慶一が近づいていくと、キャップの体が一度ピクッと大きく動いた。
「あっ……。ふぅ……、よう、来たのか慶一」
キャップの体の震えは止まり、ゆるやかな笑みを浮かべて慶一に手を振った。代わりに顔色が変わったのはまゆっちだった。
「え……? キャップさんまさか!?」
「Oh, Jesus ! 紙は間に合わなかったか……」
「ちげぇよ! 波がおさまっただけだって! 頼むぜガクト! 直ぐにまた波が押し寄せてきそうだ!」
「わ、わたし、隣のガクトさんの家に麗子さんがいないか確かめてきます! 居たらトイレを貸してくれるよう頼んできますね!」
ゆっくりと雨を楽しんでいた午前中とは違い、島津寮に来てわずか数分なのに、とても慌ただしい時間が過ぎている。原因を作ったのは、調理場で腰に手を当てて慶一を待ち構えていたクリスだった。
「よく来たな、慶一!」
「なんでそんなボスっぽい迎え方なんだよ。」
「ふっふっふ。自作いなり寿司のお披露目会だ」
「ボスっぽいじゃなくて、ボスだったか……。あの地獄絵図を見たオレに食えと言うんじゃないだろうな」
慶一は廊下に右手の親指を向けると、頬をヒクつかせながら念を押した。
「当然! 自分が作ったいなり寿司を鑑賞したくなるのも分かるが、やはりいなり寿司は食べてこそだろ!」
「前に作った時は何を入れたんだっけ?」
「角砂糖だ! あの時はマルさんが自分の分まで食べてしまうくらい美味しくできたんだぞ!」
自信満々のクリスだが、慶一は食べる気にはなれなかった。
マルギッテがクリスに味見をさせずに全てを平らげるということは、それだけ不味かったということだ。クリスが自分で食べて自身を喪失するのを危惧したのと、毒を食べさせたくないというのがあるのだろう。今回のいなり寿司もキャップとガクトの惨状を見ていれば、成功しているハズはなかった。
といっても慶一に逃げ道はない。
「まさか、お嬢様が作ったものを食べられないとでも?」
マルギッテの鋭い眼光に射抜かれた慶一は、恐る恐るいなり寿司を一つ手に取った。固く閉じられた揚げは、糊付けされたように開くことが出来ず、中に何が入っているか確認することは出来なかった。
「これ、本当に食べて大丈夫なんですか?」
「無論。お嬢様の料理は私にとって満漢全席にも匹敵すると理解しなさい」
「でも……マルギッテさん。震えてますよ?」
「これはお嬢様の手作り料理を食べた歓喜からだと知りなさい」
このままだと無理やり口に押し込まれそうな気迫なので、慶一は覚悟を決めて口へと運んだ。
慶一が食べるのを見てクリスは、美味しいだろうかという心配そうな表情ではなく、まるで美味しいと言われるのが決まりきっているかのような表情を浮かべる。
「どうだ? シンプルに見せかけて、いろいろ挑戦してみたのだが」
油だらけで味が全く染みていない揚げに、ただただ酸っぱいだけの酢。ジャリジャリとした砂糖の歯触りが、耳にゾワゾワとくる。舌にくる刺激は山葵で、鼻にくる異臭は熱した納豆だろう。そのせいで気付くのが遅れたが、噛むとべっちょりとしたデンプン糊みたいなご飯も気になった。彩りのためかスイカも入っている。何より最悪なのが、全ての味を吸った天カスだ。口の中で潰れる度に、ただ不味いだけの汁をまき散らしている。唯一茹でただけのほうれん草が美味しかった。
思わず絶句している慶一をよそに、マルギッテは満足気な顔でクリスに言った。
「どうやら、美味しさのあまり言葉が出ないようです」
「そうか! 慶一に認められるとは、自分の料理の腕もなかなかのもんだな!」
「ええ、その通りですお嬢様」
まゆっちが居るはずなのに、こんな料理を作るのはおかしいと思ったが、マルギッテが口出しをさせなかったのだろう。強く出られると引っ込んでしまうまゆっちの性格が災いした。
一つ食べ終えたことだし、このまま終わればなんでもいいやと慶一は思ったが、クリスの次の一言によって声を荒げる事になる。
「ふふん。犬が来たら、食べさせて見返してやらなければ」
「ちょっと待った!」
「なんですか? 前口慶一」
「こんな体に悪そうなもの一子に食わせるって言うなら、オレは口を出すぞ」
言った瞬間激痛が走る。慶一はマルギッテにアームロックが掛けられていた。
「今言ったことを取り消しなさい」
「あたたた!」
「マルさん、それ以上いけない」
「……わかりました」
「オレの腕って結構値打ちものだと思うんですけどね……。少なくとも川神院が暴動起こすくらいには」
マルギッテから開放された慶一は、腕をプラプラとさせて、痛みを外に逃すような仕草をする。
「まだ言いますか――」
「いいんだ、マルさん。是非改良のポイントを教えてくれないか?」
「お? 素直」
「自分はいつも素直だろ」
「確かにそうだったな。もうちょっと捻くれてていいのに、ツンデレっぽくとか」
慶一の言葉にクリスは腕を組んで少し悩んだ。
「難しい注文だなぁ……。別に慶一の為に作るわけじゃないんだからね! ただ、美味しいものを作りたい……それだけなんだから! こんな感じか?」
「そんな態度で誰が教えるかってんだ」
「戦場で無駄口は死につながると知りなさい。クリスお嬢様が教わっても良いと言っているのです。別にあなたの為じゃなくてお嬢様の為に分かりやすく教授するのが、吉と出ました」
マルギッテに額を掴まれた慶一は、そのまま持ち上げられた。どうやら耳の近くの骨が軋むとメキっと高い音が鳴るらしい。
「痛いけど、昔の百代っぽくて少し懐かしい気も……」
「懲りてないと見ました――」
マルギッテの前腕部の筋肉がピクッと動いた。
「沈黙は金です!」
マルギッテのアイアンクローから開放された慶一は、額を擦りながらクリスのいなり寿司のダメ出しを始めた。
「まず、飯の炊き直しだな。単純に酢飯と言ったら固めって言うのもあるけど、すし酢を吸って柔らかくなる分も考えて固めに炊くんだよ」
「む~、物足りない。なんかもっと隠し味的なことはしないのか?」
「なんかしたいなら、昆布をいれたり、酒を入れて照りを出してもいいな」
慶一が左手に昆布、右手に日本酒を持って見せると、クリスは迷うことなく二つとも選んだ。
「二つ使えばより美味しく出来るはずだ!」
「まぁ、美味しくなるからいいけど。で、ご飯を炊いてる間に揚げの油抜きだな」
「それはバッチリだ。携帯でバッチリ調べたからな。なっ、マルさん」
「はい。揚げに熱湯をまんべんなくかけて、余分な油と臭いを取るですね」
「そこを調べたなら、レシピ通りに作りゃいいのに」
「料理は工夫が大切だと聞いたぞ」
「武道だって基本が出来てないと、いくら工夫してもダメだろ?」
「なるほど、一理あるな」
クリスに限らず一子もそうだが、自分が分かる武道やら鍛錬に掛けあわせて話をすると、素直に聞いてくれる気がする。
「あと、いなり寿司の揚げは茹でてしっかり油抜きしないと、調味料が染み込まないぞ。炊き込みご飯とか煮物みたいに油のうま味をいかす場合は、クリスがやってたので問題ないな」
別の鍋にだし汁と醤油と砂糖を入れて火にかける。
「みりんとお酒はいれないのか?」
「ご飯を炊くのに昆布使ったし、煮汁はシンプルな方がいいよ。後は油抜きをした揚げを煮汁に入れる……っと。どうせ最初は浮いてくるから、入れる時は適当でいいよ。落し蓋さえすればしっかり押さえられるから」
「適当と言われると、どうも自分は躊躇ってしまうな……」
「いいんだって、どうせ味は変わらないんだから。慎重に何度も場所変えたりしたら、返って破れちまうぞ」
慶一は半ば強引に、ウズウズと瞳を輝かせるクリスから菜箸を取り上げる。
「そんなに自分は信用ないか!」
「オレにも経験あるからな。料理って最初はどうしても無駄に食材を動かしたくなるんだよ。つーか、具材について聞きたいんだけど。何を思って選んだんだ?」
一緒くたに具材を入れていたことから、混ぜご飯が目標だったことはわかった。納豆、天カス、ほうれん草は分かるにしても、これに山葵とスイカを組み合わせる理由が分からない。
「松永納豆は美味しいだろう。天かすとほうれん草の山葵は前に慶一が作ってくれて美味しかった。それに夏のスイカを加えれば、ベストオブベストだ!」
クリスは左手を腰に当てて、右手の人差指立てて、真っ直ぐに慶一に向かって指した。
「オレが前に作ったのは、葉わさびの醤油漬けだけどな。ほうれん草を辛くするために無茶な量山葵を入れただろ。あれは腹にくるな……。あと、天ぷらとスイカの食い合せも下剤効果があるから、どうしても食べたいなら、食べ終わった後にデザートでスイカ出したほうがいいな」
「なんと!?」
「まぁ、今回はガクトとキャップの被害だけで済んでよかったけどな。あいつらは何個食べたんだ?」
「自分が目を離した好きに10個は食べてたぞ」
慶一がふとマルギッテを見ると、僅かに笑っているのが見えた。きっと最後まで渋ったせいで無理やり食べさせられたのだろう。
ガクトとキャップのトイレ戦争が落ち着く頃、ようやく炊飯器からご飯が炊けた電子音が鳴った。
しばらくそのまま蒸らしている間に、寿司桶を用意する。桶を水で十分に濡らし、固く絞った濡れ布巾で吹き上げ、ご飯粒をつきにくくする。
「合わせ酢は、酢と塩とハチミツだな」
「ハチミツ?」
「砂糖の代わりにハチミツを入れると、時間が経ってもカピカピにならないでしっとり柔らかになるんだよ。前にクリスに作ったいなり寿司も、ハチミツの合わせ酢だぞ」
「なるほど、ここで一工夫というわけだな」
クリスは自分の言葉に満足気に頷いている。
「あとは、団扇も必要だ」
「イエイ! 団扇はバッチリ用意してるぞ!」
クリスが「風鈴市」と書かれた団扇を持って小躍りしている。チラッとマルギッテの方を見ると意図を理解し、同じように小躍りを始めた。
「イエイ! イエイ……」
「恥ずかしいなら、やらなくてもいいじゃないですか?」
「しかし、浮かれるお嬢様は愛らしいっ!」
「まぁ、料理は楽しいですしね。オレも鼻歌を歌いながらする時もあるし」
人の振り見て我が振り直せというのか、慶一は一子に対する態度が、他人から見てマルギッテ程に見えてないことを密かに願った。
「愛で斬るから痛くない! さぁ、酢飯を切るぞ!」
「ちょうどいいから、クリスは酢飯係で、マルギッテさんは団扇係ってことで」
「うむ、まかせれよう」
「容易なミッションです」
木べらに合わせ酢を垂らして、ご飯に回しかけていると、クリスが楽しそうに笑った。
「それにしても酢飯を団扇であおいで冷ますとは、さすが日本は面白いことをするな」
「酢飯がベタベタしないように水分とか、余分な酢気を飛ばすためもあるんだけどな。マルギッテさんの方は、団扇であおぐのはもう少し待ってくださいね。熱いうちじゃないと合わせ酢がうまくご飯に溶けないので、その後にお願いします」
「うぅ~、鼻がぁ……。目が、目がぁ〜!」
酢の匂いに顔をしかめながらクリスは懸命にご飯を切っている。
「我慢我慢。よしっ、もうあおいでいいですよ」
合わせ酢特有の鼻に攻撃するような酢を含んだ蒸気が、団扇であおぐ度に甘い匂いになっていく。酢が刺激臭から香味へと変わる瞬間が酢飯作りの醍醐味かもしれない。
「とうとうフィナーレだな!」
「そんな大層なもんじゃないだろ。」
軽く掴むように酢飯を握ってから、揚げに詰める。こうすることによって食べやすい大きさになり、噛み切ってもご飯がポロポロせずに食べやすくなる。
「完成だ!」
せっかくなので気分を出すために重箱に詰めたいなり寿司を、クリスは天高々掲げて叫んだ。
「お見事ですお嬢様」
その後をマルギッテの小さな拍手が続く。
「味見、味見だ~」
大事そうに抱え直した重箱から、クリスはひとつ摘んで口に運んだ。
「オレもオレもっと」
甘辛く煮た揚げは、歯で圧されると汁を垂れ流し、口の中で酢飯をほぐしていく。ほぐされた酢飯は噛み潰しやすくなり、米本来の甘さに酢の甘さが溶け合っていく。口内を刺激するような心地良い酸味は唾液を促して食欲を誘う。程よい温かさの銀シャリを飲み込むと、ご飯を炊く時に入れた昆布の風味が鼻から抜けていった。
「おおう! 煮揚げと酢飯の一体感! 日本の懐かしさが漂うようだ。まるで料亭で出るような美味さだ!」
「クリスが日本の懐かしさを感じるのはおかしいし、寿司屋ならともかく料亭でいなり寿司は出ないと思うんだけどな……」
寿司桶に残った酢飯をヘラでそのまま食べるのって美味しいですよね。
あの無作法な食べ方は、作ったものの特権とだと思うと、美味しさもまたひとしおです。