『大型の台風13号。九州ではすでに風が強まり、強い雨が降っています。西日本、東日本にも近づくと見られています』
テレビには台風予報円が映り、女子アナウンサーが今後の進路の説明をしている。上陸せずに東にそれていくらしいが、暴風雨への警戒は必要とのこと。
川神ではまだ雨は降ってはいないが、雲行きが怪しくなりだしていた。白い雲に紛れて、埃みたいな灰色の雲が混ざりだしてきている。外の薄暗さが、ほんのりと蒸し暑さを強くさせていた。
「台風ってどうして北上するに連れて大きくなるのかしらね」
「そうか? 大抵は勢力を弱めて、太平洋側にそれていくと思うけど」
「でも、大きくなっていってるじゃない」
一子はテレビに映っている予報円を指差した。円は台風の現在地点を頂点にして、細の長い二等辺三角形のように広がっていた。
「あぁ……。ありゃ、この円のどこかに台風がきますよって目安だ。だから時間が経つに連れて円が大きくなってるわけだ。先のことが分からないのは、ただの天気も台風も一緒」
「そうよね。あんな大きな台風がきたら困っちゃうもんね」
「あの円の範囲内に台風が来るのも七割程度らしいけどな」
「テストの点数もそれくらいアバウトに採点してくれればいいのに」
「オレらはともかく、Sクラスの奴らは損しかないな」
慶一は菓子器からせんべいを取り出すと、ボリッとかじった。
薄い生地にたっぷりと浸った醤油は、舌の上に軽く貼り付き醤油のしょっぱさを広げる。噛んでいる間に、黒ゴマの香りと混ざり醤油の甘さが舌に残った。
一子も菓子器からせんべいを取って口に運ぶと、ポリポリとバリバリの中間のような小気味の良い音が部屋の中に響いた。
「このおせんべい屋さん、胡麻を変えたんだって」
「へぇ、どおりで。そういや、前は白胡麻も黒胡麻も混ざって練り込んでたもんな。黒胡麻だけのほうがコクを感じられて美味いな」
「私は、美味しければなんでもオッケーよ」
「だな」
慶一はお茶をすすって一息をつくと、もう一度菓子器に手を伸ばす。口に運び一噛みしたところで、髪をぐちゃぐちゃに乱した百代が部屋に入ってきた。
「なに二人で休日を満喫してんだよ」
「おつかれ。実際休日だからな。残り少ない夏休みを有意義に過ごしてるんだよ」
「そういうことじゃなくて、なんで私だけ台風に備えて川神院の補強をしなくちゃいけないんだ」
百代はテーブルに顔と上半身を押し付けるようにして体を伸ばした。吐くため息のせいで、口の近くのテーブルが曇りだす。
「オレも一子もとっくの間に終わってるんだよ。百代が学長と「やりたくない」「やれ」って押し問答してる間にな」
「私みたいな学生に補強をさせるなんておかしいだろ」
「知ってるか? オレも学生だ。それも一個年下の」
「番茶とせんべいなんかで一息ついている奴は、若いなんて言わない」
そう言いながらも、百代もせんべいに手を伸ばした。
「その体勢で食べると喉につまらせるぞ、おばあちゃん」
「うるさい。茶だ、茶」
「はいはい」
慶一は出涸らしになった茶葉を捨てると、急須に新たに茶葉を入れて、ポットからお湯を注いだ。ほうじ茶の香りは部屋中に立ち込め、団欒の匂いへと変えた。
立ち込む匂いと共に怠惰を楽しんでいると、一際強く窓が強く鳴った。
「おおう……。部屋の中が揺れた気がしたわ」
一度ビクッと一子の体が跳ねると、そのまま窓の外を眺めていた。胸が躍るような、不安が立ち込むような、不思議な高揚感に包まれる。
慶一の声も少し高く「ちょっと風が強くなったな」と言ったが、直ぐに低い声に戻り「なったか……」と溜息を混ぜた。
明日になれば、高気圧に照らされた地上で台風の後始末をしなければならない。広い川神院を掃除するには、修行僧を総動員しても骨が折れる作業になる。不謹慎な高揚は、来るべき面倒に塗り替えられた。瓦が剥がれたり、木が倒れたりすると、業者を呼ばなければいけないので、残りの夏休みをバタバタと過ごさなければいけなくなる。
慶一が半ばやけ食い気味にせんべいを食べ続けていると、百代と一子の携帯が鳴った。
「大和からだわ。えーっと……非常用持ち出し品の準備と、個々でハザードマップを確認しとけって」
一子はメールを読み上げると、慶一を見た。
「相変わらず大和はマメだなぁ」
「「マメだなぁ」じゃないわよ。慶一に、何かあった時に使えなかったら困るから、携帯を充電しておくようにって伝えてくれって」
「私のところには、充電する前に大和にメールをして知らせろと書いてあるな」
「本当にマメだなぁ……。仕方ない。部屋に戻って充電器の上に携帯を置くか。心配症の大和を安心させるためにも――っと」
慶一はテーブルに手をついて立ち上がり、湯のみを持つと部屋を出て行った。
部屋についた慶一は、部屋の隅に転がっていた携帯を手に取り「充電中」とだけ文字を打ってメールを送る。直ぐに「よし」と一言だけのメールが大和から返ってきた。充電器の上に携帯を置くと、厨房へと向かう。
少し時間が経っても、火を入れてすぐに食べることの出来るシチューは、台風の日にはうってつけだ。野菜は朝から煮込んであるので、これから仕上げをする。
キッチン周りとまな板をくどいくらいアルコールで除菌すると、冷蔵庫から鶏肉を取り出す。もも肉を一口大に切って、塩コショウで下味をつけて、軽く薄力粉をまぶす。熱したフライパンに、皮目を下にして鶏肉を並べ焼き色を付けていると、ジュウジュウとした油の沸騰する音がパチパチと皮を弾く音に変わった。それだけで食欲を誘う香ばしい匂いが漂い始める。
焼き目を付けている間に、玉ねぎをくし切りにしてさらに半分に切っておく。両面に焼き目を付けた鶏肉を鍋に移して、フライパンに残った鳥の油を、吸わせるようにして玉ねぎを焼く。鶏と玉ねぎの相性は抜群で、香ばしい鶏油と甘い玉ねぎの匂いがお腹を鳴らすように、鼻を通り抜けていった。
玉ねぎも鍋に移して、少し水を足して煮込んでいく。カレー粉を入れたくなる衝動をグッと押さえて、出汁と醤油と塩をひとつまみ入れる。
シチュー、カレー、肉じゃが。3つとも途中まで作る過程が同じなので、最初はこれを作ろうと決めていても、味を付ける段階まできたところで改めて3つの中から迷うことがある。
肉じゃがだと、付け合せを何品か足したくなる。カレーだとサラダを作りたくなる。シチューだとパンが欲しくなる。とは言っても、川神院はごはん食なので、シチューはご飯に良く合うように和風をベースに作ることにしていた。
鍋のアクを取りながら、隣でホワイトソースを作る。塩茹でしたブロッコリーとホワイトソースを混ぜ合わせて、ひと煮立ちさせる。
黄みがかった白色の中に赤や緑など、大きめに切った野菜が存在を主張している。
慶一は小皿にシチューを流すと味見をした。大きめに切った人参やジャガイモの見た目がよく、じっくり煮込んだおかげで口に含んだ感触も申し分ない。コクのあるシチューの中に、火が通った野菜の甘味や香りも充分に溶け込んでいる。
慶一は、最後に塩コショウで味を整えると、もう一度味見をして鍋に蓋をした。
料理は出来たが、まだ時間が早い。というのも、台風が急接近して停電してしまうと、薄暗い中で料理をしなければいけなくなるから早めに料理を始めたからだ。
それで味が変わるわけでもないのだが、薄暗い中コツコツ料理を作るのは気分が滅入るので避けたかった。
朝から境内を周り、各施設に風が入ってこないように木板をハメたり、外に出しっぱなしにしている道具を納屋にしまたりしていたせいか、疲れによるあくびが出た。
「寝るか……」そう独り言をこぼした慶一は、自室へと向かう。
「なんでいるんだ?」
慶一が部屋に戻ると、百代と一子の二人が寛いでいた。
「なんでって、家で集まる場所って言ったら慶一の部屋に決まってるじゃない」
「さっきは居間で集まってただろ」
「でも、三人で集まる時って慶一の部屋の方がしっくりこない?」
「私の部屋でもあるんだから、別にいいだろ。居間に戻ってこなかった慶一は有罪。被告人は黙って、お菓子を出せー」
場所が変わっても、百代はテーブルにつっぷして慶一を顎で使う。
「昼食作りが裁判の判断材料になるなら、裁かれるのは法廷だな」
「ねぇねぇ、さっきまでお姉さまと話してたんだけど、慶一なら台風にどんな名前をつける? 私は、やっぱり勇往邁進かしらね」
「そんな勇んで横断してくる台風は嫌だろ……」
慶一は答える前に百代をチラッと見た。
「私は自分の名前かなぁ。でもそうなると、被害が出る度に自分の名前が発表されるのか……」
「そうか。そういう可能性もあるのか。一発屋芸人とかにしたら直ぐ消えてよさそうだな」
「年に何十号も出てくる一発屋芸人ってなんか嫌ね……」
「つーか、MOMOYOの名前は自然災害みたいなもんで登録されてるから、今更付けなくてもいいだろ」
「K-1の名前も、おじいちゃんで登録されてるらしいぞ」
百代がテーブルの上の紙くずを軽く指で弾くと、慶一の顔を目掛けて勢い良く飛でいく。小石を当てられたかと思うほどの衝撃があったが、転がった紙を見るとガムの包み紙だった。
「触るもの皆兵器。そういや、身近な道具を使って戦うアクション映画があったな」
慶一は自分で言ったことに、思い出したように適当なDVDを手に取る。DVDを見るためにテレビの電源を点けると、この時間のいつもの番組ではなく、台風特別番組をやっていた。
適当にザッピングしてみると、どこの局も同じような番組をやっている。台風は速度を上げて本州に接近してきているらしく、アナウンサーの後ろで報道分門の人間が忙しそうに立ち動いており、臨場感を出していた。
慶一は少しだけニュースを眺めると、レコーダにDVDをセットした。黒い画面に変わり、会社のロゴが流れると、つまらなさそうに一子が口を開いた。
「みんなは家でなにしてるのかしらねぇ」
「んー? モロはいつもと変わらずゲームしたり、アニメを見たりしてるだろう」
「京は大和の隣で本を読んでるでしょ。大和もメールをしたり、本を読んだり……。あれ? 意外にみんな普段と変わらないことやってそうね」
「オレらも三人がこうやって集まって話してるのもいつも通りだしな。でも、川神院で掛け声が聞こえないのは新鮮ではあるかもな」
「そういえば子供の頃にキャップが川の様子を見に行って、流されそうになったことがあったな」
百代が昔を懐かしむように言うと、一子が反応した。
「あはは、あったわねー。キャップは昔から危ないところに近寄るタイプだったから。流石に今は……大丈夫よね?」
一子の疑問に誰も答えない。長い無言の間を過ごすと、慶一は携帯を取って大和にメールをした。携帯が鳴ると、三人で顔を近づけて返信内容を確認した。
「良かったわぁ」と、一番に胸を撫で下ろしたは一子だ。
「オレはまだ油断できないと思うけどな。台風が上陸してから緊急連絡が来ないことを祈る。まぁ、寮にはクリスとまゆっちも増えたし退屈はしないんだろ」
「あの二人もいつもと変わらないわよね。クリはマルギッテに面倒う見てもらってるだろうし、まゆっちも松風を喋らせてはっちゃけてるだろうし」
「あとはガクトか。……ガクトのことはあまり考えたくねぇな」
「どうして? 多分筋トレでもして、家に篭もるモヤモヤを発散してるわよ」
「ワン子。男が発散するのは他にもあるんだぞ」
百代は、少しいやらしい瞳で笑みを浮かべると「なぁ?」と言って、慶一に視線を送った。
「そうだな。百代にされるセクハラのストレス発散とかな」
慶一と百代のやりとりに一子は疑問符を頭に浮かべたが、映画が始まるとそれ以上気にすることなく画面に釘付けになっていた。物語が進み港でバトルが始まるシーンに入った頃、いつの間にか慶一の太ももに頭を乗せていた百代が口を開いた。
「それにしても、突然J・Cなんか見てどうしたんだ? 目覚めたのか?」
「この間ルー先生が蟷螂拳見せてくれたから、映画を見たくなってな。中古のDVDを衝動買いしちまった。つーか、その略し方だと別の動画見てるみたいだからやめてくれ」
慶一が言い終えるあたりで、初期設定音のままの携帯が鳴った。開くと差出人の名前は井上準と書いてある。
『やっぱりJCまで行くと育ちすぎって気もするよな。ロリとそれ以外を分ける大きな転換点の一つに、SとCとKという節目があるわけだが、背伸びしすぎてケバい私服のSよりも、体操服のCの方がポイントが高く――』
「Jesus Christ……」
そう言って慶一は携帯を閉じた。
「いきなりなんだ? 香港映画で出るような言葉じゃないだろ、それ」
「迷惑メールが着たもんでつい」
バッファロー大隊。
分かる人はいるだろうか……