何年ぶりの全力疾走だろうか。
慶一は桜並木が立ち並ぶ見慣れた通りを走っていた。
散りだす桜の花びらの美しさに目を奪われることなく、ただ走り続ける。
焦りのせいでチグハグになる足取りに何度も転びそうになるが、立て直す間もなく懸命に足を走らせた。
向かう先は病院だった。
目的の建物が見えてくると、少し心に余裕を取り戻した。
桜も祝福してくれているように感じる。
外から白い外壁の病院の一室の窓を一瞥すると、慶一はスピードを上げて咲き誇った桜道を走り抜けた。
病院内に入ると、受付に記入もしないで通り過ぎる。
一度エレベーターのボタンを押して立ち止まったが、最上階から降りてくるエレベーターに待ちきれず、慶一は階段を駆け上がった。
途中看護師に「院内は走らないでください」と二回注意された。慶一の耳にも聞こえていたが、あえて聞こえないフリを決め込んで走り抜けた。
息が切れて酸素も取り込めないが、それさえも無視して慶一は走り続ける。
何度も通った見慣れた通路。
部屋の番号も名札も確認することなく、慶一はドアを開けた。
病院の一室では、背もたれの上がったベッドに百代が背中を預けていた。
顔は窓の外に向いたままで、恐らく慶一が走ってくるのも見ていたのだろう。
急にドアを開けても動じることはなかった。
「良かった……。間に合ったな」
慶一は上着を脱ぎながら言った。シャツの背中は汗を吸い込んでべっとり濡れている。
一度大きく息を吸うが、整える間もなく百代がいるベッドへと近付いていった。
「ああ、ちゃんと待っていてくれたぞ」
百代が重そうに膨らんだ自分のお腹を撫でながら言う。
「これはキャップからだ」
慶一は安産祈願と書かれたお守りを百代に渡す。何十個ものお守りが千羽鶴のように束になっていた。
「……アイツは私の実家をなんだと思っているんだ」
百代はベッド横の棚のフックに、キャップからのお守りの束を引っ掛けた。
「だから、寺のお守りじゃなくて全国の神社のお守りだとよ。そのうち世界中のを持ってくると思うぞ」
「キャップらしいな」
「らしいといえば、京も自分用に安産祈願のお守りを買ったらしいぞ。結婚も妊娠もしてないのにな」
話の最中に、ふいに百代の顔が苦痛に歪んだ。
慌てて「ひっひっふー」という慶一の間抜けなリズムで呼吸をする姿に、百代が笑みを浮かべる。
「それは生むときの呼吸だ」
「そうはいうけど、他に知らねぇからな」
会話をするのもギリギリという状況になっていた。
陣痛の間は励まし、収まると気を紛らわせる為に他愛のない話を続ける。
陣痛の間隔が短くなってくると、百代は分娩室に移された。慶一も立ち会うために衛生服に着替えていた。
「旦那さん。手を握ってあげていてください」
看護師は慌ただしく動きながら、優しいながらも強い口調で言った。
「はい」
慶一は百代の手を握る。百代の手は、見た目以上に汗で濡れていた。
慶一が百代の額に浮かび上がった脂汗をハンカチで拭きながら「大丈夫か?」と聞くと、百代は「大丈夫だ」と気丈に笑う。
だが、いざお産が始まると悲痛の叫びのような喘ぎが響いた。
「旦那さんもしっかり声を掛けてあげてください」
という看護師の声が聞こえるが、慶一はうめき声のようなものしかでなかった。
百代の手を握った慶一の手は、真っ赤になり変形している。
――ダメだ! と思った時には骨の砕ける生々しい音が響き、親指の付け根からあり得ないくらいにくびれてしまった。
握られる百代の手の熱も感じない程の痛みが慶一を襲う。
心配をかけまいと、歯を食いしばり声を押し殺す慶一に「生まれましたよ」という看護師の声が聞こえてきた。
「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ」
男の子が生まれてくることは事前の検査で知っていたが、いざ生まれた我が子を見るとそんなことは頭の中から抜け落ちてしまった。
生命の誕生はなにに増しても偉大だ。慶一は握りつぶされた手の痛みも忘れて、赤ん坊の顔を覗き込もうとした。
――その時。
――再び激痛が走った。
握り潰れた手とは別の手、赤ん坊の頬に触れようとした手だ。
赤ん坊が反射的に掴んだ慶一の小指はどす黒く色に染まり、強い力で握りつぶされている。
――ガクトの顔した赤ん坊に。
大汗を掻きながら、慶一はベッドから身を起こした。フルマラソン後のように心臓が脈を打っている。
「なんちゅー夢見てんだよオレは……。つーか、育った顔で生まれてきてんじゃねぇよ……。忘れるまで結婚出来ねぇじゃねぇか……」
慶一は独り言をポツリと呟く。
「結婚してもいないのに、マリッジブルーになるとは器用な奴だな」
「……人の家に潜り込んで、布団に入り込む奴ほどじゃねぇよ」
九鬼家の部屋で慶一一人で寝ていたはずだが、いつの間にかいるはずのない百代が慶一の胸に頭を乗せていた。
「私はちゃんと玄関から入ってきたぞ」
「この強風の中か? 警報も出てるのに」
「どっかの誰かが急にいなくなったからだろう。それに九鬼から宣戦布告もされたからな」
「戦争は嫌いだ。ゲームでも勝てねぇし。――じゃなくて、なんだ? 宣戦布告ってのは」
百代は慶一が捕らえられたという虚報と、川神院の修行僧達が九鬼のビルに乗り込んだことと、それに興じて風間ファミリーも来ていることを話した。
「夏休みも最後だからってハメを外しすぎだろ……」
慶一は窓を見た。
耳を澄ませば微かに戦闘音が聞こえる。
戦闘音を上げているのは九鬼家の従者部隊と川神院の修行僧だと思うし、風間ファミリーが怪我をすることはないと思うが、聞こえていた花火の音のようなものの正体が戦闘音だとわかると少し心配になる。
「私は別用だがな」
百代はベッドに手を付いて慶一を押し倒すような格好になると、強い視線をぶつけた。
「……言いたいことはなんとなく察してるけど、オレが九鬼に来るのはいつものことだろ。それに、嘘の情報の中ただひとつ正しいのは、安全大国日本でオレがさらわれたことだ」
「さらわれたにしては、随分良い部屋の良いベッドで寝てるんだな」
「これでも脱走用にトンネルを掘ってたんだぞ。でも、ディックとトムが見つかったから、今日の朝にでもハリーから脱走しようと思ったんだが、あと少し森まで届かなくてな……。わかった、――悪かったよ。連絡しないで」
「…・…よし! とりあえずは許してやろう。いつも大和から言われてるだろう。緊急の時の為にも携帯の充電はこまめにしろって」
百代は充電の切れた慶一の携帯電話を手に取ると、電源が入らないことを確認して布団の上に投げ捨てた。
「よくまぁ、毎日充電できるもんだ」
慶一は布団の中の百代をどかして立ち上がると、九鬼の従者に用意された寝巻きを脱いだ。そして、クローゼットにしまってある自分の服を着直す。
「どこ行くんだ?」
「迎えが来たし帰るんだよ。オレを連れ戻しに来たんだろ?」
「寝て朝帰ればいいだろー。私は眠いにゃん」
百代は布団をかぶると、猫のように丸まってベッドを占領した。
「百代がいれば強風でも関係なく帰れるだろ? 運んでくれよ」
「私はタクシーじゃないぞー。答えはノーだ」
「……今日親が留守なんだ」
慶一が耳元で言うと、百代は突然跳ねるように体を起こした。
「それは盲点だった。――早く帰るぞ! ジジイ達が帰って来て時間が無くなる前にな!」
百代は携帯や財布など数少ない慶一の私物を纏めると、押し付けるように慶一に渡した。
「わかったから、そう急かすなよ」
「せっかくのチャンスなのに、戻って五分でジジイが帰ってきたら勿体無いだろ」
「オレは出来るぞ。五分あればな」
「え?」
「……バカ言ったんだから聞き返すなよ」
月夜の帰り道で、慶一はふいに足を止めると百代を呼び止めた。
「なぁ……百代」
「ん? なんだ?」
「もし、子供が生まれることになったら、少し筋肉落とさねぇか? 箸より重いものが持てなくなるくらいまで」
「わたしが、そんなことするわけないだろ」
「……そうか。明日からビタミンDと、カルシウムたっぷりのメニューでも考えるか……」
夜が白けてしばらく経った頃、一子が川神院に帰ってきた。
居間で朝のニュースを見ている慶一と百代の姿を見付けると、尾を垂らした犬のように一子が歩いてきた。
「あうぅ……疲れたわ……」
「お疲れ、飯の前にシャワーでも入ってこいよ」
慶一はテレビから視線を外すと、汗だらけの一子に声をかける。
「そうするわ。慶一は石鹸の匂いがするわね。こんな早い時間に、もうシャワー浴びたの?」
「夜中、私が汗かかせたからな」
百代があっさりとした口調で言う。
「黙ってろよ……」
「深夜の特訓ねー。慶一もようやく川神院色に染まってきたわね」
「慶一が染まってる色は私だがな」
「だから、うるせぇって……。いいからシャワーに入って来いよ」
慶一は半ば強引に一子を風呂場に追いやった。
そして再びテレビに目を向ける。
――今日午前一時頃、川神市のアパートで、七人の小男を洗脳して、身の回りの世話をさせていた女が逮捕されました。女は「お姫様気分を味わいたかった」「ガラスの靴は怖くて履けなかったので、小男を選んだ」「毒りんごを食べる前に捕まってよかった」などと供述しており、警察は「氷の城を建てていないか」「野獣との関わりはないか」など、更に余罪を追求している模様です。
ニュースが終わると節目のミニコーナーが始まった。
――四時五十五分になりました。理不尽じゃんけんで今日の運勢を占っちゃおう! グーを出したあなたは今日死にます。パーを出したあなたは全財産を失います。そしてチョキを出したあなたは宇宙人に連れ去られて、頭にチップを埋め込まれます。最後に、じゃんけんをする前に負けを認めたあなたは犬の糞を踏むでしょう。それじゃあ、いくよ? じゃん・けん――
慶一はテレビを消した。理不尽じゃんけんが始まれば後は天気予報と、似たようなニュースがまた流れるだけだ。もう見どころはない。
「川神市のニュースの住所は親不孝通り辺りだったな。相変わらずあそこはぶっ飛んだ奴が多い」
「最近じゃだいぶ良くなったってジジイが言ってたぞ。九鬼の武士道プランの一環で警備が厳しくなったらしい」
「なんにせよ治安が良くなるのはいいことだ。……本人達は今現在争ってるけどな。百代はもう混ざらなくて良いのか?」
「たまには、のんびりするのもいい。――せっかく誰もいないんだし……な?」
鉄心を含め修行僧達は九鬼ビルに出払っているため、今この場には慶一と百代の二人しかいない。
百代がすっとお尻を慶一に近付けると、慶一も少し百代の方へと寄った。触れ合ってもいないのに、近付いた肩からはお互いの体温を感じる。
そのまま極自然に顔を近づける。もちろんキスをする為だ。しかし、そこから見つめ合ったまま唇が触れ合うことはなかった。
何故なら、遠くから足音が聞こえてきたからだ。
「シャワー上がったわよ!」
一子が洗い髪のまま、肩からタオルをぶら下げて戻ってきた。
「そうか……。ちゃんと髪の毛乾かせよ」
慶一は頭を掻くと、あくびをしながら言った。
「なんか疲れてるわね、慶一は」
「夜中、私が疲れさせたからな」
「いいかげん黙っててくれよ。プレイボーイさん」
慶一がうんざりした顔で言うと、百代はからかうように笑った。
「なんなの? なんなの? 私もまぜなさいよー」
「なんでもねぇよ。そういえば一子はなんで帰ってきてるんだ? 修行僧達はまだ九鬼ビルにいるんだろ?」
「ルー師範代にファミリーだけ帰らされたのよ。子ども達はいいかげん帰って寝なさいって。でも、一眠りしたら第二回戦よ! スグ助けるから、待ってなさいよ慶一!」
そう言って一子は自分の部屋へと戻っていった。
一子が去った居間では、なんとも言えない微妙な空気が流れる。
「慶一が帰ってきてることに、まったく気付いてないけどいいのか?」
「いいんだよ。角煮の入った鍋まで持って行ってんだろ? どう考えても不味くなってる。中途半端な状態だと固くなったままだからな。一子が次に帰って来る頃までには、新しいのを煮るつもりだから、それまでは忘れて戦っててくれると助かる。そういえば、百代もファミリーの皆と一緒にいたんだよな? なんで一人で九鬼ビルの中に入ってたんだ?」
「ドラゴンを倒して囚われの姫を助けるのは一人じゃないとな。昔のゲームでもあっただろう?」
「……あそこにはドラゴンが腐るほどいるけどな。つーかアレは、ドラゴンがドラゴンを倒すゲームでもねぇよ」
「囚われの姫の方を否定しないとは図々しい奴だな……」