穏やかな月夜の晩に男が馬に乗って駆けていた。春の終わりの夜空の下、馬の荒い鼻息にも劣らぬほど、男の息も焦燥に喘いでいる。男はフラルダリウスの密偵である。彼は王都フェルディアの急報を、主であるフラルダリウス公へ伝えるため、己の体力も馬の余力も考え無しに走っていた。
彼の携える急報は、本来なら一介の兵に扮した密偵などより、更に正式な使者の手で伝えられるべき報せのはずだった。だが彼が潜んでいた王城に、その報せを精力的に伝えようとする者はもういなかった。
故に男は努めて、己が密偵であることを気取られぬよう、しばしの暇を貰った。そして自分と同じく、フェルディア市街に潜んでいた同胞らにもその報せを伝え、各々を王国東部の有力者の元へと走らせた。
フラルダリウスの邸はもうすぐそこだ。男は馬の臀に鞭を入れ、無理やり脚を急かしに急かす。彼の乗る馬は共に王都を発った馬ではない。その時の馬は、彼の焦りと怒りと無念の速度に付いていけずに死んでしまった。今跨っている馬は道すがらに見かけた農家から、持ち得る金銭全てと引き換えに手にした、大した脚を持たない馬だった。それでも人の足より四つ足の獣は速い。彼は農馬であったはずの馬を急かし続けた。
そうしてようやく、彼がフラルダリウス邸に転がり込んだ時、馬は遂に臨時の主を背から落とし、男は大地に転げ伏した。寂光の夜に似合わぬ嘶きで、邸から使用人らが何事かと出てくた。駆け寄る彼らに男は縋り付き「公を、フラルダリウス公を」と、必死の形相で訴える。
大事の予感に使用人らは主を呼びに走った。そんな彼らの声に主たる公爵が応えるのは早く、彼は立ち上がることも出来ない男を労わり、目線を合わせて何事かと問うた。肩で息をする男はなんとか顔を上げ、声を絞り出そうと全身に力を込めた。
王都を発って幾日経ったか、彼にはもう分からなかった。フラルダリウスへと駆けるその間、彼は何度日が沈み月が昇ったのかなど気にも留めず、休むことも食事を摂ることも、水を飲むことすら忘れていた。乾ききった喉に僅かな唾液を流し込み、男は心からの怒りをもって声を出す。
「ディミトリ王子が、処断されたとのことです」
それだけ言うと、彼は王都ですら流さなかった涙をぼたぼたと垂らして、言葉にならない叫びをあげた。
軽やかなで横柄な足音が、フェルディア城内の回廊を叩いている。何者をも恐れぬ足音の主は浅葱の剣士だ。彼は身分に似合わず供の一人も付けていない。その堂々たる姿を見た兵士たちは、ひそひそと耳打ちをし合った。
「フラルダリウスだ。まだ応えを出していないのに、また何をしに来たのか」
その囁きは剣士を非難するというより、哀れみ半分呆れ半分といった色である。浅葱の剣士、フェリクスはそんな彼らの顔に一瞥もくれなかった。その代わりに彼は、窓の外や兵の携える武具、そしてブレーダッドの王旗が撤去された壁を、目に焼きつけるように見て歩く。
彼がこうしてこの城を訪れるようになったのはごく最近のことだ。昔は彼の父が城へと公務に赴く度に、駄々を捏ねて共に此処へ来たものだった。しかし三年前、西方征伐に従軍した時を最後に、フェリクスが好んでフェルディアに来ることは無い。
加えて城住まいというわけでもなし、彼はこの城の全てを知っているわけではなかった。これまで彼は、罪人の座する独房とは無縁であったし、要人を逃がすための隠し通路の存在などは、考えたこともなかった。フェリクスの足が知るのは、過去にディミトリ達と小走りに駆けた騎士の間や厩舎といった、匿す必要も無い場所のみである。
彼の足は記憶しているそれらの道々を歩く。そして目に見える物全てを頭に叩き込み、彼はこの城が己の知るフェルディア城とは異なる、偽王の根城であることに苛立ちを募らせていた。
アドラステア帝国が大陸全土へ宣戦布告をしてより約六節、フェルディアの玉座は空のままどころか、大陸の地図からはファーガス神聖王国の名が消えてしまった。
自らの叔父であり摂政であり、唯一の肉親であった大公リュファスを殺した罪で、ディミトリが処断された。そんなふざけた話をフェリクスが聞いたのは四節ほど前、竪琴の節の終わり、ようやく畑に作付けの終わった頃だった。
忙しない時期であった。近い未来に来るであろう帝国軍を迎撃する軍備、そしてディミトリを正式な王として迎えるための戴冠の支度。王城だけでなく、王国中が目まぐるしく働き続けていた時期だった。そんな最中に王子が冒した罪状と、その罪によって王子が処刑されたなどという急報が、よりにもよって同じ日にフラルダリウスに届けられたのである。
ブレーダッドという王家の血筋が絶えた。その報せだけで彼らの顔は真っ青になった。しかし蒼白になった彼らの顔は、祖国が「ファーガス公国」なる偽政に塗り替えられたことで、怒りの赤へとすぐさま変わった。
どんな手を使ったのか、はたまた元から計画していたのか。王都ではコルネリアが早々と実権を握り、王なき国を取り纏めると嘯き、ファーガス公として君臨したのだ。
そんな錯綜した急報に急報が続いた時の、フェリクスの心情は筆舌に尽くし難い。報せを耳にした当初、彼は無言のまま剣を片手に馬に跨り、一人フェルディアへと走り出そうとした。その直情的な行動は、幾人かの臣下が身を呈して引き留め終わったものの、彼の義憤が収まることはなかった。
それに対し、彼の父であるロドリグは冷静であった。寝耳に水な凶報に、彼も少しは言葉を詰まらせる様子を見せたが、公爵の口はその場で騒ぎ立てることはなかった。ロドリグがしたことは、ただ王都とゴーティエ家それぞれに遣いを走らせたことだけである。
王家を皆殺しにされたうえ、祖国すら無きものにされ何故平静を保てるのか。フェリクスはそのように憤慨していたが、ロドリグは走らせた遣いが帰ってくるまで
「まあ待て。これは下手に動けばこちらも頭から食われるぞ」
と言って、息子を宥めすばかりであった。
しかし「鍛錬だけは手を抜くな」と、彼はフェリクスだけでなく、フラルダリウスの兵全てに戦の臭い漂う指示も下した。遣いが帰還するまでの数日間、ロドリグが無言のまま何か思索にふける一方で、フェリクスは焦燥と苛立ちに唇を噛み、まるで鬱憤を晴らすかのように剣の鍛錬に勤しんだ。
たった数日を鍛錬に費やしただけだというに、永遠にも感じられるほどの長い時間であった。そして待ちわびた遣いがようよう帰ると、ロドリグは遣いの語った新たな報せに、珍しく息子とよく似た舌打ちを漏らした。
ファーガス公国はアドラステア帝国に降り、自治権を得るため近々帝国と会談を行う。これに賛同しかねる諸侯は、公国及び帝国への反乱分子と見なし征伐に乗り出す。各諸侯はそれを踏まえた上で、公国という新体制に賛同するか否か、フェルディアまで遣いを寄越されたし。
概ねそんな内容の報せだった。早すぎると誰しもが思った。同じ報せはゴーティエにもガラテアにも、西のローべにも伝わっているのだろう。
案の定、その更に数日後にはゴーティエへやっていた遣いが帰り、かの家が早々と「公国など認めるに能わず」と抗戦の宣言を出したと伝えた。
「親父殿、まさかゴーティエが抗戦するという中で、フラルダリウスが公国共に恭順するとは言うまいな?」
「愚問だ。が、しかしその前にコルネリアに聞かねばならんことが山ほどある」
フェリクスは既に王都に剣を向ける凄みを放っていたが、ロドリグはどこか挑戦的な笑みを浮かべるばかりで、実力行使にはまだ遠いことを仄めかす。
そしてその後、ロドリグは再び王都へと遣いを飛ばしたが、遣いに持たせた書簡には公国への賛同も反抗の宣言も書かれてはいなかった。現状中立。フラルダリウスはゴーティエと密書を交わしながら、のらりくらりと公国への応えを出さないままでいる。
そうして中立を保ち続け四節が過ぎた今、フェリクスはロドリグと共に、フェルディアへとやって来ている。フラルダリウス家のこの登城は今日が初めてではない。中立の立場を求める書簡を公国に出して以降、少なくとも一節につき一度、フラルダリウスはフェルディア城にコルネリアとの「会談」のために訪れている。
しかし、会談と言ってもそれは舌戦とは到底言い難い。ロドリグの問に対し、コルネリアが嘲笑と共に答えにならない答えを寄越す。それはさながら子供の喧嘩のようだった。ロドリグの問いは、各諸侯に伝達も無しに王子を処刑するとは何事か、という追求から始まり
「大公殿は何処でどう亡くなられたのか」
「王子の首を刎ねたのなら死体を見せてはもらえないか」
「公国発足とはどういう了見なのか」
「帝国への従属なぞいつ決定したのだ」
と、終わることを知らないようだった。コルネリアをそのように問い詰めるロドリグは、顔付きこそ穏やかで飄々としていたが、声はいつもより多少荒っぽいものだった。
城内を一通りぐるりと歩いて回ったフェリクスは、会談の行われている執務室前へと戻って来た。そして扉横の壁に苛立ちをぶつけるように、彼はどかりと背を預けて腕組みしながら耳を欹てる。
部屋と回廊を隔てる扉と壁は厚く、室内で話される会話などろくに聞こえたものでは無い。しかしそれでも、時折語気を荒らげたロドリグの声と、狂ったようなコルネリアの高笑いが伝わってくる。
フェリクスは僅かに耳に入るそれらの声を聞いて、城内に入ってからこのかた、何度目になるか分からない舌打ちをした。文官や衛兵は訝し気な目を寄越しながらフェリクスの前を通って行く。それらの目を全て無視しながら、彼は無味な会談が終わるのを待っていた。
この何度目になるのか分からないコルネリアとの会談に、フェリクスはいい加減嫌気がさしていた。彼の本心は、ディミトリ処断の急報を聞いた時から変わっていない。さっさとゴーティエと同じように抗戦の意を示し、ファーガス公国などという偽旗を一刀両断したい思いだ。
だが彼は多少衝動的な気質はあれど、考え無しに剣を向けるほど愚かでもない。定期的に行われる「会談」には、コルネリアに疑念をぶつける以外の目的があり、それが完遂されるまで彼は唇を噛み切ろうと耐えねばならない。
フラルダリウスは王家の盾として優秀な騎士団を有している。しかし、スレンという外敵に睨みを利かせるゴーティエに比べ、フラルダリウスは突然の有事への備えは薄かった。故に彼らは表向きの中立を保ち、軍備を押し進めている最中である。
自身が紋章持ちの家系であることを脅威として掲げ、定期的な会談を行うことで時間を稼ぐ。これは紋章も遺産も持たない家には、真似の出来ない立ち回りであった。事実、帝国という後ろ盾を得た公国相手に、紋章も遺産も持たない西部の諸侯の多くは、戦わずして公国へ賛同を示している。そして抗戦の意を示した諸侯も、太刀打ちの出来ない兵を送られ、今まさに征伐されようとしていた。
西部が完全に公国に取り込まれるのは最早時間の問題である。公国は征し易い西部の平定を優先しているらしく、東部のゴーティエに踏み込む軍靴の数は、今のところそう多くはないそうだ。だがその戦況も、西部の平定が終われば変わるに違いない。その時までに、フラルダリウスはゴーティエと共闘するべく、抗戦の宣言を挙げなければならなかった。
残された時間は少ない。そんな彼らが未だ中立に甘んじているのは、英雄の遺産アラドヴァル奪還の目的を果たすためである。あの王家の象徴たる槍を、いつか帰ってくるだろう正統な王へと渡すため、彼らは中立という歯痒い立場を取り続け、奪還の機会を虎視眈々と窺っていた。
ディミトリが処断されたという話を、彼らは端から信じてなどいない。大公リュファスの暗殺を伝え来たのはコルネリアの手の者だったが、同じ日にディミトリ処断の報せを伝えに来たのは、ロドリグの放っていた密偵であった。
優秀なその密偵は、ダスカーの悲劇で先王が崩御した後、ロドリグが万が一のためとフェルディアに潜ませていた密偵の一人である。彼は春の終わりのあの頃に、怒りと屈辱に涙を零しながら自身の知る情報の全てを語った。
その嘆きの報告に一時、邸は騒然となるばかりであったが、実際ロドリグがコルネリアに詰めよってみたところ、王子の死というものに信憑性など爪の先ほども無かった。しかし、コルネリアを筆頭に公国が成立し、ディミトリという王になるべき青年の行方が知れないことは、残酷な事実として成立している。
死体のない王子の死。そんなものを前にして忠臣たる彼らが成すべきこととは、主の生還を信じ、その日の為の膳立てをすることのみである。
しかし、アラドヴァルの所在は早々知り得るものではない。曲がりなりにも、かの神槍は王家の所有物であり、易々盗み出せる場所に鎮座しているわけもなかった。
そして、フェルディア城にあると思しきそれを捜索するに、フラルダリウスは少なくとも中立であらねばならない。仮に、公国に真っ向から敵対の目を向けていたら、フェルディアを歩き回るどころか、ブレーダッド領内に入る事すら困難になろう。
アラドヴァルを奪還するのが先か、王国西部が陥落しゴーティエに数多の兵がなだれ込むのが先か。
時間との勝負にフェリクスは痺れを切らし、己が探すと言わんばかりにロドリグと連れ立ち、三年ぶりに城へと足を向けるようになった次第だ。しかし、苛立ちと共に城内を見て分かった事と言えば、ブレーダッドという王家の痕跡が城から消えたことくらいだった。
アラドヴァルの所在も分からず、そんな城の有様を見せつけられて、彼の苛立ちにはむず痒い無力感が加わった。フェリクスのもたれ掛かる壁向こうでは、相変わらずロドリグとコルネリアのやり取りが続いている。
この時間稼ぎも徒労に終わるのではないかと思うと、十八年の人生全てに奇妙な疑問符が浮かんでしまう。それは絶望が頭をちらつく感覚とよく似ていた。
慣れぬ感傷に浸っていると突然、扉の向こうからドンと机を叩く音がした。今度は何だとフェリクスはため息を吐き、諦観の色を湛えた目で窓の外を見やった。
扉前の、広い窓からは城門前の光景がよく見えた。初冬の澄んだ空気は城門の更にその向こう、フェルディア市街の風景も送ってきている。遠くの市街は真昼の大通りの割に人が少なく淋しげだ。
公国という新体制に納得のいかない市民が暴動を起こした。そんな話を耳にしていたフェリクスは、そのうらびれた王都の姿に納得してしまう。ふと、目線を市街から城門へ向けると、そこには重々しい馬車が二台止まっていた。彼は何となくそれを目に留め、窓へと近づきよくよくその馬車を睨みつける。
ろくな装飾もない、剥き出しの鉄と木で出来ているそれは、公開処刑をされるような大罪人を速やかに、確実に輸送するためのものだった。
かつてのファーガス神聖王国では、その馬車が使われるということは殆ど無かった。しかしコルネリアを頭目に置いて以降、公国の意に背いた名高い諸侯の幾人かが、見せしめとして市民の眼前で処刑されたらしい。
そんな痛ましい生贄がまたやってきたのだろうか。フェリクスは勘ぐりながら馬車を見つめてみるが、そこから人が出てくることはない。それに周囲にいる兵もごく僅かで、到底罪人を輸送してきた前後とも思えない。どことなく不審げな、その二台の馬車から目を離せないでいると、背後の執務室から扉の開く音がした。
「あら、フラルダリウスの次男坊じゃない。貴方も来てらしたのねぇ」
何処となく厭味ったらしい女の声が、フェリクスの耳に突き刺さる。それは今フェリクスが最も嫌悪する女のもので、応答するために彼は静かに呼吸を整える必要があった。
「ご機嫌麗しゅう、コルネリア殿。いえ、今はファーガス公とお呼びすべきでしょうか」
「どちらでも構わないわよ。それにしても、公国に賛同するかどうかの応えも出さずに親子揃って出向くなんて。暇を持て余しているのかしら」
コルネリアはまるで挑発するようにせせら笑っている。その顔の両隣には近衛兵が並び立ち、威圧するようにフェリクスの顔を睨みつけていた。
それら三者を前にして、彼は頭に血が上っていくのを感じた。しかし、ここでこの女や近衛に斬りかかりでもしたらどうなるか。それを考えられないほどの激情ではない。それ以上の屈辱を彼は既に四節味わったのだ。この場を取り繕うくらい造作もなかった。
「申し訳ございません。何分、状況が状況ですから。父も私も、納得のいかない話にはおいそれと承知できない性分でして」
彼は胸に手を当て、形ばかりの拝礼をもって謝罪の姿勢を取って見せる。だが口から放たれる言葉に、詫びや敬意を示す気配は全くない。
「ところでコルネリア殿。こうしてお声かけして頂いたのを機に、私の方からお尋ねしたいことがあるのですが」
「何かしら」
「ディミトリ殿下を処刑した、というのは真でしょうか」
「お父上から聞いてない? 本当の話よ、フラルダリウスはその話にしか興味がないの?」
「では、墓は?」
今まで一歩たりとて動かなかったフェリクスの足がコルネリアに近づいた。その動きに近衛は腰に吊るした剣へ手を伸ばしたが、抜刀はコルネリア自身の手によって静止された。一歩近づいたきり、それ以上近寄ろうとしないフェリクスに、彼女は心底愉快そうな笑みを浮かべる。まるで狐のような、人離れした笑みだった。
「王族とはいえ彼は罪人。ブレーダッド家の霊園には弔えない身だと思えません? 墓なんて聞いてどうするの」
「暴く。暴いてでも死んだかどうかを確かめる」
フェリクスの口は慇懃無礼の仮面を外した。今にも喉元に喰らいつきそうな彼の顔と言葉に、コルネリアはけたたましい笑い声を回廊中に響かせる。それまでしずしずと回廊を歩いていた兵や侍女らは、その笑い声で一斉にフェリクスとコルネリアに視線を送った。
「暴く、暴くですって! まあ恐ろしい。狸親父のガキは躾のなってねぇ猟犬か!」
普段の柔和で淑女然とした女の顔は、悪辣で俗っぽい笑い顔に変わっている。その歪な笑みのまま、コルネリアは因縁を付けるようにフェリクスの顔に近づいた。フェリクスの口が慇懃無礼の仮面を捨てたように、彼女もまたファーガス公という仮面を捨てて、腹の底の読めぬ女狐の本性を顕わにしている。
「てめぇらの可愛い殿下なんて何処探したって見つかりゃしねえよ。この城見て満足したろ? 分かったらさっさと親父と雁首揃えて応えを出しな」
「俺が見たいのはあの猪の死体だ。この城を見たところで、何の代わりにもならん」
乱雑な言葉の応酬が睨み合いと共に続いた。今すぐにでも殺し合いをしかねない、殺伐とした空気が回廊にひしひしと流れていく。しかし緊迫したその空気は、再び開いた扉の軽々しい音で破られた。
「おや、一体これは何の騒ぎですか?」
問いつつも、諍いの事実にはまるで興味のなさそうな男の声が、睨み合う二人の間に割って入った。その男、ロドリグは息子とコルネリアの顔をそれぞれ一瞥する。そして何かを察したか、理解したのか。女の方へと体を向けた彼は、フェリクスそっくりの形ばかりの拝礼をした。
「どうやら倅が失礼をしたようで」
心にもないことを、とフェリクスはそっぽを向いてコルネリアの顔から目を離す。すると彼女は歪な笑顔を淑女の顔に戻し
「いずれ家を継がせる子の躾くらい、しっかりとなさって欲しいものですわね」
と言い捨てて、フェリクスを鼻で笑いながらその場から去って行った。遠くなる女の背中はまるで勝ち誇るようで不愉快だった。フェリクスが思わず拳で壁を殴り付けると、ロドリグは諌めることなく不謹慎にも愉快そうな声色で彼に訊ねる。
「どうだ、何か収穫はあったか?」
「そんなものあるか。強いて言うならば、あの女には何を聞いても無駄だということぐらいだ」
「ははっ、それはまた大きな収穫だ」
ロドリグは声を上げて笑うが、その目は少しも細まっていない。
「親父殿はどうだ、何か収穫はあったか?」
父の言葉を皮肉っぽくなぞるフェリクスは、言葉の連なりに対して何の期待もしていなかった。
春の終わりからこの冬の始めまで、知るべき報せは全て知り、見るべき光景もこの目で見た。その上で彼は、アラドヴァル奪還の宿願は果たせないのではないかと判断し始めていた。そして同時に、あの神槍の行方も分からないままに抗戦を始める覚悟もついていた。しかし、そんなフェリクスの覚悟を他所に、ロドリグは顎髭を撫でて呑気な思案顔を見せている。
「あるにはある、が。ここで話せることではないからなぁ」
その言葉にフェリクスは床に伏せていた顔を上げ、それ以上を続けないロドリグの顔を驚いた表情で見た。彼はそんなフェリクスに対し「城を発つぞ」と目で促してくる。
親コルネリア派ばかりのこの城でそう易々と話せないこととは、彼らにとっては朗報に近しい。頷くこともないままに、フェリクスはロドリグと共に静かに回廊を歩いて行った。
「五日後、アラドヴァルを帝国へ献上すべく、アリアンロッドまで輸送するそうだ」
「コルネリアめが言ったのか」
「おう、ご丁寧に夜明け前に出ることまでお教えくださったぞ」
「どう考えても罠ではないか」
フラルダリウス領とブレーダッド領の領境で、親子二人は安宿に引きこもって密議を行っていた。
寂れた宿場に場違いな貴族然とした彼らに、安宿の主は当初、仰天して変な騒ぎが起きかけた。しかし宿の全てを貸切る金を握らせたところ、主は何かを察したらしい。「何も見聞き致しませんので」と、主は静かにそう言ったっきり、寝所に籠って出てこなくなってしまった。察しの良い男で良かったなと、ロドリグは二階の部屋に入ると何処となく物騒なことを言った。
そうして腰を落ち着けるや否や、ロドリグが語ったアラドヴァル輸送の話は、それだけ聞くとフェリクスには俄に信じ難い話であった。
ブレーダッドの血族が存在しない今、確かに公国にとってアラドヴァルという英雄の遺産は無用の長物であり、帝国へ恭順を示す手土産にはうってつけの代物だ。アリアンロッドで帝国兵へ引き渡し、その後は帝国兵の手によって、帝都アンヴァルの皇帝の下にでも捧げられるのだろう。
許し難い、とフェリクスは思う。ロドリグとてそうだろう。執務室前でフェリクスが聞いたあの殴打の音は、父が机に放った怒りの音だったのだ。
しかしあのコルネリアが、フラルダリウスの思惑に少しも気づいていないということはない。そんな話をわざわざロドリグにすること自体が奇妙な話で、奇妙であるが故にホラ話としか思えなかった。
「そうは言うがなフェリクス。時期を考えればおかしな話でもない。西部はあと少しで確実に陥落、アリアンロッド周囲は完全に公国のものとなる。加えてあと一節も経てば、この国は雪に閉ざされる。帝国に降った証としてアラドヴァルを運ぶのであれば、今を逃すと翌年まで持ち越されるだろう。私なら媚びへつらうのに時間はかけたくないがね」
「それは分かるが、それを親父殿にわざわざ話すことが分からん。仮にそれが事実だとしよう。だがアラドヴァルを輸送? どのように? 輸送に際しての兵士の数は、経路は? 事実だとしても、それ以上は何も無いではないか」
「それなのだよなぁ。密偵の報告にも、何かしらの大事の変化というものは見られぬようだし」
ようやく辿り着いた王権の断片はあまりにも抽象的で、彼らはそれを手にする算段を考えあぐねている。
ロドリグの言うことは尤もだったが、フェリクスの言うように、この話がフラルダリウスを始めとする反乱分子を炙り出すための、ただの罠である可能性は非常に大きい。信憑性の薄い話を鵜呑みにし、虎穴に入るだけの徒労に終わっては何の意味も無い。それに奪還の計画を立てようにも材料は少なく、また事を起こす引き金も弱すぎた。
「フェリクス、お前は本当に何も収穫はないのか。些細なことでも何でも?」
「そうはいうがな…」
フェリクスはこめかみに指を当て、昼間歩いた城の光景を脳裏に流す。騎士の間、厩舎、兵士の携える武具、ブレーダッドの王旗が撤去され尽くした壁。そして、城の前に止まっていた不審なあれ等、罪人のための堅牢な馬車。
眉間に皺を寄せ続けていたフェリクスの目が大きく開かれた。
「親父殿、報告の中に最近捕らえられた名士の話などはあるか。処刑の予定、首切り人の噂、そういったものでもいい。何かあるか」
突然、矢継ぎ早に身を乗り出して聞いてくるフェリクスに、彼の父も大きく目を見開いた。
「藪から棒にどうした。そんな報告は受けていないが」
フェリクスはあの重々しく、不自然に停められた馬車の内部を思う。罪人を乗せ、それを見張る看守も乗せるあの馬車は、規格以上の広々とした椅子を持っているだろう。アラドヴァル一つ仕舞う事など造作もない。なんと都合のいい馬車か。
「…馬車だ。罪人用のあの馬車。それも二台。恐らく片方は囮、もう片方が」
「我らの本命、アラドヴァルが乗るものか」
積み木の城が出来上がったように何かの符号が合致して、二人の目の色は猟犬のそれに変わった。
二台も用意して全てがホラということはあるまい
アリアンロッドまでの最短路なら西の正門だ
裏を読み、囮も発たせるならば南門も有り得る
二手に分かれ小隊を組む。持久戦に持ち込ませない編成で
夜半より待ち構えよう。西も南も都合良い丘がある
相手の兵力をどう思う?
精鋭揃い。だが恐らく、少数。西部にも東部にも兵を割いているのだから
こちらの装備、兵については
邸から選りすぐりの兵を。防具は我らと分からぬ出で立ちの物を、武具は我らの業物を
水を得た魚だ。疑わしげだったアラドヴァル輸送の話は、乗る罪人も乗せられていた罪人もなしに用意された馬車により、行動に移すほどの真実性を纏いだした。
コルネリアがフラルダリウスを、明確な反乱分子として釣りだそうとしているのも、また確実だろう。だがファーガス建国以来、王に侍った彼らはいずれ女狐に牙を向ける気でいるのだ。これがたとえ罠であったとしても、王の手で輝くべきあの槍を取り戻せる可能性が出て来たならば、もはや躊躇う必要はどこにも無い。
「弓の達者な者を選りすぐるべきだな。馬上でも射られるような」
ついさっきまで、空のテーブルの前で腕組みしていた二人は、今や地図を広げ紙とインクを転がし硬貨を兵駒に見立て、目を爛々とさせながらも静かに強襲の計画を立てていた。
ロドリグの右手は邸に居る兵の名前を書き連ねている。全ての顔と名前を覚えているわけではなかったが、フェリクスはそこに名の連ねられる戦士たちが、弓術と馬術に特に優れた精鋭達であることを知っていた。
「馬はどうする? あの馬車、さほど速くは無いが堅い上に重い。並の馬では追いつくことは出来ようとも、すぐに跳ね除けられてもおかしくは無いぞ」
曲がりなりにも帝国への献上品としてのアラドヴァルだ。護衛として付く公国兵は多くなかろうが、真にあの神槍を輸送するのであれば、向こうも向こうで精鋭を揃えてくるに違い。
その精鋭達が馬を駆け槍を振りかざす中、きっとあの馬車を引く馬車馬は雪原の上で暴れ狂い、重々しい車体を揺らしに揺らすだろう。そんな大猪のような馬車を恐れず、多少ぶつかろうとも倒れず、そして追いかけ続けられる駿馬など、フラルダリウスではそう易々とは揃わない。
「そうさな、出し惜しみしても仕方ない。ゴーティエから送られてきたあれを使うとしよう」
ロドリグは羽根ペンを置き、戦士達の名の書かれたそれに封蝋を押すと、廊下に待たせていたフラルダリウス兵に持たせた。そして、その兵がフラルダリウスの邸に、待ちわびた武の始まりを伝えるのにそう時間は掛からなかった。
王国最北の地ゴーティエ領では、太く頑強な良馬がよく育つ。それらの馬は重い雪を豪快に散らし押し退け、そのうえ寒さの中でも病に倒れにくい。ゴーティエが二百余年、スレンと争い続けられた理由として、その馬の存在は大きなものだ。
その代わり、ゴーティエには駿馬に見合う武具を揃える手立てがなかった。
良質な鉄を蓄える鉱山そのものは存在している。しかし鍛冶師垂涎のその山は、スレンとゴーティエの所領を股に掛ける、まさに国境そのものでもあった。停戦してからも緊張感の残り続ける中、そんな国境に好んで近づく者はほとんど居ない。勇猛果敢に敵陣へ突き進む脚には事欠かずとも、敵影を打ち破る刃は全く足りていなかった。
対して、ゴーティエと隣り合わせに接するフラルダリウスでは、硬く鋭く、刃毀れしにくい武具が多く鍛えられていた。
スレンとゴーティエの境目に聳える、鉄を蓄えた連峰は大河に繋がっている。そしてその川は膠着している二つの勢力、どちらも干渉できない砂鉄流るる川だった。川の下流はフラルダリウス領に通じ、流水は鶴橋一つ入れられない鉱山から、良質な砂鉄をフラルダリウスへ運んで来る。国の祭事に捧げる剣も、現フラルダリウス当主が掲げる槍も、この砂鉄とフラルダリウスお抱えの鍛冶師が鍛えたものだ。
業物欲しくばフラルダリウスを訪れろ。各地を転戦する傭兵たちすら、口々にそう噂するほどだ。隣合った二つの領地は、それぞれそんな異なる特産品を有している。
武器を得る代わりに自領の駿馬を、駿馬の代わりに自領の業物をと、フラルダリウスとゴーティエが、お互い求めるものを援助し合うようになったのは、ごくごく自然な話だったのかもしれない。
そんな相互支援の関わり合いを持つようになって、かれこれ百年以上が経っているらしい。ことの始まりは、国として共通の夷狄であるスレンへ対抗するための相互支援であった。だがいつしかそれは、両家揃って王家へ仕え続ける友誼の証へと形を変えていった。
故にスレンという脅威が鳴りを潜めようとも、ゴーティエとフラルダリウスは年に一度、その年最良の馬と最上の剣を献上し合うことを慣習としている。
そのゴーティエの強く荒々しい馬たちが、騎り手と共にブレーダッド領の西の丘から、王都フェルディアを見下ろしている。
それらの馬は雪の気配も無い一節ほど前、ゴーティエからフラルダリウスへと、援軍代わりに送られてきたものだ。馬達は時折ぶるりと首を振るわせ、顔へと落ちた雪を払い除けている。そして、馬上では賊のような風体をした男らが、雪の降る空の下でただただじっと、王都の門より出ずる影を待っていた。
この国の夜は冬になればなるほど長い。夜明け前というのを、果たしていつと捉えればいいのか分からない。しかし、彼らは未だ一条の陽も差さない寒空の下で、微動だにせず獲物を待ち続けている。
初冬の雪はハラハラと散り、彼らの被る狐の毛皮で出来た厚い帽子を白くする。口元まで覆う襟巻きは彼らの顔を隠している。丁寧に鞣された牛革製の防具の数々は、彼らの所属を隠している。彼らが腰や背に差した武器には、銘も紋も刻まれてはいない。だが数本の松明と雪明りしかない夜闇でも光る、その鋭利な輝きはまさに、フラルダリウスで鍛えられた白刃であった。
彼らの先頭に立つ男もまた、同じ身なりをしている。男の目へ、額に落ちた雪が水滴となって垂れた。しかし彼の目は瞬きもせずに王都の正門を凝視している。
「来た」
男、フェリクスの口が静かに、それでいて鋭く開いた。降り積もる雪に飲み込まれてしまいそうな、その小さな声を聞き逃す薄鈍はここにはいない。彼らはフェリクスの声に言葉もなく応じ、馬の歩を僅かに進めて真一文字の隊列を作った。
目下には確かに、五日前フェリクスの見た件の馬車が一台、騎兵に囲まれて仰々しく王都の門より姿を現していた。もう一台は何処であるか。それは恐らく、ロドリグ率いる小隊が待ち構える、南門から出てきているのだろう。
フェリクスの目に映るあの馬車に、彼の求める槍が鎮座しているかどうか。それは、開けてみなければ分からない。
騎馬隊に連れられた馬車は平原を優雅に歩き、彼らの佇む丘の近くまで近づいて来た。それを見下ろすフェリクスの胸中は、己で想像していたよりもずっと冷静であった。
彼は右手を上げる。すると背後にいた賊のような風体の、忠実なフラルダリウス兵たちが松明を変造させた矢に火をつけ、その火矢が何本も弓に番えられた。
悠然と闊歩する公国兵と、丘上彼らの距離は決して近くはない。しかし狙撃に適した、しなやかで強靭な弓を持つ彼らは弓の名手である。この矢を撃ち込めば、間違いなく一矢はあの呑気な馬車に当たり、公国兵は突然の火熱に急襲を知るだろう。
その機を決めるのはフェリクスの口に任されている。
松明を掲げていた兵たちは、無用となったそれを雪原の上に落とした。火矢以外の余計な灯火が潔い音を立てて消える。フェリクスは鹿の角で出来た、小さく細い笛を口端に咥えると、他の兵達と同じように襟巻きで口元を覆った。
「放て」
くぐもってはいたが、開戦の合図に十分な声だった。フェリクスの言葉とほぼ同時に、馬車に目掛けて火矢が飛ぶ。そしてその矢が命中するよりも速く、フェリクスを筆頭にフラルダリウスの兵団が、鬨の声も無しに一斉に丘を駆け下りだした。
真一文字の隊列を崩さぬまま、猛然と風と雪を切り割き迫る彼らの馬脚は、火矢も追い越すのもやぶさかでは無いという勢いだ。蹄の迫る音と共に、馬車という彼らの獲物に三本の火が突き刺さる。
「西の方角、敵襲!」
公国兵の反応は早かった。馬車を引く馬と共に、彼奴等の軍馬が歩幅も大きく速さを増した。馬車を先へ向かわせるべく馬の速度を上げながら、彼らは急襲を迎え撃つべく馬車の右翼に騎馬を集中させていく。
フェリクスは咥えていた笛に息を吹き込んだ。鳶の鳴き声のような音が雪中に鳴り響く。そして、その音を聞いたフラルダリウス兵らは真一文字に敷いた隊列を、まるで魚鱗のような、あるいは剣の切っ先のような陣形に変えてゆき、分厚い公国兵の右翼に切り込んだ。その瞬間、或るフラルダリウス兵の一人が、特別のろまな公国兵の一人を厚い刀身で叩き斬る。
彼らの狩りが始まった。
なんという荒馬だ。フェリクスは平野まで駆け抜けながらそう思った。優れた身体を持つゴーティエの名馬は、その体躯に相応しい豪快すぎる蹄で騎り手を揺らしに揺らす。
こんな馬上で口煩い指揮を飛ばし続けたら舌を噛みちぎってしまうだろう。少しでも手綱から意識を離そうものなら、気性の激しい馬の鼻面は騎り手に叛逆するだろう。鞍を挟む内腿に普段の何倍もの力を込めて、彼は上等なその荒馬を御し続ける。
フェリクスの呼子笛に従うフラルダリウス兵らも同じだろう。しかし優秀な馬騎りである彼らは、一糸乱れぬ動きで陣形を保ち続けている。
公国兵らは彼らの成りを目視して、所詮賊の襲撃だろうと侮っていたらしい。しかし彼らを迎え撃った公国兵は、数度刃を交わしてその練度に危惧を抱き、不気味なまでに統率の取れた陣形に驚愕し、襲い掛かるこの男らが何処ぞの騎士であることにすぐさま気づいた。
「速度を上げろ! 相手にするな!」
馬車の前方を走る隊長と思しき男が叫んだ。公国兵らは謎の猛者達を振り切るべく、馬の腹を大仰に蹴る。彼らも彼らで馬力のある馬を揃えたらしい。
フラルダリウスを後目に置くことを決めた彼らは、迎撃ではなく逃走を優先した。公国とフラルダリウスの馬に僅かな距離が生まれる。
『飲み込んでしまえ』
フェリクスは再び鋭い鳶の笛を、今度は短く二回と伸びやかに一回鳴らした。すると、獲物を切り裂く剣の陣形が、公国兵を追いながらもじわじわと、そして急速に形を変えていった。それは公国兵共を飲み込まんとする、口を開いた狼のような陣形である。
フェリクスはその陣の左翼先頭を駆けていた。戦術の基礎として知られるその陣形は、本来ならば指揮官を後方中心に据えるものだ。故に隊を率いるフェリクス自身が、左翼先陣に位置することは例外中の例外である。
フェリクスは兵を率いて指揮することを得意としていない。しかし、彼のその不得手をより正確に言うならば、それは間怠こしさから来る嫌悪感だ。他者に命令を下した所で、それが自身の理想通り動くことなどそうそうない。
彼はそれを疎んでいる。それならば単独で戦場を駆け巡っては敵将に挑み掛かり、敗北したとて己の未熟を恨んだ方が好ましい。だが、さながら己の手足のように自在に動き、どんな司令も無茶と喚かず実行する兵なら話は別だ。
自分は常に先陣を切る。出撃前にそう言った彼は、一人として異を唱えずに「応」と返したフラルダリウス兵ならばと、こうして隊を率いている。
笛の音一つで陣を変え、常に大将を前へ走らせ、各々邪魔者に槍を掲げ剣を薙ぎ弓を引き絞り馬体をぶつけ、フラルダリウス兵らは着実に敵影を散らしていく。そんな彼らは今やフェリクスの手足同然だった。
雪原を走る馬車と並走するその時まで、フェリクスは剣の一本も弓の一矢も引かずに走り続けた。彼がそうして無味に得物を引き抜かずに済んだのは、忠実で勇猛なフラルダリウス兵達の功績である。
そうして彼らは、フェリクスの目が御者を捉えるところまで公国兵を取り囲んだ。馬車は猛追してくる狩人から逃れようと、太い車輪を唸らせながら走り続けている。
御者を凝視したフェリクスは、あらん限りの力を下肢に込めて弓を構えた。先刻よりも強くなった雪と、馬車に射た火矢の火の粉が眼前を通っていく。火矢は獲物を燃やし尽くすものではない。夜明ける刻まで獲物を逃さぬための標である。
フェリクスの前方には馬車と並走する一騎の公国兵が駆けていた。しかしそれよりも何よりも、彼は火灯を当てに御者の背中を狙う。御者という手繰り手を失った馬達は、きっと訳もわからず暴れ狂い、重量のある馬車に引き摺られ横転するだろう。
ところが、彼が引き絞った矢を自由にしてやろうとしたその時に、突然馬車の扉が開かれて御者という的が遮られた。悔しそうにフェリクスは眉を顰める。だが苛立ちに細まった目は、馬車から上体を覗かせる兵の手中を見て一気に瞠目した。
それは深い青の天鵞絨に覆われている。そして天鵞絨からは、乳白色の矛先が微かに確かに顔を覗かせている。
渇望した王権の断片、アラドヴァルが目と鼻の先にあった。本命を引き当てた動揺と狂喜に心が震え、彼の体からほんの一瞬気が抜ける。その一瞬の内、天鵞絨に包まれたアラドヴァルが、フェリクスの前方を走っていた公国兵へと放り投げられた。
それを受け取った騎兵は幾人かの騎兵を引き連れ、馬車を捨て置くように速度を上げる。フェリクスは己の粗略に歯噛みをし、弓を構えた手に再び力を込めた。
その時、一陣の向かい風が雪と共に彼の顔を打ち、風は彼の帽子を彼方へ飛ばし、口元を覆う襟巻を顎下まで落としてしまった。未だ笛を咥える口と、フラルダリウスの群青の髪が冬天の下に露わになる。
「フラルダリウスか!」
耳にうるさい蹄と車輪の音の中でも、自らの家の名を憎々しげに叫ぶ声はよく聞こえた。フェリクスは返事代わりに笛を吐き捨て、馬車から顔を出す叛徒を即座に射殺した。
「左翼三騎、続け!」
フェリクスは馬車を置いて過ぎ去ろうとする、五騎の騎馬を目視し叫んだ。振り向かずとも分かる。五騎の公国兵を追う彼の後ろには、三騎のフラルダリウス兵がしっかりと追従している。
守るべき馬車という重荷を外した彼奴等は疾い。重い馬車の速度は彼らの跨る軍馬にとって、些か生ぬるいものだったらしい。先程とは比べ物にならない速さで駆ける敵の軍馬に、フェリクスは少し感心すらした。
だが未だ鞭も入れられていないゴーティエの駿馬と較べれば、あれらの軍馬は鈍間で柔い。追い立て続けたなら、いずれ公国の軍馬はゴーティエのそれより早くに力尽きるだろう。
しかし、フェリクス達はこの狩りを長々続ける気は端から無かった。西のアリアンロッドに近づけば近づくほどに、公国の援軍なぞが来る可能性は高くなる。王国の西部は最早、そんな手筈が整えられていてもおかしくない状況なのだ。
ブレーダッド領西端に掛かる大河。フェリクス達はそこへ到ってしまう前に、何としてでもアラドヴァルを奪還する目論見でいた。
彼らの狙う青の神槍は、いつの間にか最前を走る隊長格の男が握っていた。それより後ろにいるのは蠅のようなお供に過ぎない。だが向かい風はフェリクス達の味方をしなかった。あれ等を射抜こうにも、その自然の掟が弓矢の邪魔をする。ならばと彼は右手を前にし、後方の三騎を促した。
『先んじて虫を始末しろ』
凡そそんな指示だった。無言のそれに、フラルダリウス兵らは無言のまま彼の前へと躍り出て、一人の兵士が蠅へと鋭利な槍を穿った。それを機にして、複数の馬脚が飛沫のように雪原を荒らし始める。
その乱闘を確認したフェリクスはようやく背中の剣を抜いた。そして彼は闘争の音を無視して駆ける男の方へ、回り込むように馬の脚を変えてゆく。
走り続ける騎馬は遂に二頭のみだ。一頭はアラドヴァルを携える公国兵を乗せ、もう一頭は剣を片手にそれを追いかけるフェリクスを乗せ、二頭の馬が傾らかな斜面を駆け登る。普段持つ剣より刃渡りの長い、騎馬用に拵えられた剣を構えながら、フェリクスは着々と公国兵との距離を詰めていく。
この追走劇が一体何処で行われているのか。フェリクスはもう把握しきれていない。だが白みだした空は雪雲をすり抜けた陽光を届け、眼前の雪原にはうっすら彼の影が映されていた。
馬の鼻面は未だ西を向いている。彼らは東を背にしている。公国兵は西へと逃走劇を続けている。この丘陵を登りきった瞬間こそ、片を付けるべきだ。斜度に従い、転げ落ちられてしまっては面倒だ。フェリクスは非常に冷静だった。もし、アラドヴァルを無傷で手に入れられるならば、彼は極力無傷が良かった。
前を駆ける男の馬が、フェリクスの視界からふっと消えた。傾斜路の終わりだ。フェリクスはそこで駿馬の腹を蹴る。荒々しくも賢い馬は瞬時にその脚を速くした。何の為にフラルダリウスが鉄を捨てて革の守りなど選んだか。それは駿馬の背を軽くしてやるためだ。太く機敏な脚を殺さぬためだ。
丘に上がりきったその時に、フェリクスの剣の間合いが遂に公国兵へと届いた。丘陵上はまた平野で、フェリクスは敵兵の馬を臀から胴へとすり抜けざまに切り裂いた。
落馬した男は無我夢中で、林の中を自らの足で走っていた。昔は街道の一つだったのだろう。丘陵上には断続的に林がぽつぽつ伸びていて、その中へと逃げてしまえば、馬の脚では追いかけられなかった。
それでも、青い天鵞絨を抱えて走る男の後ろからは、二本の足で獲物を追う猟犬の駆け音が聞こえて来ている。執念深く追い続けてくる猟犬を斬ろうと、男は抱えていた献上品を左手に抱え、右手で腰の剣を振り向きざまに引き抜いた。
しかし、それは猟犬にとっては鈍ら同然である。フェリクスの一太刀により、男の剣は弾かれて早々と雪の向こうに消えてしまった。追跡者であるフェリクスの気迫に、男は足を竦ませ後ろ足にじりじりと下がってゆく。
「コルネリア殿は何も教えてくださらなかったか? 俺たちがそれを奪いにやってくると」
フェリクスは平静を努め、ゆっくりと男の足跡を辿るように近づいていく。切っ先を下に向けている剣は、いつも彼が握っている馴染みの得物だ。馬上で掲げた長剣は自らの足を走らせるには邪魔で、林に駆け込んだ際に鞘ごと捨て置いてきた。
男は後ずさりをしながらフェリクスを睨みつけている。その顔は五日前のフェルディア城で、コルネリアに詰め寄るフェリクスを牽制してきた、あの近衛の顔だった。
「お前が率いていた兵らは始末した。大勢は決した」
男の背後はまた坂道になっているようだ。積雪のせいで遠近が狂って見えている。どれほどの勾配かは分からないが、ここは山ではない。しかし大した坂でないとはいえ、落とされでもしたら厄介だ。後進する男の足が止まった。
「アラドヴァルをこちらに」
フェリクスの言葉で、男は自棄を起こしたように天鵞絨を一気に取り去りそれを構えた。乳白色の刀身と柄、赤黒い心臓のような石の嵌った神槍を、男は握りしめてフェリクスと対峙する。
「命が惜しくばそれを渡せ!」
もう大人しくなどしていられなかった。フェリクスの右足が雪を蹴り切っ先を振り上げ、公国兵の左足が雪を踏み込み矛を突き出したのは、ほぼ同時であった。
男の突き出した矛先をくぐり抜けては間合いを詰めて、フェリクスはその頭を一突きに穿とうとする。しかし、剣先が男の柔い目に食い込むより早く、男は矛先を大地に刺すとそれを軸とし跳びはねる。男の体が僅かに宙へと舞ったとき、彼はフェリクスの体をついでと言わんばかりに蹴り飛ばした。だがフェリクスの体は倒れない。よろめいたものの彼はすぐさま体勢を戻し、再び間断のなく打ち掛かられる槍の穂先を避け続けた。
男の槍の太刀筋は悪くはないが、フェリクスからしてみれば、鍛錬を怠る赤毛の幼馴染の方がまだ優っている程度に見える。だが、彼は迫るアラドヴァルを剣でいなさず避けきるばかりで、男の手から槍を弾き飛ばそうなどとはしなかった。
フェリクスはひたすらに急所ばかりを狙い続けている。もしこれが、生死に関わりのない武術大会などであったなら、観客にはフェリクスが防戦を強いられているように見えるだろう。
男に情けをかけている訳でも、手を抜いている訳でも何でもない。ただ、アラドヴァルの正当な所有者たるディミトリが居ない今、フェリクスの目にはさも、その神槍こそがディミトリ本人のように映っていた。その王権の断片を男は不遜にも振るっている。まるで人質にでも取られているような心地だった。
彼の頭はそんな妄想を鼻で笑う。しかし彼の魂は
『王の牙を傷め付ける気か』
と叫んで、フェリクスが槍に剣をぶつけることを承諾しない。ところが男の槍捌きは烏滸がましい程に鈍く、王の槍に見合わぬその鈍さに彼は思わず舌打ちをした。
長くない白兵戦の中でフェリクスは苛立ちと共に、心の奥から新たな焦りも生まれ始めていた。命が惜しくば、というのは脅しでもなんでもなく事実だ。彼の魂が叫びさえしなければ、彼は交渉紛いの言葉も無しに男を殺すつもりであったし、その上――
フェリクスは畜生と罵声を上げて、左手で鞘を引き抜き迫り来る槍先を弾いた。その衝撃で鞘は彼の手から離れ、フェリクスの持ち得る長物は右手の剣ひとつきりとなった。彼の罵声と焦りを都合よく勘違いした男は、勝利の予感ににやりと笑みを浮かべる。
しかし、勝ち誇った笑みが突如苦しげに歪んだ。口角の上がっていた口から血が迸り、アラドヴァルからは黒々とした、何か木の幹のようなものが伸び始め、それが男の右腕を包んでいく。
「そいつを離せ!」
その上、フェリクスは知っていたのだ。英雄の遺産を紋章無しに振るえばどうなるか。槍からおどろおどろしく伸びる幹は、半狂乱になっている男の右腕を包みきり、みるみるうちに肩へ胴へと侵食していく。
その幹はやがて魔獣という、頑強な肉と骨と硬い鱗を作り出すのである。一年前に見た悪夢のような、万民に秘せられた真実を知っていた上で尚、彼はアラドヴァルへ刃を向けることが出来なかった。
なんて甘い。フェリクスは己の軟弱さを罵りながら、人の姿を忘れんとする男に斬り掛かる。アラドヴァルを握っていた男の腕は、既に人のそれではなくなり始めていた。そのうえ、男を侵食するアラドヴァル自体も、黒々とした幹に飲まれようとしている。フェリクスは未だ人の形を保っている脇を狙い、下から刃を振り上げた。だが瞬時に伝わった肉の感触は、もう人の肉よりも固い。
斬れるだろうか。斬れなかったらどうすればいい。魔獣に化けられて勝てるのか。ここまで来て、わざわざ槍が潜れるのを見なければならないのか。軋めく刃と共に焦りと絶望が頭をよぎる。フェリクスのその焦燥は最早祈りであった。
すると突然、ブツリと手に伝わる肉が柔らかくなり、人を忘れだした男の肩と胴が勢いよく分かたれた。斬るというより千切るというような手応えで、逆風の太刀に敗北した肩がアラドヴァル諸共空へと舞う。
フェリクスに流れる紋章の血が彼の祈りを聞き届けたのだ。しかし感激も何も彼は覚えず、猟犬の朱華の瞳は一秒たりとて獲物から目を離さない。寸刻までの焦りも絶望も関係なくフェリクスの足が動く。落ちゆく槍は皮肉にも千切れた男の欠片を目印にして、夜明けの白んだ空でもよく目立った。そしてそれが落ちるであろう先へと、フェリクスの目線が僅かに下へとずれる。
そこは坂道だ。山岳でもなしに、異様なまでに長い坂道が続いている。彼の爪先がその斜面に踏み込んだ時、遠い坂の下から雪景色に似合わぬ小さな水流が聞こえてきた。
彼は気づいた。此処こそ、ブレーダッド領西端の大河なのだということを。そしてこの大河は遥か昔、治水事業で造られた堤防があった。馬で登ったあの勾配は、堤防へと続くそれであったのだ。そんな処まで自分は来てしまったのだ。斜面に足を踏み込ませながら、フェリクスは瞬時に、それでいてようやく全て気が付いた。
魔獣になり損ねた男の肩と共に、アラドヴァルが大河に続く坂へと落ちていく。白ばんだ空と、どこまでも続きそうな雪景色の中で、それは冗談みたいにフェリクスの目にゆっくりと映っていた。
時が緩やかに進んでいるような世界で、彼は剣を捨てひたすら脚を動かし続ける。片腕を千切った男の末路も、とどめを刺しはぐったことも全て忘れて、彼はアラドヴァルを受け止めようと一心に走り、跳躍し、手を伸ばした。
だが降り積もった雪は人の目を惑わし、足元を狂わせる。フェリクスが槍を腕に受け止めたとき、彼の体は王の槍と共に坂から転げ落ちた。
坂の上で群青の人影が木を背にして蹲っている。そのすぐ近くには、あの男の片腕が名残惜しそうに落ちていた。アラドヴァルを受け止め転がり落ちたフェリクスは、なんとか未だ生きていた。彼は堤防の樹木に背を打ち付けられることで、最悪の転落だけは免れられている。
ただ、もっと冷静にしていれば分かるはずの事だった。
未だこの地が帝国と呼ばれていた時代、建造されたこの堤防には、人為的な土石を支えるための樹木が植え付けられている。長く手入れされていなかったとはいえ、それらの根は何百年と雪解けの泥濘を支えたのだ。アラドヴァルのような長槍の一つや二つ、木々や枝に引っ掛かってもおかしくはない。
落ち着いて、引っかかったのを確認してから堤防を降りて、鏑矢か何かで人を呼んで来るのを待って、槍を運んで、また坂を登って、共に林を抜けて――
今更考えたところでタラレバ話に過ぎない。フェリクスは叱責にも似た思考を止めて、痛みに軋む体を起こして槍を見る。腕に収まった槍は、折れることも欠けることもなく無事だった。それに少し安堵して上を見ると、幸いにも彼は思っていたほど下に落ちていなかった。
斜面と平野の境には、手ぬるい槍を奮っていた男が雪を血に染めて倒れている。戻る道標にその赤はちょうど良い。
フェリクスはアラドヴァルを両手に抱え、ゆっくりと上へと歩を進める。すると体の内側から、ピキリと何かが砕けるような感覚と鋭い痛みが同時に走った。思わず指が震える。雪は既に止んでおり、彼の指が震えるのは寒さのためでなく痛みのためだ。それでも、彼の腕は決して槍を手放さない。
そこまで剣を振るった訳でもなかったが、彼の体は満身創痍だった。痛む体をゆっくりと引き摺りながら坂を登りきり、こと切れている公国兵だったモノを横目に、フェリクスはもう一度林の中へと足を踏み入れた。雪が止んだのは僥倖だ。ここに至るまでの道中として、雪原の上には二人分の足跡がしっかりと残っている。これを辿って行けば、フェリクスの乗ってきた賢い荒馬が鼻を鳴らして待っているだろう。
それに向かって彼はさくさくと軽い足音を立てている。しかし実のところ、足は鞍を支え続けた疲労を思い出し始めており、段々と足取りは遅くなりゆき息は狼のように荒くなっていく。そして、そんな彼の荒い息遣いに対して、乳白色の凶器は腕の中で大人しく沈黙していた。
この乳白色の槍が朱に染まる瞬間を、彼はまだ見た事がない。雪を踏みしめながらアラドヴァルの柄を撫でると、手袋越しでも滑らかでない表面の感触が伝わってきた。
まるで骨のようだ。
フェリクスの背中にぞわりとした怖気が走る。この妙に重い槍は骨のようだ。そう思った途端、彼は足だけでなく頭も重くなり、歯の根も合わなくなってきた。カタカタと震えた奥歯を噛み締め、雑念を振り払うように体に鞭を入れ、彼は無理やり一歩一歩の歩みを大きくした。体に痛みは響き続けている。だがそれ以上に、心臓を穿つような別の痛みも走りだしている。
彼がディミトリの顔を最後に見たのは約六節前だ。崩壊するガルグ=マクから馬を走らせ、王都にディミトリを送り届けたあの日から、フェリクスは当の青年を見ていない。そして、訃報は聞いても死に顔は未だ見ていなかった。
あの獣のような男が、大人しく処刑されるとは微塵も思えなかった。処刑されたというなら、刎ねられた首でも棺で腐りかけた遺体でも、何でもいいから直接見なければ話にならない。そして、そんな明確な死が存在しないなら、王子は何処ぞでまだ生きている。生きて必ず、フェルディアに青い旗を掲げる日がやってくる。
だがディミトリの行方は初冬の今でも分かっていない。ガラテアの天馬隊がその所属を隠しつつ、必死の捜索しているそうだが、ディミトリらしき人物の姿かたちは無いという。
まさか野垂れ死にでもしたのか。
ディミトリがロドリグを慕い、信頼していることを彼はよく知っている。獄中から生きて逃亡したのなら、彼がフラルダリウスへ救援を求めに来たとしても、何ら不自然ではない。四節もあれば、人の足だけでもフェルディアからフラルダリウスへ辿り着く。
しかしフラルダリウスへやって来たのは、戯けた書簡と悲嘆に暮れる遣いだけだ。それ以外はなんの影も無い。
王になるべき男の人影が大地に倒れて雪に埋もれ、じわじわと肉が腐って溶け落ち、次第に骨になりゆく様を想像し、フェリクスはアラドヴァルを抱えながらも吐き気がした。この骨のような槍を手にしたところで、王の肉体が無ければ結局意味は無いではないか。
主の断片をようやく手中に収めたというのに、フェリクスには喜びも充足感も湧かなかった。暗澹たる思いに包まれているのは体の痛みのせいか、この場所があまりにも静かだからか。或いは抱える槍に対し、骨のようだなんてくだらぬ連想してしまったせいか。
あの男が帰って来なかったら、そんな妄想で彼の重い足がつい止まりかけた時だった。
「おう、フェリクス。生きていたか」
軽々しい、聞き慣れた声が彼の名を呼んだ。重く俯いて、足元しか見ていなかった頭を上げると、彼はまさに林を抜けたところに居た。そこにはロドリグと彼らの率いていたフラルダリウス兵、フェリクスが乗っていた馬も当然居た。ところが奇妙なことに、フラルダリウス兵らの足元では、生き残った公国兵らがばらばらに蹲り、雪の上で取り押さえられている。
「アラドヴァルは無事のようだな」
返り血まみれのロドリグは、わざとらしく快活な声でそう言った。報告じみたその声は、フェリクスだけでなくその場にいる全ての生者の耳に入った。
フラルダリウス兵も、逃れるべくもがいていた公国兵も、皆フェリクスと彼の持つ槍を見る。覆せない敗北に呻き声を出した公国兵らは、どうやら等しく後ろ手に腕を縛られているらしい。フラルダリウスの手にアラドヴァルが渡った。ロドリグは恐らく、公国兵らにその事実を見せつけるために、彼らをわざわざ連れてきたのだろう。
「我が親父殿ながら、いい趣味をしている」
フェリクスは止まりかけた足を皮肉と共に動かした。彼の父がやろうとしていることは明らかだ。その為にはフラルダリウス当主の手に、フェリクスの抱いている槍を渡す必要がある。
「よくやった」
彼がアラドヴァルを渡すと、ロドリグは小さな声で彼の手柄を称えた。変に重い槍が手元から離れた時、フェリクスの体は疲労と痛みに倒れかけた。しかし、傍らにいたフラルダリウス兵の手によって、彼の体は雪には沈み込まなかった。
そのフラルダリウス兵は、ロドリグと共に囮の馬車を追った兵士だ。囮と分かるや否や殲滅でもしたのだろう。顔や腕にも乾いた返り血がこびり付いている。だが、その顔は晴れていた。
「聞け、帝国に阿る腑抜け共!」
ロドリグの声が雪原に響く。彼はいつもの朗らかな微笑みを浮かべていなかった。コルネリアはロドリグという男を狸と評した。しかしその実態はフラルダリウスの血に相応しい、苛烈な騎士である。猛々しい彼の言葉は続く。
「この槍は王の帰還するその時まで、王の盾たる我らが預かる。公国などという偽旗に垂れる頭なぞ、我らは持たない」
フェリクスは父の語る信念を嫌悪する。騎士道という花を添え、人の死を賛美する思想を唾棄する。しかしこの時ばかりは、彼は父の言葉に嫌味のひとつも吐こうとは思わなかった。
「この身は王の盾、この魂は王の剣。我らフラルダリウスは正統な、ブレーダッド王にのみ傅く!」
王の居ない真っ白な大地に騎士の宣誓が響き渡る。フェリクスの心からはいつの間にか雲が晴れ、重々しく圧し掛かっていた不安は消え去り、体は嘘のように軽くなっていた。
ロドリグは取り押さえられていた、或る一人の公国兵の頭を掴むと自分の方へ上げさせた。
「貴様、女狐の近衛の一人だったな。ならばあの女に伝えろ。フラルダリウスを降したくば、ブレーダッドの首と我らの剣をへし折るだけの武を持ってこいとな」
彼が公国兵から手を外したのを機に、それらを取り押さえていたフラルダリウス兵が彼らの縄をぶつりと切った。フェリクスはそれを見届けると、自分を支えていた兵の手を緩く除けた。
もうこれ以上、己がこの場にいる必要は無かった。ロドリグ達から背を向け馬に跨り、彼は「先に戻る」と一言告げて馬の脚を走らせる。
荒馬は相変わらず酷い揺れを騎り手に伝えてきた。けれど、フェリクスはもう体の痛みも心臓の痛みも感じなかった。
空は変わらず雲に覆われていたものの、昇日は確かに雲を通り抜け、北の大地を白く明るく照らしている。フェリクスはその雪まみれの大地を、くつくつと珍しく笑い声を漏らしながら一人馬で駆けていた。
ディミトリが帰らなかったらなどという、つまらない妄想に取りつかれていた事がおかしかったし、寄りにもよって父の言葉で目を覚ました己も滑稽で、彼は笑わずにはいられなかった。アラドヴァルを受け止めた時すら感じなかった充足感が、ようやく彼の中に訪れている。ブレーダッドの地を駆けるフェリクスは実に爽快な心地であった。
全て、ロドリグの宣言が示す通りだ。フラルダリウス家にとっても、フェリクスという一人の人間にとっても、頭を垂れる主などこの世に一人しか存在しない。その唯一の主、ディミトリを待つために臥薪嘗胆した四節。たった四節、なんと長く感じたことか。王へ侍るための爪は既に研がれ、ようやく牙も揃った。
公国という偽旗の掲げられる城へ、諂う言葉を用意する苦節は終わった。アラドヴァルという、あの骨のような槍と共に王の肉体を待つ日々がようやく訪れたのだ。
荒馬で駆け抜けながら、フェリクスはフェルディアに立つ城を見る。あの哀れな兵士が城へと戻れば、コルネリアは嬉々としてフラルダリウスへと兵を差し向けるに違いない。
それこそ望むところだった。フラルダリウスでは今日より先、ディミトリが玉座に座るその日まで鍛冶の炎が消えることは無いだろう。