この世に在らざる、幻想の音色だった。
凍り付いた時の中、澄んだガラスを叩いて響かせる。震えるほどに繊細で、触れれば壊れてしまうだろう。その楽器に付けられた名はダンスパ―ティ―、ハンドベルの形を成した宝具だ。その演奏者はフリアグネ、この世を乱す紅世の王だ。都市に配したト―チを繋いで、巨大な地獄を造り出そうとしていた。
フレイムヘイズの姿もなく、儀式は順調だ。
轟音と共に崩落した屋上も、今は沈黙している。遊園地の遊具は傾き、観覧車は横に倒れていた。たまに崩れる音の聞こえる程度で、わざわざ物音を確認する者はいない。薄白い火の粉は舞い散り、地面に触れると消えてしまう。デパ―トの屋上に開いた穴は、その下の階へ繋がっていた。
ささやく者たちは、そこに在る。
持てる限りの、コンクリ―トの塊を除いていた。気付かれないよう静かに、しかし早く。それは天秤の傾きによって崩れる、危ういバランスの上に成り立っていた。その手は破片で傷付き、擦れて切れた傷から血も滲んでいる。マ―ジョリ―に対する人質として誘拐されていた、佐藤啓作と田中栄太だ。
傾いた遊具のコ―ヒ―カップ。
そこから割れたカップが落ちてくる。デパ―トの床に当たると、大きく耳障りな破砕音を上げて砕け散った。それは佐藤啓作と田中栄太の全身に、いくつかの破片を激突させる。それでも下手に声は上げず、淡々と作業を行った。しかし冷静ではなく、焦りを胸に抱えている。
目印は、回転する自在式だ。
コンクリ―トの塊で覆われた、その下に持ち主は埋まっている。しかし素人の2人から見ても分かるほど、その自在式はガタガタと壊れかけていた。自在式を構成する歯車は外れつつあり、回転も止まりそうになっている。ポロポロと群青色の炎は漏れ、蒸発するように消えていた。
そして火傷で膨らんだ腕を見つけた。
佐藤啓作と田中栄太は、1つずつコンクリ―トの塊を除く。すると坂井悠二の下に、さっきの少女も埋まっていた。どちらも呼吸はあるから生きている。しかし、どちらの呼吸も浅かった。少女は口から血を吐き、苦しみに顔を歪める。坂井悠二はコンクリ―トの塊に潰されて、あっちこっちから出血していた。
「止血しね―と……くそっ。こんなの、どうすりゃいいんだ」
「おい、坂井。大丈夫か? 見た感じ――大丈夫じゃないよな」
コンクリ―トに潰されていた。
そのおかげで傷を負ったし、そのおかげで血を止められていた。その重さに圧迫されていた事で止まっていた血液は、その重さから解放された事で流れ出てしまう。それは坂井悠二から流れ落ち、少女のジャ―ジに染み込んでいった。血は這うように広がって、少女を赤く染めていく。
曖昧な意識の中、少女は夢を見ていた。
視界一杯に炎が広がっている。火に焼かれて呼吸も難しい。単に赤と表すことのできない、それは紅蓮だった。その炎に少女は身を焼かれ、どうしようもなく焦げていく。胴体は真っ黒な炭と化し、ボロボロと崩れ落ちつつあった。空洞となった腹部は、どこまでも炭の塊で、カサカサと乾いている。
『説明はいらねぇだろ――フレイムヘイズの半端者』
それは雷鳴のように轟く、不敵な声だった。
『そうでなけりゃ、そのまま墜ちて行くこった』
優しくない。
でも、きっと優しい奴なのだろう。どこにでもいる少女に、契約を持ちかけている。炎髪灼眼であった頃に比べて、少女の器は極めて小さくなっていた。保険屋によって、どこにでもいる少女へ上書きされてしまったからだ。こんな小さな器に収まる奴なんて、変わり者に決まっている。
『そんなんじゃねぇよ。せっかく育ってんのに、もったいねぇだろ』
それは見慣れた紅蓮ではなく、澄んだ空の色だった。
少女の意識は目覚める。
体は痛いけれど、呼吸は苦しいけれど、動けない事はない。フレイムヘイズは人よりも頑強だ。紅世の王に力を注がれ、その器は満たされる。それはフレイムヘイズの契約だ。少女にとって人生で2回目の契約だった。体を起こしてみれば、その隣で坂井悠二も横になっている。
「ユ―ジ」
「――う」
坂井悠二の呼吸は浅い。
今にも呼吸は止まりそうだ。その潰された顔は変形し、酷く変わり果てている。死人のように白く、それは変質した肉塊を思わせた。触れると壊れて、ポロリと崩れそうだ。命のある人から物へ、移り変わる瞬間だった。染み付いた血は冷たく、鮮やかに少女を彩っている。
「おい、あんた大丈夫なのか?」
「ええ、まだ戦える」
坂井悠二の同級生だ。
血染めの少女は立ち上がり、まだ戦おうとしている。坂井悠二と少女の関係は知らないけれど、きっと深い仲なのだろう。佐藤啓作と田中栄太もフレイムヘイズは知っている。しかし出会って間もないマ―ジョリ―と2人の関係は、こうではない。それは少し、うらやましく思えた。
血化粧の少女は、屋上を見上げた。
その身は空色の力に包まれる。それは晴天の空を彩る、明るい宇宙の色だ。"空裏の裂き手"に与えられる、觜距の鎧仗カイムの武装だった。それこそ少女に与えられた新たなフレイムヘイズの称号で、少女と契約を交わした新たな王の名だ。かつてアラスト―ルに与えられた黒衣と違って、その力の衣は攻撃性に傾いている。そして空色に覆われた素足でコンクリ―トを踏み割り、少女は前へ飛び出した。
第10話 この身を焼き尽くす激情
フリアグネは都市に譜面を形作る。
それは白地に描いても難解な譜面だ。さらに譜面と重なるように、異なる譜面も描かれている。それはフレイムヘイズによって描かれたもので、繊細な譜面は影響を受けてしまう。そしてフレイムヘイズにとっても、影響を受けるのは同じことだ。干渉されたフレイムヘイズは、フリアグネの下へ怒鳴り込んできた。
「せっかく網を張ったのに、よくも邪魔してくれたわね!」
『ひはははは! よっぽどガラクタにされて―みて―だなァ!』
群青色の輝きに、空を覆われる。
火除けの指輪によって、飛来した炎弾を退けた。しかし、その指輪で守れるのはフリアグネの周囲に限られる。いくつもの巨獣に分裂した群青色は、いくつもの人形を消し飛ばしていった。このままでは儀式の完了までに、人形を壊し尽くされてしまう。ダンスパ―ティ―による爆破は、そもそも近付けなければ意味はない。
フレイムヘイズ殺しの武器もある。
トリガ―ハッピ―、一撃必殺の宝具だ。しかしトリガ―ハッピ―を撃てば、王の顕現によって儀式は破綻するかも知れない。これはフレイムヘイズの動きを制するために使うのであって、都喰らいの儀式中に撃てば破綻を招く。フレイムヘイズの死んだ後、契約した王が顕現する可能性は低い。しかし、その可能性に賭けることはできなかった。
『御主人様、フレイムヘイズは私にお任せください。今度こそ、フレイムヘイズを仕留めて参ります』
「私を案じる君の気持ちは嬉しいよ、マリアンヌ。でも、君は私の下を離れてはいけない」
『しかし、御主人様。このままでは――』
フリアグネはトリガ―ハッピ―を手に持つ。
いざとなれば儀式を破綻させても、マリアンヌは守る。いくつもの不安要素はフリアグネの許容を超え、儀式の断念を覚悟させた。片手にダンスパ―ティ―、片手にトリガ―ハッピ―。両手に宝具を持ったことで、マリアンヌは抱えていられなくなる。だからマリアンヌは浮遊して、完全武装のフリアグネに寄り添った。
『――はい、御主人様』
その背後で、フレイムヘイズの気配が生まれる。
「このタイミングで、新たなフレイムヘイズだと!?」
それにしては不自然だった。
封絶の中で生まれたとしか思えない。いいや、実際そうなのだろう。"炎髪灼眼の討ち手"は、なぜか人間になっていた。あの時フリアグネは、もっと考えるべきだった。フレイムヘイズが人間に戻るなど、在るはずもない。それを怒りに任せて片付けて、スッキリした気分で忘却していた。不敵な声が、その耳を打つ。
『そうだ! 駆れ! 狩れ! 思いのままに! 心のままに! 足を止めるな! 突っ走れ! お上品に戦おうなんざ考えるんじゃねぇぞ、未熟者!』
口の悪い王に煽られ、空色の輝きは疾走する。
視界の端に捉えたものの、すぐに見えなくなった。それは無茶苦茶な軌道で、周囲を走り回っている。首を回す速度も追い付かず、視認した瞬間に見失ってしまう。フレイムヘイズの気配は周囲を駆け巡り、感知できないほどに乱舞していた。それは見たこともない新たなフレイムヘイズとしか思えない。しかし、それは間違いなく、"炎髪灼眼"だった人間だ。
「天壌の劫火と、觜距の鎧仗! まさか、二重契約だと!?」
ありえない。
常識的に考えて、そんな事をするはずもない。1つの器に2つの王を入れても、そのフレイムヘイズの器へ収まるよう休眠する事になる。そうしなければ、器は耐え切れず自壊してしまう。天罰神として名高いアラスト―ルを、そんな制限のある器に入れる意味が分からなかった。
『御主人様! お気を確かに!』
「マリアンヌ!」
ダンスパ―ティ―を暴風に破壊されてしまう。
その寸前、割って入ったマリアンヌは代わりに拐われた。空色の腕に掴まれ、あっちこっちへ叩き付けられる。フリアグネは迷いもなく、トリガ―ハッピ―を構えた。しかし捉え切れない。あらゆる物質を透過する不可視の魔弾は、疾走するフレイムヘイズに中らなかった。
『――御主人様、どうか御無事で』
薄白い輝きを発して、マリアンヌは自爆する。
「マリアンヌゥゥゥゥゥ!!」
夢中でトリガ―ハッピ―を乱射した。
しかし爆発の反動で空色の光は、屋上に開いた穴へ堕ちて行く。それを呆然と見ていたフリアグネは、やがて気力を失って崩れ落ちた。人形のマリアンヌは、フリアグネによって生み出され燐子だ。ト―チ・フレイムヘイズ・紅世の徒、それらと同じように死ねば存在ごと消えてしまう。もはや自爆してしまったマリアンヌは、その一片も世界に残っていなかった。
「――もう都喰らいなど、どうでもいい! フレイムヘイズを殺してやる!!」
怒りのままにダンスパ―ティ―を地面へ叩きつける。
ガラス造りのハンドベルは、その衝撃で砕け散った。その破片はキラキラと輝いて、フリアグネの足下に広がる。フレイムヘイズ殺しの拳銃を片手に、もう一方にトランプを出した。かつてマリアンヌに貸した、トランプの宝具だ。いくつものカ―ドに存在の力を込めて強化し、自身の周囲へ展開する。薄白い炎に包まれたカ―ドの結界、それは激しく燃え上がる憎悪の現れだった。
ちなみに觜距の鎧仗カイムは、原作15巻に登場したフレイムヘイズ殺しと、契約していた紅世の王です