平井ゆかりの家は、マンションにある。
そこに平井ゆかりは独りで住んでいた。正確に言うと両親も居たけれど、紅世の徒に喰われて消えている。それは平井ゆかりの蘇生される前の事なので、両親の存在した事は誰も知らなかった。その何もなくなった空き部屋へ、今はメロンと名乗っている人間の少女は住んでいる。そんな平井ゆかりの家で、夜も遅い時間に電話は鳴った。
『平井か? 今から坂井を送り届けるから、家に居てくれ』
「そりゃ―夜だから居るけど? なにか、あったの?」
「事情は坂井から聞いてくれ。坂井を返したら、すぐに俺らは帰るから」
どうして坂井悠二を、こちらへ送り届けるのか。
本来は坂井悠二の自宅ではないのか。
「メロンちゃん、ゆうちゃんが来るって」
「そう、今日も泊まるのかしら」
そうなのかも知れない。
やがて坂井悠二を連れて、佐藤啓作と田中栄太は訪れた。
「じゃあな、坂井」
「おやすみ、坂井」
「うん、ありがとう。佐藤、田中」
折り畳んだ学生服を片手に、坂井悠二は見慣れない服を着ている。
どうやら濡れてしまった学制服の代わりに着ているらしい。他人の服なので大きく、サイズは合っていなかった。吉田一美と美術展へ行った後、どこかへ行っていたのか。急な雨に濡れてしまったのかも知れない。放課後の平井ゆかりは素直に帰宅したので分からなかった。なので坂井悠二に事情を話してもらう。
「じつは家が無くなっちゃって。しばらく泊めてもらえないかな?」
「うん、いいよ。でも、無くなったって?」
それは理解の及ばない事だった。
言葉通りに受け取ることもできない。
「フリアグネの燐子に襲撃されて、家の存在ごと消えてしまったから。だから今は住む家もないんだ」
それは死ぬほど苦しかったに違いない。
聞いているだけでも心は重くなって押し潰されそうになる。それなのに坂井悠二は、もう事実を受け入れているようだった。きっと佐藤啓作と田中栄太に助けてもらったのだろう。放課後に別れて半日も経っていない間に、坂井悠二へ降りかかった苦難は計り知れなかった。
「大変だったね、ゆうちゃん。ゆうちゃんが良ければ一緒に住んでも良いから」
「ありがとう、ゆかりちゃん。僕にできる事なら、なんでもするよ」
「そっか―。じゃあ今日は、抱き枕になってもらおうかな?」
「うん、いいよ」
きっと眠れないのは坂井悠二だろう。
1つの部屋で布団を横に並べて、平井ゆかりと坂井悠二は横になる。いつかのように布団の不足する事はなく、いつかのように距離を空けてもいなかった。月光は雨雲に遮られて、部屋の中まで届かない。目を閉じているような暗い闇に沈み、互いの肉体に触れ合っていた。
「いい子、いい子だよ―。大丈夫、大丈夫。ゆうちゃんは何も悪くないからね―」
平井ゆかりはナデナデする。
坂井悠二の心を甘く、溶かすように抱きしめた。平井ゆかりの胸に抱かれて、坂井悠二は夢へ堕ちていく。まるで自分の家のように安心して眠れた。だから苦しいことも悲しいことも何もかも忘れて、この家に居ればいい。ここを坂井悠二の家と思って、ずっとずっと居ればいい。それだけで、きっと幸福なのだから。
翌日、坂井悠二は起こされた。
すでに平井ゆかりは学生服に着替え、横になっている坂井悠二の上から覗き込んでいる。窓から差し込む明るい光を見て、寝坊したのかと坂井悠二は慌てた。しかし時計を見ると3時を指している。朝の3時にしては明るすぎて坂井悠二は混乱した。まさか昼の3時とでも言うのか。
「あはは! もしかして、ゆうちゃん。半日、ずっと眠ってた?」
「……そうみたいだ」
そんな自分を信じられず、坂井悠二は落ち込む。
寝ている場合ではなく、やるべき事は沢山あるはずだった。
「池くんが来てるよ。どうする?」
「池が!?」
坂井悠二の親友だ。
「坂井くんの事を心配してたから連れてきたの! えっへん!」
「ありがとう、ゆかりちゃん。うん、嬉しいよ」
坂井悠二は起きて、リビングへ向かう。
すると池速人は椅子に座ったまま、片手を挙げた。
「よう、今日は平井さんの家に泊まってたのか」
「うん――うん? 今日は?」
「友達の家を転々としてるんだろ? もちろん知ってるさ」
「それは――どこまで話したっけ?」
坂井悠二は息を呑んだ。
冷たい水を浴びたように目は覚める。
「親父さんは海外へ赴任中なんだろ? その……家もないから、友達の家を転々としてるって言ってなかったか?」
「ああ、ごめん。気にしなくて、いいよ。ただの事実確認だから」
存在の消失による修正だ。
坂井悠二に自宅なんて存在しなかった。
「池はさ。僕の母親について聞いた事ある?」
「どうしたんだよ、おまえ。ちょっと、おかしいぞ?」
「そうだね――ごめん」
「ああ、いや。おまえの母親は分からないんじゃなかったか? 親父さんは独身で、結婚したって話も聞いた事はないはずだ」
「そうか――そうだったね――そうだったかな?」
まるで異世界へ来たようだ。
坂井悠二の記憶と、池速人の記憶は連続していない。母親を中心に断ち切られてバラバラになっていた。坂井悠二の母親は、最初から居なかった事になっている。それを受け入れられず、坂井悠二は気持ち悪かった。目前にいる池速人も、坂井悠二の知らない別人のように思える。
「――ゆうちゃん」
平井ゆかりは、その手を握った。
平井ゆかりの見ている景色は、坂井悠二と同じだ。
「そういえば池、塾は大丈夫なのか?」
「今から塾へ向かっても間に合う計算だ。代わりに午後の体育は早退してきた。どうせ無駄にグラウンドを走り回るだけって分かってるからな」
「はは、そうだね。ありがとう、池」
「ああ。それで、どうした? なにか、あったんだろ?」
坂井悠二は言葉に詰まる。
紅世のことは話せなかった。
「僕には話せないことか?」
「うん、そうだね。困ったな。池には、お見通しか」
「エスパ―じゃないんだから、なんでも分かる訳じゃない。せめて話せる範囲で教えてくれないか?」
話したいことはある。
紅世のこと、フレイムヘイズのこと、人喰いのこと、ト―チのこと、存在の消失のこと、母親のこと。それらを親友である池速人に分かって欲しいという感情が、坂井悠二の中から熱くなって沸き上がる。しかし、親友である池速人を巻き込みたくないから、それを坂井悠二は押さえ付けた。代わりに、平井ゆかりの手を握り返す。
「僕は、お邪魔だったかな?」
「ごめん。ゆかりちゃんは、その成り行きで――」
「あたしはゆうちゃんに、命を助けてもらったの。だから池くんよりも、ちょっと親友ポイントが高いんだよ!」
「なるほど。そう言えば高校に入ってから、あんまり親友ポイントは稼げてなかったかもな。平井さんに先を越されたか」
そう言って、池速人は笑う。
すると池速人は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ時間だ。僕は行くよ」
「うん、池。今日は来てくれて、ありがとう」
玄関から池速人を見送る。
扉は閉まって、足音も遠くなっていった。
「ゆうちゃん?」
「ごめん、ちょっと行ってくる」
坂井悠二は扉を開ける。
平井ゆかりを置き去りにして、そして池速人の後を追いかけた。まだ池速人はエレベ―タ―の前にいる。坂井悠二から見て、背中を向けていた。その背中に駆け寄って、坂井悠二は飛び付く。その衝撃で池速人は驚いた声を上げたものの、すぐに背中に捕まっているのは坂井悠二と気付いた。
「どうした、坂井?」
「ごめん――平井さんにも言ってない事はあるんだ」
顔を見られたくなかった。
きっと誰にも見せられない感情を浮かべている。
「もしも母親を殺されたら僕は、どうするべきなのかな」
「その母親って、おまえの母親なのか?」
「例え話だよ」
「そうか、例え話か」
紅世の徒は死なねばならない。
元凶であるフリアグネや隣子は死んでも、その感情は消えなかった。それは炎のように燃え広がって、紅世の徒という存在ごと嫌いになっていく。それは奪われること失うこと、それら与えられた痛みに対する恐怖だ。だから紅世の徒に死んで、坂井悠二の痛みを分かって欲しかった。
「それは母親の死んだ原因によるな」
池速人の優先するべき事は、坂井悠二を殺人鬼にしない事だ。
だから坂井悠二の苦しみに同意し、労ることはしない。
「誰かに殺されたとしても、そこに事情はあったはずだ。何が悪かったのか、原因は何だったのか。その誰かを罰しても、根本的な原因は解決していないかも知れない」
フリアグネは死んだ。隣子も死んだ。
それなのに痛みは、心に残り続けた。
「人を裁くのは法であって、人は人を裁けない。罪のない人間なんて存在しないからな。でも、法は人を救えない。だから人を理解して救えるのは、同じ人だけなんじゃないか?」
坂井悠二も罪を犯している。
それは信頼を裏切ったことだ。
「ありがとう、池。助かったよ」
「僕にも手伝えることは、あったみたいだな」
池速人の答えを受け取って、坂井悠二は駆け出した。
そして部屋に戻ると、メロンに声をかける。
「メロン、おねがいだ。屍拾いを助けるために手伝ってほしい」
「紅世の徒を助けるってこと? どういうつもり?」
「屍拾いと約束した。でも僕は、それを裏切ってマ―ジョリ―さんに密告してしまった」
「そんなこと気にする必要ないわよ。紅世の徒なんだし」
「紅世の徒だからじゃない。屍拾いラミ―だから助けたいんだ」
「それって、おまえの事情でしょ?」
「うん、フレイムヘイズの使命に関係ない。だから、おねがいだ。手伝ってほしい」
「それって、"弔詞の詠み手"と戦うってことよね?」
「そうなる」
坂井悠二は断言した。
フレイムヘイズの使命に関係なく、フレイムヘイズ同士で戦うことになる。おまけに今のメロンは人間で、フレイムヘイズと言えない。メロンにとって、まるで意味のない戦いになる。それで断ったら、坂井悠二は独りで突っ込むつもりなのだろう。どちらにしても勝ち目のない、無駄な戦いだ。
「おまえ独りじゃ死にに行くようなものでしょ。仕方ないから、私も付き合ってあげる」
「ありがとう、メロン!」
「とにかく安易に死なない事が最優先! 私の力を借りるんだから、私の指示に従うこと!」
「分かったよ、メロン」
「あたしも行く!」
そう言ったのは平井ゆかりだった。
何の力もなく、そのままでは封絶に入ることも叶わない身だ。
「こんな事もあろうかと、武器を買っておいたの!」
平井ゆかりはバットを取り出して、そう言った。
木製のバットなので軽く、刃物と違って不審に思われにくい。
「いや、それは――」
「いい心掛けね。手ぶらで行こうとする、こいつよりも見所はあるわ」
「でしょ! でしょ!」
「そうね。この戦いが終わったらユカリを鍛練してあげる!」
そうしてメロン一行は出発する。
群青色の歯車が、そんな空を駆けて行った。
第15話 同じ屋根の下に住む隣人