そこは小さな喫茶店だった。
地元の画家が競技会へ出展した、無名の絵画を壁に飾っている。等間隔に設置された丸テ―ブルは喫茶店の奥まで並び、その突き当たりに個室があった。お手洗いに近いため、通常の客は案内されない個室だ。店内に流れる音楽も遠く聞こえる。そこは常連の客が入り浸る、特別な空間だった。
坂井悠二は、その席に座っている。
その対面にロングコ―トの不審者は座り、テ―ブルに契約書もあった。死亡保険契約書と名付けられた書面だ。氏名や住所は分かるとしても、蘇生代理という見慣れない項目もある。書面の下方に金額の入力された欄もあって、そこに1000円と1000万という極端な数字が見えた。
「私は保険屋だ。基本としては月1000円の掛け金で、何回でも死亡時の蘇生を行う。ただし保険に未加入であっても、1回あたり1000万円で蘇生を受けている。こちらが今回、君の負担する事になる料金だ」
「1000万……ですか?」
「安心してくれ。前払いではなく、蘇生してから後払い。つまり借金となる」
それは坂井悠二にとって果てしない金額だ。
そんな財産は当然、一般人の坂井悠二にあるはずもない。借金という言葉は坂井悠二の心に重く伸しかかった。家族に迷惑をかけるかも知れない。そもそも1000万なんて払い切れるかも分からない。しかし借金ならば、とりあえず平井ゆかりの蘇生はできる。家族でもない他人のために、それを負う必要はあるのか?
「とは言え、借金は無利子だ。計算が面倒だからな」
「1000万を返し切れば終わりという事ですか」
「支払いは月1万円で、指定の口座へ送金すること。手数料を掛けたくなかったら、まとめて先払いしてもいい。私に対する現金支払でも構わない」
「月1万円ですか」
それだと完済できるのは100歳では?
「これは蘇生依頼の代理人と本人、つまり君と彼女のペアロ―ンだ。1000万の内、500万ずつを負担する」
「平井さんも――蘇生される本人も支払うんですか!?」
「当然だろう。もちろん蘇生された本人が断れば契約は無効、料金も発生しない。安心するといい」
「平井さんは何も知らないんです。自分を食った怪物のことも、消えてしまったことも」
「悪いが、本人に対する説明は絶対に行う。それは私の仕事であり、義務だ。たとえ君が1000万の全てを負担するとしても、説明は欠かさない」
知らないままで居て欲しかった。
きっと平井ゆかりは不安に思うだろう。どこに潜んでいるかも知れない人食いの怪物に怯えて、これからの人生を生きることになる。そんな坂井悠二と同じ地獄に踏み込んで欲しくなかった。そんな世界の裏側を知ってしまったら、平井ゆかりは生きることを諦めるかも知れない。
「もしも本人が蘇生を断れば借金を負うことはない。そして本人が蘇生を受けたとしても、平井ゆかりを蘇生できる。どちらに転んでも、君にとってメリットはある」
「そうじゃありません。大事なのは僕の事情じゃなくて、平井さんの事情です。それじゃ平井さんの意思を無視して、僕が勝手に決めたことになります」
平井ゆかりを蘇生して、善いことを行った。
と坂井悠二は勝手に満足したい訳ではない。平井ゆかりに感謝してほしい訳ではなかった。平井ゆかりは蘇生されたことを知らないまま日常へ帰り、坂井悠二という非日常を知らないまま終わる。そうすれば平井ゆかりは幸せに生きられるだろう。それこそ坂井悠二の望みだった。
そう、それは坂井悠二の望みなのだ。
世界の裏側について知らず、いつもの日常へ帰る。それは坂井悠二の望みだった。しかし坂井悠二は知ってしまった。日常へ帰ることは叶わず、いずれト―チとして消えるしかない。怪物に存在を喰われた坂井悠二の残りカスとして、誰の記憶からも忘れ去られて消えるしかなかった。
「そうそう、平井ゆかりを蘇生する契約と同時に、君と平井ゆかりも死亡保険へ加入してもらう。本来ならば保険料1千円と、保険外の蘇生ロ―ン1万円で、合わせて月あたり1万1千円となる。だが、蘇生ロ―ンと合わせて契約するから1千円を減額しよう――つまり、死亡保険と蘇生ロ―ンで合わせて月1万円だ」
「お得パック……!」
保険料が実質0円!
「この支払いが滞った場合、すぐに契約解除となる訳ではない。1月の期限を定めて請求書を送付する。それでも支払いが行われない場合は、未払金の徴収を行う。文字通り、たとえ死んでも取り立てることになる」
死んでも借金から逃げられない。
その取り立てを行うのは、フレイムヘイズすら圧倒する力を持つ保険屋だ。その結末は死ぬよりも恐ろしい事になるだろう。なにしろフレイムヘイズの少女から、なにもかも奪った事実は記憶に新しい。その力も、武器も、服も、大切な契約者も、その人生と存在すら奪い尽くした。
「さて、質問を受け付けよう。5分待って、それから改めて契約の意思を問う」
坂井悠二は口が渇いていた。
それほど喋っていた訳ではなく、これは緊張しているからだ。テ―ブルのメロンジュ―スを飲み、坂井悠二は心を落ち着ける。冷たいメロンジュ―スの味は、心臓へ突き刺さるように思えた。その心臓へ近い位置に見える薄白い炎、それは坂井悠二がト―チである証だ。怪物に喰われた、その残りカスだった。
「平井さんは怪物に喰われてト―チになりました。このト―チは時間と共に消える存在です。蘇生される平井さんは、どちらの平井さんなんですか?」
「死亡時の基準点は、最後の状態だ。しかし状態異常があれば、蘇生時に解消する。肉体の損傷や病気を原因として、すぐに死ぬこともあるからな――分かりやすく言えば、精神は消失した時で、肉体は怪物に食われる前となる」
そうなれば蘇生と併せて、平井ゆかりは人に戻る。
「でも、僕や平井さんは人間ではありません。フレイムヘイズに言わせれば、僕らは物なのだそうです。本当の僕や平井さんは死んで、この体も心もト―チという別物です。本当に平井さんは人として蘇生できるんですか?」
「その理屈は知らないが、この世界における個人の識別情報を私は認識できる。それによればト―チとやらになる前と後で、君の識別情報は変わらない。私から見れば、君は同じ人間だ」
人間と言われて、坂井悠二は嬉しかった。
いろんな事を知ってしまって暗かった視界が、その一言で晴れたようだった。その一言だけで希望を持ち、未来へ進めるような気もした。とても大事なことだったけれど、保険屋にとっては当然のことを言ったに過ぎない。なぜならば最初から保険屋は、平井ゆかりと坂井悠二を人として見ていた。
これならば契約しても良いと思えた。
とは言え、それは坂井悠二の感情だ。この契約は平井ゆかりのためにあり、坂井悠二の納得は関係ない。そのために晴らすべき疑問は、まだ残っていた。契約書の最後に署名する欄を見る。そこに記されていたのは"死亡保険会社"という、いかにも怪しい商号だった。そこに在るべきはずの物がない。
「あなたの名前は何ですか?」
「私の名前か。それは――まだ決まっていない。過去に使っていた名はあるが、もう死んだ者とされている」
「じゃあ、その名前を教えてください」
「それは、もう私の名ではない。だから今の私に名はない。あえて言うのなら保険屋だ」
「僕は実名で署名するんです。そちらも実名でないと納得できません」
「そうか――それもそうだ。困ったな」
保険屋の口は固い。
よほど自分の名を出したくないのだろう。坂井悠二ではなくテ―ブルの書面を見て、そこに孔の開きそうなほど頭を悩ませている。あんなにも強い人が、名を尋ねられた程度で弱々しくなっていた。これは使えると、坂井悠二は思う。やがて意を決したのか保険屋は、坂井悠二へ向き直った。
「私の古い名は◼◼◼◼だ。書面へ記さない事は許してほしい」
「理由も聞かせてもらえますか?」
「異世界帰りという事は、すでに言ったか。20年前、私は異世界へ転移し、そして最近になって戻ってきた」
「異世界と言うと、フレイムヘイズや紅世の徒と関係のない?」
「それは知らないから別の話だろう。私は帰ってきたものの、ずいぶんと世界は変わっていた。戸籍もない、住所もない、仕事もない、資格もない、健康保険もない、家族もいなかった」
「その力があれば、どうにでも成りませんか?」
「そうだな。この力があれば何でも出来るだろう。だが、その気にならなかった」
「どうして?」
「やる気がでなかった。それだけだ」
「え? そんな理由で?」
「この力があれば、とりあえず死ぬことはない。だから、やらなかった」
「僕や平井さんと違って、取り戻そうと思えば、人生を取り戻せるんでしょう。それなのに、どうして?」
「取り戻して何の意味がある。私が欲しかった物は過去にある。今にはない」
「過去へ戻ったりはできないんですか?」
「できない事もない。時間とは変化だ。だから世界の情報を過去に戻せば、過去へ戻ったことになる」
「それで20年前へ戻れば、無かったことに出来るでしょう?」
「過去へ戻って何になる? すべてを忘れて、人生を、やり直すのか?」
「そうじゃないんですか?」
「それで今の私は、どうなる。20年を異世界で過ごし、どうしようもなくなった私は」
「そのために、やり直すんでしょう?」
「過去へ戻って青春をやり直したとしても、それは私ではない。それでは今の私を見捨てることになる」
「見捨てても良いんじゃないですか?」
「それは無理だ。私が救うべきなのは異世界へ転移した、この私だ。どうしようもなくなった、今の私だ」
「何でも出来る力があって、それでも救えないんですか?」
「難しいな。自身を愛すことは、まだ出来ない」
きっと本当に何でもできるのだろう。
そんな保険屋のできない事は、自分の存在を肯定することだった。心さえあれば叶う問題だった。本当は異世界へ転移した自分を消し去りたいけれど、その寸前で足を止めている。保険屋が自分を見捨てて人生をリセットしたら、それは他殺と変わらなかった。それは自分を殺しておいて、その血塗られた手で、来世は幸せになれると信じるのだ。
「納得できなければ契約はしなくていい。何よりも重要なのは、契約する意思だ」
「今の話を聞いて、あなたを信用しても良いと、そう思えました」
きっと自身を愛すために必要なのは――そんな自分を愛してくれる他人だ。
それは坂井悠二も、平井ゆかりも変わらない。
坂井悠二は署名を行う。
その書類を保険屋は点検し、ここに契約は締結された。平井ゆかりを蘇生するための、ようやく折り返し地点だ。とっくの昔に日は落ちて、夜も深くなる。下校時に平井ゆかりの消失を見送り、そのまま此処にいる。本来ならば坂井悠二は、自宅にいる時間だ。母親は心配しているかも知れないから、言い訳を考えておいた方が良いだろう。
「それでは3秒後に蘇生を行う」
「おねがいします」
「3」
「2」
「1」
そして音もなく、平井ゆかりは立っていた。
消える前と変わらず、学生服を着ている。まるで最初から、そこに居たようだった。唯一の違いと言えば、平井ゆかりの体にト―チの灯火は浮かんでいない。平井ゆかりは人として蘇生され、もはやト―チとして消失することはない。そんな平井ゆかりの姿は、とても美しく思えた。
「あれ? ここ、どこ?」
「――平井さん」
それは無意識の行動だった。
環境の変化に驚く平井ゆかりの手を、思わず坂井悠二は握ってしまう。平井ゆかりの存在を確かめたかったのだろう。その手は中身の詰まった人のもので、保険屋の作り出した幻影ではなかった。突然のことに平井ゆかりは驚くものの、振り払うことはしない。その手を握った坂井悠二は、泣いているように思えたからだ。
「状況を説明しよう。君は死んで、君の代わりに蘇生を願ったのは、その坂井悠二だ」
「突然の死!?」
あぴゃ―!
「坂井悠二、君の視点を平井ゆかりに見せても良いか? 平井ゆかりの消えた時から、ここに至るまでの視点だ」
「えっ、はい」
それは事前に聞いた場合、悩む質問だ。
しかし坂井悠二は、うっかり返事を返してしまった。平井ゆかりの消失、保険屋とフレイムヘイズの争い、死亡保険の説明、そして平井ゆかりの蘇生。それらを坂井悠二の視点で体験した記憶が、平井ゆかりへ書き加えられた。まるで自身の記憶を思い出したように再現され、そして平井ゆかりは呆然とする。
坂井悠二に薄白い灯火があった。
世界から外れた者の視点を体験することで、平井ゆかりはト―チの証を視認できるようになった。もはや、それ以上の証明は必要ない。坂井悠二の記憶の中で平井ゆかりは、ト―チであった平井ゆかりを見ていた。それなのに今は、この胸に灯火はない。それは代償を負ってくれる坂井悠二の成果だった。
「平井さん、大丈夫?」
「えっ、うん」
「これで事情は分かったはずだ。君は、どうする?」
「どうするって――?」
「あくまでも坂井悠二は蘇生の代理人だ。契約を追認し、あるいは否認する権利は君にある」
平井ゆかりは悩み苦しむ。
蘇生を受けるべきなのは分かっていた。平井ゆかりだって死にたくない。しかし、そのために坂井悠二へ負担を押し付ける事になる。平井ゆかりの生きる責任を、坂井悠二は負ってしまう。それは一生を共に歩むことに似ていた。あまりにも重く、平井ゆかりは決められない。
「平井さん、お金を用意できないのなら僕が何とかする。だから受けてほしい」
1000万の借金だ。
しかし、そうではない。それも重いけれど、それよりも命の責任だ。平井ゆかりは死にたくないけれど、これを受ければ死ねなくなる。少なくとも借金を返すまでは死ねなくなる。ここから先、平井ゆかりの命は坂井悠二に共有され、勝手に捨てることは出来なくなる。生きることを強いられる。それは、とてもとても重いことだった。
「――できないよ」
平井ゆかりは生きることを選べない。
死にたくないけれど生きることもできない。生と死の間で、平井ゆかりは立ち止まっていた。その両側から引っ張られて、体を引き裂かれそうだった。そんな平井ゆかりの様子を見て、坂井悠二は混乱する。平井ゆかりは蘇生を受けると思っていた。それなのに、どうして平井ゆかりは死に向かっているのか、坂井悠二は分からない。
――やっぱり世界の裏側を知ってしまったから?
「平井さん、池に会いたくない?」
「会いたい、会いたいよ!」
悲鳴のような声を上げる。
「だったら、それで良いんだ。池に会いに行こう!」
「もう、いいの! だって、あたしは死んでるんだから!」
「まだ間に合う! 今なら、まだ!」
「なんで、そんな事いうの!? 坂井くんは関係ないでしょ!」
「僕は池の親友で、平井さんのクラスメイトだから!」
「そんなの他人じゃない! もう放っておいてよ!」
「平井さんに生きて、幸せになって欲しいんだ!」
「あたしの幸せを勝手に決めないで!」
平井ゆかりの心は破裂しそうだった。
死へ向かう様子は、生きる意思など無いように見える。どれほど坂井悠二が命の価値を訴えても、蘇生を受ける判断は平井ゆかりのものだ。平井ゆかりが死を選ぶのならば、それを止める術はない。坂井悠二に与えられた命の重さに耐え切れず、平井ゆかりは潰れようとしていた。
第3話 死にたくないけど生きたくない