「平井さんに生きて、幸せになって欲しいんだ!」
「あたしの幸せを勝手に決めないで!」
平井ゆかりは蘇生された。
しかし救われた命は、命よりも重かった。生きることを望まれ、死ぬことは許されない。その重さに耐え切れず、平井ゆかりは自壊する。その心にかかる激痛は感情となって表れ、平井ゆかりと坂井悠二は言い争うことになった。そうして生きてほしいと願われる度に、平井ゆかりの心は圧殺される。
「――しずかに」
保険屋に止められる。
向かい合う坂井悠二と平井ゆかりは、互いに苦しい表情だった。契約の解除となれば、また平井ゆかりは死ぬ。2度殺される。しかし坂井悠二と平井ゆかりの言い争う様子から、もはや説得は不可能に思えた。その言い争う声は、個室の外まで聞こえている。この小さな喫茶店の店主も、不安に思っているかも知れなかった。
「ちょっと待ってくれ、5分ほど店主と話してくる。その間、待ってほしい――それと坂井悠二、伝え忘れていた事があった」
個室の外へ呼び出し、そして聞こえないように扉を閉めた。
「坂井悠二。平井ゆかりと向かい合うのではなく、横に並んでみるといい」
「えっ?」
それだけ言うと保険屋は、店主のいるカウンタ―へ向かった。
ここから平井ゆかりを引き止める、最後の5分間だ。保険屋から与えられた時間は、たったの5分しかない。もしも失敗すれば取り返しの付かないことになる。それなのに考える間もなく、坂井悠二は挑むことになった。坂井悠二は恥を捨て、全力で平井ゆかりを説得するしかない。
坂井悠二は扉を開ける。
平井ゆかりは顔を伏せて座っていた。丸くなって身を守り、心を閉ざしている。どうして平井ゆかりは、そうなってしまったのか。坂井悠二としては人を喰らう怪物のことを知ってしまったからのように思える。平井ゆかりは怯えているのか――まずは、その先入観を捨てることから始めた。坂井悠二は改めて、平井ゆかりを知らねばならない。
「平井さん、横に座ってもいい?」
「……ダメ」
そういう事ではない。
坂井悠二は横に座ることすら許されなかった。保険屋のアドバイスは砕け散る。坂井悠二と平井ゆかりの間にあるのは無限の空間だ。わずかな一歩は無限に引き伸ばされ、平井ゆかりの横に並ぶことは許されない。それは物理的な距離の問題ではなく、精神的な距離の問題だった。
「どうして平井さんが蘇生を断るのか、僕は分からない。だから教えてほしい」
「……もう、いいの。あたしは死んでるんだから、それが正しいの」
それは違うと、坂井悠二は否定したかった。
「そうなのかも知れない。でも、僕は平井さんに間違ってほしい」
「勝手なこと言わないで。坂井くんには関係ないでしょ」
「そうだね。僕には関係のない事だった。だから、これからは僕に関わらせてほしい」
「だったら何もしないで。坂井くんは何もしなくていいの」
「ごめん、それは難しい。どうしても、この気持ちを止めることができない」
「坂井くんは関係ないの。これは、あたしの問題だから」
「僕も、その問題に関わらせてほしい。最後まで付き合うから」
「ダメだよ。坂井くんは関係ない」
「おねがいだよ、平井さん。一生に一度の、おねがいだから」
その手を握る。
すると平井ゆかりの手は震え、しかし振り払われなかった。平井ゆかりは振り払うことができなかった。死にたくないけれど、生きたくもない。坂井悠二と繋がった手は温かく、平井ゆかりの心は引っ張られる。そして、そのまま平井ゆかりは、坂井悠二の胸に引き込まれた。
――心が決壊する
「……苦しいよ」
涙が止まらない。
坂井悠二に抱き寄せられて、閉じ込めていた感情が流れ出てしまう。平井ゆかりは感情のまま、坂井悠二を強く強く抱き締めた。生きることも苦しくて、死ぬことも苦しくて、その苦しみを分かってほしい。その全身を焼くような激情を、坂井悠二に叩き付けたかった。もう止まりはしない、もう止めることはできない!
「約束するよ、平井さん。僕は最後まで平井さんと、ずっと一緒にいる」
「本当に? あたしが死ぬときも、一緒に居てくれる?」
「うん。平井さんが死んだら苦しくて、僕も死んじゃうかも知れない」
「そっか……それは困るなぁ。そしたら、あたしが坂井くんを死なせた事になっちゃう」
平井ゆかりは、やっと笑えた。
命が重いと言うのなら、それは独りで支え切れるものではない。しかし、これからは坂井悠二が一緒に支えてくれる。1人では支えられなくても、2人ならば支えられると思えた。その温かさを感じたくて、平井ゆかりは目を閉じる。それは太陽に包まれているようだ。触れている心は温かくなって、どこかへ不安も消えていった。
扉を叩く音が聞こえる。
店主と話していた保険屋が戻ってきた。それは5分と言わず、20分も経っている。恥ずかしくなり、慌てて2人は体を離した。それでも坂井悠二と平井ゆかりは、手を繋いだまま放さない。それは今の2人にとって自然なことだ。繋がることで互いの心を支え、それだけで安心できる。
「店主と長話が過ぎて、待たせてしまったか。遅くなったが、平井ゆかりの答えを聞こう」
「蘇生を受けます。生きていきます!」
「そうか。では、平井ゆかりも契約書に記入してもらう」
平井ゆかりも契約書へ署名する。
これにより坂井悠二と平井ゆかりは1000万の借金を負うことになった。しかし、それを恐れることはない。たとえ未来に希望はなくても、最後まで2人は共にある。互いの命を使い果たすまで、互いを支えにして生きていける。今の坂井悠二と平井ゆかりは無敵だった。
「これで契約完了だ。それぞれ1万円の支払いは、来月の末日までに行ってほしい。なお説明した通り、1月に満たない今月分は無料期間となる。その間に契約の解除となれば、端数を切り上げて1月分を請求するが」
保険屋は立ち上がる。
「さあ、もう夜も遅い。2人とも自宅へ転移させよう――3秒後に転移する」
「3」
「2」
「1」
しかし、そこは見知らぬ部屋だった。
電灯は点いておらず、とても暗い。遠くの窓から差し込む月明かりが、床を照らし出していた。そこは部屋というよりも長い廊下のようだ。周囲を見回しても、暗すぎて分からない。転移する前と変わらないのは、手に感じる温かさだった。つまり坂井悠二の隣に、平井ゆかりもいる。
「あれ? 平井さんも?」
「ちょっと待ってね。明かりを点けるから」
そこは平井ゆかりの自宅だった。
電灯に照らし出されると、坂井悠二は玄関に立っていた。背後に扉があり、正面は廊下だ。てっきり坂井悠二は自宅へ送られると思っていたけれど、平井ゆかりの自宅へ送られている。おそらく坂井悠二と平井ゆかりの記憶を見て、それぞれの自宅へ送ったのだろう。もしかすると保険屋は、うっかり転移先を間違えたのかも知れない。
「平井さんと手を繋いだままだったから、一緒に送られたのかな?」
「――そうだね。きっと、そうだよ」
平井ゆかりは顔を伏せて、その表情を隠した。
「じゃあ、僕は歩いて帰るよ。また明日、平井さん」
「うん、またね坂井くん」
それなのに坂井悠二の手は握られたままだった。
「平井さん? どうしたの?」
「坂井くん、あのね」
平井ゆかりは手を放せなかった。
「もう遅いから――泊まっていかない?」
平井ゆかりの家族はいない。
しかし平井ゆかりは池速人のことが好きで、池速人は坂井悠二の親友だ。池速人の想い人は知らないけれど、平井ゆかりの恋を応援したかった。それなのに坂井悠二が、平井ゆかりの自宅に泊まってしまっても良いのか――いいや、よくない。しかし今、この手を放したら、平井ゆかりの心ごと手放してしまうと思った。
「うん、そうだね。今日は夜も遅いから泊まっていくよ」
「そっか。そうだよね!」
それに不安そうだった。
平井ゆかりは勇気を出して言ってくれたに違いない。その気持ちを無駄にすることは出来なかった。坂井悠二は手を引かれ、平井ゆかりの自宅へ上がる。そんな平井ゆかりは嬉しそうで、それを見ると坂井悠二も嬉しかった。平井ゆかりが生きていることを、坂井悠二は実感する。それはそれは幸福だった。
坂井悠二はシャワ―を浴びている。
平井ゆかりは脱衣場へ、着替えを持って入った。すでに坂井悠二の自宅へ連絡し、食事も終えた後だ。扉に埋め込まれた樹脂パネルの向こうから、浴室の光が漏れている。その扉に寄りかかると、水の流れる音は大きく聞こえた。生まれたままの坂井悠二が、この向こうにいる。
「坂井くん、着替えを置いておくね」
「うん。ありがとう、平井さん」
坂井悠二から離れたくなかった。
わずかな時間も惜しくてたまらない。その肉体を抱き締めて、全身を擦り付けたかった。平井ゆかりは坂井悠二を、自分と同じものにしたい。坂井悠二を自分だけの物にして、もっと体を重ねたかった。そうして平井ゆかりと坂井悠二の区別も付かないくらい、同じものになってほしい。
着替えを置いて、脱衣場を出た。
高鳴る鼓動を胸に、平井ゆかりは平静を装う。変な所はないか、鏡に映して確認する。シャワ―を浴びた後、素顔は見せられなくて、やり直した化粧だ。初めてのことで、どうするべきなのか分からなかった。部屋の中をグルグルと歩き回り、改めて玄関の施錠とチェ―ンロックを確認する――おかしな所は、なにも無いように思えた。
「平井さ―ん! 着替えって、これ平井さんのじゃないの?」
「そうだよ―。ごめんね、あたしって一人暮らしだから、それしかないの」
「そうなんだ。じゃあ元の服でいいよ」
「学校の制服でしょ? そんな服で寝たらダメだよ」
坂井悠二の制服は、脱衣場から持ち出してある。
こうなれば平井ゆかりの用意した服を着るか、あるいはタオルを巻いて出るしかない。そうしてリビングへ現れた坂井悠二は、透けてしまいそうな白いワンピ―スを着ていた。それを着て外へ出るのは平井ゆかりとしても勇気のいる服装で、試しに部屋で着た後は死蔵していたものだ――そんな平井ゆかりの服を、坂井悠二に着せている!
「かわいい! 似合ってるよ、坂井くん!」
「ひっ」
「ん?」
「……ひらいさん」
平井ゆかりはニコニコだ。
坂井悠二は悲鳴を上げたのかと思ったけれど、それは平井ゆかりの名を呼ばれたに過ぎないようだ。きっと平井ゆかりの気のせいだろう。坂井悠二は恥ずかしがって、体を手で隠すようにしていた。たしかに女の子の服を着るのは、ちょっと抵抗があるかも知れない。しかし、それしか無いのだから仕方ない。
「平井さん、ズボンとか無いの?」
「うん、ないよ!」
「学校のジャ―ジとか」
「うん、ないよ!」
「……そうなんだ」
坂井悠二は諦めた。
平井ゆかりが無いと言えば、それは存在しないに違いない。きっと平井ゆかりは、この白いワンピ―スを着て欲しいのだろう。残念ながら坂井悠二に、その理由は分からなかった。いったい、どうしたのか。どうも平井ゆかりは、おかしい。頭のネジが外れたように、天高く舞い上がっていた。
「じゃあ、坂井くん。あたしの部屋で一緒に寝よ!」
「それは不味いよ!?」
「え―。あたしは寝ながら、おしゃべりしたいな―」
「う―ん……じゃあ僕は床で寝るよ。それなら良いかな?」
「よしよし、おっけ―! じゃあ、れっつご―!」
電灯を消して、窓から差し込む星の明かりに照らされる。
平井ゆかりはベッドで、坂井悠二は毛布を借りて横になった。そうして日常のことを話題に、おしゃべりしながら2人は過ごす。それは意味のある話題ではなく、寝て起きたら忘れそうな会話だった。やがて坂井悠二の声は聞こえなくなり、ス―ス―という寝息へ変わる。坂井悠二は先に眠ってしまった。
平井ゆかりは起き上がる。
衣擦れの音さえ大きく聞こえそうな無音の中、音を立てないように少しずつ動いた。頭が沸き立ちそうなほど緊張し、手足も震えてしまう。ゆっくりと床へ足を下ろし、一歩ずつ一歩ずつ坂井悠二へ忍び寄った。指先で毛布を摘まみ、ジワジワと持ち上げる。すると坂井悠二の足首が露出されていった。
もっと持ち上げてみたい。
ワンピ―スの裾から両脚が伸びていた。その奥は陰になって見えない。平井ゆかりは毛布へ潜り込み、坂井悠二の体を少しずつ上へ昇っていった。毛布に包まれた暗闇の中を進んでいく。息苦しさを覚えた後、毛布を抜けると、そこは天井を向いて眠る坂井悠二の隣だった。平井ゆかりは唾液を飲み込み、その横顔へ近付いていく。荒ぶる呼吸を抑え、吐息を震わせていた。
その時、坂井悠二が動く。
平井ゆかりを避けるように転がり、背を向けて横になってしまった。起きてしまったと思って、平井ゆかりは硬直する。石のように固まったまま、ス―ス―という寝息を警戒していた。たっぷりと時間をかけて起きていない事を確認すると、ゆっくりと坂井悠二の背中に抱きつく。
「……え? なに? なに!?」
起きてしまった。
素早く右手で坂井悠二の手首を握り、左手を首へ差し込みホ―ルドする。坂井悠二を背後から引き寄せ、平井ゆかりは体を密着させた。ワンピ―スのスカ―ト部分へ割り込み、坂井悠二と両脚を絡ませる。すると坂井悠二は固定され、そのまま動けなくなった。平井ゆかりは文字通り、坂井悠二に絡み付いている。
「平井さん? どうしたの? ねえ、こわいよ?」
「――ねえ、坂井くん。どうして、あたしを助けてくれたの?」
乱れた心を交わらせたい。
呼吸を荒くして、吐息を交わらせたい。
「それは平井さんが池のことを好きだったから――そうだよね、平井さん」
「坂井くんは、池くんの親友だものね。だから助けてくれたの?」
平井ゆかりは坂井悠二の視点を記憶している。
それは蘇生した事情を説明するために、保険屋の行ったことだ。
「そうだよ。池のためだった」
「あたしのためじゃなかったの?」
平井ゆかりのためだった。
その真実を告げてしまえば、もう――。
「平井さんに生きて欲しかった。それは平井さんの恋を叶えて欲しかったから」
「あたしのために借金を負ってくれて、あたしと最後まで一緒にいるって約束してくれた。それでも、あたしのためじゃなかったの?」
だって平井ゆかりは――好きなのだから
「うん、ごめん。そうなんだ」
「そっか……じゃあ、しかたないね。坂井くんは池くんの親友だものね」
だって平井ゆかりは――池速人のことが好きなのだから
「でも、誓ったことは本当だよ。僕は平井さんと最後まで一緒にいる」
「そうなの? だったら、あたしも坂井くんの親友だね」
「うん、そうだね」
「親友なんだから坂井くんのこと、ゆうちゃんって呼んでも不思議じゃないよね」
「え?」
「ゆうちゃんも、ゆかりちゃんって呼んでね」
平井ゆかりは絡み付いたまま離れない。
この手を放すことは死ぬまで無いだろう。ずっと側に居たくて、もう離れたくない。この手を放したら、心まで手放してしまう。そうなったら死んでしまう。そうなったら生きていられない。命を救ってくれて、一緒に借金も負ってくれて、最後まで一緒にいるって約束してくれて、心も救ってくれて、それが恋人でないのなら――
きっと、それは親友と呼ぶしかないのだから
第4話 友達以上、恋人未満