いつものように学校は始まる。
知らぬ間に人は消え、消えてしまった理由も知らない。音もなく静かに崩壊しつつある世界を前に、人は変わらない行動を繰り返すしかなかった。しかし、その停滞を批難するのは酷だろう。そもそも問題を解決する能力に欠けているからだ。そのために怪物を狩るフレイムヘイズは、もう存在しない。
坂井悠二と平井ゆかりは登校していた。
人の多い場所であれば、それを狙って人喰いの怪物も現れる。それも学校となれば、食料庫のようなものかも知れない。それでも怪物の存在が周知されていない以上、そんな事情は虚言に過ぎなかった。まったく理解されず、欠席する理由にならない。たとえ死へ向かうベルトコンベアであっても乗らなければならなかった。
不安から手を繋いでいる。
この世に潜む怪物の存在を、坂井悠二と平井ゆかりは知っている。その事実を何人も信じてくれずとも、互いならば信じてくれる。いつもの通学路は、死に向かう道だった。いつもの学校は、処刑場だった。世界は裏返って、おぞましい真実を晒している。その視界に映るのは街を漂う無数の灯火で、それらは怪物に喰われたト―チだ。そんな日常であっても2人ならば歩いて行ける。
「じゃあ、ゆうちゃん。教室で!」
「うん――ゆかり……ちゃん」
慣れない呼び名を捻り出す。
登校の途中で坂井悠二の自宅へ寄ったので、始業も近い時間だ。ずっと繋がっていた手を放し、平井ゆかりは親友から同級生へ戻る。坂井悠二よりも先に教室へ入り、親友の吉田一美と挨拶を交わした。やがて平井ゆかりに遅れて、坂井悠二はやってくる。そんな坂井悠二へ、自然と挨拶を交わした。
「坂井くん、おっはよ―!」
「おはよう、平井さん」
あれ?
吉田一美は違和感を覚える。
まるで毎日そうしているかのような自然な挨拶だった。しかし坂井悠二と平井ゆかりは、いつも挨拶を交わすような仲だったのか――そんな事はないはずだ。吉田一美は坂井悠二に片想いをしている。いつも意識しているから、だから坂井悠二の変化を見逃すはずはなかった。
「ゆかりちゃん、坂井くんと仲いいの?」
「昨日ショップで会った時に、お礼を言われたからかな? 授業中に助け船を出したこと」
それだけでは無いように思えた。
坂井悠二と平井ゆかりは互いを意識している。休み時間の訪れるたびに、その感覚は強くなっていった。まるで互いを知った仲のように、坂井悠二は平井ゆかりに合わせている。何も言わずとも、自然と話を合わせていた。不自然ではないこと、それこそ不自然に思える。きっと吉田一美の知らない事が、昨日の内に起こってしまった。
「……坂井くん」
吉田一美の声は遠く、坂井悠二に届かない。
どこか別の世界へ行ってしまったようだった。いいや、そもそも同じ世界に住んですらいなかったのかも知れない。吉田一美と坂井悠二は、まともに話した事もなかった。その恋心を吉田一美は明かした事がない。だから平井ゆかりと坂井悠二が付き合っても、それは裏切りではなかった。吉田一美にとって平井ゆかりは親友だ。
ただ、血の気が引いた。
手足は冷たくなって、それは頭まで這い上がって、凍ってしまいそうだ。体は固くなって、呼吸も苦しくなる。指先の感覚は消えて、残ったのは痛みだけ。吉田一美は平井ゆかりを、ずるいと思った――だって吉田一美の方が、先に坂井悠二のことを好きになったはずなのだから。だから同じ空間にいる事すら苦しくて、耳を塞いでしまいたかった。
――時間が止まってしまえば良いのに
薄白い炎が舞い上がる。
火線が足下を走り抜けた。
「これって!?」
「ゆうちゃん!?」
それを認識したのは、坂井悠二と平井ゆかりに限られる。
しかし人に過ぎない平井ゆかりも、そのまま動かなくなった。坂井悠二へ手を伸ばしたまま、平井ゆかりは停止する。そこは人喰いの怪物によって展開される、因果の断ち切られた小さな異界だ。広がった火線を追うように、薄白い炎の壁が迫ってくる。それは周囲の生徒達ごと坂井悠二を呑み込んだ。
燃えることはない。
空間を舞う火の粉は、世界に対する干渉の現れだ。そこは怪物の領域となり、そうでない者は停止する。世界から認識される事もなくなって、そこは一時的に世界から欠落した。この現象を坂井悠二は知っている。むしろ昨日も体験した。世界に潜み人を喰らう怪物――それは紅世の徒と呼ばれていた。
空中に現れたのはトランプのカ―ドだ。
それは次々に数を増し、教室へ広がる。その不思議な現象は、どうやって起こしているのか。どこに怪物がいるのか、坂井悠二は分からない。意思を持っているように動く、あのカ―ドが怪物なのかも分からない。ともかく坂井悠二は教室から廊下へ飛び出る。おそらく狙いは坂井悠二だから、同級生を巻き込まない位置へ移動したかった。
しかし分裂したカ―ドが流れ落ちてくる。
坂井悠二の背後で、轟音と共に教室は破壊された。机を切断したカ―ドは、そのままコンクリ―トすら貫通する。巻き込まれた同級生は、いくつもの部品に分割された。カ―ドは小さくても、その数は多い。あまりの威力に教室の床は崩落し、それに引きずられて周囲の壁も倒壊していった。
「うわああああああ!?」
とてもカ―ドと思えない威力だ。
それは怪物の喰らった力によって強化された結果で、その源は人だった。このような怪物に喰われた人は、やがて平井ゆかりのように消えてしまう。昨日はフレイムヘイズに撃退されたけれど、いつまで待ってもフレイムヘイズは現れない。なぜならば、炎髪灼眼のフレイムヘイズは、もう死んでしまったのだから。
『おかしいわ。フレイムヘイズは、いないのかしら?』
それは人に在らざる声だった。
無数のカ―ドに包まれながら姿を現したのは、小さな人形だ。フレイムヘイズの不在を確認した上で、虚空へ隠していた姿を見せた。かわいらしく空中で旋回し、さらに改めてフレイムヘイズの不在を確認する。この怪物は昨日、フレイムヘイズに撃退されている。その反動で警戒心は高くなっていた。
『罠ではないのかしら?』
その間に坂井悠二は逃げるべきだった。
しかし、できなかった。坂井悠二に傷はなく、逃げることに問題はない。これは手加減されていた。その理由は坂井悠二を破壊すれば、その中に秘蔵された宝具も入手できなくなるからだ。この停止した世界で平井ゆかりと違って動けるのは、その内包された宝具によるものだった。では、なぜ坂井悠二は逃げなかったのか。
教室の惨状にショックを受けていた。
崩れ落ちた教室、分割された同級生、もちろん平井ゆかりも例外ではない。たしかに学校に怪物の現れる可能性は考えていた。しかし、その認識は甘かったと言うしかない。坂井悠二を狙って現れた怪物によって、それに巻き込まれた同級生も死ぬ。存在を喰われて綺麗に死ぬのではなく、血と肉を撒き散らして汚く死ぬ。
――殺さなければならない
そうしなければ平穏な日常は訪れない。
坂井悠二は非日常を知ってしまった。そして平井ゆかりと支え合うことで、この日常を受け入れた。平井ゆかりは坂井悠二の鏡写しだ。平井ゆかりを救うことで、坂井悠二も救われていた。しかし、それでも足りない。それは冷たい憎悪ではなく、燃えるような殺意だった。
平井ゆかりは日常を受け入れた
そこで坂井悠二と一緒に居られれば良かった
――だが、坂井悠二は日常を破壊することを望む
人形の小さな手が、坂井悠二に突っ込まれる。
その宝箱に内包された宝具を、探り当てようとしていた。フレイムヘイズではない坂井悠二に抗う術はなく、人に在らざる力を持つ怪物と戦う力もない。このまま宝具を奪われるくらいならば、舌を噛み切って死ぬべきだろう。しかし坂井悠二は、そうする勇気も持てなかった。
怪物が宝具に触れる
『ぎゃああああああ!!』
その時、予想外のことが起こった。
坂井悠二に差し込まれていた、人形の手が千切られる。人形は悲鳴を上げて、坂井悠二から飛び退こうとしていた。人形が悲鳴を上げた一瞬、わずかに余裕がある。坂井悠二は床を蹴り、人形へ飛び付いた。よく分からないけれど、この世ならざる怪物を千切る力が、坂井悠二の中にある!
『はなせ! このミステスごときが!』
しかし、あまりにも坂井悠二は弱かった。
虫を払うような軽い一撃で、坂井悠二の胸部は圧し折られる。それだけで全身から力を失って、坂井悠二は廊下へ倒れ伏した。呼吸は止まったまま再開せず、急速に苦しくなっていく。はたして坂井悠二は、どれほど呼吸を止めていられるのか。その命を賭けて、実証する事になった。
『大丈夫かい? 私の愛しいマリアンヌ』
『ご主人様!』
新しい何者かの、声が聞こえた。
『申し訳ありません、ご主人様。ミステスを破壊してしまい……』
『謝らないでおくれ、マリアンヌ。戒禁について注意を促さなかった私のミスだ』
しおらしい少女の声で、人形は謝った。
『フレイムヘイズは戒禁を施し、ミステスを泳がせていたのだろう。己は気配を消し、身を隠す、念の入ったものだ』
『"炎髪灼眼"のフレイムヘイズは自在師だったのでしょうか?』
『最初の戦闘は偽装だったのだろうね。まともに炎も使えないフレイムヘイズと侮っていたが――表に出ない分、厄介なものだ』
『私で良かった。御主人様が御無事で、なによりも嬉しく思います』
『ああ、マリアンヌ。自分の身も大切にしておくれ。私は胸が張り裂けそうだ』
『はい、御主人様。優しい御言葉を有りがたく思います』
『さて、このミステスは壊れかけている。惜しいが下手に触らず、このまま中の宝具は転移させてしまおう』
『さすが御主人様、素晴らしい御考えです』
苦しくて堪らなかった。
どうしても呼吸は叶わず、体は小刻みに震える。その痛みは内側から破裂しそうで、怪物の会話に耳を傾ける余裕もなかった。それこそ初めて知る、坂井悠二の死だ。怪物に喰われてト―チとなる前の坂井悠二は、自身の死すら知らないまま死んでしまった。しかし今は、存在を喰われて綺麗に死ぬのではなく、血と肉を撒き散らして汚く死ぬ。
――死なねばならない
そうしなければ平穏な日常は訪れない。
あの怪物の悪行を見過ごすことはできなかった。どれほどの存在を喰らったのか、どれほどの人々を喰らったのか。これからも被害者は増え続け、あの怪物を止めるまで終わらない。次は家族かも知れない、あるいは友人かも知れない。そうして坂井悠二の平穏を脅かし続ける。
――だからこそ紅世の徒は、死なねばならない
やがて坂井悠二の命は尽きた。
その意思を失った死体は消える。そもそも坂井悠二の肉体は、怪物に喰われた残りによって形作られていた。それは人ではなく、人に似せて作られたト―チだ。その内側へ内封されていた宝具も、ト―チの死と共に去っていく。その人のようで人でない物体に最後まで残っていたのは、真っ黒に燃え上がる殺意だった。
第5話 ありふれた日常
吉田一美は片思いをしていた。
それは同級生の坂井悠二だけど、あまり親しくはない。まともに話したのは入学式の頃で、それっきりだ。坂井悠二の席を見ると、まだ登校していないようだった。もうすぐチャイムの鳴る時間で、坂井悠二にしては遅い時間だ。そう思っていた所へ、平井ゆかりは登校してきた。
「おはよ―!」
「おはよう、ゆかりちゃん」
親友の平井ゆかりと挨拶を交わす。
ついにチャイムは鳴って、坂井悠二は現れなかった。今日は欠席なのかも知れない。さらに授業時間が進んでも、坂井悠二の席は空いたままだった。家族の用事か、あるいは病気なのだろうか。そうして心配していると、平井ゆかりは奇妙なことをしている。カバンを持って、なぜか帰る準備を始めていた。
「ちょっと、あたし帰るね!」
「どうしたの急に!?」
「先生に言っておいて。おねがい!」
「ゆかりちゃん!?」
平井ゆかりは慌てた様子で帰って行った。
そこで、ふと吉田一美は気付いた。空のはずだった坂井悠二の机に、いつの間にか置いてあるカバンだ。いつから置いてあったのかと思って――最初から置いてあった事を思い出した。坂井悠二は昨日、カバンを置いて帰ってしまったのだろう。だって坂井悠二は今日、学校に来ていないのだから。