坂井悠二は自室で目を覚ます。
息苦しさを覚え、咳を繰り返した。ベッドに寄りかかり、痛む胸を押さえる。激痛を覚えるのは当然で、人形に胸部を潰されていた。しかし、しばらくして落ち着いてみれば、どこにも怪我はない。苦しさは幻痛だ。たしかに死んだはずの坂井悠二は、こうして生きている。
これは保険契約の効果だ。
平井ゆかりの蘇生契約と同時に、坂井悠二は死亡保険へ加入していた。そもそもメインは死亡保険で、蘇生は保険適用外の契約だ。だから高額の借金を負うことになった。死亡保険に従って坂井悠二は、健康なまま蘇生されている。さらに言えば怪物に喰われたト―チではなく、確かな存在を持つ人へ戻っていた。これはト―チ化を状態異常として、蘇生時に回復したからだ。
カバンは持っていない。
しかしポケットの鍵やハンカチは入ったままだった。怪物に破られた服も直っている。死亡時に所持していれば、それも復元されるようだ。しかし学校へ置いたままのカバンを取りに行く必要があった。坂井悠二は立ち上がり、扉に手をかける。しかし、そこで止まってしまった。
手が震えて、動かない。
死を刻まれた肉体は坂井悠二の意思に逆らって、学校へ戻ることを拒否していた。いいや、それは言い訳だった。体が動かないから学校へ行くこともできない。そう坂井悠二は思いたかった。それならば坂井悠二は学校へ行かなかったとしても、その責任を負うことはない。
まだ怪物は学校に居るかも知れない。
あるいは坂井悠二の生存に気付き、追ってくるかも知れない。そんな不安は積み重なって、坂井悠二を縛り付けた。学校へ行かないという判断は、とても正しい事に思える。扉から手を放せば幸せになれる。少なくとも今すぐに向かう必要はなく、後でカバンを取りに向かえばいい。
「――行きたくないな」
坂井悠二は扉を開けた。
学校へ行く必要はないかも知れない。しかし平井ゆかりを蘇生した責任を負っている。平井ゆかりを独りにしないと約束した。だから坂井悠二は学校ではなく、平井ゆかりへ会いに行かなければ為らない。平井ゆかりは異界の展開を認識していた。きっと不安に思っている事だろう。
「あら、ゆうちゃん。ゆかりちゃんと一緒に行かなかったの?」
「母さん?」
廊下で母親と出会う。
その言葉に違和感を覚えた。
「僕って、平井さんと一緒に学校へ行かなかったっけ?」
「ゆかりちゃんは独りで登校したでしょ? もしかして、ゆうちゃん部屋で眠ってた?」
「うん、そうみたい。夢だったのかな。ごめん、母さん。学校に行ってくるよ」
登校していなかった事になっている。
坂井悠二は朝に自宅へ寄り、平井ゆかりと共に登校した。その時に母親と会っているから、平井ゆかりと共に登校した事を母親は知っているはずだった。しかし教室にいた坂井悠二が消失した事で、坂井悠二は学校へ行っていなかった事になったらしい。これは存在の消失によるもので、蘇生の副効果ではないのだろう。
「そっか、靴は学校の下駄箱にあるんだ」
坂井悠二は学内用スリッパを履いたままだ。
古い靴を出して、学校へ向かう。また怪物に襲撃される恐れを、坂井悠二は捨て切れなかった。いつもの道で堤防の上を歩かず、隠れるように川岸へ沿って進む。すると上から見ても死角となっていた橋の下に人影が見えた。フレイムヘイズだった少女が、橋の影で横になっている。
「ちょっと、大丈夫!?」
少女は死んだように動かない。
濡れたジャ―ジを抱き締め、下着のまま横になっていた。朝に登校した時は気付かなかったけれど、ずっと昨日から居たようだ。触れてみると死体のように冷たい。しかし、弱々しい呼吸はあった。ともかく、こんな下着姿で体調の改善する理由はない。坂井悠二は制服の上着を脱いで、少女へ被せた。
「救急車を呼ぶから、ちょっと待ってて」
「――やめた方がいい」
坂井悠二の背後に立っている。
ロングコ―トで身を包んだ保険屋は、坂井悠二を呼び止めた。
「その少女は存在しない。戸籍はなく、健康保険に入ってもいない。治療を断られる」
「だからって、このまま放って置けません!」
「救急ではなく警察に通報するといい。あとは警察の仕事だ」
それは、そうだろう。
しかし坂井悠二は素直に受け取れなかった。警察に任せて、そうすれば解決するのか。この世に潜む怪物に対して、治安組織は無力だ。その事から坂井悠二は、警察が万能でない事を知っている。病院だって魔法使いではない。この世に存在しない少女は、どのように扱われるのか。
「警察に通報すれば治療を受けられますか?」
「どうだろうな。不法入国者として収容施設へ送られるんじゃないか?」
「そんな! あなたの力で回復はできないんですか?」
「それは私の仕事ではない」
また、その言葉だ。
何度その言葉を聞いたのか。仕事じゃないからと言って、できる事をやらない。弱い坂井悠二と違って、保険屋は多くの人を救えるはずだった。きっと怪物だって――紅世の徒だって排除は難しくないのだろう。しかし保険屋は、どうでも良いと思っている。平たく言えば、やる気がない。
「仕事、仕事って! お金を出さないと治療もしてくれないんですか!?」
「いいや、金を出されても治療はしない。私の仕事は契約に従って蘇生すること、それだけだ」
坂井悠二は無力だ。
だから他人に力を求めてしまう。自身に不足している力を、他人で補おうとしてしまった。しかし、それは穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるようなものだ。他人の力を頼るほどに自信は失われ、さらに他人の力で補おうとしてしまう。いずれ他人の力に頼らなければ、なにも出来なくなってしまう。それを自分の力と思い込んだまま正気を失うのだ。
「すいません。あなたには関係のない事でした!」
「悪いな」
坂井悠二は投げ捨てるように言ってしまう。
保険屋の力を借りられない。それならば警察へ通報するしかない。それで良いのか。この何もない少女は、これからどうやって生きるのか。坂井悠二の知らない所で死んでしまうかも知れない。そうなっても坂井悠二の責任ではない。しかし今ならば少女は、坂井悠二の前にいる。今ならば!
「坂井悠二、止めておけ。もう、君の両手は一杯だ」
保険屋の言う通り、借金を負っている。
平井ゆかりを蘇生して、平井ゆかりと共に負った。平井ゆかりの命を助けた責任を、坂井悠二は負っている。もはや坂井悠二の人生は、坂井悠二だけの物ではない。平井ゆかりが生きても責任を負い、平井ゆかりが死んでも責任を負う。平井ゆかりの命を助けた時、その人生を坂井悠二は背負ってしまった。
「僕は、さっき紅世の徒に襲われて死にました。この子なら力になってくれるかも知れません」
「いいや、もうフレイムヘイズではない。宝具とやらを内包する君にすら劣る、ただの人間だ」
どこにでもいる少女だ。
平井ゆかりのように、怪物の張った結界で停止してしまう。
「フレイムヘイズだったのなら知っている事もあるはずです」
「戦力として役に立たなければ意味はない」
「その力を奪ったのは、あなただ! それなのに、そんな事を言う!」
「悪いが、力を返すつもりはない。それは私の仕事ではない」
「それは、もう何度も聞いた! うんざりだ!」
坂井悠二は少女を抱き上げる。
しかし予想以上に重く、ヨロヨロとしか歩けない。両腕は早くも悲鳴を上げて、プルプルと震え出していた。それは人の重さだ。坂井悠二にとって、それは重過ぎる。もっと強くなれば、もっと成長すれば、もっと大人になれば、その重さに耐えられる。それでも今は、まだ早い。
「少年――世界を救うのは、君の仕事ではない」
坂井悠二は足を止める。
そして少女を背負うことにした。そもそも悪かったのは運び方に違いない。そう思ったものの、意識のない人間は背中に掴まってくれなかった。もはや背負うのではなく、背中に載せている。軽そうな少女を載せた程度で、坂井悠二の背中は潰れそうになっていた。そんな不様な格好なのに、自宅まで運ぶつもりだ。
「ゆうちゃん!」
堤防から平井ゆかりが声をかける。
その時、坂井悠二は意識のない少女を運び、すさまじく怪しい保険屋も側にいた。橋の影となっている所へ、下着姿の少女を連れ込んでいる。それは少女を誘拐する光景としか言えなかった。しかし、その少女を平井ゆかりは見た記憶がある。保険屋に与えられた坂井悠二の視点に、その少女は存在していた。
「ゆうちゃん、大丈夫だった?」
「うん、ゆかりちゃんも大変だったね」
「この子ってフレイムヘイズ? ん? フレイムヘイズだった?」
「うん、そうなんだ。昨日から、ここに居たみたい」
「すごく体調が悪そう。救急車、呼ぶ?」
「治療は受けられないかも知れない。警察も、どうだろう――よくない事かも知れないけど、僕は家へ運びたい」
「ゆうちゃんの家?」
「うん、ゆかりちゃん、手伝ってほしい。頼れるのは、ゆかりちゃんだけなんだ」
「いいよ。ゆうちゃんが独りで持てない荷物だったら、あたしも手伝ってあげる」
平井ゆかりは少女を覗き込む。
この少女を坂井悠二は、自宅へ連れて行くつもりだ。誘拐は勘違いかと思ったけれど、やっぱり誘拐だった。それは許されない行為だ。平井ゆかりは親友だから良いけど、この少女と坂井悠二は一夜の過ちを冒してしまうかも知れない。しかし坂井悠二としては、自宅へ運ぶしかなかった。
「でも、あたしの家にしよっか。あたしは一人暮らしだから問題ないよ」
「そうだね、ごめん――ありがとう、ゆかりちゃん」
「えっへん! 褒めて、褒めて―!」
「さすが、ゆかりちゃん! すごいよ、ゆかりちゃん!」
それに少女を引き取れば
――きっと坂井悠二は、平井ゆかりの自宅を訪れてくれるだろう。
「そうか。では、平井ゆかりの自宅まで転送しよう」
そう言ったのは保険屋だった
いったい、どういうつもりなのか。さっきまで「仕事ではない」と言って拒んでいた。そう言えば保険契約を終えた時も、似たような事を言って自宅へ送ってくれた。しかし今回は、保険契約と関係ない。それに名もない少女に対する反応は、あまりにも冷たかった。まさか保険屋は、平井ゆかりに対して甘いのか。
「仕事でない事は、やらないんじゃないんですか?」
「そうだな。これは仕事ではない――私用だ」
「――私用!」
やはり、そうなのか。
異世界帰りの保険屋は、青春を欠落している。保険屋は過去を否定していたけれど、それを埋めるため子供に手を出しても不思議ではない。保険屋と平井ゆかりの間に、少女を抱えたまま坂井悠二は割って入った。平井ゆかりは池速人に好意を抱いている。保険屋の挟まる隙間は、どこにもない。
「坂井悠二、それは違う」
「勝手に人の心を読まないでくれます?」
保険屋の理由は、坂井悠二だ。
異世界から帰ってきた時、保険屋に戸籍はなく健康保険も入っていなかった。それでも異世界で得た力を使えば、生きることは難しくない。そのまま保険屋は他人に助けられる必要はなく、他人に助けられる事もなく生きてしまった。でも本当は名もない少女のように、坂井悠二のような誰かに、この苦しみを分かって欲しかったのだ。
第6話 弱くて小さな子供の救世主
保険屋の保険契約まとめ
保険契約(保険内)
月1000円で死亡時に蘇生、回数無制限
蘇生時に状態異常は回復される(ト―チ化など)
蘇生契約(保険外)
未加入者を対象とした保険外契約なので、高額の料金を請求される
債務を担保するため、同時に保険へ加入することになる
こちらも蘇生時に状態異常は回復される(ト―チ化など)
1回あたり1000万円