福沢諭吉『学問のすゝめ』
1.諸葛孔明
東京は人が多い。轟音を奏でる地下鉄から解放されて、そう思った。見渡せば人の海だった地下の駅から出れば、眩しい太陽が地上を照らしている。四月、春の陽気が満ちた海風が私の頬を撫でた。高校生活の始まる日として、一般論的に言えば実に好ましい陽気なのだろう。私の内心にある疲労を除けば。
「面倒なものだ、仕事は」
行きたい場所に行くのなら、少しは気分も向上するのかもしれないが、生憎とそういうわけでも無い。行きたい場所ではなく、行かないといけない場所にいるのであるからだ。海の上に突き出た一本道の先に、私の目指す場所がある。周囲を見渡せば、遠くには高級マンションが天に突き出していた。
この世界は……と言うよりこの国は平等という事になっている。それはある意味では事実で、ある意味では事実ではない。その捉え方はその人物の置かれた環境が左右し、環境が変われば思考も変わるだろう。もし、真の意味で平等な世界を誕生させたければクローンを量産するしかない。だが、人間が感情を持つ生物である以上、例えクローンを量産してもいつかは逸脱個体が出る。完全な平等は不可能だ。さもなくば、天才はいない。勉強すればだれでも優秀になれるわけでもなく、成長の極限は人それぞれに設定されている。
だが少なくとも人類はその虚構に過ぎない平等を手に入れるため血を流し続けた。その結果、幾千万の死体の上に取り敢えずこの国の安寧は成り立っている。完全平等ではないものの、農奴はいないし貴族もいない。それで十分ではないか。おそらく現状の制度ではこれ以上は望めない。凡そ平等を叫ぶ人間は恵まれていない方に属している。何故皆こうは思わないのか。搾取されたくないのなら、搾取する方に行けばいい、と。倫理的にはかなり間違っている。が端的な解決策だ。尤も、貧民ほど権力を握れば豪華絢爛な生活を求める事が多いと歴史が証明している。自由と平等を叫んだものが次の既得権益になるのだ。人類史はその積み重ねである。
多くの人間は天才ではない。とは言え、天才とは言え一人では世界を変えられず、我々も彼らに太刀打ちできない訳でもない。太刀打ちするための数少ない方法が徒党を組んで立ち上がることだ。一人の英雄は百万の凡人には勝てない。いつだって世界を変えるのは名もなき誰かだ。
100点の人間を作るのは不可能でも、90点の人間を量産することはできる。それは教育だ。教育こそがこの世界を変えていける。現在できないなら、未来に託すしかない。だがただ祈っていても埒が明かない。であれば変えていける存在を作るしかない。1人では難しくても、90点の人間が手を取り合えば必ず未来はいい方向に進んでいくはずだ。私は少なくともそう信じていた。
これから進む場所が、そういう教育を行う場所であると、個人的な願望としては信じてやまない。しかし、理想とは裏切られるものだ。それでも虚しく願い続けるのは、私が人間であることの証左なのかもしれない。
父親が死んだ。母親はもっと前に死去していたため、私に残された親は彼だけだったのだが、元々かなり年を重ねていたので妥当な老衰であるとは思う。元々諸事情あって離婚した父親の所でここ数年は暮らしていたのだが、私の法的な庇護者は消滅してしまったのだ。それは哀しかったが泣きわめくほどでは無かった。というより死んでくれてせいせい……というのは少し可哀想だろうか。とは言え、甘んじて受け入れて欲しいと思う。彼は私にとって、少なくとも良い父親では無かったのだから。
ここで進路を迷っていたら我が祖父に進学先を指定された。命令には従わないといけない。なので私は高度育成高等学校という、この日本が作りだした最先端の教育の場、という事になっている場所に向かうのだ。しかし、本音を言えば行きたいわけではない。半ば強制的に、仕事として行く羽目になってしまったのである。何故外にいたいのかと言えば、簡単な話だ。なにせ、3年間も外出禁止の監獄みたいなところなのだから。面会できるだけ刑務所の方がマシかもしれない。
そんなこんなで駅まで一時間、コンビニ……なにそれ? と言うド田舎からやって来る羽目になった。
全学年で30人くらいの中学の人々に見送られ、前泊したが東京の街並みにやられ人の波に疲れた挙句、何とか高度育成高等学校に向けて繋がる道にたどり着いた。暇だと思考は回り始める。これまで諸々の準備に駆けずり回って来たがやっと落ち着けたせいだろう。この学校は3年間外部との連絡は断たれる上、学校の敷地内から出るのは禁止された寮生活になるが、60万平米を超える敷地内は小さな街になっており、何1つ不自由なく過ごす事のできる楽園のような学校。と書いてあった。しかしそれは本当なのだろうか。美味しい話には裏がある。綺麗な花には棘があるように。
そもそも、外部との接触とは具体的にどこまでなのか。それが書いてなかった。普通に考えたらおかしいだろう。幾ら教育機関だからと言え、ある種の監禁を強いる事が許されるのだろうか。何の為に準監禁生活を強いるのか。外にバレたらマスコミなどに叩かれることを中でしてるからだろうと推測している。でなければ、情報公開をしない意味が分からない。携帯電話は支給すると言う文言があったが、これも位置情報や通信情報を取得しないからではないのか。
他に考えれば希望の進学先・就職先にほぼ100%応えるってのも怪しい。じゃあ卒業しました、中央官庁に入れて下さい! って言って入れるだろうか? そんな訳はないだろう。と言うか、そんなことしてたらいつか問題になると思う。何か裏があるのは確実だ。では仮に100%進学先の希望に応えてくれるとしよう。日本国内ならまだいいだろう。だが、海外大学はどうなるんだろうか。アメリカやイギリスはまだ日本との関係が良好だが、日本政府が絶対工作できない国もある。だから『ほぼ』と言って逃げ道を作っているんだろう。清華大学と書いて本当に入れたら尊敬しよう。中国一の名門大学だ。ついでに世界3位の大学でもある。頑張って政府と交渉してくれ。
他にも疑問は幾つかあるが、それを解決するために色々探せる範囲でデータを漁っておいたのは正解だった。情報は命より重い。だが、まぁ私はその就職率云々はどうでも良い。とにかく、この高校を卒業することが私の目的であり、それ以外はさして重要ではない。どのように振る舞うのかは任されているため、そこは私の自由だが、とにかく卒業さえすればなんでも良い。でも可哀想な話だとも思った。国税を投入して頑張って育成した人材が確実に一名、国にとって役立たないどころが害になる可能性が高いのだから。日本国民の税金で三年間過ごせるのだから、こんなにありがたい話は無いだろう。
中で何してるのか徹底的に秘密主義の学校だ。入学前に、この学校のカリキュラムの仔細を漏らさないという誓約書まで書かされた。破るととんでもない額の違約金を吹っ掛けられる。そんな学校だ。観察と情報収集を怠ると死ぬ可能性すらある。だがそれは困る。死にたくないし、卒業しなくてはならない事情がこちらにはある。こんな生徒は私くらいだろうと思いながら歩を進めた。
校門では晴れやかに桜が舞っている。花吹雪に目を細めた後案内板を見て、指定された教室に行く。Aクラスと言うのが私の今年の所属らしい。A~Dまであるのは把握している。40人の生徒が×4クラスで160名。それが毎年の入学定員だ。普通の学校なら多少変更があるものだが、この学校に限ってはそうでは無い。その少ない枠を勝ち取りに、全国から受験生が来る。国費で三年間を賄えると考えれば、家庭に問題があったり経済上裕福ではない家庭からすれば是非とも勝ち取りたい枠のはずだ。私のせいで誰かの一枠が埋まってしまったことには、小さな慚愧の念を感じる。
下駄箱で靴を上履きに履き替えて、廊下を見回す。気になる処は幾つかあるが、基本的に広くて綺麗なつくりになっていた。学校の廊下なんて多少は汚いものであると思うが、徹底的に掃除をしたのか随分と新築のようだった。この学校自体は四半世紀ほど前に出来たというのに。
手洗い場の鏡で自分の姿を確認する。そこまでおかしくはないはずだ。桜貝色の唇は発色が良いし、白い肌も特に問題ない。髪や目も異常なし。満員電車に揺られ、日差しの下を歩いてきたけれど、特段容姿に悪影響を及ぼすことはなかったようだ。身だしなみは気を付けないといけない。自分の顔を見るのは好きではないけれど、こればかりは仕方ない事だった。第一印象は重要なのだ。人は見た目が九割とも言うのだし。
教室に入ると綺麗な部屋だとかより先に違う感想が出てきた。まず人が多い。このクラスの人数で我が母校の全校生徒を上回っているという驚愕の事実があった。しかも全員知らない人である。全員顔見知りみたいな環境で暫く生きていたせいだろうか、面食らっている。もう帰りたい気分だった。元々はこんな質ではなかったのだが、ここ数年の生活は精神構造を蝕んでいたらしい。
「すみません」
唐突に後ろから声をかけられ、思いっきり入り口を塞いでいたことに気付いた。完全に迷惑な人である。
「申し訳ないです。すぐにどきますので……」
パッと飛びのき教室の中に入り、後ろを振り向く。色白の肌に銀髪でかなりの細身。目立つ容姿だが目を引くのはその杖だろうか。とは言え、それに注視するのは失礼だろう。こちらに非があったにも拘わらず初対面の人物に無礼の上塗りは絶対に止めるべきだ。
「申し訳ありません」
「いえ、中に入りたかっただけですから」
そう言うと彼女はそのまま教室内に入り、前方のホワイトボードに貼られた座席表を見て自席に座って行った。ああ、あそこを見れば良いのかと見ると、なんと隣席だった。最悪だ。初対面が大事なのにこのざまとはついていない。頭を抱えながらも、取り敢えずクラスメイトの名前は覚えた。最初のコンタクトが今一つだったのはもう仕方ないので、諦めるしかないと嘆息し、鞄を置いて席に座った。席の場所は後ろの方だ。そっちの方が教室全体を俯瞰しやすくて良いだろう。
会話をすべきか迷うが、黙っていてもどうしようもない。登校を妨げてしまった隣人は本を読んでる。しかし座視して事態を見守るのも得策とは言えないだろう。
「その本、面白いですか」
「興味深い内容ではあります」
なんか微妙にはぐらかされた解答が帰って来た。とは言え、面白さだけ見れば微妙だが展開している説は興味深い内容だったのも事実なので、適切な解答かもしれない。しかしこのままでは話題が終わってしまう。それはマズい。いや向こうからしたらそっちの方が良いのだろうけれど、私は困る。相手について多少なりとも把握はしたい。
「今、何ページ目です?」
「197ページ目ですね」
「197ページ目……冒頭は『世界は加速的に拡大し、我々の世界は文明単位の歴史は失われつつある。同じ時代を生き、同体験をした者同士であっても最早見ている景色は違ったものになってしまった。それでも全ての人類が同列の歴史を語る事は可能なのだろうか。現代史は今、その問いを突き付けられている』でしたか?」
視線を紙面からずらさなかった彼女は始めて私の顔を直視した。
「驚きました」
「一度見た文章なら忘れないと言う私の数少ない特技です」
「それはなかなか便利な特技ですね」
「そうでもないですよ」
「そうですか?」
「ええ。例えば死ぬほど面白くない本があったとします。しかし、最後まで読んでしまった。普通の人は『なんだこれ面白くないなぁ』となってすぐ忘れてしまおうとするでしょう。しかし……」
「忘れられない、と」
「そういう事です。すみません、なんだか自慢みたいになってしまって。話しかけるきっかけが無かったものですから」
これのおかげで助かっている部分も大きい。社会科や理科は教科書を忘れなければかなりの点数は取れる。数学も公式や定理を忘れないし、英語も単語を暗記できる。ここに脳のリソースを割いているのか。それとも海馬との接続が良いのか。なんにせよ、人は130年分の記憶を溜められるとどっかに書いてあったのでそれをフル稼働させればそれくらい可能なのかもしれない。
「随分と……長い髪ですね」
「切りに行く時間が無かったモノで。前髪だけは自分でどうにかしているのですが。おかげで乾かすのに時間がかかりますよ」
今度は相手から話しかけてきた。付けた簪の装飾がチリンと音を鳴らす。私の腰まで垂れている髪は椅子に当たっていた。
「あの、失礼かもしれませんが、制服はそれで良かったのですか? スカートがお嫌いなら、私の記憶では女子用ズボンも一応あったと思いますが」
隣人はどう対応したらいいのか困ったような声と顔で私に尋ねた。少しだけ間を置いて、私は彼女の言っている言葉の意味を理解する。
「私は男子ですので、これで大丈夫です」
「そうでしたか、それは失礼しました」
「いえ、よくある間違いですので、お気になさらず」
声音をわざといじって調整しているせいで、女子と勘違いされたらしい。今の世の中は多様性の時代だ。男子の格好をしている女子だって受け入れるのがスタンダードになりつつある。この学校はそういうところはしっかりしており、申請すればその辺の配慮はしてくれるようだ。よく分からないところで親切だが、逆に言えば優秀であれば個人の性別に関する諸々などそこまで重要視していないという事なのかもしれない。
隣の彼女の勘違いはごく平凡なモノだった。
「申し遅れました、私の名前は
「ご丁寧にありがとうございます。私の名前は坂柳有栖。ご覧の通りの身体ですからご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそご丁寧な挨拶、痛み入ります」
その口元には微笑みを浮かべている。その目は何かを見定めるような視線を向けてくる。なるほど、都会は怖いものだ。都会にコンプレックスを抱え、それを拗らせた同郷の人間が言っていた。「都会人には気を付けろ。笑っていても腹の中で何を考えているか分かったもんじゃない」と。言われずともわかっている。初対面の人間に胸襟を開くほどお人よしじゃない。だが、それを表に出すのも得策ではない。一見胸襟を開いたように。しかし限界まで警戒を。それが私の信じる正しいやり方だ。
視線、表情筋などから人間の感情や思考は読み解ける。どれだけ取り繕っても、だ。そして私はそれを知りながら振る舞う。一般的な相手から最も好感を得ることが出来る振る舞い方で。
しかし坂柳、かと内心で考える。事前に集めた情報にそういう名前があった。この学校の理事長が坂柳という名字だったはずだ。そこまで多い名字ではないので、もしかしたら関係者なのかもしれない。だとしたら、この学校の普通は気にしない制服事情を知っていてもおかしくなかった。理事長が時代に向けた対応をしないといけないと、家庭で話しているのかもしれない。
「あなたは何故この学校へ?」
「学費が無いからですかね。後は住処と光熱費が無い」
「就職率……等ではないのですね」
「貧乏人には死活問題なのですよ、そういう些細なことが。それに、あなたが信じていたのならば申し訳ないですが、私はこの学校の謳い文句を信用していませんので」
「国営機関なのに、ですか」
「国営だからこそですよ。希望する進路にほぼ100%とは胡散臭い塾の広告でももう少しまともな嘘を書きます。清華大学とか金日成総合大学でも希望して入れるんでしょうか。そんな訳ないと思いますけどね」
「面白い視点ですね」
「取り敢えず卒業できればそれで良いんです。税金で衣食住を保障され、高度であろう学習を受けらればそれで。後は平穏な生活であれば問題ないんです」
「平穏とは、具体的には?」
「戦争とか起きなければ平穏と呼べるでしょう。私にとっては」
人が増えてきたので周りをチラリと見る。禿頭の大柄な生徒が既にグループを形成している。男子が多いようだが。なにもグループに入る必要はないと考えている。最低限話せる関係にあれば、学校生活を送る上に大きな問題は発生しないだろう。むしろ、グループに入るとその対立に巻き込まれやすい。彼がカリスマその1だとしたら、隣席の彼女はその2だろう。私の好みではないが、その恵まれた容姿はカリスマとなりえる。何か起きても平穏でいるためには、中立でいる事が一番のはずだ。
学生は理性が働きにくい。思春期の暴走しやすさと相まって、冷静な思考や損得勘定を上回る事もある。特にこういった学校は閉鎖空間なのだから、なおのこと。しかしそれにしても容姿の整った生徒が多い印象を受ける。ここは芸能高校なのかと一瞬錯覚してしまった。もしかしたら、私の知らないだけで、駆け出しの芸能人もいるのかもしれない。ここを出れば望むキャリアが手に入ると考えれば、悪くない選択だろう。
そんな中で、私の解答に隣人の口元が小さく弧を描く。
「予想外に面白い生活が送れそうです」
「それは何よりです。あなたのこれからの学生生活における幸運をお祈りいたします」
程よい距離感を保つ。その為に会話をする。取り敢えずその目的と行動目標は達成されたと言えるだろう。そして、双方が話を切り上げようとしたのは理由がある。それは至極単純な話で、担任教師と思わしき人物が教室に入り、着席を要求したからだった。
学力:A
知性:A
判断力:A
身体能力:B-
協調性:B
学校からの評価:文武共に優秀な成績を残し、出身校からの評価も高い。発想の飛ばし方や知識の応用力に関しては、高校一年生の生徒としてはかなりの実力を持っていると言える。ただし中学校入学以前の経歴によりD、もしくはCクラスになる可能性もあったが、理事長判断でAとする。よって、今後はAクラスでの研鑽を期待する。
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