『アドルフ・ヒトラー』
私の問いに、彼女は何も言わなかった。特段表情を変えるでもなく、驚くことも怪しむことも蔑むこともなく、ただそこにいた。
「……そう」
「深くは問わないのだな」
「聞いても教えてくれないのは目に見えてる上に、触れられたくない部分は誰にだってあるし。そうでしょう?」
「よくわかっているようだ」
「変な事聞いて悪かったから。忘れて」
「ああ、そうするとしよう。お前は何も聞いていないし、俺も何も言っていない」
空気が元に戻り、そこからは普通の会話が続く。拍子抜けしている自分がいた。まさか、無かったことにするとは。しかし、彼女にとってすれば明らかに地雷案件に首を突っ込むことになるのは見えていたのだろう。表の部分だけを知れればそれでいい。裏を知ると戻れない。そう思っての判断だったのか、それとも単なる本能か、飽きたのか。知る術は無いが、あまり掘り起こされたくない過去を聞いてこないのが嬉しくも感じられた。
普段通りの顔。さて、その普段通りとは一体どんな感じなのだろうか。私にはそれすらもわからない。元々の自分の顔がどういうものだったのかも、もう忘れてしまった。すっぴんの姿は、もちろん寝る時や入浴時はそうであるけれど、その時に鏡を見ても自分の顔に違和感を抱いてしまう。別に整形したわけでも無いのに。
結局それから何も無かったように彼女は学習を終えて部屋を後にした。根掘り葉掘り聞き出せばこちらの弱点を握る事も出来たかもしれないのにしなかったのは何故だろうか。動揺していたのか、そういう思考回路にならなかったのか。それとも……信頼しようとしているのか。だとしたら気を遣われたのだろうか。あり得ない、こんな短期間でと思う自分がいる。他人を容易に信用は出来ない。地獄を生き延びていない者は尚更。
だが、彼女を信じたい自分がいるのは、隠しようがない事実であった。
こちらの事情など関係なく時は進み、順調にテストを迎えた。全く過不足なくそっくりそのまま同じ問題が出題された時にはいささか閉口すらした。数日のテスト期間はあっという間に過ぎ去る。デジタル採点なのはシステムが良く出来ている証拠だろう。記述以外は全部自動採点だ。正確性もその方が高いし、良いのではないだろうか。
「欠席者はいないようだな。ではこれから中間テストの結果発表を行う」
重要なのはテスト本体ではなくむしろこっち。さて、結局最後までこのクラスには過去問題と全く同じ旨を伝えなかった。他クラス、特に売りつけたBクラスには暗記している者もいるかもしれないが、このクラスはそうせず地頭+私の冊子で勝負になるはず。ここでいい結果を出してくれないと困る。
今回のような全く同じ問題なんて言うのは今後はあり得ない。だとすれば、楽を覚えずしっかり勉強して実力にしてもらった方が断然有利だ。その際にアベレージが優秀で努力を出来る人間が多いAクラスは最大の優位性を発揮する。
「小テストに引き続き、中間テストでもお前たちAクラスは個人・平均共々学年トップの成績だった。赤点を取った者もいない。上々の結果と言えるだろう」
どの教科も100点が多くいる。日本史Aや数Ⅰ・Aではクラスの75%が100点という好成績を叩き出した。他にも90点台がほとんどであり、80点台も数えるほどしかいない。70点台は皆無だ。
勿論過去問を元に、もし同じ問題が出題されなくても100点に近い点数を取れるような冊子を作っていたのでキチンとやって貰えれば同じような結果になるのは確定だったが。他の有象無象はどうでも良い。大事なのは私の部下だ。手塩にかけて勉強の面倒を見てきたんだ、半端な点数では許さない。
頭の中で計算し、合計を出す。彼女は1000点満点中988点。失点12。……まぁ及第点だろう。十分よくやったと思う。元々Aクラスの中では標準より少し下くらいの成績だったため、ここまで上がったのなら大丈夫だろう。過去問とその答えもほぼ使わないようにして授業をしてきた。彼女は今回の試験の絡繰りを知っているが覚えて挑んだわけではないので問題はない。
「退学者を出さなかった褒美として、夏休みにはお前たちを南国の島へバカンスに連れて行ってやる。楽しみにしておくといい」
そう言い残し担任は去って行く。バカンスねぇ。調査すべき事項が増えた。とは言え、動くのは私ではないのでそう気に病むことではないのだが、夏に何らかの特別試験が行われるのは必定だ。暑いのはそんなに好きではない。小さくため息を吐きだした。
「今回の試験、過去問題と試験内容が全く同じでしたね」
「ええ、驚くべき偶然です。学校側の救済措置なのでしょうね」
「シラを切ろうとしていらっしゃるのかもしれませんが、それは流石に苦しいですよ?」
案の定と言うべきか、私の隣人はそこを突いてくる。私を傘下に加えたい。それもなるべく私から自発的に加わって欲しい。だが、同時に彼女の中には違った欲望も存在している。強者を屈服させたい。私に跪かせたい。そういうサディスティックな色をした目が、私を捉えた。
「確かに、私は同じであることに気付いていました。しかし、敢えて言いませんでした」
「何故でしょう? もし明かしていれば全員100点満点もあり得たかもしれません」
「ですが、それでは何の実力にもならない。学習とは積み重ねです。今回の範囲を完璧にすることで、次回の範囲が理解しやすくなる。反対に、キチンと理解していないのに答えだけ暗記して満点を取っても次に繋がらず、楽を覚えた精神だけが残る。何も良い事はありません。ですので、元々自頭が良く努力の出来る人が揃っているクラスなら言わなくても問題ないと判断しました」
「私たちが信用できなかったと?」
「いいえ。ですが、どうしても人は気が緩む生き物ですから。どんな優秀な生徒相手でも退路は断っておく。それが優しさだと思っておりますので。丸暗記せずとも点数を取れるような冊子も用意しましたし、結果的にそれが功を奏したのかご覧の結果。問題は無いと思いますが?」
彼女は天才だろう。私よりも知識面では優秀だ。しかし、優秀な記憶者が優れた教師ではないのもまた自明の理である。教える事に関しては彼女よりも私の方が実績も経験も才能もあると自負している。
それ自体は彼女も理解している。だからこそ、冊子の話をされると言い返せなくなる。あれを越える物品を自分に用意できないから。自分が出来るのは部下に命じて過去問を先輩から購入させ、派閥内に配る事のみ。後は頑張れスタイルだ。私はそれがスタートラインであり、そこから更に渡した相手が実力アップ出来るようにしている。
どれほど優れた人物でも、1人では生きてなどいけない。故に、この世界に王はいらないのだ。
「乾杯!」
高らかな声が響く。さっさと帰宅しようと思ったが、割と強引に引き留められ祝勝会なるものに参加をお願いされてしまった。断ると評判に関わりそうなので、一抜けしようとしていた部下を強制連行し参加している。祝勝会、もっと言えば打ち上げなのだろう。勉強会の主催者2名と私に感謝をする会と言い換えても良いだろう。東奔西走してきたおかげか分からないが、派閥対立はあるもののそこまで表立ってはやらず、個人間では交流も多少はあるようだ。
あの後偵察を行ったが、どのクラスも退学者は存在しなかった。一番の懸念事項であったDクラスですら、50点を切っている生徒は存在しない。あの時図書館で騒いでいた成績不振の男子3人も無事に突破したようだった。過去問に気付いたかは分からない。櫛田が私のヒントに気が付くか、もしくは他の誰かが自力で導き出した可能性もある。あのクラスは馬鹿の集まりではなく成績優秀でも人間性に問題のある人間も集められている。地頭はAクラス並、或いはその平均レベルを上回る生徒もいるだろう。
Bクラス、Cクラスはともに過去問を駆使したであろう高得点だった。故に、今回のテストでしっかりとした実力を測るのは不可能と言える。次回以降でそれを測るつもりなのだろう。今回のはあくまでも現実を認識させるのと、早々に退学者を生まないための措置でしかないのだから。
「孔明先生ほらほらそんなところで黄昏てないで!」
「そうだぞ、今回の主役格なんだからさ」
輪の中心へ引っ張ってくるクラスメイトにやや困惑しながら、この場での交流を行う事にした。いずれにしろ、夏に何かあるのは間違いない。その時に、協力できないようでは困ってしまう。生徒会入りの失敗が響いて一時落ちかけていた葛城の権威はもう一度戻りつつある。これでまた勢力均衡になるだろう。それで良い。勝ち過ぎず、負け過ぎず。争い合ってくれた方が、私としては好都合だ。
そして今日も良い人を演じながら、愛想を振りまいていく。得た信頼を失わないように。私を疑う者はもうほとんどいないだろう。地盤固めは大分いいところまできた。次は、何か事が起こるのを待つことにしよう。恐らく来月か、再来月か。夏休みまでに事件が起こるはずである。早々にクラスをまとめ、秘密主義を貫こうとするCのリーダーならば、必ずそうするだろう。
「それで、キミはこれで満足なのかな?」
「まぁ、それなりには」
テスト返却後の休日。折角勉強会の講師役も終わり、特別家庭教師も終わり、解放されたから休もうと思っていたにも拘わらずこうして外を出歩く羽目になっている。思えば、スーパーとスタバとコンビニ以外を訪れたのは初日以来かもしれない。それ以外は殆ど街を利用せず、外にも出歩かなかった。
「確かに私は言ったさ、今回の試験ではよく頑張っていたから何かしら報酬を出そうと。しかしだね、それは料理ないし金銭的なものを想定していたのだよ」
「あっそう」
「しかしながら今私はこうして君のウインドウショッピングに付き合わされ、あまつさえ荷物持ちだ。どういう魂胆なのか説明してもらおう」
「別に魂胆って言うほどのものは無いから。単に報酬があるって言うのならこき使ってみたいと思っただけ」
「…………まぁ仕方あるまい。反故にするのも大人げないのだから付き合ってあげようじゃないか。ところでいつぐらいに終わるのだね、真澄さん」
「さぁ? 気が向いたら」
「なるほど。後数時間は終わらないと見ておこう」
休日ともなればテスト終わりもあってかクラスを問わず多くの生徒がいる。男女のカップルに、女子グループ。男のグループは大体こういうところではなくもっと違うレジャー施設にいる。
どういう目的があるのかは分からないが、取り敢えず付き合っている。これくらいは必要な事だろう。コミュニケーションを取れないようでは円滑な関係を築けない。そうなると様々な活動に支障が出てくるのは必定だからだ。お昼時になり、外とは違い人数の問題でそんなに混むことの無いレストランへ入店する。お昼のメニューの方が安いのはこういう店舗の常識だ。
「最近なにか変わった事はあるか?」
「なに? いきなり突然藪から棒に」
「いや、小さな発見でもいい。何かあれば教えてくれ」
「分かったけど……どうして?」
「そろそろCクラスが動き出すはずだ。テストも終わり、クラス間闘争が幕を開ける。自分のクラス内で完結していた時間が終了すれば、他に目を向けるだろう。これまで秘密主義を貫いてきたのは対策を取らせないため。だとするのならば夏休み前までになにかしらの行動を起こして後顧の憂いを断つ、或いは学校の出方を窺う、生徒の実力を見るなどの行いをしてくる確率が高い」
「そこまでして何を知りたいの、そのCクラスのリーダーは」
「あくまでこれは予想でしかないが、恐らくは退学に関連する事項なのではないかと思っている。現在発覚している条件は……」
「①成績不振、②イジメ、③犯罪行為の3つでしょ?」
「その通り。それに追加される条件がまだあるのか、そしてもし実際にその3つのうちのいずれかが起こった場合学校や生徒はどう動くのか。それを知りたいのだろう」
「その場合だと何かやるなら②か③に該当するような事?」
「そうなるな」
成績不振は個人の問題なので、どうこうすることは難しい。イジメ問題と言うが程度にも差があるし、学校側が何をそう定義しているのかは謎だ。イジメと喧嘩の線引きは?という問題や、犯罪行為とは違うんかい。と言う問題もある。例えば人の物を隠すのは代表的ないじめ行為だが、普通に犯罪だ。私のような違法性に満ちた人間に言われるのはこの学校も癪だろうけれど、その辺の線引きがあいまいな気がする。
だからこそ突くならばそこだろう。窃盗はよほど上手くやらないと捕まる。常習犯なのに捕まってなかった彼女はかなり才能がある。金銭関連はポイントの移動のせいでバレる。とすれば暴力沙汰が1番現実的だろうか。
「恐らく暴力沙汰か何かが起こると思っている。しかし、自分達で起こしてしまえばセルフダメージになるだけで意味がない。他の戦力を削りつつ、目的を達成しようとするだろうな。ここでクイズだ。狙うなら、どこにする?」
「……Aはあんまり乗って来ないだろうし、Bも一之瀬の統制が効いてるし、消去法でD?」
「そうだ。思考力の足りない人間は総じて暴力的な上に短気な傾向にある。我慢できないのさ。9割方狙われるのはDだろう。ただし勿論Bの可能性もある。遠交近攻の原理に則ればこの2クラスを攻撃するのがCの最善だ。もっとも、Cのリーダーがこの原理に則らず我々を狙ってくる可能性も、わずかだがある。だからこそ、気付いたことがあればすぐに教えてくれ。Aの場合、狙われる確率が一番高いのは君だ」
「は? なんで私が……」
「坂柳派だとあのサディストの気があるお嬢が部下ファンネルで殴ってくる。葛城派だと男が多いし葛城本人が強い。私は男かつ知恵が回る上に、強さも未知数。しかし、君は私の部下だが常に一緒じゃない。運動神経は良いがあくまで女子の中では、だ。友達もほとんどいない。実に狙いやすい。更に悪い事に真澄さんの場合、暴力沙汰ではなく性犯罪になりかねない。写真や動画で脅して口封じの可能性もある。だからこそ気を付けてくれ」
彼女はぶるっと身を震わせた。あまりよくない想像をしてしまったのだろう。と、危険性を滔々と語ったがそうなる可能性は実は少ない。彼女は思考が自分が被害者になる可能性でいっぱいだから気付いていないが、もし彼女を狙ってもCクラスのリーダーの目的は達せられない。ただ、ゼロではないのはスパイを作りたい場合が考えられるからだ。
「私が一緒なら守れるが、そうじゃないと厳しいからな。用心してくれ」
「なに、守ってくれるわけ?」
「当然だろう?」
大事なのはいざという時に頼れる存在だと思わせる事。自分自身にかなりの災厄が降りかかる可能性に気付かせ、その恐怖をあおり、それで空いた心の隙に入り込む。やってることが完全に詐欺師だった。
「分かってくれたのならば問題ない。まぁ、君に被害が及ぶ可能性は少ないよ。そうならないようにするのも私の仕事だ」
「任せて良い訳?」
「勿論だ」
「……あっそ」
そっぽを向いて頬杖をつきながら彼女はそう言った。それを微笑ましいような感じを出しているはずの顔で見つめる。彼女は私がこういう思考をしながら顔を作っているのも知っているのだろう。それをどう思っているのか。少し気になった。アイスコーヒーを飲んだ彼女が何かを思い出したように口を開く。
「そう言えばさ、ちょっと気になったんだけど」
「ほう?」
「私たちの寮って基本郵便物は来ないけど、たまに来るでしょ?」
「ああ、そうだな。郵便受けもあるし」
「で、そこに届けるのって管理人の仕事になってるじゃない」
「そう言えばそうだったな。滅多に郵便なんて来ないから忘れてたけど。それがどうした」
「前、変な人を見かけたのを思い出した。管理人じゃないんだけど、郵便受けの前をうろうろしてた。誰かのを探してるみたいな感じ。それで多分発見したっぽくて、何かを投函してキョロキョロしながら出ていった」
「へぇ?なるほど」
「それがそいつの写真」
彼女の携帯には、少し離れた木陰から寮のエントランスを撮影した写真が数枚あった。男が確かに郵便受けの前をうろうろしている。その後、玄関から出てくる姿もばっちり撮影されていた。少し遠くからの撮影だが、顔は一応見える。時刻は深夜。コンビニにでも行った帰りだったのだろう。
「どこの部屋に入れたのか分かるか?」
「流石にそれは遠すぎて分からなかった」
「そうか……少し調べてみる。写真を送って貰えるか」
「了解」
これをもとに少し調べてみるか。なにかいい情報が得られるかもしれない。それをもとに何か出来れば良いのだが。
「話戻るけど一応聞きたいんだけど」
「なんだ」
「アンタの予想しているその事件が起こる場所って、どこ?」
「人目にも監視カメラの目にも付かない場所。恐らく事が起こるのは校舎裏か……特別棟だ」
______________________
<報告>
特に現状問題なし。中間考査も好成績であったため、信頼度は依然高いままである。1つあるとすれば、この学校の犯罪行為などに対する基準は一見厳しいように見えてその実曖昧模糊だと言う事である。具体的な処罰内容や、処罰に値する行為の規定がなされていない。イジメは許さないと言いつつその定義をしない辺りが実に日本の学校と言えるだろう。
<要求>
以下の写真の人物を特定されたし。本校内にいる職員店員の誰かである可能性が高い。
<返答>
すぐに特定できた。楠田ゆきつ、32歳。指定校推薦で入学した東京中央大学を卒業するも、無駄に拗らせた学歴コンプレックスとプライドのせいで就職に難航。数年のフリーター生活を経て大手家電量販店である東亜電機に販売員として就職。現在は高度育成高等学校内の店舗にて勤務中。趣味はアイドルに入れ込んでいる模様。女性関係で学生時代から幾度かトラブルを起こしており、ストーカー行為を働いていた事もあるとの報告が入っている。被害妄想癖を始めとする妄想を拗らせることが多かった模様
<RE.返答>
素早い情報提供感謝する。
原作でのテストは5科目500点満点でしたが、今作では5科目10教科1000点満点になっています。