『松下幸之助』
柴田が転入してきた初日の放課後がやって来る。普段はそれぞれやるべき事をするための時間ではあるけれど、本日に限ってはHRの後に席替えの時間を用意していた。この学校に入学してから既に半年以上が経過し、周囲の顔ぶれにも少し飽きてきたころ頃である。そのため、新鮮味のある行事として好意的に受け取られていた。
私自身も坂柳の隣というあんまり楽しくない席から離れることが出来て幸いである。ペアで何かしないといけない授業の際、毎回彼女と組まされるので正直面倒なのだ。二回に一回は煽ってくるし、ムカつくというより疲れる。
「今日でこの景色とも見納めですか。これまで随分と長く共にやってきた身としては名残惜しいですね」
「私は気分爽快ですがね」
「おや、それは悲しい。私という隣人はお気に召しませんでしたか?」
「あなたが隣人だったら、キリストも隣人愛を放棄するんじゃないでしょうか」
「私はちゃんとあなたを自分自身のように思って接していますよ」
「鏡の使い方をご存知無いようだ。私に対する態度を、本当に自分自身と思ってやっているのなら、あなたは相当なマゾヒストという事になりますがよろしいですね?」
「よろしくないんですが」
「さて、そろそろやりますか」
「ちょっと?」
抗議をしてくる坂柳を無視して、私は前に立つ。我々の周りに座っている生徒も毎日こんな感じの会話を聞かされて正直辟易している事と思うので、周囲の平和のためにも早く我々は席を分割しないといけないだろう。
「それでは皆さん! お待たせしました。早速くじ引きをしてもらいましょう。ルールは簡単です。前に書いた席の番号と同じくじを引いたら、そこへ移動してもらいます。目が悪いとか、冷房の風が当たらない場所に行きたいなど希望がある方は先に申し出てください。席を分けます。特にいないようでしたら始めます。と、言いたいところなのですが、一名先に固定で移動してもらいます」
私も本当ならばこんなことはしたくないのだが、こればっかりは仕方ない。苦情が来ている以上、対処するのも私の仕事だ。本当は生徒指導は私の管轄じゃないはずなのだが……学校の教員が適切に指導してくれない以上仕方ない。元々席替えには生徒指導の要素も含まれている、と生徒指導用の教材に書いてあった。
「森下さん。あなたは最前列固定です。先生の目の前で授業を受けてください」
「何故私が?」
「自分の悪行に対して、胸に手を当てて考えてくださいね。前の生徒に消しカスを投げるのは止めましょう。人の嫌がる事をするなと教わりませんでしたか? 前の杉尾君からクレームが来ていますので。こんな事を高校一年生に申し上げるのは大変不服なのですが、あなたは最前列に固定させて頂きます。よろしいですね?」
「選択権は?」
「あるとお思いですか? それとも、柴田君の代わりにDクラスへ移動しますか?」
「仕方ありませんね。諸葛孔明の要請に応えて、一番前に移動することにします」
「物言いについて言いたいことはありますが、取り敢えず移動して頂けるならそれで結構です」
彼女は別に無能ではないし、どちらかと言えば優秀な生徒ではあると思う。学力的にも上から数えた方が早いだろうし、頭の回転や知識量も悪くない。ただし、素行が悪い。こちらの言う事には従ってくれるし、Aクラスの妨害をしたいわけではないらしい。元々坂柳に近いポジションにいたけれど、それも心酔しているとかではなく楽な方にいただけのように思える。
Aクラスで勝利する事、そのために貢献することについては異論無く行動してくれるので、坂柳とは違う意味で困ることが多い。彼女の進路選択についていつか話をしないといけないのだろう。そう考えるだけで今からため息が出てくる。ともあれ、今回もどうしてそんな仕方ないみたいな態度を取れるのかは不明ながらも席を移動することに関しては了承してくれた。もう少し大人しくしてくれれば色々頼れることも増えるのにと思ってしまう。
とは言えそれも彼女の個性なのだろう。個性を潰さないように集団行動をさせる方法について考えないといけない。この学校の教師では無くて、もっと違う外のちゃんとした教育学をやっている人とお話ししたい気分になって来た。なんで森下の指導を私が担わないといけないのか、段々学校に対して苛立ちが湧いて来る。
「さて、問題児はこういう運命をたどりますので、皆さんもお気を付けください。私は別に優しいわけではありませんので。では話を戻して引いていきましょう。順番はそうですね……私から見て一番左前の方と右奥の方でじゃんけんして、勝った方から順番に行きましょう」
左前は戸塚、右奥は司城が座っている。最初はグーと掛け声が聞こえる。勝ったのは戸塚の方だ。近くにいる生徒たちからよくやったと褒められている。じゃんけん一つで盛り上がれるのだから、学生時代というのは面白い。これが大人になるとこうはいかないことが多いだろう。……でも意外とウチの部隊でやってる幹部の忘年会の余興はこんな感じかもしれない。我々を大人と呼んでいいのかは微妙だが。
「では戸塚君から順番にどうぞ」
引いた番号に一喜一憂しながら、彼らはくじを引いていく。隣である事に喜ぶ友達同士、あまり良くない席を引いて落ち込む生徒、現在一人ぼっちの席を引いてガックリする生徒、気になるあの子の隣になってにやけている男子。今日やって来た柴田も、体育祭などでの活躍から知らない人はいない生徒だ。元々気のいい性格のため、男子とはすでにかなり仲良くやれているように見える。良い傾向だと思う。
「さて私は……なるほど、そこか」
私が引いたのは今まで司城が座っていた場所。つまりは一番右奥だ。隣人は一人だけ。そもそも周囲には前に一人と、今回の転入で右斜め後ろに一人増えたくらい。思ったよりは静かな環境になりそうだ。全員引き終わったことを確認して移動の指示を出す。坂柳の荷物は近くにいた数名が分担して運んでいる。こういう時にすぐ動ける善性がクラス内に芽生えているのは良い事だ。坂柳もちょっと変わった同級生くらいの扱いになっている。本人的には不満かもしれないが、多分これが一番幸せでは無いだろうか。
「で、隣が君なわけか」
「何? 何か不満?」
「いや、そう言うわけじゃないけど。これはまた何ともよく分からない偶然だと思って」
「まぁ、そういう事もあるでしょ。確率論的には」
「それはそうだけれどね」
私の隣は真澄さんが座っている。ここが日本の漫画で言うところの主人公席ならば、隣に座っているのがヒロインという事になるのだろう。『からかい上手の高木さん』にもそう書いてあった。私の読んでいる漫画がそういう風に描写しているのだから間違いないだろう。
「孔明先生、さっきはありがとう……マジで助かった」
「いえ、まぁアレは彼女が悪いので。悪気があるわけじゃないとは思うので、どうか許してあげてください」
「悪気が無いのは分かってんだけど……それでも色々疲れてたから」
「心中はお察しします。これで少しは大人しくなってくれると良いんですけど」
真澄さんの後ろ、このクラスで隣人のいないボッチ席になったのは先ほどまで森下の攻撃に苦しんでいた杉尾だった。彼からすればつかの間の安穏だろう。
「どうせこの隣、来月になったら入って来るんだろ?」
「えぇ。恐らく白波さん辺りが入って来ると思います」
「白波……あぁあの一之瀬とよくくっ付いてる子?」
「そうですね、その印象が強い彼女です」
多分彼女、一之瀬の事が好きなのだろう。それもLikeでは無くてLoveの方で。まぁそういうのは何となく見ていれば分かる。自分の恋愛感情については上手く処理できていないというか理解できないでいるけれど、他人のそれに関しては理解するのは得意だった。なにせ、心を読まない事には陰謀は実行できない。
「まぁ、それまではつかの間の平穏を楽しむかぁ」
「寝ないでくださいね、授業中」
「寝ない寝ない」
ふわぁと大きなあくびをしている杉尾に釘を刺して置く。とは言えこのクラスで授業中に寝るような生徒はいない。なので、あくまでも冗談だ。お互いにそれは理解している。携帯弄るなと寝るなはこのクラスでは冗談としてしか機能しない。
「真澄さんも、ここなら指導がはかどるから助かる」
「今ですら結構指導されてるのに、これじゃ二十四時間監視されてるみたいなんですけど」
「その方が効率良いなぁ。やる?」
「やだ」
「だろうね。この後一之瀬たちの所に行くけど来る?」
「……行く」
「そう。なら準備してね。とは言え先に帰ってもらって構わないから、帰るついでにこれ買っておいて」
「……カボチャ?」
「ハロウィンも近いのにお菓子食べれないってごねたのは君でしょ。作ってあげるから買ってきなさい」
「ありがと」
「いいえ、どういたしまして」
買い物メモを渡しておく。これからは節制生活を心がけないといけない。とは言え、この学校は万年0ポイントでも最低限活動できるように無料の食品も多い。賞味期限が近い事はネックだが、それ以外は問題なく使える。特に、いわゆる「料理のさしすせそ」が無料なのは大変助かる。醤油や味噌、砂糖は結構使うのだ。肉も牛以外は相当安い。野菜もそうだ。大半が値段がついていても市販の半額以下だろう。
お菓子なんかはケヤキモールの中に売っているけれど、確実に自分で作った方が安い。なので、自作していた。問題を解いている真澄さんを見ながらボールに入った生地を混ぜている時、たまにふと自分が一体何をしているのだろうという気分になることがある。出来るけれど作ったことが無いので、図書館で借りた『可愛いお菓子』とか『世界のケーキ』みたいな本を見ながら調理している。私の貸し出し履歴はお手軽なレシピの本とお弁当の本と健康な料理のつくり方の本で満たされていた。この学校の図書館にレシピ本があることに感謝することになるとは、入学前には想像だにしていない。
「俺、これからしばらくこれを見続けるのか……? 一難去ってまた一難……」
後方で真澄さんには聞こえないくらい小さく呟いた杉尾の声は聞こえなかったことにした。
「ねぇ、どうなってるの!?」
同じ日の夕暮れの中、職員室に怒声とも悲鳴とも言えない声が響いた。声の主は星之宮知恵、元Bクラスにして現在のDクラス担任である。まだ月は変わっていないが、もう事実上Dクラス担任であるため、そういう風に周囲からも認識されていた。突っかかられている相手はAクラス担任の真嶋である。
「真嶋君、あなたの生徒でしょう? どうなってるのよ! Aクラスに審議で負けてポイント持っていかれたまではまだ理解できる。でもなんで加害者側の柴田君がそのAクラスに引き抜かれてるの!?」
「……分からない」
「分からないって、そんな無責任な……」
彼女の困惑も仕方のない事だった。裁判で負けてしまったこと、一之瀬が彼女視点では愚かに見える決断をしたこと。ここまではまだ理解できる範囲内の出来事だった。しかしその話を朝のHRでしても、自クラスの生徒はさしたる反応を見せない。あぁそうなんだね、くらいの反応で終わってしまった。普通なら物を投げられながら責められてもおかしくない柴田も、誰からも何も言われていない所は普通に過ごしている。
訳が分からないと思いながら一日を終え、次の日にはその柴田がAクラスに移籍したのを聞かされた。Aクラスが2000万を持っているであろうことは別に疑わしい事では無かったけれど、なんでこの前まで審議で争った柴田を引き抜くのかさっぱり意味不明だったのだ。
その話を焦りながらクラスの生徒にしても、何を今さらという顔をされる。益々以て彼女視点では意味不明だった。実際の所、Aクラス移籍計画はクラスの全員が知っているのでおかしな反応では無いのだが、何も知らない星之宮には随分と薄情なクラスのようにも思えた。引き抜くことで賠償を早める計画かとも思ったが、それにしては2000万は高すぎる。何から何まで分からない。Aクラスの態度、自クラスの生徒の鈍い反応、この前の審議。全てが彼女の精神を蝕んでいた。
生徒は既に、一瞬で柴田を見捨てにかかった彼女の態度を知っているとは、この時の彼女はまだ知らない。一之瀬の対応がかなり他人行儀なのも、冷静ならば気付けただろう。彼女も馬鹿ではない。一応曲がりなりにもこの学校を卒業している。謀略の類は慣れているはずだった。冷静であれば、の話だが。いかな名将とて、混乱の中では上手く思考できない。そして彼女は名将では無かった。
「諸葛が何かを考えているのは確かだと思う。だが、それが何なのかは俺にもわからない。いや、教えてくれていないというのが正しいかもしれないな。俺は、俺たちは諸葛から信頼されていないようだ。俺たち自身で答えにたどり着くか、或いは教えてもらえるように信頼されることを目指すかのいずれかしかないだろう」
「結局、全部あの子の掌の上で操られてるってこと!?」
「それはどうでしょうか」
ここまで無言で話を聞いていた坂上がメガネをくいっと上にあげながら発言した。しかしその目線は自分のデスクのパソコンから動いていない。あくまでも仕事をしながら、彼は口を挟んだのだ。普段、他の三人とはあまり交流をしない彼が話したことは、その場にいる人々にとって少々意外な事だった。
「操られている、というのは些か被害者意識が強くはありませんか。自分が理解できないものや行動を、おかしな行為と決めつけるのはこの学校の趣旨と反している。私はそう思いますがね、星之宮先生」
「じゃあ、あなたは分かるんですが、坂上先生」
「いえさっぱり。そういう意味では私もあなたもさして変わらない。もしかしたら龍園ならば何か掴んでいるかもしれませんが。私は仮に、今の知識を持ったまま高校生に戻ったとしても、龍園を越えられるとは思えない。お恥ずかしい話ですがね。今年は色々と高い能力を持った生徒が多いようだ。例年よりも、圧倒的に。我々は教師ですが、時には教師を遥かに超える、それこそ我々の次元では想像できない行動をする生徒も出てくるというだけの話です。それは、私よりもこの学校にいたお三方の方がよくご存知ではないでしょうか?」
「それは……」
「私は数学を生業にしてもう十数年経ちますが、16歳のアインシュタインと会っても彼の言っている事を理解できる自信がない。それと同じ話です。我々は凡人に過ぎず、世の中には天才がいる。時に天才たちから見れば、例え大人であろうと我々は道具に過ぎない。信頼できない道具を使いますか? 結局はそういう事でしかないのでしょう。この学校は実力主義を求めている。我々がいつその俎上から逃れられるなどと言われたのでしょうか。Aクラスで卒業させた担任に相当額のボーナスがある時点で、我々も籠の中の鳥に過ぎないのですよ。まぁ私は、給金が貰えればそれで構いませんがね。外の学校に比べれば、基本給も十分高いですし」
坂上は基本的にあまり生徒に興味があるわけではない。自クラスが勝利すれば自分の成績が上がり、自分の給料が増える。だからやっているだけに過ぎない。しかし、全く無頓着と言うわけではない。生徒の成長は見ているし、自分の力で多少なりとも成績が上がればそれは喜ばしい事だと感じてはいる。龍園の力で上手く事が運ぶことを応援もしている。良くも悪くも平均的ではあった。だがここでは、それでも割と十分なのだ。生徒に対し過度に干渉しない。それだけである程度の信望は得られる。
「我々が、凡人だと、負け犬だと仰りたいんですか」
「だからAクラスで卒業できなかったのでは? 或いは、誰かを頼り過ぎたか、頼らな過ぎたか、他の生徒を鍛え損ねたか、自己研鑽をし損ねたか。いずれにしても、星之宮先生。あなたが諸葛君よりも上とは、私にはどうしても思えない。真嶋先生や茶柱先生とて同じです。無論、私もね」
それだけ言うと、彼はまた口を閉ざしパソコンに向き合った。まだやるべき仕事が残っている。龍園は諦めるつもりはないようだ。帰りのHRで彼の表情を見た時に、坂上はそう確信していた。他の生徒には好きにするように言ったようだが、そうであっても龍園無くして上に行ける生徒はほとんどいない。つまり、大体の生徒は上に行くべく龍園についていくしかない。
他のクラスがどうするつもりなのかは知らない。だが、取り敢えず自分のクラスは前を向いて行けるのだろうという確信はあった。諸葛孔明は坂上からしてみれば優秀な生徒という認識でしかなかった。確かに面白い作戦を取る生徒であり、龍園と競い合うとしたら彼だろうとも思っていた。尤も、その前に片を付けられそうな状況ではあるのだが。である以上、別に不快感などは抱いていない。彼はこの学校のルールの中で、自身の信じる策を実行したまでだ。そこに口を挟む権利など、本来存在していない。
しかし、と彼は小さく呟く。万年0ポイントのDクラス担任とは可哀想に。その呟きは既に怒り心頭で職員室を後にした星之宮とそれを追随した三人には聞こえていない。
「高校時代はもう十年近く前に終わったと思うのですがね」
何故彼らを雇い、同じ学年の担任にしたのか。上の采配はよく分からないと、坂上はぼやいた。
席替えも終わり、私は一之瀬のクラスに来ている。来月からは彼らがDクラスだ。丁度良い事に会議などがあるため、職員は今いない。星之宮先生や真嶋先生に横やりを入れられる可能性は限りなくゼロに等しいだろう。そもそも、正当な理由がない限り監視カメラの内容を閲覧できないはずだ。授業担当ならまだしも、星之宮先生は保険医なので監視カメラを見る正当性が無い。それは専用の職員の仕事だと南雲から聞いている。ちょいちょい入るこういう情報も、意外と役に立っていた。
柴田が移籍した結果39人となったクラスに、私は真澄さんと共に足を踏み入れていた。彼らはここでやっと実感を持てたのだろう。我々の計画が本当にスタートしたのだと。それを何度も彼らの意識に刻み込むように、教室には一人分空いた空間が存在していた。
「皆さん、ごきげんよう。先日はどうもお疲れ様でした。一気に問題を解くのは少々疲れたとは思いますが、必要な事ではありましたのでご理解いただければ幸いです。一之瀬さん、例のモノは回収出来ましたか?」
「うん、取り敢えず今送っちゃうね」
「……はい、確認しました。どうもありがとうございます」
「それは良いんだけど、これが何の役に立つの……?」
「それを今からご説明します。では真澄さん、後はよろしく」
「はいはい」
彼女は自分の持っていたパソコンをプロジェクターに繋いで、前に立つ。私が説明するのではないことに彼らは少々意外性を感じていたようだが、いつもいつでも私が矢面に立つのよりは誰かに任せる事も今後は必要だと感じている。特に、これからこのクラスの人員が増えていくのだから、その中で真澄さんが女子のイニシアティブをとれるように存在感を根付かせたい狙いがあった。
「取り敢えず説明するから。まず、私が今回のBクラス併合案を提案した一人であることは最初に言っておく。本当はペーパーシャッフルでBクラスを攻撃しようっていう案の延長線上だったんだけど……まぁそれは今は関係無いか。で、そのBクラスを攻撃したいと思った理由で一番大きいのはコレ」
そう言うと彼女は一枚のグラフを画面上に表示した。
「何か感想は? 特に無いの? 本当に? これ、アンタたちが一番伸び率が悪いっていうのを端的に示したグラフなんだけど。書いてはあるけど、赤い線がA、青い線がB、黄色がC、緑がDになってる。各クラスのテストにおける総合平均の伸びを示してるのがこのグラフ。で、見てみれば分かると思うけど、全クラス軒並み上昇しているとは言ってもBの上昇率が一番悪い。なんならDクラスより悪い。各教科にしてみても、この傾向は変わらない」
彼女が次々にスライドを移動していく。そこに移されているのは、概ね右斜め上に伸びていくグラフ。傾きが一番大きいのはDクラスだが、あれはそもそもが低すぎたのであまり考えなくてもいいだろう。平均が今でも一番低いのは変わらない。ただし、伸び率で考えればBクラスが一番悪かった。Aクラスはちゃんと安定して右肩上がりを続けているが、Bクラスはあまり伸びないまま凄く緩やかな坂を上っている。下がっているよりはマシだが。
「勉強してないなんて言うつもりは無いけど、それが有効に働いてないってことね。それで、この前いつもテスト間にどうしているのかを聞いてみた。大体が勉強会でどうにかしているみたいね。それは別に悪い事じゃないんだけど……次はこれを見て。この赤い丸で囲まれた生徒は、いつも勉強会の中心にいる、比較的成績のいい生徒」
そこには一之瀬や神崎など、何人かの名前の上に丸が付けられていた。
「それで、この生徒個人にフォーカスを当てた伸び率がコレ。このグラフを見たら分かるけど、ただでさえ伸び率があんまり良くないこのクラスで一番伸びてないのはこの人たち。一之瀬は流石だけどね。ちょっと例外的に数値がちゃんと伸びてる。でもそれでもAクラスの生徒よりは悪い。例えば同じくらいの成績の葛城と比較すると……ほらこんな感じ」
葛城と一之瀬を比べたグラフが映し出される。そこにはどちらも右肩上がりではあるけれど、葛城の方が線の角度が急なグラフがあった。
「ここまで言えば何が言いたいか分かったと思うけど、要するにこの生徒たちは他の生徒のフォローで自分の勉強を有効に出来ていない可能性が高いってこと。もちろんそれ以外の要因があるかもしれないけど、考えられる可能性としてはそれが一番高い。と、データは言ってる。データが全部じゃないけど、少なくとも参考にはなる。上の生徒は下の生徒に引っ張られてて、かと言って下の生徒はそこまで上がってない。それがこのクラスの最大の弱点ってこと。だから私たちは、このクラスを攻撃しようとした」
彼女が滔々と語る台詞に、誰も反応できないでいた。絶句しているというのが正しいのかもしれない。これまで最善と信じてきた道が全部破壊されているような気分に陥っているのだろう。
「帆波ちゃんが間違ってるって言いたいの……?」
なんとか絞り出された反論に、真澄さんは眉を顰めながら答える。
「間違ってるとは言ってない。有効的じゃないってだけ。教え合うのは自分の確認とか言葉で説明することで理解度を促進出来て良い事だけど、このクラスがやってるのはただの足の引っ張り合い。やり方が正しくないと、何事も効果は出ないか出ても遅い。ダイエットと同じでしょ、こういうのは。それで、この前解いてもらったやつだけど、アレはBクラス用にこの人が作成して、私たちが解いたデモ版と同じ問題だった。そのデータも出すけど……泣かないでよ?」
彼女はそう言うとまたスライドを出す。そこにはずらっとランキングが並んでいた。Aクラスの結果とBクラスの結果を組み合わせたランキングになっている。
「一位は坂柳、二位が一之瀬、三位が葛城、四位が私、五位が真田。アンタたちのクラスの生徒が出てくるのは十位の神崎まで待たないといけない。それに加えて、平均を見ても、このクラスの方が十点近く低い。ついでに、下位十名は全員このクラスの生徒になってる。まとめると、これくらい私たちの間には差があるってこと。以上、私はただデータから読み取れることを説明した。後はこっちにバトンタッチするから、まぁちゃんと聞いておきなよ」
「はい、どうもありがとうございました」
真澄さんは手をひらひらさせてパソコンを回収するとさっさと帰っていく。彼女はこれから自分の食糧を調達するという任務があるのだ。ここからは私が引き継ぐ。目の前の生徒たちは茫然としていた。どうしたら良いのか分からない、とそういう顔をしている。一之瀬は何となく心のどこかで理解していたのかもしれない。他の生徒よりはショックが小さいようだ。
「さて……今真澄さんが説明してくれたのがこのクラスの現状です。しかしね、別に私はあなた方が不真面目だとは思っていません。そこで、一之瀬さんから幾つか回収してもらいました。このクラスで成績が低い人の教科書とノートです。ちょっとすみませんね、ここに映させてもらいます」
画面には先ほど一之瀬から送られてきた画像が投影される。
「これは誰の……白波さんですね。すみませんが使わせて頂きます。先に言っておくと、あなたを糾弾したいわけでは無いです。ただまぁ、何と言うか、お綺麗なノートですね。悪い意味で。なんでこれこんなにカラフルなんですか? 黒赤青までは分かります。何故に紫・オレンジ・黄色・緑・水色とあるんでしょう。教科書も大分黄色とピンクのマーカーに染まってますね」
「何か、問題なの?」
いきなり晒された彼女はムッとしたような声で言う。
「これで成績が伸びるてるなら好きにすればいいんですけどね、伸びてないから問題なんですよ。あなたは寝ているわけでも無いですし、ちゃんと授業は聞いているのでしょう。問題はこれを作って、勉強した気になっている事です。私の経験上、カラフルなノートで成績の良い生徒はほとんどいない。だって時間の無駄ですから。これを作るのに時間がかかって、結局大事なところを取りこぼす。ご不満のようですね、ではこのページで重要なのはどの部分ですか?」
「それは、えっと……」
「即答できない時点でこれはあまり良い板書ではありません。同じ授業の該当範囲を受けた際の葛城君のノートを参照しましょう。私や坂柳さんのように先行学習型でない彼は結構参考になります。見てください、黒と青、たまに赤。非常にシンプルで分かりやすく、どこが大事な一目瞭然。問題の解き方も大変素晴らしい。Aクラスの生徒は大なり小なりこんな感じです。坂柳さんは授業を復習扱いしているので要点だけ書いて終わってますが……」
私は一応メモ程度はしている。それは自分が見返す用というよりは、こういう風に授業が展開されたというメモである。それ以外は基本的にそのコマをどういう風に教えていくかを考えていた。
「これはあくまでも一例にすぎません。あなた達のやり方は極めて効率が悪い上に、効率が悪いせいであまり成長していないのにやった気分になって、その実費やした時間に比べての成長率は低い。そういう生徒が多く見受けられます。そして一之瀬さんたちは自身の学習に費やす時間を奪われている。なにせ、教える側が教わる側の弱点を正しく把握するのに時間を要するか、そもそも出来ていないのだから仕方ないですね。全部が非効率的なのが、このクラスの伸びが悪い理由です。ご理解いただけましたか?」
「そんな……」
「私たちだってちゃんとやってるのに、そんなに言わなくてもいいじゃん……」
「そうだよ、自分だって生徒なのに」
小さな不満が囁かれる。まぁ無理もない話だろう。自分たちは努力したと思っていて、それがいきなり否定されたのでは素直に受け入れられないもの事実だ。しかし、事実として彼らの学習は効率が悪く、個々人に適しているとは言えない。団結するのは良いが、一緒に泥舟となって沈んでいては意味がない。このままでいてもらっては困るのだ。だから、少々厳しいかもしれないけれど目を覚ましてもらう必要がある。夢ばっかり見ている受験生に、現実を叩きつけるのも教える側の務めだ。
「努力すれば何でもできると? 努力していれば、批判されるのはおかしいと? 努力・友情・勝利。週刊少年ジャンプの名言ですね。だから皆さんも上手く行くと思っているのなら……甘えないでくださいね?」
今までは普通の声音で話していた。それを意図的に低くする。それにより、教室内には緊張感が走った。
「やっていれば報われる? そんなのはおとぎ話の話です。世間はそんなに優しくない。努力には方向性があり、効率の良いやり方がある。それを間違えれば、いくら努力したって徒労です。運動も、勉強も、それ以外も、なんだって効率の良い鍛え方があり、正しい努力の仕方がある。いいですか、皆さんは天才ではない。天才だって努力はしますし、凡人の何十歩をたった一歩で乗り越えてしまうこともしばしばです。ならばなおの事、凡人は天才の速度に負けないように最短効率で最大の成果を出せるよう努めるしかない!」
天才に勝つことは難しくとも、負けないことは出来る。凡人はとにかく効率で差を埋めるしかないのだ。そうしなければその差はどんどんと開いてしまうだろう。しかし本当の意味で正しく努力して、効率を極め、徹底的にトライアンドエラーを繰り返しながら前に進めば、少なくともただ闇雲にやるよりはずっと良いと考えている。
本来の勉強とは、昨日の自分、少し前の自分よりも、ホントちょっとでも成長することだ。他人がどうとかではない。そのためには自分と戦い続けた末に修正を繰り返し、最短効率を極めるためのトライアンドエラ―が求められる。
「ハッキリ申し上げておきますが、私は本来一之瀬さんだけ引き抜ければそれで良かったんです。あなた達は一之瀬さんの温情で上に行ける。良かったですね。しかしね、こちらも助かる気の無い人、自助努力の出来ない人を欲してはいないんです。Aクラスになりたいのなら、そのために相応しい努力と実力を身に着けて頂きたい。それがせめてもの条件です。天才になれと言っているんじゃありません。やるべき事を正しい方向性でやってくれと言っているのです」
彼らはまだどこかで楽観視している。まぁでも取り敢えずAクラスのいう事を聞いておけば上に行けるんじゃないの、と。だから不満そうな顔をするし、文句が出る。しかし、現状のAクラス生徒と彼らの間には差がある。それも結構大きな。その差を埋めるには、彼らに励んでもらうしかない。それが出来ないようでは、引き抜いたとしてもこちらの負担になるだろう。
「皆さんは自分自身に2000万の価値があると思っていますか? ちなみに私は思っていません。強いて言えば一之瀬さんなら、まぁそれくらいは払ってもいいかもしれませんけど。思っているなら即刻改めてください。何度も言いますが、私は一之瀬さんを引き抜くついでに皆さんを引き抜くんです。この物言いが腹立たしいなら、2000万の価値がある人間と思われるような人材になってください」
人身売買のようではあるが、この制度を作り出したのは学校だ。文句は学校に言って欲しい。それにいわば、彼らの残り二年と少しを2000万で買ったとも言える。企業風に言えば、彼らに残り二年で2000万、一年で1000万分の経費を使っていることになる。給与だったとしたら相当優秀な社員じゃないとその出費は許容されないだろう。そしてそんな価値は彼らに無い。
「あなた方のご両親がどういう仕事をなさっているのかは知りません。ですがいわゆるエリートであっても、小学生の頃から必死に努力して、ゲームも遊びもしないで塾に通い、名門中学高校へ行き、有名大学に入って、何とか就活を潜り抜けて会社に入り、下げたくもない頭を下げて電車に揺られ、残業に追われ、その末に十年以上かけてやっと貯められるのが2000万です。あなた達は毎月何万も貰っていて忘れているかもしれませんが、例えばそれがこの学校内にしか使えない仮想通貨だとしても、2000万は大金、大金なんです!」
ここが正念場だった。場の空気は私が握っている。後は一気に畳みかけるだけだ。
「自分はまだ何も成し遂げていない、何者でもないただの未成年の子供であるというのに2000万をかけて上に引き抜いて欲しい。と言うのなら努力してもらうしかないでしょう! 私は何も鉄骨渡れとか言っていません。命かけろとも、金は命より重いとも言っていない! ただやるべき事をこちらの指示に従ってやってくれと言っているんです。どこに文句なんて言う要素があるんですか、贅沢以外の何物でもない。恨むならこんな学校に来てしまった自分を恨んでください。私は、こんなしょうもない学校であっても皆さんがより良い未来を掴めるように、そのサポートをしていくつもりです。将来的に、この費やした資金が無駄ではなかったと思えるような人材になって頂ければ、それで良いと言っているのです。これ以上ないほどに良心的だと思いますけどね」
お前たちには2000万の価値は現状無い。それでもその金額をかけて欲しいなら、せめて努力してくれないと困る。私はそう言っているだけだ。何も難しい話をしているわけではない。その金は本来私たちが自由に使えて良いはずのポイントだった。しかし、それを費やして、彼らに利益を分け与えている。それに多少は報いてくれないと筋が通らないだろう。蹴落とし続け、何もさせないことだってこちらには容易なのだから。
「進むべき道は私が示します。するべき努力も、そのために必要な道具も私が揃えます。皆さんは、前だけを見つめて努力し続けてください。そして、ここでの日々が無駄ではなかったと思えるような人生を送ってください。以上です。ここまで懇切丁寧にお話ししたのにまだ色々言うような方はもう知りません。助かろうとする気の無い人を助けるほど、私は暇でも善人でも無いので。長い人生のたった三年弱くらい、本気で物事に取り組んでみても良いと私は思いますね」
沈黙が場を支配している。しかし少なくとも、不平不満を抱いているような視線は感じない。彼らも馬鹿ではないし、根は真面目な生徒たちの集まりだ。私の言葉に何かしら思うところはあったはずと信じている。
「ではまず、先のペーパーシャッフルデモ版問題についてやっていきましょう。皆さんの傾向はこれまでの試験と合わせてある程度把握しました。その補正用に準備をしています。ここからが本当の意味での移籍計画の開始となるでしょう。大事なのは皆さんがAクラスで卒業したという結果じゃない。皆さんがこの先の将来を有意義に、そして夢や理想になるべく近い形で生きる事が出来る力を持つことです。そのための力を渡すために覚悟を持って、私はここに立っていますから」
前途は多難だが、希望はある。この生徒たちも合わせて、必ず未来へ連れて行く。ここでやらせるのは特別試験がどうとか、そういう誰かを蹴落とすしか能の無い努力ではない。自分自身の実力を高め、そして自己実現を行うための努力だ。こんな場所でどこまでやれるかは分からない。しかし、それは諦めてよい理由にはならない。一人でも多くの子供が幸福な未来を掴めるように、血塗られた地獄よりその背中を押すのだ。
最後にはきっと、私だけが血塗れの地獄に取り残され、希望ある未来に進んで行く彼らを見送るのだろう。それは哀しい将来像ではあるけれど、同時に私にはそれ以外の生き方など存在していないのだ。
今回でこの章は終わりです。次回は閑話を挟み、ペーパーシャッフルの顛末とかは次章の冒頭でやります。