『猫物語(白)』
AクラスがDクラス――つまりは一之瀬のクラス――と提携を始めてから半月ほどが経過した。そしてこの日、我々の元には二人目の移籍者がやって来たのである。
「えっと……Dクラスから来ました、白波千尋です。よろしく、お願いします」
この学校では至極珍しいクラス移籍の光景も、二回目になると目新しさもやや薄れてくるのだろう。柴田が移籍してきたときにあった、計画が始動したことを改めて認識したようなあの驚嘆とも覚悟とも言えるような空気感は既に薄れている。しかし歓迎する意思はしっかりあるようで、手を叩く音は大きかった。
白波の移籍は神崎の提案だった。柴田と同じく成績下位層から移籍してもらっているのだが、それでも候補は他にもいた。けれど神崎が白波を選んだのは、一之瀬との距離感が近いからだそうだ。一之瀬によくくっ付いている彼女を一回引き剥がすことで、思想矯正を目指しているのだろう。神崎は結構あのクラスの中でも冷静な部類にいる。一之瀬を信頼しているが、妄信はしていない。そういう姿勢は大事な事だった。
そろそろ他クラスにも我々の目論見がバレているだろう。龍園辺りは既にクラスに告げているだろうし、Bクラスはごたごたしながらそれぞれに対応を考えている頃だろうか。まぁそれでもこちらは明言などしないまま、ギリギリまで引き延ばす。今回の移籍の理由を聞かれたとて、答える理由も無いのだから問題はないはずだ。他クラスがどう動くかは警戒しているものの、現在こちらへの接触は皆無だ。不気味なほど、両クラスは沈黙を保っている。
「ようこそ、Aクラスへ。改めまして、私がこのクラスの代表を務めさせていただいている諸葛孔明です。どうぞよろしく。何か困ったことがありましたら、いつでも仰ってください。私に相談しづらい事でしたら、他の方でも是非。皆さん優しく応えてくれると思いますので。席は私の後ろ、杉尾君の隣ですね。大変な事もあるとは思いますが、これから頑張っていきましょう」
「よ、よろしくお願いします……」
緊張しながら頭を下げつつ、彼女は私の事を観察している。彼女と私の接点があまりない以上、私がどういう人物なのかを見極めたいと思うのは当然の事だろう。一之瀬との違いなども比較しているのだと思う。生憎、私は彼女のように優しくはない。そこら辺は流石にそろそろ分かってもらえているだろう。Aクラスがどういうクラスか把握するべく視線を動かしながら、彼女は席に着く。
「さっき孔明先生も紹介してくれたけど、俺は杉尾大。ぎせいし……じゃなかった、しばらく隣同士だろうからよろしくな」
「よろしくお願いします」
何か不穏な事を言いかけていた杉尾だが、思い直したように挨拶している。元々Aクラスの面子は最低限の社交性を持っている面子が多い。持っていないのは友達がいなかった真澄さんと、もうなんだかよく分からない森下くらいだろうか。後は最低限、ちゃんと挨拶はしてくれるし受け答えもしっかりしている。
「Aクラスに来ていただいて早々に悪いのですが、あなたの成績関連は全て把握していますので、今後はこちらの提示する通りに課題などを進めて頂ければ。元々真面目な方であると一之瀬さんより伺っています。成績はちゃんと方法論さえ合っていれば大体上昇していくものです。上がり幅は人によって異なりますが、そこはこちらも織り込み済み。ご安心ください」
「あ、はい。本当に、先生みたいなんだね……ウチの先生はほら、あれだからさ……」
「そう呼んでいただいている以上、そういう風にあろうとは努めているつもりです。少なくとも、二日酔いのままHRに臨んだりはしません。指導の際は常に真面目にやっていると自負していますから」
二日酔いのくだりで彼女は小さく笑った。Dクラスの生徒にはウケがいいのかもしれない。この話は使える話のネタにストックしておくことにした。先生の悪口は学生が共感しやすいネタの一つだろう。良い先生ならば罪悪感もあるが、星之宮先生には、というかこの学校の教員にはあまり罪悪感を抱かないで済む。生徒を騙し討ちするような教師には、悪口くらい言ったところで構いはしないだろう。
「それと……あまり運動はお好きではない?」
「あの……ごめんなさい」
「いえ、謝る事ではありませんよ。人にはそれぞれ得意不得意がありますから」
坂柳みたいに全く動けないので、運動系で戦力に換算できない生徒もいる。そう考えれば、動けるだけで十分だ。そもそもの最低値が低すぎるという問題はあるけれど。
「とは言え改善した方が良いのは事実ですからね。少しずつ取り組んでいきましょう。その辺は真澄さんもお手伝いしてくれるはずですから。ね?」
「アンタが全部やれば良いじゃない」
「女子生徒相手に?」
「あぁ、それもそうか……。まぁ、役に立てるか分からないけど、よろしく」
適当そうに見えるけれど、距離感を図りかねているだけで別に適当なわけではない。友達がいなかった人の涙ぐましい努力だ。白波は恐縮したようにペコペコ頭を下げている。まぁDクラスではAクラスのナンバーツー的な存在として真澄さんを認識しているようなので、いきなり打ち解けるのも少し難しいのかもしれない。
「大丈夫大丈夫。中学時代、この通りのつっけんどんな感じなのに陸上部とバスケ部からスカウトが来るくらいには、彼女は動けるので。そもそもあんな食生活でどうやってその体型を維持して来たのか。私の中の七不思議です」
「コンビニ飯三昧でも太りたくはなかっただけ」
「えぇ……」
「何、その感じ」
「毎食結構食べてるのに……? 私たちのエンゲル係数、結構なことになってるんだけど。大半が君だよ」
こんなところでスーパーに売っている食品の値段に頭を悩ませる羽目になるとは思わなかった。一応二人分の資金で買っているので作ったモノの三分の二を彼女が持っていくと考えれば、彼女の財布上は良いのかもしれないが。そのせいか、我々の食費の平均値を出すと私も沢山食べているみたいになってしまう。それでも作ってしまうのは、私が甘やかしているだけなのかもしれないけれど。
「動いてるからいいでしょ、ちゃんと毎日」
「それは良いけど、ここぞとばかりに私のシャンプー使うの止めくれる?」
「考えておく」
「それなりにいいお値段するからもっと大事に……って聞いてないなこれは」
話を聞かない姿勢に入った彼女にため息を吐く。実際毎日運動部並に動いているからこそ、彼女の体型は維持されているのだろう。私のシャンプーやリンスが減るのを許容出来れば、普通に歓迎するべき事ではある。尤も、水道代が二人分になったせいかこの前管理人から水漏れしていないかの電話がかかって来た。
「ねぇ杉尾君……これ、毎日?」
「ようこそ、こちら側へ」
「……」
後ろで白波が席に突っ伏していた。杉尾は心なしか嬉しそうだ。その二人を、遠くから坂柳が慈愛の籠った聖母のような目で見つめていた。
夕食時。一旦箸を置いた真澄さんは話を切りだした。
「アンタは聞いた? Bクラスの話」
Bクラスとは、今は堀北や綾小路が所属しているクラスだ。かつてのBだった一之瀬たちはこちらとの契約の結果、既にDに落ちている。そのため、諸々を経てかつてのDクラスがBクラスになったのである。上辺だけ見れば大出世だ。しかし、実態は違う。
そのポイント数は302。0だった頃と比べれば大分大きな差があるように思えるが、Aクラスには遠く及ばない。もちろん、ここからこのポイントを維持したいので何もしないでくださいと言われればそれに応じるつもりはある。しかし、堀北達の動きはまだ見えない。
橋本が持っている繋がりを利用したり、真澄さんが佐倉に尋ねたりした結果、堀北が我々の戦略について告げたことが発覚した。しかしクラスで一丸になってどうするかを定めるのではなく、降伏・抵抗・個々人の自由にする、の三つを提示しただけで終わったそうだ。各個人がどうするのか、そこまではまだ把握できない。そのBクラスに、別の災難が降りかかっているのだろうか。
「Bの話とは?」
「なんか、Cの連中に付きまとわれてるって」
「その話をどこで?」
「女子がちょこちょこ話していたのを聞いたの。龍園は何を探ってるわけ?」
「体育祭……いや、それ以前の無人島、もっと言えば暴力事件。あの時から龍園はいまいち成果を残せていない。その理由は当然標的としたBクラスが上手くそれを回避したり逆にカウンターを仕掛けているからだけど……その黒幕、もっと言えば指揮者を探しているんだろう。狙い撃ちするために」
「指揮者? 堀北とかじゃないって事?」
「少なくとも龍園の中ではそう言う事になっている」
「全然違くてただの龍園の妄想って可能性もあるわけか」
陰謀論に走った龍園、というのは想像すれば中々面白い光景ではあった。とは言え、これを言われたCクラスの一般生徒はまさしくリーダーが陰謀論に走り始めたと思ったことだろう。
「それはそれで愉快な光景だし、事実その可能性もあった。けれど、実際には龍園の予想は当たっている。影で堀北を動かしている存在がいるんだ」
「へぇ。誰?」
「綾小路清隆」
「綾小路……? 誰だっけ、それ」
「堀北の後ろに良くいる目の死んでる奴だね」
「う~ん……あぁ、あの覇気のない男子か。でも、あんなのが黒幕ってなかなかに信じがたいんだけど」
「人畜無害そうなやつが一番危ないとも言うでしょう? 能ある鷹は爪を隠すってやつ。隠し過ぎて今から挽回はなかなかに厳しいかもしれないけど」
「アンタが言うと説得力があるわね。そうでしょう? 人畜無害そうな顔してる危険人物さん」
「仰る通りで」
龍園もある程度確信しているのだろう。だが、まだ信じるに足るだけの情報を集めきれてない。だからこそ、配下を用いて人海戦術で吊りだそうとしている。多分、今後もっと過激な手に及ぶだろう。その瞬間を捉えれば龍園を退学させることも可能だろうが……それはやはり私の目的に反する。
綾小路も周りにうろつく蠅は厄介だと思うはずだ。脅威では無くても目障りではあるからだ。それに部下がいないわけがない。流石にここまで1人とは思えないので、誰かしらと組んでいるはずだ。櫛田ではない、他の誰かと。
綾小路に関する行動の情報は少ない。最近ではグループのようなものを組んで行動しているのを見かけた覚えがあるが。それ以外だと、船上試験の時のグループ分けくらいしかない。あの時、町田が何か問題が起きていたと報告していた。
確か……Bクラス、当時はDクラスだった軽井沢とCクラスの真鍋という生徒が揉めていたという話だったか。それを綾小路が仲介していたそうだ。だとするならば、この軽井沢か? 少し短絡的かもしれないが、他よりは可能性があるだろう。
坂柳ならばここでAクラスの生徒を動員して見張らせることも出来ただろうが、生憎私の政権はそういう強権的な政治体制の元に成り立っていない。命じる事が出来るのは真澄さんくらいなもの。探らせることは出来ない。それに、私以外がやると気付かれそうだ。
「でも、今更龍園がその綾小路の事を特定できたとして、何が出来るの? BクラスもCクラスも、正直簡単な手段じゃウチに追い付けないポイントの差があるのに」
「それは龍園も理解しているだろうから、可能性は二つ。なんだと思う?」
「はいはい、考えなさいってことね。まぁ普通に考えれば、まだ諦めてないから先に脅威になりそうなBクラスを排除したい、とか?」
「まぁそれが一番可能性としてあるだろうね」
「もう一つ……あるとすれば……うーん」
「正体不明のままでは交渉も出来ないね」
「交渉? ……Aクラスに対抗するため協力しようって提案するとか?」
「或いは自クラスに来るように勧誘するか。まぁいずれにしても、何かしらの交渉のためにやや手荒な手段を使っている可能性はある」
「なるほどね……。どっちにしても、龍園は折れてないんだ」
「私はそう捉えてる」
龍園は多分、折れていない。彼が折れていたら、何かしらの行動があったりCクラス内に変化があるはずだ。そうなっていないのは、多分まだ折れていないはず。という事はこちらに抵抗するための作戦を考えているのだろう。まずは楽な敵から蹴落とすか、或いは手を結ぶか。いずれにしてもまだ龍園は動こうとしている。その根性は素直に称賛するべき事だった。
「今後その綾小路とどう接していくかは決めてるんでしょ。教えて頂戴」
「今のところは静観を決め込むつもりでいる。どちらのクラスも目下の脅威になりえないし、個人戦でどうにかなる事が少ないのがこの学校だし。南雲体制で少しは変わるかもしれないけど。当分は影響がないだろう。彼が裏のリーダーだと気付いていない風に装って欲しい」
「演技しろって事ね」
「その通り。箸にも棒にも引っかからない人畜無害なモブAとでも思っておけばいい。意識してそうすると逆に不自然だから、無意識に行えるように頑張れ」
「そんな無茶な……」
「なるべくだ。出来る範囲で良い。知っているとバレたら……まぁそれはそれでやりようはある」
「そう。ま、頑張ってみますけど」
綾小路の戦略はまだ完全には読み切れていないが、個人でAに来る気が無いのであれば、やれることは限られている。そもそも彼がこの学校でどういう生活を求めているのかが分からない。もし仮に真っ当な学生生活を送りたいなら、Aクラスに来るのが理想だろう。なにせ、基本的には常識的な生徒しかいない。少なくともBクラスよりは治安も良いだろう。
「今後、龍園・綾小路関連で動きがある可能性が高い。なかなかおびき出せないと分かれば、龍園も手段を選ばなくなるだろう。何か動きがあればすぐ教えてくれ」
「りょーかい」
あまり関わりの薄い事であろうとも情報を得ることは大事だ。それに、他クラスと接する機会が少ない以上、断面を見る事でその人物の理解につながり、戦略を作りやすくなる。思考を読むという事だ。思考を読むというのは何も難しい話ではない。相手の人格や取れる選択肢、その他色んなものを総合し絞っていく。そういう機械的、ある種コンピューターのプログラム的な思考の動きの事を指すのだ。
さて、この絶望的な状況で、龍園は、そして綾小路はどう出るのだろうか。
「少し、良いかい?」
12月某日の午後。廊下にて40代くらいの男性が私に話しかけた。彼はただの人物ではない。坂柳理事長。それが彼だ。この学校の実質的な長でもある。そんな人物が、往来で話しかけてくる。彼とはストーカー事件の際に話している。しかし、それ以来接触は無かった。
「時間を取らせてしまうが、来てもらいたいところがあるんだ」
「構いませんが……どれくらいで終わりますか?」
「あまり確証は出来無いけれど、そう長くは取らせない。会って欲しい人がいる。君の御父上の知り合いだ」
「よろしいので? 外部との接触は禁じられているはずですが」
「私が許可したんだ。文句は言わせないさ」
「ならば行きましょうか」
彼の後ろにくっついていく。どうせ行き先は理事長室だ。理由はわかっている。今日、綾小路篤臣、即ちホワイトルームの責任者たる人間が来ている。今朝、部下が緊急連絡で知らせてきた。通信傍受で盗み出してきた情報だという。事実、昼頃に確認すればこの学校の駐車場に見慣れない高級車があった。運転手はいたが、それ以外には存在していない。あれ、爆弾とか仕掛けやすそうな車だ。今はまだやらないけれど。
部下たちの努力で徐々に秘密のベールははがされてきている。じきに丸裸になるだろう。時間の問題だ。流石に人員も資金力も違い過ぎる。これで負けたら大恥だったが、その心配は杞憂だった。
備えはしておいた。まだ完全に情報は掴めていないが、用意してある手札でどこまでやれるかが腕の見せ所だろう。ついでに言えば、ホワイトルーム側の感情を知る事も出来るはずだ。私を裏切り者の子として扱いたいのか、それとも興味など無いのか。私としては後者であって欲しいものだが。
「私を呼び出したのは綾小路家の案件ですか」
「やはり、知っていたのかい」
「ええ、まぁ。一応は聞き及んでいました。この学校に在籍している綾小路君がそれと同一人物かどうかの確証を得るのには大分時間がかかりましたが。私に会いたいというのは先方の希望ですか」
「いや、これは僕の独断さ。綾小路先生が、というより君にメリットがあると思ってね」
「メリット、というのは?」
「綾小路先生が君をどう思っているのか、鳳教授をどう思っているのか、実のところ僕も良く知らない。だけれど、何の感情もない、という事は無いはずだ。知っている君にだから言うけれど、先生は綾小路君を退学させようとしている。しかし、ここにいる以上、僕の守るべき生徒だ。同時に君にもちょっかいをかけてくる可能性はある。だからこそ、情報を少しでも持ってもらうために呼んだんだ。君ならば防げるかもしれないけれど、もし先方が何かしてくるならば、どこから攻撃されているかくらいは知る権利があると思うからね」
「ご配慮感謝します」
「教授にはお世話になった。私は教授の生徒だったんだよ。その恩返し、ではないけれど筋は通さないといけないからね。……さぁ着いた。少しだけ待っていてくれるかい」
「分かりました」
理事長はノックをすると中へ入って行った。会話はうっすらだが聞こえる。低い声がする。あれが綾小路の父親だろう。綾小路の感情の籠っていない声も聞こえる。
理事長の言うように、退学を要求している。だが、高校は義務教育ではない。それに、学費も国費だ。である以上、綾小路の父親が親権を振りかざしたところで無意味であることは多分分かっていると思う。なかなかに強引なロジックで理事長を説き伏せようとしているが、あっさりと躱されてしまう。果たして本当に彼は息子をここから追おうとしているのだろうか。
同時にとんでもない情報が聞こえてくる。受験が正しく機能していないという事だ。秘密裏に学校への推薦がされている? という事は、我が母校からも出ていたという事か。もしくは理事長の独断で入れたのか。部下の情報によれば、綾小路は中学に通ってない。であれば推薦なぞ出るはずもない。確かに入学できる存在では無かった。それを受からせたのはやはり、理事長の独断だろう。
なんだこの不正入試システム。これは酷い。面接も試験もカムフラージュ? 我が国の入試ですらそこまで酷くは無いぞ。全体主義国家に負けてる民主主義国家の運営する学校の存在意義とは何なのだろう。だからDクラスに配属されるような、本来もっといい人材がいるであろうに入ることが出来た謎な生徒たちがいるのだ。これは知らなかった。情報も徹底的に秘匿されていたし、まさかそんなことになっているとは思いもしなかったので調べもしなかった。
全部録音中なので万が一の際は日本のマスコミと世界のインターネットにこれをばらまいて逃げるとしよう。万が一の際の決意を固めていると、話は終わりに差し掛かっている。綾小路の退学を自分の意思がない限りはさせないと断固拒否した。そこだけは坂柳理事長の良い点だろう。入試制度は本当に救いようがないけれど。
「呆れた話だ……」
私の小さな呟きは虚空に消える。理事長は綾小路を特別扱いはしないと言っているが、本当かだろうか? 自分の娘の配属先について、胸に手を当て神に誓って特別扱いがないと言えるか? 言えないと思うのだが……。確かに彼女の身体において、彼女に罪は無い。それは事実だ。しかしながら、この学校が実力至上主義を謳うならばそれもしっかり加味しないといけない。それに、彼女が中学で何しでかしたかしっかりこっちは知ってるんだからな。少なくとも何もしていなければ呪われはしない。
正直、Dとまでは行かないがBやCでもおかしくないと思われる。あの変人だらけの初期Dクラスをまとめられるかは……無理そうだ。多分、我が強すぎる連中なので上手く行かない。Cだと龍園に殴られて終わりだろうし、Bだと多分人望値で一之瀬に勝てない。あぁ、これはAじゃないと詰みか。もし仮にDだと憤死してそうだが。この学校のクラス分け、かなり恣意性があると言わざるを得ないだろう。
しかし、その口ぶりは腹立たしい。まるで子供を自分の所有物であるかのように語っている。私はそういう語り口をする人間が嫌いだ。個体、実験、素材。まるで綾小路を何かのモルモットかのように語っている。私はそういう事を言う連中に心当たりがあった。嫌な記憶が蘇る。雪山の中、苦しむ声。そういう連中を全て葬り去って、私は今ここにいる。綾小路の父親は、かつて私をこんな風にした連中と同じだった。
「ふざけるなよ、本当に」
嘘でも、偽りであったとしても見せるべき親子の愛情というモノを一切感じさせない。これはなんだ。ホワイトルームについては情報を得ている。それを軽蔑したし、唾棄するべきだと考えた。我が父の罪だと思った。それでもその時よりも激しい憤りのようなものが私の中に去来している。何故綾小路清隆はこんな目に遭わないといけないのか。何一つ人間的な幸福を知らないまま、親の愛も、優しい家庭も、空が青いとかそういう小さな幸せすらないまま、子供なら誰しも無条件で与えられるべきモノすら無いまま生きなければならなかったのか。彼がそんな人生を送らないといけない道理など、何も無かったというのに。
あぁ、と気付く。彼は私だ。母の愛を受けられなかった、幸せな時間も記憶もないまま育った世界線の私だ。だからこんなにも憤っている。自分が親の愛情を、小さな幸福を知っているからこそ、それを知らないまま育てた彼の父親とその施設に憤っている。まるで、自分の姿を鏡で見ているみたいだったから。
「話は終わったようだな。これで失礼する」
綾小路の父親と思われる声が言う。
「いえ、少しだけ待っていただきたいのです」
「なんだ?」
「恐らく、先生がお会いになりたい人を呼んでいますので」
「……なんだと?」
「入って来たまえ」
「失礼します」
呼びかけに応え、私は扉を開けた。険しい風貌。確かにそれなりの修羅場は潜っているのだろう。とは言え、その程度。そこまで脅威に感じるような相手では無かった。全人代の伏魔殿の方がまだ怖い。
その彼が一瞬怪訝そうな顔をする。そして、私の目を見て動揺を見せた。綾小路も少し驚いたような顔をしている。そんな顔も出来るようになったのかと思うと感慨深い。前にここで話した時は表情など無いに等しかったのに。私は感情を限りなく抑えて表情を作る。
「お前は……いや、まさか……」
「どうも、お初にお目にかかります。私の名前は諸葛孔明。旧姓は鳳。よろしくお見知りおき下さいませ」
男は所在なさげに手を震わせている。空中を視線と行き場を無くした手が彷徨い、そして彼はもう一度腰を下ろした。明らかな動揺が見て取れる。
「鳳、統元は……そうか、死んだのだったな」
「えぇ。昨年に死去しました」
「そうか、そうだったな。あぁ、そうだ……。お前が跡取りか」
「そういうことになりますかね」
「統元から話は聞いているのだな」
「ええ」
「ならば聞かせろ。息子ならばわかるはずだ。何故統元は俺を裏切った」
「裏切ってなどはいないでしょう」
「なに?」
「見捨てたのだと思います」
「どうしてだ。ホワイトルームは完璧なはずだ。確かに、まだ成功と辛うじて言えそうな存在は清隆しかいない。それでも、実験とはそういうもののはずだ。まだ数例もないのに成功不成功など、分かるはずがない! 何より、ホワイトルーム理論はヤツ自身の発案だぞ!」
「それはそうでしょうね。確かに、実験は数回では分からない。ですが、鳥のように人類は腕を動かしても飛べないように、成否の明らかな実験も存在します」
「鳥の例とホワイトルームが同じだと?」
「あくまでも私の見解ですが、父に大志はありませんでした。あったのは自身を認めさせるという欲求と、自分の考えたことが正しいのか実験し、知りたいという欲。ただそれだけでしょう。その過程でホワイトルームを構想した。しかし、その中のどこかの過程であなたには分からない、父だけが気付いた不備を見つけてしまった。だから見捨てたのでしょう。もう、あなたに用は無くなったから」
「そう、か……」
少しばかり打ちひしがれているように見える。この野望に生きていそうな男もかつては理想に燃え、私の父を同志と信じた日があったのだろうか。
「お前は分かるのか。ヤツが見つけた、ホワイトルームの不備が」
「完璧には分かりません。しかし推測することは出来ます」
「聞かせろ、その答えを」
「子供の発育には自己肯定と親の愛情が不可欠ですからね。それが無いのでは完璧な存在など生まれない。そう気づいたのかもしれません」
「愛? 親の愛だと? ふざけているのか」
「いいえ、ふざけてなどいません。少なくとも私は愛情を受けて育った期間の記憶を持っています。だからこそ分かる。ホワイトルームの不備があるとすれば、それは何の愛情も無いままに子供を育てようとしたことでしょう」
私の言葉に、綾小路篤臣は馬鹿にしたような顔を見せている。愛情など彼からすればくだらないものなのかもしれない。それでも、子供は愛情を受けて育ち、そして大人になっていく。少なくとも世の中に生きている多くの子供は大なり小なりそうであるはずだ。そしてそうでないと、或いはその愛情が歪んでいると、子供はどこかしらに問題を抱えてしまう。真澄さんだってそうだ。親に関心を向けて欲しくて、万引きを始めた。
それに、彼がバカにしているモノは、本来子供なら望まずとも当たり前に手に入るべきモノなのだ。
「くだらん。ヤツの息子がどれほどの逸材かと思ったが、この程度か」
「そっくりそのままお返しします。私の父がこのような計画に片足を突っ込んでいたかと思うと反吐が出ますね。そんな人間と血がつながっていると考えるだけで虫唾が走る」
「所詮裏切り者の血か。お前を供出するように告げてすぐに、ヤツは妻と離婚してお前を他国に逃がした。そんなヤツの血筋の言葉など、信用するに値しない」
「そうですか。私は父が嫌いでしたが、それで色々腑に落ちましたよ。どういう理由かは分かりませんが、少なくとも私を逃がそうとしてくれた時点で、あなたより何十倍もマシです。あぁ、ゼロに何をかけてもゼロでしたか申し訳ない」
当の綾小路をよそに、私たちは売り言葉に買い言葉の応酬をしている。私の父親に対する感情は難しい。好きだとは言えないし、普通に嫌いではある。けれど、憎んではいなかった。それに、今色々腑に落ちた。
昔は父が母と離婚しなければ、母は苦しんで死なずに済んだと思っていた。けれど、どうやらそれは見当違いだったらしい。父は、少なくとも日本にいるよりは私と母が幸福になれると信じて、中国へ送り返したのだ。あんな冷血漢にも、人の心があったのかもしれない。或いは、親になったことで、何か愛情のようなものが芽生えたのだろうか。
中学時代、父の最後の一年を私は共に過ごした。会話なんてほとんどなかったけれど、もう少し何か聞いておけばよかった。今になって、そんな後悔が出てくる。
「まぁ良いだろう。お前が何を言おうと、清隆は退学させ俺の手元に戻す」
「何故そこまで頑なに?」
「清隆は俺の管理下にある存在だ。俺は待機を命じたが、清隆はそれを破った。自分の所有物を取り戻して何が悪い」
「彼はあなたの所有物ではありませんし、誰の所有物でもありませんが」
「そんな理想論に付き合う気はない。清隆を生かすも殺すも、俺の自由だ」
「……そうですか」
今、ハッキリと理解した。私はコレと相容れない。絶対に相容れることは無いだろう。自らの子供を所有物と断言し、その生死すら己のモノと断じる。もし仮に綾小路篤臣が無関係な人間ならまだその暴言も無視できたかもしれない。しかし、彼の計画がスタートした要因には私の父があり、そして綾小路清隆は私の父の被害者だ。私にはそれを救済する義務がある。
「良いでしょう。えぇ、良いでしょう。ではたった今より私はあなたの敵です」
「……なんだと?」
「私は、私の父の罪を贖わなくてはいけない。多くの子供の人生をゆがめて、幸福に生きる事が出来たかもしれない可能性を消し去って、そうやって多くの苦しみや痛みを生んできた。その罪は、私が拭わなくてはいけない。いや、違いますね。私自身が、私自身の望みとしてそう思っています。私は恵まれている。少なくとも親の愛を知っている存在として、もしかしたら綾小路君や他の多くの子供達のようになっていたかもしれないところをそこから逃れられた存在として、恵まれている。だからこそ、私が辿るかもしれなかった運命に翻弄されている子供たちの未来を取り戻す義務がある!」
私は赦されない人間だ。天国の門は私に開くことは無いだろう。多くの殺し、多くを奪ってきた。それは私が未来永劫背負い続ける罪だ。だから、私は罪人だ。それでも、私が赦されぬ罪人であったとしても、この願いだけは間違いだとは思えない。
望まない運命に翻弄されて、願ってもいない世界に閉じ込められて、何のために生まれて死んでいくのかも分からないままに日々を過ごす子供たちがいて。そしてそれが自分の救える存在であり、もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない存在であり、そうなってしまった理由に自分も少なからず関係しているのなら。私はそこに手を差し伸べたいと思うし、そうするべきなのだ。
母の、そしておそらく父の愛を受けた存在として、私はそんな愛情すら受けられなかった存在に、誰かを愛せるような、そんな感情を持ってもらえるようにする。それが私の、ここへ来た運命なのだろう。それは自己満足かもしれない。綾小路清隆は、他の子供達はそんな事を望んでいないのかもしれない。それでも、そうだとしても私は、自分の正しいと思う事をする。少なくとも、愛を知らないよりは知ってからいらないと思う方が良いだろうから。
「綾小路君、どうか忘れないでください。あなたは、あなた自身の幸福を追求する権利があります。自分の幸福を追求することを諦めないで。自分を愛してくれる人を、そして自分が愛せる人を探すことを止めないで。世界はあなたが知っているよりもずっと広くて、あなたが思っているよりも多くの喜びに満ち溢れています。だから、感情なんて、愛情なんて意味が無いとか思わないでください。空が綺麗だったとか、たまたま食べたコンビニの肉まんが美味しいとか、友達と話した内容が面白かったとか、あの子が笑っているだけで嬉しいとか、そういう小さな幸せを見つけてください。それは、あなたが、いいえあなたで無くても誰にだって許された権利なのですから」
彼は面食らったような表情をして、そして小さくだが頷いた。私にだって、そういう幸せがある。空が綺麗なら気持ちいいし、肉まんが美味しいと嬉しいし、面白い事を聞けば楽しくなる。笑っていてくれればそれだけで良い。そんな存在も――そう考えた時に、
「何をペラペラと話している。愛が何だ、幸福が何だ! それで何が為せるというのだ」
「あなたには分からないでしょうね。愛も幸せも知らないままのあなたに! 愛情も幸福も、どんな子供だって当たり前に貰えてしかるべきモノです。親の笑顔を見て、楽しい事やたまに悲しいこともあって、それでもきっと明日も幸せに生きられるはずだと何の疑いもせず、眠りについて……。そんなモノは子供ならば願うべきですらない、当然に存在しないといけないモノです!」
「そんなものは理想論に過ぎないだろう」
「えぇ。ですが理想も追求できない世界に、未来なんてありません。そして少なくとも、あなたには地位も金も能力もあった。その理想を、彼に施す事だって出来た。そんな事すらできなかった存在に、未来や教育なんて語って欲しくなど無いですね」
苛立ちのまま立ち上がろうとする彼に、私は簪を突き付けた。
「何の真似だ」
「だから、宣戦布告だ」
私はその距離を一気に詰める。綾小路篤臣の目が泳いだ。彼がどういう修羅場をくぐったのかは知らないし、興味も無い。けれど少なくとも、人を殺そうとした人間と対峙したことも、殺されそうになったことも無いのだろう。私の嫌な血塗られし過去の経歴も、こういう時だけは役に立つ。きっと私は凄絶な顔をしている。どこまで行っても平和な日本でしか生きてこなかった男には、分からない世界を生きた人間の顔だ。
「私はお前の全てを否定する。お前のやろうとしていることも、その理想も行動も存在も全て! 私の持ちうる全てを以て、お前から何もかもを取り上げ、壊し、殲滅してやろう。全てに裏切られ、信じた夢が崩壊し、何もかもなくなって嘆く様を嗤ってやる。覚悟しているといい。お前が今まで踏みにじって来たモノ達のように、お前が今度は踏みにじられる。お前の夢に呪いあれ、お前の行く末に災いあれ。そして、いつか私が行くであろう地獄の底で、己の無力を嘆きながら私の言葉を思い出せ! 貴様の首は、柱に吊るされるのがお似合いだ!」
「後悔、するなよ」
それだけ言うと、逃げるようにバタンとドアを閉め、男は去って行った。これで来年の時局はある程度見えてきた。これに合わせた対応が必要だろう。坂柳理事長がどこまで信用できるかは分からないが、取り敢えずホワイトルームへの対応をしないといけない。しかし、あの男もそう簡単にここへは手が出せないはずだ。
であれば、まず間違いなく坂柳理事長を引きずり下ろす妨害が入るだろう。それへの対応も必要になってくるかもしれない。いずれにしても、何としてでも来年度の新入生に1人はこちらの勢力の人間を入れないといけない。その人数は多ければ多いほど良い。母校から後輩が来てくれるかは分からないが……。そう言えば、この前の資料に書いてあった死んだ執事の息子。あれには幼馴染がいた。使えるかもしれない。
ホワイトルーム。いつかは破壊しないといけないとは思っていたが、その計画を前倒ししつつ変更することにした。誰かの手では無く、アレは我々の手で清算しないといけない。いきなり本丸を攻撃はしない。じわじわとゆっくり、ヤツが何もかも上手く行かないことに苛立ち、苦しみながら、真綿で首を締められたように身動きが出来なくさせる。それが、ヤツに苦しめられた多くの子供達の幼少期に対する、せめてもの供養だろう。
そして、心を病んだ子供達はまだ専用の病院にいると聞いている。そこへも手を回さないといけない。彼らが幸福な人生を、ここからでも良いから歩み始める事が出来るように。彼らにも、そして綾小路清隆にも、その出生には罪など無いのだから。まだ何も知らない赤子のような状態でここに来るのは、正直悪手だったかもしれない。なにせ、ここは赤子が生きるには悪意が多すぎる。
ともあれまずは取り急ぎ、綾小路と話をすることにした。なにせ、まだ状況把握に手間取っているようだったから。事が事なので、少々時間がかかるかもしれない。早く自室に戻りたい気分だった。これからの事を考えると気が滅入るからだろうか、無性に彼女に会いたかったのだ。