『夏目漱石』
「茶柱先生とのお話は済みましたか」
「ああ。時間を取らせたな」
「いえ、大した時間ではありませんから」
綾小路の父親との対面を経て、私は彼に対して諸々説明する義務があると感じた。なにせ、持っている情報量の観点から考えた場合、我々の間には圧倒的な差が存在している。これは少々公平さに欠けるだろうと思ったのだ。その為、こうして会合をしている。そう言った話し合いを秘密裏にやりたい場合、この学校には適した場所が多い。人のいないカフェテラスで、私たちは向かい合っていた。
だが話をする前に綾小路側から担任である茶柱先生と話をしたいからそちらを優先して良いかと聞かれた。拒否する理由も無いので好きにして欲しいと伝えたが、その話し合いが終わったようだ。
「綾小路君、君は本当はクラスを率いるつもりも、もっと言うのであれば目立つつもりもなかった。違いますか?」
「その認識で正しい。オレは普通の学生生活を送りたかった。尤も、この学校の日常は外では凡そ非日常だろうがな」
「無論です。日本中の学校がこんなだったらたまったものではありません。こんな訳の分からない空間はここだけであって欲しいものですよ。さて……話を戻しますが、そんな中でも君がクラスのために戦略を立てたのは茶柱先生が絡んでいると読んでいますが、如何でしょう」
「流石だな」
「野望を抱いている人には、隠しきれない気配があります。これでも無為に十数年間生き永らえてきたわけではありませんからね。人を見る目は、そこそこ以上にあるつもりです」
「諸葛の言う通り、オレは5月になって早々茶柱先生から脅しを受けた。察しはついていると思うが、あの父親関連の脅しだ。後はお前の想像する通りだろう」
「教師が生徒を脅す、ですか。何とも……あきれ果てた事、許したがい行いです。この特殊な環境において圧倒的に立場が上の存在にも拘らず、それを利用して生徒に圧力をかけるなんて。これならまだ何もしない先生でもマシというもの」
私からしてみれば、余計に学校への信頼感を損ねる事態だった。いや、元々信頼感なんて言うモノは地の底スレスレを彷徨っていたのだが、それがついにゼロを超えてマイナスに突入している。私が常々懸念していた、教師、引いて言えば学校側が難癖や冤罪を付け放題であるということが証明されたのだ。学校や教師に中立性は期待できない。一年生の女性教師二名を例にするだけで、そう思うには十分な証拠と言える。頭が痛かった。
「随分と学校に対して憤懣を募らせているようだな」
「逆にあなたがそういう態度でいられる事の方が少々不可思議ですよ。それはともかく、確かに他人ごとではありますが愉快な事ではありませんね。たとえそれが他クラスであったとしても。君には何の罪も存在していないのですから。教職ともあろうものが……。仮にも『先生』などと呼ばれている人間として、自分の生徒の将来を考え常に頭を悩ませている身として、絶対に看過できない事態です」
自分の担任がそうでなくてつくづく良かったと思う。私がAクラスなのもあるかもしれないが。自分の生徒を脅すような教師を教師と認めるのは非常に腹立たしい。教員免許はただの免許ではない。誰かの人生を背負うためのモノだという自覚がないのか。大学で四年間何を学んだのだろう。他の学生と交流して、何も思わなかったのだろうか。思わず舌打ちをしてしまった。
「しかし、どうして茶柱……先生はそこまでAクラスに拘るのでしょうね。何かご存じですか?」
「詳しくは知らない。ただ、ここの卒業生とは聞いているが」
「なるほど……では彼女はまだ、ここに囚われているのかもしれませんね」
「と言うと?」
「彼女が在籍していた頃からクラス間闘争は存在していたのでしょう。そして、彼女は最後までAクラスにはなれなかった。きっと、凄く惜しいところまで行ったんじゃないでしょうかね。でなくばそこまでの執着は持たないでしょうから。時間がきっと、学生時代のままで止まっているのですよ。何と愚かな……こんな狭い世界の中だけに囚われるなんて。やはりここには問題が多い。こんな狭い箱庭を、我々はまるで世界の全てであるかのように錯覚している。いや、学校がそうさせているのかもしれませんね」
「外部との接触を断ち、より人間関係を固定化させて視野を学校内だけに狭める、という事か」
「その通りです。疑似的な社会を再現しようと試みている。退学とは実質死刑に近い。だから皆がそれを避けるようにさせている。実際には、ここを追われても生きる道など幾らでもあると言うのに。それなのにここを追われることが人生の破滅であるかのように煽っている。そうは思いませんか? 事実ここで実力不足と判断された生徒が実際に世間で通用しないかと言われれば別でしょう。特別試験などでは、優秀な生徒も退学になる可能性があるわけですからね」
「確かに、多くの生徒にとってはそうだろうな……」
綾小路は軽く嘆息する。彼からすればここを追われれば戻るのはホワイトルームとか言う施設だけ。それ以外に行き場は無い。最後の砦がここだった。でも、きっとそれは彼以外にもいるのではないか。居場所の無い者、ひどい扱いを受けてきた者。そんな人の最後のセーフティーネットがここである可能性は十分にあり得た。
「綾小路君、あなたは外の世界への探求心からここへ来た。私はそう認識していますが、どうでしょうか?」
「概ねその認識で間違いない」
「そうですか。どうでしたか、外の世界……というには些かここは狭いですが」
「そうだな。オレの知らないモノ、知ってはいたが実態の伴っていなかったモノで溢れていた」
「で、あればあなたを逃がした方も多少は報われるのかもしれませんね。しかし、私に言わせてもらえばここは『外の世界』を語るには少々狭すぎる。井の中の蛙大海を知らず、という言葉はご存知でしょうけれど、ここは井では無いですが、大海と呼ぶには狭すぎます。世界はもっと広く、もっと様々なモノに満ち溢れています。世界中を見てきた人間として、あなたにはそういうモノをもっと沢山知って欲しいですね」
世界には、彼の知らないモノが、知っていても実際に体験していないモノが無数に溢れている。テキサスの大荒野、ニューヨークの街角、薄曇りのロンドン、ライトアップされたチェコの城、雪に埋もれるドイツの古城、サハラ砂漠に浮かぶ月、サバンナを走る動物、様々なモノが流れるインドの川、空へ延びる中東の摩天楼、光り輝くトルコの夜景。オセアニアの珊瑚礁からシベリアの凍てつく大地まで。パンパの草原からチベットの奥地まで。私は多くを見てきた。多分、行ったことの無い国の方が少ないだろう。
その中では色々な景色があった。富める者、貧しき者、優しさと暴力、消えゆく伝統とそれでも続く文化。綺麗なモノもそうでは無いモノも、等しく世界には存在している。私は自分の軍人としての人生が素晴らしいモノだったとは到底思えないが、世界を見る事が出来たのだけは幸運だっただろう。上手くやれば観光する時間くらいは作れるのだ。
「この世界には綺麗なモノも醜いモノも、あなたの想像の及ばないような存在が溢れています。こんな狭い空間の経験だけで、人生とは何かとか、将来はどうするかなどを決めない事を私はお勧めします。あなたがするべきは、こんなところにいる事では無く、世界一周をすることかもしれませんね。なにせ、あなたは本当の意味で自分を探すべき人なのですから。ここは……それを探すには悪意や悲しみが多すぎる」
「お前は、何でも知っているんだな」
「何でもは知りません。知っている事だけです」
「?」
「折角言う機会が出来たのに、反応してもらえないのは哀しいですね。別に仕方ない事ですけれど」
彼は生まれたての赤子のようなものだ。変な環境に十数年いたせいで、あまり正常な人間としての思考回路をしていない。世間で生きる人間として、当然備えていてしかるべき技能が無かったり、出来るはずの事が出来ないでいる。歪んだ教育の弊害だった。だからイマイチコミュニケーションに難がある。
「ともあれ、私はあなたには幸福になる権利、正確には自分にとっての幸福とは何かを追求する権利があると思っています」
「そうなのか? オレにはよく分からない」
「あります。人は誰であろうとも、他者の幸福を侵害しない限りにおいて、自分の幸福を追求する権利を有しています。特にこれまであなたにはそういう概念すら与えられなかった。だから、これからは色んな事を見聞きして、感情を動かしてください。最初は分からなくても構いません。分かるまで、やっていきましょう。そういうのは得意でしょう?」
分からないなら分かるまで考えて。それは彼女が私に告げた言葉だ。まだ返事は返せていないけれど、私は自分の中での答えは出せた。であれば、先達として綾小路に伝えることもまた、私の役目だろう。
「……なるほど。あの父親が理解できなかったのは、お前のそういう部分なのだろうな。それを踏まえた上で考えれば、オレとしては父親よりもお前の方が正しく思える。オレは、自分で言うのも何だがあまりコミュニケーションに長けているとは思えない。だがお前は入学してからすぐに上手く集団に溶け込め、そして今もそうしている。もし、社会から求められている人材がどちらかと聞かれれば、多分それはお前だろう」
「そういう風でありたいとは思っています」
「オレにはまだ分からない事ばかりだが……学んでいきたいとは思っている。感情について、この世界について、もっと色々な事を」
「そうですか。それは……良かった」
私は少し安堵したような口調で言った。
「あなたがそんな人生を歩むことになったのは、私の父が少なからず関係しています。ですから、あなたが自分の人生を歩んでくださることは大変嬉しい。少しでも、父の贖罪が出来たと思えるのです」
「だが、お前はお前だろう。お前の父親がどうだろうと、お前は関係ないんじゃないか?」
「確かにそうですね。それは正しい。ですが……そう簡単に割り切れるモノではないんです。私には、咎人の血が半分流れている。不出来な親を持つとお互い苦労しますね。私は父の罪を清算するべく努めます。そうすることでやっと、次のステップに自分自身が進めるような気がするので」
「そうか。お前も……模索中なんだな」
「えぇ、そういうことです」
綾小路は小さくため息を吐いた。ここにいるのは、親に振り回されながら生きている二人の人間だった。生まれは選べない。である以上、そこからどう生きるのかを決めることも、中々容易ではない。その自分ではどうしようもない運命のようなものは、長く自分を縛り、苦しめるのだ。
「それでも私は、先ほどのあなたの父親の発言のせいではありますけれど、あまり自分の父親を嫌いになれないでいます。それに、やっと今になって分かったこともあるんです」
「それは?」
「あの人はあの人なりに、私に向ける感情があったという事です」
私は小さく息を吐いた。白い息が空中に溶けては消えていく。あれもそんな、冬の日だった。
「父親が死ぬ前日のことです。私が深夜にアニメを見ていたら、普段は寝ているくせに起きて来たんです。ビックリしましたよ、いきなり来るもんですからね。それで普段は会話もほとんどしないのに、聞いてきたんです。『これが好きなのか』って。『そうだけど、何か悪いか』と答えましたら、『そうか……安心した』とだけ言って去っていきました。そして朝になったら、既に息を引き取っていました」
あの時、彼は一体何を思っていたのか。今までよく分からないでいた。なにせ、私に興味なんて無いと思っていたから。けれど、綾小路篤臣がいう事が真実ならば、私の父親は私を逃がしたのだ。それを知ると、あの時の言葉も違った意味に聞こえる。
「何に安心したのか分からないでいましたが、今日やっとわかりました。きっと、私が人並みの感情があって、好きなモノがあって、楽しめることがあるのに安堵したのでしょう。そんなものはいらないと、かつて思っていたはずの人間が、今際の際に抱いたのが我が子が人間性を持っていることへの安堵なんて、随分と皮肉な話です。……ままならないですね、人生は。話したい時に、話したい人はいない。そんな事ばかりです」
もっと語るべきことはあったはずなのだ。そうしたらきっと、私は……。後悔することは沢山ある。そしていつもそれは、手の中から零れ落ちてしまったモノについてだった。卒業したら、一度実家に帰ろうと思う。父親の墓に、行くべきなのだろうから。私は父をまだ赦せはしないけれど、赦せるように努力しようとは思えた。綾小路は私の話を、随分と真剣に聞いている。彼は彼で、思うところがあるのだろう。親について、愛について。
「すみません、私の話ばかりになってしまいまして。さて、肝心な話に入りましょうか。私たちは協力できる余地がある。そう思うのですが、如何でしょうか」
「同意する。1人で戦うのは非効率的だ。目的を同じくする者がいて利害関係が一致しているのならば共闘するべきだろう」
「賢明なご判断感謝します。まず、情報の共有。これは普段の事は結構ですのでホワイトルームやそれに関連すること。これをしっかり共有しましょう。特に来年度以降は必須になるはずです。誰が味方で誰が敵なのか。それを見極める必要がありますし、共に狙われている者同士手を取り合った方が良い。3人寄れば文殊の知恵とも言います。我々は2人ですけどね」
「分かった。情報があったらすぐに共有することにしよう」
「それで……もし可能なら、あなたにはウチのクラスにいてもらった方が特に細かいことは考えず、普通の学生として過ごしていく事が出来ると思いますが、どうでしょう。少なくとも脅して来る担任や否応なしに特別試験への対応を求める堀北さん、あなたを消そうと願う櫛田さんよりは幾分もまともな生徒が揃っています。坂柳さんは少々アレですけど……最近は大人しいですので」
私の提案に、彼は迷うような態度を見せた。それは正直意外だった。もう少し即答すると思っていたのだ。それは無論、是の方で。彼にとって、彼のクラスでの日々は決して居心地の良いものでは無かったと思うのだが、それはもしかしたら見当違いなのかもしれない。なにせ、あのクラスは一般生徒のモラルがあまりよろしくない。なので、出来れば倫理的にまともな生徒の多いウチのクラスを、と思ったのだが。
「その回答はしばらく保留させてほしい」
「構いませんが……理由をお聞きしても?」
「オレはまだ、自分のクラスメイトをどう捉えるべきかを考えかねているんだ。最近は行動を共にするグループのようなモノも出来た。そこでの生活は気楽さがある。堀北は特別試験の話しかしないからな。息が詰まるんだ」
「彼女も大概ですね……全く。しかし、取り敢えず分かりました。あなたが折角出会えた友情なのです。それを大事にしたいと思うならば、それは大事にしてください」
「助かる。オレがそういう風に思えるようになったのも、お前の影響だからな」
「私の?」
「あぁ。無人島での結末を見て、オレは今まで持っていた自分が最後に勝っていれば良いという考えを改めた。勝つことは大事だが、その勝ち方も大事であり、個人で勝つよりも集団を勝たせる方がより難しいとな。父親から逃れようとここに来たのに、オレだけが勝つのでは父親と同じやり方だ。それを否定するには、お前のやり方に学ぼうと思った」
「そうでしたか。それは光栄なお話ですね」
彼の中にそういう心情的変化が生まれている事を、当然だが私は全く知らなかった。しかし、至極個人主義的な考えから少しは周りの事を思いやれる考え方に変化したのならば、それは良かったのだと思う。
「では今後、移動したくなったらいつでも仰ってください。場合によっては、ご友人方もどうにかしてみせます」
「あぁ、よろしく頼む」
我々は握手をして、交渉はある程度完了した。これで厄介な問題にはある程度対応できるようにはなるはずだ。そしてこちらは綾小路には分からない場外戦闘をやるつもりでいる。まずは死んだという執事の息子で現在困窮中の青年を
「あなたはこれから多くの出会いを経て、多くの関係性を築いていくでしょう。あなたに好意を寄せる人はきっとそれなりにいると思います。感情という分野において先達から一つアドバイスをするとすれば、あなたはあなたに愛を囁く人よりも、あなたが愛したいと思う人を愛した方が良いでしょう」
「そういうものなのか」
「そういうものです。恋愛や愛情に教科書なんて存在しませんし、する必要もありません。自分の中の感情に従っていくことが大事です。と、偉そうに言っていますが、私もこの辺は不得手で。それで少し困らせてしまっている子がいますから」
今日、先ほどから苛立つことや怒りを覚える事ばかりだ。私だって人間なので、そういう事が降りかかってくればストレスが溜まる。その度に、彼女の顔が脳裡に浮かぶのだ。困らせてしまった埋め合わせを考えないといけないだろう。
「残りの二年間と少し。あなたはその時間を自分の捨ててきたモノや過去と向きあい、未来へ向かって歩むための時間に使って欲しい。私はそう思っています」
「本当に、教師みたいだな。少なくとも茶柱先生よりずっと」
「比べられるのも心外ですが、世界について知っている事の量で言えば、間違いなく私はあなたの教師足り得るでしょうね」
「そうか。……もし仮に入試で満点を取っていれば、お前と同じクラスになれたのかもしれないな。今になって、そう思う」
「私はいつでも歓迎しますよ。新しい生徒の来訪を」
広場の時計が鳴る。時間は気付けば午後6時を回っていた。
「オレはそろそろ行こうと思う」
「長話してしまいましたね。では健闘を祈っています」
「お互いにな。……そうだ、最後に聞きたいんだが良いか」
「何でしょう」
「女子へのプレゼントは何がいいと思う。1年生に名高き孔明先生にお知恵を拝借したい」
「……なるほど?」
「他に頼れそうな人がいない。頼む」
「関係性は?」
「友人……では無いな。協力者、か?」
「名前は?」
「軽井沢だ」
「軽井沢さん……お宅のクラスの金髪ポニーテールの子ですよね?」
「それで合ってる」
「う~ん、あの手の子かぁ。難しいですねぇ……」
ギャルっぽい見た目なのでそっち方面が良いのかもしれないし、意外と趣味は全然違う方向かもしれない。これは難題だった。特別試験の方がよほど簡単だ。全然知らない女子へ送るプレゼントを考える。これはかなりの難しい問題と言える。
指輪……は結婚するときに送るヤツだし却下。ネックレスとかか? いや、それもそれで少し高価すぎるか。ぬいぐるみは好みが分からない。コスメは肌に合うか分からないし、口紅は「あなたにキスしたい」という意味になると真澄さんが読んでいた雑誌に書いてあった。
「髪留め……とかですかね? すいませんあんまり相手の好みが分からないので具体的なアドバイスが出来ませんが。まぁ後は無難に好きそうなお菓子を送ればいいと思いますよ」
「助かった。恩に着る」
本当に感謝していそうな様子だった。本当にそういう部分を考える能力をそぎ落とされて来たのだろう。なんか、掘り返せば色々問題点も多数見つかりそうだ。無自覚に傷つけた人間も多くいるのだろう。謝る、とまではいかないにしても、そういう存在と向き合う時間が彼には必要に思えた。
「いえ……そうだ、私もあまり重要では無いですが質問を良いでしょうか」
「なんだ?」
「海と山と、どちらが好きですか?」
「前は海に興味もあったが、ここでは毎日見ようと思えば見られるからな。今は山の方に興味がある。……これが何かの役に立つのか?」
「えぇ、とても。では、また今度」
綾小路はケヤキモールの方へ向かって行く。彼が山と言うならば、最終的に綾小路篤臣には
情報量の多いやり取りをして疲れた。空を見上げれば、都会の光にかき消されそうになりながらも星が灯っている。冬の空はよく澄んでいて、オリオン座が見えた。
憤りを抱え、報復を誓い、綾小路と共に対抗する事を決めた。そうやってまた、自分がドンドンとどす黒い場所へと突き進んでいく事を理解しながらも、私は止める事が出来ない。或いは、もしこんな職についていなければ、綾小路篤臣に対しても説得するなどの甘ったれた選択肢を考えていたのかもしれない。けれど一度引き金を引いてしまえば、そういう選択肢は常に目の前をチラつき、そして選びがちになる。もう、戻れなくなるのだ。
どうしようもない存在であった綾小路篤臣だが、彼は一つだけ私の人生に有益な事をしてくれた。それは、ずっと分からないままであった真澄さんへの感情に、明確な定義づけをくれた事である。それだけは感謝しても良いかもしれない。
本質的なところで、私は家族を求めていたのかもしれない。だからこそ、彼女の存在は大きかった。部屋に戻った時に「お帰りなさい」がある嬉しさ、作ったご飯を美味しいと言って食べてくれた時の穏やかさ、ぼんやりとテレビを一緒に見ている時の安堵感。そういう何でもない感情が、私の人生においては大きく欠けていた。
或いは、綾小路のように知らなければ求めなかったかもしれない。けれど私は知っていた。だからこそ、余計に追い求めてしまう。もしかしたら彼女でなくてもそういう日常にある幸せを感じることは出来るのかもしれないけれど、ここで半年共にそうやって過ごしてきたのは彼女だった。それが巡り合わせというモノなのだろう。
入学前までは、自分がそんな感情を持つとは思ってもみなかった。私も日本での生活で随分腑抜けたと言えるかもしれない。それでも、私の感情を動かすのに半年という時間は十分すぎた。カツカツと足は少し早くなる。玄関の鍵を開けると、廊下の奥から顔を覗かせた彼女が玄関へやって来た。その表情を見るだけで、どうにも堪えきれない安心感が湧いて来る。
「なんか随分遅かったけど、大丈夫? どこで何して……」
彼女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。私が思わず彼女を抱きしめたから、それによって彼女の言葉が止まる。彼女の震える身体と浅く荒くなる呼吸から、その焦りのようなものが感じ取れた。口がパクパクとしているのも分かる。動揺しているのは明らかだった。
「な、なに……?」
「ごめん、ちょっとしばらくこうさせて欲しい」
「……分かった。それは良いけど、何があったの、いきなりこんな風になるなんて」
「ちょっと色々あって。私が不幸な人生を送ることになった切欠みたいなヤツと愛や幸福はいるとかいらないとか、そういう論争をした」
「それはまた、随分と哲学的ね」
「詳しくは省くけど、あの子が笑っているだけで嬉しいとかそういう小さな幸せを見つけるべきだと私は言った。その時に、君の表情が浮かんだ」
「そう。それで?」
少しだけ落ち着いた彼女は私を引き剥がして、私の瞳を見つめるようにして尋ねてくる。この前の課題の答えを要求するように。
「私が君に抱いている感情に、明確な名前が付けられるようになった」
「それはおめでとう」
「ただ、一つだけ聞かせて欲しい。これ以上先に踏み込めば、もう二度と戻れない道になる可能性が高い。平凡な人生を歩む道は、もう無いだろう。激動の中に身を置いて、時代の奔流と戦わないといけない。普通の幸福がそこにあるのかの保証は出来ない。そして、私は自分から相手を変えることはないだろう。それでも、君は私の隣にいる道を選ぶのか?」
「本当にそう出来るのかは実際になってみないと分からない。でも、今言葉で言うだけでも信じてくれるなら、私はどんな未来でも構わないと思ってる。自分を初めてちゃんと見てくれた相手になら、振り回されてもいい。ろくでもない二人同士、一緒に地獄へ落ちましょう?」
それが最後の決定打だった。私の言葉の障害となるものは、現時点でなにも存在していない。未来へ進んで行く生徒たちを見守りながら、私は一人孤独に地獄でそれを見送るのだと、ずっとそう思って生きてきた。それで構わないと思っていた。それでも、もし仮に一緒に地獄へ行ってくれる存在がいるのなら。私はそう望んでいた。
けれど、私の存在は相手を不幸にしてしまう。地獄へ一緒に行くことを望む存在なんていないだろうと、そう思っていたのだ。それでも彼女は、どんな道でも構わないと言う。それは多分、一時の熱に浮かされたのではなく、ちゃんと彼女の意思で考えた結果なのだろう。それが本当にそうなるのかの保証は何もない。それでも私は今、彼女の言葉を信じたかった。
「幸せに出来る保証は無いけど」
「幸せにしてもらうつもりなんてない。なるなら、自分でそうなるようにする」
「何不自由ないとは言えないし」
「今更ね」
「恐らく、人生滅茶苦茶になると思う」
「もう、滅茶苦茶よ。アンタのせいで、全部全部」
「それでも構わないと言うのなら」
私は彼女の手を取って、そしてその瞳を見つめた。輝く宝石のようだと、そんな事を考える。サイドテールが小さく揺れる。紫水晶色の髪は上質の布のように。白い陶器のような肌の上に浮かぶ赤い花びらのような唇は、優しい弧を描きながら、私の言葉を待っている。
普段は言葉がペラペラと出てくるのに、中々こういう時は上手い言葉が思いつかない。それでも何も言わないで誤魔化すという選択肢は無かった。言いたい時に言いたい人はいない。そんな人生ばかり歩んできた。父にも母にも、言えない事ばっかりだった。だから、だからこそ、自分が今初めてこの感情を抱いた相手には、言わないといけない。今、この瞬間に、二度と後悔なんてしないために。今この瞬間に人生が終わっても、きっと幸福であったと言えるように。
「私はあなたを愛しています。どうか、私の隣を歩いてください」
「喜んで。例え死が二人を分かつとも、永遠に」
彼女はそう言って、小さく微笑んだ。私が愛した、その優しさと安心をくれる微笑みで。多くを奪い、多くを殺し、それを命じた口で、私は彼女への愛を告げている。私はきっと赦されないのだろう。それでも、もう少しだけこの時間が続いて欲しかった。彼女の返事を聞いた時に、私の決して幸福とも平凡とも言えない十六年の人生が、やっと報われた気がしたのだから。
死んでもいいわ
『二葉亭四迷』