『論語』
1日目の午後はマラソンをやらされた。まだ初日だから大した事は無いが、これは苦手な人は結構きついと思う。他の授業も色々あるが、大半が『社会性』に重きを置いた内容になっている。社会性を身につけたさせたいのならば、もっと違うやり方が色々とあると思うのだが、その辺の発想が貧困なのがこの学校の残念な部分だと思う。冬山での疾走などお手の物ではあるけれど、他の面子にも気を配らなくてはならない。
自称スポーツの天才君は普通の体力だった。いやもうちょっと行けるのかと思っていた。ホラを吹くにしても多少は運動神経に自信があるからこその発言なのかと……。ただよく考えてみれば体育祭でもさして目立っていなかったし、まぁ良くも悪くも普通程度なのだと思う。
夕食はサッサと食べてしまい、空いている時間を見てスッとお風呂に入ってしまいたかった。髪を乾かすのに時間がかかるのもあるが、私はあまり他人とお風呂に入るのが好きではない。温泉は好きなのだが、大浴場は苦手だ。歩いていると廊下に人だかりができている。何事かと思い覗いてみれば、坂柳が尻餅をついていた。
「悪い悪い。大丈夫か?」
「ええ……心配いりません」
誰がぶつかったんだ、思って相手を見れば山内だった。君か……と内心でため息を吐く。問題があれば助けようと思ったが、坂柳は山内が差し出した手を取らず、転がった杖を掴んで壁を使いつつ自力で立ち上がった。痛々しい光景である。山内は流石に良心が残っているのか、申し訳なさそう、と言うよりは所在なさげな顔をしている。
「じゃあ、行くけど?」
「ええ。どうぞお気になさらず」
笑ってるけど目が全く笑ってない。あの調子だと本当に何かしかねないので困った。確かに、山内が今後我々にとって何か有益な存在であるとは考えにくい。しかしながら、それでも私情で動かれては困るのも事実。彼女に変な成功体験を与えたくない。今回の件はどう考えても山内が悪いのだが、それで退学などまで追い込むのは幾らなんでもやり過ぎだ。
「いやさ、坂柳ちゃんって可愛いけどさ、どんくさいよな」
「山内君」
坂柳にやりすぎないようにと注意しようと思ったけれど、少し気が変わる。加害者側であるにも拘わらず、その言い草は許されてはいけない。普通の女子生徒であったとしても自らの不注意が招いた結果に対しての言葉にしては責任感に欠ける。それが普通の女子生徒ではなく障害を抱えた生徒であるのならば、猶の事だ。
「な、なんだよ」
「何だよ、ではありません。あなた、今私の生徒に対して何を言いましたか? 自分でぶつかっておいて、その言い草は倫理的な視点を疑わざるを得ませんね」
「い、いや軽い冗談だって」
「冗談でも言って良い事と悪い事があります。高校生にこんな話をしないといけないのはどうかと思いますが、世の中には色々な方がいます。目が不自由な方、耳が不自由な方、そういう方々も暮らしています。日常の中で、そういう方とトラブルが発生してしまうこともあるでしょう。時にはあなたが悪くないこともあるかもしれませんね。しかしながら、少なくとも現在の状況において、先ほどのあなたの行いは、身体が不自由な彼女と衝突したあなたがとるべき態度と言動ではないと思います」
冷たい声で私は告げる。坂柳は少しビックリした顔をしていた。まさか私がこういう言い方をするとは思わなかったのだろう。私の部下にも車いす生活を余儀なくされている者がいる。坂柳のような身体的条件を持っている存在は、決して遠い存在というわけではなかった。この学校はそういうするべき配慮に欠けていると思う。少なくとも、健常者である生徒に対しては何かしらの教えをするべきだし、ハンデを抱えた存在には配慮を見せるべきだろう。
弱者を悪であり、滅ぼしても構わないとするこの学校のシステムは、そういう本来弱者として嘲笑われるべきではない存在をも踏みつける存在を生み出しかねない。そんな存在が国家を率いてしまったのでは、福祉は成り立たないだろう。
「その上で、何か言うべきことは」
「……悪かったって」
「私に謝ってどうするのです」
「わ、悪かった!」
それだけ坂柳に向かって言うと、山内は走ってどこかへ去って行った。ため息を吐く。部屋に戻った後が面倒そうだ。これでケロッとしていたら、それはそれで正気を疑うことになるので、どちらにしても幸せな未来は待っていない。Aクラスの民度の高さをこんな事で実感したくはなかった。少なくとも、ウチのクラスの生徒は坂柳の身体的なハンデを馬鹿にしたり利用しようとはしなかったのだ。本来はそうあるべきなのだが。
「どうして私を庇ったのですか?」
「庇ったわけではありません。ですが、私の生徒が言われない中傷を受けているのを見逃すほど、私は落ちぶれてはいませんので」
「私はあなたを教師とは認めていませんけど」
「ならば認められるように努めるまでです。生徒が認めてくれないからと言って、教師たる事を放棄するつもりはありません。それが私の仕事であり、するべき事です。その観点に従って、あなたに対する発言の謝罪を求めました」
「そうですか。まぁ、精々頑張ってください。そうすればもしかしたら、私も他の方と同じくあなたを先生とお呼びするかもしれませんから」
口ではこうやっていつも嫌味を言ったり挑発してくるけれど、何だかんだとクラスのために行動はしてくれている。真澄さん以下、グループのメンバーからもそういう報告を受けていた。女子と接触できる機会は限られているけれど、そこで得られる情報だけでも十分に価値がある。坂柳は真面目に試験に取り組んでいる。それならば、私に対しての態度が悪くても別に構わない。大事なのは結果だ。
「坂柳さん、山内君を追い詰めたり退学へ追い込んだりしないようにしましょうね」
「勿論です」
「本当ですか? その割には、あの野郎をどう料理してくれようか、という目をしていましたが」
「……気のせいでしょう」
「私の目を見て言ってくださいね。確かにあなたは被害者ですが、やりすぎると過剰防衛になってしまいます。時には寛容さを持ちましょう。まぁ今回は彼にかなりの非があるので、あまりあなたを強く制止は出来ませんが……。しかし、あなたの優秀なリソースを彼に割くのは時間の無駄ですし、勿体ない行動です。我々にそんな浪費をしている余裕はありませんから、自重して頂けると助かります」
「仕方ないですね。他の獲物で諦めることにします」
「それは何より。……他の?」
「おっと、これはまだ秘密です。結果をお楽しみに」
「坂柳さん、大丈夫でしょうね?」
「えぇ、大丈夫ですよ、ご心配なく」
彼女はそう言って酷薄な笑みを浮かべるとゆっくり廊下を進んでいく。何を考えているのかはよく分からない。何かしらの企みがあるのだろうし、それは多分他クラスへの攻撃なのだろう。聞き出したい気持ちはあるが、指揮権を付与したのは私だ。彼女を信じて待つ、という行動を私がとらないと、彼女も私を信頼してはくれない。将、外にあっては、君命も受けざる所ありとも言う。まずは任せてみるしかなかった。
木曜日に始まった合宿も早3日目。今は土曜日だ。今日は朝食を作らねばならない。他の小グループも作成している様子が見受けられた。上級生との決定により、初回の朝食は我々が作ることになっている。山内は不満気な顔で目覚めてきた。皆眠いのは同じだがポジティブに行こうとしてる中1人だけネガティブオーラをまき散らしていると非常に迷惑なので止めて欲しい。
「眠いし寒ぃ! なんで俺らが料理なんてしないといけねぇんだよ……」
「試験だ、諦めてやるぞ。文句を言うより、受け入れてしまった方が精神的にも楽になるはずだ」
「でもよぉ、男が料理なんかしなくても良いだろう~?」
葛城は疲れた顔をしている。一事が万事この調子だ。大体いつもこうして不満を漏らしている。気持ちはわからんでも無いが、言わないのが社会性では無いのかと思ってしまう。皆我慢しているから、と言うのは同調圧力だし、時にはしっかり不満を言う事も大事だ。しかし、今は言ってもどうにもならない上にむしろマイナス面の方が大きい。
ただ、料理できないと言う生徒はAクラスにも結構いる。
「葛城君、ここはお任せください。得意分野ですから」
「そうだな。無人島でも活躍していたし、頼んだ」
「はい、お任せを。さぁ皆さん。ほら、ぼ~っとしてないでやりましょう。やり方は初心者でもわかるレベルで書いてあるんですから。分担すればすぐ終わります。私が見ているので、取り敢えずレシピを読みながらやって下さい。今時男性も料理できないといけませんよ。どうするんです、奥さんと共働きだったら。先に帰っている癖に遅くに帰宅した奥さんにご飯まだ~とか言う離婚待ったなしな旦那さんになりたくないなら今のうちにやりましょう。じゃないと離婚ですよ離婚」
「「「は~い」」」
ま、やるしかないよねと言う顔で各々動き始めた。こういう時自分で気付き考え行動できる勢はありがたい。分担もスムーズに分けててきぱきと動き始めた。私は何か問題が無いかの監視をしている。葛城が割と器用に野菜を剥いていた。
「上手ですね」
「妹が入院しがちなのは言っただろう? 両親が見舞いで不在な事も多くてな。自炊は基本だった」
「流石です」
なんか戸塚みたいな事を言ってしまったが、家族のためにしっかりと自分で出来る努力をしているのは尊敬に値する。妹さんの病名は葛城について調べた際に一緒に出てきたが、そこまで悪いものでは無かった。治るかは微妙だが、それでも命に別状が! と言う事態になるようなものではない。医療費はかかるが。そのために高校と大学の費用を賄うべく、彼はここに来ている。Aクラスで卒業するべき人材だと私が確信しているのはこういう部分も理由として存在していた。
「う~ん、卵焼きムズそう……」
「まぁ取り敢えずやってみて下さい。横で指示しますから」
「頼んます」
「液は出来ましたか?」
「レシピの通りに入れたけど」
「どれどれ、あ、これ甘くない奴か」
「孔明先生甘い派?」
「私はどっちでも良いんですが、真澄さんが甘いのじゃないと嫌って言うので仕方なく。それはさておきマヨネーズぶち込みますか」
「マヨ?」
「冷めてもフワッとなるんです。これくらいかな。こんなもんで良いでしょう」
この辺は見れば大体の分量はわかる。そこまで正確じゃなくても良いだろう。
「はい、まず小さな容器にサラダ油を入れて、キッチンペーパーを浸しておいてくださいな。そしたら油を卵焼き器になじませて……そう。で、中火です。微かに煙が出たら1/3の量の卵液を流し入れて下さい」
「…………そろそろか?」
「そうですね。投入! オッケ―です。気泡ができたら菜箸で潰してください。半熟状になったら奥から手前に巻きますよ。その時に卵を菜箸で巻くとダメです。卵焼き器を下45度から上45度に持ち上げるイメージで、弧を描くように動かすのがコツです」
「こ、こう?」
「はい上手。巻き終わったら奥にずらして、キッチンペーパーで空いた部分に油を塗り、巻いた卵を持ち上げて下にも塗って下さい。後は何回か繰り返せば完成です」
「お、おぉぉ、出来てる……」
「君がやったんですから当たり前でしょうに。良い感じですね。十分合格点ですよ」
「ありがとうございます!」
「いいえ、どういたしまして」
「孔明先生次こっち見てくれないか?」
「はいはい、ただいま」
あちらこちらの様子を見たり指示しながら苦戦しつつも頑張っているAクラス男子諸君の調理を監督していった。まぁ皆良い感じに出来ている。やはり葛城が上手い。これで男子諸君の尊敬を集めていた。葛城は普通にいいやつなので、社会に出たら結構人気が出そうなタイプである。大学とかでも友人が多そうだ。
その後上級生がやって来て、大グループで食事となる。堀北学筆頭に上級生からも良くできていると好評だったので作成者たちは満足げな顔をしていた。やはり、自分の作った飯を旨いと言って食べてくれる存在は料理において大事な原動力になる。レシピに書いてある事だけが全てではない。食事は文化であるのだからして、当然心理的な面も大事なのだ。私の場合は毎食毎食バクバク食べてる人がいるので非常に作り甲斐があった。
さて、そんな日々を送りつつ判明した試験内容は4つ。
①禅……座禅を開始するまでの作法から、座禅中の体勢などを採点する。作法そのものの間違いや警策で叩かれたら減点となるだろう。
➁駅伝……小グループ単位で全18kmを走る。合計タイムがそのまま順位かスコアになって計算されるはずだ。1人あたり1.2km以上走ることになっている。
③スピーチ……授業内で言われてた採点基準は『声量』『姿勢』『内容』『伝え方』とのことだ。話すのはこの学校に入ってからの学びなど。Aクラスの生徒は問題ないだろう。一応他クラスの生徒含めて全員分、原稿はチェックする予定でいる。
④筆記試験……3学年合同で受けてる授業から出題される。出る事項は既に示されているので出そうな範囲を予測して徹底的に覚えさせる必要がある。内容は普段とは違い、倫理や宗教に関することや文化史が多い。美術系もあったので真澄さんがお昼の時に凄い生き生きとしていた。
まぁ他にも『食事』だの『清掃』だのあるが、基本はこの4つであるはずだと葛城や坂柳とも意見が一致している。真っ当にグループの結束力を高めつつカバーしあう戦略を取る王道な戦略を葛城は選択している。難しいようではあるが、細々とした部分に注意すればいいのでむしろそこまででもないかもしれない。
……真澄さんは大丈夫だろうか。大丈夫だと言われたがやはり不安がある。とは言え、この前の食事時に見かけた際にはグループの生徒全員で固まってコミュニケーションを取っていたので何だかんだ上手くやっているのかもしれない。
他の女子からの報告もちょくちょく聞くが、真澄さんへの評判は上々。むしろ一之瀬と並んで当たりのグループとして評価されているらしい。坂柳も駅伝は出来ない代わりに他の部分でグループメンバーを助けたりしていると聞く。一之瀬の方も問題なく進んでると報告を受けていた。Dクラスも含めて合計で80人分の管理をするのは中々大変ではあるが、皆ちゃんとしている生徒ばかりなので負担は最低限で済んでいる。このままいけばいい結果が期待できそうだった。
月明りが山肌を照らす。その明かりの下で、銀色の髪が艶やかに光っていた。坂柳有栖。普段はAクラスの半ば珍獣扱いされつつある少女であり、口が悪くしょっちゅう孔明と煽り合いをしている金庫番。クラスメイトからはそう言う認識であっても、外からはそうは見えない。妖精の如く可憐で月の光のように儚い美少女。それが外から見た彼女の姿だった。特に、彼女と接点のないCクラスの女子などはそう見えてしまうだろう。
既に試験は三日目に入っている。グループごとに明暗が徐々に分かれつつあった。疲労の蓄積も始まり、ストレスもたまっていく。その中で起こった、本当に些細なすれ違いだった。真鍋志保・藪菜々美・山下沙希・諸藤リカの四名は普段行動を共にするグループであり、龍園失脚以後いわゆるカースト上位になっていた。特に、真鍋は王の空いた席を我が物顔で座り、友人三名もそれを享受している。
そして当然の如く、この試験でも四名で同じ小グループに入り、椎名をこき使っていた。しかしである。この四名には元来差が存在する。藪は真鍋を自身と同格に思っているが、真鍋は自分がリーダーだと思っている。そして諸藤はグループの中で一番勉強が出来るが運動が出来ない。山下は藪とはそこまで仲が良いわけではなく、真鍋を介しての関係性になっている。
その差は、ストレスと疲労が溜まるこの場で発揮された。諸藤は駅伝での遅さを真鍋に指摘される。おまけに真鍋は神室に煽られた苛立ちを周囲に宥められる形で発散させていた。藪はその相手で若干の苛立ちを覚える。普段だったならば、翌日にはいつも通りだっただろう。ただ、ここではそうはならなかった。
疲れた、と思いながらお手洗いから帰る寝間着姿の藪の前に、月下美人の如く坂柳が現れる。その笑みは、人外じみた神秘性を孕んでいた。
「えっと、坂柳さん、だっけ?」
「えぇ、こんばんは」
「こんばんは? どうしたの、こんなところで。風邪ひくよ」
「いえ、大丈夫です。むしろ部屋の中が少し暑くて。夜風に当たろうとここへ参りました」
この遭遇は偶然などではない。坂柳は意図してこの時間にここにいた。藪や真鍋のいるグループには、Dクラスの生徒もいる。Dクラスの女子生徒は自分のクラスの生徒も同じこと。その生徒から、藪が夜中の一時頃にお手洗いに行くと聞いていたのだ。二日間連続で同じ行動をしていれば、三日目も同じことをする可能性が高い。故にここで待ち構え、そしてその目的を達した。
「それよりも……大丈夫ですか、藪菜々美さん。随分とお疲れのようですが」
「まぁ、こんな試験だし」
「確かに、それもそうでしたね」
「と言うか私の事、知ってるの?」
「えぇ、諸葛君から話を聞かされていまして。Cクラスで警戒するべき相手の一人として、ね」
「そんなまたまた。私はただの一般生徒だよ?」
そう言いつつ、藪の瞳の中に喜色がある事を坂柳は見逃さない。誰だって、承認欲求は持っている。認められた、凄い人物だと思われたい、能力があるとみなされたい。そんな想いは大なり小なり抱いている。普段二番手だったりにいる生徒ほど、そういう感情を抱きやすいと坂柳は知っていた。一番になれないからこそ、己には何かしらの力があると思いたいのだと。
そして、そう思わせるために諸葛孔明の名は効果的だった。学年随一の実力者からの警戒は、それ則ち実力の証左。坂柳にとっては多少複雑でも、言葉を運ぶ上では重宝する存在だ。
「それを言うなら、私より……」
「より?」
「志保の方がさ、警戒するべきじゃない?」
「私はそう思ったのですが、諸葛君はそうではないようで。彼には私たちに見えない何かが見えているのかもしれませんね」
私たち、という言葉でぬるりと仲間意識を植え付ける。
「真鍋さんと何かありましたか?」
「え?」
「余計なお世話かとは思いましたが、何か言い淀んでおられたので。何かあったのかなと。彼女は身内には優しい方だと思っていましたが」
「あー、それねぇ。まぁ機嫌がいい時は優しいけどさ。でもなんて言うかなぁ、ワガママなところがあるって言うか。顔は悪くないんだけど、ぶっちゃけ一番でもないし、椎名の方がまだいいじゃん? それもなんか気にくわないみたいで。色々言ってきて面倒なんだよね。ホント、普段はいいんだけど」
坂柳は知らないけれど、そのせいで諸藤と軽井沢のトラブルに巻き込まれ、綾小路に脅され、龍園に睨まれる羽目になったという小さい恨みもあった。あれは全員の自業自得なのだが、如何せんそんな事を考えられる倫理観があるなら、そもそも軽井沢をリンチしようとはしない。坂柳に自らの弱みを言わない理性はあったが、不満を述べている間に段々と藪の中にある苛立ちが大きくなった。
それが、坂柳に誘導されているとも知らずに。それは彼氏が悪い、と言って他人の恋人を寝取る方法がある。しかし、これも時と場合による。不満がまだそこまで大きくない段階で使うと、自分の彼氏を擁護し始めてしまうのだ。逆に、でもさぁ彼氏にも事情があったんじゃない? などと誘導することで不満を述べ始めることがある。不満を口にしていく間に、段々とそれまでは無意識であった小さなすれ違い、違和感、憤懣が出て来るようになる。後は勝手に、自分の主張を補完する材料を探し始める。
それと同じ手法を用いていた。尤も、坂柳の予想よりもぺらぺらと話し始めたのには、流石に少々引き気味であったのだが。
「大体さぁ、龍園がいなくなってからちょっと調子乗ってるって言うか、私らにも命令することがあるんだよねぇ」
「おや、そうでしたか」
「そうそう。って、こんな話、他クラスにしたらマズいか。聞かなかったことにして」
「はい、分かりました」
「え、ホントに?」
「今現在、諸葛君は別に他クラスを攻撃したいとは思っていないようです。ただ、金策をしたいだけだそうで」
「あぁ、あのDクラス併合とかなんとかってやつか……」
諸葛君
「まぁ、私に言わせればそこまでする価値があるのかは疑問ですが。なにせ、元Bクラスとは言え、一之瀬さん以外はそこまでの価値もないでしょうし。それをやるのなら、他クラスの優秀な生徒を引き抜いた方が早い」
「確かにそうかも」
「例えば、あなたとか」
「えぇ? 無理無理、私にそんな能力は……」
月光の下で、坂柳の妖しい瞳が藪を捉える。その視線に込められた魔力のような何かに惹かれて、彼女は言葉を発せなかった。
「そ、そんな力ないし。その計画にウチのクラスも嚙ませてくれるなら嬉しいけどね」
「なるほど、発案してみましょうか。ですが、今のクラスの首魁は真鍋さんなのでしょう? 彼女が納得しますかね」
「あー」
藪の中に、小さく、本当に小さく真鍋がいなければという想いが芽生える。今の真鍋は小さく弱くとも王国の主。しかしAクラスに万が一移籍できても、坂柳や一之瀬、神室の下で生きる日々。王から一家臣への転落を容易に受け入れないだろうというのは、想像に難くなかった。
「ちょっと厳しいかも」
「それは残念です。あなたがリーダーだったら、提案も出来たのですが、如何せん真鍋さんがそこまで強硬派ではね。Cクラスは砂上の楼閣とは言え、それでも王は王。しがみつきたい気持ちは理解は出来ますが、リーダーとしては相応しくないですね。軽井沢さんは己のプライドより実を取りましたし。一之瀬さんもそれは同じですが」
「っ……」
軽井沢よりも下である。真鍋に突き付けられたそんな評価は、藪を苛立たせる。彼女で無ければ、自分達の前で無様に泣くことしか出来なかった軽井沢よりも下などという屈辱を受けないで済んだのに、と。真鍋の評価はそれとつるんでいる自分たちの評価にも繋がる。藪のプライドは今、確実に傷ついていた。
「悔しいですか?」
「そりゃ、まぁ……」
「でしたら、取って代わるというのはどうでしょう」
「は?」
「あなたが、真鍋さんの席に座るんです」
「いやいやいや……」
「無理ではないですし、冗談でもないですよ。あなたにはそれが出来る。能力もある。人望だって、傍若無人な彼女よりもその彼女と対等に話をして時には宥め役に回っているあなたの方があるでしょう。それに、諸葛君も私も認めているのですから。あなたのいるグループの縁の下の力持ちはあなたです。ここ数日見ていて思いました。そういう存在は、私もぜひ欲しい」
カツン、と彼女の杖が廊下を鳴らす。動揺する藪の思考を奪い、魅入るように坂柳の顔が近付いた。
「調子に乗っていて、わがままで、気分屋で、傍若無人で、モラルが無く、面倒くさい。そんな生徒にいつまでも優秀な存在が押さえつけられているのは心苦しい。花は、咲くのに相応しい場所で咲くべきなのですから」
「し、志保もそこまで悪い子じゃ……」
「おや、そうでしたか? 今述べたマイナス点は、先ほどあなたが全部言っていた事ですが。ちゃんと友人であり親しい関係でも批判できる。その視点もまた、評価に値します」
悪口を言いまくった、という欠点が友人の欠点を指摘できる、というプラスな評価にぐるりと変わる。藪の中にあった罪悪感を薄れさせるために、坂柳は価値観を変更させるためにわざとこういう話法を使っていた。
「あなたこそ、リーダーなのに。ねぇ?」
「……」
月光の中で、藪の瞳が揺れる。動揺により握られた手がピクピクと震えた。眼前の少女の言葉と、最近距離感を感じつつあり、かつ態度も悪い友人。その両者で天秤が何度も何度も傾く。
「おや、それなりに長話をしてしまいました。そろそろ戻りませんと、私も涼しくなりましたし。では、おやすみなさい。また明日も、共に頑張りましょう」
「お、おやすみ……」
「それと、いつでも待っていますよ」
「い、いや私はCクラスの生徒だから」
「そうでしたね……。ですが、そこはあなたには相応しくない」
最後に耳元でそう囁いて、坂柳は丁寧に頭を下げると自室へと戻っていく。廊下には、また静寂が残る。坂柳が去った後のその暗闇を、藪はずっと見つめていた。その瞳には迷いがある。半年とは言え、付き合いは真鍋の方が長い。だからこその迷いだった。そして、迷いを振り払うように首を横に振って、彼女は部屋に戻る。藪は真鍋を選んだ。
しかし、それも坂柳の想定内。述べた不満は、心が揺れたという事実は、藪の心の中に残り続ける。そんな事に気付かず、ストレスを貯めた真鍋はまた同じ態度を取るだろう。それが明日、明後日と続けば、一度は消したはずの迷いが今度はもっと大きくなって訪れる。明日以降も坂柳は口で煽るし、神室は元々好かれていないので彼女への称賛が集まるほどに真鍋の苛立ちは増す。そういう場面が続けば、確実に真鍋のストレスは溜まる。そういうプランニングの下で、坂柳の声掛けは行われていた。元より、今晩落としきる想定はしていない。
「まずは、一人」
坂柳は酷薄な笑みを浮かべて呟く。Cクラスの女子最大派閥は、こうして静かに、しかし確かに軋み始めていた。
三年生編三巻が発売ですね。ペイント銃でサバゲーだそうで。……ウチの世界線、本職いるんだけど大丈夫そうかな? 反動が軽いせいで扱いずらいと文句言ってそうでもありますが。