『キャサリン・ヘプバーン』
ゴーっと鳴り響く音が室内に木霊している。この合宿では入浴時間は結構多めに取られており、その中ならいつでも行っていい仕組みになっている。ほとんど人のいない時間帯と言うのが存在するので、さっさとその時間に行くことにしていた。終わった後にドライヤーで乾かすのに凄い時間がかかるため、他の男子に迷惑だし、そもそも他人と入りたくない。
皆大体決まった時間に行って決まった時間に戻ってくるのだが、4日目の夜である今日は大分遅かった。何をしてるのか、何かトラブルでもあったのかと思っていれば、ワイワイと戻ってきた。
「随分と遅かったですが、何かありましたか?」
「いやぁ~いろいろな」
「そそ。負けられない戦いってヤツっすよ」
「?」
「風呂でやる男の戦いって言ったら1つっしょ」
「あぁ……なるほど……。いい年して何やってるんですか全く……」
「まぁまぁそう言わずに」
「そうそう。猥談恋バナ枕投げが3大修学旅行&林間学校の楽しみだからなぁ」
「ま、楽しかったなら良いですけど」
あんまり私は好きではないけれど、生徒たちが楽しいならそれで良いだろう。誰かが被害に合っている訳では無いのなら、それで良いと思う。まぁ、私は絶対参加しないけれど。やっと髪が乾いたので、ドライヤーをしまう。大体この後はすぐに寝る流れになるのだが、今日はそうはならなかった。
「なぁなぁ」
「はい」
「俺はどうやったら彼女出来ると思う?」
「……はい?」
化粧水を塗る私の手が止まる。山内の疑問は唐突なモノで、私は少々面食らった。とは言え、思い返せば最初の自己紹介の時、取り敢えず彼女を作りたいと思っていると言っていた。方法論を教えてくれとも。方法論、とは言うけれど真澄さんとの関係性のつくり方を教えるわけにもいかないし、そもそも再現性がない。出会いは銃口を突きつけました、なんて普通のカップルではないからだ。冷静に考えると、彼女も大分変な人だった。
「先生って言われてるんだろ? じゃあ、恋愛的なのも教えてくれよ~」
「人にものを頼む態度ではない気がしますが……」
「わりぃ、頼む! この通り!」
山内は手を合わせて調子よく私を拝んでいる。凄く気は進まないけれど、彼なりに何かしらを変えようと私に頼ったのだとしたら、それを潰してしまうのは良くないだろう。これを機に、何か彼が良い方向に変化してくれればこの試験も大分楽になるかもしれない。だとしたら、ここで彼の行動改善を図るのは選択肢として大いにアリだと判断する。
「分かりました。ではまず山内君」
「おぅ!」
「あなたは、自分自身と付き合いたいですか?」
「どういう事だ……?」
「あなたが仮に女子だとします。この際、どういう女子かは考えないでおきましょう。女子の目線で見た時に、あなたは何かしらこの人と付き合いたいと思ってもらえるものを持っているのでしょうか」
「うーん……」
山内はここで即答しなかった。何かしらホラを吹くかもしれないと思っていたけれど、真剣に考えている。割とちゃんと恋人を作りたいのかもしれない。だからこそ、余計な事を言わないで考えているのだろうか。坂柳の一件で私に注意されたのが効いている可能性もある。
彼に足りないのはメタ的な視点、要するに自分を客観視する能力だ。同時に、自分の行動が相手に与える影響を考える想像力もやや不足している。その辺りを改善しない事には、根本的には何も変わらない。
「顔、財力、運動神経、学力、その他何か特筆するべき事。何でも構いません。何かあるでしょうか?」
「スペックばっかりじゃねぇかよぉ。普通の男子は恋愛するなってことか?」
「いいえ。ですが、あなたの言うスペックとは就職試験で言うところのエントリーシートです。面接が内面ですね。人は見た目が100%、とは言いませんけれど、そもそもエントリーシートを通さないと面接まで行けないでしょう? 恋愛も同じことです。顔やそのほかのスペックは内面を見てもらうための前提条件、前段階です。まぁそうじゃないこともありますけれど、ここでは例外の話をすると面倒なのでしないでおきます」
性格を知ってもらったり、内面的な良さを見てもらうためには、まずその前段階として相手が自分に興味を持ってくれるようにしないといけない。そのためにスペックは存在している。彼のクラスの平田がモテるのは、顔と性格両方とも良いからだろうけれど、前者があるから女子は後者を見ている。これで彼の顔がイマイチだったら、性格が同じでもあそこまで好感を持たれたかは分からない。
粗製乱造のラブコメで主人公の優しさが強調されがちなのは、何も持ってない読者が自己を投影する際に顔や学力とは違って優しさだけならば誰でもすぐに持てるからだろう。いくつかあるスペックの中で、一番手に入りやすいと思われている。実際は優しさというのも難しいものなのだが。
「それで、何かありますか?」
「……無い」
「そうですか。自分の事を客観視するのは恋愛を進める第一歩ですよ。さて、あなたが自分の事を見つめたところで、相手の想定を考えましょう。あなたは彼女が欲しいと言いますがそれは恋愛をする事が目的となっていますね。それでは中々上手くいかないでしょう。誰でもいいから恋愛したい、よりはこの人が好きだから恋愛したい、の方が世間的にも相手的にも好ましいでしょう。で、あなたは誰が好きなんですか? もっと言えば、誰と付き合いたいんですか?」
なお、相手が好意を向けられることに嫌悪感を抱く可能性については見ないふりをする。
「櫛田ちゃんとか……?」
「おぉ……それはまた随分と……」
櫛田の裏の顔はともかく、表の顔だけを見れば相当に高嶺の花だ。余程の事がない限り、彼女を落とすのは難しいだろう。とは言え、可能性はゼロではないと思う。尤も、それはゼロではないけれど限りなくゼロに近いという意味であるのだが。藤崎詩織より難しい。冷静に考えると、藤崎詩織は幼馴染だった。櫛田と山内はそんな過去は存在しない。ちょっと攻略対象が難しすぎるんじゃないかとは思わざるを得ない。
「大分難易度の高い相手ですね……」
「目標は高くないとな!」
「高すぎて手が届かないのでは意味がないと思いますが……まぁ良いでしょう。では、あなたが櫛田さんと付き合っている時のシーンを想像してください」
「……」
目を閉じた山内が百面相をしている。大体何を考えているのかは理解できた。まぁ彼も健全(?)な青少年だからして、性的な事を考えるのも無理はないと思う。とは言え、それを目的にするのはあまり望ましい態度とは思えない。相手もそういう思惑であるのならば構わないだろうけれど、真剣な恋を望んでいるのにこちらが身体目的だった場合相手を不幸にしてしまう可能性がある。
「それはあなたが幸せな光景かもしれませんけれど、彼女が幸せな光景ではない気がします。どうでしょうか? そこにあるのは、あなたの幸せなのであって、彼女が意思を持って幸福になっている姿でしょうか。あなたの想像の中で微笑んでいる彼女は、あなたの望む姿だからそうなっているのではなく、彼女の意思で微笑んでいますか?」
「…………妄想、だな」
「それを認められるのは、良い事ですね」
最初に自分に持っているモノがない事を自覚させたので、多少素直になっている。客観視をさせる練習をしたのが功を奏していた。意外と素直なのかもしれない。単純だからこそ、人の言う事が刺さりやすくもある。
「あなたは完璧な恋人を探しているようですが、人生はそう簡単にいきませんし、そもそも完璧な恋人はいません。私だってそうですし、真澄さんだって欠点くらいあります。それでも良いと思えるから、恋愛ではないでしょうか」
「一理ある、かもな」
「あなたがもし本当に櫛田さんとお付き合いしたのならば、まずは彼女について知りましょう。何が好きで、何が嫌いで、何をすると喜んで、何をすると嫌がるのか。人は誰しもペルソナ、つまりは仮面があります。人によって見せる顔は違いますし、態度も異なります。そういうモノを全部無くした彼女は、或いはあなたが思うような天使ではないかもしれません。それでも彼女を愛せなくてはいけないのです」
山内がどう思っているのかは分からないが、私は結構大事な事を、それも櫛田桔梗を攻略する時に大事な情報を言ったつもりだ。彼女の隠している全部を肯定できるなら、或いは彼にも可能性はあるかもしれない。あの性格だ、彼女は早晩破滅するだろう。敵だらけになり、もしかしたら退学に追い込まれそうになるかもしれない。そこで見返りを求めずに手を差し伸べることが出来たら、助けることが出来たら、ゼロ或いはマイナスだった好意をプラスに持っていく契機になる。
自分が異性にモテることを自覚していて、女性的な価値を自覚している存在を落とすにはどん底に落ちて誰も彼もが見向きもしなくなったタイミングで寄り添い続けるのが割と効果的……と私の経験則は言っている。まぁこれも当てはまるかは分からないが、友達くらいにはなれるだろう。下心を出さないようにするのが大事ではあるけれど。
「そして、自分を磨きましょう。容姿や運動神経は生まれ持ったものが大事になってきますが、勉学と性格ならば後天的に改善することが出来ます」
「勉強って言われてもなぁ」
「あなたのクラスには、頭がいい生徒もいるでしょう?」
「堀北とか?」
「アレは教師にあまり向いてないと思いますよ」
「後は……幸村とかか」
「同じ男子同士ならば、女子に教わるよりはやりやすいのでは? 真摯に頼み込めば、彼も無碍にはしないでしょう。そしてそれを誰かに揶揄われても気にしてはいけません。自分の信じる道を貫けばいいのです」
何急に真面目になってんだよ~と足を引っ張る生徒がいないとも限らない。そこで努力を辞めてしまっては何の意味もない。
「そして、性格も直していきましょう。あなたに必要なのは、自分を客観視する能力と相手を思いやる想像力、そして自分より相手を労わる精神です。自分より相手の幸せを願えないと、未来は訪れませんよ。自分が、ではなく相手が、を考えてみましょう。モデルケースなら丁度良く平田君がいるじゃないですか」
「平田かぁ……」
「彼を参考にする、というのはあまり楽しい事態ではないかもしれませんが、恋愛に手段を選んでいては出遅れますよ。出来る事は今日から始めていきましょう。明日やろうは馬鹿野郎です。すぐに全部変わることは出来ずとも、前に進み始めることに意味があります。目指すべき場所に向かって少しずつでも進み続ければ、最後には望む物が手に入るでしょう」
「おぉ……!」
彼の目には希望が灯る。何となく行けるかもしれない、というビジョンが見えたのだろう。実際どうなるのかはさっぱり分からない。彼の士気を上げ、今回の試験に真面目に取り組ませるためにこういう話の運び方をしたけれど、それが普段の生活に戻ってどうなるのかは未知数だ。三日坊主で終わるかもしれないし、或いは本当に改善して一角の人物になるかもしれに。良くも悪くも集団を動かす能力はあるように思う。だとすれば、彼の行動次第で何かBクラスに大きな波が起きる可能性ま折る。
これで本当に櫛田と付き合い始めたら私は目を丸くする。とは言え、私が言ったことをちゃんと実行し問題点を全部修正したら、落ちぶれた櫛田が妥協してもいいかと思えるくらいにはなれる……可能性がある。可能性があるとは言ったがどれくらいのパーセンテージなのかは言っていないので嘘は言っていない。0.1でも可能性があれば嘘にはならない。
「マジで行けるかもしれねぇ……! 俺、彼女出来るのか……!?」
「そうなれるように、まずはこの合宿試験で良い成果を収めましょう」
「おう、やってやるぜ。手伝ってくれるんだろ?」
「えぇ、当然私たちもお手伝いします。ですが代わりに厳しく行きますよ、それでもよろしいですか?」
「ありがとな、諸葛。いや師匠!」
「あなたの恋路に未来があるように、私も出来る限りのご助言はします。ですが最後に大事なのはあなたの努力です。頑張りましょうね」
「よろしくお願いします!」
単純な男だ。だが単純故に操りやすく、乗せやすい。マイナスな方向にもそうだし、今回のようにプラスな方向に持っていく事も出来る。恋愛的な話であるのが些か引っかかりはするけれど、それでも彼の中に私に対する尊敬が植え付けられた。これでこの試験において多くの指示を聞いてくれるようになるだろう。場合によっては、バラバラになりつつあるBクラスの中で私の言う事を聞いてくれる傀儡になってくれるかもしれない。そうなれば万々歳だ。
「上手く誘導したな」
何かに燃えて、Aクラスの生徒に勉強のコツを聞いて回っている山内を横目に、葛城は小さく囁いた。ウチのクラスの生徒は困惑しているが、やる気になったこと自体は評価しているようで親切に対応している。こういうところに民度が出るのだろう。
「これも仕事ですから」
とは言え、多少は手を抜いている。本当に誘導したいなら、櫛田なんかを経由しない。直接自分を信奉させ、恋焦がれさせればいい。そういうのは業腹ながら職業柄大変得意としている行動である。
さて、仕掛けは上々だが、まだ完成ではない。ここで成功体験を得られないと彼はまた逆戻りだろう。思うに、挑戦しても上手くいかないんじゃないかという不安、或いは実際に上手くいかなかった経験が彼の成長を阻害している。故にこそ、ここで小さくとも成功体験を得ることが出来れば、努力の下地になると考えた。明日以降の行動が肝になる。とは言え、これまでよりは楽になるだろう。希望的な展開が見えてきたことに私は内心で少し安堵した。
さて、男子と女子の試験内容であるが、それ自体はさして変わらない。数少ない違いと言えばマラソンの距離が半分であることだろう。男子は全員で18キロ。女子は9キロである。しかし、そうはいっても結構キツイと言うのが女子勢の本音であった。
坂柳がいる分はどうするのか、というのは神室のグループにおける課題であった。ペナルティーを支払えばどうにかなる、という話を教師側が持ちかけてはきたが、神室はそれを一蹴した。
「私が坂柳の分も走ればいいんでしょ。やってやろうじゃないの」
そう言い放って、有言実行している。坂柳のやるべき運動部分の試験を背負うという行動は、いくら女子の中で学年トップクラスの身体能力を持っているとはいっても大きな負担になっている。それでも弱音を吐かず、辛い顔を見せずに頑張っていた。その姿勢は同じグループだけではなく、他のグループからも好意的な評価を受ける。
「キャッ!」
授業の中で走らされている神室の小グループであったが、冬の山道で足を滑らせてしまった生徒が出た。滑りそうな道をコースにすんなよ、と心の中で学校に毒づきつつ、神室はそのBクラスの生徒に駆け寄る。彼女は4クラスで構成されたグループにするべく、ただ一人Bクラスからやって来ていた子だった。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「はい、掴まって。立てそう? ゆっくりで良いからね」
「はい……」
転んでいた子の傷口を確認する。そこまで大きなけがでは無いが、少し血が出ていた。それ以外の部分、足首や脛などに異常が無いかを確認しつつ、近くの教員に水を要求する。清潔な水を渡され、それで傷口を洗い流した。染みて痛そうな顔をしていたが、これが適切な処置なので仕方ない。乾かさない方が良いと医師免許持ちの
「歩ける?」
「だ、大丈夫……!」
「そう?無理しないでね。ダメそうならすぐ言う事」
「はい」
「じゃあ、皆行こうか」
普段はあまり表情豊かとは言えない神室であるが、今回ばかりはしっかり顔を作っている。”あの”有名な孔明率いるAクラスがほとんどを占めており、怖いなぁ……と思いながら入って来たBクラスの少女は、優しくしてくれる上にしっかり面倒を見てくれ、かつこうしてテキパキと冷静に処置してくれる神室に謎の感動を覚えていた。
堀北は優秀だが、優しいかと言われれば微妙である。軽井沢も優しいかと言われると即答は出来ない。櫛田は優しいが、カッコよさはない。そんな比較に加えて神室自身元々顔もスタイルもかなり良い。キリッとした表情で、冷静で、でも時々しっかり普通の表情を見せてくれる存在はAクラス女子内でもかなり評判が良かった。そして今回の件でそれが他クラスにも広まりつつある。諸葛孔明が全幅の信頼を置いていると名高いAクラスのナンバーツーにしてその恋人。「さぁ、後ちょっと頑張ろう!」と先頭で先導する彼女の背中を、Bクラスの少女はほわぁ……と言う憧れの目で見ていた。
「はいはい、止まらない! ゆっくり歩くよ」
神室の指示で膝に手を付いて止まろうとしていたグループの女子たちが顔を上げ、ゆっくりと歩き始めた。急に止まるとよろしくない。心臓に負担がかかるからである。それを彼女はしっかりと把握しているため、疲れているであろうけれども負担を減らすために促しているのであった。
このグループの女子の体力は普通。一番いいのは神室で間違いない。運動が出来るのは体育祭でも知られているため、彼女の指示なら正しいだろうとグループの生徒も思い従っている。
「皆、お疲れ様!」
へばっている女子も多いが、Aクラスの生徒には負けてられないという自負がある。何とか元気に返事をしていた。他クラスの生徒も負けじと声を張る。空元気でも出したほうがいい事もあるのだ。この後は自由時間だけれど、神室には成績優秀者の1人としてテストに関することを考えないといけないと言う仕事が待っている。
何だかんだで彼女の学年成績は160人いてトップ15に入っている。上位10%以内には大体いるので、かなり高得点者だった。最初はAクラスでも最下位に近かったのだが、教える事に関してはトップクラスの人間が1人にほぼ全リソースを割いているのだから当然の話ではあった。その教師――つまりは孔明と彼女の次の目標はトップ10入り。だが、そこには当然教師役である孔明を筆頭に成績だけは良い坂柳、葛城やBのリーダー堀北、Dのリーダー一之瀬、その他にも椎名や高円寺、幸村などかなり有名人が並んでいる。これを蹴落とすのは至難の業に思えたが孔明はやる気だった。それに逆らう理由もなく神室は冬休み中も頑張って課題をこなしていたのである。
「ま、アイツの顔を潰さないくらいには頑張らないとね」
その呟きを聞き逃さなかったAクラス女子は、砂糖の味を噛みしめつつニヤつきながら神室の事を眺めていた。
「さてと、神室さんも頑張っている事ですし、私ももう少し仕事をしますか」
坂柳は小さく呟く。今は試験外の自由時間である放課後だった。この時間は宿泊棟のどこで何をしていても怒られはしない。この時間が密会には一番向いていた。坂柳の今回のターゲットはBクラス。ここを崩すべく、行動している。真鍋のグループは先日の工作も相まって大分ギスギスしていた。潤滑油だった藪がその役目を放棄してむしろ積極的にギスギスさせに行っているのだから無理もないだろう。
あそこはもう少し突けば崩れる。そう確信を抱いた坂柳は、次にBクラスの方へアプローチをかけることにした。密会の対象はBクラスが抱える獅子身中の虫、櫛田桔梗。しかし大事な事だが坂柳は櫛田の正体を知らない。だがそれでも、堀北を蹴落とすには櫛田の力が利用できると考えていた。軽井沢は役不足との判断である。
「どうしたのかな、坂柳さん。こんな風に会っているのは、あんまり良くないんじゃない?」
優しい声で櫛田は言う。それが作られた表情であると見抜けるのは、その正体を知っている者に限られるだろう。仮面を見抜くのに長けた諜報員の指揮官である諸葛孔明ですら、一回は騙されたその仮面にほころびはない。坂柳であろうとも、見抜ける道理はなかった。櫛田の内心は不安と動揺があるが、それを上手く覆い隠している。
「確かにあまりよろしくはないでしょう。ですので、手短に。まずはお越しいただきありがとうございます。本日こうしてお会いしたのは、あなたのこの先を見据えたいと思いまして」
「この先?」
「軽井沢さんは我々に迎合する道を選びました。堀北さんはそれを認められないでいます。ですがBクラスでも中心的な人物であるあなたの動向が分からないのは少々不可思議でしたので。あなたは、軽井沢さんと堀北さんのどちらの道を選びますか?」
「私は……みんなが望む方だよ」
「なるほど」
みんなに好かれる存在でありたい彼女は、Bクラスの主要な意見が軽井沢派なのを把握している。堀北派、という存在はそもそも無い。初期Aクラスの派閥の方がしっかりと派閥になっていたくらいには、地盤が弱かった。個人的な事情のある無しに拘わらず、堀北につくメリットはない。無論、個人的な事情を加味すれば堀北に加味するなどあり得ない。
「堀北さんは我々の手段や存在を、そして自身に与えられた評価を受け入れられないようです。その末にどういう行動をとるのかは、グループ結成の時を見れば明らか。負け犬の遠吠えは可愛いモノですが四六時中鳴いていたのではうるさいだけですから……私たちは少々、彼女に黙っていて欲しいのです」
「堀北さんを……退学させるの?」
「それは分かりません。私にそこまでの権限はありませんので」
櫛田の頭の中に、暗い欲望が湧いて出る。もしかしたら、堀北を退学させられるかもしれない。龍園は自滅し、堀北が消えれば、後は諸葛と神室、綾小路だけになる。綾小路のようなコミュニケーションが得意でない生徒ならどうにかなるし、その後はAクラスと敵対しないようにすれば自分は安泰である。そういう判断が一瞬の間で行われていた。
「私に、その手伝いをして欲しい、ってことだよね?」
「えぇ、そういうことになりますね」
「良く無いよ、そんな事……」
「そうかもしれませんね。ですが、より多くの幸福を掴めるのは事実です。あなたも、他の生徒も多くが救われる。堀北さん一人を黙らせれば、Bクラスは一丸となってこちらに協力するようになるでしょう。彼女が現状、Bクラスにおいて最大かつ一人だけの抵抗勢力なのですから」
「でも、堀北さんも大事なクラスメイトだよっ!」
「その胸の痛みは分かります。しかし、どちらかを切り捨てないといけないのも事実。全てを救うことは出来ません。あなたは先ほど言いました。皆の望む方を選ぶと。皆が望んでいるのは、Aクラスへの抵抗ではなく迎合ではないでしょうか?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「Bクラスを救えるのはあなたしかいません。軽井沢さんでは少しその任に堪える人望がないですし、平田君は優しすぎる。あなたなら、時には果断な決断も出来ると私は考えました。如何でしょうか?」
一年生随一の女優である櫛田は、迷っている演技をする。何であれ堀北を追い詰められるのならば彼女にとってはメリットだ。しかしここで坂柳に簡単に迎合しては自分の設定との間に矛盾が生じる。故に、全力で悩んでいる演技が必要だった。
「……私は、何をすればいいの?」
「大事なのは、彼女の指揮権を剥奪する事と指揮能力がないと多くの生徒に見切らせる事。無人島での活躍により、彼女の指揮権は辛うじて保たれています。しかしここで大損害を出してしまえば、最早その任に堪えうる能力が無いのは決定的になります。それこそ、小グループで最下位になってしまえば損害が出るのは確定でしょう。元々態度もよろしくありませんし、彼女への求心力は無くなります。打つ手が無くなり、彼女は一生徒として振舞わざるを得ない」
「つまり、私が妨害する、ってこと?」
「はい。あなたのグループはあなたのクラスメイトが多数派です。何をするのにも難しいことはないと思いますが、どうでしょうか」
「でも、それだと堀北さんが私を指名して退学させてくるかも……」
「その時は私がお助けするよう努めます。2000万など、容易に用意できるはずですから」
「……」
本当に助けるとは言っていない。出来るはず、とは言ったが出来るとは一言も言っていないからだ。櫛田を助ける価値無し、と孔明が断じた場合はそのまま見捨てられるように発言に保険をかけている。
「櫛田さん、心の痛みは理解します。しかし、多くを救うにはこれしかありません。堀北さんを助けるのは簡単ですが、それはその場しのぎに過ぎない。私だって心苦しいのです。誰かを退学に追い込んでしまうかもしれない話をするなど。一人も退学して欲しくなどありません。ですがあなたのクラスメイトをより多く守るために、ここは断腸の思いをするしかないのです」
「……分かったよ。でも、約束してね、私と他の子は助けるって」
「努めましょう」
必ず助ける、とは一言も言わない。それが坂柳の狡猾な話し方の特徴だった。彼女は出来ないことを出来るとは言わない。出来ると思わせるだけだ。勝手に納得したのは向こうであり、こちらには契約違反などありはしない。そういう論法で万が一裁判になった時にも負けないよう工夫している。
かくして、櫛田桔梗はAクラスへの内通を始める。目的は依然としてただ一つ。堀北鈴音を退学させる事。櫛田も坂柳も、これで大体の事は何とかなると思っていた。櫛田は厄介な堀北を消せるかもしれない。坂柳も小うるさい存在を排除し、Bクラスを弱体化して傀儡にする。そして気弱な椎名を屈服させれば全クラスがAクラスの傘下になる。これは大きな功績として自身の名に刻まれる。そういう考えを抱いていた。
しかし、だからこそ見逃していた。壁に耳あり障子に目あり、この会話を聞いている生徒が一人いた。その存在は直接の利権関係にはない。AD連合とBクラスのやり取りであるこの会話に唯一嚙んでいない勢力、つまりはCクラスの生徒。その名を伊吹澪。綾小路にやられ、龍園が失脚した後逼塞していた少女である。
伊吹は今回の件を堀北に知らせるメリットなど無い。当然、そんな利益にならない行動はしない。彼女が情報を伝えるべき相手は椎名であり、そしてもう一人だった。その生徒と会うために、食事時の終わり、人が捌けた段階である男の前に立つ。
「龍園、ちょっと話がある」
Cクラスの最後の希望。諸葛孔明率いるAD連合とそれに迎合しつつあるBクラスの大半。学年の半分以上を影響下に入れたこの一大勢力に立ち向かえる可能性がある、ただ一人の男は、静かにその視線をかつての部下に向けた。