<ツインテール side孔明>
混合合宿から戻って数日。私は死んだ魚みたいな目をしながら登校していた。
「おはようございます」
どんよりした気分のまま教室のドアを開ける。既に登校していた生徒たちからの挨拶が返ってきたが、その挨拶も途中で止まった。
「言いたいことはわかります。何も言わないでください」
「いや、無理ですよ。なんですか、その髪型は。ふ、大変よくお似合いで、ブフッ!」
坂柳が笑いを堪えた声で話し始めて、堪えきれずに噴き出して机に突っ伏したまま笑っていた。憤懣やるかたない顔になりながら、私は自席に鞄を置く。坂柳はもう半分過呼吸みたいになっていた。笑いすぎである。そのまま笑い死んだら、私のせいになるのだろうか。それは嫌だなぁとぼんやり思った。
「なんでそんなことになってるんですか……」
Dクラスから移籍し、杉尾の隣に座った白波が困惑した顔で私を見ている。彼女たちがそんなことになっているのは私の髪型に原因があった。元々簪で結われていた長い髪は、真澄さんと付き合始めてその簪を彼女にあげたため、ポニーテールっぽく結ぶかストレートにするかで放置されている。私が対戦ゲームに負けて、その罰ゲームで髪型を弄られていた。
この年になって、ド派手なツインテールになっている。絶対に似合わないだろうという確信があったけれど、案の定似合っていないのだと思う。こんな髪型をしたことがなかったので、自分でもどういうメイクが似合うのかイマイチわかっていない。
「私が真澄さんとのゲームに負けました。その罰ゲームです」
「えぇ……。神室さん、ゲーム強いんですか?」
「結構強いです」
一人っ子だったし、親も家にあまり帰ってこない放置子だったけれど、お金はあったらしく、ゲームしていた時期もあったらしい。そのせいで割と鍛えられたそうだ。コントローラーの使い方が凄まじい妙技だった。
こんな事をする羽目になった原因が呑気に登校してくる。
「どう、みんなの反応は?」
「ご覧の通りです」
クラスメイトは私に気を使ってあまり笑わないようにしながら、それでも笑っている。坂柳はもうずっと大爆笑していた。真澄さんは満足そうな顔をしている。私の尊厳が軽く破壊されているが、生徒たちと真澄さんが楽しそうならまぁ、それでいいと許容するべきなのかもしれない。髪の長さのせいで初音ミクみたいになっている。
「神室さんがサイドテールだから、並ぶと一つ二つで面白いですね……」
白波の言葉が坂柳のツボに入ったようだ。もう彼女は放っておくことにする。真面目な葛城ですら笑いを堪えているので、よほど似合ってないのだろう。
「似合ってない髪型は嫌だ」
「似合ってないっていうか、普段クールな感じの髪型なのにきゃぴきゃぴした感じになってるのがウケてるんじゃない?」
「どっちにしろ私の尊厳はボロボロだよ、まったく。こんな年になってツインテールなんてするもんじゃない」
「私がしたらどう思う?」
「それは似合ってるんじゃない?」
「わぁお手のひら大回転。これにはジャッジも高得点」
パシャリと彼女の携帯が光る。写真を撮られたみたいだ。もう好きにしてくれと思いながら、私は意識を彼方に飛ばす。怒っているわけではないけど、朝から大分疲れた。とはいえ、これで親しみを持ってくれるならいいのかもしれない。朝のHRでやってきた真嶋先生まで笑っていたのはちょっとイラっとしたけれど。
<坂柳有栖の受難Ⅱ>
混合合宿も割と良い成果を残して終わることが出来ました。私としては陣頭指揮を執ったのはこれが初。それでも結果を残せたことは、私の地位向上に大きく役立つでしょう。白石さんたちのグループには申し訳ないことをしましたが、私のグループに優秀な生徒を多数集めることで試験の突破を容易にし、一位を確実に取る戦略上仕方のない犠牲でした。それは白石さんたちも理解してくれるでしょうし、諸葛君も当然理解していることでしょう。
実働部隊としては神室さんが大変よく動いてくれました。私の代わりに倍の距離を走り、動けない分を働いてくれたことには大いに感謝しています。彼女の有益性は改めて確認することが出来ました。速攻で彼女を配下に加えた諸葛君はやはり先見の明があった、ということになるのでしょう。私も決してさぼっていたわけではありません。櫛田さんを誘導し、真鍋さんのグループを崩壊に追い込みました。これにより、Aクラスの取れる選択肢はまた増えたはずです。
とまぁ、割と満足いく結果ではありましたが、どうにもこうにも体調が優れなかったことだけが懸念点として残ります。特に外に出ている時間が一番眩暈というか、得体のしれない気持ち悪さがありました。逆に言えば、窓の少ない部屋にいると眩暈を感じずに済んでいたのです。眩暈と同時に何者かに見られているような感覚も、常時覚えていました。それは集団でいるときも、一人でいるときもです。
神室さんは考えすぎと言っていましたし、ほかの人も何も感じないようでしたが、私にはどうしてもその違和感が拭えませんでした。温泉に入っている時も、食事を執っている時も、その感覚があったのです。4日目の昼、駅伝の練習として実際のコースを走る時間がありました。私はすることがないので、真嶋先生の運転する車に乗せてもらい、コースを確認していました。
その時ふと、窓の外を見ると山間の中腹に赤い鳥居が見えました。あんなところに神社があるのか、とその時は思い、特に何も感じずスルーしました。人里離れた山奥とはいえ、昔の古い集落があったりするものです。そこまでおかしな話でもないだろうと。しかしそれが異常事態と気付いたのは、諸葛君と話していた昼食時でした。
「そう言えば、男子も駅伝のコースは同じですか?」
「えぇ、道は同じはずです。景色はいいですが、如何せん勾配がきついのでペース配分を皆さんに覚えていただくのは大変ですね」
「紅葉していればもう少し景色も楽しめたでしょうが、山の木しかありませんからね。目立つものと言えば精々神社くらいですし」
「……神社?」
「えぇ、コースの真ん中くらいで下の方に見えるじゃないですか。赤い鳥居が」
実際に走っている神室さんが怪訝そうな顔をしながら諸葛君の方を見ています。彼女は必死に走っているので余裕がなかったのかもしれないと思いながら、私は諸葛君の顔を見ました。
「本当に見たんですね? 赤い鳥居を」
「はい」
「そうですか……。今後、駅伝の際は、車で移動しないで施設に留まっていてください」
「しかし、私も走れないとはいえ責任者です。ぬくぬくとしているわけには」
「いえ、構いません。むしろ出ない方がいいでしょう。あなた自身のために。後、これを持っていてください」
謎の袋を渡しながらぴしゃりとそう言われ、私は渋々従いながら最終日を迎えました。帰宅するバスに乗る時まで、やはりどうしてもその誰かに見られているような感覚は消えないまま、私は席に座ります。そしてゆっくりと帰りのバスが山道を走りだしました。夕焼けに染まる稜線や木々。その向こうに、あの時みた赤い鳥居が煌々と夕陽に照らされていました。
しかし、それはすぐに見えなくなります。諸葛君がシャッと私の目の前のカーテンを閉めました。森下さんは景色を見ていたので、何をするんだこの野郎と言わんばかりの顔でしたが、それでも彼の表情を見てすぐに黙りました。いつになく真剣な顔で、彼はカーテンをしっかり閉めていたからでしょう。
そのあと総括があり、森下さんや神室さんは寝てしまいました。諸葛君も少し寝ていたようでしたが、三十分くらいで起きたので先ほどの行動の理由を尋ねることにしたのです。気になっていたのは事実。私がずっと感じていた違和感と言い、夏休みの時の例のアレのような事態である可能性が高いと、私は考えないようにしながらもどこかで理解していました。
「諸葛君」
「はい」
「質問があるのですが」
「……でしょうね」
彼は小さくため息を吐きながら、私の方に視線を向けた。
「この七日間、ずっと違和感を感じてはいませんでしたか? 具体的には視線を感じたり、眩暈がしたりと」
「えぇ。ですがどうしてそれを……」
「やはり、か。あなたはずっと神社があると言いました。どんな神社でしたか?」
「本殿などは見えませんでしたが、赤い鳥居が」
「そうですか。私には何も見えなかったのですが」
鳥肌が立っているのが分かりました。冷水を流し込まれたような冷たい感覚が私の中に走っています。つまり、私が見ていたのは幻覚、或いはこの世のものではない何か、ということになるのですから。
「座禅の指導員が地元の人でしたので、話を聞きました。あの辺には昔集落があったけれど、土砂崩れで流されてしまってから誰もいないと。神社も昔はあったけれどもう半世紀以上前に廃れたそうです。少なくとも、あなたの言うように煌々と赤い鳥居がそびえているわけがない」
「……」
「神の由来も、どういう権能なのかもわかりません。信州なので、おそらく土着の信仰なのでしょう。ただ一つ分かるのは、あなたは魅入られた。神の花嫁、ということでしょうかね。目が何かしら大事な存在だったのでしょうね。だから、あなたはずっと視線を感じていた。まぁ尤も……ソレが神であるかどうかは分かりませんが。神のカタチをした、もっと悍ましい何かである可能性も高いと思います。ともあれ、半世紀の時を経て信仰が薄れ、随分と弱っていたのでしょう。だからあなたも不調程度で済んだ」
心臓の鼓動が激しい。あれから半年ほどたって、あんな事件は夢ではないかと思うようになりました。しかし、それでも私を呪った元同級生が死んだという事実は変わらないまま。あの時の恐怖も消えないまま。ホラー映画は益々見れなくなり、オカルトを遠ざけて生きていくようになりました。今や、魔術や魔法にもあまり良い印象を持てないでいます。
「あなたに渡したのは、私の父方の実家のお守りです。父方の実家は神社でしたので」
彼の父、鳳教授の実家は代々神職だと父から聞いたことがあった。とはいえ、その稼業も鳳教授の父、つまりは諸葛君の祖父の代で終わったらしいけれど。お守りだけは残っていたのかもしれない。袋を開けてみると、焦げ臭いにおいを立てる布切れがありました。黒ずんでいて、モノがお守りだと判別できない状態で。
「夜中に何度か目覚めることはありませんでしたか?」
「えぇ、幾度か……」
「危なかったですね。そのまま夢遊病のように歩き出し、行方不明ということもありましたから。文字通り神隠し、ということです。良くも悪くも監視の厳しい高育の体制に救われました。念のためお守りを渡しましたが、正解だったようですね。あなたは魅入られやすい体質のようです。おそらく……幼いころに一回死にかけていますね? それが原因でしょう」
確かに、生まれたばかりの私は虚弱児であり、また同時に早産でもありました。心臓に生まれつきの疾患を抱え、幼少期は何度も手術をし、死にかけたこともあります。何とか生きていられるのは、日本の高い医療技術のおかげでした。そういえば、幼いころ病院で何か黒いものをいくつも見たような記憶があります。もしかしたら、あれは……。
「死に近い経験をした人間ほど、色々なものが見えてしまいます。今回はあなただけが魅入られたので私には見えませんでしたが」
彼は一体、これまでの人生で何を見てきたのでしょう。私と同じように、昔死にかけたことがあるのでしょうか。或いはほかの何かが……。そんなことを思う私を他所に、彼は再度小さくため息を吐きます。
「私はただ見えるだけ。対処法などそこまで知りません。なので、自衛してくださいね」
「そんなこと言われても……」
「簡単なことです。心身ともに健康になるよう気を付けて、規則正しく過ごし、礼節を守り、道徳感を持って生活し、多くの人に好感を持たれてください。俗っぽい言い方をすれば、正のオーラがあればあるほど、あなたを守る砦になりますので。そして、今回の事は忘れるように。出来ればもう二度と、あそこへは行かない方がいいでしょう」
それだけ言うと、彼は話は終わりだと言わんばかりに目を閉じました。私はしばし呆然としながら、虚空を眺めます。この先どうやって生活していけば良いのだろうか。そんなことが頭の中にグルグルと回転しています。
しかし、それでも一つだけ、私の中に希望がありました。もし、死に近い人が死者を見れるのだとしたら。私にも、彼のような目があったのなら。或いは、私を産み落とすのと引き換えに世を去った母のことも、見られるのかもしれない。私を見守ってくれているのだとしたら、その姿を見られるのかもしれない。そう、思ってしまったのです。
<IFルート・Aクラス もし船上試験で調整を選ばなかったら side孔明>
失策だった。私はそう思いながら夕暮れの廊下を疾走する。時間になっても彼女が部屋にやって来なかった。彼女はこれまで遅刻した事など無い。何かあれば必ず連絡するはずだ。であればどこにいるのか。部屋かと思い呼びかけたが返事が無い。どこにいるのか、何かあったのか。位置情報は切るように言ってしまった。ただ単にいないだけならば良い。だがトラブルに巻き込まれていたとしたら。それを不安に思っていたところ、ピリリと電話が鳴った。相手は真澄さんだ。
「もしもし?」
呼びかけるが反応が無い。
「真澄さん?」
すると、電話の向こうから、うめくような彼女の声と何かが人体に当たる音がする。その度に彼女の苦悶の声が響いた。事態を把握する。彼女は恐らく、何らかの方法で呼び出された。そして現在、誰かに暴行を受けている。可能性が高い人物は1人だけピックアップされた。
龍園翔。アイツはそういうのを惜しまない男だ。彼女を痛めつけ、私の情報を吐かせつつ囮として呼びよせて私を叩こうという算段だろう。そういう理由で、彼女は現在拷問を受けている。全て私のせいだ。元Cクラスを叩きすぎた。彼らはポイントがほぼ残っていない最底辺の状態にある。そんな中起死回生を狙って焦っていたのであろう。だから私を直接潰す事にした。
私は人目に付くところで格闘をしていない。戦闘もだ。故に、彼らの中では私は知恵はあるし運動は出来るけれど……戦闘力で言ったらそこまで、という認識のはずだ。
「龍園だな。今どこにいる」
「ククク……お前の愛しの姫は特別棟の屋上だ。早く来ないと死んじまうぜ?」
「……」
この音声は全て録音している。逸ったな龍園。もう逃がす気は無い。無言で電話を切り、冬の学校を走った。
屋上に行けば、元Cクラスの連中がいる。視線を動かせば、奥の方でぐったりとしている真澄さんの姿がある。私の姿を視認すると、愕然とした顔をした。その口と鼻は布で覆われ、水が全身にまとわりついている。冬空の下、明らかに衰弱しかかっていた。顔や身体にはいくつものあざがある。骨も折れていそうだった。
「何をした、答えろ!」
「まぁそう焦るな。お前の部下は立派だなぁ。何1つ口を割らなかったどころか、俺に一矢報いた」
龍園は手をヒラヒラとさせる。そこには大きな歯形と出血の跡があった。彼女は不用心に近付けた彼の手を噛みちぎろうとしたらしい。
「何が狙いだ」
「お前を潰す。それだけだ」
「なら何故彼女を巻き込んだ。私1人を呼び出せば良いだけの話じゃないか」
「そうしても良かったが、そうするとお前はのらりくらりと逃げるだろうからなぁ。確実に来させる方法を取ったまでだ。そうカッカするなよ。駒ならまた作れば良いだろう? 俺と遊ぼうじゃないか。お前を倒せばAクラスは終わりだ。葛城じゃ俺には勝てない。坂柳も殴れば倒せる」
真澄さんがどうしてこんな風に呼び出されたのか。誰かが裏で手を引いているのか、或いは何か別の理由があるのか。いずれにしろ、そんなことは後で確認すればいいだろう。
「お前のその澄ました鼻につく顔、恐怖に染めてやるよ。所詮頭だけの男だろう? タカをくくってるんじゃねぇのか、俺たちが無茶な事はしないと」
「今ならまだ間に合う。罪を認めて自首しないか?」
「ハッ! それがそのスカした顔で言う最後の言葉かよ」
「最後?」
「お前は俺たちに叩きのめされて、ご自慢の顔も目も当てられないくらいになるんだからなぁ」
「……そうですか」
「逃げるなら今だぜ。まぁそうしたら、コイツはもっと痛めつけられるけどなぁ」
龍園は真澄さんを踏みつける。声1つあげないが、彼女の表情が苦痛に歪む。
「1つだけ」
「なんだ?」
「その汚い足で、俺の女に触れるな下郎!」
「……言うじゃねぇか。やれ」
龍園の命令で石崎と山田が拳を振り上げながら近付く。だが生憎と、そんなものに付き合っている余裕はない。回避した私が右手に持ったのは屋上に置いてあった資材用の長いロープ。一瞬だけ彼らが戸惑った間に彼らの足にそれを絡み付け、動けなくする。抵抗を試みる2人の足を踏みつけ、痛みに悶えている隙に屋上の柵に括り付けた。
続いて飛んできた伊吹の蹴りは避ける。回避しながら後退し、隅っこまで追い詰められたフリをしておかれていたブルーシートを引っぺがす。いきなり視界が青で染まり固まった隙をついて彼女の顔以外をシートで簀巻きにする。抵抗しているのを横目に、首を手刀で叩き意識をブラックアウトさせた。
これで残りは龍園だけ。だが、彼を相手にする気は無い。ニヤニヤ笑いながら拳を飛ばしてくる。それを全て回避した時、彼は初めて少し意外そうな顔をした。
「なに……?」
「お生憎様。お前の拳は止まって見える。私を倒したければ、私の従妹でも雇うのだな。アレならば、少なくとも殺す寸前までは持っていけるだろう。何はともあれ、私はお前を絶対に許さない」
龍園の横をすり抜け、横たわっている無残な姿の真澄さんを抱きかかえる。
「なんで……助けに……」
「それは、君が私の部下であり生徒だからだ。それに、痛めつけられている大切な存在を助けるのに、さして理由などいらないだろう?」
安堵したような顔で彼女は気絶する。いくら謝っても済む問題じゃない。私の失策が招いた事態だ。無人島か、船上か。どちらかで少し妥協するべきだった。そうしなかったが故に、龍園を焦らせ、彼女の生命を危険に晒した。背中を向けている私に向かい、容赦なく龍園は殴りかかる。だがそれは予想済み。躱して足を払いのける。倒れこんだところに鳩尾を踏みつけた。
「グハッ!」
苦悶の声と共に龍園は倒れこむ。だがまだ私を睨んでいるのは見上げた闘争精神だ。まだ戦おうとしている。しかし、もう身体が言う事を聞かないようだった。それでも何とか立ち上がる。
「では、さようなら」
気絶している真澄さんを抱きかかえたまま、龍園の横を走り、気を失っている伊吹を踏みつけ、縛られている2人を横目に階段を駆け下りた。待て、と叫ぶ龍園の声が聞こえるが知った事ではない。彼女をとにかく病院に連れて行かねば。そして、私は言った。絶対に許さないと。だが、それは私がどうこうするのではない。3桁の電話番号を押し、通話する。
「もしもしこちら110番です。事件ですか、事故ですか?」
「高度育成高等学校、特別棟屋上において殺人未遂、暴行、傷害、脅迫などの事件が発生しました。加害者は現在取り押さえましたが、被害者の意識がありません。至急救急と警察を」
「分かりました、貴方のお名前を教えて下さい」
「1年Aクラス、諸葛孔明です」
「モロクズさんですね」
「はい。現在被害者を搬送しています。校門まで持っていきますので、早めにお願いします」
「分かりました。現在救急車が向かっています」
やり取りをしている間も走り続けている。人目も気にせず走り、校門までたどり着いた。遠くから救急車のサイレンと、複数のパトカーのサイレンが聞こえてくる。生徒たちもここでは滅多に聞くことの無い音に何事かと様子を見に来る。中には生徒会長である南雲や恐らく連絡を貰ったであろう理事長・校長などの職員の姿もあった。
救急車に真澄さんを引き渡し、私は警察を引き連れ屋上へ向かう。言っただろう、許さないと。まさかとは思うが、私がお前たちをボコボコにすることで終わりだとは思っていないだろうな。確かにこの事態を招いたのは私の失策だ。しかし、どうあっても罪は罪。君たちを叩きのめすのは私ではなく、公的権力。隠蔽しようとしても無駄だ。倫理観の無いこいつらを入学させた理事長にもしっかり責任は取って貰おう。そして全てを見届けた後真澄さんに謝り、私もここを去る。それが責任の取り方だ。
唇を噛み締めながら、後ろに続く警官隊と共に校内を走った。
<ドラゴン無双⑤、
ペーパーシャッフルにおいてAクラスを撃破した元・Cクラスは遂にAクラスへと昇り詰める事に成功した。これは学年に衝撃をもたらす。上に上がること自体は珍しい事ではない。しかし、そのスピードが問題だった。
担任である坂上先生は狂喜乱舞しつつ、ここのところは常に機嫌がいい。さもありなん、Cクラスの担任にさせられ、かつ問題児の多いクラスだったにも拘らずあっという間に上に辿り着けたからである。しかも、学年の担任団の中で唯一ボッチ。鼻をあかしてやったという思いが強いのだろう。
他クラスは酷い有り様だ。Dクラスは各試験で全て上に上がる芽を摘まれ、最底辺を彷徨っている。士気も崩壊寸前だそうだ。元BクラスはCクラスに落ちたがそれでも普通に生活はしているらしい。ある意味真っ当に生きている。元Aクラスはかなり揉めている。葛城に責任を押し付けていた坂柳派だが、ペーパーシャッフルの敗北でかなりダメージを負っている。
元々龍園を筆頭とした我々に嵌められた葛城に問題があるという論調であったのにも拘わらず坂柳でも負けたという事実は、葛城が悪い訳では無いのでは?という論調を誘発するのに十分すぎるほどの事実だった。この為もう一度葛城派は勢力を盛り返し、クラスにまとまる兆しは無いと言う。
これを受け、更なるポイントの突き放しを狙い、龍園は会議を招集した。
「お前らも知っての通り、Bクラス(元A)は酷い有り様だ。だが、侮りがたいのも事実。これが分裂状態にある間に何としてでも叩き潰す。呉越同舟されたら厄介だ。知恵を出せ」
「やはり能力面では坂柳さんが1歩リードしているのは事実です。彼女を叩くためには葛城派の支援をするのが妥当でしょう」
私の意見に龍園は頷いた。
「Aクラス内の情勢に関して、もっとデータが必要だと具申します。パーソナルデータ無くして、作戦立案は難しいでしょう」
「個人について知ってどうする気だ、ひより」
「各個人について把握すれば、その趣味嗜好、思考回路を読み解くことが出来ます。そうすることで、私たちに内通する可能性のある人物、もしくは誘導することで事態をBクラスにとってより悪い方向へ持っていける可能性の高い人物を見つけ出すことが出来るかと」
「ククク、それは良いな。おい、軍師。裏切りそうなヤツの目途はあるか?」
「問題ありません。既に1人、捕まえています。沈みゆく泥船からの脱出を求める者は案外多いでしょう」
「分かった。そちらのルートから揺さぶりをかけろ。金が必要なら言え」
「はい。万事お任せください。椎名さんは引き続き、一之瀬さんの方に揺さぶりを」
「分かりました」
椎名はこれまでクラスに関わっていないと思わせている。これは徹底的な秘匿で以て行われていた。無人島、船上試験、体育祭、ペーパーシャッフル。これら全てにおいて後ろにいたのは私。それが学年の触れ込みだ。
椎名はクラス内で独特な地位にいる変人。図書館の主。そういう風に捉えられており、まさか私に出仕し献策をしているとは思われてもいない。その証拠に、先日行われていた元Aクラスによる見張りでも彼女の下にいた見張りはそうそうに引き上げたそうだ。
坂柳は椎名は関係ないと予想したことになる。基本、会っても不自然ではない図書館以外では接触をしないようにしている。全てメールや電話のやり取りだ。それ故に、椎名は警戒を解かれている。これを利用し、一之瀬にけしかけた。
今がチャンスだ。溺れている者を棒で叩きのめす最大のチャンス。坂柳を下に落とし、一之瀬と龍園で決着をつけた方が良い。そういう方向に一之瀬を説得させている。現在かなり順調なようで、椎名の談を信じるならば一之瀬の心はかなり傾いているらしい。前代未聞の龍園と一之瀬の同盟も間近かもしれない。
「そういう訳だ。君にはパーソナルデータを集めてもらおうか」
「……なんで私がそんな事を」
「泥船の中にいつまでいる気かね? 早く脱出する事が賢明だと思うが」
「それは……分かってるけど……具体的にクラスを移動できる訳でもないのにどうする気?」
「君が本当に裏切ってくれるなら、私たちは君を迎え入れましょう」
「そんな確証はどこにも無いじゃない。ポイ捨てされるのは嫌なのよ」
神室はそう言ってこちらを軽く睨んだ。Bクラスの裏切り者は坂柳の側にいる。一番側と言っても良いだろう。全く気付かれることが無いと彼女は言っていた。どこまで信用できるかは分からない。泳がせているだけかもしれない。
もしくは、坂柳の指示で裏切っているふりをしているだけという可能性もある。ただ、それでも彼女の言葉を信じるならば、現在の坂柳は自分の派閥を顧みている場合ではないようだ。ここに坂柳の問題点が出ている。今こそ最も足場を固める時期なのにも拘わらず、それが出来ていない。これでは裏切り者が出るのも当たり前だ。
「ポイントなら、あります」
「そんな訳。Aクラスに上がったからって、元々のクラスポイントを考えればかき集めてもそこまでには……」
「お忘れですか? そちらのクラスからは1人当たり毎月数万のポイントが流れてくるんですよ。2000万をクラスの人数である40人で割ると50万ポイント。逆立ちすれば出てくるポイントです。1人くらいは移動させる余裕があるのですよ」
「……」
目が泳ぎ始めている。これならば、かなりの確率でこちらに着くだろう。後は椎名の献策通り誘導し、坂柳が最悪のタイミングで爆発するように仕向ければいい。そして弱り切ったところでアッサリと神室に裏切られれば壊れるかもしれない。そうなれば我がクラスとしては万々歳だ。
「どうしますか? 他にも候補はいるんですよ。難破船脱出用のチケットの代価がほんの小さな裏切りなんですよ?」
「……私は坂柳に弱みを握られてる。だから逃げられない」
「弱み、ですか」
「そうよ。私は万引き犯。それを現行犯で捕まったから坂柳に従わされてるの。そうじゃ無ければあんなのに……」
「それ、証拠はあるんですか?」
「え」
「証拠、無いじゃないですか。坂柳さんが勝手に言っているだけ。そう言えば良いじゃないですか。君が我がクラスに来た際には、それを言われたとしても逆に事実無根の誹謗中傷であるとして坂柳さんに対し訴訟を起こせばいいのです」
彼女の目が一瞬だけ輝いた。ストレスの高い坂柳は部下への当たりがキツくなっているそうだ。付き人のような事をやらされている神室へも、日に日に当たりが強くなっているそうで、会う度に神室は愚痴を言っている。介護士になったつもりは無い、だそうだ。
「さぁ、どうしますか。私の手を取るか、取らないか。私としては前者を選んでくれると嬉しいのですが」
「どうして、私なの。橋本や鬼頭の方が優秀なのは知ってるはずでしょ」
「どうしてですかねぇ。顔が好みだった、とかでしょうか」
「……あっそう」
ずっと黙って愚痴を聴いたり共感を示してきたために彼女の吐き出せなかった悩みや不満、ストレスはかなり放出している。その放出相手である私は秘密の共有者。それ故に信頼度が上がっている。これまで付き合ってきた甲斐があった。
「絶対、捨てないでよ」
「無論です」
「……分かった。よろしく」
「ええ、こちらこそ。我がクラスは若干野蛮人思考の生徒が多いですが、それでも基本は和気藹々としていますよ。ただ、今はまだ時ではありません。その時になるまでお待ちください。必ず、私が迎えに参ります。契約書はこれに」
覚悟を決めた目をした神室真澄に、私は契約書を差し出した。どうして彼女だったのか。それに明確な理由は実はない。ただ、何となく初対面ではないような気がした。ただそれだけだった。
「クハハハハハ! お前、惚れた女のために2000万献上ってか? 将来キャバ嬢とかに嵌るなよ」
「五月蠅いですね、そんなんじゃありません。これでも彼女は坂柳さんの側近。得る物も大きいでしょう」
「美人局の可能性も考えてはいるんだろうな」
「無論です。こちらの核心となる情報は何も漏らしていません」
「引き抜いて学籍がこのクラスになるまではあくまでも敵だ。気を付けろよ」
「分かっています」
「2000万を貯められたのはお前の力だ。それをどう使おうが、俺はとやかくは言わねぇ。だが、無駄になる事だけは許さねぇ。今まで以上に働いてもらうぞ」
「承知しました」
「お前を信用して、全て任せる。勝利だけを持って帰って来い。お前なら出来るだろうよ。ああ、そうだ。ついでに1つだけ。あそこでむくれてるお前の部下1号も何とかしてこい」
ニヤけた顔の龍園が顎で指す向こうには、本の上部分からチラチラとこちらを見ている少女の姿。私と目が合うとサッと逸らした。
「刺されるなよ、軍師」
無性にその笑っている顔を殴りたくなった。
<Bad End➁ side諸葛真澄>
18で未亡人になった。私の人生はどうしてかこう上手く行かない。やっと何とかなると思った。この学校に入って、色々あって。それで私の今まで何となく生きてきた人生にもやっと光があると思った。にも拘わらず、こうなった。
毎日夢に見る。会いたい人は、夢の中にしか出てきてくれない。今でもまだ、生きているような気がする。話しかけてくれる気がする。起きた時は毎日涙で枕はぐっしょりだ。こんな苦しい気持ちになるのなら、夢になんか出てきてほしくない。けれど、夢の中だけでも良いから会いたい。そんな矛盾する気持ちを、毎日抱きながら目を覚ます。部屋からあの人の残り香が無くなっていき、その日々喪われる何かを噛み締めながら、私は生きている。
左手の薬指を眺めてみれば、私が人を愛して、そして喪った事を示す鈍色のリングが銀の光を放っていた。不幸の中の唯一の幸いがあるとすれば、結婚式は出来たことだろう。尤も、2人だけの、病室でのものだったけれど。彼は私のウエディングドレスを喜んだ。それで、十分だった。あの時はまだ、どこかで奇跡が起きるんじゃないかと夢見ていたから。
ウエディングドレス代はクラスメイトが出してくれた。これくらいはさせてくれと言われて。彼らも、どこかで自分達を導いた私の夫の復活を望んでいたのかもしれない。結果は無常で、無敵の軍師は自分の病にだけは勝てなかったけれど。
式の終わりに、カメラマンが板についた坂柳が撮影してくれた写真が飾られている。痩せた病身でもなお、凄絶な美しさのある新郎と、一世一代の晴れ舞台に相応しい顔でいようとしている新婦の私。まるで夢の中の出来事のようだった。
その日、私は意を決して彼に言った。
「結婚式がしたい」
「えぇ……」
「なんでそんな意外そうなのよ」
「いやだって、学生だぞ?」
「だから? 結婚式をしちゃいけないルールでもあるの?」
「指輪だけじゃ嫌なの?」
「そうじゃないけど。私はアンタに私の綺麗な姿を見て欲しいの」
「……そうか。ここから動くのは難しいけど、こんな殺風景な病室で良いのなら」
言質を取ったりと言わんばかりに私は駆け出し、理事長室のドアを蹴破った。
「……もう少し丁寧に」
「お願いがあります!」
「今度は何だね……」
坂柳理事長は少し疲れた顔で言った。彼は学校改革の一環で一度クビになった。その後都合のいい傀儡として振る舞わされている。娘も味方になってくれなかったのはそれなりに堪えたらしい。その関連でかなり疲れているのだろう。それでも私情を持ち込まなかったのは彼も私もかなり評価している。窶れている姿は少し可哀想だったが、いついなくなるか分からない彼の方が大事だった。
「ウエディングドレス業者を呼んでください。大至急」
「……ポイントは」
「言い値で払います」
「呼ぶのはともかく、かなりの値段がするよ?」
「問題ありません。クラスメイトが寄付してくれました。最高品質でも大丈夫なようにと」
「……そうかい。じゃあ、早速手配しよう。明日には来るはずだ。請求は別途送るよ」
「ありがとうございます!」
「…………あぁ」
理事長は深いため息を吐いて椅子に座り、私を見送った。その翌日、業者の人が来て採寸をする。レンタルで良ければすぐにと言われたので、速攻でお願いした。
「で、何か感想は?」
「…………」
彼は言葉にならないようで口をパクパクさせていた。一流のメイクもしてもらった私は、多分数割増しで美人になっていると確信している。
「……綺麗だ」
「最初からそう言えばいいのに」
「馬子にも衣裳だな」
「良く聞こえなかったからもう一回お願い」
「冗談だ。本当に綺麗だとも」
彼はやせ細った手で私の頬を撫でた。
「君には私の事なんか忘れて幸せになって欲しいのに、こんなのを見せられたら一生私の事を忘れないで欲しいと思ってしまう。こんな綺麗な姿を、他の男のために見せて欲しくない」
「安心して。他の誰かに嫁ぐ気はさらさらないから。私が愛しているのは、生涯1人だけ」
「そうか……それは嬉しいことだよ」
彼は優しく微笑み、そう言った。
「……どうして」
意味の無い言葉だけが口を吐いて出てくる。決意をしても、忘れられそうにない。私に出来る唯一の事は、私に宿った命を何としてでも守り抜くことだろう。そして、彼があげられなかった分の愛をあげることだろう。私と同じように、生きる意味が分からないまま子供時代を過ごすことがないように。
まだ通わないといけない。最後の数日だけれど、通わないといけない。思い出だけが蘇るけど、通わないといけない。何故なら、私が元気に卒業する事が彼の望みだったから。私が幸福に生きて行くことが、彼の願いだったから。
卒業式の答辞。これは生徒会長経験者、もしくはいなければAクラス代表がやることになっている。この代の生徒会長は一之瀬だった。けれど彼女は辞退した。自分には、ここで話すのは相応しくないと言い残して。彼が倒れて以来Aクラスの代表だった葛城もこれを辞退した。もっと相応しい人がいると。自分はただ、代理に過ぎないのだと、こう言って。
壇上に登り、礼をして口を開いた。
「梅の香りも漂い、春の気色が近づく今日、私たち卒業生のためにこのような素晴らしい式を執り行って頂いた事、感謝の念にたえません。私たちは今日、3年間の過程を終え、この学び舎を卒業致します。思えば、3年前。この体育館で行われた入学式を、私はどこか冷たい目で見ていました。これまでの人生において、私は学校に意味を見出せていなかったからです。しかしながら、その思いは、斜に構えた感情は数ヶ月で全て取り払われました――」
紙に書いてある内容からはもう、大きく逸脱している。それなのに口は勝手に動き続ける。これは私の思い出。そして、私と一緒にいた、もう1人の見た景色。彼が見た思い出。4月、銃口から始まった物語。あの時から過ごしてきた青い日々の追憶が、何もせずとも勝手に浮かんで、声に出た。
「最後に私事ではありますが、この卒業式を揃って迎えられなかったのは、とても哀しい事です。少しだけ、私の個人的な思い出話に付き合って頂ければと思います。それは、私の愛した人の話です。彼は、誰よりも前を向いていました。どんな時も前を向いて、歩み続けていました。そして彼は、誰よりも誰かが前に進むことを愛していました。その為の手助けに、努力と時間を惜しまなかったのです。私が思うに、彼は教師でした。その在り方が、誰かを教え導くというものだったのです。決して曲げることなく、前だけを見つめていました。私はきっと、そんな姿に惹かれたのでしょう」
Aクラスの生徒が感極まったように涙を流し始めた。私の涙はもう、とっくの昔に流れ始めている。
「在校生の皆さん。どうか、諦めないでください。どんな苦境にも必ず希望の星は輝いているのです。絶望の中にも希望はある。これが、泥の中、雨の中でも前を見続けた人が遺した最期の言葉です。見違えるように成長した在校生の皆さんならば、きっとこの言葉の意味が理解できるのではないでしょうか」
1年生、2年生にも彼に世話になった生徒は多くいた。その子たちに向けた言葉だ。きっと、彼ならばこう言っただろうから。
「私は本来、ここに立つべき人ではありません。もっと、相応しい人がいました。しかし、その人はもう、ここに立つことは出来無いのです。私は、せめて、ここに立つべきだった彼の代わりに、ここで言葉を述べたいと思います。彼ならばきっと、こう言ったであろうと考え、そしてそれに私自身の言葉と重ねて、2人分の言葉として、最後にこの学校と全ての出会いに最大限の感謝を。――ありがとうございました。卒業生代表、3年Aクラス、諸葛真澄」
万雷の喝采が体育館に響く。進行役の静止を振り切り、その拍手はしばらくの間、止むことなく鳴り響いていた。
荷物は全て送った。帰りのバスに乗るために、私は校門へ向かった。送別会に行く気にはなれない。少しだけ、1人になりたかった。けれど校門の前、そこには多くの人がいる。中央に高そうな車。それを囲うように凄い数の車が止まっている。
整列した人だかりの中央には、銀色の髪をした隻眼の少女が立っていた。他にも多くの人がいる。私を見ると、彼女は直立不動で敬礼をする。それに合わせるように、周りの人たちも一斉に敬礼した。彼らが、夫の部下だった人たちだと瞬時に分かった。まとっている気配が、何となく似ていたから。
「我らは中華人民共和国の軍隊である前に、諸葛閣下の軍隊でありました。閣下亡き今、我らはどうするべきか。答えはそう簡単には出ませんでしたが、長い討議の末、我らの方針をお伝えします。我ら白帝会は一同亡き主の御一族である配偶者、つまりは奥様に引き続き忠誠を誓いたく存じます。どうか、我らにご命令を」
スッと中央の彼女は膝を着く。それに合わせるようにして、その場にいた全員が私に対して膝を着いた。その下げた頭を見ながら、私はこうなった時のために考えていた言葉を話す。
「顔を上げて下さい。皆さんの思いには、夫もきっと喜ぶでしょう。お願いがあります」
「なんなりと」
「夫の夢を、叶えて下さい。諸葛孔明が夢見た世界を、どうか」
「はっ! 必ずや」
「よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げる。彼の見たかった世界。それを叶えることが、最後の供養になるだろう。彼曰く、この人たちはとても優秀だ。それならば、きっと彼の夢も実現できるだろう。
「お迎えの車はご用意させていただきました。ご実家までお送りします」
「……ありがとうございます」
軽く礼をして、開かれたドアから高そうな車の後部座席に座る。
『愛してる。元気でな』
聞きたかった声がした気がした。ハッと後ろを振り返る。けれどそこには求めていた人はおらず、ただ綻び始めている蕾を宿した桜並木があるだけだった。その奥には、青春の全てが詰まった学び舎がそびえている。
「……ありがとう」
私の言葉は少し早い春風に消えていく。記憶の中の彼が優しく笑った気がする。髪に刺さった2本の簪がチリンと音を立てて揺れた。車が動き出し、思い出の場所がどんどんと遠ざかっていく。
だから私は窓を開け、叫ぶのだ。
「さようなら! 青春!」
さようなら、私の、輝くばかりに眩しい全ての思い出。私は今日から、前を向いて生きていくんだ。彼がそうしたように。彼がそう望んだように。私と、そしてこのお腹に宿る命と、2人で。もう一度、簪がチリンと音を立てた。