『ルカによる福音書15:7』
旧暦ではすでに春を迎えているこの時期ではあるが、現代では一番寒い時期になっている。東京湾に面し、冷たい海風が吹き付けるこの学校の敷地は、遮るビルもないため東京都心よりもやや体感が寒かった。そのせいか、この時期になると風邪を引く生徒も多いらしい。
うちのクラスでもチラホラと休みを取る生徒も出ている。そんなことでポイントを引いてくるのはどうかと思うが、別にポイントを引かれたとて全く痛くも痒くもないため、遠慮せずに体調がおかしかったらすぐに休むようにと伝えていた。変に無理して学校に来てクラスターになるよりも、早期に治療してもらった方がいいからだ。
疫学的な観点から見て、感染拡大は防ぎたい。なにせ、こんな狭い閉鎖空間で疾病が蔓延したら大変なことになる。祖国のとは言え、医師免許を持っている身としては健康管理は大事な問題だった。本来は保健室がこういうのを通知するのかもしれないが、この学校にそんな親切は期待できない。医療費の自己負担分がないのだけが、この学校の数少ない良いところだろう。病院には気軽に行ける。
AクラスDクラスに関係なく、病には気を付けるよう通達していたが、本日一之瀬から微熱があるので休みます、という連絡を受けた。当然、Dクラスの生徒たちも受けているようで、見舞いに行くべきかどうかという話になって、相談に来た。
「と、いうわけなんだが……」
「朝の段階で微熱だとしても、ここから上がっていく可能性はあります。インフルエンザ等の指定感染症の可能性もありますし、大人数で押し掛けるのはかえって疲労させ悪化させてしまうかもしれません。それに、皆さんに移っては二次被害が拡大してしまう恐れがあります。取り敢えず良くなるまでは控えておくのが吉でしょう。後、マスク等で予防を徹底してください」
「分かった。そういう風に伝えておく」
「えぇ、お願いします。Dクラスの皆さんは仲間想いで素晴らしいと思いますが、時にはそっとしておくことも仲間を思いやることに繋がると、そうお伝えください」
神崎がこういう時にストッパーになってくれるのは助かる。Dクラスの生徒は基本的に善人が多いので、思いやりはある。善意で動いているのでそこは信頼できるのだが、逆に言えば善意はかえって悪意よりタチが悪い時もある。特に、暴走しがちなところが危険な部分だ。それも若さと言えば若さなのだが、善意を持ちつつ冷静さも欲しいのが指導者としての本音だった。
「近頃は色々とイベントもやっていましたし、混合合宿で慣れない環境にも長くいました。一之瀬さんもお疲れだったようですし、些か無理をさせてしまったかもしれませんね……」
「Aクラスと手を組むまではずっと気を張りっぱなしだったからな。無理もないと思う。決してAクラスや諸葛のせいではないだろう」
「だと良いのですが、しかし生徒の体調管理も私の仕事ではありますので。様子は確認しておきます。一人暮らしの風邪は中々心細いものもあるでしょうし」
「よろしく頼む」
葛城を経由して生徒会辺りから病気予防の呼びかけをした方がいいのかもしれない。手洗いうがいの徹底、マスクをする、きちんとお風呂に入る、部屋を暖かくする、薄着をしない、規則正しい睡眠や食事を行う、マズそうなら早めに薬を飲むなど、すぐにできる風邪予防は多い。歯磨きをするなどもそうだし、加湿器を付けるなどもそうだ。この学校は狭い上に行動半径が被っており、かつ部屋が同じ場所に密集しているので、簡単にクラスターが起きやすいのが怖かった。
一之瀬の見舞いというか様子見をするのは、単純に生徒の健康を案じての部分もある。彼女がヤバそうなら救援しないといけないし、何か口に入れたいなら作ったり買ってくる必要もある。普通の生徒がやってもいいとは思うが、私の方が身体は丈夫だと思うのでやることにした。それに、余裕がありそうならきちんと彼女と話をする機会にもできる。それは状況次第だが、どっちに転んでも私にとって特に損はなかった。
かくして、私は授業の終わりに彼女の部屋の戸を叩いたのである。真澄さんが凄い不満そうな顔をしながら私の部屋に向かっていった。一之瀬はどうやら彼女の中でかなりの警戒対象らしい。
「あぁ、意外と元気そうですね」
午前中や昼間は元気でも、午後になると熱が上がるという事もあるあるだ。なので、夕方に様子を見に来たのだが、顔をのぞかせた彼女は結構元気そうな表情をしていた。少しだけ顔が赤いのと若干鼻声なくらいで、後は大分元気そうだ。
「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって」
「他の方も来たいようでしたが、大勢で押しかけても迷惑かと思いまして。一応差し入れです」
「ありがとう」
部屋の中では加湿器が回っていた。ただ、少しだけ空気が冷たい。多分、さっきまで換気をしていたのだろう。
「体調の方は、いかがですか」
「割と大丈夫になってきたかなぁ。午前中に病院行って、その後薬飲んで寝てたら落ち着いてきた。多分、ちょっと疲れてたんだと思うから」
「そうでしたか。申し訳ないことです。私が些か無理をさせてしまったようで。Dクラスの生徒の管轄はあなたにお任せしている部分が大きかったですからね」
「ううん、諸葛君はAクラスの方がメインだし、こっちはこっちで出来ることをしないといけないから」
「それでも、あなたに負担を強いるのは健全とは思えません。今後はもう少し、運営方針を見直すことにします」
一之瀬がかなり優秀なので、彼女に任せていればそつなく結果を出してくれるのも、彼女に投げてしまいがちな原因だった。大体のことは問題なくこなしてくれる。それは上に立つものとしては信頼できるが、逆に言うと扱いには十分気を付けないといけない。優秀な部下は、長く使いたいのならキチンと労わらなくてはならないのだから。
「これまでDクラスが穏健にこの学校で生活を続けられたのは、あなたの力が大きいでしょう。そんなあなたを蔑ろにするのは私の信念にも反しますし、何よりあなたのクラスメイトの皆さんに怒られてしまいますから」
「私は……そんなに大した存在じゃないよ……」
どうやら風邪のせいか、心が割と弱っているらしい。体調が悪い時に独りぼっちというのは中々メンタルに来るものがあるのだろう。咳をしても一人、ではないが、虚空に消える自分の吐息や咳、鼻水の音。心配する声も、面倒を見てくれる存在もない。一之瀬には昔はあったものなのだろう。それが今、ここでは失われている。その差が孤独な真昼の病床で、彼女の心を蝕んだとしてもなんら不思議はない。
同情すべき事態だ。けれどチャンスでもあった。今なら心の枷は解けかかっている。心細さとこれまでの疲労から、楽になりたいという心理状態が彼女の中に存在していた。同時に、私がある程度の信頼を得ているという事でもあるのだろう。信頼のある相手からの寄り添いに、そのまま寄りかかりたいと思うのは自然なことだった。状況的に、彼女は素直に話してくれる可能性が一番高いのは、未だと判断する。
「一之瀬さん」
「うん」
「混合合宿のことを覚えていますか」
私たちは向かい合って座っている。私は何でもない事かのように、話を始める。いきなり本題に入るのは難しい。まずは、その前段階を丁寧に踏んでいく必要がある。
「昨日の今日だから、もちろん覚えてるよ。あれも中々大変な試験だったし」
「ですね。そこでも大きく活躍してくださいました。これまで培ったクラス内の団結力や民度というモノが大きく出た試験だったと言えるでしょう。あの試験は大変良い結果に終わりました。しかし……気になる点が一つだけ。あなたの事です」
「……私の?」
「えぇ。真澄さんから報告を受けています。グループ分けの際に堀北さんから、何やら色々と言われたと。曰く、あなたの人格と能力で初期Bクラスに配置なのは、Aクラスになれない事情、つまりはそれだけの問題や欠陥があるからだ、とね。初期Dクラスだった人がどの口で何を言うか、とは思いました。が、言っていること自体の論理は通っています。そして、あなたはそれに反論しなかったそうですね」
「……」
彼女は座ったまま、静かに目を伏せた。私の入れた緑茶の湯気が立ち上る。静かな沈黙が空間を満たした。加湿器の立てる機械音だけが部屋の中に響いている。
「あなたならば明朗快活に反論するかと思いましたが……しかしあなたはしなかった。何故でしょうか。それを考えた時に、私は堀北さんの意見に業腹ながら一定数の正当性を認めざるを得ませんでした。それはあなたが信頼できるかどうかではなく、あなたの過去に何かがあったという事に」
仮に一之瀬の過去を何も知らなかったとしても、彼女の行動にいつか違和感を覚えていただろう。人間の性格は生まれ持ったモノもある程度があるが、半分くらいは後天的に形成されたものだ。彼女のその善たらんとする行動、そして賞賛を受け取らない態度、そこには何かがあると気付くのは時間の問題だったと思う。過去に自分を否定されたのか、自己肯定感の全くない空間で育ったのか、或いは何か己に課しているのかと、そう気付けないような観察眼ではないという自負がある。
「そしてあなたは賞賛への自己評価が低く、まるで何かに縛られているかのように歩き続けている。己を卑下し、賞賛を受け取らず、努力を続けている。その理由を、私は知りたいと思いました」
「……」
「それがあなたの中に何か大きな枷となってあなたを縛っているのなら、それを解消しないといけません。それが私の仕事であり、私の務めであり、私のするべきことであると考えています。生徒指導も、生徒の悩みを聞くのも私のするべきことなのですから。悩みを話すのが苦手な生徒なら、話せるように促し、話してくれるのを待つのが教師ですし、そうあるべきだと思っています」
「私は……」
「その迷いの表情、何も抱えてなどいなくて、すべては私の勘違いであるという事はないのでしょう? もし、決心がつかないようならば私はまた来ます。あなたが話してくれるまで、何度でも」
「どうして、こんな私を助けてくれるの?」
「助けを求めている生徒に手を差し伸べるのが、教師の務めだからです。たとえ手を振り払われて拒絶されようとも、生徒が心のどこかに救いを求める声を抱いているのなら、諦めるべきではないと、そう思っています」
私は静かにお茶を飲んだ。下を向いていた彼女が顔を上げた。私に縋るような、迷うような視線を送っている。彼女の過去を私に話すのか、話しても大丈夫なのか。瞳が揺れている。だからこそ、私は決して彼女から目を逸らさない。自分が何を言っても、相手はきいてくれるという安心感を与えないといけないからだ。話して楽になりたい。でも期待や信頼は裏切りたくない。かつて、自身の母親にしてしまったようなことは二度としたくない。それが彼女の中にある想いなのだろう。
「どんなことでも、受け止めてくれる?」
「生徒から目を逸らすつもりはありません」
私の言葉に、彼女は大きく息を吐き出した。彼女たちを味方にすると決めてから、一之瀬帆波を私の指導する生徒にすると決定してから、いつかこの日が来るんじゃないかと思っていた。その時が、今だった。
「私は、過去に、罪を犯したの。つまり、私は、犯罪者ってことになる」
「罪、ですか」
「うん。私は……万引きしました」
彼女は重い口を開いた。語られるのは半年間抱え続けた、彼女という善人の中に秘めたヘドロのような重たい悔恨だ。
「私は母子家庭で、お母さんと2つ下の妹との3人暮らしだった。裕福な方じゃないけど、不幸だと思ったことは一度も無かった。だから私も小学校の時は中卒で働こうと思ってたの。いずれ就職してお母さんを助けて、妹の幸せをバックアップしようと考えてたから。でもお母さんは反対した。母として、2人の娘には幸せになって欲しかったんだろうね」
知っている。そのために、何とかして二人の娘を進学させるべく苦労して働いていた。それが、一之瀬の母親だ。父親は、妹が生まれて数年後離婚したと調査には書いてあった。原因は、父親の浮気だったと記されていたのを思い出す。
「お金が無くても一生懸命勉強すれば特待生制度を利用できることを知った。必死に勉強して、学校でも1番になる事が出来た。でも……中学3年生のある日……お母さんは過労で倒れてしまった。妹の誕生日が近かった。妹はこれまでプレゼントなんか貰ったことが無かった。中学1年生なんだからもっと我が儘言ってもいいはずなのに、ずっと我慢して、耐えて耐えて耐えて。そんな妹に初めて欲しいものが出来た。それは去年流行したヘアクリップ。妹の大好きな芸能人が付けてるものだった。だからそれを買うためにお母さんは無理してシフトを入れてたんだと思う」
だが、それは買えず。母親は入院してしまう。当然、お金なんて吹き飛んでしまったはずだ。
「今でも覚えてる。病院のベッドで泣きながら謝るお母さんに、ありったけの罵声を浴びせる妹の顔を。そんな妹を私は責められなかった。姉として……何とかして妹の笑顔を取り戻さないといけない。そう思った。だから、私は妹の誕生日当日、デパートへ足を運んだ」
誰が悪いという話でもないのだろう。貧しいながらも頑張っていた母親と、その中で多くの同級生の「普通」とかけ離れた生活に苦しみを感じつつ耐えていた妹。いつかは、すれ違う時が来ていたのだろう。
自分はどうして他の子のように「普通」になれないのか。どうして、うちにだけサンタクロースは来ないのか。豪華な誕生日ケーキやプレゼントはないのか。ランドセルはピカピカじゃないのか。3DSはないのか。自分は決して悪いことなどしていない。なのに、どうして。そんな積み重ねが、妹の中に蓄積されていた。極論、原因は何でもあり得たのだと思う。ただその時、小さなアクセサリーが、我慢の限界となるきっかけだっただけで。
「あの時の私の感情は闇だったと思う。いいじゃない……たった1度、妹のために悪さをするくらい。大したことじゃないんだ。世の中、悪い人なんてもっといっぱいいる。そんな感情を持っていた。これまで我慢し続けてきた私たちが責められる必要なんてない。これは許される行為なんだ。そんな身勝手、我が儘な解釈。そして私は……盗んだ。それが、どれだけ懺悔しても決して消える事の無い私の罪」
彼女の苦しみは本物だったのだろう。苦しみの量や辛さを比べることほど無意味な事は無い。だから私の方が辛かったなどとは絶対に言わない。彼女には、彼女なりの辛さがあったのだろうから。今まで善として姉として、正しく生きてきた彼女には、間違いなく己の犯した悪の重さは相当の物だったはずだ。彼女の言う通り。もっと悪い存在は沢山ある。そう、彼女の目の前にも。私という名の、罪の象徴がいるのだから。
「私はそのヘアクリップを持ってデパートを出た。初めての万引き、初めての犯罪。それは誰にも見つからなかった。だから私は塞ぎ込んでいる妹にそれをあげた」
だがつかぬ間の幸せは終わる。果たして、私が最初に引き金を引いたのはいつだっただろうか。飛び散る血しぶきや脳漿を、悲鳴を、見たのはいつからだったのか。私は一之瀬の話を聞きながらそう思っていた。
「悪い事をした娘に母親が気付かない筈がないよね。秘密にしておくように言ったプレゼントを妹は身につけてお母さんのお見舞いに行った。まさか盗品だなんて思わないもんね。その時初めて、本気で怒るお母さんを見た。私をひっぱたいて、妹からプレゼントを取り上げた。お母さんに連れられて、私はお店に連れていかれた。土下座をして許しを願った。その時になってやっと私は罪の重さに気付いた。どんな言い訳をしたって犯罪が肯定される事は無いって」
彼女の苦しみは彼女が背負うべき十字架だ。そして私も、血塗られた十字架を背負い、いつか来る断罪の日へと歩いている。
「結局お店の人は警察沙汰にはしなかった。『もう2度と、こんなことをしないように反省してください』って苦々しい顔でそう言いながら。でも騒動はすぐに広まって私は閉じこもった。半年間引き籠った。前を向けたのは、この学校を教えて貰ったから。もう一度やり直す、最後のチャンスなんじゃないかって。これが、私のお話」
彼女は語り終えた。警察沙汰にされた方が、いっそ彼女は幸せだったのかもしれない。店側もその場で気付かなかった事、母親の憔悴した顔、そして彼女の後悔と反省に満ちた表情で許すことにしたのだと思う。それが、おそらくこの善人として生きてきた人間にとって一番の生き地獄だと知ってか知らずか。
「諸葛君。ううん、孔明、先生。先生なら教えて。私は、赦されるのかな」
「いいえ、あなたは真の意味で赦されることはありません」
私の冷たい言葉に、彼女は愕然とした顔をする。酷いことを言われたことへの怒りがにじんで、そのあとにそういわれるのも仕方ないという絶望と悔しさが滲む。しかし、私も突き放そうと思っていったわけではない。これは事実なのだ。
「あなたは本質的なところでは罪人です。無論、店の方はあなたを赦した。そういう意味ではあなたは赦されています。法的には何の問題もない、クリーンな状態です。しかし、問題にしているのはそういう事ではありません。それで切り替えられるのなら、今はとっくに悩んでいないはずですからね。一之瀬さん、あなたは勘違いをしています」
「え?」
「あなたが犯した罪は三つあるのです。一つは当然窃盗です。商品の売り上げの利益など微々たるもの。盗まれた分で出るはずだった売上や被った損害を補填するのに、数十個同じものを売らないといけないなど、よく聞く話です。ですから、この窃盗が表面的な罪です」
「あと、残り二つって言うのは、何?」
「残りの二つは裏切りです。一つはあなたのお母様があなたに抱いてきた信頼や、想い、そして愛への裏切り。そしてもう一つは、自分自身への裏切りです」
「自分、自身……?」
彼女はよくわからない、という顔をしながら私の顔を見つめた。
「あなたは罪を犯した。そこでお母様を裏切り、そしてその時に正しく生きようとしてきた、そして頼れるカッコいい理想のお姉ちゃんであろうとしてきた過去の自分をも、裏切ったのです」
理想の姉であろうとした。優しい姉であろうとした。良い娘であろうとした。そうやって、ずっと努力してきた。過去の自分のその行いを、彼女は自分自身で台無しにしたのだ。冷静な過去の彼女は、未来の彼女を声高に糾弾するだろう。己の努力を己で帳消しにした愚か者、と。
「あなたを断罪するのは、罪に苛ませるのは誰かの声ではないのでは? ほかならぬ、自分自身の声ではないでしょうか」
彼女の手が震えている。今、自分の一番醜いところを見つめようとしているのだ。その苦しさは私もよく知っている。いつだって、自分を一番責めるのは自分自身だ。夢の中で、私が殺した者の声を聴く。姿を見る。失ったものの数を数えることもある。けれどそれは、決して死者の声ではない。己を赦せぬ、自分自身の見せた景色だ。
「一度罪に手を染めた以上、もう前には戻れない。盗む、という選択肢は人生の色々な場所であなたの前に現れるでしょう。かつてのあなたならば、登場するはずのなかった選択肢なのに。それがあなたが永久に赦されないという事の所以です。赦しが罪の終わりならば、あなたは死ぬまで、盗むという選択肢を選ばないという行いを続けなくてはいけない。それは逆説的に罪人の証明とも言える。つまり、罪は終わっていない。ですから、赦しはないのです」
撃ち殺せば終わりだ。昔は思いもしなかった考えは、私の中に常に存在している。目下の難題を武力で解決したいと思ってしまう。人間は、一度罪を犯すとその選択肢が常に存在するようになってしまうのだ。倫理という箍によって守られていた部分を飛び越えた代償が、多分それなのだろう。
「じゃあ、私は、私はどうすればいいの……! どうしたら、これからどうやって生きていったらいいの……! 分かんない、分かんないよ……」
「それを探し続けるのが、あなたに与えられた罰です。店の方も、あなたの中学時代の教師も、そしてお母様も、あなたを法的な裁きの場へは連れて行かなかった。それはむしろ、あなたにとって生き地獄だったことでしょう。己を殺してくれとすら、思ったはずです。そうでしょう?」
彼女は静かに首を縦に振った。
「彼らは、あなたの将来を守った。しかし、同時に一番重たく苦しい罰を与えた。永久に終わらぬ贖罪の道を歩むという罰をね。そして、探していかねばならないのです。あなたの裏切ったすべてに対する贖罪の道を。ですが」
私はそこでいったん言葉を区切った。
「あなたは既にその道を歩めている。私はそう思っています」
「私は、そんなことしてないよ」
「いいえ、しています。あなたは自分のクラスメイトを助け、導き、支え、ともにここまで歩んできた。多くの生徒があなたに感謝し、あなたのおかげでこの学校でも過ごすことが出来たと感じている。こんなわけのわからない場所で、それでも前を向いていたあなたは、彼らにとって暗中に差す光だったことでしょう」
Dクラスがクラスとしての力を維持することが出来ているのは、まぎれもなく彼女の力によるところが大きい。それは間違いなく事実だ。たとえ、彼女本人が否定しようと。
「お母様とこれからどういう関係になろうとも、あなたが為した行いは消えず、過去は変えられません。ならばせめて、たとえそれが偽善であろうと、そんなことをしてお母様があなたを赦すかは分からないけれど、それでもあなたは多くを救い続けなくてはいけない。それがあなたが出来る、せめてもの償いです」
「でも、それは、それはただの義務感で……! 私は、私は今度こそ、正しく生きないといけないから、だからやってただけなの! 優しさなんかじゃない、光なんかじゃない……」
「あなたがどう思うかは関係ない。相手がどう受け止めたか、こそが一番大事なのです。やらない善よりやる偽善です。それに、たとえあなたがどれだけ卑下しようと、あなたに救われたという思いは決して消えたりしない。あなたは、あなたに感謝するそんな彼らの想いを無下にするのですか?」
どんな思いから出た行動であろうとも、それに救われた人がいる事実は消えない。
「私は、私はそんな、綺麗な人間じゃ、頼られて、救えるような人じゃ」
「善人が悪行をなすこともあります。悪人が善行をなすこともある。人間はそんな二面性のある存在です。ですが、その人の本質は何も変わってなどいない。あなたが咎人であることと、あなたに救われた人がいることは共存する事の出来る事象です」
彼女は結局、自分で自分を赦せるための旅路を歩まないといけない。それはきっと、すごく長い道のりであるし、もしかしたら終わらない道のりなのかもしれない。けれどその途中に出会うモノにはきっと価値があるはずだし、その行いは無意味ではないはずだ。
「あなたは、この後もそうやって、誰かのために手を差し伸べ続けなくてはいけない。かつてあなたが裏切ったモノへの贖罪として。それが、あなたに課せられた罰であり、贖いのための道筋です。その過程の中で、最後には自分で自分を赦せるようになっていくでしょう。そして、完全に自分で自分を赦せた時、あなたの旅路はやっと終わるのです」
刺さった。私の言葉はきっと、彼女の中に刺さった。その表情を見て、私はそう確信する。厳しい言葉だろう。苦しい現実だろう。険しい未来像だろう。けれど、それでも暗中模索の中、ずっと自分を赦せないまま、自分がしていることの正しさも分からないまま歩き続けてきた彼女にとっては、救いであるのは間違いないと思う。
「あなたの罪は消えません。あなたの道のりはまだ始まったばかりです。しかし、あえてこれだけは言うべきでしょう。これまでずっと、自分を赦せず、どうすればいいのかもわからないまま、その心の中にある鎖と向き合い続けてきたのでしょう。よく、頑張りましたね」
決壊したように、彼女の目から涙が零れ落ちた。ポタリ、ポタリと流れていたそれはやがて止まらない大粒の雫となり、静かにテーブルを濡らす。嗚咽を漏らす声が、加湿器の音よりも大きく室内に響いた。十代の少女が抱えるには重たい後悔と安堵の涙だった。だから、私はここで初めて彼女の欲していることを言った。今まで厳しいことをたくさん言ったからこそ、最後に告げた彼女の心や行いを肯定する発言が刺さる。
確かに彼女は罪を犯した。しかし、彼女に必要だったのはカウンセリングだと思う。罪を犯した子供への向き合い方は難しい。けれど、放置してはいけないし、ただ断罪するだけでもいけないのだ。そこに至るまでの過程に何があったのかを考えないといけない。家庭環境の問題なのか、倫理観の問題なのか、それ以外の何かなのか。罪と向き合わせるとは、罰とはそういうモノであるはずなのだ。
時間にして十分弱だろうか、彼女の涙はその間ずっと流れ続けていた。それまでに溜まった澱みをすべて洗い流すかのように。そして、それが少し落ち着いた頃、私は声をかけた。
「これからの未来像、描けましたか?」
「うん。……まだ、はっきりとはしていないけど、でも、しないといけないことは分かった」
「そうですか。それならば、多少は前に進めたのだと思いますよ」
「でも、本当はお母さんに、ちゃんと言わないといけない事もたくさんあったなって思ってる。あの後引き籠って、そこから逃げるようにほとんど会話もしないでここに来ちゃったから」
「そのことなんですがね。五日後の放課後、お時間よろしいですか?」
「五日後? 多分大丈夫だと思うけど」
「では。そこには予定を入れないでください。申し訳ないですが、仮に先約があったとしても重大事項の場合以外は別日に回してください」
「それはいいけど……でもどうして?」
「あなたのお母様と、あなたと私での三者面談を行うからです」
彼女の涙で潤んだ瞳が、大きく見開かれた。彼女はやっと自分と向き合えた。前に進む準備が出来た。未来を僅かでも見据えることが出来るようになった。ならば、そこからさらに一歩進むには、過去に置いてきてしまった後悔を回収しないといけない。既にセッティングは終わっているし、先方の予定に合わせて時間を組んだ。後は、行うだけである。
これを経ることで、彼女はやっと前に一歩歩み出せるだろう。不完全な形ではなく、或いは見たくないものを見ないようにする形でもなく、健全かつ望ましい形で。