ようこそ孔明のいる教室へ   作:tanuu

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子に対する母親の愛に匹敵するものは、この世にない。

『アガサ・クリスティー』


70.母と娘

 一之瀬の過去を聞いてから五日が経過した。今日は、事前にアポイントメントを取って時間を作った一之瀬家の三者面談の日である。場所は普段Dクラスが使用している教室を借りることにした。放課後に行うため、Dクラスの生徒には事前に話をして教室を使う旨を伝えている。

 

 また、個人情報保護の観点から面談の時間中は学年のフロアに生徒が立ち入らないようにとお願いしている。この辺は真嶋先生が快く引き受けてくれた。本来はポイントを請求されるのかもしれないが、学校側も個人情報を守らないといけないので今回は無償でやってくれている。……本当はそれが正しい気がするが。

 

 教室の中は既に準備が済んでいた。机と椅子を三セット用意し、二つ対一つで向かい合うように配置している。私がドアの方を向く形、保護者と生徒がドアに背を向ける形だ。万が一何かあっても監視カメラがあるので問題はないと判断している。私は制服ではなく、スーツで待機していた。面談なので、こちらの方が良いと判断したのだ。

 

 一之瀬の母親は、私の部下が車で迎えに行っている。彼女も仕事を休んでここへ来てもらっているのだ。これくらいのことはする。本人はそんなのあるのかと疑問符を浮かべつつ、国立高校だしそういうサービスもあるのかなと思っていたようだと報告を受けている。

 

 待ち合わせ時間になったら一之瀬には校門に向かってもらい、そこで待っているように促している。私は教室で待つという形だ。午後四時半からという予定だったが、予定の五分前に母娘は姿を現した。ノックして、一之瀬に促されて母親が入ってくる。事前に得ていた情報によると、年齢では35歳。女子高生の娘がいる母親にしてはかなり若いと思う。いわゆる授かり婚であり、高卒がゆえに苦労してきたのか、年齢に反して見た目は少し疲れた様子だった。

 

「あぁ、お母様。本日はわざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」

「あの、帆波が、帆波が何かしてしまったのでしょうか」

「いえ、そういう話ではありませんのでご心配なく。もう少しお電話口で事情をご説明するべきでした。いらぬご心労をおかけしてしまったようで、申し訳ありません」

 

 学校から連絡があったときに真っ先に何かしでかしたのではないかという考えに至るのも無理はないだろう。母親から一之瀬に向けた信頼は、今かなり落ちてしまっている。本人もそれは理解しているようで、少しだけ悲しそうに表情を歪ませた。私の言葉に、母親は露骨に安堵した表情を見せている。

 

「まぁ、ひとまずお座りください。立ち話もなんですから、どうぞ」

「失礼します」

「お寒い中、どうもすみません。ここは海側なので、如何せん風が冷たくって。暖房を入れているんですが、あまり暖かくなりませんね。空調は大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「良かったです。暑い寒いあればいつでも仰ってくださいね」

 

 私は持っているファイルを机の上に置く。一応メモを取れる用の紙も用意していた。どういう内実であれ、三者面談として実施している以上指導の記録はきちんと残しておかないといけない。私は記憶力はよいと自負しているが、口頭記憶はどうしても文字記憶よりも覚えられる内容が少なかった。文面なら絶対に忘れないのだが。

 

「まずは、自己紹介からですかね。お初にお目にかかります。帆波さんの指導を担当しております、諸葛(もろくず)孔明(よしあき)と申します。以後、よろしくお願い致します」

「帆波の母の、一之瀬碧衣(あおい)です。あの、諸葛先生は、帆波の……担任の先生なのでしょうか?」

「いえ、私は担任ではありませんね。というよりは、教員免許も持っているわけではありません。この学校は些か特殊でして、生徒の自治が強いので私はAクラスと帆波さんの属しているDクラスの指導担当のようなことをしています」

「は、はぁ……。よくわかりませんが、帆波の指導をしてくださっている、という理解でよろしいでしょうか?」

「その認識で問題ありません」

 

 母親は困惑しているようだったが、取り敢えず事情はある程度飲み込んでくれたようだった。ハッキリ言ってしまえば、普通の学校ではまずありえない事態だ。なんでこんなことになっているのかは自分でもよくわからない。この学校の教員がもっとしっかり対応してくれるのならば私も楽だったかもしれない。けれど、この問題を放置することもできないし、教師に期待できないなら自分でやるのが速い。

 

「さて、時間もありますので本題に入らせていただきたいと思います。先日、帆波さんより中学時代の出来事をお聞きしました」

「……ッ!」

 

 母親は驚いたような目を私に向けて、そして薄々察していたという顔になる。学校から呼び出されたということは、何かしら過去の問題についてだろうと理解していたのだろう。だから、ずっと暗い顔だったのだと思う。

 

「まず先に申し上げておきますが、今回の三者面談は帆波さんをこの学校から追い出そうとか、過去の問題について糾弾しようとか、そういう趣旨のものではございません。ただ、今後の帆波さんの将来について考えていこうという趣旨の面談です。当然、それにはお母様のご意見も必要でしょうから、お呼びだてした次第です。ですので、帆波さんがこの先ここを追われるという事はありません。そこは、安心していただければ」

「……はい」

「帆波さんは過去の問題について、とても後悔していました。しかし、それで罪が消えるわけではありません。そこは私も指摘致しましたし、本人も理解しています。それを理解したうえで、今後はご迷惑をおかけした方々やお母様への贖罪を続けていくと、そういう風に考えています」

「……」

 

 母親は沈黙したままだった。そこにどういう感情を抱いているのかは、イマイチ読み取りにくい。そして彼女はちらりと、娘の方を見た。その仕草は、どうすればいいのか迷っているようにも見えた。ちゃんと育ててきたつもりだったのに、罪を犯してしまった娘。いくら反省していると言っても、その子に対してどういう対応をしたらいいのか、親の中でもまだ決着はついていないのかもしれない。だとすれば、まずは母親と面談するべきだと考えた。

 

「すみません、一之瀬さん。一度少し席を外してくださいませんか。隣の教室で待っていてください」

「……うん」

 

 一之瀬は一瞬逡巡して、そして首肯した。教室には母親と私だけが残される。

 

「先生は、帆波が反省したと仰いました」

「はい」

「ですが……私には娘が分からないんです。ずっとしっかり育ててきたつもりでした。裕福でなかったのは認めます。苦労を掛けてしまったのも、私の選択のせいであると理解していますし、申し訳ないと思っています。それでも、いくら貧しくても苦しくても、間違ったことだけはしないで欲しいと思って、そうやって育ててきたつもりでした。なのに、なのにあんな事になってしまって……」

 

 吐き出すように母親は言葉を出した。誰にも相談できなかったのだろう。娘の恥ずべき話など、誰にすればいいのかわからないまま、彼女も一年近く抱え続けてきたのだ。今の時代の親は孤独だ。SNSには無責任な言葉があふれていて、理想も正しさも昔よりずっと身近にあり、選択肢も増えてしまった。なのに、支えてくれる存在は昔より減っている。地域共同体は消え去り、親も子供も孤独になった。

 

 核家族化が進んで、家庭の中という狭い世界で展開される人間模様は、時に抑圧や不和を生む。そして、それを外に出す手段はなくなって、親も子供も苦しみながら生きていくしかなくなる。それに、彼女は実家を勘当され、実の父母とは絶縁状態。その父母の生存と所在はこちらで確認している。元夫の方は当然養育費など払うはずもない存在だ。頼れる相手などいなかったのは容易に推察できる。

 

「先生、私の育て方が間違っていたんでしょうか。私は、母親として失格なのでしょうか」

「親が幾ら手を施そうと、正しさを教えようと、それでも子供は子供という別の人間です。である以上、どうしても親の手の届かないところはあると思います。帆波さんは、当時15歳でした。もう十分善悪も判断できる年です。あの選択は親の影響ではなく、彼女自身が選び取った行いです。ですから、お母様の過ちでなく本人の過ちである。私はそう考えます」

 

 親の責任、という言葉はよく使われる。しかし、子供と親は別の個体だ。別の個体である以上、当然別の倫理観や性格、思考を持って行動する。親の責任は一定数あるだろうけれど、善悪の判断が出来る年齢になっているのに、あまりにも親の責任を問うのは酷な話だと思う。そうすることで、もっと見るべき問題から目を逸らす事が出来てしまうのだ。親に責任を押し付ければ、社会にある問題から目を背けることが出来る。

 

「親元を離れ、色々と厳しい学校生活を送っている生徒の中には、心身に不調を抱えてしまう生徒もいます。しかし、彼女のクラスには今のところそういう生徒は存在していません。皆、口をそろえて言います。帆波さんのおかげでここまでやってこれた、彼女に励まされて日々頑張れている、彼女の支えがあったから諦めないでいられた。いつもありがとう。自分に何か出来る事があるのなら、なんだって力になりたい。そんな声が幾つも幾つも出ています」

「だとしても! だとしても帆波のやったことは消えないじゃないですか。誰にも言えないまま、汚点として生きていくしかないんです。私も、あの子も……。あの時の間違いで、たった一回の過ちで、ずっと……!」

「確かに、それはその通りだと思います。しかし、過ちを犯してもやり直すことは出来ます。罪は消えない。けれど贖い続けることは出来る。彼女は、誰かに手を差し伸べ続けるという形で贖い続けています。それが本当の意味での贖罪に繋がるのかは誰にもわかりません。それでも、何もしないよりはきっといいはずだと信じて。正しくあり続けて、前を見続けて、皆に寄り添い続けることで、己の罪と向き合い続けています。その結果が、多くの生徒からの称賛の声です」

「ですが、それはあの子の犯した罪を知らないから……」

「いいえ」

 

 私ははっきりと否定の言葉を告げた。

 

「帆波さんのクラスメイトは、彼女の罪を知っています」

「……え」

「帆波さん自身が、自らの口ですべて説明しました。数日前の出来事です。そして、先ほどの声はその後に聞いたものです」

 

 隠すべき汚点について自ら話した、という事に母親は唖然としていた。無理もない話だろう。話すと決めたのは本人だった。私は内内で済ませてしまうつもりだったのだが、彼女は自分から話すと言い出した。私は本当に一切何も誘導していない。彼女自身が選んだ選択肢だった。己の黒い部分について洗いざらい話して、それでも自分を信じてくれるかを問うたのだ。

 

 拒絶されることも、軽蔑されることも覚悟していた。それでも、嘘を吐き続けることの方が彼女にとっては何倍も辛いことだった。

 

「帆波さんの隠していたものを知っていて、なお生徒たちは彼女を信頼すると言いました。その過去がどうであろうと、私が、私たちが、救われたことに変わりはないのだと」

「そんな、ことが……」

「私も驚きました。本人はもっと驚いていたと思いますが。異口同音にクラスメイト数十人がそれぞれに、それぞれの抱いている信頼や感謝を口にしました。これは凄いことです。滅多にあることではありません。40人弱もいれば、数名は苦手に思ったり嫌う生徒もいるものです。しかし、そんな生徒はいませんでした。一人一人個別に、本音を語ってくれて良いとも言いました。それでも、口にされるのは肯定する言葉ばかりでした」

 

 それは彼女が築き上げてきた確かな人徳であり、確かな信頼だろう。移籍した白波と柴田も話の対象に入っていた。当然、彼らも同じことを口にしている。無論、温度差は存在している。けれど、彼女のことを悪く言う生徒は一人もいなかった。その意味は、きっと凄く大きいものだと思う。堀北学や南雲雅も慕う生徒は多いだろう。だとしても、全員が肯定的に見ているわけではないはずだ。彼らに成し得なかったことを、一之瀬は確かに成し遂げている。

 

「帆波さんの犯した罪が、お母様の仰るようにお母様の育て方の責任なのだとしたら、彼女が多くの生徒の心を救い、不安を拭い、過去を明かされてもなお消えない信頼を勝ち取ることが出来たのもまた、お母様の育ての結果ではないでしょうか? あなたの娘は、しっかりとここで生きています。多くの希望となって、模範となって生きています。それは紛れもなく、あなたの育てた娘の姿ですよ。あなたが育て上げた娘の姿なんです。だからどうか、間違いだったなんて思わないで。罪は罪です。しかし、それですべてが消えるわけではないのですから」

 

 彼女を肯定する人はいなかったのだろう。これまで必死に生きてきたけれど、それを褒められることはなかった。当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。けれど、親だって人間なのだ。最初から完璧はあり得ないし、ずっと手探り状態なのだ。その中の苦労を分かち合えればよかったのだろうけれど、彼女は抱え続けて生きてきたのだろう。そういうところは親子だなと思う。娘と母親、悩みを抱え込んでしまうところはそっくりだった。

 

 それでも何もなければよかった。でも、そうはならなかった。娘が犯した罪を認識したとき、きっと彼女はこれまでの自分の全てを否定されたような気分になったのだろう。親としてこれまでやってきた行いや苦労を全て消し飛ばされて、否定されて、ぐちゃぐちゃにされたように感じたのだと思う。

 

 だから、それが今やっと肯定されたような気がしたのだろう。彼女の目からは涙がこぼれていた。ハンカチで目元を抑えながら、それでも収まる様子はない。泣き方が似ていると、そんなことをぼんやりと思った。親と子は別の存在だ。けれど、特に自らが産み落としている母親にとって、子供は自分の分身のようなものなのだと思う。その善悪は横に置いておくとしても。

 

 故にこそ、子供が肯定されれば自分も肯定されたように感じるし、子供が否定されれば自分も否定されたように感じる。それはごく自然なことだ。この学校には真澄さんや綾小路を筆頭に親に愛されていない子供が多い。けれど、一之瀬は確かに親からの愛情を受けている。貧しい生活でも、その中に確かな幸せはきっとあったはずなのだ。

 

「もちろん、それはマイナスが多少マシになったか、或いはマイナスがゼロになっただけなのかもしれません。ですが、それでも自分の足で歩き出しています。だから、どうかお母様は帆波さんを突き放さないでください。彼女を諦めないでください。親が子供を諦めてしまったら、子供は誰に頼ったらいいのか分からないではありませんか。もし、そうしていただけるのでしたら、彼女が前を向いて、たとえ苦しかろうと贖罪の道を、正しき道を歩み続けられるように私が導き支え続けます。ですからどうか、お願い致します」

 

 私は静かに、けれど深々と頭を下げた。ここが正念場だ。娘にどう接したらいいのかわからなくなっている親に対し、ここでしっかり楔を打ち込みたい。これが上手くいけば、母娘の関係性は多少マシになるだろう。今後外出が可能になれば、里帰りも出来るようになるはずだ。そうすれば一之瀬の問題は大半が解決する。今後、精神面での憂いが大分減った状態で彼女を戦力とすることが出来るはずだ。それが統率者としての私の役目であり、教師役としてなすべきことであると信じている。

 

「娘は、しっかりやれていますか」

 

 母親は呟くように言った。私はそれに首肯する。

 

「はい。他の生徒よりも、ずっと。生徒会にも所属し、クラスのリーダーとなって活躍し、クラスや学年を飛び越えた信頼を得ています。他ならぬ、私からも」

「そうですか……。優しい子だったんです。他人の痛みも、自分の事のように考えて。小学校でも、中学校でも、ずっと先生からはお褒めの言葉を貰っていました。だからこそ、余計に信じられない気分になってしまったんです。仕事に疲れた日々で、久方ぶりの休みに下の娘と一緒に公園に行って、私が疲れて眠ってしまった時、ずっと寄り添い続けてくれて……ずっと、優しい子で……」

 

 嗚咽が漏れている。思い出しているのだろう。すれ違ってしまう前の、娘との日々を。決して自分の人生は他者に誇れるようなものではないけれど、娘の存在だけは胸を張って誇れる存在だったはずだ。少しばかり遠回りをしてしまったけれど、その善性は今でも変わってはいない。

 

「その優しさは、今でも変わっていませんよ」

「ありがとう、ございます。娘の事を、見てくださって」

「それが私の務めですから。どんな生徒であれ、私の担当である以上はしっかりと見届けたいと思っています」

「まだ、私自身がどう受け止めればいいのか、分かっていないところがあります」

「当然だと思います」

「ですが……それでも、帆波は私の娘で、私は帆波の母親です。そうである以上、受け入れて、私も前に進んでいけるように、気持ちを整理していこうと思います」

「そうですか! ありがとうございます」

 

 少し憑き物が落ちたような顔で、彼女は口にした。私はそれに、再度深く頭を下げる。子供が前に進むためには、親がそれに向き合ってくれることも大事な要素だ。私は一之瀬家に不幸になってほしいわけではない。むしろ、私の生徒である以上幸福になってほしいと思う。私にできるのは、彼女たちを幸福にすることではなく、幸福になるための方法を教え、そのために必要な力を得られるように導くだけだ。

 

 そうすることで、家庭は良い方向へ進んでくれるのだと思う。教育とは、子供だけに視線を向けていても仕方ない。子供の背後には必ず家庭がある。それに目を向けないと、教育は完成しないと考えていた。子供が成長し、それに伴い親も教師も学んで成長していく。それが多分、一番理想的な姿だ。

 

「お時間はかかると思いますが、それでもどうかよろしくお願い致します」

「こちらこそ、娘の指導をよろしくお願い致します」

「お任せください。必ず、立派な姿で卒業させて御覧に入れます。ですから、お母様は帰ってきた帆波さんに、お帰りと言って迎えてあげてください」

「はい」

 

 ある程度覚悟を決めた顔で、目の前の母親は頷いた。多分これなら娘を呼んでもいいだろうと思って、携帯で一之瀬に戻ってくるようにとメッセージを送る。彼女はすぐに戻ってきた。目には不安の色がある。

 

「帆波」

「はい」

「あなたがやったことは、絶対に赦されないことよ」

「……はい」

「それでも、あなたがここでしっかり生きて、悔い改めようとしているのは分かった。それはマイナスをゼロに戻す作業でしかないかもしれないけど、それでもやり続けなさい。お母さんは、あなたがちゃんと三年間頑張りぬいて、戻って来てくれるのを待ってるから」

「お母さん……。ごめんなさい。あの時、あんなことをしてしまって、ごめんなさい……!」

 

 一年間言うべきと思いながら言えないままだった言葉を、一之瀬は口にした。これでやっと、親子は前に進んでいけるのだと思う。まだまだ課題は多いだろう。これから先、色々な困難に直面していくのだと思う。それでも、これまでよりはずっとマシなはずだ。

 

「今後もまた、お時間を頂くことがあるかもしれません。お母様も色々と抱えている事もあるかと思います。私でお役に立てるのかは分かりませんが、いつでもご連絡ください」

「ありがとうございます」

「後、こちらを。下の娘さんも来年度受験だと思いますので、各種支援制度をまとめておきました。また、成績優秀者に支援のある塾や私立高校もこちらの紙にまとめてあります。ご参考になれば幸いです。また、現在帆波さんも所属している生徒会中心に改革の動きがありまして、ご家族との連絡も取りやすくなる可能性が高いです。その場合、私が直接指導することも可能ですので、ご一考ください」

「そんなお気遣いまで、なんとお礼を申し上げればいいのか……」

「いえ、さしたることではありませんので、お気になさらず」

 

 実際そこまで苦労していないので、大した事ではない。何か役に立てばと思って用意したのだが、役に立ったのならば幸いだ。絶対に何が何でもまかり間違ってもここへ来てはいけない。無料に惹かれる気持ちは分かるが、この学校は罠だ。不幸になる未来しか見えない。そうならないように改革していきはするが、それも限界はあるだろう。

 

「帆波」

「はい」

「諸葛先生の言う事をしっかりと聞いて、これからもやっていきなさい」

「はい!」

 

 一之瀬が力強く頷いている。本来なら、これは担任とかの名前で言われる事のはずなんだけれど。なんだか最後まで本来の学校の役割からズレているなぁと思う。最初は困惑していたのに、私のことを普通に先生と認識しているし、一之瀬の母親も大分適応力が高いようだ。

 

「諸葛先生、不束な娘ですが、どうか見守ってやってください」

「お任せください。必ず、笑顔で卒業させます」

「お願い致します」

「一之瀬さん、お母様を校門までお送りするようにしてください」

「うん」

 

 ぎこちなくではあるが、会話をしつつ二人は校門へと向かっていった。疲れた、と思いながら私はDクラスの教室の椅子に深く腰掛ける。はぁ……と出したため息は誰にも聞かれることはなく、空中に消えていく。首を捻れば、コキっという音が鳴った。

 

 一之瀬家の問題は、これで多少改善した。ここから彼女がどういう風な未来を歩んでいくのか、完全には分からない。しかし、よろしくと深々頭を下げて頼まれてしまった以上、当然投げ出したり見捨てることは出来ない。何とか良い成果を得た状態で、かつ笑顔で、後悔なく卒業させるのが私の務めとなるだろう。中々大変そうだが、やるしかない。

 

 私の生徒の未来を、より良いものにするために。

 

 

 

 

 

 かくして、一之瀬の抱えていた問題は多少の前進を見せ、我々はこの学年を終えようとしている。一つの家庭の将来が大きく変化したことなど誰も知らないまま、高度育成高等学校はバレンタインデーを迎えていた。

 

 各地で繰り広げられるのは恋愛頭脳戦とも言うべき男女の駆け引き。気になるあの子から貰えるのかは男子の精神状態を一喜一憂させ、気になる彼に渡せるのかは女子の精神状態を一喜一憂させた。そんな甘さとほろ苦さを含んだ青春模様は、すでに出来上がっているカップルにはそこまで関係のない出来事で、むしろ年中行事として贈り物をしあう、というのが一般的な様相だった。

 

「はい、孔明先生。義理だよ、義理だからね、義理!」

「え、えぇありがとうございます」

「来年もよろしく!」

 

 そんな感じでクラスメイトの女子からは結構色々と貰っている。今年一年のお礼であったり、或いはこの前まで何回か開催したお料理教室の成果物を出してくれたりと様々だ。チョコレート系ばっかりでは被ると思ったのか、各人の好みに合わせて色々と趣向を凝らしてくれている。煎餅や饅頭のような既製品の和菓子もあれば、マドレーヌやクッキーなどの洋菓子もある。変わり種だと月餅のような中国のお菓子や、たまたまケヤキモールで売っていたデーツなどをくれる人もいた。なお、サルミアッキを渡してきた奴もいる。まぁこれは森下なのだが。

 

 ともあれ、十人十色で義理であることを大声で強調している。その原因は、私の隣の席で私に渡される物品に目を光らせている真澄さんの眼光のせいだろう。確かに、義理とは言え彼女のいる男子に渡すというのは気を遣うものだとは思う。

 

「たくさん積みあがってるわね。こんなにあったら、私のはいらない?」

「いえ、是非頂きたいです」

「でも、そんなにあるのに?」

「本命じゃないから……。私だって本命が欲しいよ、そりゃ」

「ふーん。じゃあ、はい。一応というか、これ、本気のヤツだから」

「ありがとうございます」

 

 ありがたく拝受するという感じで受け取る。大袈裟な、と彼女は苦笑したが、それでも私の手の上にポンと包みを置いた。普段は可愛い感じのものを使わない彼女にしては珍しく、ピンク色のリボンで包装がされている。ラッピングなどは坂柳のセンスだろう。彼女はこういうファンシーな感じのセンスは良い。

 

「ホワイトデー、期待してるから」

「それは中々大変そうだ。期待に応えられるように、今から考えておかないと」

 

 普段は作らない面倒なお菓子とかを作ってみるのも悪くないかもしれない。或いは、彼女の好きなものにするか。いずれにしても、また図書館でお菓子のレシピ本を借りることになるだろう。図書館の主こと椎名は、私がレシピ本を中心に借りていくことに何とも言えない表情をしていた。

 

「こんにちはー。諸葛君、いる?」

「あぁ、一之瀬さん。こんにちは」

「こんにちは。うわ、すごい量だね。お菓子屋さん開けそう」

「しばらく血糖値が心配です。皆さんのご厚意で頂きまして、ありがたい限りですね」

「そうなんだ。まぁ、諸葛君のこれまでの活躍というか頑張りなら、妥当な報酬じゃないかな」

「そう言って頂けるのは嬉しいですね。それで、本日はどうしました?」

「うん、今日はまぁ、そういう日だからさ。この前のお礼になるかは分からないけど、それも兼ねてこれを渡そうと思って」

「ありがとうございます」

 

 彼女が差し出してきたのは綺麗な包み紙に入ったお菓子だった。多分、チョコだと思う。思えば、真澄さんからのもの以外チョコ系のお菓子はあってもチョコそのものは無かった気がする。入っているのがチョコだろうと私が推測するのと同時に、私の隣から指で机をカツカツと叩く音がする。

 

 視線を送れば、真澄さんがどういう事だという顔で一之瀬を見ていた。一之瀬は軽く受け流している。

 

「義理とは言え、頂けるのはありがたいことです」

「……うん、喜んでくれたならよかったよ」

「まだ最後の特別試験は残っていますが、それも恐らくは大丈夫でしょう。来年度も、引き続きよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね」

 

 そう言って彼女は自分の教室に戻っていった。真澄さんは引き攣った笑いを浮かべていた。一之瀬は穏やかな微笑みを浮かべたまま、去っていく。そういえば、彼女だけ義理だと声高に主張しなかった。気遣いのできる人間だから、そういう事は率先して行いそうなものなのに。

 

「ふーーーん、良かったわね。学年の人気者の一之瀬から貰えるなんて光栄な男子、他にいないでしょ。クラスの子にも渡してないみたいだし」

「いやまぁ、色々あって彼女の問題解決に協力したから、多分そのお礼でしょ。他意はないと思うけど」

「……」

 

 プイっと彼女は顔を背けて頬杖をついている。呆れたような顔の坂柳が静かにこちらに近付いてきた。そして、小さい声で私に告げる。

 

「あなたにチョコを渡すのは神室さんだけっていう淑女協定があったんです。というより、彼女はお願いしたんですが。当然、それはDクラスにも。つまり、一之瀬さんはその協定を堂々と破ったわけで、神室さんからしてみれば気が気ではありません。なにせ、それはド直球の本命宣言、或いはそこまでいかずとも自分の脅威になりうるという事になるのですから」

「いや、幾ら何でも一之瀬さんがそんな惚れっぽいわけないでしょう。単純に聞いてなかっただけじゃないですか?」

 

 一之瀬の問題解決には確かに尽力した。しかしながら、そんなことで私を恋愛的に好きになったりなどしないだろう。そうであると考えるよりは、真澄さんのお願い、坂柳風に言えば淑女協定がここのところ精神的にも肉体的にも忙しかった彼女の耳に入っていなかった可能性を考えた方が自然に思える。それに、勝手に一之瀬の想いを決めつけたりするのは失礼だし、勘違いだったら大変申し訳ない。

 

「それに、私は余所の方に気を移すつもりなどありませんよ」

「まぁ、あなたならそうでしょうね。でも分かっていても、女の子は不安なものですよ」

「そんなものですか?」

「そんなものです」

 

 坂柳に恋愛関係の講釈を垂れられるのは些か癪ではあるけれど、それでも確かに一理ないわけでもないと思える。一日が終わり、帰路についても彼女は今一つ機嫌が直っていないようだった。部屋に帰っても、無言でツーンとしたままクッションを抱えてソファに座っている。

 

「真澄さん」

「……何」

「坂柳は一之瀬の本命宣言がどうとか言ってたけど、仮に坂柳のいう事が真実であったとしても、まったくの見当違いだったとしても、私が一之瀬に心動かされることはない。それは、断言していいことだ。私はこういう事に関して嘘を言った覚えはないけど、それでも信用できない?」

「信用は……してる。でも、私より可愛い子も優秀な子もスタイルがいい子も、この学校にはたくさんいる」

「そうかもしれない。けど、この学校の生徒よりも容姿に優れていたりする存在は、これまでの人生で幾度と見てきた。それでもそういう存在に心が動かされたことはない。君より世間的に見れば良い存在はいるのかもしれない。それでも私は君がいいと思って、一緒にいる」

「……なんで?」

「私が、素の自分でいられる存在で、素の自分でいたいと思える存在だったから。まぁ他にも色々理由はあるけどね。顔がタイプだったとか、性格が好みだったとか。それでも一番大きいのはこれだと思う。他に何かあるとすれば……幸せにしたいと思えたから、とかも該当するかもしれないけど」

 

 彼女は自分で聞いておいて恥ずかしそうにクッションに顔を埋めている。その仕草はいつになく可愛く見えて、私は彼女に近付けた。顔を上げたその綺麗な瞳が私を捉える。彼女の顎に軽く手をかけ、私の上に向ける。その意味を理解したのか、彼女は静かに目を閉じて唇を少しだけ前に出した。

 

 かつては怖いと言って未遂に終わったけれど、今回は彼女が望んでいる。それに応じるように、私は静かに彼女の唇にキスした。彼女の吐息がわずかに漏れる。これまでの人生で一番、この時が幸せに思えて。

 

 時間が止まってしまったとしても、きっと私たちはそれでも構わなかった。




メリークリスマス! プレゼント代わりの投下です!
多分この章はこれで終わりか、次の話があるかですね。いずれにしろ、あと少しで終わりです。
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