『毛沢東』
「やり方はシンプル、脅しをかけます。この理不尽な試験を撤回させるように全校生徒の署名捺印を以て嘆願し、もしそれが叶わない場合は……全校生徒が揃って自主退学を行う、とね」
私の言葉に、場の空気が凍り付いた。その場にいる全員が大なり小なり目を見開いている。多くはきっと思っていたのだろう。何かしらの交渉を行うのだろうと。当然何かしらの交渉材料が存在しているのだろうと。ただ、その天秤に乗せられた交渉材料が彼らの想定外に大きかったのだ。
必要なのは敵の戦意を挫く事。敵にとって最も困るのは学校が消滅する事だ。この学校の創設に大きく携わった鬼島総理は、この学校の存在を自身の政治的な成果としている。つまり、学校が崩壊するようなことがあれば彼の政治生命には大きく傷がつく。そんな事態は到底望まないだろう。学校は生徒がいないと成立しない。教師だけいても、施設だけあっても、それは何の意味も持たない。生徒が全員辞める、という事態になればこの学校はおしまいだ。
この異常事態は必ず世間に露見する。来年からの運営も不可能になるし、進学予定を取り下げる受験生も多くいるだろう。そして学校はこれを阻止できない。なにせ、自由意志に基づく自主退学なのだから。それを禁止する契約を我々は学校と交わしていない。もし退学を拒んだ場合、それは憲法違反の可能性すら秘めた行為。そうなったらなったでまた国家賠償請求と違憲の可能性を訴える裁判を起こすだけだ。
「学校は生徒がいないと成立しません。我々は自身の進退をも駆け引きの材料として抵抗する。この抵抗を無視するというのならば、この学校は誰も生徒のいないただの空き箱と化すことでしょう。そんな事は誰も望まない。故にこそ、クラス内投票試験を撤回せざるを得ません」
「クハハハ! 相変わらずぶっ飛んでるなぁ、お前はよ。だが言っちまえばそれは全員で自爆特攻されるか試験を止めるか選べって突きつけるってコトだろ? そんなに上手くいくと思ってんのか。第一、上級生の連中がこれに付き合う義理が……あぁ、そういう事かよ」
「自分でお気付きになってくれたようで何よりです」
龍園は喋りながら上級生を協力させるための数少ない、しかし強力な論理に気付いたようだ。そして、それは既に坂柳が話している。
「ごめん、アタシはさっぱり分かんないんだけど……」
「つまりはですね、先ほど坂柳さんが説明してくださった通りなんです。その内容を覚えていますか?」
「えーっと、またおんなじような事があるかもって話だっけ」
「はい、そうです。その論理は二三年生にも適応可能なんです。だって、二年生や三年生も卒業直前にこんな試験を突き付けられる可能性が無いとは、誰も言えないですから」
イマイチ分かっていなかった軽井沢に、椎名が丁寧な説明をしてくれた。その分かりやすくかみ砕いた言葉に、軽井沢も納得の表情を浮かべている。同時にこの場の全員も改めて理解してくれたことだろう。私の持ち出した理論の強力さに。
「無いことを証明するのは難しい。そういう事だよね、諸葛君」
「はい。今椎名さんと一之瀬さんが仰ってくれた通りです」
ないことを証明するのは難しい。絶対にないと断言することは不可能だ。その観点から言えば、二三年生に我々が被ったような理不尽が今後降りかからないとは誰にも言えない。学校側がいかに否定しようと、信じられはしないだろう。なにせ、我々という前例が既に存在しているのだから。
「まずは二三年生に現状を知ってもらう必要があります。AクラスとDクラスが合同でビラを作成しています。また、学校の掲示板にも掲載するようの記事も同時並行で作成しています。真澄さん指揮の下でこれが完成し次第、学年全員でこれを上級生に流布します。特に櫛田さんや一之瀬さん、平田君と言った他学年からも知名度を集め、信頼を得ている方々には大いに活躍してもらう事となるでしょう。他の誰かならいざ知らず、あなた方なら信じる、耳を傾けるという生徒も多いはずです。何を言うかより、誰が言うかに焦点を当てる方は結構いらっしゃるので」
まずは状況をしっかり公表する必要がある。噂レベルではなく、事実を事実として理解してもらう必要があるのだ。そのうえで、私が最後に訴えかける。彼らの危機感に、不安感に。そういった感情を醸造するためにも、まずは情報を広めたい。今回真実は我々の味方だ。ただ事実を広めるだけで彼らの感情を動かせる。
やはり月城はあまりやる気がないと見るべきだろう。本当にやる気があるのはもっと上の連中だ。月城自身はそこまで賛成していないかどうでもいい。だからこそ、こんなに隙がある。他学年に流布したら退学など、団結を阻止するための措置を一切行っていない。試験を発表だけして、あとは生徒に放り投げている点からもやる気のなさを感じる。
もし、もっと綾小路個人を狙い撃ちにするのなら、投票対象を予め設定しておけばいいのだ。複数名をランダムで選び、その人物が退学に値するか否かを審査させればいい。退学させたら特典も付けるとなお良いだろう。例えばcpを+100とかだ。
そのうえでBクラスだけランダムではなくあらかじめ決まった人にしておく。ついでに最低一人は退学させねばならないとかも付けておけば完璧だ。三人くらい対象として、綾小路以外の対象を櫛田と平田にしておく。これで櫛田と平田は守りたいとクラスメイトが思うのは必然。となると、交友関係がそこまで広くなく、実力も全然出していない綾小路なら切ってもよいかとなるのは目に見えている。
と、言う具合に彼を退学させるのはそこまで難しくないのだが、そういう手段をとっていないという事はつまるところ、そこまで月城理事長にやる気がないという事。こちらが全校生徒の退学というカードを突き付ければ折れる可能性が高い。なにせ、やらない大義名分を彼は得られるのだから。
「まずは草の根運動からです。とにかく、今はまず真実を学校中に広めてください。正しい形で広めればそれで十分です。そして、投票の前日に私が全校集会にて訴えます。ここで一気に勝負を決めに行きましょう。皆さんの協力が不可欠です。よろしく、お願い致します」
私は静かに頭を下げる。龍園は鼻を鳴らしながら足を組んだ。不機嫌そうな顔だが、降りるとは言わない。櫛田も陰謀を諦めて次を待つことにしたようだ。他の生徒は全員協力するという意思を感じさせる視線になっている。これで一年生は取り敢えず大枠でまとまれた。それだけでも大きな成果だろう。この学年は、或いは入学して以来初めて呉越同舟であろうとも手を取り合えたのかもしれない。
そういう意味では、このふざけた試験の数少ない功績と呼べるかもしれない。だとしても敵であることには変わらないが。一銭も使うことなく、学校側に示すのだ。お前たちの求めた実力主義を結実させ、交渉材料を用意したぞ、と。彼らの教育の成果がこうしてカタチとなるのだ。彼らも感涙に咽び泣いてくれるだろう。或いは恐怖による涙かもしれないが。
ひとまず生徒間の連携に関しては目途がついた。あと数日という短い期間ではあるが、着実に活動を行えば成果を出してくれるだろう。作戦段階は次のフェーズへと移行している。学校は生徒がいないと成立しない。だが、教師がいれば来年以降の運営が可能になってしまう。そこで、教師もいなくなる状態を出来る事ならば作りたい。全員は無理かもしれないが、一学年だけでも同調させることが出来れば、大分効果はあるだろう。
「という事で、今回の試験を考案した勢力を合法的に恫喝する方策で対応を進めています」
「……そうか。お前たちのやりたいことは分かった」
真嶋先生は難しい顔をしながら頷いた。その顔には深い隈がある。ここ数日寝れていないのだろうというのが如実に伝わる。それくらいには我々生徒の事を考えてくれているのだろう。やはり、一学年の学年団の中では彼が一番信用できる。一番優秀な教師をAクラスに配置したのだろうけれど、今はそれがとてもありがたいことだった。教師が味方にいるというのは大きい。
「生徒たちは皆それに同意しているのですか?」
「リーダー格の生徒は同意してくれました。各クラスの個別の対応は彼らが行っていますが、今のところ反対者はいないとのことです」
「なるほど……」
坂上先生は眼鏡をクイと上げた。その鋭いまなざしで何かを考えている。おそらく、自分たちがどういう風に振舞うか、という事についてだろう。
「しかし、そんなに上手く行くだろうか。職員会議であの新理事長を見たが……食わせ者という印象を受けた。それに学校側に全面戦争を挑むというのも……」
「出来ないとお思いですか?」
「難しいと考えているが、逆にお前は違うのか」
茶柱先生はいぶかしむような口調で私に尋ねた。
「違いますね。私は出来ると思います」
「その根拠は?」
「逆に何故出来ないと? 学校という体裁を取り繕わないといけない以上、彼らは特別試験の形態をとらざるを得なかった。そのうえで、対応の時間を与えてしまった。今回私がやろうとしているのは、その体裁そのものを崩壊させかねない手段です。運営の一環として退学者を出そうとしたのですから、その運営を破壊してしまえば必然的に退学者を出す必要性もなくなりますからね。失礼ながら、茶柱先生や他の先生方の多くがこの学校出身であるがゆえに、潜在意識まで染め上げられてしまったのではありませんか? 学校に逆らう事は出来ないのだと」
「奴隷根性を植え付けられたと、そう言いたいのか」
「言葉を選ばないのであれば」
愕然とした顔で茶柱先生は黙り込む。星之宮先生も同じような顔をしていた。真嶋先生は苦々しい顔になっている。どこかしらで皆、感じている部分はあったのだろう。我々生徒は外部と接触できないが、教師はその制約が緩い。地元の友人、世間の声、そういうモノは否応なしに耳に入っていたはずだ。今まで見ないようにしていただけで。己のズレに今直面させられている。
「三年間かけてじっくりと醸造されたのですよ。特別試験や多くの理不尽、過酷な環境の中で、それを強いる者たちには逆らえない、与えられた困難に対処するしかないという考えが。ですがそれは正しくない。困難は与えられる前に破壊することもできますし、真正面から向き合わないという方策だって存在する。逃げる、と言うのも手であり、強いられたのならば抵抗するというのも手なのですからね」
「そういう側面があることは……否定できないだろう」
真嶋先生は苦しそうな声で言った。己の過ごした青春が、奴隷育成のための時間だったとは誰も思いたくないだろう。その気持ちは理解できる。だが、彼らは大人だ。確かに大人だって救われてもいいとは思う。けれどそれは、まず救うべき子供たちの後であるべきだ。何故なら、彼らは教師なのだから。子供を導く存在なのだから。理由はどうあれ、同機はどうあれ、経緯が何であれ、彼らは教職を選んだ。その責務は果たさなくてはいけない。
「私はあくまでも戦いを選びます。この理不尽に対し、抵抗します。私はこの学校の教育方針に対し宣戦布告します。必ず、私の生徒を揃って、笑顔で卒業させるために。卒業式の日に、誰一人として欠けることなく卒業証書を受け取り、笑顔で集合写真を撮って解散するために。そして至極個人的な理由ではありますが、私の愛する
「……諸葛」
「はい」
「お前は、愛する者とクラスと、どちらか選ばなくてはいけない状況で、どちらを取る」
「その選択肢自体がナンセンスですね。そんなことになる前にどうにかしますし、万が一そんなことになったら全力で抵抗するでしょう」
「それも叶わなかったら、ということだ」
「っ、それって……!」
星之宮先生が驚愕した顔で茶柱先生を見ている。多分、何かしら二人の過去に関係していることなのだろう。推察するに、私に問いかけたような状況がかつて茶柱先生の身に降りかかったのだと思われる。その辺は生徒会長ならば知っているのかもしれないが、私には興味のない事だった。だが、答えは決まっている。
「後者を選びます」
「……クラスを取ると?」
「えぇ。だって
茶柱先生は唖然とした顔で私を見つめている。パクパクとした口は魚のようだった。
「それが、お前たちの道か」
「はい。歪みながらも進む道です」
「……そうか。もしお前が我々の頃にいたのなら、きっと違う結末だったのかもしれないな」
「もう過去は変えられません。人間は後悔を抱えながら生きていくしかないのです。次に同じ後悔をしないために。過去は変えられずとも、未来は変えられる。だからこそ、力を貸していただきたいと思い、ここでこうしてお話ししています」
「……」
茶柱先生は静かに目を閉じた。それを横目で見ながら、真嶋先生が決意を込めた瞳で口を開く。
「分かった。お前にこれを預ける」
彼が懐から出した紙には辞表と書かれていた。
「お前たちの嘆願書と一緒に出してくれ。今回の試験が挙行される場合、俺は自らの信念に従って教職を辞する。元々ある程度その覚悟ではあったが、お前の言葉を聞いてそれが決意に変わった。俺の命運も共に託す」
「ありがとうございます」
坂上先生ははぁ、とため息を吐いて、再度眼鏡をクイと動かした。
「仕方ありません。この試験は私にとっても不本意極まりないものです。同じように預けるとしましょう。流石に辞表は用意していませんので、後でお渡しします」
「坂上先生も、ありがとうございます」
「分の悪い勝負かもしれませんが、勝っていただきたい。私も失職したくはありませんので」
「無論です。負けるつもりで戦に挑んだりはしませんので、ご安心を」
これで学年団の半分は味方になった。まずまずの結果である。後は女性陣がどうするのか。私の視線に気付いた二人は、目を泳がせている。だが先に結論を出したのは茶柱先生だった。
「……分かった。私も二人に同調しよう」
「よろしいのですか?」
「あぁ。……いい加減、私たちも前に進むべきなのかもしれない。そう、思ったからな」
「ありがとうございます」
「ふざけないでよ、なんで勝手に終わったことにしようとして……!」
「知恵。私たちはもう、高校生ではないんだ。高校生には、なれないんだ」
星之宮先生の顔が苦しそうに歪む。彼女も同情するべきところが無いわけでもない。だが、だとしても今の彼女は教師だ。生徒を救うことを優先してもらわなくては困る。ここで同調することが、彼女が教師として最低限の尊敬を保つための最低条件だろう。もしここで拒めば、勝利した暁にはDクラスは愚か学年中からの信頼を失う。もはや彼女を教師と思う人間はいなくなるだろう。
「分かった、わよ」
「感謝いたします。先生方の想いは確かに受け取りました。頂いた支援を無駄にせぬよう、必ず勝利致しますので、どうか吉報をお待ちください」
「お前も、無理はしないようにな」
真嶋先生の私を気遣う言葉に少し驚きながら、私は口角を上げる。
「お心遣い、ありがとうございます」
ピースは揃いつつある。上層部は思いもしないだろう。こんなにも反乱の芽がすくすくと育っているなどとは。彼らが今まで無思慮に行って来た理不尽が、圧政が、押さえつけがここにきて噴出している。たまった恨みや憎しみや不満は、時を超え形を変えて必ず牙をむく。彼らに報いの時が訪れるのは、もうまもなくだった。
草の根運動は順調に成果を出した。その日のうちに学校の掲示板用の記事とビラを作成したAD連合は、ビラを印刷し、各々が宣伝活動を行った。普段あまり使われていない二三年生の寮のポストに全部屋分投函した。これで一応全員に行き渡ったことになる。
そのうえで、ケヤキモールなどでも街頭でビラを配り、部活の最中などにも話してもらうようにした。昼休みの食堂なども使っているし、全校放送でも説明している。こういったビラ配りなどは忌避される可能性もあったが、一之瀬や櫛田、平田などの美少女やイケメンたちがやっているというのに釣られた上級生が多い。
いずれにしても、こうして少しずつ、しかし着実に情報は広まった。全校集会を行う予定の日には、恐らく学校中の全生徒が一年生の直面している事態に対して情報を得ただろう。それに対する反応はまちまちだ。関係ないと思う者もいるし、憤る者もいる。前者を味方に変える作業が、これから行う集会での訴えだった。
場は生徒会が貸してくれている。南雲はお手並み拝見という事で訴えをすることを許可してくれた。先代の堀北学も、協力できることがあればやぶさかではないという姿勢を見せてくれている。これは一之瀬と葛城が生徒会で真面目に活動していたからだろう。彼らのこれまでの努力がきちんと堀北学の目にも入っていたのだ。
急な全校集会に会場はざわざわとしている。特に一年生は明日が投票予定日なので余計に落ち着きがない。私の計画は説明しているが、本当に上手くいくのかの確証は誰も無い状態だった。それでも私を信じるしか道が無いと考え、多くの生徒がここに集まっている。喧騒に満ちた会場の演壇に、私は昇った。不安げにこちらを見つめる一年生たちの視線が刺さる。こんな顔を、生徒たちがしていいはずがない。静かに一度目を閉じる。そして、怒りを燃やして見開いた。
「お集りの諸君」
私の声に、会場にあったざわめきが次第に静かになっていく。そして、数拍の沈黙の後に会場は静寂に包まれた。全校生徒が私に視線を送っている。演説は慣れたものだ。将の役目には、出兵に際して檄を送るというモノもある。士気の向上のためには欠かせない業務だ。どういう声で、どういう話し方で、どういう身振り手振りで。
「我々は今、多いなる危機に瀕している」
低く、深い声で私は語り掛ける。普段の声はもっと女声に近いハイトーンなので、これを聞いているクラスメイトは少し驚いた顔をしていた。危機感を煽り、団結を生むためには、声は深くなければならない。
同時にパッと会場の電気が消えた。カーテンは閉められ、部屋は暗黒に包まれる。そして、スポットライトの光が私だけを照らした。観衆には、暗闇の中で光り輝く私の姿が見えるだろう。これも視覚的な効果を利用した。この場の暗闇は、一年生を筆頭とした生徒たちの心にある不安や恐れだ。それを変える光として、私を印象付けるために仕込んだ仕掛けである。
「再度繰り返そう、我々は今、大いなる危機に瀕している。何の危機か? それは、自由と尊厳と未来の危機である。諸君も知っての通り、先日、一学年に対し理不尽極まりない試験が実施されるという通告があった。退学者が出ていないという誇るべき事態に対し、学校は愚かにも退学者を強制的に出すための試験を作成した。これがいかに愚かしい事か、賢明なる諸君ならば言わずとも既に理解しているだろうけれども、私は敢えて口にしたい。水準を満たせず退学になるのと、水準を満たしているのに退学にさせるのとでは天と地ほどの差がある。しかも、その水準は、基準は彼らが作成したものであるのだ。これを矛盾と言わずして、何と呼ぼうか!」
私の声が会場を震わせる。この場にいるすべての生徒が、その思想信条に関係なく私の言葉を聞いていた。私に視線を向けていた。誰も声を発しない。誰も音を立てない。静かに、私の放つ訴えを受け止めている。
「我々は、これに対して断固たる抗議を、抵抗を行わねばならない。これを見逃すことは、今後我々があらゆる理不尽に対し無力であることを宣言することに他ならないからだ。誰に対してか? それは我らの敵、すなわち我らのこのような理不尽を強いた愚か者たちである! 我らの敵は、他クラスではない! 我らの敵は、他学年ではない! 我らの敵は我々自身の中にいるのではない。我らの敵は、既に我らの知るところにいる。我らの知る存在である。それは、我らの戦いを愉悦の嘲笑を浮かべながら昆虫観察の如く見ている管理者、つまりはこの学校の運営陣なのである!」
ここで敵を明確に定義する。これまでの対抗心を一度捨てさせ、恨みを流させ、大きな敵の前に大同団結させなくてはいけない。そのためには、大きな敵が必要だ。どの学年も、どんな生徒でも一度は苛立ちや理不尽さを、不満を感じたことのあるであろう相手。つまりは学校の運営陣。これを敵に設定する。かつてヒトラーはユダヤ人を敵とした。それと同じことを、私はここでしている。
「一学年は既に、一つの策に己の命運を預ける事で合意した。それはすなわち、この試験の実施撤回要求を行い、認められなければ直ちに全員が自主退学を選択するというモノである」
二三年生のエリアからざわめきが生まれる。流石にこれは衝撃だったようだ。二三年生にとって、この言葉は一年生よりもずっと重いだろう。これまで仲間を何人も失った。それもこれもすべて、ここで生き残るため。だからこそ、自主退学と言う言葉は重たい。それを交渉材料にするという発想は、彼らの中には生まれにくいもののはずだ。
「そして、私は諸君ら二三年生にもこれに同調してくれることを望んでいる。すなわち、全校生徒の自主退学を交渉材料として、この試験を撤回させるのである!」
なんでそこまで……、という呟きが誰かの口から洩れた。そこまでしないといけない道理など、一見他学年には存在しないように見える。だからこそ、その認識をひっくり返さないといけない。そのためのこの場だ。演説は、ここからが本題である。
「諸君らの中には、特に二三年生には、今回の試験など所詮は対岸の火事と思う者もいるかもしれない。何故一年生のために己の運命を懸けなくてはいけないのか、と。そんな者たちには、この言葉を紹介しよう。ドイツのルター派牧師であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉である。それはこういう言葉である。『ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった』」
ナチスに影響を受けた演説をしながら、反ナチスの言葉を引用するのも皮肉めいていた。
「この言葉を引用した意味を、賢明なる上級生ならば既に理解しておられるだろう。我々一年生をここで見捨てることは、非常に容易い。誰にでも簡単にできる。ただ、今すぐにここより去ればいいのだから。私はそれを止めはしない。私の言葉に耳を傾けるのは時間の無駄だと思うならば、ここから去ると良い。そして、この先己の身に我々が瀕しているような理不尽が降りかかることを良しとする者も、ここから去ると良い!」
潮目が変わった。そういう感覚がある。どこか他人事だった上級生が、私の言葉を真剣にかみ砕こうとしている。聴衆のそういう意識の変化を、演壇にいる私が一番感じ取っていた。
「今回のこの愚かしき試験は、退学者がいないからという理由で行われた。それと形を変えた理不尽な試験が、今後上級生にも適応されないと、どうして言えるだろうか!? さぁ間もなく卒業だと思ったある日突然、その運命を狂わせる理不尽を強いられるのだ。諸君らは抵抗も出来ず、反抗する事も出来ず、恐れ慄きながら挑むだろう。その末に友を、仲間を、愛する者を、そして自分自身の運命すら、失うことになるのだ! そしてその時嘆くだろう。あの時、私の言葉に耳を傾けていたのならば、もっと違う結末があったのではないかと、全てが手のひらから零れ落ちてなお! 思い続けるのだ!!」
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす。私は熱を込めて、声高らかに言葉を紡ぐ。
「我々はただ、一番最初にこの不条理な運命に直面させられたにすぎない。ただ運が悪かっただけ、ただ順番として一番最初だっただけである。次はあなたかもしれない。そこのあなたかもしれない。そちらのあなたにかもしれない。そこのクラスにかもしれない。誰に降りかかるかなど、分かりはしない。だからこそ、今この試験を実施させてはいけない。成功させてはいけない。前例を与えてはいけない! 我らの敵の腐った思惑を、ここで打破するのだ。我らの手で、我ら自身の怒りで、断固として徹底的に容赦なく! 我々の尊厳を踏みにじり、我々の自由を奪い、我々の未来を閉ざさんとする悪なる者たちに正義の鉄槌を下さなくてはならない! それこそが、真に優秀になるべき者としてここに集まった諸君らの使命である!」
正義。それは人に甘美な誘惑を与える。誰だって正義でいたいのだ。誰だって正義の側に立ちたいのだ。正義の名のもとに、敵を糾弾したいという欲望は、多くの人間の心の中に眠っている。だからこそ、私は彼らに正義の旗を与える。その旗の名のもとに、この戦いを正当化してもらうために。
「我らが一つにならなければならない理由が、伝わっただろうか。私の怒りが伝わっただろうか。私は怒っている。このような手段で我らの未来を、何よりも希望に満ち溢れているべき諸君らの未来を閉ざさんとしている者が、教育者としてふんぞり返っていることに怒っている! 私は、彼らが我らに強いたこの蛮行に、糾弾を以て応える。どうか、心ある諸君には私に力を貸してほしい! これまで一度でも、この学校に不満を覚えた者も、どうか力を貸してほしい! 諸君が、権力者のモルモットでないと思うのなら、どうか手を取ってほしい! 私が率いよう、私が統べよう。我らの嘆きと怒りは、必ずやかの邪知暴虐なる者共にも届くであろう。そして、彼らは我らの怒りの大きさと強さに慄く。傲岸なる者共を、冷酷なる者共を、我らはその座より引きずり下ろすのだ! 我ら一人一人の自由と、未来のために! これは、我らの未来を取り戻す戦いである!!」
パチパチパチ、と誰かが手を叩いた。それが一年生なのか、あるいは他学年なのかは分からない。しかし手は叩かれた。それは段々と大きく、うねりを伴いながら会場を満たした。一分もしない間に、この会場で手を叩かない生徒はいなくなっている。学年も性別も思想信条も経験も関係なく、この場にいるすべてが手を叩いていた。
会場には興奮が漂っている。熱に浮かされたような瞳が幾つも私に向けられている。最後の畳みかけをするならば今だった。
「この喝采に、私は感謝したい。この音こそは、こんなにも多くの生徒が、こんなにも多くの同志が私の言葉に賛同してくれたという証左に他ならないからである。同志たちよ、今ここに私は、今回のみならずあらゆる理不尽に対し対抗する全校生徒による高度育成高等学校生徒統一戦線の結成を宣言する! 共に戦おう、我らの未来を掴み取るために! 理由など何でもよい。学校への怒りからでも、理不尽への憤りからでも、この闘争への愉悦からでも、愛する者を守らんとする心からでも、なんであろうと構いはしない。ただ今この時だけ、一時だけあろうとも、我らは同じ敵に対峙し、そして手を携えて戦い抜くのだ! 我らが勝利するために、より良い未来を掴み取るために。現在3月6日15時35分、これより反撃を開始する!」
「「「オー!」」」
男女の入り混じった憤激の声が響き渡る。私の演説に応えるように、万歳と叫ぶ声や言葉にならない声がそこら中から湧いていた。この会場が揺れている。会場の熱気は最高潮だった。
成功。私はそう確信する。間違いなくこの訴えは成功した。彼らに敵が誰であるのかを植え付けることに成功し、学校に対する敵対に賛同させることに成功し、そして私の計画に同調させることに成功した。この後、二年生には生徒会長が、三年生には堀北学が主導で各自の署名捺印をしてもらう紙を配ってもらう。その紙にサインをさせ、全校生徒が今回の試験の撤回を要求し、受け入れられない場合は自主退学することに同意した状態を作る。これで以てこれより月城との交渉を行うのだ。
あくまでも演説は前段階に過ぎない。今日の本番はここから始まる。ともあれ今は私の言葉が届いたことに安堵することにした。軍人ではない彼らにどこまで刺さるのかは不明だったが、少なくともこの感じを見るに問題なく作用したといえるだろう。多少は反感を覚える者もいるかもしれないが、言っている内容の正当性は理解するだろうし、同調圧力もかかるはずだ。これにより、色々と内実は複雑であろうとも、全校が一致団結した状態が一時的にでも作成される。そして、これが反撃において最も重要な事であった。
私は大きく頭を下げ、静かに演壇を降りる。私の姿が舞台袖に消えるその瞬間まで、いや消えたその後も歓声や拍手の音は鳴り響いていた。
綾小路は手を叩いていた。諸葛孔明の演説に感銘を受けた……というわけではない。その論理構成であったり人を惹きつける話し方など、演説のスキルに関しては彼の知らない部分として大いに学ぶところであったからである。彼が手を叩いていたのは空気を読んだからが三割、残りの七割はこの手際と自分にはない才能を目の当たりにし、それに対しての敬意を持ったが故だった。
彼が演台を降りた後、南雲と堀北学がそれぞれの学年を代表して再度協力を宣言した。それも相まって、他人事のようにとらえていた上級生はその考えを完全に変えている。綾小路は、恐らくこの学校が始まって以来初めて全校生徒が団結した瞬間を目の当たりにしていた。そうさせるに至ったのが一人の男の手によるものであるというのは、彼をしても信じがたい事実。
Bクラスの生徒も多くが歓喜しながら手を叩いていた。退学しないで済む。誰も彼も、無事に終われる。その希望が見えていたことは、明確な指針を打ち出せるリーダーのいない彼らにとって大きな救いだった。山内は「流石師匠!」と叫びながら狂喜乱舞している。
それに加えて彼が驚いたのは、あの高円寺も手を叩いていたからである。一般生徒のように熱に浮かされているわけではないが、それでも傲岸に微笑みながら手を叩いている。
「意外だな、高円寺」
「何がかね、綾小路ボーイ」
「お前がこういうモノに心を動かされるとは思わなかった」
「私は幼い頃より人の上に立つ人間として育てられてきたからこそ、私にはこういう演説には耐性があるつもりだったんだがねぇ。中々心を震わせる言葉を紡ぐじゃないか。流石はミスターと言ったところだ。しかし、私も彼を幾分か勘違いしていたようだねぇ」
「勘違い?」
「私は彼をティーチャーだと思っていたが、その本質は
高円寺は不敵に笑いつつ、手を叩いている。非常に癖のある高円寺が素直に人を褒めているのが、綾小路からすると意外性に満ちている。
「お前にも、あれと同じことが出来るのか?」
「さぁ、こればかりは分からないねぇ。私と彼では上に立つという事に対する捉え方や経験が違うようだ。それに、彼からは貴種の匂いがする」
「貴種、というと」
「貴族や王族という事だよ、綾小路ボーイ。この国にはもうほとんどいなくなってしまった存在だ。後二年間の日々で彼を知れるというのは随分と楽しそうだ。この学校に来たのも、意味はあったねぇ」
「それに関しては、オレも同感だ。ここには、オレの知らないものがある」
綾小路は高円寺に同意した。ホワイトルームには無い価値観、出会えなかったモノがここにはある。想像の埒外からの戦略を打ち出し、多くを教え導き、大衆を動かす力のある諸葛孔明。YouTuberに転身し、あと数人でチャンネル登録者が一万人になる坂柳を筆頭に、それに影響を受けたAクラスの生徒たち。いずれも彼の凍り付いた心臓を動かすのには十分だった。