お昼休みにみんなで興じた缶けりサバゲーの後、昼休みの終了チャイムが今まさに鳴ろうとした間際。教室に戻ろうとした僕のところに沙耶はやってきて、去り際に僕の耳元にこう囁いた。
「放課後、裏庭で待ってるから。 二人だけで会いましょ」
僕が沙耶の言葉に返そうとすると、昼休みの終わりを告げるチャイムの音色がそれを遮った。
それだけを言い残し、沙耶は颯爽とまるで天の川のように流した長髪を靡かせて自分のクラスへと帰っていった。その後の午後の授業中の僕は、放課後が気になって待ち遠しくて仕方がなかった。
そして放課後。
HRを終えて、生徒たちがガヤガヤと教室を出て、ある者は残り、ある者はクラブ活動に出かけ、ある者は寮へと帰る生徒で溢れた。そして僕は真人に今日の野球の練習は用事で休むと伝えておいて、廊下に出ていく他の生徒に続くように教室を後にした。
学園の裏庭。そこに、一人の少女が、沙耶が僕を待っていた。
ここは人通りも少なくて陰がかかってじんみりとしたところだけど、それが逆に僕と沙耶の二人だけの空間のように感じてむしろ良い場所だ。他の人は立ち入らない、ここに来るのは僕と沙耶ぐらいの人間だけ。僕と沙耶だけの特別な場所。本当にそう言えるぐらい、ここの裏庭には彼女とのいろんな思い出があるんだ。
「沙耶。来たよ」
「…………」
「……沙耶?」
「―――へっ? あ、あぁっ! う、うんっ! お、遅かったじゃないの理樹くん! 女の子をま、待たせるなんて……ッ!」
「へ? あ、うん。 ごめん……」
「べ、別にい、いいいいけどねっ!」
どうしたんだろう。沙耶はずいぶんと動揺しているみたいだった。顔も赤いし、何をそんなに慌てているのだろうか。
「…………」
「…………」
動揺した姿を見せたかと思ったら、今度は黙りこんでしまった。顔が赤いのは変わりないけど、唇をむすっと紡ぎ、怒っているような瞳でテキトーな方向を見ている。
僕にとってなんだか耐えがたい空気だった。だから、僕はこの空気を溶かすためにも口を開いてみた。
「あ、あの……沙耶?」
「理樹くんっ!!」
「はいっ!?」
突然大声で名前を呼ばれて、僕はつい驚いてしまって何故かピシッと直立不動になってしまった。
「……ぁ」
パクパクと口を開閉するだけで、肝心の言葉が出ない。それに気づいた沙耶はますます顔を赤くして、僕に背を向けるとブツブツとどんよりオーラを放ちながら身を縮込ませてしまった。
「……こんなことも言えないなんてあたしってばなんてヘタレなのかしら……これが元スパイなんて笑わせるわね………言葉が出なくて口だけを動かしちゃうなんて私はどうせ金魚の末裔よ………ブツブツ……」
「さ、沙耶? とりあえずさ、自分を自分で貶めるクセはやめたほうがいいと思うよ…?」 「放っといて」
「いやいや……」
「……落ち着け、あたし。深呼吸よ、深呼吸……。スーハー……スーハー……」
深呼吸を始めた沙耶。そして深呼吸を終えるや、沙耶は自分の頬をパンッと両手で叩くと、赤くなった頬を向けて僕に言った。
「理樹くんっ! 落ち着いて聞いて!」
うん。沙耶も落ち着いて話してね。
「り、理樹くんをここに呼んだのは他でもないわ。 そ、その……本当は昼休みにも言おうとしたんだけど、というか実を言うと前々から言おうとしてたんだけど……今、言うね……」
何故かわからないけど、僕は沙耶がこれから言おうとしていることがとても大切なことで、聞き捨てることはしてならないと思った。
「あたしと、デートしない?」
それは、大好きな人が贈る、とても嬉しい最高の申し出。
「…………」
沙耶はそれだけを伝えると、顔を真っ赤にして視線をそらした。僕はと言うと、その言葉にただただ嬉しくて、胸の中に広がる温もりに浸っていた。
「……どう、かな」
沙耶がチラと視線を向けて、聞いてくる。
僕はどう答えるのか。
そんなの最初から決まっている。
「うん。 わかった」
「本当?」
「うん。 そういえば沙耶とはまだ二人きりになったことがなかったね。 よし、二人だけでデートしよう」
「……うんっ!」
その時の沙耶の満面で眩しすぎる、そして可愛い笑顔を、僕は忘れない。
そして僕らは初めてデートした。あの虚構の世界でも、沙耶が言うには訓練の後に羽を伸ばす意味でゲーセンに二人だけで行ったことはあるが、あの時はまだ僕たちは恋人同士ではなかったらしいし、ちゃんとしたデートというのは今までにやったことはないみたいだった。
僕はあの世界での記憶はあまり覚えていない。
でもむしろ僕はこれが初めてのデートで良かった。
だってもしあの世界で僕らがすでにデートをしたとすれば、今の僕はそのデートの記憶さえ忘れていたかもしれなかったから。
僕と沙耶は二人で街に出かけた。前にリトルバスターズのみんなで遊んだゲーセンにも行った。そこでやっぱり沙耶はクレーンゲームに夢中になって、あの時と同じくらいの量のぬいぐるみを取ってしまった。きっとここのゲーセンの店員は悲鳴を上げている頃かもしれない。
「ふふ」
可愛いぬいぐるみをたくさん取れて嬉しいのか、沙耶は口元を緩ませていた。
「満足?」
「いいえ。 まだまだ全然物足りないわ。 だってまだデートは続いているんだもん」
そんな沙耶の言葉に、僕も口元を緩めてしまう。
「……それとさ、実は僕さっきから気になってるんだよね」
「なに?」
「……沙耶、私服ないの?」
そう、沙耶は今も制服姿だった。ちなみに僕は普通の私服だ。沙耶とデートする前に、僕は一度寮に戻って私服に着替えてきたんだ。でも戻ってみると、沙耶は制服のままだった。沙耶も寮に一度戻ったはずなんだけど、着替えに行ったんじゃなかったんだと思った。
「……そ、そうよねぇ。彼氏は私服なのに彼女はいつもの制服っていうオシャレの欠片もないデートを舐めてる格好なんておかしいわよね。 どうせあたしは空気も読めないオシャレもできない駄目な女よ。 ほら、笑いなさいよ。 この無様な彼女を彼氏として笑っちゃいなさいよ。 そしてとことんいじめたら? ほら、笑いなさいよ。 あーはっはっはっ!」
「……沙耶って、やっぱりM?」
「さらに陥れることを言うなんてさすがあたしの理樹くんねコンチクショーッ! げげごぼうぇっ!!」
「わぁっ! 女の子がそんなのダメだよ!」
「ううう……。 し、仕方ないじゃないのよぉ……理樹くんとデートするのに相応しい服が見つからなかったのよ……。 やっぱりデートするからには彼氏には可愛いと思われる服装がいいじゃない? でも……デートを誘うことばかり考えててそこの所の準備が全然できてなかったのよ! あたしって本当に無様よね? 笑いたければ笑えば? ほら、笑いなさいよ。 あーはっはっはって!」
「いやいや……」
そっか、沙耶はそこまで僕とのデートを前から考えていたんだ。そこまで考えてくれていた沙耶の想いに僕は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
ちょっとくすぐったい気持ちになるけど、その気持ちが素直に嬉しい。
「でも、制服姿の沙耶も可愛いと思うよ」
「げげごぼうぇっ!」
「なんで吐くのさ!?」
「理樹くんが変なこと言うからよ!」
沙耶が顔を真っ赤にして、喰いかかるように僕に言葉を吐きかける。
「そ、それじゃあ僕、いいこと考えたよ! これから沙耶の服を買いに行こうよ!」
「はぁ?」
なに言ってんだこいつ、みたいな顔を遠慮なくぶつける沙耶だったが、僕は気にしないことにした。
「僕が見て一緒に選んであげるからさ」
「り、理樹くん……で、でも……」
「きっと沙耶が着るものならなんでも似合うと思うけどね」
「げげごぼうぇっ!」
また吐き出す仕草を見せる沙耶だったが、それが沙耶の照れ隠しであることは僕もさすがに理解していた。
そして戸惑う沙耶の手を引いて、僕たちは洋服屋へと足を運んだ。
女の子しか入らないような雰囲気が立ち込める店内。今時のファッションからお店のオススメ等、様々な服が飾られ、彩られている。僕は先導して、沙耶と服を選んだ。僕がこれいいんじゃない?という服を、沙耶は様々な反応を見せたが、一着一着試着室に持っていって全部着て試してくれた。次々と試着室の開くカーテンからいろんな服装で登場する沙耶は、やっぱりなにを着ても似合っていた。
「ど、どう……? に、似合う……?」
「うん。 とっても」
「そ、そう…。 良かった……」
「それじゃ、次はこれ」
「ま、まだ着るの? も、もう…っ。クス…」
最初は小恥ずかしそうにしていた沙耶だったけど、段々試着していくうちに慣れてきたのか、途中から沙耶もノリノリでまるで沙耶のファッションショーみたいになっていた。
フリルの付いたゴスロリみたいな服装から、ヘソを見せたちょっと大胆なものや、スカートが短いもの、地味な落ち着いた感じの服装まで、沙耶はどれも完璧に着こなしていた。
そして一時間後、いろんな服を着た中で選んだ一着を買って、僕たちはお店を出た。
「ありがとう、理樹くん」
「ううん。 でも本当に沙耶はそれで良かったの? なんだか僕一人が選んだみたいだったけど……」
「いいの。 だって理樹くんが選んでくれた服なんだから」
買った服が入った袋を抱えた沙耶は本当に嬉しそうだった。ぎゅっと抱きしめられる袋が羨ましい気もする。ちなみにゲーセンで取った商品は僕が抱えている。
「これで、次のデートはその服を着れるね」
「…………」
「楽しみだよ」
「そうね……」
寂しそうに微笑む沙耶。その瞳が何故か悲しい色に見えた。
夕暮れが降りかかってきたころ、僕と沙耶の影が長く伸びた。もうこんな時間なんだ、と僕は今さら気付かされた。服を選んでいて結構時間が経ったみたいだった。
ぎゅっ。
どちらともなく、僕と沙耶の影が一筋、繋がった。手のひらを握り合った僕たちは、互いに見詰め、微笑み合った。そして、僕らは夕日に向かって歩いていく。その暖かい手を繋ぎながら。
「ねぇ……理樹くん。デートの最後に観覧車、乗らない?」
沙耶が指さすほうには夕日の光を浴びて浮かび上がった観覧車の姿があった。この街のシンボルとしてある観覧車はカップルのデートスポットとしても有名だ。僕はすぐに頷いていた。
「そうだね。 行こう、沙耶」
「ええ、理樹くん」
夕日を浴びた二つの影が、繋がったまま観覧車のほうへと歩いていった。
観覧車に乗った僕たち。山に沈もうとする夕日の光が街をオレンジ色に染まり、上から見る景色は本当に素晴らしいものだった。
「綺麗ね……」
窓ガラスに手を当てて、街を見下ろした沙耶が呟く。
「夜だったらもっと素敵なんでしょうね……」
「そうだね。 でも寮の門限があるから、そんな時間帯までここにはいられないけどね……」
僕も沙耶と同じく窓ガラスの向こうに広がる夕焼けに染まる街を見下ろす。
「それは、残念ね」
「―――でも、学校でも素敵な景色が見られる場所、僕は知ってるよ」
「え?」
「だから今度、連れていってあげる」
「……ねぇ、理樹くん」
なに?と沙耶のほうに振り返ると、一瞬、ちょっとだけ寒気がするような風がザァッと吹き通ったような気がした。寒気といっても悪寒ではない。どこか神秘的な意味で。僕が見た沙耶は、夕焼けで茜色に染まり、美しく、まるで天使のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「……今度、じゃなくて、今夜行きましょう」
「……今夜?」
沙耶の神秘的な雰囲気に圧倒されながら、僕はなんとか言葉を返した。
「そう、今夜」
僕はまるで絶対服従を誓った主の前にいるかのように、従うしかない。
「今夜、あたしをそこに連れていって」
だから僕は、それを受け入れた。
僕と沙耶の初めての本当に楽しかったデート。でもまだ終わらない。夕日が沈み、どっぷりと闇が浸かっても、星空が輝いても、僕らはまだ寮に帰っていなかった。
ここは学校の屋上。本来は立ち入り禁止だけど、特定の人物のみの特等席となっている場所。
ここから見る景色はこの学園の隠れた秘密だ。屋上から見渡せる街の景色。そして上に広がる満天の星空。ここで、僕は誰かと一緒に過ごしたような気がするけど、思い出せない。でも、今は沙耶とここにいる。沙耶と一緒にいる。それだけで良かった。
「いい風ね……」
屋上に吹くちょっと冷たい夜風に揺られ、沙耶は髪をそっとおさえる。
僕はそんな彼女を見てどきりとなった。
「ど、どう沙耶?」
「そうね。 ここから見渡せる街の光景も確かに素敵だし、上の夜空も本当に綺麗」
沙耶は静かにそう言いながら、夜空を仰いだ。
僕はその時、何故か変な気持ちがふつふつと生まれてくるのを感じていた。
よくわからない。違和感。何とも言えないこの感覚はなんだろう。
それは何故か今の彼女を見て、感じるものだった。
柵のほうに歩み寄る沙耶に、僕も後に続く。柵に捕まった沙耶は、そっと柵の向こうに広がる街を見渡した。僕は、そんな彼女の姿を横から見詰めていた。
その時、沙耶の無機質な横顔から、言葉が紡がれた。
「……理樹くんはさ。 あの世界…あたしと初めて出会った世界のこと、覚えてるんだよね?」
唐突に言い出した彼女の言葉に、僕は内心少々戸惑いが生じたけど、表に出すことはなく、口を開いた。
「……少なからず、だけど。 でも覚えていない方が多いんだ、ごめん。 唯一はっきりと思い出せたのは、沙耶が好きだっていう気持ちだけなんだ……」
「ううん。 それだけで十分なの。 ありがとう」
「僕のほうこそ、こんな情けない僕を待っていてくれて、ありがとう……」
僕が思い出すまで、沙耶はずっと僕のことを待っていたんだ。沙耶より僕のほう大好きな人にお礼を言わなくちゃいけない人間なんだ。
「……理樹くん。あのね」
ドクン、と鼓動が高鳴る。胸が苦しくなるくらいに。
そしてさっきから感じた異様な違和感というか、言いようのない感覚。
これは、そうだ。嫌な感じだ。
僕はこの先の彼女の紡がれる言葉が、紡がれてほしくないような気がした。
「あたし、あの世界で何度もリプレイを繰り返したことがあるの」
「沙耶……?」
「何度も何度も死んで、また振り出しに戻る。どれもこれも同じ世界で、本当にゲームそのものなの。 どこも変わらない、まったく同じ世界」
この場の僕らがいる雰囲気がまったくの別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
「あたしは何回、何十回、百回と繰り返される世界に飽き飽きしてたの。本当にウンザリして、今やってるゲームを途中で捨てちゃいたいぐらいに。 でもね……ひとつだけ違ったの。 世界は何度やっても同じでも、それだけがいつも少しずつ違っていったの」
僕は沙耶の言っていることが半分も理解できていないと思う。でも、僕の耳にはすんなりと沙耶の言葉がよく通って聞こえる。
「それが、あなたなの。理樹くん」
「……………」
「リプレイを繰り返す世界は同じでも、理樹くんだけは違ったの。いつも別の世界での記憶を微かに覚えてくれているみたいな仕草を見せてくれたし、世界が変わるごとに連れて成長の速度も上がっていった。そして何より……あたしのことを僅かにでも覚えてくれた、好きだって言ってくれた、あの世界のときは本当に嬉しかったの」
沙耶の瞳の緑に、じわりと滲む雫があった。
「そしてあたしの胸の中も変わっていった。世界を繰り返すたびに理樹くんへの想いは膨らんでばかりで、どうしようもないくらいに理樹くんのことを好きになってたの」
「沙耶……」
「あたし、理樹くんが好き」
正面に振り返った沙耶の顔が、間近に見える。
「大好き」
柵にかけていた沙耶の手が離れ、その手が僕の胸にあてられた。そしてスッと距離を縮めた沙耶の唇が僕の唇を塞いだ。驚くくらい柔らかくて暖かい唇から、沙耶の小さな舌が入ってきて、お互いの舌が求め合うように深く絡み合った。
紡ぎ合った唇を通して絡み合った舌はお互いの存在を確かめあうように絡め合い、相手の蜜を味わい、相手を感じる。どのくらいの時間が経ったのか忘れる程に。相手を感じるその感覚すら溶かすようで、頭の中が真っ白になる。深く絡み合い、互いの吐息がかかる。唇を離したお互いの唇と唇の間から、白い線が細く引いた。
まだ頭の中がぼやけている感じの中、僕はぼうっとしたように沙耶を見下ろした。ほのかに頬を朱色に染め、柔らかかった唇を煌めかせた彼女を見て、本当に愛しいと思えた。
僕は彼女が愛しくてたまらなくて、彼女を抱きしめた。
僕の胸から沙耶の声が聞こえる。
「……好きなの」
「うん。僕も好きだよ」
「……大好きだから」
「うん。僕も、沙耶が大好きだ」
「………ねぇ、理樹くん」
「なに?沙耶」
僕は沙耶を見る。僕の胸から顔を離した沙耶は、口をゆっくりと開いた。
それは―――
「……あたしの本当の名前で、好きだって言って」
「………………」
沙耶。
これは彼女の本名ではない。
あの世界で過ごした彼女との記憶では、僕は彼女を確かに沙耶と呼んでいた。
しかしそれは、虚構世界での、虚構の名前。
でも、知らないわけじゃない。
沙耶とまたこの世界で出会ったきっかけになった生徒手帳にちゃんと彼女の名前は書いてあった。確か、あの時見た名前は確かに沙耶ではなかった。
「…………」
あれ。
おかしいな。
なんで思い出せない?
確かに“沙耶”ではない名前を僕は見たはずだ。
なのに、何故思い出せない?
じゃあ僕に問おう。
何故僕は彼女と出会ってから、“沙耶”としか呼んでいない?
他のみんなは確かに沙耶を別の本名で呼んでいた。
……本当にそうだったか?
よく思い出してみろ。
僕が沙耶と呼んでも、みんなは何も言わなかったじゃないか。
あれ。でもみんなはちゃんと沙耶のことを沙耶じゃない本名で呼んでたよね。
……本当か?
それは正しい記憶なのか?
もしかしたら思い違いじゃないのか?
いや、確かにそうだったんだ。
でも、あれ……?
なんで……?
どうして?
なんで、こんなことも思い出せない?
「………………」
僕の信じられないと言ったような蒼白な顔を、“沙耶”は悲しげな表情で見詰めていた。
「……もう、いいの。理樹くん」
頭をおさえる僕の手に、そっと沙耶が手を触れる。
「私、もう十分だから」
「……そんなの」
「もう、十分だよ……」
その時、僕は咄嗟に異変に気付いた。どうしてかわからない。ただどうしてか気になって僕はここから見渡せる街の光景に視線を移した。屋上から見渡せるはずの街の光景がまるで霧のようにスーッと透けるように消えていく。
夜空もまたその星空の輝きを失い、徐々に真っ白な世界へと変えていった。こんな非現実的な現象が起きるはずがない。
いや、僕はこの世界を―――知っている…!
あの時と、同じだ。恭介の声に背を押され、鈴とともに校門を駆け抜けたあの時と……!
「―――沙耶ッ!」
僕は沙耶のほうへと振り返った。沙耶は……寂しそうな表情で、そこに立っていた。
「私ね……約束を果たしたくてこの世界をつくったの」
「沙耶、そんなのって……」
「理樹くんは覚えてないかもしれない。 でも、あたしははっきりと覚えてるの」
約束。
それは、本当に大事な、かけがえのない約束。
「あの時、時風を追う間際に、約束した……」
「……………」
僕の脳裏に、一瞬の電流が走った。そして火花が散ると同時に、彼女の言葉が真っ白な景色から浮かび上がる。
―――いつか連れていくからね、デート。だから待ってて―――
「―――ッ!!」
「……最後に理樹くんと約束通りにデートできて良かったわ。ありがとう」
「さ……」
いつの間にか僕たちの周りのすべてが真っ白な世界に覆われていた。霧のような白があたりを包んで、それがすべてを消しているかに見えた。
そして、沙耶も……
「今なら言えるよ。口が裂けても言えなかったこと」
「いや、口裂けるかもしれないけど」
「裂けてもいいから言うよ」
白い霧に覆われ、ゆっくりと遠ざかっていく沙耶の姿。真っ白になっていく世界に、大切な人が消えていく……。
「ばりばり裂けるよ」
「血だらだら流れるよ」
「それでもいいから言うよ」
彼女が、僕のもとから消える――
「心から……好きだよって」
もう見えなくなった彼女の姿。だけど彼女の声だけは最後まで聞こえていた。
「沙耶ぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁっっっ!!」
彼女を必死に呼びかける僕の声を最後に、世界は終焉を迎えた。そして僕は結局あの世界と同じだった世界から、今度こそ本当の現実世界へと引き戻されていった。