沙耶アフター -Saya's Song-   作:伊東椋

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本作は、原作のネタバレを含みます。ご注意ください。


Riki.少女の名前

 僕の目の前には、横倒れになったバスがある。

 それは、まるで非現実のような光景だ。

 しかし紛れもない現実なのだ。

 崖から転落した修学旅行生用のバスは火の手をあげて燃えている。そしてその周りには散乱した学生たちの私物やバスの窓ガラス、破片、色々なものが散らばっていた。

 僕と鈴は必死にみんなの救助に専念した。バスが転落して、僕たちはこことは違う別の世界で、僕と鈴が成長するきっかけをもらった。そして僕たちは強く生きることを誓って、ここに戻ってきた。

 横倒れになって燃えているバスの中に残っている人間は一人もいない。ガソリンに炎が引火するのを止めていた恭介は、みんなの最後にバスから離した。

 だけど恭介の身体は予想以上にひどかった。シャツは恭介の血で真っ赤に染まり、素人が見てもかなりの出血量だというのがわかる。

 こんなに血を出しちゃ、死んじゃうんじゃないか……と、僕の背にゾクリと悪寒が走る。

 鈴は僕の肩越しからぐったりしている血だらけの恭介を見て、まるで子猫のように震えている。鈴の「理樹……」という震える声が僕の耳に聞こえた。

 「恭介が……恭介が……」

 「落ち着いて、鈴。 大丈夫、心配しないで」

 青ざめた顔で、恭介を見て震えている鈴の肩に手を添えて、僕は鈴の正面から出来るだけ優しく声をかけた。

 僕の声にすこしは安心したのかどうかはわからないけど、鈴はとりあえずコクリと頷いてくれた。

 そして絞り出す声で、鈴は言う。

 「……頼む、理樹。 恭介を……助けて、くれ……」

 「大丈夫! 僕が助けるよ! 恭介は絶対に助かる!」

 「ホント……か?」

 「もちろん。だから、鈴も恭介が助かるように祈ってて。 僕も、恭介を助けるよう頑張るから」

 「……わかった。 神様に……祈る……」

 「そう。神様に祈ってて」

 「恭介……ッ」

 鈴はぎゅっと手を合わせて、震える声で顔を俯けた。本当に神様に祈るように、手を込めて、祈り続ける。

 僕は再び恭介のほうに振り向いた。とりあえず、恭介には止血が必要だ。その出血をまず止めなくては、身体からどんどん大切なものが失われてしまう。

 「何かないか、何か……」

 僕はなにか傷口をふさぐものがないか探す。布でもなんでもいい。とにかく、なにか血を止めるものを……!

 「悪いんだけど、鈴! 一緒にあの中からなにか布みたいなものを探してくれないかな。 とにかく血を止められるものを……!」

 「わかった!」

 横転したバス。散乱した生徒の私物やガラスの破片。そして漏れ出たガソリンの川。いつ引火して爆発してもおかしくない危険な場所だ。だけどあそこに戻らなければ、恭介は助からない。

 「……いや。鈴はここにいて」

 駆けだそうとした鈴を、僕は手で制する。

 「なんでだっ! 早くしないと恭介が……ッ!」

 あの惨状を見て気付いた。いや、最初からわかっていたはずだった。あそこにはガソリンの川が流れている。それも、さっきより明らかに量を増している。

 危ない。あれが爆発したら、本当に助からない……。

 そんな所に鈴まで連れていくことはできない。だから僕は一人で行くことにした。

 「僕が……」

 今にも爆発してしまいそうなところに飛んでいき、目的の物を探す。あそこなら絶対にあるはずだ。

 僕が地に足を踏みしめ、今まさに駆けだそうとしたとき―――

 

 

 「あなたが行くことはないわ」

 

 

 誰かの、どこかで聞いたような、そんな少女の声が聞こえた。

 「―――え?」

 振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 僕と同じく驚いてその娘を見ている鈴と同じ僕たちの学園の女子の制服を着ている。金髪の長髪が揺れ、鳥のような白い羽が目立つ。青空のような純粋な蒼い瞳。僕はこの瞳を見たことがある。いや……彼女自身を知っている気がした。彼女の陶器のような傷一つない白い肌が、僕たちのバスに乗っていないことを物語っている。

 「……間に合って良かった」

 彼女はボソリと呟く。

 僕が彼女のことを思い出そうとする直前、目の前に白いものを差し出されて、一瞬だけ思考が止まった。

 「これを使いなさい」

 それは探し求めていたものだった。

 それのおかげでなんとか恭介の傷口に巻きつけ、止血することができた。これで恭介もきっと助かる。みんな、無事だ。

 僕は少女のほうに振り向く。少女は無表情に、黙って僕の顔を見返した。お互いになにも喋らない。僕はただ、少女を観察した。

 本当にどこかで見たような容姿。その顔。だけど、思い出せない……。さっきは思い出せそうだったのに、何故か今となっては記憶がおぼろげだった。

 そんな僕の顔を見て、少女はすこしだけ唇を噛んで俯く仕草を見せた。

 「ど、どうしたの……?」

 「……なんでもないわ」

 顔を上げた少女は、気の強い表情に戻っていた。

 聞いたことのある声。だけど思い出せない。

 「あの……。 さっきはありがとう」

 「……………」

 何故だろう。彼女はすこし悲しそうな目をしていた。

 なにか言いたげに彼女は口を開きかけるが、止めた。

 そういえば彼女はなんでこんなところにいるのだろうか。見るからに彼女はクラスでは見かけたことがないから、おそらく別のクラス……つまり、僕たちのバスとは別のバスに乗っていた子だろう。

 もしかして、僕たちを助けに一人でここまで来てくれたのだろうか……?

 気がつくと、彼女は背を向けて立ち去ろうとしていた。僕は慌ててその背中に呼び掛ける。

 「あっ。 ちょっと待ってよ!」

 「……もうすぐ救助が来ると思うわ。 あと少しだけ我慢してね」

 「そうじゃなくて、きみはどこに行くの?」

 「……これ以上は用はないからね」

 「でも……」

 「……またね、……理樹、くん……」

 彼女はそう言って、僕を一瞥――またその悲しそうな目で――してから、その金髪の長髪を靡かせて去っていった。最後に小さくなった彼女の声が僕の名前を呼んだ気がしたけど、僕はずっと、その場に立ち尽くして彼女の背を見送ることしかできなかった。

 

 

 その後、彼女の言う通り時間がそんなにかからない内に救助の人たちがやってきてくれた。僕たちは全員助けられ、町の病院へと搬送された。

 恭介が重傷だったけど、献上的な応急処置のおかげで命に別状はなかった。僕や鈴をはじめとして、事故にあったクラスメイト全員が病院に入院することになった。

 恭介はもちろん、僕と鈴を庇ってくれた謙悟や真人、そして小毬さんやリトルバスターズのみんなも、助かった。

 「理樹、元気か?」

 ベッドで本を読んでいた僕のところに鈴が入ってきた。僕の頭に巻かれた包帯はまだ取れないけど、みんなよりは怪我は軽い。怪我が軽いのは、僕が二番目で、そして鈴が一番怪我が軽かったため、鈴はこうして歩きまわることもできている。

 鈴の腕に巻かれた包帯が痛々しいが、目立つ所といえばそこだけだった。

 「うん。鈴は?」

 「あたしもだ」 

 鈴はニコリと微笑むと、僕のベッドのそばにあるイスに腰掛けた。腰を下ろし、イスに座ると同時に鈴の髪留めの鈴(すず)がチリンと鳴った。

 「理樹……まだ頭の包帯は取れないのか?」

 「うん。 先生の話によるとあと三日は経てば取れるって言ってたよ」

 「そうか、まだ痛むのか?」

 「ちょっとだけね。でも痛み止めや薬も飲んでるから、大丈夫だよ」

 「そうか。 良かった」

 鈴は本当に安心してくれたかのようにホッと安堵の表情を見せてくれた。

 「謙吾や真人たちのところにも行ってきた」

 「へぇ。 どうだった?」

 「相変わらず馬鹿どもだった。 真人は恭介や謙吾の次にジュウショーだったくせに筋トレしようとしてすごく痛がってた。それでもよくわからんことを喚いていて看護師の制止も聞いていなかったな。 ま、最後はあたしの蹴りで解決したが」

 病室で「俺の筋肉はこんなことで負けやしねー!」などと言って筋トレしようとする真人の姿が思い浮かんだ。

 「あはは……駄目だよ、鈴。 真人も怪我人なんだから、重傷とわかっているのに蹴るなんて」

 「だけどあれくらいしないと静まらなかった。 それにあの馬鹿はあれくらいで死なない」

 鈴の言うことも頷けちゃう部分があるのも事実だった。

 「謙吾も腕の包帯が取れてなかったな。 筋トレしようと暴れる真人を呆れた目で見てるだけでなにもしなかったな」

 「そっか。 ……恭介は?」

 「あいつは本当に一番ジュウショーなのか? ベッドで笑いながら漫画読んでたぞ」

 最後に「きしょかった」と言う鈴を見詰め、僕は笑う。

 「あはは、恭介らしい。 でも……」

 一番重傷だったはずなのに、そうは見えなかったということは良いことなのだ。それだけ恭介も回復しているということだ。

 「それで持ってきた」

 「え、なにを?」

 「これだ」

 言って、鈴が掲げたのはズシリと重々しそうなものが入ったビニール袋だった。その中から、鈴は一冊の本を取り出して、僕に手渡した。

 「漫画?」

 これは確か、教室や寮の部屋で恭介がいつも読んでいた、恭介の大好きな漫画だったと思う。

 「恭介からだ。 『一日中ベッドなんかに寝てばかりだと暇だろう?持ってけ。暇つぶしにはなるぞ』って。 ちなみに恭介のオススメだそうだ」

 ありがたい。病院の生活というのはこれ以上の暇はない。一日中ベッドに寝て、出歩きまわることもできない。鈴みたいにできたとしても、病院の中で暇をつぶせるところなどそうそうない。どちらにせよ、暇なのは変わらない。こうして本を読んでたけど、恭介からの漫画は本当にありがたかった。

 「ありがとう。 鈴も読んだら?」

 「ん。あたしはいい」

 「え? でも暇じゃない」

 「大丈夫だ。 あたしには場所があるからな」

 「場所?」

 「この病院、中庭があるだろう。 そこに可愛い猫たちがいてな。 そいつらと遊んでるから全然平気だ」

 「へ、へぇ……」

 こんな病院の中庭に猫なんかいるんだ……。というか、それは良いことなのだろうか?

 でも、鈴が良いなら、良いかもしれない。

 「それじゃあ理樹。 あたしはそろそろ行くぞ」

 たぶん今話してた中庭にかな?

 「うん。 見舞いに来てくれてありがとう」

 「礼はいい。 それより……」

 「ん?」

 鈴がもじもじと言い淀む。その頬は朱色に染まっていた。

 「早く治せよ、理樹」

 「うん」

 鈴は恥ずかしそうに言いながらも、はっきりと言葉を僕に向かって紡いでくれた。

 僕が微笑んで応えると、鈴は逃げるように、髪留めの鈴をチリンと鳴らしながら、部屋を出ていこうとした。ドアを開けて退室する鈴に、僕は声をかける。

 「そうだ鈴! 恭介に『漫画ありがとう』って伝えておいて!」

 僕の声に足を止めた鈴は「わかった」と言葉を残してから、部屋を出ていった。ドアが閉じられ、僕はまた一人になった。

 鈴が立ち去ると僕は早速漫画本が詰まったビニール袋を僕の目の前の布団の上に置いて、中身から一冊の漫画本を取り出した。

 「学園革命スクレボ……」

 その漫画のタイトルは、前に恭介が大好きな漫画として、恭介から聞いたことがあるタイトルだった。

 僕は入院生活の間、恭介のオススメの学園スクレボの漫画に読み耽った。恭介が薦めるのがわかる。これは本当に面白かった。どんどん漫画の中の世界に、その主人公のスパイの少女と謎の敵の集団との戦い、そして少女の葛藤は、読者の感情移入を大いに誘った。

 だけど僕はこれを読んでいくうちに、まるで本当にその世界に僕がいたかのような錯覚に度々陥られることになった。

 なんといっても、このスパイの少女を、僕は知っている―――

 僕は最初、この漫画を読み始めたころ、主人公の少女の名前を見た。

 

 『朱鷺戸沙耶』

 

 朱鷺戸沙耶。

 トキドサヤ。

 僕はこの名前を、知っている―――

 

 あれ……?

 ふと、頬に一線の暖かさが伝った。ちょっと指で触れてみると、指の先が濡れていた。

 それは、涙だった。

 何故僕は涙を流しているのだろう?

 この名前を見た瞬間、僕は泣いていた。

 一筋の雫が、頬を伝う。

 「沙耶……」

 名前を呟いてみると、ますます懐かしい思いが胸の中に満ちていく。

 そしてそれが一層の涙を誘った。

 一瞬だけ、脳裏によみがえった、少女の面影。

 一人の少女。

 なにか、大切なものを忘れているような感覚に、僕は理解できなくて、泣いた。

 

 

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