僕は、強烈な既視感に襲われていた。
学校の裏庭。僕は昨夜教室に落ちていた生徒手帳を、持ち主に届けに、休み時間にその持ち主の少女の教室へとやってきた。
彼女はやっぱり、あの修学旅行のバスの事故の現場で出会った女の子だった。
あの日以来、僕の心になにかを引っかけさせた、不思議な少女。
恭介の漫画に出ていた登場人物の名前と絡みあったように、この少女の存在が頭に疑問符として浮かぶ。
その疑問符が、モヤモヤした感覚が本人の少女を目の前にすると、すこしは晴れてしまう。
なんだろう、この気持ちは。
そして突然、泣きだしてしまった彼女は僕を連れて、裏庭にやってきた。僕と少女は裏庭にいた。
後ろから休み時間の終了と授業の開始を予告するチャイムが鳴る。
それでも僕と彼女は、裏庭から教室に戻ることはなかった。
僕は不思議な既視感と共に、裏庭を見渡した。ゆっくりとあたりを見渡す。この学園に入学して馴染みのある裏庭。……そのはずなのに、なんでこんなにも懐かしい気分にさせられるのだろう。
彼女は怪訝気味に僕を見ていた。そんな彼女に、僕はなにかを言いたかったが、これは言って良いのか戸惑われた。
「なに? どうかした?」
なにか言いたそうな僕に気付いた彼女が投げかける。
「なんで、僕をここに?」
「……別に。なんとなくよ」
「……あの、さ」
「……なに」
「ひとつ、訊きたいことがあったんだ」
この不思議な既視感。
「さっき言いかけたやつ? ……ごめん。あたしがいきなりわけもわからず泣きだしたせいで」
「ううん、それとは違うんだ……。 これは……それよりずっと前から感じていたすべての原因だと思う」
なにかが、脳裏に浮かぶ。
しかしやっぱり中々思い出せない。
だから言葉にできなくて、また沈黙してしまった。
でも、このおかしな感覚を言葉にするのなら、こうだ。
「僕たち、いつか会ったことない?」
「…………ッ」
それを言った途端、彼女が泣きだしたような気がした。
涙は流していない。
しかし、僕にはそう見えた。
そして僕は―――初めて、思い出した。
いつの間にか僕の心の中には、あの名前が浮かんでいたんだ。
「……沙耶?」
それはずっと引っかかっていた恭介から借りた漫画の登場人物の名前。
その名前と彼女の輪郭が結びついた。
漫画で読んだその名前とは関係なく、僕は彼女を見たときから、そんな名前が心の中に浮かんでいた。
この感覚はなんだ?
何かを忘れているのに、どうしても思い出せない。
僕の脳裏に、まるで電流がビリビリと走り、ノイズが鳴り響いた。途切れ途切れの映像が、現像される。まるで古い映画のフィルムのように。
ザザ――ザザザ―――
『……じゃ……ないわ………あなた、……』
フィルムは本当に途切れ途切れ。
映像も音も、思い出してくれない。
『……日々、訓練……よ……』
僕は、このフィルムに映っている娘をやっぱり知っている。
「理樹……くん……ッ!」
噛みしめるように、彼女は僕の名前を呼んだ。僕はそれで、脳内の映画館から現実に戻った。
「今……沙耶って……」
生徒手帳で見た名前は『あや』だった。
だけど、なんでだろう。彼女の名前を、『沙耶』という名前だったことを、僕は知っている。
「理樹くん……!」
気がつくと、僕の身体に暖かいものが飛び込んできた。
彼女は僕に抱きつくと、僕の背に両手をまわして、ぎゅっと抱きしめてきた。僕の鼻と口の前に彼女の頭とリボンがあり、ほのかな女の子の良い香りが鼻をくすぐる。僕の胸に顔を埋める彼女から「理樹くん……理樹くん……ッ!」と、何度も僕の名前を呼ぶ声が。
「理樹くん……聞いて……」
「…………」
「びっくりするかもしれないけど、聞いてほしいの……」
「……うん」
「思いきったことを言うから……」
「うん」
「あたし、理樹くんのことが―――好き……ッ!」
「…………」
ああ、そうだ。
思い出した。
僕もこの子のことが好きだったんだ。
「……沙耶」
「…………」
「……僕はきみのことを、沙耶って呼んでいた気がする」
「…………」
フラッシュバックする埋められたはずの、いや、最初からなかったはずの記憶。
それは、あの事故で、ほとんど失われた別の世界の、一つの記憶。
いつもそばにいた。
いつも一緒にいた。
あの学園で。
この裏庭で。
あのゲーセンで。
あの地下迷宮で。
僕は、彼女と二人でいた。
この世界では、会って間もないけど。
今までずっとあったおかしな感覚は、彼女への素直な気持ちへと変わっていった。
それが、答えだった。
そして、僕は言う。
「僕も、沙耶が言った気持ちと同じだよ」
「……ほんと?」
「……うん」
「……嬉しい」
彼女は――沙耶は僕の襟元を掴むと、そのまま壁際へと押し込んだ。僕の背中が壁に当たり、そして目の前には、上目づかいに見詰めてくる沙耶の綺麗な瞳があった。
「……理樹くん、思い出して……くれた、の……?」
「……全部は思い出せない」
あの事故で、虚構世界で思い出せることといったら、恭介たちとの記憶しか残っていない。
でも……
「でも、僕が沙耶を沙耶って呼んでたこと。 沙耶と一緒に過ごしていたことは、確かに覚えてる。 そして――」
僕は、はっきりと言う。
「僕が沙耶のことを好きだってことも」
「―――ッ!」
いきなり、僕の唇は塞がれた。
そして同時に暖かくて柔らかい感触が僕の唇を包む。
襟元を掴んだ沙耶が、その沙耶の唇が僕の唇と合わさっていた。
長い間、短い間、どちらかわからないほど、時間の流れがわからなくなるほど。
そんなキスが、二人の間に紡がれた。
そしてそっと互いの唇がどちらともなく離れる。
僕が見下ろすと、沙耶のぐっと紡がれた唇と、頬が桃色に染まっていた。
「……理樹くん」
沙耶のふんわりとした桃色に照らす唇から、僕の名前が漏れる。
「……沙耶」
僕も呼びかけると、沙耶は顔を上げてくれた。
沙耶の瞳は本当に綺麗だった。
その瞳に映っているものは?
それは僕だった。
「沙耶、おかえり」
沙耶は目を大きく見開いたが、やがてふわりとした柔らかい微笑みを見せてくれた。
「……ただいまッ」
壁と沙耶に挟まれた僕は、また沙耶に唇を塞がれると、そのまま僕は沙耶に抱き締められた。
暖かい感触。あの感覚の答えが、大切なものが、そこにあった。
●
タイムマシンで過去に。
身はあの世界で滅びとも、想いは、魂は、記憶だけはタイムマシンに乗せて。
また会いに行くよ。
新たな青春と、大好きな彼に。
ただいま。