なによりも温かった世界。
手に入れることができないはずだった青春の日々。
虚構であっても、あたしたちにとっては確かに現実だった世界。
元々イレギュラーだったあたしが世界を去れば、そのままあたしは記憶の中から末梢されることだろう。
わかっていた。初めから。
それでもあたしはその道を選んだ。
そしてあたしは彼と出会い、彼と過ごし、たくさんの幸せをもらった。
でも同時に幸せを知ることは悲しみと絶望を得ることも知った。
本当に好きだった彼、二人でいることが幸せだった彼から別れることは、こんなにも悲しいものだったなんて知らなかった。
笑顔で別れなきゃいけないのに、泣き顔で別れてしまいそうになった。
それでもあたしは引き金を引いて、あの世界から自ら退場したのだ。
たくさんの思い出を、ありがとうと感謝を思いながら。
現実世界に戻ってきたあたしは、あの世界の経験をきっかけに、もう一つの可能性を見出す世界へとたどり着くことができた。
もう一つの世界。あたしのなくなるはずだった命が救われるという未来。
あの世界での記憶をあたしは完全に覚えているわけではない。
欠片として確かに一つ一つのものなら頭の中にある記憶を持って、あたしは、あの世界のあたしの時になるまでに成長した。
理樹くんはやっぱりあの世界のあたし関連の記憶がなかった。
またあたしに襲いかかった悲しみと絶望。
でも、あたしは待ち続けた。
これは、あたしの願いでもあったのかもしれない。
あたしを覚えていない理樹くんなら、あたしの望み通りに、普通の学生として理樹くんと出会い、普通に恋をするチャンスがあるということだったからだ。
でも、あたしは遠くから彼を見ているだけで、実際には行動に移せなかった。滑稽でしょう。クールなスパイでなければ、普通の女子だったら好きな男の子にも声をかけられないあたしって。
ずっと、ずっと前から好きだった。本当に好きだった。
だから――悲しみと絶望があった。
あのリプレイを繰り返した世界の中で、あたしへの記憶を理樹くんが思いだしてくれたあの裏庭。
理樹くんはまた、この裏庭であたしのことを思い出してくれた。
本当に、嬉しかった。
理樹くんはあたしのことはほとんど覚えていない。
でも、理樹くんの心が、あたしへの気持ちだけを確かに覚えていてくれたんだ。
あたしは再び理樹くんと、真の再会を果たすことができた。
その日の放課後、あたしは理樹くんにあることを伝えようとした。
携帯からメールを送って、裏庭で理樹くんを待つ。
理樹くんはあたしのことを思い出してくれた。
全部はやっぱり思い出せないけど、理樹くんはあたしを好きだっていう気持ちだけは思い出してくれた。
あたしは嬉しかった。
そしてあたしは、あの時に交わした【約束】をただ果たすためだけに、理樹くんをここに呼びつけた。
「落ち着け、あたし……」
ドクドクと鼓動する心臓に手を当てて、ふぅ、と息を吐く。
「ただ、あの時の約束を果たすだけ……。そうよ……」
緊張を必死に緩めようと努める。
深呼吸するあたしに、理樹くんの声が投げられた。
「沙耶っ!」
「ッ!!」
心臓がドキンと跳ねあがるかと思った。
「り、理樹くん……」
「ごめんね。 待たせて」
すこしだけ息を切らして、理樹くんが詫びる。たぶん急いできたんだろう。彼を見れば一目瞭然だ。
ちなみに理樹くんはあたしのことを「沙耶」と呼んでいる。
それはあの世界での呼び名。今の現実に生きるあたしにはちゃんとした本名があるのだが、しばらくはその名前で呼ばれても悪くない。
「べ、別に。 そんなに待ってないわ……」
「そっか。 良かった」
理樹くんの笑顔が眩しい。
あたしにまたこんな笑顔を向けてくれるなんて、あたしもつい浮かれてしまいそうになってしまう。
その内側から沸き起こる何かをぐっと抑え、あたしはまた一つ、深く息を吸って吐いてから、理樹くんの前にまっすぐと向き合った。
「あ、あのね、理樹くん。 じ、実は―――」
さぁ、言え。あたし!
あの【約束】を、果たすときだ!
この時を、ずっと待って―――
「沙耶。 僕からも沙耶にお願いがあるんだ」
「…………」
口をパクパクさせてなにも言葉が出なかったあたしは、理樹くんに先手を許してしまい、結果的に理樹くんにそのまま流されることとなった。
「ついてきてくれるかな」
そう言って、理樹くんはあたしの手を引いた。
理樹くんに手を引かれながらあたしは、あぁなんでさっさと言わなかったんだあたしの馬鹿……と涙を流すのだった。
理樹くんが連れてきてくれたのは、女子ソフトボール部の部活動が片隅で見られる学校のグラウンドだった。
そこには、野球部ではない野球部みたいな連中がいた。その連中は、理樹くんの友達だった。
「――です」
理樹くんの隣から一歩前に出たあたしは、ここにいる皆の前で自己紹介した。
クールに、かつ冷静に挨拶を済ませることができたあたしだが、内心はドキドキだった。
なにせこの人たちは理樹くんの友達……。緊張するなと言う方が無理だ。
「よろしくねぇ~」
「わふー! ないすーとぅーみーちゅー! よろしくお願いしますなのですーっ」
理樹くんの友達たちは、あたしを快く歓迎してくれた。
あっという間にあたしと理樹くんは囲まれてしまった。こんなの、初めてだった。
「よろしく」
あたしは彼らに笑顔で応えていた。
事の始まりは、さっさと言うべきことを言えなかったあたしの手を引っ張ってくれた理樹くんが、あたしの手を引きながらこんな言葉を言ったことだった。
「沙耶も僕たちのリトルバスターズに入らない?」
それは突然だった。手を引かれるままに彼に連れられ、自分自身を内心で罵っていたあたしを我に返させたのがその言葉だった。
「…リトルバスターズ?」
首を傾げるあたしに、理樹くんは楽しそうにうんっと頷く。
「そう! 楽しいよ」
「……リトルバスターズ、ねぇ」
おぼろげながら、あの世界での記憶の一片としてすこしだけ覚えている。
理樹くんが、学園でも有名だった、変な集団・リトルバスターズの一員だということを。
あの時のあたしはスパイとして共に活動する予定のパートナーのことを知ろうとして、その調査の一環としてリトルバスターズという単語を確かに耳にしたことがあった。
直訳すると、小さな討伐者たち。ちょっと物騒なネーミングだが、なにを目的になにをする集団かわからず、最終的に変な集団として結論付けていた。
「リトルバスターズはみんなで遊ぶためのものなんだよ」
「遊ぶ?」
「そう」
「それだけ?」
「それだけで十分だよ。 時々バスターズのみんなで、主に恭介が提案したミッションで遊び倒すんだよ」
「恭介……?」
「あ。恭介って言うのは、僕たちリトルバスターズの頼れるリーダーなんだ」
「ふぅん……」
「恭介は凄いんだ。 いつも面白いミッションを考えたりしてくれて、全然飽きないんだよ。 それに昔から、恭介は僕たちの頼りになるリーダーで……」
理樹くんが楽しそうに、恭介という人物に関して声を弾ませて語りだした。
そんな恭介という人物を楽しそうに語る理樹くんを見て、あたしはその恭介という人物が羨ましいと思うようになっていた。
これはきっと、嫉妬かも。
「ふふ。 理樹くんはよっぽどその恭介って人が大好きなのね」
「ま、まぁね……。あはは……」
「あたしより恭介って人を取るの?」
「そ、そんなことないよっ! そもそも沙耶と恭介に対する『好き』は、意味が違うわけで……!」
理樹くんは一変して慌てた様子を見せる。顔が赤い。あたしの手を握る理樹くんの手がちょっとだけ強張った。ちょっとからかってみただけなのに、あたしはそんな理樹くんの面白い反応を見て、もっといじめてやりたいと思っていた。
「ふぅん」
あたしはニヤリといやらしく笑ってみせる。
「それじゃあ、あたしに対する理樹くんの『好き』って、どういう意味……?」
「さ、沙耶…っ!?」
理樹くんの顔がまるでトマトのようにカーッと真っ赤になっていく。言ったあたしも照れてしまったが、理樹くんの可愛い顔を見て、つい吹いてしまった。
「あはは……っ! 理樹くんって、面白いわね……」
今までからかわれていたことにようやく気付いた理樹くんは、「も、もう……!」と、ちょっと怒っている様を装った声をあげた。
「さ、沙耶……!」
「あはは、ごめんなさい理樹くん」
「も、もう。 あんまりからかうと、僕も怒るよ?」
「だからごめんなさいってば、理樹くん」
顔を赤くした理樹くんが可愛いと思ったあたしだった。
こんな瞬間が、あたしにとっては本当に嬉しかった。
そして今、あたしはリトルバスターズとかいう集団に歓迎され、バスターズのメンバーの大半を占める女性陣から質問攻めを受けていた。主に理樹くんについてだったから、正直答えるたびに恥ずかしかった。
あたしが理樹くんについての質問に答えるたびに、きゃーという黄色い声や、ひゅーという茶化すような誰かの口笛が聞こえる。そして外野のほうでは理樹くんがなんかごつい男友達の間で縮こまっているかのように小さくなっていた。
「お。なんだなんだお前ら。一体どうした」
初めて聞く声。みんなが振り向いた先には、一人の男がそこにいた。たぶん三年生の先輩だ。
「恭介。 遅かったね」
へぇ、あの人が理樹くんの大好きな恭介さんか……。
やっぱりちょっと嫉妬するかも。
彼、初めて見たあたしが見ても格好良いと思えるし、ルックスも良い。対して理樹くんは女の子みたいな顔だし、なんか……
「……なにやら同志の匂いがします」
「――ッ?!」
悶々としてたあたしのすぐそばで、日傘をさした少女が呟いていた。
あたしが驚いて振り返ると、日傘のその娘は、あたしにペコリとお時儀をすると、そのまま離れてしまった。
「悪いな。ちょっと今読んでる漫画にハマッててな。それ読んでたら、気がつくとHRが終わっていてな……」
「お前はなにしに学校に来てるんだ、馬鹿兄貴」
「で? 俺がいない間に、一体これはなんの騒ぎだ? ……ん?」
恭介さんが、あたしのほうを見る。
「その娘は?」
「あ、紹介するよ恭介。 彼女は……」
「理樹くんのガールフレンドデスよっ!」
「は、葉留佳さん……っ?!」
「ほほう」
彼の口はしがニヤリと吊り上がったと同時に、その目がキラーンと妖しく輝いた。
「理樹。 お前も隅には置けないな」
「う、うう……」
どっと笑いが起きて、またみんなに茶化される理樹くん。見ていて、なんだかちょっとかわいそうに見えたけど、面白いのは変わりない。
「なるほど。 で、新メンバーってことだな?」
「う、うん……。 どうかな……」
「もちろん大歓迎さ。 だが、俺たちリトルバスターズには簡単に入れるもんじゃない。 それなりの試練が必要だ」
「ああ……やっぱりやるんだ。 あれ……」
「?」
理樹くんが呆れたような顔になる。
それにしても恭介さんの声、初めて会ったはずなのにどこかで聞いたような……
そんな思考も、「よし、入団テストを行う」という声によって遮られた。
いつの間にか、目の前には恭介さんが得意げに立っていた。
「今から俺が問いかける質問の内容に上手く答えることができたら合格だ。 いいな?」
「面白いわね。 いいわよ」
「よし。 では……」
場のシンとした空気に、微かな緊張が繋がる。
一拍置いて、質問の内容が紡がれる。
「ある夜の校舎内で、仮面をかぶった男は一人の少女に唾を掛けられました。 さて、その唾をかけられた男の心境は?」
「エクスタシー」
「合格!」
それからあたしは、めでたく理樹くんたちのリトルバスターズに正式に入ることになった。