どうして"あの子"がボーダーにいるの…。
亜矢の心はここ数ヶ月波立っていた。
去年、いやもう一昨年にあった意図せず引退レースとなってしまった駅伝大会での事故。
ラスト400m、先頭を走っていた亜矢は後ろからの圧力で息が止まりそうになっていた。
"北の超特急"と評される昨年度覇者が亜矢の背後に迫っていたからだ。襷が繋がれた中継場では1kmはあったリードはなくなり、もう距離は1mもない。
背後からのメトロノームのように正確なリズムを刻む足音は凄まじいプレッシャーとなって亜矢に襲い掛かり、自分の中にあったはずのリズムを完全に乱していく。
しかし、ここで抜かされるわけにはいかないと内から飛び出てきた影の前に出ようとした亜矢に衝撃が走る。バランスを崩した亜矢が見たのはコースに倒れ込んだ少女だった。
不慮の事故だった。
誰もが亜矢にそういった。
でも、あのプレッシャーを浴びた瞬間に亜矢は結果をすでに理解していた。
嫉妬すら起きない、憧れすら遠い才能。絶対に勝てない。
レース後、顧問の教員に引退を告げ逃げるように母校を去った亜矢に声を掛けたのは隊長の櫻葉だ。
「陸上辞めて暇でしょ?あんた視野広いし頭良いからうちの隊のオペレーターやってくれない?」
ボーダーに入隊する為に引退した先輩はぼんやりと高校生活を送っていた帰宅途中の亜矢を捕まえるとぶっきらぼうに言った。
何もすることは無いし、と了承して入隊したボーダーはそれなりに忙しく陸上は亜矢の日常から静かに薄れていった。
「うちの狙撃手に良いと思わない?」
櫻葉から見せられた狙撃手の合同訓練。亜矢は我が目を疑った。
"ここに"なんでいるの?!"ここで"なにをしているの!?
あの日の少女が画面の中にいた。戦い方は拙いが亜矢を絶望させた走りは健在で狙撃を次々と躱していた。
最早何も聞こえなかった。亜矢はあの日自分がどうやって家に辿り着いたかさえ覚えていないくらいだ。
「陸上辞めて後悔してないの?」
「うーん、もうちょっとやれたかな〜ってのはあるんですけど復帰したいかっていうとそれほどでもないですね」
姉弟子に対して奈帆は奢ってもらったジュースのプルタブを開けながらあっさりと答えた。
走るのが好きなだけで競技としての競争にこだわりはない奈帆は今の生活に大きな不満はない。走る時間は訓練に任務と減ったが温暖な三門市は真冬は命の危険がある故郷と違いいつでも走れるし、道も固まった雪でデコボコする北海道よりはるかに走りやすい。
「続けてても期待されてたようなこと出来たのかな?ってオリンピックとか世界がとか期待されるのは嬉しいんですけど考えたこともないこと聞かれるし言われるようになって正直どうしようって…贅沢な悩みだとは思うんですけどね」
「奈帆ちゃんと規模は違うけど…分かる気がする」
「それに私プレッシャーダメでババ抜きもすぐ負けちゃうし多分高校でもう無理!!!ってなって結果辞めてたと思うんですよね〜」
ババ抜きとオリンピックのプレッシャーはどう考えても違う気がするけど奈帆ちゃんにとってはどちらも現実的な目の前のプレッシャーだったんだろう。
常日頃から本当に人を撃てないのか?というプレッシャーにさらされている鳩原としては流石にオリンピック出場期待レベルのプレッシャーとは規模が違うとはいえ理解は出来る。
「だから、東さんにも気にしてないし復帰するつもりも無いって言っておいてください」
ご馳走様でした。と訓練に戻る妹弟子を見送ると鳩原は「バレてましたよ」と角で気配を消していた師匠に声を掛けた。
「女子は本当に鋭いな…」
「でも、本当に復帰する気ないんじゃないですか?プレッシャーが苦手そうなのは本当っぽいですよ」
「いや、俺もそんなに後悔してそうとは思ってないが根付さんがな…」
「ああ」
広報室の職員にくっきりと浮かんだ隈を思い出して鳩原は納得した。多分問い合わせやらが深刻なんだろう。
もし、彼女が復帰したいと答えていたら恐らく根付さんは全権限を持ってどうにか復帰させようとしたはすだが答えは予想外のものだった。
しばらく広報室の職員から隈は消えそうにない。
三門市は部活動全般あまり盛んじゃなさそうだなと思っている人が書いているので先頭走ってた風早先輩もすごい人。