無事に二勝目を上げる事が出来たチェイス、その実力も紛れもない物へとなりつつある現状だが、彼女は如何にも何処か不満げな表情を作りながら休養していた。レース後はニコやかな笑みを作り、ファンを楽しませるエンターテイナーとしての姿を見せ付けて会場を沸かせ、ウイニングライブでも一切手を抜かずに完璧にやり遂げたが、それが終わってから何とも言えない表情を作り続けていた。
「如何したんですかチェイスさん、不機嫌そうな顔を作って」
「不機嫌というか、なんというか……」
練習しているスピカのメンバーを見つめつつも簡単なストレッチをしてから沖野の手伝いをする程度の事をしている彼女へとリハビリ中のメジロマックイーンが声を掛ける。彼女も彼女でリハビリメニューが一段落したので休憩に入ろうとしていた所だった。
「なんかこの前のレースで不満な点でもあったのか?」
「いえあのレースは私の出せる力を出したつもりです、そこに文句はないんですけど……出せる力しか出せなかった事が不満というか」
「どういうことですの、それって」
何とも要領を得ない発言に首を傾げるので詳しく話を聞いてみる事にした。
「前にスズカ先輩と走った時みたいな走りをしようと思ったんです、でもそれが出来なくて」
「あの時っていうと、あのスズカにあと一歩まで迫ったあれか?」
「はい、あと一歩で影を踏めそうなところで逃げ切られたあれです」
根に持っているというよりも、あの時ほど印象的な敗北は無かったという事だろう。ツインターボにも数多くの敗北を喫しているが、あれらは何方かと言えば競い合える格上のライバルであってスズカは完全に雲の上の存在と勝負した末の敗北で意味合いが全く違ってくる。それでも本気でなかったとはいえサイレンススズカにあそこまで追い迫れるだけでも大したものだと二人は思うが。
「私って基本的に走る時って意識を二つに分けてるんですよ、まずは追いかける意識と最後のスパートを掛けて突き放す逃げの意識」
「あれか、ずっとチェイサーとかずっとマッハって言ってる奴か」
「あれがチェイスさんの中でもスイッチという訳ですの?」
「そんな感じです。でもスズカ先輩の時は全く違った、あれは―――追いかける事すらまともに出来てなかった」
正しく次元が違うウマ娘相手にチェイスは普段の走りが全く通用しない状態だった。それでもその世界に喰らいつく為に追い掛けながら逃げ切ろうとした、その時に世界から色が消えて真っ白になった気がした。自分が風の中に溶けていき、風と一つになったような不思議な感覚。そして先を行くサイレンススズカだけに色があり、息遣いや走るペース、腕の振り方までもが詳細に理解出来るような……そんな感覚があった。
「成程、それを芙蓉ステークスでも確かめてみようとしたけど駄目だったから不満げって事か」
「恥ずかしかながら……あの時の感覚は一体……」
「そりゃゾーンだな」
聞き慣れない言葉に思わず首を傾げる。良くも悪くもレースについて何も知らなかったが故に首を傾げる事も多かったからか、如何にもそんなポーズが似合うようになってきてるチェイスに二人は笑みを作りながらも改めてゾーンに対して説明する。
ゾーンとは端的に言えば究極の集中状態を指す。集中力が最高にまで高まった結果、周囲の景色や音などが意識の外に排除され、自分の感覚だけが研ぎ澄まされて、活動に没頭できる特殊な意識状態とされている。今回で言えば走る事に没入して実力以上のパフォーマンスを発揮する事が出来たという事になる。
「超一流のウマ娘はゾーンをコントロールして何時でも集中力を高めてレースに臨むって話を聞いた事がある。確かシンボリルドルフもゾーンは使える筈だぞ」
「ではチェイスさんはそのゾーンに入れているという事ですか!?」
「いや、話を聞く限り片足がその段階に入っただけっぽいな」
そんな物があったなんて全く知らなかった、だがチェイスのゾーンはまだまだ不完全である上に無意識的且つ偶然そこに入れただけに近い状態。それではゾーンとは決して言う事が出来ない程の劣化でしかない。しかし、超一流のウマ娘でないと入れない世界を体験する事が出来たというのは大きな財産でもある。
「ウチで言えばスズカもゾーンに入れるな、まああいつの場合は完全に無意識だけど入ろうと思えば入れちまうって感じだろうけど」
「スズカ先輩もなんですか?」
「あいつの場合は先頭を走る、先頭の景色を譲らないって事でゾーンに入る。あの尋常じゃない集中力はそういうもんだろうな」
しかし、このゾーンの入り方は先頭を走り続けるという事に執着のような集中を生み出すサイレンススズカならでは。しかも彼女自身それがゾーンである事には気付いていないし気付いたとしても変わる事はないだろう。故に参考にはならないしあてにする事は出来ない。
「っつっても俺が何かアドバイスしたくても何とも言えないからなぁ……如何したもんか……」
「いえ、変な事言ってすいませんでした。如何すれば良いのか分からない物をなんとかしようとするよりも、今出来る事を一つずつこなしていく事にします」
「立派な考えだとは思いますがそれを放置するのももったいないと思いますわ」
当人の意見は御尤もな物だが、メジロマックイーンの意見だって理解出来る。超一流のウマ娘でも全員がそこに至れる訳じゃない、そんなゾーンの片鱗を味わったのであれば鍛錬次第ではその領域に入門し、かの皇帝のように自在に引き出す事だって出来る筈。それが出来ればチェイスは更に強くなる―――なるのだが、流石の沖野もそんな指導はした事がない。かと言ってこのまま何もしないのはあまりにも勿体ない、如何したものかと頭を捻る。
「ルドルフに頼んでみるか?いやでも忙しいだろうし流石に無理は言い過ぎるのもおハナさんから小言を貰うし、ああいやでもチェイスの為ならその位……」
「それならアタシが何とかしてあげてもいいよ、ルドルフも気を掛けてる期待の新人さんだし走り方も似てるから多分適任はこっちね」
「そうなのですか、それならお願いした方がいいのではありませんか?チェイスさんの為にも」
「いやでも流石にそんなホイホイ簡単に頼む訳にも―――って今の誰だ」
「アタシだよ」
背後から聞こえてきた声、それに振り向いてみると……そこにはレジェンドがいた。三冠ウマ娘の称号を人々を魅了する刺激的な走りで勝ち取った伝説のウマ娘、あの皇帝、シンボリルドルフと肩を並べる存在、ミスターシービー。それが今、そこにいた。
「ミミミミミッミスターシービーさん!!?あの、三冠ウマ娘の!!?」
「うんそうだよ、チェイスって子をルドルフが気に掛けてるって聞いたから見に来たんだ。そしたらゾーンの話をしてるからつい口を挟みたくなっちゃって、ごめんねトレーナー」
「い、いやそんな事は……」
思わず背筋を正してしまう沖野、それはチェイスも同様だった。彼女の美しさにゾクゾクと身体が震えてしまう、まるで歌舞伎の女形のような美しさと凛としたカッコよさ、そして何処か人懐っこそうな温和な笑みのバランスがエゲツない。もっともファンに愛されている三冠ウマ娘というのも頷ける。
「それでゾーンの事だけどさ、アタシが教えてあげるよ」
「えっ……ええっ!?」
「うん、ほらっ走り方も似てるしさ、ルドルフよりアタシの方が適任だと思うし。ハイ決まりね、それじゃまた顔出すからその時に詳しい話しようね」
最後にチェイスの頭を軽く撫でてからじゃあねっ♪とウィンクをチェイスにしながらも何処か優雅だが風のように去っていくミスターシービーに思わずポカン……と固まってしまう三人。それは走り終わって自分達の今のはどうだったのかと、スペシャルウィーク達に言われるまで続いてしまった。
「……なんか、凄い……」
そんな言葉を捻る出すのが精一杯なチェイスに、沖野とメジロマックイーンは思わず同意してしまった。
皆大好きというか私が大好きミスターシービー。