「……走りますか」
例え合宿であろうともチェイスは普段通りに目を覚ます。但し隣のベットで眠っているバジンを起こさないように静かに、合宿中はくじ引きで決まった相手と同室になるのだがチェイスの場合はバジンだった。バジンはその事を口では誰でもいいと言いつつも、尻尾は嬉しそうに揺れていたので嫌ではない様子で安心した。
「待って」
ジャージに着替えていよいよ外へと思った時に上がった声に振り向く、起こしてしまったかと思ったが―――
「鍋焼き、うどんとか……ふざけるな……いや、がらせか……!?」
「寝言ですか……ですがバジン的には凄い悪夢ですね」
凄い猫舌の彼女に鍋焼きうどんとは……アツアツのおでんの大根を無理矢理口に押し込まれるレベルの拷問である。取り敢えず魘されて辛そうなので頭を撫でてあげる、すると少しずつだが苦しみが和らいでいくのか穏やかな寝息へと変化していく。5分ほどして愛らしい寝顔で眠るバジンの姿がそこにあった。
「えへへ……ウニャニャニャ……」
「普段の貴方からは考えられませんね」
悪夢が払われた事を確認しつつもチェイスは部屋を出た。ホテルなので明るい、その明るさに少々眩しさを覚えつつもロビーから外に出ると天倉町の朝とは違う潮風に包まれたヒンヤリとした朝の空気に身が包まれる。
「……行きますか」
普段なら山の上を目指すが、此処は海岸が近いので海岸線を沿って走る事にした。潮風が身体を撫でる感触を感じつつも唯々走り続けていく。
「……落ち着かない、晴れない……頭がモヤモヤする……」
違う、何もかもが違う。環境が違うからか、だからこんな気持ちなのかとそんな思いを打ち払おうとするかのように走る速度を上げていく。足音が更に激しさを増していくような気がするが何も晴れない。チェイスは初めて感じるモヤモヤとした感覚に不快感を示す。
「もっと、もっともっと走れば―――マッハッ!!」
思わず、マッハチェイスを始めてしまった。一気に加速していくチェイス、風の中に飛び込み景色が線のように流れていく。自分が集中できる走り、そのままマッハチェイサーへと移行しようとするのだが―――全く入れない。走りはいい筈なのに全く入れない、ギアが上がらない、気分が悪い、気持ち悪い―――
「ぁぁぁっ……ずっと―――」
「ストップストップ!!チェイスとまれスピード違反だ!!」
その言葉に思わず思考が凍り付き、ブレーキを掛けた。だがその時に異音に気付いた、靴から金属音と共に火花が散った。漸く止まった時、後ろからスクーターに乗った沖野が大慌てで駆け寄った。
「やっと追い付いた……」
「ト、トレーナーさん……」
「フロントのスタッフさんから、葦毛と栗毛の混じったウマ娘が蹄鉄付けたまま出たっていうから大急ぎで追いかけて来たんだよ……声かけても全然止まらない所か加速するから焦ったぞ……」
「蹄鉄……あっ」
この時、チェイスは初めて気づいた。アスファルトを走る際のラバーシューズではなく蹄鉄を付けていた靴を間違えて履いて出てしまったのだと。硬いアスファルトの上を蹄鉄で走るのは効率が悪い上に衝撃が脚に来るために負担も大きい、芝や砂の上を走る為のそれで一般道路を走るなんて以ての外。
「……すいませんでした……」
酷くしおらしく落ち込んでしまったかのように小さくなるチェイスに沖野は調子を崩されてしまう、兎も角彼女に歩道に移動するように言って一言断ってから脚を触診する。あんな速度でアスファルトの上を蹄鉄で走ったのだからかなりの衝撃が脚に来ている筈、場合によっては今日のトレーニングは休ませる必要がある。
「如何したチェイス。蹄鉄付けたままなのは偶にやっちまう行為だが、スピード違反なんてお前らしくないぞ?」
警察官を志すチェイス、故に彼女は交通ルールは確りと守る。速く走ったとしてもそれは違反にならない範囲での事で今回のような違反になってしまう事はあり得なかった。何時もの彼女と違って何処か何かに囚われているかのような表情のまま、触診を受けているチェイスは小さく答える。
「分かり、ません……頭の中がモヤモヤして、ギアが全然入らなくて……だから走ってモヤを飛ばそうとして……」
「それであんな走りをしたって訳か」
「はい……」
独自の表現で完全には分からないが、スランプのような状態に入ってしまったのだろうかと推測する沖野。無敗のクラシック二冠と言ってもその実は他のウマ娘よりもずっとレースの経験もない幼い少女でしかない。故に他のウマ娘よりもそれが掴めずに気分が悪くなっているのかもしれない。
「脚には問題は無しか……だけどチェイス、もう蹄鉄履いて走ったりすんなよ?」
「分かりました……すいませんでした」
「いや分かればいいんだ、だからホラそんなしんみりすんなよ。ほらっ元気に行こう」
そう言いつつもヘルメットを差し出しつつスクーターの後ろに座るように言う、無言のまま後ろに横向きに座りつつ確りと掴まるのを見るとアクセルを回してホテルへと戻っていく。だが如何にもチェイスの様子は優れない事から根は深いようだと沖野は溜息をつく。
「(どうしたもんかなぁ……単純なスランプ……だと良いんだが、それはそれで如何やって越えさせてやるべきか……)」
水平線の向こう側、そこから朝日が見え始める景色を見つめるチェイスは何処かそれをボンヤリと見つめる。
「(如何にもギアが入らない……如何して……こんな時ってどうしたらいいんだろう、教えてお父さん……)」