「……眠れない」
如何しても眠れずにベットの中でうだうだと身体を動かし続ける。眠りたいのに眠れないのは酷く不快で時間が何時も以上に長く感じられる。聞こえてくるのは時計が時を刻む音と……同室の暢気な鼻提灯が膨らみ萎むの繰り返しの音。自分がこんなにも眠れていないのになんて暢気な……と怒りを抱いても致し方ないと部屋を出る。
コツッ、コツッ……。廊下は最低限の灯りが照らされているだけの薄暗さがあり、何とも不気味さがある。怪談話に出てくるような雰囲気に一瞬脚が止まりそうになるがウマ娘としてのプライドが脚を動かして行く。流石に夜も良い時間だ、門限を破って外に行くつもりはない。だが休憩室は空いている筈、そこで少し一人になろう―――と思っていた時、そこに明かりが灯っていた。
先客がいるのか、本当は一人が良かったが此処まで来たのに戻るのも嫌な気分になるのでミルクでも一気飲みして帰ってやろうと……と思って扉に手を掛けた時だった。扉にある窓から中が見える、先客の姿は―――
「……チェイス?」
其処に居たのは、自分の憧れであるマッハチェイサーの姿だった。彼女は自分に気付いたのか扉を開けながら微笑んできた。
「如何しました、こんな時間に」
「こっちの台詞なんだけど」
兎も角中へと入りながらソファに腰を落ち着けた。
「私は野暮用です、キャロットマンに出演依頼が来たのでそれについての話のつめやらコラボとか……まあ趣味兼仕事です」
「そういうのはやるんだ」
エンターテイナーと言われつつもチェイスは嫌な仕事は基本的にやらない、エンターテイナーとは誰かを楽しませるものであり晒し者になる為のものではないのだから、と彼女は語っている。特に三冠目前になるというそう言った事も少なくはない、なので取材も基本的にトレセン学園で行われる物のみを受けている。
「それで貴方は如何したんですかバジン。らしくない顔をしてますけど」
「……やっぱ分かる」
「そりゃ解りますよ」
レースの経験は他よりも少ないが、これでも他人とは多く接してきた。気遣われた経験は誰よりも多いからか、その逆もまた然りなのである。
「……来週の事で、ちょっと……」
「ああ、メイクデビューですもんね」
来週、オートバジンは遂に公式レースデビューをする。沖野からのお墨付きも貰っていよいよデビューとなるのだが……如何にもその事が気になってしまって眠れなくなってしまっていた。今からこんな事になってしまってこれからが大丈夫なのかと不安になってくる。
「アンタは、なかったのデビューする時」
「私はありませんでした」
流石はエリート様だ、自分と違って万全の心構えという奴が―――
「私の場合はスカウトされて中央に来て二日目辺りでしたかね、そこでスピカに入ったんですがその時に唐突に三週間後にデビュー戦だからそれまでに基本を詰め込むぞって言われました。だからレースに間に合わせようとする事ばかりでンな事考えてる暇ありませんでした」
「―――ハッ?あのセクハラトレーナーんな事やりやがったの?」
全然違った。当時のチェイスはレースについての知識が皆無な上にウイニングライブがある事すら知らなかった、それなのに三週間後にデビュー戦をすると一方的に通告されたのだ。だからそれまでは忙しさに忙殺されていたと言ってもいいので特に眠れない事は無かった、寧ろ疲れてよく眠れた位である。
「最初は大変でした、レースで全力疾走した後でライブとかマジで意味分かりませんでしたもん。素直に休ませろよって思いました」
「……まあそこは、分からなくはない」
「感謝なら別の方法とかあるだろとか、まあ気付いたらもう慣れちゃってますし―――慣れていくんですよ、初めての事にも」
ではこの緊張にも何れ慣れるのだろうか、全く想像もつかずに漠然とした不安が巻き起こる中で炭酸水を一気飲みしたチェイスは簡易キッチンへと立った。
「ミルクでしたよね、軽くアレンジしても?」
「……飲みやすくしてね」
「無論」
慣れた手つきで牛乳を鍋に掛けながらもそこにいくらかの調味料を入れながらも木べらでかき混ぜていく。淀みなく流れるような動作に思わず母親のようだ……という思いを抱いてしまい、何を考えているんだと自分を戒める。出来るまでの間、手持ち無沙汰なのでスマホを取り出す。画面が指紋で汚れるのが嫌なのでキー付きのスマホ。他のよりもずっしり来るが重量感がある方が安心する、暑い夏でも何か被って圧迫感があった方が寝れるのと同じである。
「はい、お待ちどうさまです」
そう言って出してくれたのは綺麗な緑色をした飲み物、牛乳を頼んだ筈なのだが……。
「特製の抹茶オレです、私が眠れなかった時に母が良く作ってくれた品です。天倉巻も残ってますし如何です?」
そう言って差し出してくれた天倉巻、これは好物だ。一つ食べる、こし餡とつぶ餡だ。そして抹茶オレを口に運ぶ……。
「あっ……」
温かい、全く熱くない。人肌に温められたそれは猫舌な自分でも火傷をしない、それ所か抹茶のほろ苦さに牛乳のコクが良く感じられた。そしてそこへ天倉巻の甘さが加わっていく。そして最後には後味がスッキリ、完成された組み合わせだと言わざるを得ない。気遣ってくれた、猫舌な自分がちゃんと味わえるように。その優しさが嬉しくて、温かくて……恥ずかしくなって思わず顔が赤くなるが尻尾が嬉しそうに揺れてしまう。
「デビュー戦は私も応援に駆け付けます、だから頑張ってくださいね」
「……良いっての、アンタは菊花賞に向けて準備しとけ」
「貴方の応援で揺らぐほど、私は弱くありませんよ」
「……ウザッ。良いから来なくていいから」
ぶっきら棒にそんな風に言ってしまう、だが実際は来てくれたら心から嬉しいし心強い。でも必要ない、自分の力を心から試したいという思いが沸き上がって来た。チェイスの優しさを受けてそう思った、自分の為に走るなんてまだよく分からないけど―――憧れた人の背中を追う為に、それに相応しい走りをする事ならきっとできる。
「……私、勝つから。見に来なくていい」
「これはこれは、強気ですね。期待、しちゃいますよバジン」
「黙ってみてろ……抹茶オレ有難う……美味しかった」
少しの音でかき消されてしまうそうな声で御礼を言うと我慢が出来なくなり部屋から飛び出してしまい、ドアに背中を預けるような形で顔を隠す。もう顔の赤さを隠せただろうか、バレていないだろうか。その時に聞こえてきた声に思わず―――胸が温かくなった。
「不安になったら何時でもお相手しますよ、おやすみなさいバジン」
そんな言葉が聞こえて来て、もう辛抱堪らくなって、何故か暴力的な気分になってしまいながらそれを何かにぶつけないように気を付けながらも廊下を全力疾走して部屋に戻ってベッドに飛び込んでしまった。
「ぅぅぅっ~……」
なんて子供っぽいんだと自分を想いつつも、心から嬉しさが溢れ出してきて気付いたら口角が上がっていた。そして―――少しだけ、自分の事が好きになれたような気がしたまま布団を巻き込んでロール状になってしまった。
「もう寝る……!!」
―――おやすみなさいバジン。
幻聴だろう、だが耳に残っていたチェイスの声がそんな言葉を木霊させる。何故か分からないけど、チェイスに抱きしめられているような気がして、そのまま熟睡する事が出来た。そして―――
「私はまだ自分の夢なんて分からない、でも―――あの人の為なら走れる……!!!」
『強い、強いなんてウマ娘だ!!オートバジン、二着以下に9馬身差をつけて圧勝!!!スピカのニューフェイス、オートバジン!!彼女の快進撃は此処からだぁ!!!』
そしてオートバジンはメイクデビュー戦にて圧勝した。自分の為ではなく誰かの為ならば走れる、その走りは何処か歪だが何処までも強く堅牢な物だった。そして―――
「チェイ、ス……?チェイス!!?」
彼女は知った―――その走りを確かにする方法を。