香霖堂を後にした命蓮は、車椅子を押しながら一人で先程通った道を反対側に進んでいた。
この場にはもう魔理沙はいない。彼女は命蓮の保護者として側にいた訳では無く、あくまで一度家に帰る際のついでで彼を見ていたにすぎない。彼女とは香霖堂を出てすぐに分かれる事となった。
長い間彼女と一緒にいたせいでこれが元々一人でのお遣いであるということをすっかり忘れていた。先程まで隣にいた人が急にいなくなったことで最初以上の孤独感を抱く。共に話題を共有出来る相手の大切さというのを、彼は改めて感じる事となった。
命蓮が姉達から任せられたお遣いも残り一つとなった。彼が今向かっている先は紅魔館の大図書館、そこへ向かい姉が借りていた本を返して来て欲しいというのが、彼に課せられた最後のミッションだ。
それにしても、暑い。彼は生まれてから今日ほど運動をすることなどただの一度も無かった。慣れない運動に体が悲鳴を上げているのがわかる。彼の体は死体であるが故に汗なんてものは掻かない。しかし暑いという感覚は存在する為に、なんとも言えない気持ちの悪い感覚に陥っていた。
彼は一度車椅子の車輪を漕ぐ手を止め、着物を袖が手にかからない程度に着崩す。胸が露わになるかならないかのギリギリのラインになってしまったが、どうせ周りには誰もいないのだ。ならば暑さをしのぐのを優先しても大丈夫だろう。
「ひ、聖…!鼻血が出ていますよ…!」
「だ、大丈夫です。心頭滅却すれば火もまた涼し…煩悩も制御さえ出来ればどうということは…グフッ」
「全然制御出来ていませんよ…!どうして貴女は命蓮様が絡むとそんなにポンコツになってしまうんですか…!というか貴女はいつも命蓮様とお風呂に入る時にいつも見ているでしょう…!?」
「星、お風呂の時とは、状況が違うのですよ。外で急に服を脱ぎ始める命蓮。『姉様、さっきから体が熱いんです。どうかこの火照りを鎮めてくれませんか?』・・・いい!」
「勝手に一人演劇を始めないでください…!」
彼からそう遠くない位置でそのようなくだらな過ぎるやり取りが行われていたのだが、幸か不幸か命蓮がそれに気づくことは無かった。もしも彼女達のやり取りが命蓮の耳に入っていれば、彼の中で白蓮の株が急落することは必至であろう。
香霖堂を後にしてから、もう既に四十分近くが経とうとしていた。博麗神社から香霖堂までの道のりとは違い、紅魔館まではそこそこの距離がある。命蓮が空を飛べる姉達を羨ましがったことは一度や二度では無い。一度青娥に空を飛べるように出来ないかと相談したことがあったのだが、不可能では無いが体を改造するしかないと言われ渋々諦めた。
そんな事を考えていると彼の目の前の空間に穴が開き、そこから青娥が姿を現す。こういう状況を噂をすれば何とやらと言うのだろうか。彼は噂はおろか口に出してすらいないのだが。
「あら、命蓮ちゃんじゃない」
青娥の方も転移した先にいた命蓮に驚いた様子を表す。どうやら彼女が自分の前に現れたのは本当に偶然だったらしい。
「あ、お母さん、こんにちは」
お母さん?彼の口から放たれたあまりにも予想外過ぎる言葉に、白蓮の思考は一瞬停止した。
遂に青娥の考えであった、『白蓮の前でお母さん呼びをさせれば彼女の顔を曇らせることが出来るのでは』という夢が叶えられた。お母さんという言葉がどういう意味で、誰に向けられたのかを理解した彼女の顔は、みるみるうちに歪んでいった。その体からは香霖堂の時よりも遥かに多い殺気が溢れ出ている。自分は彼女の娘では無いし、命蓮も当然彼女の息子では無い。そんなことは想像すらしたくないことだ。隣にいた星もかの邪仙が純粋な命蓮にお母さん呼びをさせているという事態にイラっと来ていたのだが、白蓮の様子を見せ完全に正気に戻った。
そしてそれ程の気配を出していれば、その殺気の標的である青娥は当然それに気づく。しかし彼女は霖之助と違い怯えることは無く清々しい程の笑みを浮かべ、自ら三途の川を渡る程の行為を彼女の目の前でし始めた。
彼女はあろうことか、命蓮を抱っこしたのだ。
「命蓮ちゃん、今日はどうしてこんな所にいるの?」
「え…あ、はい。実はかくかくしかじかでお遣いをしている最中でして…」
「ふぅん、それで後は紅魔館に行くだけと…ここからあの館まではまだ結構な距離があるし、私が送ってあげるわ」
青娥の言葉を聞いた白蓮は焦った。青娥が送るということは、必然的に仙界を介しての移動となるだろう。流石に白蓮もあの世界へと自力で行く方法は持ち合わせていない。彼女は僧侶なのであって、仙人では無いのだ。
「え、でも申し訳ないです。お母さんにも何か用事があるのでは?」
「いいのいいの。貴方を送ること位すぐに終わるわ。それに私は貴方のお母さんだもの。お母さんらしいことをさせて頂戴」
そう言うと青娥は有無を言わせず彼を車椅子に戻し、それを押して仙界へと入っていく。
慌てて白蓮が後を追いかけようとするが、あと一歩のところで間に合わなかった。
「どうしましょう星、命蓮が連れ去られてしまいました!すぐに追いかけますよ!」
焦った様子で話しかける白蓮。しかし彼女とは反対に、星は至って冷静であった。近くに極端に取り乱した人物がいると逆に冷静になることが出来る。妖怪であっても、それは変わらない。
「・・・いえ、聖、私達はもう寺へと帰るべきでしょう」
「何故ですか?このままでは命蓮がどうなってしまうか…」
「命蓮様の行き先は既にわかっていますから、余計な心配をする必要はありません。確かに青娥の存在は不安ですが、命蓮様の母親を名乗った以上、彼に危害を加えることはしないでしょう。彼女は命蓮様を溺愛している様ですし。それにあの方が寺へと帰った時に、皆が出迎える中我々がいなかったら不自然でしょう?」
「でも…」
「聖、命蓮様を信じてあげましょう。貴女は姉なのですから」
「・・・わかりました」
未だに心配であるが、星の言う事も一理ある。白蓮は一度大きく深呼吸をした後、星の言葉に肯定を示す。そのまま二人は体の向きを紅魔館から命蓮寺へと変更し、空へと飛び立って行くのであった。
「はい、到着したわよ」
青娥に車椅子を押され仙界へと入った命蓮であったが、仙界での滞在時間が一分も経たないうちに、紅魔館の前へと到着した。彼女の持つ能力は本当に便利だ。自分にも何か能力が欲しいと思った事は何度もある。
「なんか申し訳ないという気持ちが強いですけど…でも、ありがとうございます。あのまま自分の手で向かおうとしたらまだまだ時間がかかっていたでしょうし」
「いいのよ。私にとっては大した手間じゃ無いもの。本当はもっと一緒にいたいんだけど、生憎私もやらなくちゃいけないことがあるのよね…だから私は転移前の場所に戻る事にするわ。じゃあね~」
「はい。バイバイ、です」
明るく手を振る青娥に、命蓮もぎこちなく手を振り返す。誰かに手を振るという行為は、彼は今までで数回しかしたことが無いのだ。
青娥の姿が異空間への扉の中へと入り、その穴も完全に消え去ったのを確認してから、命蓮は紅魔館の方へと向き直る。
先程までのお遣いの目的地であった博麗神社や香霖堂とは違い、紅魔館は彼は何度も行った事がある為に緊張というものは存在しない。パチュリーに会って本を返すなど、彼はこれまでにも何度かして来た事だ。
そしてそんな彼だからこそ気づいたのだろう。今日の紅魔館の様子がいつもと少しだけ違う事に。
「な、なんだかいつもと違いますね。何と言うか、普段よりも静かすぎるというか――
ドォン!!
――わわっ!な、なんですか!?」
訂正しよう。やっぱり誰でもわかる気がする。そう思う程の轟音が、館の中から聞こえて来た。外にいてもあれ程の音が聞こえる辺り、恐らく中で響いている音は凄まじいのだろう。
他にも彼が音のなる前に気づいた違和感がいくつか存在する。例えばわかりやすい所を言うのなら、普段は寝ていても一応形だけは門番としての仕事を行っている妖怪――紅美鈴が見当たらないことであったり、いつもは庭で花壇を弄っていたり暇を潰している妖精メイドの姿が見えないことだ。彼女達は仕事を真面目に行っている姿は一度も見たことは無かったが、仕事場からいなくなる様子も見たことが無かった。
一体何があったのだろうか。命蓮が周囲の状況を見てその思考に行きついたのとほぼ同時に、彼の目の前に見知った人物が現れる。
「あら、誰かと思えば珍しいわね。貴方がたった一人でこんな所にいるだなんて」
「咲夜さん…こんにちは」
「えぇ、こんにちは」
突如として彼の前に現れたのはこの紅魔館のメイド長を務める人間――十六夜咲夜だ。いきなり彼女が眼前に現れたとしても、命蓮は特に驚いた素振りを見せる事は無い。ここ紅魔館にいる以上、彼女の瞬間移動というのは日常の風景に過ぎないのだ。
「さて、挨拶はこれくらいにして、取り敢えず用件を聞かせて頂戴。何の用も無しにたった一人でここに来た訳じゃ無いでしょう?」
「あ、はい。実は私一人でお遣いをすることになりまして、最後の目的が紅魔館に行ってパチュリーさんに姉様が借りた本を返すというものなんです」
「借りた物を返すことをお遣いなんて…平たく言えば言うのかしら。ともかく用件はわかったわ。でもごめんなさいね、今貴方を紅魔館に入れることは出来ないの」
「え、何でですか?・・・ひょっとして紅魔館の庭に妖精メイドさんが全くいないのと関係があります?」
「よく気が付いたわね。貴方の言う通り、今妖精メイドには全員暇を出しているわ。出さざるを得なくなったと言った方が正しいかもしれないけれど」
その理由は紅魔館のプライベート的な問題らしく、咲夜は少しの間命蓮に話しても良いのかと悩んでいたが、そこまで重大なことでも無いし大丈夫だろうと判断し、口を開く。
「端的に言うと、お嬢様と妹様が喧嘩なさっているのよ」
「喧嘩…ですか?」
「えぇ、喧嘩の発端に関してはお二方の尊厳を守るために言わないでおくけど…些細な事で喧嘩を始めてしまってね。流石に妖精メイドに被害が出るのは人員的に困るから、仕方なく今日は暇を与えたの」
「だ、大丈夫なんですか?止めなくて」
「止める?お嬢様方は人間よりも遥かに上位の存在である吸血鬼よ?たかが一介のメイドである私に止められる筈が無いわ。こういう時は、一度好きにお互いの気持ちを発散させた方がいいのよ。貴方も姉がいるんだからわかるでしょう?」
「いえ、私姉様と喧嘩したことありませんし…」
命蓮を溺愛する白蓮にとって、弟と喧嘩する事など有り得ないのだ。彼の意見は全面的に肯定する。それがあのブラコンである。
彼の言葉に最初は驚く咲夜であったが、徐々に彼女の姉がどんな人物であったかと思い出しあぁ…と納得の声を漏らす。二人の間に微妙な空気が流れた所で彼女は一度咳ばらいをし、話を元に戻す。
「ともかく、紅魔館ではお嬢様方が喧嘩をなさったら最後まで好きなようにさせるのが常識ですし。後日妖精メイドの壊れた館の修復をお嬢様方にも手伝わせるのが常識なんです。それ故、今貴方を紅魔館にお迎えする事は危険過ぎて出来ません。本なら私が預かって、後で責任をもってパチュリー様に返却させていただきますわ」
「うーん…それなら仕方がないですね。宜しくお願いします」
少し悩んだ命蓮であったが流石にこの事態は自分ではどうにもならないと判断し、大人しく咲夜の言葉に従う。言葉での喧嘩はまだしも吸血鬼同士の殴り合いを止める事が出来ると思っている程、彼は夢見がちな少年では無い。
多少の想定外もあったが、何はともあれ無事に全ての目的を達成する事が出来た。後は寺へと帰るだけ。帰るまでがお遣いだと一輪が言っていたのを思い出す。
寄り道厳禁、早く家へと帰ろう。そう考えた命蓮は咲夜にお礼を言い頭を下げた後、早々に紅魔館を後にするのであった。