その日、彼女は夢を見た。
『姉様すみません。いつも貴女に迷惑をかけてしまって。姉様も私に構わずにもっとやりたい事があるでしょうに、私の体が弱いばかりに――ケホッ』
もう千年以上前の、しかし未だにはっきりと憶えている命蓮との日々。
キョンシーとなる前の彼はとても病弱で、それこそ目を離せばすぐに消えてしまいそうなほど弱々しかった。だからこそ自分がつきっきりで彼の看病をしていたし、それが当然だと思っていた。彼は自分にとって、たった一人の家族なのだから。いつも当たり前の様に、そこにいた。
しかし彼はそれに負い目を感じているのか、いつも申し訳無さそうな顔を見せた。それを見る度に、自分は心が痛くなった。
『迷惑だなんて…そんなこと言わないでください。貴方は私にとってたった一人の大事な弟。貴方の事を迷惑だと思った事は一度もありません。私はこれからもずっと、貴方と――』
一緒ですよ。かつて自分はそう言った筈だ。しかし夢の中の彼女がその言葉を紡ぐよりも早くに場面が変化する。夢というのはいつも唐突に変わるものだ。
次の場面へと移った時、辺りはまるで夜の様に暗くなった。実際夜なのだろう、部屋にたった一つだけ存在する蝋燭が周囲を薄暗く照らしている。
そしてこの部屋には先程と同じように布団に横たわり、しかし先程とは違い息を荒げている命蓮と、その横で不安そうな顔をしているかつての自分の姿があった。
この場面も彼女は憶えている。この日は命蓮が夜に体調を大きく崩し、医療に関して素人である自分でもわかるほどに衰弱していた。命蓮が死んでしまうと思った自分はそのことに酷く恐怖をしながら、つきっきりで看病をしていた記憶がある。
だからなのだろう。辛そうな表情をする彼に、あんなにも愚かな質問を投げかけてしまったのは。
『命蓮、貴方は…死ぬのが怖くないのですか?』
問い替えてからすぐに、何を言っているのだろうと己の発言を悔いた。
死への恐怖などあるに決まっている。大の大人でさえ逃げられないその結果を恐れ、逃げようとしているのだ。こんなにも小さな体でそれを一人で背負っている彼の苦しみは計り知れないだろう。
すぐさま先程の発言を撤回しようとする白蓮であったが、彼女が次の言葉を発するよりも早くに命蓮が口を開く。そしてその返答は、彼女の予想の上を行くものであった。
『怖くなんてありませんよ。姉様が、いますから…私は先に少し長い眠りについて、姉様を待つだけの事です』
浅い息を吐きながらも、彼は自分の手に己の手を重ねて来る。その手は震えている様にも感じたが、それが彼の手からなのかそれとも自分の手が震えているのか、あの時の自分にはわからなかった。
思わず目を逸らしたくなってしまった。彼の辛そうなのに笑顔を作る顔があまりにも痛々しかったから。しかし今の彼女には彼から目を背けるなんてことは出来なくて――ただ彼の側にいてやることしか出来なかった。
「・・・」
最悪の目覚め。そう言ってもいいかもしれない。
上半身だけを起こして隣を見るも、そこに命蓮の姿は無かった。彼が何処に言ったのかと不安を覚えるが、同時に安堵していた。今彼の顔を見たら、自分でもどうなるかわからないから。
「私は…」
あの夢を見たのは実に久しぶりだ。命蓮と再会して以降、あの夢を見る事は無かった。しかしまた見たという事は、やはり自分が無意識のうちにあの事を戒め、後悔しているんだろう。
夢の中の最後のやり取り…あれは命蓮が死ぬ三日前に彼女としたやり取りだ。一時は回復した様に見えた命蓮だったが三日後の夜に再び体調が悪化し、彼女の前で亡くなった。
その瞬間から、彼女は死というものに異常に恐怖を抱くようになった。死を目の当たりにしたことも理由にあるが、命蓮を憶えている者がいなくなるということも、同様に彼女に恐怖を与えた。
自分が死んだら、だれがあの子のことを憶えていてられる?体が弱かったせいで一度も出掛ける事の出来なかった彼を。
ここで死んだところで、あの子の下に行ける保証なんて何処にもない。ならばせめて自分が、あの子の生きた証となりたい。そう思ったから法術を学んだし、魔術にも手を出した。
その事について後悔するようになったのは、不老長寿の体を得てから何百年も後のことだ。
「命蓮…」
まだ布団には命蓮がいた痕跡が残っており、彼女はその部分に触れる。死体であるが故にその体には温もりが無い為、こうして触っても彼がいつ布団を出たかはわからない。
『私はこれからもずっと、貴方と一緒ですよ』かつての自分は彼にそう言った。
しかし結果はどうだ?彼が死んだあと自分は死を恐れ、逃げた。彼と共にあることを拒んだのだ。
『怖くなんてありませんよ。姉様が、いますから…』かつての彼は自分にそう言った。
命蓮には自分がいた。ならば自分が死ぬとき、誰が側にいてくれる?そう考えた時に、死の恐怖が一気に高まった。
結果として彼女は死を遠ざける事に成功し、共にいてくれる存在にも出会う事が出来た。しかし最愛の弟は、ずっとあの世で独りぼっちだった。何百年も、何千年も。
本当は邪仙を恨む権利など無い。そんなことは彼女自身もわかっている。弟を孤独から解放してくれた。たったそれだけの点においては、彼女に感謝している。あの邪仙のことを話す彼の顔は、とても輝いていたから。
ひょっとしたら自分は、彼女に嫉妬しているだけなのかもしれない。そんな答えの出ない問いを考えながら、白蓮は布団を畳み、寝間着から普段着へと着替え、部屋を後にする。
結局命蓮が生き返った今でも、あの時の彼の台詞が本当なのか、あの震えは誰のものなのかを聞くことが出来ていない。またあの時の話を掘り返すのが嫌だったから。彼に裏切ったと思われたくなかったから。
「あ、聖、おはようございます」
「姉様、おはようございます」
廊下を歩いて何となく台所に向かうと、そこには先程まで探していた命蓮と、彼の隣で鍋をかき回す星の姿があった。
よく見ると彼はいつもの車椅子には座っておらず、少し脚の高い椅子に座って包丁を手に台所に向かい合っていた。
「命蓮様が料理をしてみたいと仰いましてね。車椅子では不便でしょうから。あ、命蓮様、急がなくても平気ですよ。初めてなのですから落ち着いて…猫の手ですよ。にゃー、です」
「にゃ、にゃー?」
星さんは虎じゃないんですか?そんな事を考えながらも、命蓮は慣れない手つきで野菜を切る。そのあまりにも不自然な動きを心配した星が後ろから彼に覆いかぶさるように、文字通り手取り足取り彼を指導する。
彼の作業が一通り終わり、切った野菜を鍋に入れた後、星は少し不思議そうな顔で白蓮の方に振り向く。何時もの彼女ならば自分の弟へ今の様な少しばかり過剰なスキンシップをされた場合、嫉妬するか軽い殺気くらい向けてくる筈なのに。
「聖…どうかしたのですか?」
彼女の問いかけに反応し、命蓮も同じ様に白蓮の方へと振り向く。彼と目線が合いそうになり、彼女は咄嗟に目を逸らす。
「姉様、大丈夫ですか?少し…気分が優れない様ですが」
彼は星の手を借りて椅子から降り、車椅子を使って白蓮に近づき彼女の顔を覗き込む。その純粋無垢な瞳を向けられ、彼女はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「姉様、元気を出してください。貴女が悲しんでいるのは私も辛い…何かあったのなら話を聞きますから」
話してみてください。彼にそう言われ、白蓮は彼と目線を合わせる。彼の動きに合わせて、額の札が僅かに揺れた。
「命蓮、貴方は――いえ、何でもありません」
そこまで言いかけて彼女は言葉を止め、小さく溜め息を吐く。怖かった。命蓮に――弟から何と言われるのかが。
そしてまた、彼を心配させぬよう笑みを作る。そんな姉の姿を見て命蓮は一瞬悲しそうな表情を見せるも、それ以上は何も言ってこなかった。
「・・・命蓮様、まだ朝食は完成していませんよ。皆が起きてくる前に作り終えてしまいましょう」
彼らの一連のやり取りを見ていた星が命蓮へと言葉を投げかける。話題を切り替えてくれた彼女の配慮が、今はとてもありがたかった。
調理へと戻った命蓮に彼女はそれ以上問いかけることは無く、弟が怪我をしない様にと後ろから見守り続けるのであった。