基本、朝はパン派
白い陽射しを感じた。
緩やかな暖かさがまとわりつくようにへばりつき、胡乱げに目を覚す。
「───さむ」
部屋の中は寒くてしばらくは布団の中でも籠城したかったが学校があることを思い出して気合いで身を起こした。
冬でもそれなりに暖かいはずの深山町だが、こっち側は事情が違うらしい。
夜の寒さとはまた違う朝の静謐な様子を肌に感じながら口から白い吐息を吐き出しそそくさと洗面所へ。お湯で顔を洗って外気との温度差でサッパリとしつつ今日も良い日であるように普段信じもしない神に都合よく祈る。うん、こういういい加減な拝み方するのって日本人特有だよな、ととりとめのない考えを思い浮かべていたら居間へと到着した。
「ああ、おはよう。笠原。よく眠れたか?」
「おはようございます。笠原先輩」
「おはようございます。キーチ」
そこには相変わらずビシッとした正座姿のセイバーと朝ご飯の支度をしているだろう、エプロンをかけて仲むつまじく二人でキッチンに立つ士郎と桜ちゃんがいた。
「………おはようさん二人とも。ただし士郎、テメーは爆発しろ」
「おまえなぁ………、何でいつも一番最初に顔会わせた第一声がそれなんだよ?」
呆れ顔でこちらを振り返る士郎。しっかり手が動いているのを見ると相当の場数を踏んでいるのは見て取れる。
「だまらっしゃい、リア充は黙って働け。ところで凜のヤツどうした? 姿が見えねぇけど」
「リンはまだ見ていません。まだ寝ているのではないのでしょうか?」
ズズッと、大変うまそうに湯のみを傾けるセイバーの声を聞いて、
「……ああ、やっぱりな」
相変わらずな幼なじみに思わず苦笑する。
「遠坂先輩、朝弱いんですか?」
「ありゃあ、弱いってレベルじゃねぇぞ。生まれたてゾンビだってもうちょっとしっかりしてるだろうよ」
学校での優等生像から想像できない数少ない凜の弱点に、三人とも目を丸くしていた。
「まぁ、学校での姿しか見てなかったら驚くのも無理ねぇな。けどな、俺の家に泊まった時は大概俺が叩き起こしてたんだぞ」
普通は逆である。男の方が起こされる側で女の子が起こす側のはずだ。登校時間ギリギリになっても寝くさってやがる男を幼なじみの女の子が呆れながらも揺り起こす、これは古来よりギャルゲ、エロゲで伝統的に行われる由緒正しき行事(イベント)なのである。儀式と言い替えてもいい。それをあのアホは何一つわかっていらっしゃらない。仮にもエロゲのヒロインだろうが、職務怠慢もいい加減にしろ。
「しゃーねぇ。俺が起こしてくる」
「おい、いいのかよ。勝手に遠坂の部屋に入っても」
「ああ、安心しろ。アイツには絶叫とともに気持ちのいい朝を迎えてもらう」
「少しも安心出来ないぞ!?」
そんなやり取りをした後、凜が根城にしている別館の客間へやって来た。
そっと音を立てずに扉を開ける。これから惰眠を貪る不届き者に天誅を下すのだ。想像すると喉の奥から笑いが込み上げ、唇の端がつり上がる。
「………ウケケケ!」
知り合いの悪魔の笑いが自分から漏れでる。ちょっとだけ冷静になった。
「───う、ううん。もう……少しだけま……って」
ベッドで眠っている凜は無防備でぶっちぎりに可愛い。その威力は何度も見慣れているはずの俺が一瞬惚けてしまう程。
ホント、一生眠っててくれねーかな。お願いします。
そろそろと摺り足で目標へ接近する。気分は完全段ボールで身を隠す傭兵だ。
あと、少し………
「輝一ッ!!」
突然の叫びに全身の筋肉が収縮した。呼吸も完全に止まる。
「アンタ、焼きそばパン買ってきなさいよ………」
凜はそう言ったきり、パタリと黙り込んで深い寝息をたてる。
「って、寝言か……」
とゆうか、夢の中でもパシられてんのかよ、俺。
一体コイツにとって俺はどういうポジションにいるのか小一時間程問い質したい欲求を押さえつけ、目標へと到達する。
「うぐぐ………」
クソ、近くで見ると余計に威力が増してきやがる。
耐えろ、輝一。ここで負けたら全てが終わってしまうぞ!!
「そうだ、俺は負けられない! 負けるわけにはいかないんだ!!」
寝ている幼なじみの横で寸劇を始める男。完全に変態の所業である。
「………さてと、起こすとしますか」
さぁ、楽しい楽しいお時間の始まりだ。
ニンマリ、と笑い声を押し殺し、鼻フックデストロイヤーを執行するためゆっくりと体をかがめようとして──────
「う…………、ううん」
「うわっ、ちょっ────」
ドスン、と強かに腰を打った俺の目の前にあったのは見慣れた幼なじみの顔のドアップだった。
「─────」
近い。後ちょっと誰かがコイツの背中を押そうものならその小さなみずみずしい唇にランデブーしちまいそうな至近距離。まさに目と鼻の先である。
それだけだったら別にいい。多少ドキドキはするがそこまで大慌てすることはない。美人とて三日で飽きるのだ、もうこの顔には慣れてる。
問題は別にある。というか大問題だ。今の体制は俺が仰向けに倒れて、その上に凜がうつ伏せで倒れかかっている状態。多分寝返り打った先にベッドがなくて落っこちようとしたところを起こそうと身を屈めていた俺が巻き込まれたといったところだろう。
まぁ、正直ここまでは事故として処理できる。もう、オマエ何してんだよぉー、アハハハハで済む話だ。
だが、
とっさに支えるために凜の慎ましやかな胸をわしづかみにするのはどう考えても死亡フラグなんですけどその辺どーおもいますか、神様。
大きさはちょっと掌よりも小さめでとても掴み易い。愛らしいネコパジャマ越しに感じる感触はとても柔らかかった。しかも、寝苦しかったのか第三ボタンで開けていたので左手に関しては完全に中に滑り込んでしまっていて、十代女子の若々しい肌をこれでもかとアピールしてやがっております、ハイ。
────人ってのは驚き過ぎるとかえって冷静になるらしい。なんかもう、二、三回心の中を驚愕が駆け巡ていたら処理が追いつかなくなったのか極めてフラットな気持ちになってしまった。
………つーか、神様。確かに今日もなんか良いことありますようにとは願ったがこんな後先考えない幸せはいらねーんですよ。それとも、あれか、いい加減に祈ってやがったから流れ作業的にテキトーに幸せ与えときゃ満足するだろ、とかそんな考えですか? ぶっとばすぞコノヤロー。
今週の神様のありがたい御言葉。
知らねーよそんなん。
「………イカン、思考が逸れた。そんなことよりもなんとかこの危機的状況を脱しなくては」
考えろ輝一。言い訳と嘘はお前の専売特許だろう。凜が寝ぼけている間になんとしてもいいくるめるのだ。確かに藤村先生の時は上手くいかなかったのかもしれんがあんなのは偶々。あの時はまだまだ心に余裕があったのだ、そんなに真剣に取り組んではいなかった。だがしかし、今回は違う。言い訳を考えなければ地獄の門へホールインワン。その場で物理的に抹殺されるに加え、魔術師の怪しげな術によって来世どころか未来永劫呪われ続けるかもしれん。ホント、マジ頑張れ俺の脳みそ。
ギュッと瞼を閉じる事によって視覚情報を遮断し、この世に産まれいずった時からいままでで最高の思考速度へと頭の回転を急激に早めていく。
お前なら出来る、出来るッ!! ガンバレ頑張れ頑張れ!! やれる気持ちの問題だッ!! 出来るッ! やれば絶対出来るだからぁああああ!!
どこからともなく聞こえる声援に背中を押され遂に完璧なる言い訳がここに完成した。
よし、いける。完璧にごまかしきれる! 心配は無用。さぁ、ゆっくりと目を開けるんだ輝一─────
「……………」
「──────」
目を開けたら完全にお目覚めになられている姫がおられました。
いつの間にか歓声はかき消え、痛い沈黙が身を削る。
オワタ。
そんなテロップが大変腹立つ絵文字とともに頭の中をゆっくりとよぎっていく。
どうする!? もう諦めて謝り倒すか? 悪気はなかったって土下座するのか? つーか赦してくれんのかコレ!?
身体が北極に放り込まれたかのように震える。その震えた手に連動して凜の小さな胸も震える。死にたくなってきた。
……いや、まだだ。俺の
目に炎を宿し、震える身体を必死で押さえ込む。痛いのは嫌だろ、まだ死にたくはないだろう輝一。だったらやるしかないないんだ、今この瞬間で世界をも騙しきれ──!!
そうだ、足掻け、笠原輝一ィィイイッッ!!!!
そうして俺は手に力を込めてゆっくりと
「やぁ!! ボクはオッパイの精霊、キーチ! 君の胸を大きくするためにやってきたんだ!! (輝一裏声)」
そう言い終わった瞬間、ガッチリと顔面を手で覆われて目の前が真っ暗に─────
*
「笠原のヤツ……ホントに大丈夫なんだろうな?」
コツコツと手際よく、食材を切りながら少し前に子悪党のような胡散臭い笑みを顔に張り付けて出ていった友人を思い浮かべる。例え相手があのあかいあくまだとしても、仮にも女の子の部屋なのだ。男が無遠慮に入るもんじゃない。ここは同性のセイバーに頼んだほうがよかったかもしれない。それに何より最後の言葉が不吉すぎる。
「大丈夫ですよ、先輩。笠原先輩は優しいですから、最後のは冗談ですよ」
頼むから余計なことはしてくれるなよ、と手早く魚を卸しながら別館へ向かっているだろう笠原にむけて念波を送っていると、隣で味噌汁を作っていた桜が小皿に味噌汁を入れてこちらへ差し出しながら言う。うむ、うまい。
「そうです、シロウ。キーチのあれは単なる例え話でしょう。心配にはおよばない。それよりも、いい匂いがしてきましたね」
そうやってそわそわし始めたセイバーに桜がニコニコと笑顔で小皿を差し出す。
「セイバーさんも味見、どうですか?」
「はい、頂きます」
そんな微笑ましいやり取りを聞きながらポツリ、と呟いてみた。
「でも、あの笠原だぞ?」
突如、空気に亀裂が走ったような乾いた音がした。
「大丈夫ですよ、先輩。笠原先輩は優しいですから、最後のは冗談ですよ。………きっと」
「そうです、シロウ。キーチのあれは単なる例え話でしょう。心配にはおよばない……多分」
壊れたラジカセのような清々しい棒読みっぷりを発揮した二人は誤魔化すようにひきつった笑顔を見せる。
笠原輝一。
オーソドックスな日本人のカラスのような黒髪と黒い目を持ち、背は一八〇センチと長身でつり上がった目尻と合間って下手な不良より威圧感があるのだが、いかんせん頭の中が年がら年中お祭り気分みたいな男なので完全に見かけ倒しとなっていて、所詮三枚目といったヤツである。
それにくわえて普段からあんな性格をしているせいかあいつのまわりにはトラブルが頻発する。というか、最早自分からトラブルに飛び込んで行ってるんじゃないのかってぐらいの勢いだ。しかも本人に自覚がないから始末が悪い。ウチの学校で数々の伝説を作り上げたが、それに巻き込まれた人間は数知れず。そうして付けられた二つ名は『A級戦犯』。 かく言う俺も巻き込まれたことのあるクチで後に『第一次リアルアドミラブル大戦』と呼ばれた───それはもうこれで一つの短編小説が書けるぐらいに込み入りながらも素晴らしく馬鹿馬鹿しい───事件だったのだが、高校に入ってからの付き合いでこんな感じなのである。ホント、幼なじみをしているという遠坂には頭が下がる思いとささやかな同情を禁じ得ない。いや、別に悪いヤツではないのだが。
まぁ、ここまでが表の顔、今まで机を並べていた友達としての笠原なのだが、あいつにはその他にももう一つ別の名前を持っていたりする。
『勇者』笠原輝一。
ここではないどこか、すなわち『異世界』に喚ばれてそして、世界を救う為に魔王と戦った『勇者』。
簡潔に言ったらこんな感じだ。小学生、中学生を通り抜けたことのある男は必ず想像する悪くいえば使い古された、ありきたりな物語。事実、笠原本人も『店頭で山積みになってそう』と評価する程に形式的なそして見事に典型的だった。
でも、それは決して悪い意味ではない。むしろみんなが一度は想像するありきたりさはつまり、それだけ多くの人間が一度は夢に見る普遍的な理想なのである。
相応しい言い換えをするのなら、王道。
もしかしたら、現代だけに限っていえばランサーのサーヴァントであるクーフーリンや褐色の巨人、バーサーカーよりも有名なのかもしれない。──この二つを分けるのは歴史が浅いのと主人公が固定化してないという些細な違いしかないのだから。
そしてそれと同時にこれは笠原輝一の物語でもある。あいつの話はざっくりと一通り聞かせてもらったがあくまでもざっくりとだ。細大もらさず話してもらった訳でもないがそれでも、昔の冒険譚を話している時の笠原はとても誇らしげで、何よりも嬉しそうだった。まぁ、その後は遠坂のやつにしこたま怒られてはいたが。
きっと遠坂は遠坂で思う所があったのだろう。そりゃそうだ、今まで普通の幼なじみだったやつを いきなり裏世界のそれも聖杯戦争なんてとびっきり物騒な殺しあいに巻き込こんだ挙げ句、サーヴァントなんていう伝説上の英雄に護るどころか逆に護られてんだから驚くほかない。俺だって桜や藤ねぇがそうなってたら恐らく同じ反応をする自信がある。……いや、藤ねぇの場合はそんなに驚かないかもしれない。無理が通れば道理が引っ込むを地で行ってるからなぁ、『へぇ、そう』とかで終わりそうな気がする。なんというか、普通に道場とか作って弟子とかとってそうだ。でもなんだか、それはそれでザワザワと落ち着かなくなる、とくに心が。
それに俺としても何も思わなかったわけではない。勇者となって魔王を倒した笠原の存在は『正義の味方』という目標があってもそこに至る手段が見つけられずに燻っていた俺にとってもいい刺激になっていた。
浮かび上がるのは一つのイメージ。
──果てしなく、月が霞む程の暗い夜の中、 浮かび上がる頼もしい背中。
──握る剣はたとえ闇に包まれていようともだだひたすらに尊く、うつくしい。
──決して退かず、まっすぐに前を見つめる眼はしっかりと敵を見据えていて。
──ゆっくりと不敵な笑みを浮かべる笠原はさながら風のように敵に駆けていき、そして、
「うぎゃぁぁあああアアアアアアアアッッ!!!!!!」
───盛大に悲鳴を上げ、敵にぶっとばされた。
ん? アレ? なんかおかしい。普通ここは颯爽と敵を斬り捨てる場面じゃないのか?
というか、
「ちょ、マジごめん!! グボッ! いや、ホントに事故だったんだってっ!! でなけりゃそんな板にさわ痛いぃぃぃいいい!! ち、違う! この『いた』は『痛い』の『いた』であって『まな板』の『いゲェフゥッッ!! もう、本当にごめんなさい! もう二度としないから! 誓う、誓います!! だからその、腕から手を離し……ぁぁあああ!! う、腕がプランプランに、俺の腕が……ッ!! つか何!? そのドイツ語と指先にあるまっくろくろすけみたいなヤツ!?
いやぁぁあああ!! とこの世終わりみたいな絶叫が響いた後、ぷっつりと静かになる。
完全無欠に悲鳴だった。
「……………」
「……………」
「……………」
一体あいつは何をやらかしたんだ。
思わず桜やセイバーと顔を見合わせるが誰も何も喋らない否、喋れない。
グツグツと鍋が煮える音だけが妙に寒々しく聞こえる。
嫌な、なんとも言えない沈黙がしばらく続いたが、縁の下の力持ち属性の桜には耐えられなかったのか、おもむろに口を開いた。
「……あ、あの!」
一体この状況下でどんな事を言うのか、俺とセイバーの視線が集まる。
その視線の集まりに耐えかねるのか、しばらく目をキョロキョロ所在なく動かした後、意を決したように小さな手を胸の前で握って、
「お、お魚、もう焼いちゃっていいですか…………っっ?」
全力で逃げた。
当然の選択である。
誰が好き好んで関わろうというのか。
それにこの国はこんな有り難い言葉が存在している。
知らぬが仏。
なんとも、いい言葉だ。思うだけで心が安らぐ。
「そうだな、じゃあ、頼めるか?」
「はい!」
「セイバーもお箸とか食器類を運ぶのを手伝ってくれ」
「承知しました。全身全霊を込めて挑みます」
テキパキと手際良く進む朝食の準備。
それを現実逃避と人は言う。
「それにしても」
少し高い所にある戸棚に背伸びをしつつセイバーは言う。うん、なんかだか可愛いぞ。見ていて微笑ましくなる。
「なんだよセイバー」
「キーチとリンはどうしたのでしょう? まだ寝ているのでしょうか?」
あ、笠原のアレ、なかったことにしたんだ。
さすが剣の騎士、容赦がない。
「本当ですねぇ。笠原先輩と遠坂先輩もうそろそろ起きないと遅刻しちゃいます」
「まぁ、大丈夫だろ。その内、飯の匂いに誘われて起きてくるさ」
「そうです、サクラ。こんなに美味しそうな朝食を逃すなんてありえません。必ず起きてくるでしょう」
誰も起こしに行く、とは言わない。あくまでも自主性に任せるのがウチのルールだ。………別にひびってるわけではない、断じて。
そんなこんなで朝食の準備も終わりに近づいた頃。
廊下の方から足音が聞こえてきた。
きた………ッッ!!
俺を含めた三人はだるまさんが転んだをしているようにその場でピタリと停止する。
桜なんかビックリしすぎてお玉を持ったままへっぴり腰で止まっていた。何もそこまでおどろなくても、と笑い飛ばせないのがつらい。
トタトタと足音が近づいてくるにつれてこめかみから嫌な汗が出くる。
ええい、覚悟を極めろ衛宮士郎!! 現実から眼をそらすな! たとえどんなことがあっても受け入れろ──!!
「おはよう、士郎、桜、セイバー。いい朝ね」
と意気込んだのはいいが案外普通に挨拶された。遠坂はすでに制服も、髪も整えてあってパッと見た感じ普通である眠そうな様子もない。後ろにいる笠原も特に外傷はなさそうだ。あれだけ我が家に響いた悲鳴が嘘のようである。台所の隅の方でセイバーと桜も安心したようにつめていた息を吐いたのが見えた。
が、一つ言わせて欲しい。
よく見てみると所々おかしなのが見え隠れしているのは気のせいか。
とりあえず、言いたいのはまず笠原のTシャツ。
遠坂を起こしに行ったときは白の無地だったのにいま見るとやたら豪快な筆文字で『血祭り』と書いてあるのはなんなんだ。絶対汚れたから一回着替えただろ。何に、とは言わないが。しかも笠原のヤツ、普通に立ってるみたいに見えるけど瞳孔が開いてるぞ!?
本当に大丈夫なんだろうな!? 死んでるんじゃないのか、コレ!?
「あー、遠坂?」
「何かしら、衛宮君?」
何気ないいつも道理の遠坂の返答だが、……なんか、その背後に般若像が浮かび上がってるんだが、目の前錯覚か?
「なんか……、笠原は生きてるのかっていうか、その、大丈夫なのか?」
「一体、何を言ってるの? 衛宮君。輝一ならいつもどおりよ。いままで寝ていたからついでに起こしにいったの」
ね、輝一? と微笑みながら遠坂にそう言われた
「ようこそ、ゆうしゃりん!! ここはえみやじょうだよ!」
……村人にジョブチェンジしていた。
「どこがいつもどおりなんだ!? 何があったかしらんが、どうなったらこんなことになるんだ!?」
「か……、笠原先輩、大丈夫ですか!? だ、誰か衛生兵、衛生兵を呼んできてください!!」
「お、落ち着いてください、サクラ。衛生兵は来ません。ここは私たちが何とかしなくては」
桜が笠原を正気に戻すため肩を小さく小突いていたが、当の笠原はまるで背骨がバネにでも変わってしまったかのようにびぃょんびぃょん横に大きく揺れるだけであった。まったくもって朝から気分の悪くなるような風景である。
「おかしいわね。ちゃんと、
そんな笠原を見てにボソリ、と呟く遠坂。小さく舌打ちするその様子には在りし日の学校のマドンナの姿など微塵も感じられない。ああ、昨日かろうじて生き残っていた憧れががらがらと完全に崩壊していく。
「ようこそ!! ゆうしゃさくら!! ここはえみやじょうだよ!」
「わ、わたしは勇者じゃないですよ! もう、しっかりしてください!!」
「サクラ、古来よりこの国に伝わる修理法を試してみてはどうでしょう」
「修理法……? それってどんな……?」
「ものは試しです。やってみましょう」
信じてたものに裏切られたような気分になり少し気落ちしていた横で笠原をどうにかして元に戻そうと四苦八苦していた桜は策が閃いたらしいセイバーに視線を向けていた。
自信満々といった様子で立ち上がるセイバーは右手を手刀の形に変えて笠原に近づく。
「斜め四十五度に構えて───」
ゆるり、と右手を掲げる。その姿はまさしく、武人。持ってないはずの剣まで見えそうだ。そしてそんななんとも言えぬ迫力を発しながらセイバーは、
「──たたくッッ!!」
真っ直ぐ振り落とした。いや、振り落としたみたいだ、が正しい言い方だろう。なんたって振り落とす手がまるで見えなかった。気がついた時には、ドゴォッ!! と人類が奏でちゃいけない音とともに畳に頭から突っ込んだ笠原しか見えなかったのだから。
「おい、セイバー!! 力加減を考えろよ!」
「む、すいません。なるべく強い力を加えれば効果が上がると思ったんですが」
力うんぬんの前にそんなアナログな治し方が通用するのは白黒テレビぐらいしかないことを理解してほしかった。
「あの、笠原先輩!? 生きてますか!?」
床にへばりついた笠原の頭を起こし、ペチペチと頬を張る桜なのだが、動揺してるらしい。ビンタの往復速度が早い、だから加減をしてやれって。
……しばらくして桜の往復ビンタが効いたのか唐突に瞼をぱっちり開き、赤く腫れ上がった頬を動かして口を開く。
「───なぁ、なんで俺、こんな所で寝てんの? つーか頭とほっぺが異常にジンジン痛むんだが………。一体全体どうなってやがる、俺、確か凜を起こしに行ったはずじゃ……」
……色々言いたいことはあるが、とりあえず笠原が復活したことで良しとしよう。だからセイバー、自慢げな顔をするな。今回は例外だからな、他の人間には絶対するなよ。
隣にいる桜と顔を見合わせ、ため息を吐く。いつもは朝飯食べるのにここまでの時間は掛からないのに今日は朝っぱらからどっと疲れた。こんなの続けたら先が思いやられる。
そんな中、現状を未だに理解しきれずしきりに首を傾ける笠原にいままで沈黙を保っていたあかいあくまが動き出した。
「違うわ、輝一。あなたが起きるの遅かったからわたしが起こしに行ったのよ。大体いつも『たまには幼なじみとしての仕事をしろ』って文句言うじゃない。だから今日はあんたの言うとおりにしてあげたのに」
「えー? そうだったかぁ? なんか柔らかい鞠みたいな感触が手に「残ってないわよ」………え?」
ぞっと背筋が逆立つような声音で遠坂は言う。
「わたしが起こしに行ったんだからその手は何も触れてない。だから何の感触も残らない」
「いや、だって…………」
「だってもなにもない。………それともなに? あんた、わたしが嘘でもついてると思ってんの?」
……いつの間にか、本当に極めて自然な動きで土下座していた笠原の頭の上にスカートの絶対領域が見えるようで見えないように絶妙な角度で右足を乗せる遠坂の姿はさながら一体の銅像のように様になっていた。というか完全にやりなれてるな、と思わせるような見事な手際の良さだった。
「あんたは何もしなかった、見なかった、触らなかった。……はい、復唱」
「俺は何もしなかった、見なかった、触らなかった」
「これまでの過ちを悔い改め、わたしに『Antique』のガトーショコラをご馳走します。はい」
「いや、それかんけ「復唱」……これまでの過ちを悔い改め、遠坂凜様に『Antique』のガトーショコラをご馳走します」
『Antique』のガトーショコラ、価格七三〇円。
輝一の奉仕、時給〇円 。
普段の二人の関係がよく分かる光景だった。
「しっろーっ! ご・は・んー!」
がらがら、と玄関の扉を開ける音と共に元気な声が響き渡る。どうやら虎のお出ましらしい。すでに遠坂と笠原は俊敏な動きで机にちゃっかりついていた。見事な変わり身っぷりである。
大変賑やかな足音が暫く続いた後、飛び出すといった表現がぴったりハマるような勢いで居間に入ってくる藤ねぇ。
「おはよう、みんな!」
元気いっぱいな挨拶にそれぞれが答える。いつもより倍近く返ってくる返事に満足げにうむ、元気があっていいことじゃ、なんておどけて頷く。いや、アレは果たして元気と言っていいのかどうかははてしなく疑問だが。
「アレ、どうしたの士郎? なんかお疲れ?」
いつの間にか、ずいっと顔を覗きこまれてた。やれやれ、 どうやら顔に出ていたみたいだ。
「ま、色々と大変でして」
「ふーん。でも、それはそれで悪くない、って思ってるでしょ?」
「………、」
何も返さなかった俺を見てムフフと得意げに笑うとさーごはん、ごはんーなどと鼻歌混じりでいつもの場所に座る藤ねぇ。
やっぱりかなわないな、本当に。
藤ねぇが差し出す茶碗にしゃもじで出来立ての白米を山盛りによそいながらそう笑った。