冬の夜は寒い。閑散とした公園のベンチで、今日も私の隣に座っている青年は、日の光が当たる昼間とは違い、太陽の光に照らされた月が申し訳程度にぼんやりと浮かんでいるだけなので温かくなるはずもなく、風の一つでも吹けばガタガタと体を震わせていた。
私は平日だろうと休日だろうと塾がある。朝早くから弓道部の朝練とために早く家を出て、放課後も部活をして帰ればすぐに塾で勉強という毎日だった。そんな日々を過ごすうちになれてしまったのか、それとも私が壊れてしまったのか、だんだんとしんどさを感じることはなくなった。
私は家でも学校でも塾でも優等生として生きている。成績は毎回トップ、運動もできる。人当たりもいい。礼儀正しい。何をやっても大体のことはできた。さすがはまふゆ。朝比奈さんは凄いね。そんな言葉を何回聞いただろう。親の期待もクラスメイトの羨望の眼差しも17年の人生の中で、もはや当たり前のことになってしまっていた。
でも、そんな当たり前の日常がほんの少しだけ壊れた。
塾に男子生徒が新しく入ってきた。名前は比企谷八幡という。目は腐っていると言っても過言ではないくらい濁っていて、おまけに猫背。うちの塾は個別指導というわけではないので、当然自己紹介もあった。慣れていないのか結構盛大に噛んでいて、容姿も相まってか、周りの生徒はくすくすと笑っていた。このころには私はだいぶ壊れていたので、何が面白いのかは全く分からなかったが、とりあえず笑顔を浮かべておいた。その時に比企谷君と目が合ったが、その時の彼の私を憐れむような眼差しが妙に印象に残っていた。
それからしばらくは特に何も変わらなかった。変わったのは、模試の結果の返却日だ。私はいつも通り返却が始まるまでは生徒たちに囲まれていて、彼は一人机に突っ伏している。しばらくして、先生が模試を返却するために前に立った。名前の順で返されるので、私はいつも一番最初だ。どうせいつも通り、よく頑張りました、だの今回も一位ね、だの言われるのだろうと思っていた。しかし、それは覆された。
「惜しかったわね。」
間違いなく先生はそう言ったのだ。一瞬頭がこんがらがって、自分の結果に目を通してみた。
○○進学教室 朝比奈まふゆ
教科 得点 全国 都道府県 塾内
国数英総合 598/600 3/291627 2/36242 1/32
国数英理系 598/600 2/136539 2/16192 1/27
数英 理系 399/400 2/142521 2/16617 1/27
数英理理系 597/600 2/137462 2/16783 1/27
5教科総合 794/800 2/249311 2/33194 1/32
国 語 199/200 2/327022 2/39221 2/32
数 学 200/200 1/308736 1/36934 1/32
英 語 199/200 4/348723 3/39987 1/32
地 理 B 98/100 2/100038 2/10003 1/27
生 物 98/100 2/ 82865 1/ 7211 1/11
化 学 100/100 1/118619 1/14825 1/27
塾内順位が、国語だけ2位だったのだ。しかも国語は1点落としで2位なので200点の同率一位はおらず、全国で一人しか満点がいないことになる。クラスメイト全員、私の結果をのぞき込んで、ひどく驚いていた。誰が国語で一位をとったか、みんなの反応を見れば一目瞭然だ。みんなの視線も彼の方に向いている。そう、比企谷君だ。彼だけは私の結果を見ていない。受け取ってまっすぐに自分の席に戻っていた。
身近な人に負けたのは初めてのことだった。全国で見れば総合3位なので、負けるはずがなかった。聞いてみたかったので、比企谷君の方に近寄って声をかける。
「ねぇ、比企谷君。」
比企谷君はビクッとしてから恐る恐るこちらを見る。
「あはは、そんなに怯えないで。」
どうやら声をかけられるのに慣れていないらしい。その割に警察の職質にはよく遭うらしくあまりいい記憶がないとのこと。ちょっと不憫。
「ところで、比企谷君って、国語は何位だった?」
比企谷君は1位と答える。予想通りと言えばそうだが、実際に彼の口から聞いてもう一度周りはどよめきだす。
「すごいね!私は1点落としちゃったんだ。」
いつも通りの声音で彼に賛辞を送った…はずだった。次の彼の一言が、私の日常に罅を入れた。
「それ、疲れないか?」
彼は私にだけ聞こえる声の大きさで聞いてきた。今まで親からもクラスメイトからも気づかれることはなかったのに、ここで初めて、私が取り繕った偽物であることに気が付かれたのだ。彼が気を使ってくれたのか、周りに聞かれることはなかったが、さすがに動揺までは隠せなかった。一応、口止めはしなくてはならない。そう考えた私は、
「今日、一緒に帰ろう?」
取り繕った偽りの私で、彼を誘った。彼が断わりそうだったので少し圧をかけてあげると渋々とOKを出した。周りの男子がやけに騒がしかったが、なぜなのかはよく分からない。
夜の10時ごろ、ようやく授業が終わったので比企谷君と一緒に帰路につく。沈黙のが続いたので話題を出そうとすると、比企谷君は無理しなくてもいいと言ってくれたので、素の自分を出す。目は比企谷君と似たり寄ったりでどんよりとしていて、声のトーンもいつもより低い。だけど、比企谷君は特に驚きもせず、むしろさっきよりも少しだけだが話すようになった。
さっきの件の口止めがしたかったので公園のベンチを指さして一緒に座る。早速要件を言うと、彼は特に渋ることもなく了承した。なんでも、そんなことを話す知り合いもいないらしい。
用件は済んだので帰ろうと立ち上がったが、比企谷君は座ったままだった。心なしか顔色も悪い。どうしたのかと聞くと、どうやら家に帰りたくないらしい。座りなおして理由を聞くと、少しためらった様子を見せたが、話してくれた。
なんでも修学旅行の際、高校の部活で真逆の依頼を強制的に受けさせられ、嘘告白というやり方で何とか解消したが、信頼していた部員たちからは拒絶され、依頼人たちはそれを真意を伝えずに広め、友達も離れて行っていじめを受けているらしい。しかも部員が比企谷君の妹さんにも告げ、それがそのまま親に伝わり、毎日その人たちに謝りに行けと催促されているらしい。
だから家にいたくないんだ。と締めくくった。
「比企谷君が今どう思っているのかはよく分からないけど、君が謝る必要はないと思う。」
比企谷君の驚いた表情が映る。
「もし仮に謝るとしても、比企谷君が謝るべき相手は告白を計画してた人だけだと思う。それ以外の人は比企谷君に迷惑をかけただけで、それどころか比企谷君に助けられたんだから。」
言い終えたとき、比企谷君は泣いていた。信じていた友達や部員、さらには家族にまで信用されず、つらい思いをしてきたのだろう。気が付いた時には、なぜだか分からないけど比企谷君を抱きしめていた。普段は暑さも寒さも感じないが、この時、久しぶりに人のぬくもりを感じた。
比企谷君が泣き止んだ後、私に抱きしめられていることからの羞恥心のせいか、耳まで真っ赤にして謝ってきた。そのあと、比企谷君はさっきまでとは打って変わって真剣な表情で、私には何があったのか、と私に踏み込んできた。他の人に両親やクラスメイトとはうまくいっているかを聞かれたときには優等生の仮面をかぶって平然と嘘をつくが、比企谷君になら話してもいい気がした。
両親からは期待を押し付けられていること。幼いころに私の将来の夢が看護師がと伝えたら、医者の方がいいんじゃないかと言われ、いつの間にか夢が医者になっていたこと。私がいい子であることが当然であるように思われていること。いい子を演じるうちに感情や暑い、寒い、果てには味覚まで無くなってしまったことを伝えた。
比企谷君は大変だったな、と言ってくれた。そして、俺の前ではありのままの自分で居て欲しいとも言ってくれた。嬉しいというのも悲しいというのもよく分からないので、比企谷君のように涙は出なかったが、少しだけ心が軽くなった気がした。
話し終わった後、比企谷君とは連絡先を交換して別れた。両親に遅かったじゃないかと問い詰められたが、先生に分からなかったところを質問していたと答えると両親はいつものようにまふゆは勉強熱心ないい子だと褒めてくれたが、何も思うことは無かった。
その日以来、比企谷君とはよく話す仲になった。とはいっても塾では優等生を演じているので、話すのはいつも塾から帰る時だ。話していると気が休まるし、沈黙も不思議と心地よかった。比企谷君といると、忘れていた楽しいという気持ちが湧いてくる。楽しいと思っているのは私だけではないようで、私と同じで顔に出づらい比企谷君に問い詰めると顔を真っ赤にしながら、私といると楽しいと言ってくれた。
気が付けば、休日も集まる約束をして一緒に出掛けるようになった。ショッピングモール内を歩き回る日もあったし、いつもの公園のベンチに座ってただボーっとしている日もあったし、テストが近くなれば、近くのファミレスで勉強会をする日もあった。比企谷君は理数系が壊滅的だったが、勉強会の成果が出たのか、もはや学年トップだと言っていて、模試の成績も私と張り合えるぐらいに成長した。入学式の日に事故に遭って置いて行かれたからできなかっただけで、少し教えればすらすらと解けるようになっていった。
比企谷君と出会ってから、毎日が楽しかった。人生に色が付いたようだった。
時には不快になることもあった。休日に比企谷君と出掛けているとき、比企谷君の部活のメンバーと鉢合わせてしまった事があった。比企谷君の話を一つも聞かずに、一方的に悪口を言ったり謝罪を要求したり。挙句の果てには私と一緒にいるところを見て私が比企谷君に脅されて無理やり一緒に行動させていると言いがかりをつけ始めて警察を呼ぼうとしたこともあった。私が何度違うと言ってもそう言えと脅されているといって聞かなかった。幸いショッピングモール中の店の前ということで、痺れを切らした店員さんが先に騒ぎ立てた部員二人を営業妨害で通報すると言ったことで幕は下りた。
こんな感じで、嫌なこともあったけど、それ以上に楽しいと思える毎日だった。こんな毎日がずっと続けばいいのにと思った。
だけど、現実は…、私たちを取り巻く環境はそう甘くはなかった。
ある土曜日、いつも通り比企谷君と出かける約束をしていたが、時間になっても、それから何時間たっても比企谷君が来ることは無かった。電話をかけてもメールを送っても、電話番号もメールアドレスも使われていないと表示されるだけだった。
次に比企谷君に会ったのは、金曜日だった。いつも通り塾にいると、比企谷君が入ってきた。だけど、様子がまるで違っていた。頭には包帯を巻いていて、顔や長そでから出ている手は擦り傷と切り傷だらけだった。それに加えて彼の表情は途轍もなく暗く、目にも光は一切映っていなかった。これには、比企谷君とあまり関わっていなかったクラスメイト達も心配していた。
帰り道、走って帰ろうとする比企谷君を捕まえていつもの公園のベンチに座らせた。散々走ったからか、はたまた彼も感覚をなくしてしまったのか、初めてこの公園で話した時のように震えてはいなかった。
「まさか、足の速さで負けるとは思わなかったな…。」
「私、足の速さも学年トップだから。」
それから、比企谷君に何があったのかを聞いた。比企谷君は黙ったまま、時間だけが流れた。親からの電話が鳴りやまず、煩わしかったので電源を落とした。
それから数十分後、ポツポツと話してくれた。その内容は想像を絶するものだった。
この前のショッピングモールでの出来事も部員経由で比企谷君の妹に伝わったらしく、当然のように親にも伝わった。
そして今度は、彼が来なかった土曜日に彼のお父さんとお母さんに首根っこを掴まれて謝罪させられに行ったらしい。お父さんとお母さん、妹からは殴られ蹴られ、謝罪させられに行った先では無理やり土下座をさせられ、さらに相手からは頭を何度も何度も思い切り踏まれたらしい。家に帰ってからは、コツコツと貯めたなけなしの月500円のお小遣いを没収され、携帯も売り払われたらしい。家の出入りも学校以外は禁止と言い渡されたらしく、今日塾にこれたのも、比企谷君の両親と妹が彼を置いて小旅行に行ったかららしい。
「正直言って、もう…生きていたくない…。」
彼が心の底から搾り出した声だった。
「比企谷君。」
返事は無い。
「比企谷君は私の生きがいなの。」
返事は無い。
「毎日毎日優等生を演じて、誰も本当の私を見つけてくれなくて本当の私が分からなくなっちゃったけど、比企谷君が見つけてくれたの。」
返事は無い。
「比企谷君がいないと、私は私じゃなくなっちゃうの。」
返事は無い。
「だからね、比企谷君が…」
貴方が消えたいと望むなら 私も一緒に消えてあげる。
二人は立ち上がって歩き出す。
どこまで行くんだ?
どこまででも
end