エデン条約を発端とした大規模な騒動から数日が経ち、ゲヘナとトリニティにも日常が戻りつつあったある日のこと。時刻は午後10時を過ぎようとしていた時のことでした。
私は特にやることもなく、自分の部屋で何の気なしに本を読んでいると……
「……あら?」
モモトークの着信音。
本を読む手を止めて端末を確認すると、メッセージの送り主は私のかわいい後輩の一人、アズサちゃんからのものでした。
『ハナコ、いま時間は大丈夫?』
『どうかしましたか?』
こんな時間に、一体私に何の用事でしょうか?
ちょっとだけ心配になっちゃいますね……
『次の試験に向けて勉強をしていたんだけど』
『問題の中に分からないものがあって……』
『その……』
『ハナコの助けが必要で……』
『勿論、無理にとは言えないけど……』
ですが、そんな心配とは裏腹に、トークの内容はなんと"私に勉強を見てほしい"というお願いの連絡でした。
まさかアズサちゃんの方から、こんなことをお願いされるなんて……
補習授業部のみんなが集まったときに、勉強を教えたことは今までも多くありましたが、こうして連絡を貰うのは初めてです。ちょっと驚きました。
ですが、それだけ私のことを頼りにしている、ということなのでしょう。
そう考えると、とても嬉しくなりますね、うふふっ。答えはもちろん、OKですよ!
『いえいえ、大丈夫ですよ』
『わからない部分はどこですか?』
『ありがとう』
『今写真を撮るからちょっと待ってて』
『わかりました!』
次の試験の範囲は既に把握済みです。抜かりはありません。
教科書も参考書も、私の部屋には一通り揃っていますから、資料に困ることもないでしょう。
アズサちゃんには申し訳ないですけれど、突然訪れた非日常に僅かばかり興奮しながら、必要な資料を準備します。
『写真の撮影が完了した』
『いま送るので確認してほしい』
送られてきた画像を確認……うん、これくらいなら私でも十分教えられそうですね。
まあ、私が教えられないような問題が出題されるなんて、"あの時"ですらなかったんですけどね。……なんて、今はそんなことどうでもいいですね。
なにせ、可愛い可愛い後輩からの頼まれごとなんですから。
『確認できました』
『では、1枚目の写真の問題から始めましょうか』
『どうか、よろしく頼む』
それでは、ミッションスタートです!今の私はやる気に満ち満ちていますよ!
「浦和ハナコ、一肌でも何枚でも脱がしていただきましょう!」
『それではまず──』
こうして、私とアズサちゃん、二人だけの特別授業が始まりました。
あ、"二人だけ"の"特別授業"って何だかイケない響きですね?うふふふ……
~~~~~~~~~~
なんて、甘く考えていましたが……
『"誰ぞ彼"、と"彼は誰ぞ"』
『この2つの言葉は、どちらも人の顔が区別つきにくい時間、という意味の言葉です』
『元々は明け方、夕暮れどちらの意味でも使えた言葉だったのですが──』
夜遅くに通話、というのは周囲のことを考えて避けるべき、そう考えてモモトークを使って勉強を教えることとなったのですが……
みんなで集まって顔を合わせて教えていた時とは違い、モモトークで勉強を教える、というのは思っていたよりも大変なことでした。
アズサちゃんが分からない問題は、写真を撮影して送ってもらってそれで済みましたが、問題の説明や解説となるとそうはいきません。私は言葉を全て端末に入力する必要があります。
結果として、一つの問題を解説するのに、普段よりも時間がかかってしまいました。
おまけに、液晶を見続けていたせいか、なんだか目が重く感じてきたような……
「結構大変ですね、これ……」
せっかく私を頼ってくれたというのに、あまり力になれていない気がします。何とも歯がゆいですね……
ですが、今は泣き言を言っている場合ではありません。他ならぬアズサちゃんからの頼まれごとなんです。
ええ、このミッションは最後までやり切って見せましょうとも。
『──今では夕暮れを"黄昏時"、明け方を"彼は誰時"と表します。』
『つまり、今回の問題で使われているのは、"彼は誰時"だから』
『この場面は朝の出来事ということになるのか』
『その通りです!』
『なるほど、理解した』
それでも勉強を教えること自体は、決して苦ではないんです。
なにせアズサちゃんはとても優秀な子ですから。
一度問題の解き方を教えれば、すぐに理解をしてくれますし、疑問に思ったことはきちんと質問をしてくれます。何とも教え甲斐があるというものです。
『ここまでで何かわからない点はありますか?』
『今のところ大丈夫』
『説明が分かりにくくはないですか?』
『いや、とてもわかりやすい』
『むしろ、ハナコの方は大丈夫?』
『無理はしていない?』
おまけにアズサちゃんは優しい子です。
優しくて強くて可愛いだなんて、隙が無さすぎではないでしょうか?
ちょっとくらいその可愛さを、私に分けてほしいくらいですね、うふふっ。
勿論、私の心配をしてくれるのはとても嬉しいんです。
ですが、折角アズサちゃんがやる気なんですから。ここで水を差すわけにはいきませんね。
『いえいえ』
『何といってもアズサちゃんからの頼まれごとですから』
『むしろ、もっと頼ってもらっても構いませんよ?』
という訳で、ここで頼れるお姉さんアピールを。
あ、この感じはなかなか良いですね。私、今カッコいい先輩……って感じではないでしょうか?
勉学に勤しむ、というのもまた、青春の在り方の一つですよね。
『ありがとう、ハナコ』
『それじゃあ、もう少しだけ付き合ってもらえる?』
『勿論です!』
~~~~~~~~~~
そんなこんなで、授業開始から一時間が経過し、時刻は午後11時過ぎ。
アズサちゃんが優秀だったこともあり、どうにか無事にすべての問題を解説することができました。
『ハナコ、今日は遅くまでありがとう』
『アズサちゃんもお疲れ様です』
『これで、今日の分はは大丈夫そうですか?』
『大丈夫、抜かりはない』
『なら、良かったです!』
本当によく頑張りました、私も。
……これは寝る前に目のケアが必要ですね。目薬は常備してありませんから、とりあえず、よく温めてから寝るようにしましょう。
ともかく、これでミッションコンプリート。最後はお休みの挨拶で締めましょうか。
そう、思っていたのですが……
『やっぱり、ハナコ凄いな』
……はい?
『いろいろなことを知っているし、教え方も丁寧で分かりやすい』
『それに頭の回転もとても速い』
『えっと、そんなことないと思いますけれど……』
あれ?あれあれ?何だか変な流れになってきてるような……
『いや、そんなことある。先生から聞いたんだ』
『あの騒動の時にハナコがトリニティに残って、一人で頑張ってくれていたこと』
『そういえば、そのお礼をまだちゃんと言っていなかったと思って』
あ……
『その、今伝えることでは無いと思うんだけど……』
『ありがとう、ハナコ』
『ハナコ達の助けがなかったら、私は今こうして平和に過ごすことはできなかったと思う』
『おまけに、こんな時間まで勉強を教えてもらってしまって』
『ハナコにはいつも助けてもらってばかりだ』
『私なんかより、アズサちゃん達の方がよっぽどすごいと思いますよ』
これは紛れもない私の本心。
私なんかよりもずっと、ヒフミちゃん、コハルちゃん、そしてアズサちゃんの方が立派だと、そう思うんです。
あなたたち三人は、私とは全然違う。私のような異端児とは全然違う、と……
あの時私は、トリニティの暴走を止めようと必死で……
ナギサさんやハスミさん、ツルギさんやサクラコさんが不在の中、何とかトリニティの崩壊を食い止めようとして……
それでも、私一人ではどうすることも出来ず、拘束されてしまいそうになって……
もし、コハルちゃんが、先生が、あのタイミングで来てくれなかったら、私はどうなっていたことか……
結局、私はみんなのために、アズサちゃんの為に、何もしてあげられませんでした。
それに……
『それに、私はアズサちゃんみたいに』
『すべてが虚しいことだと分かったうえで、前を向くことが出来ませんでしたから』
『ハナコ……』
『そんな当たり前で、大切なことを私に思い出させてくれたのは』
『アズサちゃん、あなたなんです』
『だから』
『私なんかよりもアズサちゃん方がとっても凄いんですよ』
いったい私は何を言っているんでしょうね。こんなことをアズサちゃんに話しても迷惑でしかないはずなのに……
きっと端末の向こう側で呆れていることでしょう。先輩として、情けないですね。
それに、もう夜も遅いんですから、いつまでもこんな話をしてアズサちゃんを困らせるわけにはいきませんね。
ちょっと雰囲気がよろしくはないですが、今日はこれで解散としましょう。
『……なんて、あまり面白い話ではありませんよね?』
『今日はもう遅いですし、お開きにしましょうか』
『うん、よくわかったよハナコ』
……ん?何だか会話が噛みあっていないような?
一体アズサちゃんは何が分かったというのでしょうか?
『ハナコが私のことを凄いといったのだから、きっと私は凄いのだろう』
『いや違う』
『私は凄いんだ』
ええ、そうです。アズサちゃんは凄い子です。
『そして』
『そんな私がハナコを凄いと言ったんだ』
『つまり、ハナコは物凄く凄いということになると思う』
『いや、ハナコは物凄く物凄いんだ』
……え?
『えっと、うまく言葉に表せないが』
『その……』
『とにかく』
『ハナコは凄いんだ』
『絶対に』
………。
『だから、あんな悲しいことを言わないでほしい』
『だってハナコは』
『私の大切な友達なんだから』
はあ……
まったく……
私は一体、いつからこんなに弱くなってしまっていたのでしょうか……
今日の授業がモモトークで本当に良かったと、今では思います。
恥ずかしい姿だったらいくらでも見られて構わないのですが、さすがに情けない姿を見られるのは嫌ですからね。
早く返信をしなければいけないのに、端末の画面が見えやしません。疲れ目のせいでしょうか、困りましたね……
おまけに、何と返信したらよいのか、言葉が出てこないときました。いろんなことを知っている、なんて褒められたそばからこんな有様です。
『ありがとうございます。そういってもらえると、とても嬉しいです』
『それならよかった』
結局、返すことのできた言葉は、酷くありきたりなものでした。
こんなメッセージでは表せないくらい、感謝の気持ちでいっぱいなんですけどね。
『それから』
『迷惑じゃなければ、今度は明るい時間に』
『直接勉強を教えてもらえないだろうか?』
『勿論です!』
『いつでも連絡をお待ちしてますよ!』
『本当にありがとう、ハナコ』
ですが、今はこれでよしとしましょう。
今回伝えることの出来なかった感謝の気持ちは、次の機会に言葉で伝えるとしましょうか。ええ、絶対に。
『それじゃあ、今日は解散としましょうか』
『アズサちゃん、おやすみなさい』
『おやすみ、ハナコ』
「ふう……」
アズサちゃんからのメッセージを確認し、ほっと一息。
なかなかにハードな1時間でした。特に最後の数分は、別の意味で……
それでも、疲労感よりも満足感のほうが私を満たしています。
何より……
「みんなと出会えて、本当に良かった……」
先生、ヒフミちゃん、コハルちゃん、そしてアズサちゃん。
嘘と偽りで飾り立てられた私の空虚な日常に、"青春"という鮮やかな色を与えてくれた大切な方たち。その大切さを、今日は改めて実感できました。
いつも私は、大切なものを頂いてばかりです。
そんな皆さんへ、果たして私は何をお返しすることができるのか……正直なところ、今の私にはわからないのです。
ただ、今夜は……
こんなささやかな幸せが、いつまでも皆さんの共にありますよう、ささやかながら祈らせていただきます。
勿論、ただ祈るだけではなく、必要とあればトリニティであろうと何だろうと、傾覆させてもらいますけどね?うふふふ……
そんな思いを胸に、私は真っ赤に染まってしまった眼を何とかするべく、奮闘するのでした。
こちらの作品はpixivの方にも掲載してあります。