エデン条約短編祭   作:キノッピ

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ホシノに背中を押してもらう話(作・のりし炉)

 とある冬の日の、昼下がりのことだった。

 

 しんと冷え切った校舎の中を、すすった鼻に痛みすら覚えつつ歩いていく。まだ少しだけバランスの悪い足音が、人けのないリノリウムの廊下を叩いて響き渡る。

 

 立ち止まって窓の外を見やると、陽光を遮る分厚い雲が、変わらず空を覆っていた。日頃より彩度の落ちた景色が、その寒々しさを浮き彫りにさせているようだった。

 あの時も確かこんな空模様だったなと思い返しつつ……かつて凶弾を受けた脇腹に、そっと手の平を当てる。

 

 先の事件――エデン条約の調印式にて受けた傷も快方に向かってはいたが、未だ完治とは言い難い状況にあった。

 しかしこの程度の怪我で済んだのは、確実にトリニティとゲヘナ、両校の生徒たちのおかげだった。特に文字通りその身を挺して私を守ってくれたヒナと、その後すぐさま応急処置を施してくれたセナには、感謝してもし切れない。

 

 ……グラウンドを見下ろす。降雪の代理とばかりに飛来した砂が、トラックに押し被さってその境界を曖昧に溶かしている。

 この学校が抱える莫大な借金の、その利子部分の返済については概ね見通しが立ったと言えるだろうが……地域特有の砂害など、まだまだ問題や課題は山と残っていた。

 いつかまたこの場所が、まだ見ぬ生徒たちで溢れ返るように。微力ながらその手伝いができればいいと、心ばかりの願いを胸中でこぼしつつ。

 私は背後にあった、「アビドス廃校対策委員会」の表札を振り仰いだ。

 

(……と、その前に)

 

 目的地より一つ手前の空き教室を、小窓からそっと覗き込む。

 学習机を寄せ集め、マットやら何やらを敷いて組み上げられた簡易ベッドの上に……彼女の姿はなかった。よもや床に落っこちてはいないかと室内を見回したが、その小さな背格好はどこにも見当たらなかった。

 

 では既にこちらで待っていてくれているのかと、委員会室の扉を数回ノックし……彼女のものと思しき間延びした応答が返ってきて、私は引き戸を滑らせた。

 

 ……石油ストーブ特有の、むわっとした熱気と臭気が顔面にまとわりつく。

 先の教室ほどの広さもない、感覚としては一人暮らしのワンルームに近いスペース。正面には南向きに設えられた大きな窓と、左右の壁際にはスチール製の書庫が並んでいる。

 部屋の中央には、一際大型の会議用デスクが鎮座していて……果たして、彼女はそこに突っ伏すように腰かけていた。

 

「ホシノ」

 

 声をかける。机に上体を投げ出していた彼女は、その姿勢のままこちらを見上げてきて。

 

「や、先生」

 

 ふにゃり、と。いつもと寸分たがわない、緩く優しい笑みを見せた。

 

 少女――小鳥遊ホシノは、百四十センチ半ばという小柄な体躯の持ち主だった。

 あどけない丸顔にくりくりと大きな瞳の、何とも愛らしい容貌。フローリングまで届きそうなロングヘアが机から流れ落ちる様は、どこかの瀑布を想起させるようだった。

 高校指定のブレザーをまとってなお、小学生とも見紛われる彼女だが……これでもれっきとした対策委員会のリーダーで、そしてこの学校でただ一人の最上級生でもあった。

 

「いや〜、遠いところをわざわざ悪いねえ。おじさんももう若くないからさ、なかなか長距離の移動もしんどくってね~」

 

 そう言いながら身体を伸ばす彼女の、いつものおじさんしぐさに苦笑しつつ。

 

「ううん。急に相談がしたいなんて言い出したのはこっちだから」

 

 言葉を返して、暖気を逃すまいと手早く扉を閉めた。マフラーに手袋、厚手のコートなど各種防寒具を取り払って、狭い室内を見回す。

 

「他の子たちは?」

「今日はみんな、バイトとかお勉強とかでここには来てないよ。かく言う私もこれからお昼寝でね――っ、くふぁ――」

 

 対面に着席すると同時に、彼女が大きなあくびを一つ。添えられた指の隙間から、チャームポイントの犬歯が覗く。

 

「ぅあふ、むにゃむにゃ……うへへ。いやあ、ごめんごめん」

「気にしないで。昨日も遅くまで見回り?」

「ええ~? おじさんにゃ何のことだかさっぱりだな〜?」

「ふふっ。そっか」

 

 露骨に目を逸らされてしまった。

 私としては、頑張ってる子にはちゃんと、頑張ってるねと伝えて褒めてあげたいのだけれど。

 ホシノにとってはどうやら、こういうやりとりは少しくすぐったすぎるらしかった。

 

「……ていうか、そういう先生こそ疲れた顔してるんじゃない? よかったら先生もお昼寝、一緒にどお?」

「うーん……凄く魅力的な提案だけど、ごめんね。もう少ししたら、外回りの続きに行かないといけなくて」

「ありゃりゃ、フられちゃったか〜。残念」

「また今度、ちゃんと時間を空けておくよ」

「お、言ったね? 約束したからね?」

 

 そう笑って再び上体を丸めようとしたホシノが、思い直したように背筋を正す。

 

「あ~そだ。こっちこそごめんね先生、お茶も出さずに」

「あっううん、全然。お構いなく」

「いーのいーの。……こういう時、いっつもノノミちゃんかアヤネちゃんが率先してやってくれるからな〜……よっこいしょっと。え~っと、お茶っぱお茶っぱは~っと……」

 

 そんな風に言いながらも、彼女は存外に手慣れた様子で、背後の棚から必要な道具やお菓子等を次々と引っ張り出していく。

 さすがは最年長――などと思いながら、その小さくも頼りがいのある背中を、微笑ましく見つめていた。

 

 †

 

「は~……染みますなあ。やっぱり甘~いお菓子には、しぶ~いお茶がいちばんだよねぇ」

 

 そこまでいくともうおじさんではなくおじいさんでは?

 なんてツッコミはそれこそ野暮かと自重しつつ。私とホシノは、流れゆくのどかな時間を共有していた。

 

 彼女が用意してくれたお茶菓子は、確かに絶品だった。一見するとただの饅頭だったのだが……実際に口にしてみれば、しっとりとした皮になめらかな餡子が、異様に柔らかく口の中でほどけていく。

 袋を裏返して原材料を確認すると、バターと生クリームが使われていた。成る程これがこの口当たりの良さの正体か、と深く感心しながら舌鼓を打っていると、

 

「……それで? お話って?」

 

 うぐ、と言いよどむ。

 その拍子に危うく饅頭が喉に詰まりそうになり、慌ててお茶をあおる。

 

「わっ、ちょっと先生、大丈夫?」

「っぐ、んぐ――っふう。うん、大丈夫大丈夫……びっくりさせちゃったね」

 

 ……そうだった。脳内で食レポの真似事なんてしている場合ではなかった。

 私は今日ここに、そこそこ真面目な話をしにきたのだから。

 

 ふーっ、と息をつく。机上で両の指を絡めて、最初の言葉を探す。

 俯いて視線を泳がせる私の耳に、ストーブの駆動音と――時折ホシノがお茶をすすって、饅頭の小袋を開ける音だけが届く。

 

 ……正直に言うと、こういう時に何と切り出せばいいのか、全く分からなかった。仮にも教職という立場にある者として、生徒たちから助言を請われることはこれまでも多々あったが……思い返せば、その逆の機会にはなかなか恵まれなかったためだ。

 

 せっかく彼女の貴重な時間を貰っているのに――という焦りが、余計に頭の中にもやをかけていく。

 それでも何とか会話の糸口を掴もうと……唇を湿らせ、息を吸って、

 

「ありゃ、もう最後の一個になっちゃった」

 

 ずる、とずっこける。

 ……出鼻をくじかれてしまった。ホシノは中途半端に伸ばしていた腕を引っ込めて、悩ましげな顔面を作る。

 

「う~ん……今日の先生はお客さんだし、本当は先生に譲るべきなんだろうけど。でもこれ、ノノミちゃんがオススメしてただけあって、すっごく美味しいんだよな~」

 

 話の流れがいまいち見えてこなくて、何も言えず押し黙っていると、

 

「あ、じゃあさ先生。もし私が先生の言いたいことを当てられたら、この最後の一個は私がもらえるってことでど〜お?」

「う、うん……? いいけど……?」

「えへ、やったね。う〜んと、そうだなあ……」

 

 そのまま腕を組んで、いたく真剣な面持ちでひとしきり考え込んだ後。

 彼女はぴっ、と人差し指を立てて、

 

「――アリウススクワッド」

 

 その名を、口にした。

 

「アリウス分校の――特に、その真ん中でテロを主導してた子たちのこと、とか。……どう? 当たってる?」

 

 ……本当に。

 この子のこういう時の鋭さには、驚かされるばかりだ。情けなく口ごもるばかりの私をそっと後押してくれる、気遣いと優しさにも。

 敵わないな――と私はため息混じりに、力なく口の端を持ち上げた。

 

「……バレちゃってたか。さすがだね」

「うへへ、たまたまだよぉ。亀の甲より年の劫ってね……う〜む。おじさんのカンも、まだまだ捨てたもんじゃないなぁ〜」

 

 自慢げな表情を見せて、ホシノは報酬の饅頭をかっさらっていった。まむまむと最後の一つを頬張る彼女に目を細めつつ、私は思考の海に身を浸した。

 

 ……アリウス分校。

 アリウス、スクワッド。

 

 ここ最近の私は、いつの間にか姿を消していた彼女たちのことを、ふとした拍子に考えてしまうようになっていた。

 

 遥か昔。現在のトリニティ総合学園が生まれるきっかけになった、第一回公会議。それ以前のアリウスは数多く存在した分派の一つに過ぎず、当時からゲヘナを毛嫌いしていた程度の特徴しかなかったそうだった。

 そんなアリウスは、当時睨み合いを続けていた各分派が連合を組むことに最後まで反対し……その結果、巨大な一勢力と化したトリニティに徹底的な弾圧を受け、最終的には自治区を追放された。

 エデン条約調印式への襲撃は、表向きにはその報復ということになるのだろう。

 

 けれど――

 

『――大丈夫、もう全部終わりだから。それにどちらにせよ、彼女は私を生かしておくつもりは無かったはず。だから、良いの』

『――アリウスに帰るということか……? 帰ったところで、私たちは殺されるだけ……』

 

 図らずも別れ際となってしまった、リーダー格と思しき二人の、最後の台詞。

 あの学生らしからぬやり取りが、ずっと頭の隅にこびりついていた。

 

 ……しかし、どんな事情や背景があろうとも。彼女たちの扱いはあくまでも、和平条約を乱した紛うことなきテロリストだ。おかげでエデン条約そのものは再び白紙に戻され――トリニティとゲヘナ両校の間にあった溝は、更に深いものとなっていた。

 その主な被害者たる両校の、大小様々な傷を負ったばかりの生徒たちに、「もう一度アリウスの子たちの足取りを追って欲しい」などとは……どうしても言い出せなかった。

 

 私は……みんなの『先生』として、どうすべきなのだろう。

 どうあるべき、なのだろう。

 

 一人でいると、どうしてもそのことがぐるぐると頭の中を回って……気づけば、ホシノに連絡を取っていた。

 かつて悪辣な大人に騙され、それでも私を信じて頼ってくれる、彼女に。

 

「……ホシノは……」

「うん?」

「ホシノは、スクワッドの子たちと……実際に対面してみて、何か思うところはなかった?」

「……ふむ。う〜ん、そうだねえ……」

 

 自らのおとがいに指を添えて、宙を仰ぎ見るホシノ。

 そのまましばしの時が過ぎて……彼女が口を開いた。

 

「ハリセンボンみたいだな〜って、思ったかなあ」

「……」

 

 ……?

 は、ハリセンボン???

 

 瞬きを繰り返す。きょとんとした私の顔が面白かったのか、ホシノは一つ笑みをこぼして。

 

「もちろん知ってると思うけどさ。ハリセンボンが大きくなる時って、水とか空気を吸って膨らんでるんだよね。むーってむくれてるみたいで、見てるとそこも可愛いなあとは思うんだけど……」

 

 台詞を切って、斜め上を仰ぐ。

 ……場違いな感想だと承知してはいるが。彼女が自らの考えを伝えるために、懸命に言葉を選んでくれている様子が、私には嬉しかった。

 

「つまりあれってさ。自分の身を守るために、自分じゃないのものを取り込んで身体を大きく見せてるわけで。だから何ていうか……ちょ~っとつついたら、そのままぴゅ〜ってどこかに飛んでっちゃいそうな……空っぽさ? 中身のなさ――は、悪口っぽすぎるかな。え~っと……」

「……空虚さ?」

「あ~そうそう、そんな感じ。そういうところ、が――う~ん、似てるって言っちゃうとハリセンボンが可哀そうかな……? んまあ、今回のやらかしの規模と本人たちの熱量で釣り合いが取れてないな~って、不思議だったのは覚えてるかな~」

「……そっか。うん、そうだね……」

 

 思えば最初から、彼女たちの言動は矛盾に塗れていた。

 彼女たち自身が何度も繰り返していたように、本当に全てが虚しいものならば。

 キヴォトスにおける二大勢力を一度に相手取ってまで、アリウスが成し遂げようとしていたことは、一体何だったのだろう。

 

『――トリニティとゲヘナを、キヴォトスから消し去る。文字通りにな』

 

 サオリ。

 そう呼ばれた彼女の、烈火と燃え滾る敵意を思い出す。

 

『――貴様らは第一回公会議以来、数百年に渡って積み上げられてきた恨み……私たちの憎悪を確認することになるだろう』

 

 復讐。

 成る程、確かに人を凶行に駆り立てるには十分な動機だろう。

 

 だがそれは――アリウスがトリニティの自治区を追放されたのは、彼女の言葉通り数百年前の出来事だ。今回の実行犯たる彼女たちがその当事者だったという可能性は……普通に考えれば、まずないと言える。

 

 この世界は残酷なのだと。こんなにも苦しい思いをしているのは、トリニティとゲヘナのせいなのだと。

 彼女たちの境遇を利用してそう吹き込んだ、誰かがいるはずだ。

 

(……Vanitas vanitatum et omnia vanitas――)

 

 全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ。

 元の世界(・・・・)では、人の一生の儚さや無意味さを謳ったとされる、旧約聖書の一説。

 アズサも時折口にする――きっと、他の学校で言うところの校訓のようなものなのだろう。

 

『――この憎しみを、私たちは習った。それからずっと、私たちのものだと思い込んでいた』

 

 ……植えつけられたその感情は、もちろん彼女たち自身から発露したものではない。

 あのアツコという子は、それに気づいていたようだった。

 

 分校とは名ばかりの学び舎で、戦闘技術や生理的耐性のみを鍛え上げられてきた彼女たち。その環境が当たり前のものだと認識させられ、人間(ヘイロー)(こわ)し方までもを叩き込まれた、殺人兵器。

 

『――シャーレの先生……貴様が計画の一番の支障になりそうだと、彼女は言っていたからな』

 

 そんなアリウスの生徒たちを器に、自らの手足として使役するべく、偽物の感情を詰め込んだ。

 今回の騒動の裏側に、私は……悪意ある第三者の意図を感じて、ならなかった。

 

「……ん、」

 

 ふと気が付くと、ホシノがこちらにパイプ椅子を寄せて、すぐ隣に腰かけていた。

 

「……えっと、ホシノ?」

「ね、先生。私の勘違いだったら、笑ってくれていいんだけどさ」

 

 いつもの眠たそうな雰囲気でも、おどけたような笑顔でもなく。

 かつてなく据わった目の色を見せる彼女に、私は戸惑っていた。

 

「どこか、足とかおなかとか、ケガしてない?」

「……」

「あ〜、図星なんだ。やっぱりね~」

 

 沈黙は金、という言葉もあるが。

 聡い彼女の前では、沈黙も雄弁も大した意味を成さないなと、この時痛感した。

 

「……どうして?」

「ん? 足音だよ。先生、教室に来るまでの歩き方が変だったから」

 

 ……本当に抜け目のない――この場合は抜け耳のない、と言うべきだろうか。

 改めて……この小鳥遊ホシノという少女が持つ能力に、もはや戦慄すら覚えてしまう。

 

「先生。手、握っていい?」

「えっ?」

 

 固まっているとホシノの方から手を取られて、そのままふにふにと両手で弄ばれる。

 ……小さくて柔らかくて、何より温かい手だと思った。こんな少女そのものの手で、今まで色んなものを守ってきたんだな――と、不適な感慨が生まれる。

 

「先生の手、おっきいね」

「……ホシノが小さいんじゃない?」

「あ~、言ったなあ。おじさんだって気にしてるんだぞ~?」

「……ごめん」

「んーん、いいよ。許してあげる」

 

 ……何だか違和感があった。

 いかにもむずがゆくて、甘酸っぱい応酬のはずなのに。

 

「なんでケガしたの?」

 

 上目遣いにこちらを見つめる、きれいなオッドアイの双眸が。

 いつもと違って……少しだけ怖かった。

 

「えっと、撃たれちゃって……」

「いつ? 誰に?」

「……調印式の日に、アリウスの――ごめん、名前は知らない」

 

 本当は、はっきりと覚えているのだけれど。

 言っても仕方のないことだろうと、咄嗟に嘘をついた。

 

「……それは、先生を狙って?」

「た、多分……?」

「……ふ〜ん。そっかあ……」

 

 静寂。壁にかけられた時計の秒針が、いやに大きく聞こえる。

 私の虚言を気取られたかどうかは……今の彼女の透明な血相からは、全く読み取ることができなかった。

 

 やがて、

 

「はあ〜〜〜〜っ」

 

 額に私の手を押し付けるようにして、ホシノが大きく息を吐いた。

 手の平に、彼女の体温がにじむ。私の存在を確かめるように、手首に巻きついた両の指が、ぎゅうっと握り込まれる。

 

「バカだなあ、私。そんな大ケガしてたなんて、全然気づかなかった……」

 

 ……あの時は確か、腹部を撃たれたのもあったけれど――その直前に古聖堂の崩落に巻き込まれていたおかげで、まず全身がボロボロで。

 目覚めてすぐに病室を飛び出したから自分ではよく分からなかったけど、多分そこかしこに包帯やら何やらをくっつけていたのだと思う。

 

 そんな状態だった私が、彼女たち――アビドスにも至急で応援を要請したのだから。

 ホシノが気に病む必要なんてどこにもないんだよと……そう、言ってあげたくて。

 

「あの、ホシノ……?」

 

 いたたまれなさから声をかける。

 それに応えてくれたのか――ふっと顔を上げた彼女は、

 

「……先生ってば、ほんっとに不器用だよねぇ」

 

 いかにもしょうがないなあとでも言いたげな、とびっきりの苦笑いを浮かべていた。

 

「何事もほどほどに、テキト〜にやってけばいいのにさ。み~んなにいいカッコなんてしようとするから、そんな風に悩むハメになるんだよ?」

「うぐっ」

「……ま、そこも先生のいいところだとは思うけどね。うへ」

 

 再びホシノが私の手を取って、むにむにと穏やかにこね始める。

 

「あのね。先生に言われてみて、私も思ったよ。あの子たちはもしかしたら、先生がうちに来てくれなかった世界の、私たちだったかも知れないって」

 

 ……もしあの時、アロナがあの手紙を見つけてくれていなかったら、どうなっていたのだろう。

 そんな薄ら寒い想像をかき立てる彼女の口調は、その内容に反して柔らかく、温かかった。

 

「どれだけ周りに手を伸ばしてみても、みんな知らんぷり。……ううん。もしかしたらあの子たちは、『手を伸ばす』って選択肢自体を知らなかったり、誰かに摘み取られてるのかも」

 

 現実味を帯びた仮説だった。

 ゲマトリアを始めとした、この世界の裏側にはびこる、人を人とも思わない大人たち。連中ならその程度のことは、朝飯前にやってのけるだろう。

 

 けれど、

 

「……分からないんだ」

「ん?」

「私がしようとしていることが、本当に正しいのかが分からない。……アリウスの生徒たちを探し出して、表舞台にもう一度引っ張り出して……それって本当に、誰もが望んでいることなのかなって」

 

 当初の目的も達成できず、元いたであろう拠点にも帰れず。

 今この瞬間にも酷い目に遭っているかもしれない彼女たちのことを、このまま放っておくことはできない。

 

 ……しかしそれは本当に、彼女たちにとって幸せなことなのだろうか。

 アリウスだけじゃない。トリニティやゲヘナの生徒たちは、果たして自分たちを一度深く傷つけた相手のことを、きちんと理解して、許してくれるのだろうか。

 

 ……今回の一連の事件は、本当に、私の手で終わらせることができるのだろうか。

 

 そこまで一気に言い切って……ちらとホシノの顔色を伺うと、

 

「……」

 

 今さら何言ってんだこいつ、とでも言いたげな戸惑いの表情を見せていた。

 手は繋いだままなだけに、端から見ればとてもシュールな光景に映ることだろう。

 

「え、ええ〜……? それ、今さら言っちゃうの、先生……?」

 

 あ、ほんとに言われた。

 

「えっ、あれ、ホシノ?」

「だって先生――うあ、これ自分で蒸し返すのかな~り恥ずかしいんだけど……?」

 

 変わらず頭上に疑問符を浮かべ続ける私に、彼女は業を煮やしたように。

 

「……先生、私の時は書き置きも退部届も無視したじゃん。アリウスの子たちの気持ちは考えられるのに、私の意見は全く汲み取ってもらえなかったのって、ちょ~っと筋が通ってないんじゃない?」

「あ、いや、あれは――」

 

 ――あれは……?

 言われてみれば、確かに……ホシノの時と今回とで、私の中で何が違ったのだろう。

 明確な答えをすぐには用意することができず、そのまま彼女が台詞を繋いでいく。

 

「私だってあの時は、ほんとの本気で命をかけて、あいつらの誘いに乗ったのに。……まあ、結果的にはまた騙されてたわけだけど――仮にあのまま私を助けに来なかったとして、きっと他のみんなは、少なくとも今のアビドスからは解放されてたんじゃないかな〜……なんて。どうしても、たまに考えちゃうんだ」

 

 どこか遠い目をしたホシノが、訥々と「もしも」を語る。

 

「シロコちゃんも、ノノミちゃんも、セリカちゃんも、アヤネちゃんも。どこか別の学校で、それなりの……少なくとも、今以上の未来があったと思う。みんなすごく優秀で、私の自慢の後輩たちだからね~。きっとどこに行っても、それなりにやれたんじゃないかな~?」

「……、それは――」

 

 それは違う――という台詞を、私はすぐに返すことができなかった。

 

 確かに今のアビドスを取り巻く環境は、他のどの学校と比べても特異で、そして歪だ。

 多額の借金やその他様々な問題のせいで、まず絶対的な生徒数が足りない。職員の一人だっていないせいで、学習環境すら自分たちで整えなければならない。

 今の彼女たちを客観的に見た時に、胸を張って健全な学園生活だと主張できる人間は、まずいないだろう。

 

 ――それでも。

 

「そんなの……ダメだよ」

 

 こうして全てが元通りになった今だからこそ、言えることかも知れない。

 けれど……だからこそ、相変わらず自分の幸せをなかなか勘定に入れてくれない彼女の言葉が――腹立たしかったし、悲しくもあった。

 

「対策委員会の誰一人だって、ホシノを犠牲にして自分たちだけ楽をしようなんて子はいなかったよ。どんなに苦しくても、大変でも、全員が全員、心の底からホシノを連れ戻すことを望んでた。……それに、例え誰が望んでなくたって。そんなの……そんなの私が――」

 

 ……私が?

 

 そこで言葉を止めた私を見て、ホシノがにいっと口角を上げた。

 

「なあんだ。やっぱりもう、先生の中で答えは出てるんじゃん」

「……ホシノ?」

「結局さ。人が何か行動を起こす時なんて、最後は自分の好き嫌いなんだよ。今回だってそうじゃん。アリウスの子たちを追いかけたい、叱ってあげたい――救いたい。そこに先生自身のエゴが全くないなんて、まさか言わないよね~?」

「でも、私は――」

「先生」

 

 優しく、そして強く。

 芯の通ったその一言が、私のつまらない言い訳を抑え込む。

 

「私は一回、自分で自分を諦めちゃったからさ。これからはなるべく、私を助けてくれたみんなと、それから先生のために動こうって決めてるんだ」

「……」

「だからね先生、今度は私が……先生を助けてあげたいって思ってる。それは私だけじゃなくて、対策委員会のみんなも、きっとおんなじ気持ちだよ」

 

 そこでホシノがふっと、眉尻を下げて困ったように笑う。

 

「私。先生のためなら……別にもう一回くらい死んだっていいって、ほんとに思ってるんだ」

「っ、それは――」

「うへ、分かってるよう。そんなこと先生は許してくれないだろうし、自分でもさすがに重たいな~って思うし。……でも、それくらい先生のこと、信頼してるんだ」

 

 緩く握らされた拳を、彼女の両手ですっぽりと包まれる。

 その温かさに……凝り固まった心の奥が、じわりと溶け出すのを感じていた。

 

「先生。私の――私たちの時みたいにさ。先生の好きなように、思うようにやったらいいよ。先生がこうしたい、こうすべきだって思ったことなら、絶対大丈夫だから」

「……っ、うん」

「自信がないなら、私のをあげる。私が先生の分まで、先生を信じるからさ」

「……うん。うん――」

 

 視界がぼやける。鼻腔がつんと痛む。

 こらえきれなかった涙が一条、頬を伝っていくのが分かった。

 

「だから、迷ってないでさ。あの子たちに、真っ直ぐに手を伸ばしてあげてよ」

 

 これ以上教え子に情けない姿を見せたくなくて、目元を拭う。

 

「そういう先生の方が、私は好きだな。うへへ」

 

 開けた視界の先には、慈愛に満ちた彼女の笑顔があった。

 

 †

 

 再び校庭に立つと、厳しい寒風が衣服の合間を縫って身体を突き抜けた。脇を固く締めて身震いしていると、同じように防寒具をまとったホシノが隣に並び立つ。

 

「う〜ん。なんかずいぶんと青春っぽいことをやっちゃった気がするなあ。おじさんも若返った気分だよ」

 

 ぐうーっと両の拳を突き上げるその矮躯が可愛らしくて、思わず口元をほころばせていると……不意に彼女が、うしし、と珍しく悪い笑い方を見せた。

 

「それに〜、今日は先生のレアな泣き顔も見られたし。いや~役得だったな~」

「それについては、なるべく早く忘れてくれると嬉しいかな……」

「ええ〜? どうしよっかな〜。夜ふかしのこと、いつかみんなの前でぽろっと言われたりしないかなって、おじさんすっごく不安だな~?」

「……分かった。もう言わないから」

「うへへ。悪いね〜」

 

 ……随分な弱みを握られてしまった。これはしばらく、委員長様の仰る通りにするしかなさそうだ。

 

「それじゃ先生、気をつけてね」

 

 アビドスの正門にて、校舎を背にしたホシノと向き合う。

 

「うん、ホシノもね」

「うへ、おじさんは大丈夫だよう。これでもちょっとは戦えるつもりだし、そもそもうちに盗られるようなものなんて、もう残ってないしね」

「それでもだよ。構造上施錠だって難しいんだし、ホシノも女の子なんだから。何かあったら、遠慮なんて絶対しないで、すぐに連絡してね」

「……う。うん……」

 

 照れ隠しのためか、彼女は目線を落としてマフラーの中に口元を隠した。

 

「……ありがとね、先生」

 

 そう頬を染めるホシノの礼の意図が分からず、首を傾げる。

 

「うあ〜っ、もう、にぶちんめ〜。それともおじさんをからかって楽しんでるのか〜?」

「うわ。いや、ごめんごめん」

 

 肩を怒らせる彼女をどうにかなだめて、話の続きを促す。

 

「……あの時。私のこと、諦めないでくれて、ありがと。ほんとはやっぱり、私もここに――みんなと一緒にいたかったから、さ」

「……うん」

「あの子たちにも多分……守りたいどこかとか、側にいたい誰かとか……そういうの、きっとあると思う。この世界の黒い部分がヤになっちゃって、わーってなっちゃう気持ちも、よくわかるけどさ。それでも……思ってるほど悪いものじゃないかもよ~って、教えてあげられたらいいね」

「……うん。そうだね」

 

 それから二言三言と交わして、ホシノと別れた。曲がり角の向こうに彼女の姿が見えなくなるまで、時折手を振り合って……ふと空を見上げると、雲間から光芒が差していることに気がついた。

 

 その輝かしい光の筋に、そっと手を伸ばす。

 ……最近読んだ漫画にも、似たような台詞があったなと笑いながら。

 

 彼女たち――アリウスの生徒たちの後ろに、どこのどいつがいるのかは知らないが。

 あらゆる生徒たちの、輝かしい『青春の物語』を奪う権利など、誰にもないのだと。

 そう叩きつけてやろうと、決めたのだった。

 




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