Dasein   作:ㅤ ْ

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一章
1


ーーふと思った。俺は一体何なのだろうと。

 

誰しもが一度は思う事だろう。自分とは何者なのか?自分なりの答えを出すか、答えを探す事を答えとするか、分からない事を結論とするか。何にせよ皆すぐにそんな疑問に片付けて忘れてしまうだろう。

 

だけど俺は時折この問いに捕らわれる。何気ない時に考えてるのに気がつく。

 

俺は誰かの為にいるのだろうか?誰かの為に俺がいるのだろうか?

 

そんな煩雑とした思考を振り払い立ち上がる。時間も時間だ、夕食を作ろう。

 

台所で料理をしていると集中出来る。俺は流石に考え事しつつ調理を進められる程には料理に慣れてはないからだ。余計な事を考えずに済む。余計な事と言うべき事かは分からないが。

 

オーブンで数種の野菜を焼きつつ、安い豚肉を適当な味付けをしてフライパンで焼く。という割りと雑な調理を調理で食事を用意する。オーブンで焼いた色とりどりの野菜の中からパプリカを一つとり口にする。

 

うむ、ホクホクとした食感。熱でえぐみや苦味も消えて甘みが際立つ。我ながら上々だ。

 

一人で食事をさっさと終えてしまう。正直言って味気ない。自分で言うのは何だが料理自体は味は悪くはないと思う。

 

だがどうも作っている時点で食べた気になってしまうというか、元々小食気味なのもあって食べる前に気分的にお腹一杯になってしまうのだ。

 

実際自炊しても食費もさして浮くというわけでもなし、時間の節約などを考えればむしろ出来合いのものでも買った方が総合的なコストパフォーマンスは良いと思う。事実お隣さんがいなければ俺はとうにそうしていただろう。

 

食休みがてらに本を読みつつ時間を潰す。ちらりと時計を見て夜九時を回った事を確認し立ち上がる。いつも夜七時に起きてるあの人はこの時間からは自由時間だ。

 

アパートの自室を出てすぐ隣の部屋に向かう。

 

人を尋ねるなら事前に連絡してアポを取るべきだが、彼女は一応携帯は持っているがほぼ放置しているので大抵連絡がつかない。それにこの時間は余程の用がない限りあの人は部屋にいる。

 

居るのは確かでも会えるかは本人の気分次第なのだが。

 

インターホンを押して来訪を告げる。しかし、それに応答はない。それはいつもの事だ。なのでドアノブに手をかける。鍵はかかって無かった。これは文字通り今日は門戸が開かれているという事だ。

 

「お邪魔します」

 

そう一言かけて、俺はドアを潜り中に入った。間取り自体は俺の部屋と変わらない。しかし青リンゴにも似た爽やかで甘い花の香りが薄くする、書棚に大量の蔵書が収まる部屋の中で椅子について本を開いていた眼鏡をかけた女性がゆっくりと俺に目を向けた。

 

「お!あーちゃん!こんばんはー。久々だね!久しぶりだね!ご無沙汰してるね!昨日あったぶりだけど!」

 

バタンと音を立てて本を閉じ、早口で畳み掛けるように挨拶してくる油断し切ったゆったりとした服を来た小柄な女性。お隣さんのレアさんだ。

 

「こんばんは。後、昨日はレアさんと会ってなかったから一昨日ぶりですよ」

 

「そうだっけ?まー、一日も二日も一週間も一年も一光年も大して変わらないよ!細かい事気にすんなあーちゃん!」

 

訂正したら勢いよく切り返される。光年は距離の単位ではないかと思ったが、細かい事はに気するなと言われたばかりなので俺はツッコむのを辞めた。

 

レアさんは立ち上がり無音の足取りのぬるっとした歩みでキッチンに向かうとコップに水道水を汲んで戻って来て俺に差し出した。

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

「ありがとうございます」

 

俺は微妙に笑ってコップを受け取る。これはこの部屋を訪ねるとレアさんが毎回やるお約束だ。実はいつもちょっと楽しみにしてる。

 

「あ、レアさんこれ。焼き野菜」

 

タッパーを差し出すと、レアさんはパッと顔を輝かせて受け取った。

 

「おぉ!ありがとうねぇ!綺麗な焼き色だねぇ!色鮮やかだね!甘そうだね!美味しそうだね!」

 

今日もテンションが変に高いレアさんは大袈裟なくらいに喜ぶ。すぐに食べるような事はせずにタッパーを冷蔵庫にしまった。彼女は決まった時間の食事以外で間食はしない。夜行性ながらちょっと几帳面なくらい規則的な生活をしている。引き換えにレアさんは先日渡した洗ったタッパーを返してくれた。

 

「昨日、あれ?一昨日だっけ?まいいか、ありがとうね!すっごく美味しかったよ!あの、野菜の炊き合わせ?だっけ?凄かった!」

 

「そう?少し薄味だったかなって気がしたから、レアさんの口に合ったなら良かったです」

 

俺は答えながら、その場に胡座をかいて水道水を一口飲んだ。この部屋にはテーブルやソファーや座布団は無い。そもそも来客など想定していないのだろう。

 

「薄口だったけどボクはあれ好き!出汁がすっごく凄かった!うまみ!うまあじ?が凄い!後柔らかく炊けてた!美味しかった!」

 

レアさんは温野菜が好きらしいので、良く差し入れているが、いつも嬉しそうに美味しかったと言ってくれる。この人は食事に手間をかけるのが面倒だから適当に済ませるタイプだけど、曰く出来合いの惣菜や弁当なんかだと野菜料理が不足しがちで飢えるのだそうだ。何かボク、肉食と勘違いされがちなんだよね。と以前ボヤいていた。

 

この人がいなかったらやはり俺は自炊など辞めていただろう。自分の為なら作るまでもないが、他人が喜ぶのが動機で料理人になると言う人の気持ちが少しわかる気がする。もっとも調理自体楽しくはないので俺に職業料理人は務まらないだろうが。

 

レアさんも椅子に座って、眼鏡を外して机の上に置き、一息吐く。こうして改めて見てもこの人は体が小さい上、顔立ちは整っており、可愛いのだが、童顔と言うかはっきり言うと幼い。レアさんが大学生である俺より歳上だと聞いた時は失礼にも驚きを隠せなかった。本人曰く、良くおどろかれるよー。との事だ。

 

「レアさんの部屋ってものが少ないよね」

 

俺はふと思った事を口にした。いつも思うのだがこの部屋は殺風景だ。

 

「そんなことないよー。色々あるよー、本とか!本とか!後机とか!」

 

「うん……本くらいしかないですね」

 

レアさんは筋金入りの本の虫だ。だから確かにこの部屋は雑多なジャンルの大量の蔵書がある。俺も本は多少読むがこの人には叶わない。ただ、意外とレアさんとはあまり本の話はしないのだが、どうも乱読家らしい。

 

だから本とそれを納める本棚。後は机とレアさんが今座る椅子、寝る為のベッド。そのくらいしかない。テレビ一つなく、見た範囲家電もエアコンと電子レンジ、冷蔵庫くらいである。良くいえば無駄が全く無い。しかし遊びもない。

 

そうして目を走らせた時、ベッドサイドに置き捨てられたスマホを見つけた。あれがこの部屋にある若者らしい唯一のアイテムだろうか、放置されているのだが。

 

「スマホ、ほとんど使ってないよね」

 

「んー?使わないねぇ。でもバイト先に連絡したり連絡が来たりとかでどーしても必要だからねー。固定電話もないし。まぁ、煩いの嫌だから通知音とか切ってほっといてあるんだけどね!」

 

この人は典型的な携帯を携帯しないタイプだなと思う。

 

「でも通知切ってたら連絡に気付けないんじゃないですか?」

 

「いや、そんなことはないよー。ちゃんと連絡が入ってなかったかとか確認するもん!一日一回くらいは!んで入ってたら折り返すから問題ない!」

 

レアさんは雑音とかの刺激が大嫌いらしいから仕方ないのかもな。この人が太陽が沈んでから起きて、朝日が登った後に寝るのは夜は人が居なくて静かで好きだからと以前言っていた。

 

「ただ、そーいえばさー、少し前に大きめの地震あった時携帯が勝手にいきなり鳴ってびっくりしてさー。なんかミサイルとか降ってくる時も鳴るとか?勘弁してよー、そんなのでも鳴るとか本気で携帯捨てたくなったよー」

 

「あー、確かにあれうるさいですよね。でもあれも確か設定で切れたと思いますよ」

 

「え!本当!?切って!はい!」

 

そう言いつつレアさんは無駄に俊敏な動きで椅子から立ちスマホを取り俺に手渡すとすぐに椅子に戻った。 

 

とりあえずスマホを弄る。俺のモノと機種自体は同じだったから設定を見るとすぐに該当設定は見つかった。

 

「切れましたよ」

 

「ホント!ありがとー!これで寝てる時にビクッて起きなくてすむよー。いやーあーちゃんは機械に強くて凄いねぇ」

 

「……どういたしまして」

 

俺が機械に強いのではなく、レアさんが疎いだけ……と思ったがそれは言わずに、スマホをベッドサイドに戻す。

 

「でも、警報を切ってたら本当にミサイルとか大地震の時にどうするんです?」

 

「別にどーもしないよ?大体地震なんて地面が揺れた時気付けばいいし、ミサイルなんて落ちて来た時に気付けばいいでしょ!そもそも気付かなくっても特に問題ないし!何言ってんのあーちゃん?」

 

「うん……そうだね……」

 

この人は浮世離れし過ぎてふわふわしてる。レアさんなら本当に大災害が迫ってても一顧だにせず死ぬまで本を読んでそうだ。緊急時には俺がレアさんを抱えて避難しようと、内心決意した。

 

その後暫く談笑して、レアさんが夜ご飯(午前零時あたりの食事)を食べる時間になる前に切り上げた。ばいばいと手を振るレアさんに軽く手を振りかえして自分の部屋に戻る。

 

気持ちが落ち着いて、良く眠れそうだ。

 

………

……

 

いつも上滑りしている。そんな気がする。

 

例えばーー友達と遊んでいる楽しい時間。退屈な講義を聴いている辛い時。退屈で暇を持て余している時。病気で苦痛に唸っている時。

 

そんな時間に夢中になっている時すぐに気がつく。何かに夢中になっている自分を俯瞰している全く冷静な自分がいる。

 

ふとそれに気がついた時に、ハッとして醒める。あーあ、と冷め切った自分が何をやっているのか。と耳元で囁いてくる。

 

そうしていつも俺は夢中になりきれなかった。

 

皆が酒に酔い、楽しく騒いでいる飲み会で一人酔えずにシラフでいるような疎外感。それに近いモノがいつでもついて回ったーー

 

 

 

「レアさんてさ」

 

「うん?何だいあーちゃん!何か聞きたいの!知りたいの!あまりにも知り過ぎた男なの!?」

 

後日また夜にレアさんの部屋に遊びに来た俺はいつものようにコップの水道水でもてなされていた。引き換えに俺は野菜スープを差し入れた。今日もハイテンションのレアさんははしゃいでいた。  

 

「いつも大体零時過ぎに動きますよね。全く出ない日も多いけど」

 

「そだねー。午前を回らないと案外まだ人も多くて嫌になっちゃうんだ。まぁ確かにバイトとか入ってないとそもそも出ないけどねー」

 

時折夕刻、或いは日が登ってから外出する事もあるが、そういうのは日中に済ませなきゃならない予定の場合だそうだ。

 

「バイトって、夜の仕事だから水商売とかですか?」

 

「あーちゃん君ねぇ、水商売!ホステス!風俗嬢!とかサービス業の究極じゃないか。コミュ障?いんきゃ?のボクに務まるとおもうかねー?」

 

俺の不躾な興味本位の質問に、レアさんは明け透けに返す。本人はこう言うが、こんな風に気の置けない所は魅力的だと思う。

 

だけどまぁ、務まらなそうだとは俺も思った。ステレオタイプのコミュニケーション障害ではないが、レアさんのコミュニケーションは独特だし、割と明るいイメージなのに、陰陽でどちらかと言われば隠だと思う。

 

「まぁ、難しそうですね。レアさん小さくて可愛いから結構人気出そうな気もしますけど」

 

「でしょ!ボク見てくれだけは良いらしいからね!いやいや、騙されるなボク!子供に間違われるような見てくれでウケる訳ないでしょ!」

 

「それはそれで好きな人もいるかもですね……合法だし」

 

「ロリ認定!?いや無理だよ!そもそもそんなめんどくさそうな相手にめんどくさい接客とか出来ないからそれ以前の問題だよ!」

 

「うーん……」

 

人付き合い嫌いなこの人ならそうかもなぁ、と思う。しかし我ながら凄くしょうもない話をしている。

 

「でも実はボクが逆に接客したら面白いかなって思って以前24時間営業のファミレスのバイトに申し込みした事あるよ!面接で即落とされたけど!せっかくだからその後同じ店に五回くらい面接行ったけどね!」

 

「それはまた型破りですね」

 

無茶苦茶な話だがこの人らしさはある。

 

「いやいや、それがそーでもないんだよ。一度面接で落とされても二回、三回といくと雇って貰える事もたまにあるんだよ。そのファミレスのてんちょも最後の方またかみたいな感じでちょっと楽しそうだったし!結構仲良くなったよ!まぁ雇ってもらえなかったけどね!」

 

「雇ってはもらえなかったんですね」

 

思わずちょっと笑ってしまった。俺もその店長の立場だったなら、同じ人が五回も来たらいっそ面白いかも知れない。

 

「まー、ボクも五回も行ったら流石に飽きたけどね!今度一緒に行く?面倒だからやっはやめよ!」

 

レアさんと食事はちょっと行ってみたいと思ったが、残念ながら勝手に検討されて却下されてしまったようだ。まぁ、この人が他人と外食するイメージもない。行くなら一人で行くだろう。

 

「それで、隣だとたまに夜中レアさんが部屋を出るのが分かるんだけど……」

 

「うん。そりゃ外出る時は大抵夜中だからね!」

 

だけど、レアさんは出て行って割とすぐに戻ってくる事がある。それは毎日同じ時間だ。

 

「でも出かけてる訳じゃない時ありますよね。たまたま見たんですが、アパートの前で……」

 

「……見たの?」

 

そこまで言うと、レアさんが珍しく目を細めて俺を見据えた。気を悪くしただろうか?

 

「……はい、見ちゃ不味かったですか?」

 

「あー!見られてたのかー!しかもよりにもよってあーちゃんに!うぁー、人目には気をつけてたんだけどなぁ」

 

そう言いながら珍しく恥ずかしげに頭を抱える。そんなに見られたくなかったものだろうか。確かに真夜中だから人目を避けてるのは分かるが。

 

「あれ、なんかの武道の練習ですよね?レアさん武道家だったんですね」

 

レアさんは毎日アパート前で深夜に木刀で何やら型っぽいものと、素手でも型っぽいものを練習していた。素人目にも、地味な動きながら凄く丁寧にやっているし、動きも洗練されてるからレアさんがちゃんと何かを学んでるのは分かった。

 

引きこもりイメージのレアさんには意外に思えるが、普段あまり動かないけど、何気なく動く時の姿勢がいいし、歩くときの少し不気味なぬるっとした感じはそのせいだったのかと納得もあった。

 

「武道家なんてたいそーなモノじゃないよー!やめてー!ただの趣味!」

 

「あれはなんですか?剣道じゃないですよね?剣術、でも素手の型っぽいものも……?」

 

「うん……所謂古武術みたいな……試合もないし型を練るだけの趣味みたいなーねー」

 

「古武術」

 

それっぽいかなと思ったら本当にそうだった。知り合いにそういうモノをやっている人は居ないかったから少しテンションが上がる。

 

「古武術ーなんて言うとご立派そうに聞こえるけど、何てことないよー。やってる事地味だしー、ボクみたいな引きこもりでも出来るゆるい型稽古だしー」

 

「レアさんは武術好きではないんですか?」

 

この人が自分のやる事をここまで卑下するのは珍しい。好きではないなら何故やっているとも思えない?レアさんは好きでもない事をやる人ではないと思う。

 

「好き……なんだよね。大好き。だからね、そんな自分を恥じる気持ちがあるんだ」

 

「好き……なのに恥じる?」

 

何だろう、整合性が取れてないというか。レアさんらしくない考え方というか意外だ。

 

「だってさ、あーちゃん。武術ってカッコいいような気がするけどさ、冷静に考えてみてよ。ただ如何に上手く人を傷つけるか、如何に上手く人を殺すか……どう言い繕っても本質はそれなんだよ」

 

「……それは確かに」

 

素人なりに要は争いの中で必要に迫らせて作られたもの……だというくらいは分かる。レアさんの言い分は元も子もないが正しいのかも知れない。

 

「武術が好きだからさ。一時期は色々な流派とか、武術家の人とか調べたんだ。今はネットとかでどーがも簡単に観れるし、便利だよね。そうするとね、やっぱり人間臭さが酷いんだ」

 

「人間臭さ?」

 

「武術の型の用法、門派のちょっとした解釈違いでいい歳した武術家が口喧嘩。実戦武術、実戦的とか品評する人々」

 

「……」

 

あぁ、それは如何にも……

 

「実戦ってねぇ。結局は殺し合いでしょ?皆そんなに殺し合いが好きなのかな?実戦武術が上手い、殺し合いが上手い事がそんなにも誇らしいのかな?」

 

如何にもレアさんが嫌いそうな世界だ。

 

「大の男が顕示欲旺盛に刀を振り回して、自分の武術の業前を凄いだろうと動画で公開してね、それを他の武術やってる人が勿体ぶって批評する。正直一般の人からすればなんの興味もないしステータスにもならないのに、勝手に流派の宗家を自称する人達もいるんだ」

 

そうしてこめかみに指を置いて一つ息を吐いた。夜のレアさんは躁鬱と言ったら大袈裟だが、たまにテンションが低くなる時がある。そうやって見せる真面目な様子はレアさんにとってそれが大事な事だと分かった。

 

「馬鹿馬鹿しい、と思ったんだ。それにボク自身も武術を誇る気持ちがあった事に気がついて恥じたんだよ」

 

「誇ってもいいと思いますよ。どんなモノであれ一生懸命身につけたモノを恥じる事はないと思います」

 

「ありがとーねぇ、あーちゃん。でもボクは行き着くところまで行った人を知ってるから、誇っていいのかどーにもねぇ」

 

「行き着く所まで行った……武術家ですか?」

 

それはどんな人だろう?興味がある。

 

「うーん」

 

そこでレアさんは話すかどうか迷ったのか、少し考えながら眼鏡のつるを指で押し上げようとして、眼鏡をかけてない事に気がついたようだった。

 

「まぁ、あーちゃんにならいいか。ここだけの話……って言うのに限ってここだけの話にはならないものだけれど」

 

「別に誰にも話しませんよ」

 

レアさんにとってまずい事なら俺は他で漏らそうとは思わない。この人の嫌がる事はしたくない。

 

「武術の界隈にはある曰く付きの流派があるんだ」

 

「曰く付きの流派……」

 

それはどういう曰くだ?

 

「もちろんさっき言ったように、武術流派なんて殺し合いの最中から生まれてきたモノだから人を殺すのに使われて来たし。割と最近でも先の大戦で実際に遣い手が軍刀で敵を殺したりなんて山程あったからねー。そういう意味では曰く付きってのも変なんだけど」

 

逆に言うと先の大戦では大勢の遣い手が戦死しちゃった結果、秘伝的な技術が失われたりしたんだけどね。とレアさんは補足した。

 

「では曰く付きというと?例えば妖刀みたいに学んだ人が沢山狂ったみたいな話ですか?」

 

「流石あーちゃん、それに近いね。流石に学んだ人が皆おかしくなる訳じゃなかったけど。単にある狂った人がその流派を学んでしまった結果かな」

 

何はともあれ狂人を輩出してしまった、という事だろうか。

 

「有り体に言って、この平和な現代で少し前に刃傷沙汰をやって死人を出してしまったんだ」

 

「なるほど、そりゃまずいですね」

 

「それも道場長の宗家が門弟と真剣で立合った結果だったからね」

 

「それは……」

 

門弟を斬るだなんて確かに狂った宗家さんだったようだ。

 

「その宗家さんは何故そのような事を?」

 

「うーん。あの人は凄い善良だったけど、時代錯誤な程責任感があったからなぁ。自分で決着をつけようと思ったのかなぁ……」

 

?狂っていたのは宗家ではないのか。それに知っているのかのような口ぶり。つまりレアさんは……

 

「その道場にはね、ボクと最も歳の近い最年少の兄弟子が居たんだ。物凄い不吉な空気を纏っていて、気味の悪い眼をしていたから人を覚えられないボクですら彼は未だに覚えている」

 

レアさんが懐かしそうな眼で、落ち着いた声色でつらつらと話した。俺は無言で先を促した。

 

「凄い才覚だったから先生は夢中になっちゃったみたいだけどね。彼はボクから見たら天才というよりただの修羅だった。結果一匹の剣鬼が出来た。彼を育ててしまった先生はそれが自分の間違いだったと思い詰めてしまって、自分で清算しようとしたんだろうね。ただ遅過ぎた。彼が一人の時に狙って、彼に一太刀は浴びせたけど仕留め切れずに逆に斬り殺された」

 

殺されたのはレアさんの兄弟弟子の門弟の方ではなく宗家の方だったのか、なんだか壮絶で物語みたいだ。

 

「……その後その門弟の人は?」

 

「とりあえず当時は未成年だったというのと、証言や現場検証からは先生が先に斬りかかってきて止む無く、という話だから。実際に本人も先生に斬られて深傷だったからね。本人へのお咎めは大した事ではなかったようだけど詳細はよくわからない。その後の彼がどうなったかも、今現在生きてるのか死んでいるのかも分からない」

 

「何せ武術流派にあってはならない大事件だ。宗家も死んだし、そんな事があっては誰も後を継ぐわけもなくそのまま門下生は皆散り散りになってその流派は事実上失伝。そんな曰く付きだからあの道場にいた人も誰もあの流派名は名乗ってないだろうね。それがボクの今の道場の前に居た道場、もちろん秘密」

 

それは、確かにそんな道場に在籍していたとは言えないだろう。間近にそんな人を見たのならレアさんが武術をやる人の言動にデリケートになる理由も分かる。

 

「……その、レアさんの兄弟子さん。どんな方だったんですか?」

 

「……あれはね。そもそも普通の人とか違う世界に生きている人かな。確かに皆と同じ共通の世界に生きている、だけど人の形をしているだけで一般的な人とは別の魂の形をしてるように感じた」

 

「……違う生き物、ですか?」

 

「そうだね。精神が違うんだ。あぁいうのを昔の人は鬼といったのだろうね。一般的な人間とは別だから同じ良い悪いの尺度で図る事が間違いだ。善悪の彼岸にいるんだよ」

 

「言わば二次元の外にいるボクらが一枚の絵を俯瞰してみてるようなものさ。上の次元がずれていたのかも知れない」

 

余人とは別の魂……か。でもなんだかそれは、まるで、俺が抱くレアさんの……

 

「レアさんはその方をどう思ってました?」

 

「……正直に言うと、親近感を持っていた。今まで生きてきてあの人にだけそれを抱いたんだ」

 

あぁ、やはり。と俺はそう思った。

 

「けど彼はボクなど眼中になくさっさと彼岸へと行ってしまった。……何かが違ったらボクもああなってたのかも知れない。だからボクは武術がそれ程に恐ろしく、醜いものだと知っていなければならない」

 

「剣を取る者は皆、剣で滅びる。それは正しいと思うんだ」

 

それは確か聖書でのキリストの言葉だったか、ふと聖書と剣という言葉で連想された。

 

「でもレアさん、キリスト自身、私は平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。とも言ってますよ」

 

「マタイの福音書だね。うん、キリストの語る愛は皆が思ってるより遥かに優しくて、遥かに苛烈だ。そして人は剣を取らずには来れなかったのも事実だし、そう考えると矛盾だね」

 

「それでもレアさんは武術が好き、なんですね」

 

「どうなんだろう、でもやっぱりうん。好きなんだろうね」

 

変な言い方だが、少し安心した。俺からみると捉えようのないレアさんも彼岸にいるように感じていたから。そういう人間的な葛藤のようなモノがある事が嬉しかった。

 

俺は何となくレアさんの蔵書を眺めていた時先程レアさんの口から出た言葉が題目となっている本を見つけた。ニーチェだった。気になったので借してもらう事にした。するとレアさんは嬉しそうにそれはニーチェ入門にはいいよー、と言いながらこれはそれの姉妹編だからと言って道徳の系譜という本も貸してくれた。

 

その後少しレアさんと話した後、二冊の哲学書を手に自室へ帰った。

 

………

……

 

ニーチェは有名ながら実際に今まで読んだ事は無かった。そもそも哲学書自体がほぼ手をつけた事がないジャンルだ。

 

だから実際に紐解いてみると存外に難解だった。レアさんと違って哲学に造詣の無い俺がちょっと一読しただけで分かるほど優しいわけも無かった。

 

しかし、勿論感じ得る所もあった。論文のロジック云々よりも、そこから感じられるニーチェという人だ。

 

彼はしきりに、人間の悪臭。畜群への吐気を訴えていた。ほとほと人間達に嫌気がさしてそこから来る苛烈なまでのニーチェの激怒が本から立ち上って来るように感じた。

 

それにレアさんの印象が被った。あの人も、武を語った時人間臭ささに言及した。人々の営為に倦んでいる。故に極力関わらない、人々の営みを一切目もくれず人の世にいるだけの半世捨て人だ。

 

ニーチェは激しく、レアさんは穏やかだ。だが、根っこは同じ。ニーチェは怒り、レアさんは呆れた。そういう事なのかも知れない。

 

いや、ニーチェに限らずそもそも哲学者という人間は差異はあれども皆そんなモノなのかも知れない。

 

夜、レアさんの部屋を訪ねた。インターフォンで来訪を告げてドアに手を掛けたが鍵がかかっていた。多分中には居るのだろうが、今日は他人と関わりたくない日なのだろう。もしかしたら本当に外出してるのかも知れないが。

 

まぁ、レアさんを訪ねて会える率は大体二回に一回か、三回に一回の間程度だ。その夜は大人しく自分の部屋に戻った。

 

………

……

 

「とーぞ、粗茶ですが!」

 

「頂きます」

 

あるく日の夜。俺はレアさんの部屋を訪れてた。いつものように、コップに注がれた水道水でもてなしを受けていた。

 

「レアさん。これ、蒸し野菜」

 

俺は引き換えに、自分の夕食で作った温野菜をお裾分けする。

 

「おぉ!ありがとうねぇ!これはまた綺麗だね!きのこも沢山入ってる!美味しいそうだねぇ!」

 

「手製のドレッシングをかけてありますが、お口に合えばいいですが」

 

適当にレシピを見つけたものだが、電子レンジで調理出来て、しかもドレッシングも材料を混ぜるだけの簡単料理だ。しかし自分で食べてみて中々美味いと思ったから。レアさんにも気に入って貰えたら良い。

 

「おぉ!火を通した野菜は凄く甘いからしょっぱい味付けはいいね!甘辛だね!」

 

「……レアさん、魚や肉ちゃんと食べてます?」

 

「えっ?食べてるよ。というか普段はお肉ばっかりだよ!出来合いのお惣菜ももっと野菜料理増やして欲しいよ!」

 

いつも野菜で大喜びするから、レアさんが動物性タンパク質を取っているかちょっと心配になってしまったが杞憂のようだ。まぁ、あくまで普段温野菜をあまり食べられないからこそ喜んでくれるのだから。

 

コップから水道水を一口飲み、喉を湿らせる。

 

「レアさん。インドア派ですよね」

 

「うん?そだねー。筋金入りの引きこもりだよー」

 

レアさんはタッパーを仕舞いつつ答えた。その通り、基本この人は家に居る。バイトとか何がしか用事が無いと外出しない、という印象ではあるが。

 

「暇な時に何処かに外出とかしないんですか?」

 

「しないよ?用事もない所に出歩く必要がないでしょ!そもそもそれただの苦行だよ!暇だから苦行するとかボクは行者!?」

 

まぁ、そりゃあ人が居ないから刺激も少ない、という理由で夜行性の人がわざわざ人や刺激が盛り沢山のシャバにわざわざ出る訳もないか、と納得する。

 

世捨て人。そもそもそれがレアさんの印象だ。わざわざ人の世には関わらないとは思っていたが、しかしこの人が何を思っているのかは前々から色々興味はあった。

 

「レアさんて何処か行ってみたい所とか、見てみたいモノとか無いんですか?旅行とかで」

 

「ないね」

 

あっけらかんと即答した。

 

「何か体験したい事とか、初めてみたい事、スポーツとか何かは?」

 

「んー、ないね!」

 

バサッと切り捨てた。こういう所、この人の言葉は小気味良い。そして意外でも無かった。どうにもこの人は狭い世界で自己完結しているようなのだ。しかし、妙な事だが閉じてしまっている、矮小な人物、という印象は受けない。どうにもレアさんは底知れない深みを感じさせる人だ。

 

一見して軽い風船。手に取ると重い鉄塊。

 

そんな所に俺は少しの怖さも感じていた。

 

「こう、何かこの世界で見聞を広めたい。みたいな気持ちはありませんか?」

 

敢えて当たり前な一般論みたいな質問をぶつける。続け様に不躾だと我ながら思ったが、レアさんは特に嫌な顔もせずに答えた。

 

「あぁ、その手の考えは良くある誤謬だね!あーちゃん、君はそれで世界は広がると思うかい?」

 

「う、ん?まぁ、色々な場所に行ったり、様々な体験をすればその人にとっては見識は広がるのではと思います」

 

答えながら俺は一瞬、それになんの意味があるんだろう?という考えが過った。言いながら俺自身この一般論をあまり支持している訳でもないと気がついた。

 

「そうだね、それは確かに間違いじゃないよ。確かに世界は広がるね!ただ、限界の中でひたすらに広がるだけだよ」

 

「限界の中で広がるだけ……?」

 

「んー、そうだねぇ。例えばね、ここに一本の線を引くね」

 

レアさんが中空に人差し指でピッと線を引く仕草をする。

 

「そしてこの線は何処までも伸ばす事が出来るよね。それこそ無限に、馬鹿馬鹿しい程長い線を引けるだろうね」

 

「?はい」

 

「でも無限に伸ばしても線は線にしかならない。始点と終点という限界の中でただ無限に伸び続けるだけだからね。でも、どこまで伸びたところで線はただの線だ。でも限界の外に出ればどうだろう?」

 

「……」

 

はて、限界の外、とは?

 

「線は始点と終点という限界の外に出る事で今度は面になるんだよ。そして面もまた何処までも広がり続ける事が出来るね」

 

今後はカツっと机の上で指で四角を描いた。

 

「あぁ、なるほど」

 

つまり一次元の限界を超えて二次元に、という訳だ。

 

「ボクにはこの世界での見識を広めようとする事はこれと同じに感じるんだ。確かに世界は広がるだろうね。ただそれは面が何処までも無限に広がり続けるのと変わりない、つまりは同じ所で堂々巡りしてるようなものだよ。虚しい無限だね」

 

これを悪無限性って言うんだよ。などとレアさんは続けた。

 

「究極を言えば人間は自分の頭の中でだけで世界は完結出来るんだよ。だって長くて精々百年、限りある人生の中で地球上のあらゆる場所になんて行けっこない。無数の人間の営為を全て体験なんて出来ない。それらの多寡で人にさしたる違いは出ないとボクは思うな」

 

「だってさ、仮にボクが百年生きたとして、その全てを読書だけに費やしたとしても、世界中にある本の1%も読む事も叶わない」

 

「まぁ……言われてみればあくまで人一人が経験出来る程度の差しか生まれないのは確かですね」

 

その人にとってはそれはかなり大きいのではないか。とも思うが、しかし人の一生で体験できる事なんて砂漠の中の砂粒一粒程度だろう。レアさんの言う事にも一理ある気はする。

 

「線が線である限界を超えでて面に、面の限界の外の立方体に、そういう風に限界を止揚し続ける真無限性。ただ同じ所を行ったり来たりしてるより、ボクにとって面白いのはこっちかな」

 

専門用語が混じってて難しいが言わんとする所は分かる気がする。

 

ふと、先日レアさんが話してくれた人斬りの事を思い出した。曰く別の次元にいる、か。

 

「えと、つまり世界を広げるのではなく、超えていく?」

 

「流石あーちゃん!スパッと言えばその通りだね!」

 

なんか褒められた。なるほど、世界を超えるとは、俺みたいな凡人からすると割とスピリチュアルなイメージだが。

 

「具体的にどうするんです?」

 

「簡単だよ、自分の頭で考えるんだよ。当たり前だと思ってる事をね。これに気付けない人は例え直接月に行ったって何を体験したって気付けないけど、気付ける人は居ながらにしてずっと考えてるんだよ」

 

「えっと?」

 

「そうだね、じゃあ例えばあーちゃん!君は誰だい!?」

 

俺は誰だ、俺は……

 

「中島淳」

 

俺の名は中島淳。だ、……俺の名?

 

「そうかな?じゃあ君は中島淳なの?あーちゃんは、中島淳なの?」

 

「え、……と。いや」

 

何だ、今レアさんに問われ時、自分は中島淳という答えに引っ掛かりを感じた。

 

「あーやっぱり、あーちゃんは分かってた。自分が中島淳じゃないって」

 

「それはどういう……俺は俺では?」

 

俺は俺だ。中島淳だ。その筈だ。それに何故違和感を覚えるのだ。

 

「君は中島淳かい?」

 

「……はい?」

 

「ボクはね、昔から、レア。と自分の名を呼ばれるたびに違和感を覚えたんだ、それはボクじゃない、という齟齬を感じていた。それは何故か、と考えてボクは気が付いたんだ」

 

「ボクはレア。と考えているボクがいる」

 

「レア。と思ってる何かがいる」

 

それは……?

 

「レアさんは……?」

 

「レアと思うボクが居る」

 

「我思う故にあり」

 

それは、誰しも知っているデカルトの命題では……?

 

あ……

 

あ……!

 

「……そうか」

 

そうか、そうだ!

 

そうなんだ!

 

今気がついた、俺を、俺をやっている事!それに常について回っていた事。

 

楽しんでいる俺、あるいは苦しんでるいる俺、それを見ている全く苦しんでも楽しんでもいない俺、第三者のような我。

 

「我思う故に有り」

 

「そう、故に有る我は……あーちゃんではない」

 

そうか、中島淳をやっているところのこれ、これが我で、だが、我=中島淳では無い。

 

「名前は結局のところ記号だよ。 AさんBさん。あるいは一番二番、要はそんな感じの個人識別番号でしかない。ホントに人をAさんとか、324番とか呼ぶようにしてれば自分が Aとか324だとか勘違いする人は居なかったろうにね」

 

「なのに何々さんちの何々くん。そんな風に名付けた事が躓きの石なんだ。如何にもそれが自分自身であるという意味を持つように思われてしまったんだよ」 

 

「つまり……?俺は中島淳をやってる……」

 

やっている、なんだ、これは?

 

「あーちゃんをやっている、それだよ」

 

レオさんはそう断言した。

 

「つまり、名前に意味は有ると人々に名前をつけた。それ自体が誤謬なんだよ。名は体を表す、それは正しい。逆に言えば名は体しか表わさない。つまりね」

 

「体をやっているところのこの主体は名前では表せない」

 

「この、俺が俺だと思っているこの、なんでしすかね?」

 

「そう、それが何とも言えない。何なのか分からない、不思議だ。ボクがボクをやっているその不思議に驚く。いみじくもアリストテレスは哲学は驚きから始まると言った通りだ」

 

確かに今、俺も驚いた。そしてその不思議を考えた。レアさんはこういう不可思議の中で生きていたのだろうか。

 

「それで、この自分をやっている所のこれ。これは中々厄介だ。プラトンを始めとした古代ギリシャでは魂と言われる。これは割としっくりくる一語だね。あるいはヘーゲルなら精神。ショーペンハウアーなんかは意思。デカルトならコギト。人によって全然表す言葉が違うのがやっぱりわからないという所だね。現代の科学的唯物論者なら脳だと言うだろうね」

 

「まぁ、残念ながら未だもって脳の何処の働きで意識や心と言ったものが生じているかはよくわからない、脳味噌を切り拓いた所で精神や魂、意識なんて見つかりっこない」

 

「脳では無い……んですか?」

 

俺みたいな考え無しには心は脳によるものと漫然と思っていたが。

 

「ないね!ちなみに昔は精神や心は心臓にあるとも思われていたよ。だから文字通り心の臓な訳だね」

 

「聞いた事ありますね。そう言えば心臓移植で記憶転移が起こるとも聞きますし」

 

「そうだね、そう考えるともしかしたら心臓と精神には何らかの関わりがあるのかもね。まぁ、脳の話に戻るとまぁ脳ってのは結局は生体コンピュータな訳だよね。でもそのコンピュータの働きでどうして心や精神、自我が生じるかって言ったら謎だ。例えば機械の方のコンピュータの性能がこの先飛躍的に向上していくとして、強いAI、物語に出てくるような感情を持った。つまりボクらにはある、これを持つAIが生まれるかな?」

 

生まれるか否か、今の話を省みて考えると……

 

「生まれないように……思えますね」

 

「ボクもそう思う。もちろんどうなるかは分からないけどね。でもコンピュータを弄っている科学者なりという人種は大抵自分という精神や魂の不思議に驚いていない。それが何なのか分かっていない事すら分かっていない不明な人間に一体どうして機械にそれを与える事が出来るだろう?」

 

「これ無知の知ならぬ無知の無知だね」

 

……なるほど、俺も漫然と科学が発展していけば人間と同じような考える機械というものは出来るような気はしていた。しかし、これはレアさんの言う事が最もかも知れない。人が自分でも分からないものを機械に与える事が出来る道理があるだろうか?

 

それは難しい気がする。ただ漫然とコンピュータやAIの性能を上げ続けていれば、何となく人間と同じ意識が生まれる。なんて見通しは曖昧模糊に過ぎるだろう。

 

「もし意識を持つAIというものを作るのならそもそも人間の意識や精神が何なのか。という所が分からないとまず前提条件すら成り立たないように思いますね」

 

「そうだね。だからもし科学者さん達が本気で心、魂、精神を人工的に作り出す気なら彼らはきっとここに躓くと思うよ」

 

「科学の父と言われる万学の祖、アリストテレスが形而上学を第一の学としたのを忘れてはいけない。言ってみれば土台が何なのか理解せぬままにその上に城を築くのは無謀だ。それをアリストテレスは分かっていた」

 

つまりレアさんが言っているのは科学以前の話。例えば今出た俺が俺をやっているところのこれの謎。

 

「恐らく今の科学万能主義の世の中はここを見落としてしまっているね。ソクラテスの時代、二千年経っても本質的な不思議は解明されていない。哲学は古代ギリシャの時代から本質的に前進していない。かと言って科学がそれを解いてくれた訳でも無い。これを見落としたまま不確かな土台の上に科学は肥大している」

 

「ボクが存在しているという事はどういう事なのか?」

 

存在ってなんだ?と問われればこの俺の身体の事を指すのか?いや、先程からの問題の俺をやっているこれ。これは何だという事か、そう言われて見れば深く考えてしまう。なるほど、分からない。

 

「分からない。そう分かっているのならいいんだ。是、ソクラテスの説いた無知の知だ。だけど今の科学者達は分からない事すら分かっていない人が殆どじゃあないのかな?」

 

「まぁ、こんな事声高に訴えても神秘主義だなと一笑に付されるのがオチだろうけどね」

 

「最も付け加えておけば、科学者側の人もこの不思議に気付いている人は少なからずいると思う。そういう人は言葉の端々に出るからね」

 

……単純に批判の姿勢だけ見ると非科学的だと俺も思ったかも知れない。しかし……

 

「レアさんの意見をちゃんと聞いた上で忖度抜きで俺の印象を言うなら、正鵠を射ている様に感じます」

 

分からない事を非科学的と一蹴してしまうのなら、それこそ科学万能と思考停止しているだけの様にも思えた。

 

「ありがとーねぇ、あーちゃん。でもボク自身正直に言えば単に科学万能主義的な世界が嫌いなだけという私怨混じりだという事も否定出来ない。人は無為自然でいいんじゃないかって気がする気持ちはあるからね」

 

……分からなくも無い。半世捨て人のレアさんはそういう世界に生きにくさを感じている部分もあるのだろう。黙殺されるしか無いマイノリティの苦悩は俺にも少し、分かる。

 

「誰だって世の中に対して不満はありますよ。特にレアさんのそれは中々理解されないだろう事も何となく分かります。それでもレアさんは不平不満を言うでも無く、穏やかに生きてます。それは立派な事だと思いますよ」

 

だって、レアさんとは違う。もっと誰でも持っているような小さな不満が我慢出来ず、世の中や周囲の所為だと常に口にし続けなければ生きていけないみっともない人は沢山いる。なのにこの人は誰の理解も求めず、ただ孤高に生きている。それが俺には尊く思える。

 

——わびしくて、さびしくて、でもみちたりている。

 

レアさんは一瞬驚いたように眼を開き。次に俺をよく見ようとするようにジトリとした目線を向け、最後に柔らかく笑った。

 

「ありがとう、あーちゃん」

 

「便利な世の中になった、と俺も思いますがきっとそうは思わない人もいる。そのくらいは俺も分かります」

 

誰にも何も口にせずに生きるより、誰か一人くらいはレアさんの話を聞く人間が居てもいいではないか。誰もいないのであれば俺がそうでありたい。

 

大多数に住み良い世界は作る事は出来るだろう。だけども全員に良い世界などあり得ない。どうしたって仲間外れの人間は出てくる。例え万人を幸福に出来る世界でも一人は切り捨てられる。

 

何処で間違えたのか、幸せを欠く人間はいる。俺はそれを知っている。

 

「便利、かぁ、確かにボクにはよくわからない事だね。逆に不便で何がいけないんだろう?」

 

逆に問われると答えに詰まる。何かいけないのか、と。別にいけなくはないのだろうが……

 

「……利便的であれば労力や時間が節約出来る、という単純な理由とか?」

 

「さて、節約して果たして何かプラスになるのかな?例えば、そうだねぇ」

 

レアさんは一つ考えるように間を空けてから続けた。

 

「東京から大阪に移動する時に、交通手段Aを選ぶと移動時間は三時間で料金は五千円。一方交通手段Bを選ぶと移動時間は一時間で料金は一万円。これだとどっちが便利だろう?」

 

とりあえず東京大阪間を一時間で移動出来る交通手段は無いと思ったが、この場合ただの例え話で別にそこを揚げ足取りする必要はないだろう。所要時間だけで考えるなら前者の方が便利だ。

 

「一概に時間が掛からないからBの方が便利だとは言えませんね。単純に言えばお金を節約したいならA、時間を節約ならBを人は選ぶでしょうけど」

 

「そうだね。ならこれなら?交通手段Aは移動時間は三時間で料金は五千円。交通手段Bは同じく移動時間一時間で料金は五千円」

 

時間は三倍だが料金が同じと言うのは……

 

「何か時間以外の面で強いベネフィットがAにあるのなら……」

 

「それが、全く無いんだ。つまりAとBは全く同条件。ただ Aの方は三時間かかるだけ」

 

「まぁ、それだとAは論外かと。誰も選ぶ人は居ないのでは」

 

うむ、と一つもっともらしく頷いてレアさんは言った。

 

「そう、誰も選ぶ訳ないね。 Aの交通手段は恐らく廃業だ。どう考えても Bの方が便利だよね」

 

そういう事になる。時間がかからない分Aの方が便利だからだ。

 

「じゃあ、会社員の佐藤さんが仕事で東京から大阪に出張になりましたー!ってなって交通手段 Aを選んだ場合とBを選んだ場合。さて佐藤さんはどっちが得をするだろう!?」

 

「えっ?」

 

会社員佐藤が出張の移動手段でAとBどちらにするか?もちろんわざわざ三時間かかるだけのAを選ぶ筈は無いだろう。だがBを選べば佐藤氏は差し引き二時間得をするか?

 

「……パーキンソンの法則か」

 

すぐにレアさんが言いたい事に気がついて俺はそう呟きを漏らす。

 

「そうだね。第一法則。こっちはボクよりあーちゃんの方が専門だね」

 

確かに俺は大学では経営情報学専攻だ。概要くらいは知っている。

 

パーキンソンの法則、第一法則とは、仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。と言うものだ。

 

平たく言えば時間があればあるほど、その時間一杯に仕事量は増える。つまり

 

「Bを選んでも佐藤さんは何も得をしない…… 」

 

「そう言う事になるね。Bを選べば移動時間は往復で四時間削れる。でもそしたら単純に佐藤さんの仕事が四時間増えるだけだろうね」

 

まず間違いないだろう。Aを選んでも移動時間が増えるだけ。Bを選んでも仕事時間が増えるだけの話だ。

 

「これは分かりやすい例だよね。ただどんなものでもそうだと思うんだよ。便利な道具で時間や労力を節約出来るかも知れない。だけどそうやって手に入れた時間にさらにせこせこと働く。ボクは世の中便利になって、余裕が出来るどころかむしろどんどん余裕を無くしていく気がするね」

 

「皮肉ですが、確かにその通りかも知れませんね」

 

余裕を無くした現代人とはよく言うが、それが利便性を追求した結果だと言うのは滑稽だ。

 

「不便だったら何が悪いのかな?ただのんびり労力をかけてそれで問題はないとボクは思う。便利にして節約できて時間や労力を得なような気がするのかも知れないけれど残念、その人の人生の持ち時間は全く変わらない。」

 

「人生の残り時間自体を増やす事は確かに出来ませんね。せめて有効活用しようとして、更に時間を仕事に一杯に使って余暇を潰すなら本末転倒ですか」

 

こっくり、と緩慢にレアさんは頷いた。

 

「そう。だからそう言った事をはじめ、ボクはよくわからないんだ。そういう人の営為が分からないし、関わろうとも思わない。根本的に人でなしなんだね」

 

「無理に関わる必要はないでしょう。関わりたい人達も居れば関わりたくない人だって居ていいと思います。多様論としてもそういう人が居てもいいでしょう」

 

レアさんは瞑目してまた一つ頷いた。

 

「かも知れないね。でもボクにはやっぱりよくわからない。別に居なくてもいいんじゃないかって思う」

 

あまりにも穏やかに放たれた言葉故に殊更にぎくりとさせられた。

 

「いや、居てもいいとは思う。つまりどっちだっていいと思うんだよ。優生論も多様論もどうでもいい。そんなのは人がもっともらしく後付けした理屈だと思う。別に人間なんてもの居ても居なくても何も変わらないんだ」

 

あぁ、そうか。この人は、何も価値を見出して居ないのか。

 

「ーーそれって凄く優しい事じゃないかな?」

 

………

……

 

人は何処かで自身に価値を置いているものだ。

 

どんな人間だって何かしらの分野で自分には価値があると見出して生きているものだろう。

 

自身は無価値だ。何も自信がない。と嘆く人も詰まるところは人間には何か価値があって然るべきだと考えているからそのように悩む。

 

で、あるなら、自身を含めた人間に一切の価値を見出さない人間が居たとするならどうだろう。つまりその人に取ってはホームレスもアメリカ合衆国大統領も大差ない。恐らくは誰の生き死にも……もちろん自分の生き死にもどうでも良い。

 

おおよそ真っ当な人間の精神性とは言えないだろう。それは確かに人でなし、と言われる種類の人種なのかも知れない。

 

………

……

 

「あそこは結構掘り出し物多いからね。俺も定期的に見に行くよ」

 

「ないなー、って探してたのが結構あったりするんだよねー。しかも安かったりするよー」

 

その日、俺は大学からの帰りに真昼の街を同期生の柊茉莉と談笑しつつ歩いていた。

 

柊は女性としてはやや高めの身長に、緩やかな曲線を描く身体をややゆったりした服装で隠し、何処か間延びした口調で、顔つきは童顔で美人というより可愛らしい。如何にもおっとりとしていそうで、実際おっとりとした性格の人物だ。

 

柊とは大学では特別に仲が良いという程ではないが、話題は合って割と話す方だ。今日もたまたまタイミングが合ったから流れで一緒に帰宅する事になった。

 

「この前も絶版のが見つかってねー」

 

「中々に穴場……あれ?」

 

ふと、道行く人の中に見覚えのあるシルエットを見つけて、俺は立ち止まった。それを見て柊は怪訝な顔をする。

 

一瞬見間違いかと思った。しかし、幼い子供のような体躯。いつものだぼだぼの部屋着ではなく、よそ行きの服だろう黒いワンピース姿のその人は間違いなくレアさんだった。

 

俺は腕時計に眼を落とす。午後二時だった。はて、規則正しい夜行性のレアさんは寝ている時間の筈だ。あの人は日中に用事がある時は寝る前の午前中に済ませるらしいので午後の日中に外出なんてする事があるのか。

 

「レアさん」

 

「はい?」

 

丁度こちらの方に歩いて来たのでせっかくだから声を掛けてみる。が何処か事務的な返事が返ってきた。

 

「ん〜?」

 

レアさんは眼を細めて、俺を注視して来た。裸眼だ。そういえばレアさんは目が悪い。人を見分けるのは苦手だと聞いた事がある。街ですれ違いで出会った相手が、どうも俺だと分からないのだろう。

 

「俺ですよ、中島です」

 

「なかじま?……お、その声はあーちゃん!こんにちは!」

 

わざわざ名乗ったのだが、レアさんは声で判別したようだった。別にいいけどレアさんは俺のフルネームを記憶していないのかも知れない。

 

「こんにちは。珍しいですね、こんな時間に」

 

「うん、ちょっとどうしても昼間、午後からじゃないと駄目な用事があってねー。正直凄く眠い」

 

まぁ、普通の人で言えば夜更かしして真夜中に外出しているようなものだ。別にそれくらい、と思わなくもないが、レアさんは早寝早起きだから辛いのだろう。実際俺もこんな日向でこの人と向き合って話してるのは中々違和感がある。

 

「中島くんの知り合いー?」

 

きょとんとした顔で柊が聞いてくる。一見して子供のようなレアさんと俺の関係性は客観的には確かに少し奇妙か。実際には偶々お隣さんだったと言うだけなのだが。

 

「そちらの人は初めましてだねぇ!こんにちは、レアと申します!いつもウチのあーちゃんがお世話になってます」

 

「え、はい。初めましてー、柊茉莉です」

 

俺が紹介しようと思うより先にレアさんは自ら挨拶した。しかもやたらテンションが高い。いつもと言えばいつもの事のようだが、この人は普段は他人には普通に礼儀正しいから少し驚いた。

 

「レアさん。もしかして結構辛いです?」

 

「うん……実はちょっと太陽がキツい……割と気持ち悪い」

 

やはりというか太陽に当てられたのと徹夜ーー徹昼と言うべきかーーでテンションがおかしくなっているようだ。

 

「用事は終わりました?」

 

「うん。何とか終わったとこー」

 

「じゃあ、無理せず帰って早く寝た方がいいですよ」

 

「うん、そうするよー。じゃあねあーちゃん、桂木さん」

 

そう言ってレアさんはくたびれていてもぬるりとした歩きで去っていった。帰る場所は同じなのだから一緒に帰ろうかと思ったが、レアさんは身体が小さいのに歩くのが早く、呼び止める前に、あっという間に遠くへ居た。

 

早く帰って寝たいだろうし、道中に付き合わせるのも酷か。

 

「……知り合いー?」

 

「うん、アパートのお隣さん」

 

柊から再度同じ質問を投げかけられたので、正直な所を答えた。

 

「変わった娘だねー。これから寝るのかなぁ?」

 

「うん、夜行性の人だから」

 

まぁ、色々突っ込みどころ多いし、変わってるのは間違いない。

 

「後、桂木じゃなくて柊なんだけどなー」

 

「うん、名前覚えるの苦手な人だから気にしないであげて」

 

とはいえあの人は名前呼び間違えなどの失礼が無いように、覚えられないなりに名前を呼ばずに誤魔化したりしてるっぽいのだが、今日はその配慮も出来ぬ程度には疲弊していたのだろう。まぁ、柊も本気で気にしてはいないだろうが。

 

「でもあの娘、可愛いねー。お隣の娘さんかー」

 

「……歳上だよ」

 

何か勘違いしている気がしたので俺は小声で訂正した。

 

確かに浅い印象だけで言うなら可愛い人とか変わった人で済んでしまうかも知れない。しかし、少なからず関わりのある俺は知ってる。あの人は底知れない怖さのある人だ。

 

底の知れない、か。

 

そういえば、レアさんから以前借りたニーチェの著書。そこに記述された余りにも引用され過ぎてもやは手垢にまみれた感のある一節を思い出した。

 

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。

 

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

 

ーー善悪の彼岸には至ってはいけない。のぞくだけでも害なのだ。

 

………

……

 

夜、その日もレアさんの部屋にお邪魔して、手土産を渡した。その日は品目、調理法ともに簡単な野菜炒め。肉は抜きだ。やはりと言うべきかレアさんはそんなのでも喜んでくれた。

 

俺が渡したタッパーを冷蔵庫に入れたレアさんがそのままいつものようにコップを取り出し、しかし普段通りに水道水を注ぐのではなく、珍しく冷蔵庫からペットボトルを取り出し何か飲み物を注いでもってきてくれた。

 

「どーぞ、粗茶ですが!」

 

いつもと同じ台詞で飲み物は出されたが、これは初めてのパターンだ、とコップを受け取りつつ小さく唸った。レアさんはそのまま椅子に腰掛けて、机の上に乗せてた眼鏡をかけるとニコニコしてた。

 

粗茶と言いつつ本当に茶を出してくるか。しかし、どうも緑茶の類いでは無さそうだ。よく冷えているが、どうやら麦茶でもない。それよりかなり色合いが濃いのだ。近いのは烏龍茶だろうか?

 

決意して、そっと一口飲む……めんつゆだ。

 

よく冷えてダシの効いためんつゆだ。道理で色が濃い。しかも濃縮タイプなのに希釈してないから凄くしょっぱい。まぁ実際レアさんが冷蔵庫から注いでたのが見えた時点で分かっていた。別に隠すでもなくめんつゆのボトルからコップに注いでいたからだ。

 

いつものパターンを変えて突拍子もない悪戯を始めるとはこの人はこういう事もするのか。実際本当に茶と思い込んだまま飲んでいたら盛大に吹いただろう。まぁ、レアさんは分かるように注いでいたのが優しさだろう。

 

何処か楽しげに笑ってるレアさんがツッコミ待ちのように見えて、何となく乗るのも悔しいから俺は何も言わずコップからめんつゆをちびりとやった。

 

「そういえば昨日、珍しく夜更かし……じゃなくて昼更かし?して真昼間に歩いてましたが、あの後ゆっくり眠れましたか?」

 

「うん!あの日は疲れたよー。結局真昼間に寝る事になったから寝坊しちゃったしね!疲れは取れたし、今日一日でリズムは戻せたからいいけどね」

 

「そうでしたか」

 

あの日は本当に疲れてそうだったから回復したのなら何よりだ。

 

「なんかさー、食糧とかちょっとした雑貨なら夜でもコンビニが24時間営業してて親切だと思うけど、他は全然だよねー。もっと市役所だの銀行だの色んな業種で夜中に開いてる所あっても良いと思うんだー。それこそこの前の便利の話じゃ無いけど、そういう所を配慮してくれた方がボクはありがたいなぁ」

 

ふむ、まぁレアさんからすればそれは助かるか、とめんつゆを舐めるように飲み、少し考える。そしてふと閃き、おっ、これはと思った。

 

「レアさん、それはむしろ不都合かも知れませんよ」

 

ニヤリと笑って俺は言った。きょとんとレアさんは目を丸くして首を傾げる。

 

「うん?どうしてだい?」

 

「だって真夜中にも真昼間と変わらずにどんなお店も開いていたら、皆も真昼間と変わらずに夜中出歩くようになるじゃないですか。あるいは逆に皆が真夜中に出歩くようになったからお店も開いてるようになったのかも知れないですよね」

 

「あっ!そうか!」

 

「どちらにせよ、レアさんが好きな、人が居なくて静かな夜は台無しですよ?」

 

普段頭の回転が俺より早くて、更に発想も柔軟なレアさんから初めて一本取れたかも知れない。普段が翻弄されっぱなしだけあって、ちょっと達成感があった。めんつゆのちょっとした意趣返しくらいは出来たかも知れない。

 

「凄いね、あーちゃん!きっとその通りだ!夜中は何処も閉まっているから意味があるんだ、やっぱりあーちゃんは頭が良いねぇ!」

 

しかし、レアさんは素直に感心するばかりなので毒気が一切抜かれる。

 

「頭はレアさんの方がいいですよ。俺は凡人ですから」

 

「いや、ボクはただの馬鹿だよ。ボク程愚かな人もそーは居ないんじゃないかな。いいじゃないか、凡人で!例えば天才はどうあがいても平凡では居られないだろう、そう考えると平凡と言うのも得難い才能だよ」

 

平凡が才能……か。

 

「まぁ、確かに天才になんかなるものじゃないとか、平凡が一番とかよく言いますね」

 

「うん。使い古された言葉だけど、それだけに含蓄がある。真っ当な感性を持って普通に生きていけるのならそれが一番じゃないかな?」

 

「無論ボクは自分が天才だと思うほどには愚かではないけど、やっぱり、どうしたって平凡を得られない人って努力で平凡にはなれない。そういう人は多かれ少なかれ苦悩はするものだと思うよ」

 

……平凡を得られなかった人達。それは確かにいるはずだ。何が悪いわけではない、本人がどうして異端な事もあるだろう。環境が真っ当じゃない事もあるだろう。

 

あぁ、ならば一体何が悪かったというのか。誰が悪い、何が悪いというわけではないのなら一体何処で歯車が狂ったのか?

 

ふと思う頭をよぎった二人の母親の記憶。幼い俺を抱いている、何処か儚い笑顔の母。家に俺と二人残されて、一人で食卓の椅子に座って今にも消えてしまいそうに泣いている母。

 

こつ、と俺はグラスを置いて尋ねた。

 

「……レアさんもそういう苦しみはありますか」

 

「どうだろう?あると言えばあるし、ないと言えばないかな」

 

「……分からないんですか?」

 

「ボクは自分が欠陥品だとは自覚している。でもその事に不満があるか?と言われると特に無いんだ。そんなだからこその欠陥なのかも知れないけど」

 

 

……最初から欠けている人が不満は持たない、か。そんな馬鹿な、と思う反面、それはもしかしたら道理なのかも知れないとも思った。

 

最初から欠けているのならそれが何なのか知らないのだから、それがない事に不満を抱きようがない。と単純に考えたらその通りだ。

 

例えば、元々眼の見える人が失明してしまった場合、その人が絶望から立ち直るのに年単位で時間がかかる事が多いと言う。その場合、その人は視力という元々有ったものを失ってしまったから、明確なマイナスだ。

 

だが、生まれつき全盲の人は特に目が見えない事に不便を感じている訳でもない。そもそもその人は視力があるという事を知り得ないのだから視力がある事の利点も不便も分からない。この場合特にプラスでもマイナスでもない。

 

しかし、人はそう簡単には割り切れないというのも道理の筈だ。生まれた時から全盲の人も、視力がある事前提の世界で生きなければいけなく事に何も思う所もなし。というわけもない。

 

俺はどうなのだろう?欠けていたのか、失っていたのか。いつも考える。何処で間違えたのか。

 

歯車が狂ったのはいつなのか?どうすれば良かったのか?

 

後悔がついて回った、あの時ああしていれば或いは、と。そうしていつも思っていた。

 

「レアさんは過去に戻れたらやり直したい事ってありますか?」

 

「え?うーん……」

 

俺の質問に意表を突かれたように少し驚いたレアさんは少し考える。

 

「ん……考えた事が無かったけど、特にないね」

 

「……ないんですか?あの時ああしてれば良かったって事が一つくらい」

 

んー、とレアさんはまた少し考えてから口を開いた。

 

「そういうのって現状に何か不満があるからやり直したいんだよね。さっきの話と同じでボクは現状に不満がないんだ」

 

あぁ、やはりこの人は遠い。俺とは違う彼岸にいる。本当にこの人には何もないんだ。どうしてこう言い切れるのだろう。俺とレアさんは何が違うのだろう。

 

あぁ、でもこうも思う。不満が無いとは裏を返せば何一つ満足も無い。つまり不満しかない。という事なのかも知れない。

 

「それにこれは間違いだった、あれは間違いだったとやり直し続ければ正しく生きられるのかな?何処までもやり直し続けるポイントが増えるばかりで多分キリがないんじゃない?」

 

飛ぶ矢は止まっている。ゼノンのパラドックスに少し似ているかもね。などとレアさんは嘯いた。

 

「確かに、一体何処までやり直したら満足がいくのか、延々とやり直し続けるのかも知れませんね」

 

もっともかもな、と思う。一よりニ、さらに三、十、百と留まるところを知らないのが人間だ。

 

「それでも、一つ、二つでいいから間違いを正せたならと、そうしたら今よりマシになっていたかも知れないと、そうも俺は思ってしまうんですよ」

 

「……それも人間らしいとボクは思うよ。足を知れという言葉は大抵は多くを持つ者が言うものだから」

 

「足るを知るものは富む。それはその通りだ。けれど知れと言われて知ることが出来るものでもないんだろう。多分知る人しか知れないんじゃないかな」

 

「……そうなんでしょうね」

 

最初から多くを持つもの。あるいは老子のような凡人とは比ぶべくもない偉人。そう言った人達に持たぬ人の事を何が分かるのだろう?

 

「だけどレアさんは知っていますよね」

 

「……多分そうなのかな?まぁ、結局は有るか無しかなんだろうけど、有っても無くてもどっちでもいいとは思うよ」

 

ならば、俺はやはり知りたい。価値も無価値も等価値と言ってしまうこの人が何を思っているのか。彼岸の向こうの風景を見たい。

 

「何にせよ有った方が無いよりいいのではないんじゃないでしょうか?」

 

「そうかな?それも突き詰めると大した事なくなっちゃうんじゃないかな?」

 

「例えば、そーだね。これもさっきのゼノンのパラドックスもちょっと関係してくるかな」

 

「?飛ぶ矢は同時に静止しているという奴ですか」

 

俺も一応概要くらいは知っている、あのパラドックスが有るか無しかに関係があるのだろうか。

 

「そうそう。アキレスと亀でも似た事だけどね。要はあれは矢が飛んでいる空間を無限に分割してしまうと起きるパラドックスだよね」

 

「そうなりますね」

 

時間と空間に関するパラドックスだった筈だ。矢が A点からB点に飛ぶとして矢はA点からB点に飛ぶまでにその中間点Cにまずたどり着く必要がある、しかしAからCまでにたどり着くまでにはさらにその中間点Dにたどり着く必要がある。

 

以下同じ理屈で無限に中間点を通過する必要がある為、 A点からB点までをいつまでも辿り着かずに飛んでいる筈の矢が止まってしまう事になる。というようなものだった。

 

「問題なのは無限という奴だ。無限に分たれてしまうからこそ起きる問題だよね。だけど古代ギリシャのデモクリトスは物質にはそれ以上分割出来ない最小単位があると考えた。つまりは有限だね。この最小単位が今にも繋がる原子論、原子(アトム)だ」

 

「なるほど、物質は有限であるから確かに無限に分割出来ないですね」

 

「そだね、ちなみにこのアトムが後にライプニッツのモナド。そして現在の素粒子物理学に繋がる事になるね」

 

「でもアトムには対立概念があってね虚空(ケノン)って言うんだけどね。こちらはアトムの運動の場としての無限に分解出来るものなんだ」

 

「という事は、矢のパラドックスで問題とされているのはどちらかと言うとケノン……?」

 

「という事になるのかな?虚空がイコール空間や時間と考えるのは多分違うだろうけどね」

 

「でもつまりこれも有るか無しか、を問題にしていると考えられる」

 

「矢を飛ぶ時間や空間は無限か有限か、と考えると確かに近い気はしますね」

 

文字通り無限か有限か、無か有かに繋がってくるという事なのだろう。

 

「有るか無しか、人間で当てはめると生か死かと言うのが近いかな」

 

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。……詩人ってのはズルいよね。ただ一言の言の葉でそれを切り取ってしまう。」

 

「ハムレットですね」

 

なるほど、確かにたった一言の台詞で問題を明らかにしてしまう言葉を操るのが詩人という人種なのだろう。

 

「でも、人間ってのはそういうものだ、何故か存在してしまい。死ぬまではどうしても生きている。どんな人間もこれは例外はないね」

 

「そうなりますね」

 

「でもこれって凄い事だとは思わないかい?路上で寝ている浮浪者も、一国の大統領も、お金がありすぎて使い切れない大富豪も、歴史に名を残す大英雄も、極刑に処される極悪人も、あーちゃんもボクも、等しく生きて死ぬ。これだけはこの世界で掛け値無しに公平だね」

 

「そう考えると、大抵の事はどうでもよくならないかい?存在して、死ぬまでは生きて死ぬ。ただそれだけの話なら何を必死になる事があるだろう?」

 

「……理屈の上では分かります、が」

 

確かに生きている間に何をしようが人は死んで終わりだ。その虚しさを思えば何をしようと、あるいは何もしなくても同じ。という考えに至ってしまうのは分かる。

 

「感情の上で飲み込めない?」

 

「まぁ、こういう考え方も手垢にまみれてるって言えばその通りだし、結局人間は感情の生き物だからね。自分が死ぬのは分かっていても、今日死ぬとは思いもしないし、何となくいつまでも生きてる気がする。大抵の人がそうじゃないかな」

 

確かに理屈の上では生きている以上今日死ぬ可能性はあるのは分かる。でも俺が今日死ぬかも知れない事を念頭に生きているか?と問われたら否だろう。確かに今日も明日も十年後も漫然と生きているような胡乱な考えがある。

 

「今日死ぬかも、と毎日毎日のように考えながら生きるなんて大抵の人は耐えられないでしょう」

 

「なのかな?死ぬものは死ぬという当たり前の考え方で生きるだけだと思うんだけどね……例えばある人が今日いっぱいで死ぬと分かったとする」

 

「はい」

 

「あーちゃんはその人は最後の一日はどうすると思う?」

 

「ん、最後の一日をですか……」

 

何をするか?最後の一日を、その日によるだろうが、周囲に感謝を伝えるか。大事な人と寄り添って終わるか。好き放題出来なかった事をやるか。死に場所として何処か行きたい場所に行くか。

 

「人によってやる事や過ごし方は違うでしょうが、最後の一日を悔いを残さないように過ごすんじゃないでしょうか?」

 

「恐らくそうなんだろうね。だけどそれがどうもボクには奇妙に感じるんだ。別に普段通りでいいじゃないか?いつものように仕事に行っても、学校に行っても、怠惰に寝て過ごしても、映画でも見に行っても、ただ当たり前の一日を過ごして死ねばいいんじゃない?」

 

「ん……確かにそうですが、最後となると中々そうするのが難しいのかなと」

 

あぁ、でも確かにそうだ。どうして普段通りに過ごせないのだろうか?レアさんは恐らく何一つ普段と変わりない一日を過ごして死ぬのだろうという気がする。

 

「ボクは今日が最後の一日だと分かった途端にその日の行動を変えるようならその人は生き方を間違えてると思う。だって普段からやりたい事を心からやれてる人なら別にいつ終わっても良いじゃないか。あーちゃんは悔いを残さないように過ごすと言ったけど、最後の一日に慌てるような人はどんな一日を過ごしたとしても、間違い無く悔いを残して死ぬんじゃないかな?」

 

辛辣な意見だ。でも確かにそうなのかも知れない。最後のたった一日で一体何が出来るのか、何が取り返せるというのだろう。

 

「そう考えると難しいのかも知れないですね……ただ死ぬ時に悔いを残さないだけの事なのに」

 

「だから、だよ。明日世界が終わりになろうとも、今日は林檎の木を植える。それだけでいいと思うんだ」

 

その行為をポジティブに捉える人は単純で善良なのだろう。明日世界が終わる日に林檎の木を植えるというのは何処までも空虚で、無為だ。現実的にそんな事をする人はまず居ない筈だ。だが、その虚しさを知ってそれをやれとレアさんは言っているのだ。

 

「無意味でも、ですか?」

 

「無意味だから、だよ」

 

「そうだね……あーちゃん、キミはアリとキリギリスという話は知っているだろう」

 

「はい。かなり有名な童話ですよね」

 

知らない人はまず居ないだろう。冬に向けてせっせと食糧を貯め込むアリと音楽を奏で、歌を歌い日々を楽しむキリギリス。やがて冬になり食糧は無くなるとキリギリスは困る。アリは食糧を計画的に溜め込んでいたアリを頼るが拒否されてキリギリスは雪の降る中凍え死ぬ。勤勉に生きるべきだという教訓が込められた奴だ。

 

「アレは最近ではアリがキリギリスに食糧を分けてあげてハッピーエンド。という毒にも薬にもならないような話に改変がされてたりするらしいね」

 

「無難な話ではありますけどね。子供向けにマイルドにし過ぎても結局何も伝わらなくなっちゃうでしょうし」

 

というか、こうして突っ込んだ話をしてみて気が付いたがレアさんは意外と毒舌気味だ。普段がテンション高いけど口は悪くないイメージが強かったが、いつもは何かを訴えかけようという意思がないからそれこそ毒にも薬にもならない話し方になってしまうのだろう。

 

「まぁ、それはいいとして……ボクはあの話は嫌いなんだ。アリの方が賢いなんて間違いなく嘘だ。人生の空疎、無意味を正しく理解していたのはキリギリスだと思う」

 

「ただ、歌って、楽器を弾いて、そして行き倒れて降り積もる雪の下でキリギリスは最後はこれで良しと笑っていたんじゃないかな」

 

「……なるほど」

 

確かに、アリとキリギリス、どちらの人生がより上等だったのだろうか?大差ないのではないだろうか?少なくともレアさんの言う通り堅実なアリが賢いとするのは短絡的に過ぎるだろう。ただ無為な人生を歌って楽しんだキリギリスの方が上等だったのではないか。

 

「死ぬまでは生きてるんだから、別に生きてる間に何もしなくてもいいし、何をしてもいい。そのくらいの自由は人には許されているんだ。有りか無しかなんてどっちでも良い。そう気がつけば何も持たなくても満ちている。足る事を知るものは富むとはそういう事じゃないかな」

 

「何も持たない事も全てを持つ事も同じ……という事ですか」

 

「そうだね、清貧って言葉はあるよね。清貧と貧乏は違う。お金で買えないものは貧乏だけだけど、ボクが思うにお金持ちでも清貧は人はいるんだ」

 

「お金持ちなのに清貧ですか?」

 

それは何だか矛盾するような気がするが。

 

「確かに清貧の定義からするとお金を持っていたら正確には清貧ではないだろうけど、清貧な性質のお金持ち自体は別におかしい事じゃないよ。要は清貧な人はお金なんて無くても充分満ちている人って事だよね」

 

「ですね。お金が無くても最低限の生活で困らないというわけですから」

 

「でも、お金が無くても満ちている清貧な人はつまりお金に拘らないって事だね。じゃあ逆に言えば清貧な人はお金があったって別にそれはそれでいいという事になる」

 

「確かにそうですね」

 

つまりはレアさんのいう有っても無くても同じというやつだ。

 

「なら、たまたまお金を持ってしまったそうそう人もいるだろうね。……逆にお金を突然持ってしまった、所謂成金の人に多いらしいけど不必要に派手に贅沢してお金持ちアピール。でも元からお金を持っていた訳でもないからお金の使い方が分からずにあっさりご破産。でも豪遊生活から元の生活に戻れず……みたいな話は割とあるらしいよ」

 

「確かにそういう話は聞きますね」

 

やはり人間分不相応なモノを持つとろくな事がないという事なのかも知れない。

 

「でも、清貧な性質を持った人はいきなり大金が手に入った事で変わらないよね。別にわざわざ不必要に豪遊する必要もないし、無くなったら無くなったで特に構わない。もしお金が入った途端に変わるようならその人はただの貧乏で清貧では無かったのだろう」

 

「貧乏と清貧……なるほど全く違うものですね」

 

貧乏が金を得た時の振る舞いは成金。清貧が金を得たら、全く違うか。

 

「ね、お金もあってもなくてもどっちでもいいモノだよね。死んだ後にお金は持っていけないし、最低限あれば生きていける……いや全くなくても生きるのに差し支えないよね。路上で生活も充分出来るんだし、それで他の人達と同じく死ぬまでは生きられる。もちろんあったって別に困るわけじゃない、お金で解決出来るばかりだしあるならそれで助かる事は多いしね」

 

つまりは結局どっちでも良い。レアさんにはそれだけの事なのだろう。

 

「でも生か死か、有るか無しかも奥深い話でね。有るものがある。というのはともかく、無いものが有る。と言ったら何かおかしい気がしない?」

 

「無いものは無い。なら分かりますが、確かに無いものが有る。というのは矛盾してるように感じますね」

 

「ね。でもさっきケノン(虚空)という概念があると話したけど、これは要は無いものが有るって言ってるようなものなんだ。よくよく考えるとちょっと奇妙だ」

 

確かに、無いという概念が有るというのはそう言われると奇妙ではある。無いものを有るかのように言う、か。

 

「そう考えると何だか数字の0みたいな感じですね、実際には無いから」

 

「流石あーちゃん!丁度それと同じ感じだね。あると便利だから概念としては有る。けど実際には無い。ここに林檎が0個あります。と言う事は出来ても何だか破綻してる気がするよね」

 

レアさんは何もない机の上を指差しながら言った。そこには無い林檎が0個あると言われれば確かに直感的に零のおかしさを感じる。

 

「実際初期ギリシャ哲学者のパルメニデスは無がある事は不可能と至極当然のように言ってるからね。ケノンとか零とかの概念はそれに反しているのかも知れない。じゃあここで有るを生。無いを死と置き換え直してみよう」

 

「というと、つまり零やケノンと死は同じという事ですか?」

 

死もまた無いとすると、生きて死ぬのは絶対の公平と言ったレアさんが矛盾するような気がするが。

 

「そうだよー。零とまんま同じだよ。例えばあーちゃん、キミは死とは何?と聞かれたら一体何を指して死とはこれと言うかな?」

 

「え?……何をですか……死体?」

 

「死体は確かに死んでいる、生きてないね。でも死体はただの物体だ。これは死んでるって言っても死体がそのまま死ではないし、死体を解剖して中をいくら探しても死を取り出す事は出来ないよね」

 

確かにその通りだ、死体は死んでいるが別に死体が死ではない。と改めて考えると死とは何だ?

 

「う、ん、例えば今死にそうになっている生き物がそのまま実際に死ぬ瞬間が死、というのも……」

 

「生きてる状態から死んだ状態になるプロセスを指して死。というのも明確ではないね。これは今死んだって言っても、生きてるものが死体になる過程の何処に死があったのだろう?」

 

死んだ瞬間を死というのも確かにしっくりこない。そもそも生きてる状態から死ぬ時の明確にどの瞬間を指して死んだというのだろう?心臓が止まった時か?脳死?生命維持の全機能が不可逆的に停止した瞬間か?どこの時点で死んだのだかも分からない。

 

「よくよく考えて見ると死なんてこの世界の何処にも無いと思わない?」

 

「確かに死体はありますが、何が死というのは……つまり概念だけの実際には無い事を言っているから零と同じ……?」

 

「と、いう事になるね、ただの形而上の概念だ」

 

ん?しかし生きる事と死ぬ事が確かだと言ったのはレアさん自身だ。それに人は確かに死ぬし俺も死ぬ。のに死が無い?

 

「人は死ぬのに死はない、ですか?」

 

「そう人は生きて死ぬ。でも死なんて何処にもないんだ。おかしいでしょ!」

 

「おかしいですね」

 

「でも、孔子なんかもいまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。って簡潔に言ってたりね。とどのつまり死なんてありもしないモノを語っても分からないんだ」

 

ありもしないものに至る、のが生きるという事なのだろうか。確かに死が何なのかなんて誰にも分からないのかも知れないが。

 

「この世界に実在するのは生きているものだけだよね。死んだ人間は何処を探しても見つからない。だから誰も死を知り得ない。という事にならない?」

 

「はい。確かに、死んだ人に聞く事は出来ないですからね」

 

だが居ない人間に聞く事は勿論出来ないのだからやはり分からない。

 

「結局生きている時にしか実在していない。でも死んだらもう実在していない。つまり人間は実は死ねないんだ」

 

「え?」

 

人は死ねない?そんな馬鹿な?

 

「そうだね……人間は実在してるよね?」

 

「はい」

 

「実在しているものは生きているでしょう?」

 

「そうなりますね」

 

「死んでいるモノは実在してないね?」

 

「もう死んでいないわけですからそうですね」

 

「つまり人間は生きて実在しているモノになるね」

 

「そうですね」

 

「じゃあ死んで実在していないものは人間じゃないよね」

 

「……はい」

 

「じゃあ人間は死ねない事にならないかな?」

 

「う、ん……」

 

少し考えてみて噛み砕く。という事は……

 

「単に人間は生きて存在している。けど、死んだらもう人間として存在していない、だから人間は死ねないと……?」

 

「そう、流石あーちゃん!分かりやすいね!」

 

「死ぬのに、死ねない。とは凄い矛盾ですね」

 

「そう、矛盾だ。人は生きて死ぬ。そこに何の意味があるのか誰も分からない。生の始めに暗く、死の終わりに冥し。という奴だね。そもそも意味なんて全くないのかも知れない。これはちょっとした絶望だね」

 

「所謂、死に至る病だ。でも死に至る病は同時に死ねなくなる病というパラドックスなんだよ」

 

レアさんは、死を考えて、最後には死ねない事に気がついた。

 

この人の事が知りたいと俺は思ったがとりとめなく話してみればみるほど分かる事が多くあり、そして分からなくなっていく。

 

レアさんは分からない事をずっと考え続けているのだ。ただそれしかないようにずっと、ただひたすらに。

 

何故なら、死ねないから。

 

「レアさんは、生きて、何を望みますか?」

 

「それは勿論決まっているよ」

 

俺の問いにレアさんはあるかなしかの微笑を浮かべて言った。

 

「ボクは、たった一つ、真性の愛を求めているんだ」

 

………

……

 

歩みを止めてふと空を仰ぐ。

 

夜空は澄んで、僅かに欠けた丸い月が浮かんでいる。月明かりで霞のように浮かんでいる雲が見えた。

 

良い夜だ、日中は少し暑かったが、日が暮れると過ごしやすい気温になり長袖で丁度良いくらいだ。

 

「おい、にーさん。人の事無視して何黄昏ちゃってんの?」

 

そんな夜にこうして何故か因縁をつけられる羽目になってるのだから月でも見て現実逃避の一つもしたくなるこちらの心情を汲んで欲しい。

 

「ふと思ったが黄昏時でも無いのに黄昏れるというのはおかしな気はしないかな?」

 

「知るか!んなもん国語審議会にでも文句を言え!」

 

何も考えずに思った事を口走ったら、微妙に気の利いた返答が返ってきた。

 

何故こうなったのかと思う。ちょっと買い足したいモノがあったからコンビニに行ってきただけなのだが。

 

俺が住むアパートは店が立ち並ぶ表通りに近く、結構利便性が良い。表通りから路地を一本入り込んですぐの所にあるのだ。

 

同じアパートの住民は外出する時も帰ってくる時も皆大抵は、この路地を通るだろう。確かにこの路地は建物と建物の間の如何にも路地裏という感じで、月が明るい今夜でも陰になって非常に暗い。

 

とはいえ、今まではそんな事も無かったのだが何故か今夜に限って派手な格好をした如何にもヤンチャしてそうな三人組がいて、目を付けられたという訳だ。見たところまだ幼さが残る顔付きは多分俺より年下ではないだろうか。

 

「それで、一体何の用なんだ?」

 

「お金ちょーだい」

 

俺の前に立った、ガタイの良い一人はそう要求した。何故縁もゆかりもない若者に金を贈呈しなければならないのか。

 

「断ると言ったら?」

 

「簡単な二択だよ、痛い目にあうかちょっとばかりお金を恵んでくれるか、おにーさんの好きな方を選びなよ」

 

俺の後ろに居る線の細い少年が言った。俺の逃げ道を塞ぐような立ち回りといい、陰湿そうな口調といい狡猾な蛇を思わせる。

 

後の一人の少年は少し離れた所で建物の壁に背を預けたまま、煙草を吹かしつつ、酷薄な目付きでこちらを睥睨している。恐らく三人の中であれが頭だろう。如何にも油断ならない雰囲気だが、何処か呆れているような目付きにも感じる。

 

しかし、今時こんなカツアゲなんてしている人間が居るとは、正直そちらに驚いてしまい、イマイチ危機意識が働かない。

 

「手を出すつもりならこちらは警察を呼ぶよ」

 

「そう言っとけばす引くと思ってんの?呼びたきゃ呼べばー?」

 

俺は無言でスマホを取り出してキーパッドを呼び出して1を入力する。すぐに後ろから伸びてきた腕に手を掴まれた。

 

「やめとけ」

 

「やめる事は検討するから離してくれないか?」

 

その瞬間前にいる少年が一歩踏み込んできた。

 

「ッ!」

 

「っと」

 

いきなりの左フックを咄嗟に上体を反らして避ける。踏み込みと小さくだが振りかぶりがあったから避けられたけど鋭いパンチだった。体格の良さといい何か格闘技をやってそうだ。

 

「分かった、待て待て」

 

とりあえず静止する。ホントに殴りかかってきた。これは厄介だ。大声で助けでも呼ぶか?

 

「おい!」

 

突然に少し離れた壁際にいた少年が声を出した。何だ?俺の前後に居る二人もぎくりとした様子だ。

 

「って、お!」

 

突然俺に殴りかかってきた少年が驚いたように飛び退った。次の瞬間俺も驚いた。今の今まで俺を含め四人しか居なかったと思っていたのにすぐ側を誰かが歩いていたのだ。少し離れた所で傍観していた少年は真っ先に気づいて警告の声を発したのだ。

 

というか、この小柄でぬるっとした影は。

 

「レアさん?」

 

「はい」

 

茫とした眼で歩いていたレアさんが歩みを止めた。

 

「ん、と?」

 

レアさんは目を細めて少し困った様子で俺たちを見渡した。遅れて気付く、目の悪いレアさんは今裸眼な上にこの暗さで人を見分けられないのだろう。

 

この路地でゴダゴダしてる事くらいは声などで分かりそうなものだが、全く意に介さずに通行するのはレアさんらしいが、流石にこの状況に巻き込むのは不味い。

 

「いや、なんでもないです。行って下さい」

 

「お?この声はあーちゃん!こんばんは!」

 

それなのに遅れて俺の事に気がついて朗らかに挨拶してきた。ここは早く行って欲しいのに、レアさんは状況を把握しようとしたのか再び俺を含めた少年達を見渡す。

 

「レアさん、ここは行って下さ……」

 

「おぉ!あーちゃんケンカかい!?やんちゃだね!でも若い内はそういう発散もいいかもね!大怪我しない程度に皆がんばれー」

 

あーもう!この人は、分かってはいたけどビタ一文こっちの意を汲んでくれない。

 

「何このガキ?あんたの知り合いかぁ?」

 

「いや、まぁ……」

 

「ガキって酷いな!こう見えても君たちよりお姉さんだよ!」

 

どうすればいいんだ!収拾が付かなくなってきた。

 

「いやー、でも可愛くね?このにーさんよりこっちの方がよくねぇか?」

 

「おっ!あーちゃんなんかボクナンパされてる!?見てくれはいいらしいけどナンパは初めてかも!」

 

細身の男がよりにもよってレアさんに興味を持ってしまった。そして何か微妙にレアさんが喜んでる。どうする?

 

「その女は辞めとけ」

 

「お前そんなガキくさいのがいいのかよ?」

 

依然、少し離れた所にいる少年とガタイのいい少年がほぼ同時に言った。後者はただ揶揄しているだけだが、前者は真面目に忠告しているトーンだ。

 

「ま、いいじゃん。な、もし良ければ金くれない。無理なら俺たちとちょっと付き合ってくれねぇ?」

 

ニヤニヤと笑いながらレアさんに迫りつつ、図々しくそう要求する痩せた少年。まずいな、止めるべきだが、ガタイのいい方がさりげなく俺の動きを牽制していた。

 

「おー、少年!ボクかお金が欲しいの!?」

 

「そそ、どうする?」

 

言いつつ少年がレアさんに手を伸ばした。

 

「レアさん!」

 

「じゃ、はい!」

 

その手を取りレアさんは何かを握らせる。

 

「あ?」

 

少年が手の中のそれを広げると万札だった。二枚あるようだ。

 

「ん?どした少年!お金欲しかったんじゃないの?」

 

「いや、そうなんだけどよ」

 

多分ここまでノリ良くお金を出す人間は居なかったのではないだろうか。ガタイの良い方と痩せた少年はむしろ困惑気味だ。一人まだ壁に寄りかかったままの少年は咥えタバコで目を細めてた。

 

「若いと遊ぶにも色々入用だろう、えんりょすんな少年!」

 

「あ、まぁな……」

 

「どしたー?足りないかー?悪いけどボクも今手持ちがそれだけしかなくってね」

 

「いや、そういう訳じゃねぇよ」

 

そう言って細身の少年は万札をポケットに突っ込んだ。足りないとは思えない。カツアゲの成果として二万も手に入れば充分ではないだろうか?

 

しかし手持ちをあっさり全部渡してしまうとはレアさんも何を考えてるのか、或いは何も考えてないのか?俺が呼び止めて巻き込んでしまった形でもあるので悪い事をしたかも知れない。

 

「もういい、行くぞ」

 

ずっと壁に寄りかかったまま何処か警戒しているような様子でいた少年は、金を取れた事で潮時と判断したのか短くなった煙草を踏み消して身体を起こすとそう一言言って有無を言わさずに表通りの方に歩き出した。

 

痩せ型とガタイの良い二人は困惑気味に一瞬顔を見合わせたが、仲間がさっさと歩いて行ってしまうので結局二人とも踵を返して早歩きで歩き出した。

 

俺は一瞬少年達を呼び止めるべきか迷った。レアさんのお金が取られてしまったのは俺のせいもあるからだ。だがいきなり殴りかかって来るような相手だ、返せといったら間違いなく拗れてしまうだろう、そしたらやはりレアさんを巻き込んでしまう。

 

そもそも無理矢理奪われたものならまだしも、レアさんが自分で進んで渡した金を俺が返せというのも筋違いではないだろうか。そんな気もして判断がつかぬまま結局去っていく3人組を見送ってしまった。

 

「あーちゃんは出かける所?ボクは帰るけど」

 

何事も無かったのように、レアさんは尋ねた。

 

「あ、俺も帰る所です」

 

「ん、かえろ」

 

そう言ってぬるっと歩き出した。足音もしないからさっきはすぐ近くを歩いているのに気付かなかった。レアさんも用事で出掛けてたのだろう。同じアパートなのだからこの路地を通りかかる事はおかしくない。

 

「レアさん、良かったのですか?お金取られちゃって」

 

並んで歩きながら、話しかけた。

 

「んー?取られた訳じゃないよ。欲しいって言われたからあげたんだから」

 

あっけらかんと返される。しかし、二万というのは安いお金でもないし……

 

「しかし、あれは殆ど恐喝に近かったのでは……」

 

「そう見えるかもだけどそうでもないよ。彼はらお金を要求したけど、お金をあげるか、あげないかはボクの自由だ。彼らは自己責任でお金を要求して、ボクは自己決定でお金を譲渡した。別におかしくはないでしょ?」

 

「ん、そうなのかも知れないですが……」

 

そう言ってしまうと別におかしな事ではないのかも知れないが、しかしやはりレアさんが不当に金を失ってしまったようなのが引っかかる。

 

「でも、あれじゃ脅し取られたようなものでは?」

 

「ボクがお金を無くした事を気にしてるのかな?あーちゃんは優しいねぇ。でも気にする事はないよー。そだねー、ボクがお金を渡した事には二つほど理由があるよ」

 

「理由というのは?」

 

「単純な話、別に手持ちの二万くらいあってもなくてもどっちでも良かったんだよ。欲しいという人がいるなら別にあげたって構わなかっただけ。たかだか紙切れ二枚無くしたとこで死ぬわけでもなし」

 

「まぁ、お金がどうでもよかったのなら確かに……」

 

以前話したが、レアさんは足る事を知っている。要はテッシュペーパーを一枚くれと言われて惜しむ必要はまずない。という感覚なのだろう。

 

「ならもう一つは?」

 

「ボクは喧嘩したくも、揉めたくも無かったからだよ。そんな事をしてもなんの得もないからね」

 

アパートに着いて、二人でカツンカツンと階段を登りながらレアさんは答えた。

 

「お金ってのはトラブルを解決する為にもあるものでしょ?お金渡したら喧嘩もせずに揉めもせずに済むんだから考えるまでもないよ」

 

「ん……確かにそうですが」

 

それはお金で解決出来るならそうなのだけれども、別に奴らにお金を払う謂れもないのに何故レアさんが払わないとならないのかと、いう気はする。そう思うなら呼び止めて取り返すべきだったし、今更ではあるのだが。

 

レアさんは自分の部屋に着いてドアを開けると、どーぞ。と招いてくれた。話し足りなかったからありがたい。

 

俺はお邪魔しますと一言かけて、上がった。いつものようにキッチンに向かったレアさんが冷蔵庫を開けて、粗茶ですが。の決まり文句とともに置いたのは缶入りの緑茶だった。

 

「お茶ですか、珍しいですね?」

 

先日のめんつゆと立て続けにセオリーを外されて、思わずそう言った。めんつゆはおふざけだろうが、今日は未開封の缶であるためまごう事なく茶であろう。

 

「うん。バイト先のてんちょがくれたから。ボクは水しか飲まないから要らないと思ったんだけどあーちゃん飲むかなって?」

 

水の方が良かった?と続けて聞かれたが、ありがたく頂く事にした。

 

缶を開けて一口飲む。よく冷えていて、雑味も少なく喉越しも良い。俺も缶やペットボトルのお茶の類は殆ど飲まないが中々美味しい。

 

「で、なんの話だっけ?」

 

「カツアゲ少年達の」

 

「あぁ、そうだったね!」

 

うむうむと頷く、レアさん。つい先程のトラブルも既に印象が薄れつつあるらしい。いや、この人にとってはトラブルですら無かったのかも知れない。

 

「まぁ、シンプルに考えれば彼らはお金が欲しかった、ボクは揉めたくないから渡した。結果彼らはお金を得た。ボクは揉めずに済んだ。WIN-WINでしょ?」

 

彼らは望み通り金を得たが、レアさんは奪われている、Win-Loseの様に思えてもしまうのは俺はレアさんほど達観してないからだろう。

 

「その気ならお金を渡さずに済ませる事が出来たのでは?」

 

「それで喧嘩になったらどーすんの?ボクが殴られても意地でも渡さないってしようと思えば出来るけど、ボクは怪我する。彼らも何も得られないでLose-Lose。誰も得しないじゃない」

 

「……仮に喧嘩になったとしてもレアさん簡単にたためるでしょう?」

 

「あのねぇ、あーちゃん。ボクが武術かじってるからって現実的に女が男三人をたためるわけないでしょ。漫画や映画の見過ぎだよ」

 

嘘をつけ、と思った。俺も多少荒事は経験してるから雰囲気で分かる。おそらくレアさんはあの三人くらいどうとでも出来る。ただやりたくないだけなのだ。

 

「それに仮にどうか出来たとして、暴力振るってまでお金なんて守るようなモノかな?それをしたとしてボクはお金を出さずに済むかも知れない。だけど彼らは何も得られず怪我をするだけになる」

 

おそらくこちらが本音なのだろう。確かにそれだと割りを食うのは彼らだけになる。しかし……

 

「そうなったとしても、元々カツアゲで金を奪おうと考える方の自業自得ではないでしょうか?」

 

「相手が悪いのだから、こちらは攻撃してもいいって考え方はボクは嫌いだ。それは卑しい考え方だ」

 

レアさんは珍しくキッパリと断言した。つまり本当に嫌なのだろう。

 

「なら警察なり助けを呼んだりするのは?」

 

「警察が来たら、おまわりさんに拘束されてあーなりましてこーなりましてって一々せつめーしなきゃなんないでしょ。たかだか二万円を惜しんで労力と時間を無駄にするなんて馬鹿馬鹿しいよ」

 

「む、なるほど……」

 

何か聞いていると確かにたかだかお金を守るためだけに大袈裟な気がしてきた。不当に金を取られた方が合理的なんておかしな筈なんだけど。

 

「あー、それよりあーちゃん。えーと……」

 

「はい?」

 

レアさんが何か言いたそうだけど、言いにくそうに小さくうなっている。珍しい、なんだろう?

 

「……今日は、お野菜……」

 

目を泳がせたまま顔を少し赤くして、ボソリと言った。おやさい?お野菜!

 

「あぁ!野菜ですか、ちゃんとありますよ!」

 

いつもの手土産を忘れていた。俺は一旦自室へ帰り、夕食の時に作った温野菜を取りに行った。自らおねだりする程に楽しみにしていてくれたとは、結局金よりレアさんは野菜料理の方が余程大事らしい。

 

今日は作ったのは煮豆だ。油でニンニクを炒め、香りがたった所に玉葱や人参、馬鈴薯等の根菜を炒め、そこにトマト缶と水と大豆を投入して煮込み、コンソメ等で味付けをした。ポークビーンズのレシピを参考にした肉抜きバージョンとでも言おうか。

 

レアさんの部屋に戻り、煮豆を渡す。豆料理は久々だとレアさんは大喜びした。温野菜にしてもいつも結構色々バリエーションを変えている甲斐があった。こういう所は無邪気で可愛い人だと思う。

 

もっとも、元々底知れない雰囲気はあっても、邪気みたいな匂いはしない人だが。

 

「でね、多分あーちゃんが引っかかるのは相手が悪い。という点じゃないかな?」

 

煮豆を冷蔵庫に収めて戻ってきつつ、レアさんは話を戻した。

 

「確かに。相手が悪いのに何故お金を奪われなきゃならないのか。とは思います」

 

「まず第一には彼らの不正によって、ボクはお金を失ってもさっき言った様に得にボクは不利益を被ったと思わない」

 

確かにさっき言ってた通りの事だ。

 

「もう一つ。これは皆勘違いしがちだけれども、不当にお金を得るのが悪い事だとして、悪いのは相手であり、ボクが悪くなるわけじゃない」

 

「まぁ確かにレアさんが悪い事をした訳じゃありませんね」

 

「ところがどっこい。あーちゃんはボクが悪いと思っているんだよ」

 

え?レアさんが悪いと思っているだって?

 

「そんな事思うわけないじゃないですか」

 

「なら、あーちゃん。不正を受けてお金を失うのは善い事だろうか?それとも悪い事だろうか?」

 

「……悪い事ですね」

 

仮に今日の事で少年らに金を奪われていたのが俺だったなら、今日は良い事があった。等とは言えない事態なのは確かだ。

 

「そうなると不正でお金を失ったボクが悪いのであって、不正にお金を得た彼らの方が善い事になるよね」

 

「そんなはずは、いや、単純に利益不利益で考えるとそうかもですが……」

 

全く単純にお金を得たという事とお金を失ったという事がどちらが悪い事かと言うとそう言えてしまうかもだ、が。

 

「そう、それが陥穽なんだよ。皆んな不正は悪い事と言いながら、気付かぬ間に善悪の転倒を起こしているんだ」

 

「そもそも悪い事は悪いのか考えてないから、不正をして得た利益を善いもの。不正を受けて被った不利益の方こそ悪い事と思ってる事に皆、気がついてない」

 

「……」

 

確かに、そうかも知れない。言われてみると不正を受けて不利益を被るのは事は悪い事だと思っていた。が、確かに受けた方が悪いというのは普通は話が逆だ。

 

「ソクラテスが言った命題は正しいんだ。この世に誰一人として、知って悪を為す者は居ない」

 

「悪を為す人は、居ない?」

 

「そうだよ。今回の場合だと、彼らには不正をもって利益を得る事は善いことだった。逆にそれによって不利益を被ったボクは悪だという事だね」

 

確かに単純に彼らは利益が良いことだと思ったからやったのだろう。

 

「つまり彼らは悪いと知っていて、それをしたわけではない。ですか」

 

「もちろん。だって悪いのは何故悪いかって、本人にとって悪いからだ。不当にお金を奪われたくない。なぜ?それは単に奪われる本人にとって悪いからだよ」

 

「……しかし、レアさんにとって別に奪われても悪い事ではない」

 

「そだよ。ボクから見て不正でお金を得ようとしてる彼らは悪いとも善いとも思わない。ただボクはお金でトラブルを回避出来るのは善い事だと思った」

 

「そもそも、彼らは不正でお金を得て、ボクが不正でお金を失うならボクは正当である証じゃないか」

 

「言い換えれば、彼らは自分が善い事をして、ボクも善い事をした。当然あそこに悪い者は誰もいない」

 

「凄く大胆な考え方ですね。というとカツアゲは悪い事じゃない?」

 

「そうだよ。知っていて悪は為さない、つまり人はそもそも悪い事なんて出来ないんだから」

 

レアさんの言っている事を突き詰めるとそういう事になる。少し考えて言った。

 

「殺人も、盗みも、強姦も、放火も、悪い事は出来ない……」

 

「その通りだよ。所謂悪行、それらを行う人は単にその本人にとっては善い事だから行うんだ」

 

「悪い事だとはされていているのは知っていても、やる当人は別に悪い事だとは思わないから知らない、と」

 

「その通り。ボクから言わせると自ら悪行を為す人間などこの世にいないから、突き詰めて悪人などいない。罪悪感なんて大抵は嘘の言葉だ、どんな悪行も為す本人はその時善い事だと思っているから為す」

 

ざくり、と世界が斬られた音がした。

 

俺は時々、この人が怖くなる。レアさんの言葉は切れ味が良すぎる。

 

「ボクはね、さっき言った通り悪い事をした人間を攻撃するのが嫌いだ。誰も悪い人なんて居ない」

 

「テレビは嫌い。ネットも嫌いだ。何故なら失敗した人。悪行を行った人。そういった人間を見つけては虫みたいにたかっては攻撃する卑しい人間がどうしても目につく」

 

「……察します」

 

レアさんならそれは見たくもない人々だろうというのは想像出来る。故に人間が目に入るものを持たないのだろう、兎角今の世の中は煩すぎる。

 

「誰かが殺されたニュースを見たとして、ボクは無関係だ。何かが違えばボクが殺したか、殺された側になってたかも知れない。でもたまたまボクではどちらでも無かった」

 

「そんな被害者側でも加害者側でも、関係者でもないボクに何が言えるだろう?何も言えないよ。外野が口を出すべきではない。被害者側の人間のように懸命でも、加害者側の人間の様に必死でもない、覚悟もない無関係な人間が傲慢にも横から口を挟むべきじゃあない。わきまえるべきだ、ボクはそう思う」

 

「……義憤程、人々の鬱憤ばらしに最適な事はないでしょうからね」

 

他人の悪や失敗を、日々の一服の清涼剤にして生きている。大多数の人間はそういう風に生きている。それは仕方ない事なのかも知れない。だが、確かに卑しいと言えばその通りなのだろう。

 

「そうだね。そんな時に限って、皆言葉を軽々しく使い過ぎる。そうして自らの言葉の価値を自ら下げる。ヨハネの福音書曰く、まず言葉ありき。だ。言葉は大事に使わなきゃいけない」

 

そう言ってキシ、と小さな音を立てて座っていた椅子からレアさんがぬるっと立ち上がった。

 

何かと思ったらゆったりとかつするっと俺の側によりストンと座ってきた。あぐらをかいていた俺の足の上に。

 

「レアさん?」

 

「あーちゃんはボクの話をよく聞いてくれるねぇ」

 

レアさんは、普通ではない。だが、やる事は本人のルールやパターンの中の範囲だからあまり突拍子のない事はしない人だと思ってたが、急にここまで近づいてくるのは珍しい。

 

レアさんの身体は小さくて、その小さな体躯に凝縮したように体温が高く。そしてこの部屋と同じ、青リンゴのような爽やかさと甘い花の混じった香りがした。

 

「誰にも見出されたくなかった。誰にも知られたく無かった。ボクが死んだら、ごく僅かな人にそんな人もいたね。程度に思われて忘れられていく様に消えたかったんだ」

 

「ボクは毎夜毎夜、胸に強い不快が迫るんだ。それを一人で味わい尽くす。それで良かったんだ」

 

「……」

 

「でも、あーちゃん一人くらいになら知られるのも悪くないと、今はそう思う」

 

「はい。俺も貴女が知りたいです」

 

少なくともこの人が死んだら、あっさりと忘れられそうには、俺はない。

 

自分の懐の中に入り込んで座るレアさんの頭頂部が見えた。俺よりかなり小さい体躯故にちょうど良さそうな高さにあり、俺は自然と手を伸ばした。そっと撫でる

 

レアさんは撫でられるまま心地良さそうに目を細めた。

 

「これ、気持ちいいねぇ」

 

レアさんの髪は艶やかで細い、しかし繊細なだけでなくコシも強い。撫でてて中々面白い手触りだ。手に伝わる体温は熱くて、小さな身体に凝縮された熱量を秘めているのを感じた。

 

 

「ねぇ、あーちゃんも何か変な話してよ」

 

「俺がですか?」

 

「そーいえば、あーちゃんの事は何も知らないなと思ってね。あーちゃんもあるでしょ?変な話」

 

「珍しいですね。俺の話ですか……」

 

この人が他人に興味がないのは明白だし、俺の事もどうでもよいと考えていると思っていたのだが、そうでもなかったようだ。

 

俺もレアさんのようなものとは違うが、ロクでもない話ならいくつか話せなくもない。だが聞いていて楽しい話と考えると難しいが……

 

「そうですね。じゃあ初恋の話、などを少し」

 

「初恋!他の人から出た話ならもうこの瞬間に聴覚を遮断している所だけど、ことあーちゃんならおかしな話をしそうで楽しみだね!」

 

気持ちは分かる。俺も他人から初恋の話など聞かされたら、間違いなく聞き流す。心の底からどうでもいい話題筆頭だろう。

 

「はは……いや、変という程変な話でもないですし、初恋というのはそれっぽく言っただけで、実際はそんな話でもありません」

 

「うんうん。まぁ聞かせてよ」

 

「はい。あれは俺が中学生の頃のクラスメイトの女子でした」

 

当時の事を思い出しながら、そんな当たり障りのない話出しから俺は語り始めた。

 

「その人はクラスに数人はいるような、素朴で可愛いらしい顔立ちの方の娘でした。と言ってもどちらかと言えば地味であんまり印象に残りにくい外見でしたね。性格的にも良い意味でも悪い意味でも目立つ事がないという人だったと思います」

 

「あーちゃんは仲が良かったのかな?」

 

俺は首を振って言った。

 

「いえ、それが全く。ただ同じクラスにいるだけの人としか思ってませんでしたし、向こうも同じだったと思います。それこそ話した事は二、三回程度でした」

 

俺の懐にいるレアさんの雰囲気が少し鋭くなった気がした。もしかしたら今本気で傾聴する姿勢に入ったのかも知れない。

 

「ふむ、では何故初恋になるの?」

 

「いや、さっき言ったように初恋という話ではないのですが、ちょっと印象に残っている事がありまして」

 

「うんうん、何々?」

 

「ある日その娘が死んだのです」

 

「おぉ!それは何故なの?」

 

明らかにレアさんの声のテンションが上がった。幸いにも話に興味を抱いてくれたようだ。

 

「交通事故だったそうです。お通夜の席にはクラスメイトは皆出席していて、俺も漫然と出席したのですが」

 

「うんうん!」

 

ふと当時を思い出すと、確か彼女の死の知らせを聞いた時、その娘の名前を聞いてかろうじて死んだのは誰の事か分かったという感じだった。薄情かも知れないが、クラスメイトとはいえ本当にそのくらい関わり無かった相手だった。

 

「何というか、老年まで生きて死んだ人のお通夜や葬儀とは違って夭折した人のお通夜は、酷い雰囲気でした。クラスメイトの女子達は泣いてましたし、その娘の母親は気丈な態度でしたが、父親の方は人目も憚らず泣き崩れていて見るに忍びないくらいでした」

 

「ふーん、まぁそういうものなんだろうね」

 

レアさんは特に気の無さそうに相槌を打った。

 

「でも、何より印象に残っている事は」

 

「うん」

 

「彼女の死顔です」

 

「おぉ」

 

「……交通事故で死んだという事は聞いてますが、その娘が具体的に何が死因となって死に至ったのか等は分かりません。ただ、目立って大きな外傷は無かったみたいでした、少なくとも見える範囲には。だから棺に収まったその娘の死体を見る事が出来たのです」

 

事故死なら死体が酷く傷ついているケースも多そうだが、もしそうなら棺が開かれる事は無かっただろう。

 

「……どうだったのかな?」

 

「それが、凄く綺麗だったのですよ」

 

「おぉ!」

 

レアさんの声に熱がこもっていた。逆に俺はあの娘の死顔を思い出して穏やかな気分になり、静かに続けた。

 

「その娘はさっき言った通り、素朴で可愛らしい印象だったのですが、悪い言い方をすれば地味でした。年齢も年齢だし化粧っ気も全くありませんでした。しかし、葬儀屋の方が死化粧を施したのでしょう。プロの仕事は凄いものです」

 

「生きていた時は可愛らしかったのに、丁寧に化粧を施された死顔は美しかったのです。余りにも綺麗だから俺はその時こう思ったんですよ。この娘の父親も、クラスメイトの女子達も何故泣いているのだろう。だって——」

 

——こんなにもきれいなのだから、このこはきっといまからおよめにいくんだ

 

「そっか」

 

俺の話を聞いてレアさんは満足そうにそう言った。

 

「つまりあーちゃんは綺麗なお嫁さんを見たのが初恋かぁ」

 

クスクスと笑いながら珍しくからかっているような調子だった。

 

「いや、本当に恋って訳では、勘弁して下さいよ」

 

まぁ、言い出したのは俺なのだが、慣れない言い回しなどするものではない。

 

「でも、面白い話だったよ。綺麗なお嫁さん。いい話だね」

 

「……良かったのでしょうかね?その娘は」

 

「それはあーちゃんが感じた通りじゃないかな?その娘はお嫁に行ったんだ。きっとそれで良かったんだよ。世は並べて事もなしかな」

 

俺自身、ただその娘の亡骸の美しさに震えたのが事実だ。確かにレアさんの言う通りなのだろう。そして同時に慟哭する周りの人達も忘れられない。

 

「犠牲は無くならない。世の中は残酷ですね」

 

「多分違うよ。世界は残酷なわけじゃない。ただ無関心なだけなんだと思うよ」

 

「無関心、ですか」

 

「そう。別に人間を含め種としての生物や、個体がどうなろうと世界からすればどうでもいい事だろうね」

 

まぁ、そうだろう。俺達だって、道端の蟻や家畜の豚の生死、地球の裏側で死ぬ赤ん坊を気にかけたりしない。そも世界は喜びも悲しみもしないから、残酷ですらないのだろう。

 

「例えば今ここでボクやあーちゃんが死んだ所で誰も悲しまないし、困らない。命は代替が効く。変わりはいくらでもいる。一個人なんて、いてもいなくてもいい。」

 

「……そうなのでしょうね」

 

「だからね、あーちゃん」

 

レアさんが俺の手をキュっと握った。

 

「……ボクは」

 

「ボクは、多くの人間を救うより、たった一人を深く傷付けたい」

 

………

……

 

ある日、母から電話がかかってきて、その知らせを聞いた。

 

俺はそれに、そうですか。とだけ返して、その後少しだけ話して電話を切った。

 

その後、俺は大学の講義を受ける予定があった所を一人、部屋でこれまでの事を思い出し、考えた。

 

とりとめなく考えつつ、適当な時間になったので食事の準備を始める。上の空ではまともに調理も出来ないと思い、集中しようと心掛けるが、それでも上滑りしそうになる。

 

それでも、肉類を入れていない野菜炒めに味噌汁が無事完成した。こんな時にも野菜料理を作っている自分に、少し苦笑いが出た。

 

「考えると、最近俺も野菜を多く摂ってるな……」

 

あの人に釣られてか。肉魚も好きだが、まぁ温野菜も美味しいからいいが。

 

一人食事を摂る。味は良いと思う。だが普段以上に味気ない。しかし腹は減っているし、わざわざ作ったのだからと半ば惰性で食べた。

 

食後、ノートを開き、頭の中にあるモノを殴り書く。雑文ですらない。ただ意味を為さない単語の羅列であり、正直書いている俺自身も意味は分からない。だが、まとまりのない頭の中を少しでも出力しながらの方が考え易いかという思いつきだ。

 

こんなのはそもそも思索とも言えないかも知れないな。そうとも思う。レアさんはどう思うだろうか、あの人の意見を、聞いてみたい。

 

時計を見る。もう日が沈み、夜の匂いは濃くなっている。ちょうどいい時間だろう。

 

俺は部屋を出て、お隣に向かった。インターホンを鳴らす。普段通り反応はなくドアに手を掛ける。鍵がかかっていて開かない。これは今日はレアさんが誰にも会いたくないという表示だ。

 

普段なら俺は自室へ戻る。だが、俺は少し立ち尽くしてもう一度、インターホンを押し込んだ。

 

規則正しいレアさんはこの時間、起きて部屋に居る筈。しかし、レアさんは気分でない時に人と関わるのを嫌うのを知っていながら俺は何をしているのだろう。

 

間が開いて、俺は自室を戻るべきか、はたまた更にインターホンを鳴らすべきか、そもそも一体自分は何しているのかと思い立ち尽くした。

 

しかし、俺が動くより先にガチャリと鍵を外す音がして内側からドアが開かれた。

 

「あーちゃん?」

 

「……レアさん」

 

今日は本来開かれないはずのドアを小さく開き内側から覗いたレアさんに対して俺はどんな顔をしていただろうか。

 

「こんばんは。ほら、おいで」

 

すぐにレアさんはドアを大きく開き俺の手を引いて招き入れた。

 

「これ、差し入れです。野菜炒めですが」

 

「おぉ!ありがとうね!これはしなっとしてて美味しそうだ!」

 

タッパーを渡すとレアさんはいつもように喜ぶ。彼女は野菜は良く火を通した方を好む。シャキッとした歯触りより、しんなりして甘みが出たものが好きらしい。

 

「はい、どーぞ粗茶ですが」

 

そしてキッチンから戻ってくるとお約束通りにコップが出される。今日こそは水道水だった。

 

「頂きます」

 

一言断り、ぐっと三分の一ほどを飲み、一息吐く。

 

「さて、先日はボクの話をあーちゃんが聴いてくれたから、今日はあーちゃんがお話してくれるのかな」

 

どうも俺の心の乱れはレアさんにはお見通しらしい。俺は何があってもあまり表情や話が変わらないためか何を考えてるのか分からないと言われることが多々あるのだが、今はどうなってるかは自分でもよくわからない。

 

「……そうですね。少し聞いてくれますか」

 

「うん」

 

ふ、とまた一つ息を吐き話始める。

 

「実は昨日父が死にました」

 

「それはご愁傷様……あーちゃんはそのお父さんとは何かあったのかな?」

 

レアさんはすぐに事情がある事に気がついたようだ。流石に父が死んでいるにも関わらず、家にも帰らずにここにいるのはおかしい事は分かるか。普通なら通夜やら葬儀やらでそれどころではない。

 

「はい……そもそも、俺の親は本当の親ではないんです」

 

「というと、養親かなにか?」

 

「そうです。幼い頃に養子として取られたのが今の親でして」

 

まだ三歳くらいの頃だったろうか。今の養親に初めて会った時のことは朧げながら覚えている。当時は優しそうな、仲のいい夫婦だった。

 

「養子だったの。そういうの良く聞くけど、身の回りではあーちゃんが初めてかな」

 

「俺も俺以外ではあまり知りませんね。養子を取る人なんてまだまだ少数でしょうから」

 

「ま、そうだろうね。珍しい話だから取り沙汰されるという面はあるだろうしね。で、今の両親とは上手く行かなかったのかな?」

 

「……上手くいきませんでした。育ての両親は俺を最初、実の子供のように愛そうと努力してくれました。ただ、俺と両親は噛み合わずに実の家族のようになれませんでした」

 

「……確かに養子に取られて幸せな家族になる。なんていう風に上手くいくとは限らないだろうからね」

 

俺は一つ頷いて口を開いた。

 

「その通りです。養子縁組なんかの話は何かと美談に仕立てられるものですが、実際に調べてみると結局破綻しているケースも多いんです」

 

当然と言えば当然であるかも知れない。血の繋がった親子だって上手くいかない事は多々あるのだ。俺から言わせると、本来赤の他人同士が親子ごっこするなんて上手く行かなくて当たり前だろう。

 

「何が悪かったのか……今考えると俺が実の母の事を覚えていたのがまずかったのかも知れません」

 

「あーちゃんの実のお母さん?どんな人だったの?」

 

「あまり良くは知りません。父親は居なくて一人で俺を産んだ片親でした。ただ元々身体が弱かったらしくて、俺を産んですぐに体調を崩したそうです。孤独な人だったようで頼れる親類なども居らず、俺は施設に預けられました。それから程なくして死んだそうです」

 

「ふーん。あーちゃんがかなり幼い頃の話だよね。覚えてるんだ」

 

「はい。まだ物心が着く前、その頃覚えている事なんて他に何もないですけど、それだけは覚えてます。……母が俺を泣きながら抱きしめてたんですよ」

 

あの母の泣き顔が未だに忘れられないのだ。俺の原風景とでもいう物なのかも知れない。

 

「それが俺の母親と強く思っていました。引き取られた後の養親は俺の事を実の息子と言ってくれました。……今考えると申し訳ないのですが母親を覚えていた俺は、それは違う。と思っていました」

 

「客観的に言っても、事実違う訳だからね」

 

「……はい。そういう俺の意思が齟齬となって、養親ともギクシャクとしていき、益々噛み合わなくなりました。思い通りに行かなかった事にとうとう根を上げたのは養父です」

 

「なるほど、そこでお父さん」

 

「えぇ。ある時を境に俺に対する態度は冷たくなりました。養父も俺がどこまで行っても完全に他人だと気付いたのでしょう。そして次第に夫婦で言い争いになる事が増えていきました、そしてある時喧嘩の最中に養父が養母にこう言ったのです」

 

「なんて?」

 

「お前が子供を産めないからこうなった。と」

 

「あっちゃあ」

 

忘れえぬ言葉だ。あれを聞いた時の感情は今でもありありと思い出せる。悲しいとか虚しいとかの感情では無かった、屈辱だった。あれ以上の屈辱は無かった。

 

「何故、養子を取ったか。理由は養母の不妊症だったそうです。不妊治療も受けたそうですが、妊娠出来る芽は無いと医師に告げられた。そして俺を引き取ったのだそうです」

 

「だから養母さんのせい、か」

 

「はい。それを実の夫に攻められた養母の心中は察するに余りありますが、しかしそれを聞いた俺は悔しかった。レアさんなら分かるんじゃないですか?つまり二人にとっては俺は……」

 

「実の子供が出来ないから、の」

 

「代替品でしかなかった」

 

レアさんの言葉を引き継いで俺は言い切った。

 

「……子供の居ない夫婦が犬を飼うようなものかもね」

 

「それと変わらないと思います。こんな事は誰も言いません。養子を取った人間は口が裂けても言えないでしょう。取られた方も惨めで言えません。周囲だって言えるわけないです。それでも養子として取られた立場から俺は言わせて欲しい」

 

「所詮養子なんて自分の子供の代わり、代替品だと」

 

「まぁ、自分の子供を作るより前に養子を取る人はまず居ないだろうしね」

 

「他人の子供も自分の子供と変わらないのなら、最初から養子を取ればいい。それなら分かります。新しく作るより今既に居る親のいない子供を幸せにする方を優先すべきではないですか?」

 

「その通りだね。本当に他人も自分の子供と等しく愛せるなら、現に存在する子供という問題を放っておいて、未だ肉体としての存在のない子供を求めるというのは倫理的ではないとボクは思う」

 

レアさんは抜身故にこういう時に綺麗事や上っ面だけの慰めは言わないから話しやすい。

 

「ですが現実には、結婚して子供が欲しいと思って養子を取る人なんて居ません。まず、自分達の子供を産もうとします。しかし何らかの理由でそれが出来ない人が次善策として養子を取る」

 

「子供を作るというのも所詮は自己愛だからね。当然他人の子供と自分の子供は全く違う。試しに子供という語を取れば一目瞭然。残るのは他人と自分だ、普通の人がどちらを愛するかなんて議論の余地もない事だね」

 

その通りだ、つまり自己愛。子供に自分をみる以上、他人の子供では決定的に駄目なのは道理であろう。

 

「それで、その後養父さんはどうなったの?」

 

「荒れに荒れましたよ。夫婦仲も、俺ともガタガタになり、家族というロールプレイもそこまで。結局離婚して、失踪同然に養父は姿を晦ましました。それ以来何をしてるかも分からずにもう長いこと会ってません。いや、違いますね、二度と会う事は無かったです」

 

「なるほど、それで訃報だけが届いたの」

 

そう、養母には訃報がもたらされた。そして俺へと。

 

「はい。決別した養父が一体あの後どう生きたのか、どうして死んだのか、詳しい事は分かりません。病死、としか。だから俺がこうしているのはこういう訳です。もう養父とはとうに通夜や葬儀に参列する縁も、義理も切れています」

 

とどのつまり、養父と俺とは最初から最後まで他人だった。

 

「ふーん。でも、あーちゃんは死んだ養父さんに対して何か引っかかっているんじゃない?」

 

そう、今日はそれをずっと考えていた。

 

「……いざ、死んでしまったと聞くと、色々考えます。昔は俺にも穏やかで優しかった事。おそらく俺を息子として見る事を諦めた後、態度が別人のように変わり冷たく、辛辣になった事」

 

「……」

 

「荒れていく姿を見ていて、決別した後病死したと聞くと、寿命を削ったのは俺と無関係とは思えないんですよ」

 

「まぁ、そうかもねぇ」

 

「養父と俺は結局親子には成れず他人でした。しかし、不合理な事に俺が間違えた所もあるのではないか、養父も何か違えばこういう終わりにならなかったのではないかと考えてしまうんです」  

 

「あーちゃんは優しいねぇ」

 

自分がただ素直に養父を実の親と受け入れれてればそれで全て上手く収まったのではないか。

 

こんなものは決して優しさではないのだろう。

 

そもそも一体最初に間違えたのは誰だったのか。

 

病弱な身体をおして俺を産んですぐに他界してしまった実の母か。

 

実の子供が出来なかった代わりとして養子を選択した夫婦か。

 

施設に訪れた時、他の子供もいたのに俺を選んでしまった養親か。

 

記憶に残る実の母が忘れられなかった俺か。

 

誰が悪かったのだろう?一体何処で間違えたのだろう?

 

「レアさんならどう思いますか?忌憚ない意見が聞きたいです」

 

「うーん。ボクはその当事者じゃないから完全に外側からみた感想程度にしかならないけど……」

 

「聞かせてください」

 

「んー。まぁ死んじゃった後にこうしてれば、というのは手遅れだから考えるだけ無意味じゃないかな?」

 

さくりと切り捨てられた。半ば想像していた事だった。俺はこの冷徹で抜身の言葉が欲しかったのかも知れない。

 

「それはお互い生きている内に考えるべきだったよ。思うところがあったのなら、まだ何かやれる内にお互い話しておくべきだったとボクは思う」

 

「別にあーちゃんがおかしいという訳じゃない。以前話したけど、今日が最後の日だと知ってその日の行動を変える生き方は必ず後悔を生む。人は身近な人が明日にも居なくなっているかも知れない、或いは自分が去るのかも知れない。そんな当たり前の可能性すら忘れてしまう愚かな生き物だから」

 

「本当に……確かに、愚かしいですね」

 

正しくその通りで、反論すらする気も起きず、思わずふっ、と自嘲が漏れる。事実俺は養親との間を変えようと動く事はしなかった。それが全てだ。

 

「あーちゃんは養母さんとはどーなの?」

 

「養父とは違い、そんな事があってからも良くして貰っています。恩義があるんです」

 

でも、同時に。

 

「ただ、養母を親と思っているかと言うと、やはり未だにそうは思えないというのが正直な所です」

 

申し訳ないと思う。しかし、自分の中のイジけたガキの部分がそう言っている。だってそうじゃないか、と。そしてまだ記憶に残る実母の顔が思い浮かぶ。俺はそんなイジけたガキを否定出来ない。

 

「……いいんじゃないかな、それで」

 

「……そうでしょうか?」

 

「思えないものはしょうがないよ。でも養母さんも多分あーちゃんの事を思っているし、あーちゃんも養母さんに恩を感じている。なら、養母さんに不満と感謝をハッキリ伝えてもいいんじゃないかな。少なくとも死んでしまった養父さんと違って言いたいことを言えるし、話し合う事も出来るんだから」

 

あぁ、そうだ。養父とは永遠に話す機会を逸してしまった、だが、確かに養母とは話す事が出来る。

 

「あぁ、でも、こんな恩知らずな事、言っていいの、ですかね」

 

「いいんだよ。全て許されている。養母さんは傷付くかも知れない。その上であーちゃんも養母さんの話を聞けばいい。傷付け合えばいいんじゃないかな。人間の関係ってそういうものだよ。お互い刻み合いながら、それでも努力してやっていくしかない」

 

「二人はいつまでも幸せに暮しました。なんて御伽噺のフレーズは空想だよ。実際に二人が幸せにやりたければお互いに努力するしかないよ」

 

そう、なのだろう。養母と話せるとのはお互い生きている間だけだ。養父が死んだ事にも俺は悔いを残した。養母とも同じ事になるのなら俺はただ愚か者だ。

 

「そうですね、一度話してみます。考えてみれば俺が実の母を覚えているという事すら後ろめたくて言ったことが無かったので」

 

 

ふ、とレアさんがいつものぬるっとした動きで立ち上がり俺の前に歩みよっていた。

 

すとんと俺の正面に座り、何かと思いきや、少し身体を伸ばして俺の頭を撫でてきた。

 

「それでいーんだよ。正直な所を言ってしまえば。我慢する事はないよ。でも、養母さんの気持ちも考えてあげて、きっと傷付くと思って、その上で話し合えば」

 

あぁ、レアさんの撫でてくれる手が凄く優しい。それは否応なしに、この人は俺を大事にしてくれてると分かってしまう撫で方で少し涙が出そうになった。

 

この人は不思議だ。とても冷徹に感じる事もあれば、温情を見せる時もある。凄く残酷に思えるが、とても優しいようにも感じる。

 

そしてふと思った。そう言えばずっと昔、養母にもこんな風に撫でられた事があった。俺は代替品であったのかも知れない。でも、代替だとしても愛されていたのかもと、今そう思った。

 

「それにあーちゃんが自分で代替品になる必要はないんじゃないかな?」

 

「……そうでしょうか」

 

レアさんはくしくしと俺の髪を梳いてくれながら続けた。

 

「現実的には、それは人は誰かの代替部品になるし、代わりなんていくらでもいるからね。例えば会社員Aさんが突然病死したとしても、どっかの誰かがAさんの変わりをやる。Aさんなんて生きていようが死んでいようが世界は変わらない。一個人なんてその程度のものだよ」

 

それはレアさんが以前に言ってた事だ。

 

「居ても居なくても、許されている。ですか」

 

「そうだよ。つまりは自由だ」

 

「突き詰めて命は代替が効くが故に命だ。誰かが誰かを代替品にするのは自然の営為だよ。だからあーちゃんは確かにある夫婦の間に出来なかった子供の代替品とされたのかも知れない。だけどーー」

 

「誰かにとってのあーちゃんは代替たりえるかも知れないけど、あーちゃんにとってあーちゃんだけは代替が効かない」

 

それもレアさんが教えてくれたものだった。

 

「俺にとって、俺がある。のだけは確かで、誰かでは代替が効かない、ですか」

 

「Cogito ergo sumーー我思う、故に我あり。いや、正しくは我しか居ない。だからあーちゃんは誰かの代替品になる必要なないんだ、というかなり得ない」

 

「ボクの代わりはいくらでもいる。でもどこまで行ってもボクしかいない」

 

レアさんらしいアイロニーだった。

 

「だから誰かにとっての自分なんて実は意味がない」

 

レアさんは俺の頭から手を引き立ち上がる。そして背中を向けて言った。

 

「……何処かで赤ん坊が泣いてるのが聞こえる」

 

「え?」

 

ぽつり、とレアさんが呟いた言葉に俺は聞き返した。だが、レアさんは全く別の話題を切り出した。

 

「話は変わるんだけどね、ボクはあーちゃんと違って最初は両親は居たんだ。でもあーちゃんと同じ所もあって片親なんだ」

 

「そうなのですか。離婚か死別かでしょうか?」

 

初めてきく話だ。しかしそもそもレアさんはあまり自分の事を語らないから当然ではあるが。レアさんはきしりと音を立てて椅子に座り話を続けた。

 

「離婚だね。死んだって話は聞かないから多分何処かで生きてはいる筈だよ。……詳細が分からないって所もあーちゃんと同じだったかもね。また一つ違う点はボクの場合居なくなったのは母の方なんだけどね」

 

「……理由は?」

 

「ぶっちゃけボクだねぇ。ボクの母は結構母親とはこうしなければいけない。子供にはこうあって欲しい。みたいな固定観念に囚われた、頭の硬い所があったんだよ。そこで生まれてきたのがよりにもよってボクだ」

 

「あぁ……」

 

思わず納得の声が出てしまった。いや、ここで納得しちゃうのは失礼だと分かっているのだが、腑に落ちてしまった。

 

「良くさ、血の繋がった家族と見比べて母親によく似てるとか、血筋だね、とか言う人いるよね。それとは逆に家族が考え方とか言動とかが全然似てなくて本当に自分の子供なんだろうか?とか冗談混じりにいう人いるよね。ボクの場合は、家族の中でボク一人が異質だったんだ。さて、あーちゃんは親子は似てるのが普通だと思う」

 

「……どうでしょうね?俺自身は血の繋がった肉親が居ないから言われた事ないですし、俺からは他人を客観的に見ると親子で似ている人もいれば特にそうも感じないという人もいるから、何とも」

 

「その通りだね。そりゃ肉親と似てる人もいれば、似つかない人もいる。でもボクはそこに血筋とか遺伝子とかはさして関係ないと思っている」

 

何を言いたいか分かる。そうだ、さっきレアさんが言った通りなのだ。自分の子供に拘る。それは自分の血筋や遺伝子に拘るという事でしかない。

 

そしてそれは、人間も所詮獣に過ぎないという証左だ。自分の遺伝子を持った子孫を残そうとする本能に捉われている畜生と何が変わらないのか?

 

「ボクはね。血縁が遺伝子で似るって正直信じないんだ。人間は獣じゃあない。だから人間にとって重要なのはジーン(遺伝子)ではない。ミーム(模倣子)の筈だ」

 

「ミーム、ですか」

 

「そう、ミーム。あーちゃんは知っている?」

 

「はい、一応。ドーキンスが提唱した自己複製子ですよね」

 

進化生物学者のドーキンスの著書で有名になった概念で、一般向けの書籍だから俺も読んだ事はあった。自己複製子とは文字通り自身のコピーを増やしていく単位であり、それが遺伝子だ。遺伝子は生物が子孫を繁栄する中で自身のコピーを広めていく。

 

これに対してミームとは模倣子。人の脳から脳へ、コミュニケーション、文書、教育等により複製されていく自己複製子、技能、思想、文化等々の平たく言えば情報だ。

 

「なるほど、つまり家族が似るのは遺伝子が共通しているからではなく、ミームが共通しているからだと?」

 

「その通り!家族なんだから生活環境は極めて近いよね。そうなればその家庭に特有の風土みたいなもの、考え方、果てはちょっとした仕草。そういったものは共有される、故に家族は似かよるとボクは思う。血筋だからじゃなくてね」

 

だからあーちゃんみたいな血の繋がらない家族でも似るケースも多いんじゃないかな?とレアさんは続ける。確かに、似るのはミームの共有故という仮説はありそうで少し興味深い。血縁のある家族と無い家族で差異があるか、調査したら面白いのではないだろうか。

 

「でも、ボクのように血縁と似ても似つかないようなモノもいる。それもおかしくは無いんだ。もし血筋、遺伝子故に人が似るなら、全ての血縁者は似てないとおかしい。だって共通の遺伝子をもっているんだから似てないのは矛盾だ」

 

「でも、似る理由がミームなら矛盾はしない。ですか?」

 

「そうだね。子供というのは他の人からのミームの受け継ぎ手にはなっても、往々にして親のミームの受け継ぎ手にはならない。子が親に似ないのはその為だよ」   

 

「さて、閑話休題。ボクの話をしよう。そういう訳でボクは家族の中で一人異物だったんだ」

 

「違う思想(ミーム)を持っていた。ですか?」

 

「そう言えるだろうね。あの頃の家族は……両親とも普通の夫婦だった。何となく出会い、何となく恋愛し、何となく結婚して、何となく子供を産んだ。深く考えずに、そうしてれば何となく幸福になれると疑いもしていなかった。つまりは何処にでもいる愚かで平凡な男女だったんだ」

 

レアさんが意外と毒舌なのは最近知った事だが、このレアさんの語りは悪辣ですらあった。だがつまるところこれがレアさんの両親への心象なのだろう。

 

「だけど、現実は思うようにいかないものなんだよね。生まれてきたボクはどうも母から見ると理解不能のモンスターだったようなんだ」

 

「レアさんはどんな子供だったのですか?」

 

「そうだね……さっきはミームと言ったけどあの頃のボクが考えていた宇宙は誰かから複製された思想でも無く、一体何処から降って来たのか……例えば幼稚園の頃とかだろうか。母に膝枕されていた時なんかに突然宇宙に飛んで、堕ちる。そういう事がたびたびあった」

 

「宇宙に飛ぶ?」

 

「何というかね。意識とか自我が母の膝の上から突然宇宙に溶けるんだ。言語化しにくい感覚なんだけど、ボクでありながら全てだという感じ。それが少し続いて、宇宙から地球に降りて来て空から膝枕されてるボクを高みから見つけてそのボクに降りて来て、そして母の膝の上のボクにボクが重なりハッと我に返る。そんな風に宇宙そのものになる。そういう感覚があの頃確かにあったんだ。子供の頃ってそういう事ないかな?」

 

「……俺は特にないですかね。知り合いからもそういう話は聞いたことない、ですね」

 

不可思議な話だ。自分が宇宙に溶けるなんて想像が難しい感覚だった。でも形而下の概念に囚われていない子供だからこそ掴む事が出来うるものなのかも知れない。

 

「後は例えば幼い頃住んでいた実家。あの頃の家族は夜になると団欒っていうのかな?リビングに皆居て、テレビ見てたり漫画読んでたり思い思いに過ごしていたんだ」

 

「確かに普通の家族団欒ですね」

 

正直意外だった。今の孤独と静寂を愛するレアさんのイメージからするとテレビを見ながら家族と一緒というのは想像し難い。

 

「でもそんな時にボクは考えていたんだ。家族全員リビングに居る時、和室には誰も居ない。誰もいない和室は有る、と言えるのかな?とね。今誰もいない、つまり誰も見ていない和室なんて無い、のかも知れない。ボクが和室へ向かい、そのドアを開けた瞬間に初めて和室が現れるのかも、とかね」

 

「……存在を観測しているのではなく、観測して初めて存在する。ですか?」

 

「まぁ、言葉にするとそんな感じかな?後は誰も見ていない和室が存在するとして、そこでは何が起こっていても不思議ではないし、許される。とかね。和室にあったぬいぐるみが宙を飛んだり、踊ったりしているかも知れない、なんて事も考えてたなぁ」

 

「それは少し分かる気がします」

 

確かに子供の頃は前提を疑う事が出来た。自由奔放に考える生き物だった。人が死んだ時、死んだ人は何処にいるの?と大人に問いかける子供は皆、紛れもない哲学者だ。

 

「あの頃宇宙にだって飛べたボクは、今よりずっと純粋だった。大人が考える子供への押し付けがましい愚にもつかない純粋さじゃないよ。不純物が無かったんだ。今は無駄なモノを取り込み過ぎた」

 

「でもそんなボクは、まともな子供でも人間でも無かったんだ。純度が高すぎた。人がもつ前提としての情緒や道徳も持たなかったんだ。あの頃のボクは爬虫類が悟性と言語を持っていただけのようなものだったのかも知れないね」

 

「どんな子供だったか少し興味あります」

 

爬虫類か。言わんとしている所は分かる気がする。俺が知るレアさんは爬虫類とは思わないが、しかし纏っている空気がただ事ではない。超然としていて、時に冷徹で、別の生き物ではないかと感じる事がある。

 

それがより純度が高いものだったなら、それはどんな子供だったのだろう。

 

「もう一度言うと、現実は甘くは無い。ただ漫然と子供が欲しいと、子供がいれば幸せになれると、そう思って子供を産む親は程度の差はあれ理想に裏切られて打ちひしがれるものだよ。だけどウチの親はそれは特に大きかったんだろうね」

 

子供がいれば幸せになれる、か。俺自身の養親の事を思い苦笑が浮かんだのを自覚した。

 

「母はね、何処にでもいる平凡でそこそこ善良な女だったんだ。だからボクのいう事なす事一つも理解が出来なかったらしい。でも悪い事に、いや本来は良い事なんだろうけど、それでもボクを理解しようと努力した。母親たろうとしたんだね」

 

「……良い人だったんですね」

 

だが、所謂良い人のする事が常に正しいとは限らない。世の中はそんな単純計算では回らない。レアさんの話ぶりは平然としているようで、母親への悪感情が隠しきれていないように感じる。

 

「そうだね、だから母はボクとまともに向かい合った。今のボクならそんな母の意を汲んで適当に合わせるような事も出来るけど、子供の頃のボクはそんな発想も無かったからね。ボクのする事、いう事に時には否定したり、説得したり、困惑したりしながら、だんだんと」

 

レアさんがそこで左手を掲げて軽く握り。

 

「……」

 

「壊れていった」

 

ぱっと開いた。

 

「初めのうちは朝起きられない。調子が悪そうだ、くらいだった。そして情緒不安定になっていきヒステリックに怒鳴り散らす頻度が上がっていった。そしてぐったりと家事も出来ず、それどころか身の回りの事も出来ずに部屋に何日も引き篭もるようになった」

 

「それで、そのままどうなったんですか?」

 

「躁鬱、っていうのかな?みたいな感じで、全く動けない時が続いてある時活動的になるんだけど、そのタイミングで家から突然出て行ったんだ。父は連絡を取ろうとしたりしていたけど、結局それ以来一度も戻ってこないまま離婚が成立したみたい」

 

「その後は分からず……ですか」

 

「そうだね。その後、精神状態や生活が良くなったのか悪くなったのか……まぁ分からずじまいだけど、母も母なりに上手くやっているといいね」

 

果たして本気でそう思っているのか少し怪しいと失礼ながら思ってしまった。

 

「ボクには抽象的な『普通』って奴はよく分からない。……いや、一応何が普通とされるかは知ってるけれど、何故そうなのかは心底理解出来ない。数学の公式みたいなモノだと思っている。何故そうなのかは理解しなくてもそれを当てはめておけば大抵間違いにはならない」

 

「抽象的ではありますが、極力一般的な普通の言動みないなのはありますからね」

 

何が普通か、考えてみれば絶対的な普通などあり得ない。単純に考えてしまえばつまり。

 

「ようはマジョリティ、多数派の意見や価値観が普遍的、普通とされるだけの事でしょう。マイノリティはいつだって異端として切り捨てられてきたのが現実なのでしょうから」

 

「そうだね。ボクもそう考える。でも大抵のマイノリティ、切り捨てられる少数派は叫ぶね、当たり前を押し付けるなと」

 

それはそうであろう。みな少数派なら間違いなく思う事だ。

 

「少数というだけで迫害される人々は当然そう訴えて然るべきかと思います」

 

俺自身、そう思わずにはいられない。

 

「それは凄く分かる。マイノリティがそう叫びたいのは当然の事だね、でもボクはこうも思う」

 

「わきまえろよ、と」

 

ズクリ、と胸に何かが刺さった。

 

「世の中を回しているのはやはり大多数の意見なんだよ。多数派が正しいとは限らない。でも少数派を優先したって上手く行くはずもない」

 

「もっと言えば単純な話なんだ。十人を殺して一人を生かすか。一人を生かして十人を殺すか」

 

それは、その通りだが、それは余りにも。

 

「少数、だというだけで蔑ろにされて、いいの、ですか?」

 

「残念だけど、それが現実だよ。例えば、同性愛者、両性愛者、といった人達は大多数の異性愛に色々言われる。そして異性愛が当たり前だと押し付けるなと怒りを覚える人がいる」

 

「それはただのノイジーマイノリティだ。日陰物はお天道様に顔向けは出来ないよ。身の程を知って暗闇に生きるしかない」

 

それは、そんな、ただ大多数の理解が得られないというだけ、で。

 

「それは、でも好きで日陰物になったわけでもないのに」

 

「そんな理屈を多数派は考慮してくれないんだよ」

 

正論だ。しかし正論は鋭く人を傷つける。何より痛々しいのは、レアさん自身少数派としてそう言っている事だ。

 

「少々極論だけど、人を殺しまくる人がいるとする。ただその人は悪意ではなく、救済の為に人を殺しているんだ……これはおかしい事じゃない。皆が思う以上に殺す対象を思っての殺人、つまり善意の殺人というのは多いんだ」

 

「……」

 

「さて、そんな善意の殺人者もただの少数派の思想の持ち主として尊重されるべきだとあーちゃんは思うかな?」

 

「それは……」

 

「出来ない。そんな事したら多数派が回す社会は壊れる。もしかしたらその殺人者の方が正しいのかも知れない。でも、それが尊重されるわけはないんだ」

 

「……」

 

「分からない、かな。ただボクはそう思うんだ。日陰物はわきまえるべきだ、と」

 

多数を生かす為に少数を切り捨てるのはやむ終えない。そういう論法はありきたりだ。しかしその手の理屈を言うのはいつだって多数派で、切り捨てられる少数からその言葉が出る事など今の今までないと思っていた。

 

「切り捨てられる少数派でレアさんはいいのですか?」

 

「……あーちゃんは知っているかな?暗い所にいる人から明るい場所はよく見えるんだ。逆に明るい所にいる人には暗い場所は全く見えない」

 

「え?」

 

返ってきた言葉は質問の答えではなく、一瞬面くらってしまった。

 

「ほら、今は夜だよね。そしてこの部屋は照明が点いているから明るい。そこのカーテンをめくって窓から外を覗いてごらん。暗い外の道が見えるかな?」

 

「それは殆ど見えないです」

 

やってみるまでもない。レアさんの言う通り明るい所から暗闇は見えない。

 

「まぁ、街灯に照らされてるいる辺りは見えるだろうけどね。ただ、暗い道に居る人側は明るい窓から覗くあーちゃんが一方的によく見えるだろうね」

 

「……日陰物の方が良く見える、と」

 

「そういう事だね。ボクは、切り捨てられる少数派であるボクがいいんだ。暖かい陽だまりに身を置いて、暗闇でもがき苦しむ人々が眼にも入らずに生きていくより、暗闇に身をやつして苦しんでる皆から目を逸らさずに生きていたい」

 

「レアさんは、多分優しいん、ですね」

 

「それは多分違うよ、もっと利己的なただの性癖だよ。単純に普通で幸福な人はつまらないんだ。皆似たり寄ったりで語るべき物語がない。苦悩して、それでもと立ち続ける人達がボクには実に面白い。それだけなんだ」

 

そこまで言って、レアさんは口元にあるかなしかの嗤いを浮かべた。俺にはそれは自嘲めいて見えた。

 

「そうだね、あーちゃん。ダンテの神曲は読んだ事あるかな?」

 

「ダンテですか?一応一通り目を通した事はあります」

 

古典文学史では外せない偉大な作品だ。地獄、煉獄、天国の三篇に分かれた聖数『3』を基調とした韻文による物語。日本語訳で読んだから三行韻詩が味わえなかったが、語学力があれば原文が読めたのにと思ったものだ。

 

「ボクはあれを読んだ時は楽しかったよ。まず地獄編、ウェルギリウスに案内されダンテが漏斗状となった地獄を降っていく。暗くて、様々な怪物が跋扈する地獄の情景。様々な凄惨な刑罰の描写に地獄の罪人達との対話。読んでいて引き込まれるよね、本当にダンテの巡った地獄が頭の中に浮かぶようで胸がワクワクするような気持ちだった」

 

確かに、俺も読んでいて、地獄篇の描写は圧巻だった。

 

「そして、地獄から出て煉獄篇。陰鬱とした地獄から出て煉獄山の麓に出た時の明るさに解放感。山を登りながら浄化されていく罪!そしていよいよ天国へと昇天」

 

読んだ事のある俺は、何となくこの時点で次に何が語られるか分かってしまった。

 

「そうしてボクは神曲の完結となる天国篇を楽しみに手に取った。だけど、天国の単調で代わり映えのない描写。実があるようでしかし頭に入ってこないベアトリーチェとのやりとり。がっかりしたよ。一言で言って退屈だった」

 

「確かに俺もつまらなかったとまでは言いませんが、天国篇は先の二篇に比べると微妙でしたね」

 

凄惨で描写が多彩で読んでて高揚するような地獄篇と、明媚な描写だが単調で退屈な天国篇は対象的に感じた。まぁ天国と地獄で事実対象なのだが。

 

「そういう事だよ。ただ単調な幸福が続く天国なんて退屈に過ぎる。人は永遠の退屈へ登りたいのだろうか?」

 

レアさんは前髪を摘んでこよる仕草を見せながら言った。

 

「天国へ行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。って言葉はそういう意味だとボクは思っている。千篇一律な幸福より不幸に四苦八苦した人をこそボクは愛する」

 

なるほど、如何にももっともらしい。だけれども……

 

「本当ですか?」

 

「うん、というと?」

 

「レアさんは、どっちでもいいのでは」

 

その時、レアさんの前髪をこよる手がとまり、肩がおこりのように一つ震えた。

 

「……いや、どすりと刺さったね。不意だったからやられたよ。あーちゃんは凄いね」

 

「恐縮です」

 

先日一本取ったと思った時とは違う、それより深い手答えを俺は感じた。直感だった。レアさんの言ってる事は表面的には嘘ではないのだろう。だが、より深いところではレアさんは遍く全てを愛している、もしくは厭んでいる。そう強く思った。

 

「また話がそれてたね。ごめんね、ボクは話てるとあっちこっちに話が飛んじゃうんだ、コミュ障だから。ともかくボク自身がとことんまともではないみたいなんだよ。だからボクにその気が無くともボクと浅からず関わった人は大抵段々狂っていくんだ、ボクにはどうしてもそういう所がある」

 

レアさんは、無表情に一つ嘆息してそう言い切った。

 

俺もすぐには口を開かず、レアさんもそこで黙した為に静かな間が空いた。俺は瞑目して考える。

 

生か死か。正常か異常か。正気か狂気か。そして、存在か虚無か。

 

俺は

 

俺はこの人と同じモノが見たい。この場所を超えて行きたい。そう思った。

 

ベアトリーチェと共に行くダンテのように、グレートヘンと登るファウストのように。

 

永遠の女性が我らを高みへと登らせる。

 

ただし決してそこは退屈な天国などではない。

 

「レアさんは、たった一人を深く傷付けたいんでしたよね」

 

暫くの沈黙を破るように俺は目を開き、口火を切った。

 

「……?うん」

 

俺は分かっていた。この孤高の女性は誰かを傷付けたいと言ったのではない、レアさんが傷付ける一人とは一人しかいない。レアさん自身だ。

 

だけどーー

 

「俺も一緒に傷を付けて下さい」

 

レアさんは椅子に座ったままギクリと体を起こした。普段は切長の眼が珍しく丸くなっている。どうも驚かせたようだった。

 

「参ったな、さっきぐさりとやられたばかりでこんな事はもう滅多にないだろうと思ったところにさらにがつんとやられた。あーちゃんはボクの考えを悉く超えて行くね」

 

ぽりぽりと指先で頬をかく仕草をして、気を取り直したのかレアさんの眼に冷たさが宿った。

 

「あーちゃんも狂いたい?」

 

「構いません。そもそもあまりまともではないですし、いや、違いますね」

 

多分、俺は

 

「レアさんに睨まれて、もうとうに狂っていたんです」

 

むう、と一つ唸るような声を出して目を逸らす。頬が少し紅潮していた。珍しく照れたような仕草は、いつもの超然とした雰囲気ではなく、見た目道理の幼い少女のようだった。

 

「あーちゃん、実はボクの事好き過ぎるでしょう?」

 

「割とそうですが今気がついたんですか?」

 

でなければこっちだって手土産持って毎夜訪問したりはしない。

 

「おぉう、そうくるか」

 

レアさんは、頬が上気したまたどうしたものかと迷う風に視線を宙に迷わせた。この人好意を向けられ慣れていないな、と俺は直感した。

 

「ならもう結婚しちゃう!ボクと紙切れ一枚に過ぎない契約交わしちゃう!?」

 

「……いいですね、それ」

 

「え、うん」

 

「じゃあ、今夜はこれで」

 

俺は立ち上がると、別れを告げて自室へと戻った。去り際にレアさんが目を丸くしていたのがおかしかった。すぐに結婚の手続きについて調べたくなった。久々にやってやるという熱量が俺の中に生じていた。

 

明けて、いや、暮れて翌日の夜。俺はレアさんの部屋を訪ねるといつも通り温野菜を渡し、挨拶を交わしてレアさんに書類を渡した。

 

「これ、婚姻届です。必要な所はもう記入してあるので、後はレアさんの記入がいる所と印鑑だけですね」

 

「へー、これが婚姻届なんだ。書く内容もそこまで難しくないんだね」

 

「まぁ、必要な所で出来る部分は俺が全部書いておいたので、後はレアさんのが必要な所だけ書いて貰えれば」

 

「でも、籍入れたりしたらなんか後々めんどーな手続きとかあったりしたら嫌だなぁ」

 

本当にめんどくさそうな顔で言ったレアさんに、俺は一つ強く頷いて言った。

 

「まぁ、面倒な事があっても俺が助けますよ」

 

「そっかー、まぁいいか!じゃあもう書いちゃお!」

 

俺が促すと、レアさんはノリでサラサラっと書類に記入して、印鑑を押した。

 

「……よし、問題なさそうですね。明日役所に提出しておきます」

 

「おねがーい」

 

そういいながらレアさんはゆるい表情で手をひらひらと振った。

 

その後、俺は談笑もそこそこにしてお暇した。  

 

さらに暮れて翌日。俺はまたレアさんの部屋を訪問した。

 

「どぞ、これ野菜の煮物です」

 

「お!今日は和風だね!美味しそうだ!あーちゃんのお出汁の味好きだよ」

 

根菜やインゲン、豆等複数種類を適当に出汁で煮込んだだけの割と雑なものなのだがレアさんはいつものように喜んでくれる。ちなみに出汁は丁寧に取って風味と旨味を重視して、調味料での味付け自体は薄口にした上品なものをレアさんは好む。

 

「それと婚姻届出しておきました」

 

「おぉ!それじゃ、ボクらは夫婦になったの!?」

 

「はい、そうなります」

 

俺はこくりと頷いた。

 

「おー、そうかぁ。ボク結婚したのかぁ」

 

そう独言るようにいいながら、レアさんはいつものように台所へと向かい、コップに水を汲んできた。

 

そして俺にいつもの水道水、もとい粗茶を差し出しつつレアさんは大きく息を吐いた。

 

「そうかぁぁーー、……マジで?」

 

「真面です」

 

「結婚したのボク?」

 

「しました」

 

「ボク流石にノリで生きすぎじゃない?」

 

「意外とまともな事いいますね」

 

素で微妙に失礼な感想を漏らしてしまった。

 

「生まれて初めて言われたよそんな事。うーん、ここまでボクの想定を超えていくとはあーちゃんを侮っていたなぁ。ボクが結婚するとか一ミリも考えた事なかったんだけどなぁ」

 

「この天と地の狭間には、俺たちの哲学では思いも知れない事がまだまだある……のかも知れないですね」

 

そう言って俺はしたりとばかりに笑ってみせた。

 

「ボクみたいなのは存在と無の狭間で毒ニンジンを呷るものと相場が決まっているんだけどね」

 

そう言ってレアさんは俺とは逆にしてやられたとばかりに少し苦味が走る笑みを浮かべてペタリと座った。

 

「まー、いいかぁ。別に何が変わるわけじゃないしねぇ」

 

「まぁ、変えて下さいとも言うつもりはないです」

 

そも、それ以前に。

 

「他人が変えて欲しいと言ってレアさんが変わるわけ無いじゃないですか」

 

「そんなのわかんないよー?人は変わるもんだよ」

 

へらっと笑いながらレアさんはそう韜晦する。

 

「じゃあ俺と一緒に暮らして下さい」

 

「やだよ」

 

べ、と舌を出して悪戯に笑う。ほらやっぱり。

 

「冗談です。そんな事はどうでもいいんです。ただ」

 

「ただ?」

 

「一緒に傷付けてくれますか?」

 

「それは難しいかも知れない、あーちゃんを傷付けるのはやはり他でも無いあーちゃん自身なんだよ」

 

「……まぁ、でも」

 

「でも?」

 

レアさんは小さなその手で俺の手を取って包んでくれた。

 

「それでも傷付きたければ、ボクと一緒に来るといいよ。あーちゃんがボロボロになってもう駄目だと行けなくなるまで。あーちゃんと一緒も、ちょっと楽しいから」

 

「ーーあぁ、そうか」

 

やっと分かった。レアさんの言っていた事が。

 

俺は誰でも無く、誰である必要も無い。誰の為でも無く、誰の為にもあれない。きっとそれでいい。

 

「一緒に連れて行って下さい。天国でも地獄でもない、レアさんが創る涯へーー」 

 

………

……

 

闇から抜ける気か?

 

そんなわけないだろう。

 

紙切れ一枚で暗闇から抜けられると錯覚出来るほどボクは愚鈍じゃない。

 

錯覚だよ。暗闇からは誰も逃げ出せないよ。  

 

だけどーーくらがりからあたたかいひなたのひとたちをみて 

 

それだけでボクはわらっていきていけるからーー

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