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——愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。
——しかし狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
ニーチェ著、ツァラトゥストラはかく語りきより。
一人の青年が部屋で椅子に腰掛け、パソコンを前に大学へと提出するレポートを纏めていた。
青年は旧姓を中島淳。最近に結婚して姓を改めた為、今の名前は野々村淳と言う。
何の奇縁か、彼は自分の住むアパートの部屋のお隣さんのとある女性と夜に時折部屋を訪ねて差し入れし、話をするという関係だったが、つい先日関係に進展があり——進展がありすぎたといえるが、入籍する事となった。
何故そうなったかといえば、他人から見たら悪ノリとしか見えないだろう。だがそのノリで結婚してしまうだけあって淳と妻という事になる女性は稀代の変わり者である。少なくとも紙切れ一枚の契約の結婚関係などで何かが変わるわけではないという程度には。そういう意味では大して進展したといえる程でもないのかも知れない。
淳は目線を上げて、長い間のデスクワークで凝り固まった体を解すように一つ大きな伸びをすると立ち上がった。まだレポートは仕上がった訳ではないが一区切りをつけて、食事の支度をする事にした。
彼は手早く自炊を始める。魚焼きグリルでアジを塩焼きにしつつ、もう一品、コンソメでジャガイモや玉ねぎ、ニンジン、セロリにキャベツと言った野菜を煮込む。レシピ的には肉類抜きのポトフというべきか、それとも野菜スープと言った方が正しいか迷う料理だ。
炊いたご飯と出来た料理で彼は食事を済ませる。一人の食事は淡々としていて手早く澄ませた。
食後にコーヒーを淹れて一服しながら、のんびりと本を開く。こういう豊かな時間を楽しめるようになったのは淳の妻にあたる彼女の影響だろうか。彼は以前は何か常に居心地の悪さや焦燥感に焦がされていた所があった。
時計を見て夜も更けてきた事を確認し、淳は本に栞を挟み立ち上がる。夕食に作った肉抜きポトフもどきをタッパーに詰める。これは元々お隣さんへの差し入れの為に作ったものである。彼女は温野菜が大好物なのだ。そして彼女は規則正しい夜行性でこの時間からが自由時間であり訪問するのに最適だ。
自分の部屋を出てすぐお隣のドアに立ち、インターホンを押す。ドアに手を掛けると開いていたので彼は入った。
これはこういう二人の間の暗黙の決まり事だ。彼は来訪をインターホンを鳴らして告げる。彼女は答えないのでドアを開けてみる。鍵が掛かっていればそれは今日は誰にも会うつもりはないという表示。空いてれば会ってもよしだ。ちなみに彼女はスマホは持ってこそいるが通知オフにして携帯もせずにほぼ放置しているので連絡はつかない。というか敦はスマホの番号やアドレス等すら知らない。
「お邪魔します」
一言挨拶しつつ、敦は部屋に踏み入った。そこで彼は少し驚愕した。部屋の中の様子が特に変わっていた訳ではない。いくつもの書架に大量の蔵書が収まり、他にはベッドと机と椅子くらいしかない殺風景ないつもの彼女の部屋だ。
「おー、あーちゃんこんばんはー」
しかし、その住人はいつもと少し違った。普段訪れても机の前で椅子に座って書見をしているというのが常だが、今日はこの部屋の住人の女性、とても小柄で顔立ちも整っているが、あどけなく可愛らしい童顔の為に子供のようにしか見えないーー実際は敦より年上なのだがーー身体も起伏に乏しく、特に胸元は僅かな隆起すらない見事な平坦で全体的にやはり幼い体躯にダボついたTシャツを纏っただけの油断仕切った服装。
それ自体はいつもの事だが彼女は、ベッドにうつ伏せに寝そべり、自身の腕を枕にしていた。普段はいつも椅子でしゃんと背筋を伸ばしいるイメージとはかけ離れた佇まい。
これが敦の妻に当たる女性、名は、野々村レアである。
「ごめんねー、粗茶いるれるねー」
普段と同じ、涼しげで高く、でもどこか冷たい声色だったが、夜はテンションが高めの彼女らしからぬ間延びした言葉だった。
ぬるっと、身体を起こす。気怠げに上体を起こすと後ろで一房伸ばしている黒い艶やかな髪が背中からさらりと溢れた。そのしなやかな動作には、普段の幼い体躯らしい幼気な雰囲気とは違った色香があった。
「いや、それはいいんですがどうしたんですか?体調悪いんです?」
「いやー、全然。むしろ好調?だって今日は暖かくて気持ちいいじゃないかー」
言われ気付く。レアは別に調子が悪そうではない。最近は少し冷え込んできたが、この部屋は暖房を早くも利かせていて確かに暖かい。レアはむしろふにゃふにゃしている。
「あぁ、粗茶はいいですよ。自分で淹れますので、あと差し入れ。野菜だけのポトフ作って来ました。」
「あー、じゃあいいかー。ポトフありがとうねーあーちゃん。冷蔵庫に入れといてー」
そう間延びした口調のままぽてりと再びベッドの上に腹這いに伸びるレア。正直更に驚きを重ねながら敦は言われた通り台所に移動して、冷蔵庫を開ける。中に入っているのは調味料等が多く食材は余り入っていない。こんな事は初めてである。レアはこれまで差し入れら自分で冷蔵庫に収めていたからだ。こんな勝手に俺が弄っていいのだろうか?
そう思いつつ、台所から戻るとレアはベッドの上で変わらずうつ伏せに伸びていた。
部屋の中は青リンゴに似たニュアンスが混じる甘い花の香りがした。レアが好んで愛用しているローマンカモミールの精油の香り。
そんな中、ベッドに伏したレアは、ただただ暖かい中でこの上なくリラックスしているとしか見えなかった。
クスリ、と敦は笑った。こんな姿をレアが自分に見せるのは初めてだった。いつもはむしろ椅子にしゃんと座ってハキハキとしているからだ。これはレアが淳に心を開いてきた証左とも取れるか。
「レアさん。今日はいつもよりリラックスしてますね」
「んー、まぁ、ねぇ。一応結婚までして?飾るのも馬鹿馬鹿しいでしょ?」
そう腹這いにリラックスしながら、レアは答える。以前はよりハキハキした口調だったが、今は呑気だ。
「飾っててくれたんですね?」
むう、と一つレアは唸る。
「そりゃ、何処まで見せていいかボクには分かんなかったもん」
「もう、見せてもいいと」
「一応とはいえ夫婦でしょー。もう引くなら引かれていいから、あーちゃんには、どんどん見せる事にしたよ」
ベッドの上でむー、と小さく唸りレアはそう言った。
淳はそのレアの耳元に顔を寄せて言った。
「嬉しいですよ。俺としては別に今更引く気もありませんから」
ぽっ、とベッドに臥せるレアの頬が小さく紅潮した。うー、とまた小さく唸る。
「別に引かれてもレアさんはどうでもいいでしょう」
「あーちゃんこんないじめっ子だったのかぁ」
レアは頬に赤みを残したまま目を逸らして言った。
「まぁ、俺も地を見せていけばお互い様という事で」
そういう構えになったのであれば、レアのいう紙切れ一枚に過ぎない婚姻関係を結んだのも多少は意味はあったのかも知れないと敦は思った。
「もー、それでいいよー」
レアはベッドに伸びたまま投げやりに言った。
「どうせ暫くは一緒なのですからね」
「でもあーちゃん。一緒にいる事は出来るけれど、一緒に生きる事は出来ないよ。そこは勘違いしちゃいけない」
そこでレアは淡々しながらもはっきりした口調で言った。彼女が真面目に意思や思想を表示する時の声色だ。
「というと、その二つは違うという事ですか?」
それが分かっている敦も拝聴する姿勢に入る。それに曲がりなりにも夫婦関係になった事に対するレアのここでの考えは、良く理解しておくのが関係を続ける上で重要だと考えた。
「まるで違うよ。誰かと一緒にいる事は出来る。でも生きる事も死ぬ事も自分でしか出来ないと言うだけの当たり前の事だよ」
敦は床に座り、一考して言葉を返す。
「良くどんな人も一人では生きられない。と月並みな言葉はありますがそれは違う、と?」
「そうだね、断言出来るけど違う。ボクに言わせればどんな人も一人でしか生きられない」
レアは即答した。リラックスした姿勢で漠とした目線を敦に向けながら。
「例えば今ボクはあーちゃんと一緒にいるけど、ボクが今生きてる主体は他ならぬボクだ。あーちゃんはボクの変わりにボクを生きられると思う?」
「そりゃあ無理ですね。レアさんはレアさん以外には生きられませんよ」
「そうだね、当たり前の話だ。その人の生はその人しか生きられないし、その人の死はその人しか死ねない」
「……その通りですね」
否定は出来ない。敦がレアの生を生きる事は出来ず、レアの死を死ぬ事は出来ない。逆もまた然り。
「だからボクは寂しいとか、誰かと一緒に生きるとか死ぬとか言う人がよくわからない。戯言にしか思えない。誰と一緒にいようが誰も居なかろうが、自分が生きる事と死ぬ事は自分でしか出来ない。多分、そんな当たり前の事も分からない人が多いんだと思う」
「孤独を味わえない人は生きる事の奥深さも味わえないだろうね」
考えれば当たり前のことである。誰も他人の人生や死を肩代わりは出来ないのだ。どんなに助けたくても、その人の代わりになる事は出来ない。誰かの先は本人しか生きられず。誰かの痛みは本人にしか痛まず。誰かの快楽は本人しか気持ちよくなく。誰かの喜びは本人しか喜べず。誰かの悲しみは本人しか悲しめず。誰かの死は本人しか死ねない。どう否定したくてもこればかりは覆せないのだ。
「なるほど、つまり」
「人は絶対的に一人なんだよ」
「……そうなのでしょうね」
「だからボクと一緒に居たければ、あーちゃんかボクが嫌になるまでは一緒に居ればいいよ。でもね、忘れないで」
レアはベッドにうつ伏せのまま手を伸ばして敦の頬を撫でた。
「あーちゃんもボクも一人だ」
………
……
…
その後敦は四日の間レアの部屋を訪ねなかった。レポートに集中したかったのと、レアはある程度一人で放っておく必要があるからだ。とにかく他人の煩わしさを嫌い、一人の豊かな孤独を好む女性だと理解していた。仮に毎日訪ねたとしても会えるのは二日に一回か三日に一回くらいで他の日は玄関に鍵がかかっているため会えない。
「どーぞ、粗茶ですが!」
「頂きます」
そうして一仕事を終えた敦は日が沈み暫く経った事、五日ぶりにレアの部屋を訪れていた。今日は、先日とは違い普段通り椅子で読書していたレアに迎えられて、いつものもてなしを受ける。
レアの得意のもてなしはコップに注いだだけの水道水を粗茶と言い張り出す事だった。彼女なりのユーモアであろう。敦はいつものそれを受け取り、僅かな塩素臭さのある水道水を一口飲んだ。
レアはきしりと僅かに椅子を軋ませて座ると、かけていた眼鏡を外して机に置いた。ふと敦が見ると机の上に雑多な本が積まれていた。普段は机の上は割とスッキリしているから少し目を引く。背表紙が見える範囲だとアウグスティヌスやカント、アリストテレス、フッサールやベルクソン等。珍しい事にノートも開いたまま置いてある。
「何か調べ物ですか?」
「あぁ、これ?これまではそうでもなかったんだけど、昨日急に時間についてびっくりしてね。時間に睨まれたというか、とにかく気になり出したから少し時間について研究してみようかと思って、参考資料だね」
「時間、ですか」
なるほど未だ現代の学問でも解き明かせない、如何にも哲学的分野だと思った。
「首尾はどうです?」
「もー全然分かんない!全くさっぱり分かんない!時間って何だろうね?過去や現在や未来って?こんなにも全く分からないのかと我ながら驚いたよ!」
「まぁ、何って言われたら少なくとも俺も分からない事は確かですね。でも本には何か答えになりそうなものは無かったんですか?」
「本の中にはあくまで彼らが考えた時間論が書いてあるだけだから。これは他人の考えだ。あくまで参考だよ、例えばベルクソンがこう言ってるから時間はこういうものなんだ。じゃ意味ないでしょ?気になったんだから自分で考えなくちゃ」
「なるほど、それもそうですか」
敦は一つ頷く。確かに他人の考えを借用して答えです。で終わりなら研究ではないだろう。つまりそこからレアなりの考えを生み出す最中という訳だ。
「じゃあ今のところレアさんの時間に関しての考えはどうなのですか?」
「いやー、取り止めなく考えているんだけれど、とっ散らかっちゃってまだまだまとまんないから話せるような段階でもないんだよねぇ」
「もの凄い感覚的に思いついた事で一つ言えば、イデアは永遠だよね?だからイデアに時は無いと思ったんだけれど、ここら辺をカントのなんかを見てみると案外この感覚に近い事言ってて、時間は人間の直感の主観的条件であり、現象の一切の物は時間の内にあると言っている。つまり時間はそれ自体自存するものではなく客観的な物に付属する物としては無である。つまり物自体には時間は還元されないという事だからやはりカントの物自体はかなりプラトンのイデアと通じてるなと。ただ物体に時が帰属されないというのはボクの今のことろのとりあえずの徒手格闘での考えとは違っていて……」
トントンと指先で机を叩きつつ、爛々とした眼を中空へ向けて考えを整理するように話していたレアがふと我に帰る。
「ごめんごめん。こんな感じで自分でもさっぱりだよ」
「確かに聞いていてもさっぱりでしたね」
クスリと笑って敦は言う。しかし分からないなりに分かった事は一つある。
「ただ、やりがいはあるみたいですね。今のレアさんは凄く楽しそうです」
「分かるかい!実は昨日からワクワクしっぱなしでね。何もしていない時でも時間を思っているくらいだよ!」
時において時を思うとは中々面白いアイロニーかも知れない。
「でも、中々難しいでしょうね。時間なんてまだよく分かってない事ですし」
「そりゃそーだよ!だって簡単だったらつまらないじゃないか。ゲームにしてもパズルにしても難しいから面白い」
「なるほど、確かに簡単だったらやりがいがないですね」
ふむ、と敦は一つ頷く。それにレアは如何にも楽しげに目を輝かせて答えた。
「そうだね。良くさ、簡単に分かる何々だの、誰でも分かる何々だのの入門書とか、明日からすぐ使えるテクニックとかのハウツー本とか人は好きだよね。あれはボクには分からない。むしろボクが書くなら誰にも分からない何々とかの入門書とタイトルに付けるね」
実に皮肉屋な所のあるレアらしいと思い敦は笑った。
「それは逆に読んでみたくなりそうですね」
「それがいーんだよ。だって芸能、学問、スポーツ、どんな分野にしても自分一人じゃ一生全身全霊をかけてもまるで極め尽くせない程に奥深く難しい。だからこそ人は夢中になるんじゃないか。なべて世は面白き事ばかりだ」
「簡単なものばかりだったら、確かに人生飽きてしまうでしょうからね。時間の事も、レアさんなりに何か分かったら是非聞かせてください」
「そーだね。いずれまとまったら聞いてもらおうかな。あーちゃんと話すのはボク自身いい整理になるからね」
喜んで、と敦は応じて水を一口飲んだ。なんだかんだ彼はレアの話を聞くのが好きなのだ。
「一緒にご飯作りましょう」
「へ?」
そして少し間が空いた所で唐突に話を変えて敦は提案した。珍しくレアは面食らったような声を出した。
「まだ夜ご飯の時間じゃないよ?」
「レアさん、いつも何時くらいに食べますか?」
「起きてから大体18:15分から夕食で、夜は23:50分に食べるけど」
レアは完全な夜行性で人気のない夜を活動時間帯としているが、几帳面なくらい規則正しい。決まった時間以外に間食等もしない。
「じゃあその時間に合うように今日は、一緒に食べましょうよ」
普段よりやや推し強く敦は言った。曲がりなりにも結婚している割にはほぼ他人というくらいドライであるが、レアも割と自分を見せていく姿勢のようなので、敦も多少したい事くらい提案してしまおうと考えた。レアの場合嫌なことは嫌だと言うからあんまり遠慮も要らないかとも考えたのだ。
「あーちゃん、一緒に作って食べたいの?」
「はい」
「食材がないけど……」
「じゃあ買いに行きましょう」
小気味よく答える敦に、うーんと唸るレア。
「めんどーくさいなぁ」
難色を示す、これは旗色が悪いかと敦は思ったが、レアは少し考える様子を見せる。
「あー、でもどちらにせよ買い物も食事の用意も必要かぁ。じゃあいこーか?」
「そうしましょう!」
よし!通った。そう敦は思った。ちらと時計を見る。まだ近くのスーパーは営業時間帯だ。
「じゃあ先に買い物行きますか、食事の時間にはまだ早いけど」
「そだねー、あ、ちょっと待って着替えてかなきゃ」
「ちょ!」
言うや否や部屋着であるだぼだぼのロングTシャツを脱いでしまうレア。淀みの無い脱衣に敦は静止の声が中途半端に止まってしまう。上はスポーツブラに下は普段着らしい飾り気ないシンプルなパンツはどちらも爽やかなミントブルーだった。服を着ているとただただ小さくて幼く見える体躯だが、裸になってみると乳房らしきものは全くないものの腰まわりの曲線に僅かに成熟した女性らしさが無いことも無かった。
「レアさん、人の見てる所で着替えは……」
女性的にどうなんだと思ったが微妙に失礼なようで敦は言い淀む。
「んー?別にいいでしょ。全部は脱がないよ?」
そう言いつつも、むしろ下着も変える必要があるなら躊躇なく脱ぎ捨てそうだと思わせる程には迷いがない。
「いや、下着でも……」
「まぁ、いいでしょ。いちおーボクら夫婦でしょう?そんか細かい事いいっこなし!見たく無ければ後ろ向いてるといいよー」
む、と敦は言葉に詰まる。確かに曲がりなりにも夫婦であるというのは確かだ。そこを持ち出してくるあたりレアの意地の悪さが見える。
そう言われたならと、逆に敦は目を背けるどころかレアの着替え姿を凝視した。
「レアさん、綺麗な身体してますね」
「そうでしょ?ボク見てくれだけはいいからね。身体付きもいいでしょ?」
逆に意地悪したくなって敦は言ったが、レアの返答はむしろ若干得意げであった。そう言えば以前から自分の事を見てくれはいいと言ってたから容姿には自信があるというか、自分の身体を気に入っているようだと敦は思った。もしくは逆に主観的評価を排した客観的な価値観を言っているのかも知れないが。
「おっぱいは全然ないんだけどね、身体もちっちゃいから」
ぴっとスポーツブラの端を指で伸ばしながら舌を出してレアはそう言った。確かに二次成長期前の女の子かというくらいに平坦だ。それでいて腰つきが少し女性らしいから僅かなアンバランスさが倒錯的な美を生んでいる。
「ブラジャーいるんですかそれ?」
敦のその言葉は意地悪とかでは無く、素で疑問が出てしまったのであった。言ってから失言だと気づいた程に。
「要らないと言えば要らないんだけど、動く時先っぽが擦れて痛くなる時があるんだよね」
返答は全く怒った様子も無かった。普通に地味に生々しい事情を教えてくれた。
そんな事を話つつレアは淀みなくキャミソールを肌着として着ると、外出用の服に着替えた。敦は初めてみる服装だった。卸したてだろうか。
「はい、いいよー。行こうか買い物」
「じゃあ、行きますか」
敦もグラスの水道水を飲み干して立ち上がった。そうして二人連れ添って、部屋を出る。
「あれ?」
「ん?」
そうして部屋を出て歩き始めた所で敦はおかしな事に気がついて立ち止まる。
「レアさん鍵閉めました?」
「閉めてないよ」
「え?」
「ん?」
敦はレアが自室の鍵を閉めなかった事に気がついて詰問した。普段自分が訪れる時鍵を掛けている事が度々あるのに。
「何故閉めないのですか?」
「ボクは居ないから閉める必要はないでしょ?」
「え?」
「ん?」
敦は少し考える。考えて何となく分かった。レアは、外敵を入れない為に鍵を掛けるのではなく、自分が内に閉じこもるために鍵をかけるのだ。手段は同じでも目的が違う。だから自分が室内にいる時は鍵を掛けるが、自分が室内に居なければ自身の孤独が犯される訳ではないから鍵を掛ける必要がない。そういう事だろうと敦は理解した。
「レアさん。鍵は閉めましょうね」
「え?でも必要ないよ」
「泥棒とか入ったら困るから鍵かけましょう」
「別に盗まれて困るものないよ?」
「本とか盗まれたら困るでしょう?」
「うーん?困る、かも?」
「それで警察とか呼んだり呼ばれたりしたら凄く面倒くさいですよ」
「うーん。それは面倒だなぁ」
「じゃあ鍵かけた方が面倒がないですよ」
「そうかなぁ?まぁじゃあ閉めよう」
敦の子供に言い聞かせるような言葉に、レアは素直に従って部屋に戻り鍵を取ってきて施錠した。
「これからは出かける時鍵を閉めて下さいね」
「んー、覚えてたらそうするよ。ありがとうねあーちゃん」
共に歩き出しながらそういうと、レアは素直に頷いた。変に老成して感じる事もあれば、酷く幼稚にも感じる本当に妙な女性である。そして覚えてたらという辺りに不安を残す。まぁ、あまり気を回しすぎてたらレアという女性とはやっていけるわけもないのだが。
カツ、カツ、と二人でアパートの階段を降りて、表通りに歩き出す。こういう人だからやはりあまり遠慮はいらないのかも知れない。
「一緒に行くなら折角だから手を繋いで行きます?」
手を差し出しながら敦は提案する。
「やだよ。片手を相手に取られてたら危ないでしょ?転んだらどーすんの」
ぺし、と払われた。やはり嫌な事は嫌と拒否する。まぁこういう人だから遠慮はやはり要らない。ただ、配慮は必要だろう。真っ当な価値観をした普通の人間ではないのだ。
普通の人間の扱いをされると時には、傷付く事人もいる。それは敦自身も知っていた。
こうして並んで外を二人で歩くというのも初めての事だと敦は思った。とにかくレアは引きこもりがちで外では滅多に姿を見ない。隣を行く彼女は普段の何処かぬるっとした気味の悪さのある動きで歩く。
と、思ったが、いつの間にか隣では無く前を行かれていた。敦は歩みを早めて隣に追いつく。しかし少し気を抜くと置いてかれそうになる。
速い!?並んで歩くのは初めてだが、妙だ。レアは速く歩いているようには見えないし感じない。なのにそのぬるっとした歩みでスルスルと滑るように先に進んでいってしまう。速くないのに速い。そもレア自身小柄で敦より歩幅等もかなり小さい筈なのに、それでも敦が早歩きしないと置いてかれてしまいそうだった。
レアの独特な印象を受ける歩き方や身のこなしは武術を修めているからとは知っていたが、初めて並んで歩いてその奇妙さに気がついた。速く見えないのに速く。しかも距離感が分かりにくいのかいつの間にか離される。
とは言え、敦が油断なく早歩きすれば着いて行けるくらいだ。別に人通りの多くない道だったのは幸いだった。敦は知る由もないが人通りが激しい所だったなら、レアはこの歩みに加えてぶつかりそうな人を体を半身に切るだけで躱して真っ直ぐ歩いていくので、素人では到底着いていけないからだ。
なお、敦が少し着いて行くのに苦労している事に気付かないが、レアには特に悪気はない。彼女は他人と連れ歩く機会が今までほぼ無かったから特に人と歩法が変わっている自覚が無いのだ。
「あれ?野々村か」
そうして二人でスーパーへの進んでいた時、ふと横合いから若い男の声がかかった。自身の名が呼ばれた事と相手の意識が自分に向っている事に気がついてレアは立ち止まった。一拍遅れて敦と足を止める。
「はい?」
「野々村、だよな?」
レアは声を掛けてきた人物に向き直り、答える。声を掛けてきた人物は見た目からおそらく二十代半ば頃だろうか、明るい髪色にやや派手で片耳にピアスをした若者らしいファッションの遊んでいそうな感じの若者といった風貌だ。レアにそう問いかける口調は半ば確信的だった。
「はい、野々村ですよ」
「おぉー、やっぱりか!久しぶりだな!オレだよ、高遠だ、覚えてるか?」
「えー、と。たかとーさん?」
レアが認めると、高遠と名乗る男は旧友に会ったという風に明るくそう続けたが、レアは全くピンと来てない様子で目を細めてじとっとした目付きで相手を見据えていた。一見睨んでるのかとも取られかねないが、単に弱視のレアが相手の顔や姿に心当たりがないか見ているだけであろう。
「あー、覚えてないか?同級生だったから学校じゃ何回か同じクラスになったんだぜ」
「んー?ごめんなさい。覚えてない……」
どうも級友らしい男を前に少し考えていたが、諦めたように。若干バツが悪そうにレアは答えた。
「やっぱり覚えてねぇか。まぁ野々村は昔からなんか飛んでる奴だったしな。しかし変わらないな、昔のまんま」
高遠は特に気を悪くした様子も見せなかった。ただレアの姿を一瞥してそう感想を漏らした。幼い外見はどうも学生時代から変わっていないようだ。級友の再会に敦は口を出さずに一歩引いて静観していた。
「成長がないんですよ。中身も外見も」
「中身は知らねぇけど。てか、タメ口でいいよ。クラス同じだった時は普通に話してただろ」
少し自虐的にレアは返す。それに高遠は他人行儀な口調にツッコむ。レアも覚えていない相手に微妙に距離を測りかねたのかも知れない。
「そう?じゃあそーするね。後ボク、結婚したからもう野々村じゃないんだ」
「え?お前結婚してたのか!いつ?」
「つい一週間ほど前かな?ところで、あーちゃんの苗字、っていうかボクの苗字ってなんだっけ?」
報告しつつ、レアは敦に話を振った。どうも彼女は夫となる相手の名前も覚えていなかったようだ。
「あぁ、レアさんの名前は野々村のままですよ。俺が野々村姓になったので」
「えっ?じゃああーちゃんお婿さんだったの?」
「そうなります」
そういえばちゃんと伝えてなかったと思いつつ敦は報告する。なお、彼が野々村姓にした理由は二つ。野々村という名前の響きがーーちなみに彼はレアの名の方しか知らなかったので婚姻届の記入を見て初めて野々村という姓を知ったーーなんだか可愛らしくてレアに似合っていると思ったので変えたくなかった事。
また、敦自身養子として貰われた際に一度改姓しているので、いっそ二度姓を変えてしまうのも面白いと思った。野々村というレアと同じ姓を名乗るのもいいと思った。後、おまけ程度の理由だが、面倒くさがりのレアは改姓したら煩雑な手続きに辟易としてしまいそうでもあると思った。
「何?そちら旦那さん?」
「そだよー」
「初めまして、野々村敦です」
敦はそう高遠に名乗り、挨拶した。高遠はそんな敦を一瞥して返礼する。
「あぁ、初めまして。高遠っていうんだが、それはともかく野々村。色々言いてぇ事があるんだがいいか?」
「なぁに?」
そう前置きする高遠にレアはやや間延びした口調で聞き返す。考えようによっては男受けを狙った女がやるあざとい口調のようだが、あざとさが感じられず童女のような印象なのは天然なのだろう。
「まずお前、自分の旦那の姓名覚えてないのかよ!そんで自分の姓が何に変わったか把握してないのかよ!それ以前に嫁入りだか婿入りだか把握せず結婚しているのかよ!色々おかしいだろ、何なんだお前!?」
そして高遠は怒涛の勢いでツッコミを入れた。何ならおかしい所は他にいくらでも挙げられるだろう。確かに何もかもおかしい。
「まー、細かい所は別にどーでもいいじゃない?たかが結婚だし」
はー、と高遠は唖然としたのか単なる呆れか困惑か、一つ息を吐いた。
「あー、変わってねぇってのは訂正するわ。昔以上にすっかり訳の分からない感じになってたわ」
「そう?ボクもちゃんと成長してたのかな」
「成長って言うのかそれは」
くっ、と高遠は一つ笑って皮肉げに言った。
「まぁいいや。久々に会えたが元気そうで良かったぜ。同窓会でもあったら来いよー。機会があったら酒でも飲もうぜ」
「気が向いたらねー」
高遠はいいつつ踵を返した。夫の前で女と酒を酌み交わそうと誘うのは考えようによってはなんだが、それにレアは答えた。傍から聞いている敦は多分レアが気が向く事は無さそうだと思った。
「と、そうそう」
歩きかけた足を止めて高遠は振り返って言った。
「結婚おめでとう。お二人さん」
「ありがとーね」
「ありがとうございます」
最後に笑って祝福を告げた高遠は、レアと敦からの返礼を聞き届けずに歩き去っていった。レアが背中にばいばいと手を振る。
「いい人でしたね」
「そだねー」
「ところで思い出せました?」
「いやー、誰だったんだろうね?」
「……逆にレアさん。昔の同級生で覚えてる人は?」
「そりゃ、覚えている人くらいいるよー。えー、と……あれ?」
敦の質問に少し考えてレアは固まった。難しい顔で記憶の中を探っているようだった。
「あれぇ?まぁいいか」
そして諦めた。どうやら一人も出て来なかったらしい。
「むしろ良くボクなんかの事覚えている人いるよねー。目立たなかったと思うんだけど」
「むしろクラスメイトには滅茶苦茶印象に残っているんじゃないですかね」
苦笑いしながらそう敦は言った。レアは本人は普通にしているつもりでも良くも悪くも印象には残りそうではある。
そんな雑談を交わしつつ、スーパーに到着する。入店してレアは買い物カゴを迷いなく取る。
「持ちますよ」
「ん、ありがと」
端的なやりとりで敦はレアからカゴを受け取る。生鮮食品売り場に入った所でレアが細かい物を見るためだろう、ポケットから出した眼鏡を掛けつつ口を開く。
「で、ご飯作るのはいいけど何作る?」
とりあえず大雑把でも何を作るか考えがないと何を買うべきか見通しがつかない。というか買いに出る前にメニューを決めるべきだったとも言える。いい加減なレアはともかく敦がそこに気がつかなかったのは勢い任せ過ぎたきらいがあろうか。
「そうですね、レアさん何食べたいですか?」
「そりゃあもちろん」
「野菜料理ですよね」
さも得意げに台詞を奪われて、レアは少しむくれた。
「そーなんだけどさー。あーちゃんやっぱり意地悪だ」
「すみません。具体的に何がいいですか?」
「まぁ、手間がかからないものでいいよ?根菜と葉野菜が食べられれば」
「じゃあシンプルにグリルでいいですかね?」
「いいよ。あーちゃんの焼き野菜は甘くて好きだよ。あーちゃんは何食べたい?」
「そうですね……ってか、レアさんが作るんですか?」
「そだよ?だって一緒に作ろうってあーちゃんが言ったんじゃない」
言ったは言った。しかしまさかレアが料理するとは真面目には思っていなかった。
「レアさん、料理出来るんですか?」
「出来なくはないよ?というか難しいのでも無ければレシピ見て食べられるくらいのもの作る程度なら誰でも出来るでしょ?」
確かにそのくらいは出来る人は多いだろうが、レアは出来ないと思っていたとは敦は流石に失礼過ぎて言えなかった。出来合いとかで済ませてそうで自炊イメージが無かったのだ。
「あー、じゃあ。魚が食べたい気分ですかね?」
「魚ねー。洋と和なら?」
「まぁどっちでも」
「んー、じゃあこっちも簡単に作っちゃうよ。ムニエルとかでいいでしょ?」
「いいですね、美味しそうです」
そんな風に話しつつ、敦は人参を手に取りながら、ふと思った。
「なんか、割と新婚っぽい会話ですね今」
言われたレアは、敦を見て首を傾げて少し考えてから返す。
「そーかも?まぁ実際に一応新婚なんだから別におかしくはないでしょ」
「そうですね」
くっ、と一つ笑って敦は答えた。実際にはこの人と共にスーパーでこんな会話を繰り広げているというのはおかしな感じだと敦は思いながら買い物カゴにニンジンを放り込んだ。
「まって、あーちゃん。こっちの方がいいよ」
そう言って陳列棚を目を細めて眺めていたレアはカゴから敦の入れたニンジンを別のニンジンに取り替えた。
「鮮度が悪かったですか?」
「いや、どうだろ。多分こっちの方が美味しいよ」
何か野菜の目利きのポイントでもあるのだろうか。敦は自分が選んだニンジンを手に取り眺めて、レアが選んだものと見比べる。
「俺には見た目には変わりが分かりませんが」
「そりゃそうでしょ!ニンジンなんて見かけどれも同じじゃないか」
「じゃあ何故美味しいと分かるんです?」
「見れば分かるでしょ?」
「は?」
「え?」
何を言ってるんだこの人はと敦は間抜けた声を出し、レアも何かおかしいのかと首を傾げる。
まぁ、いいかと気を取り直して敦はキャベツを二つ手に取る。
「ではこの二つではどちらが美味しいですか?」
「こっちはかなりいい感じだね!イキイキしてる、美味しいんじゃないかな?」
敦の左手側のを指差してそういうレア。イキイキというほどの違いがやはり敦には分からない。まぁ、この人の言う事だからなんだかんだ当てになるかと言われた方を選ぶ。
せっかくだからとその後の食材を陳列からどれがいいかと選定をレアに任せた。レアは少し眺めただけで割と無造作に選んでいった。
選ばれた食材と選ばれなかったものを見比べてみても、どういう基準なのかやはり敦にはよく分からない。確かに他と比べ色艶がよく見えるのもあるが、大抵は似たり寄ったりだ。むしろ選ばれたものの中にはやや形が歪であえて買う人が余り居なさそうなものもあった。
だがまぁ、レアが他人とは違う感性、鋭い感受性を持っている事は敦も分かっている。何かしら根拠があるのだろう。もっともレアが選んだものと弾いたものを食べ比べてみる訳でもないから本当に選ばれたものが他と比べて美味しいのかは謎ではあるが。
そう言えば前に部屋にお邪魔した時にあった事を思い出した。レアが用を足しに席を外した間、手持ち無沙汰なので何気なくレアの机の上に無造作に置かれていた数冊の本の中の一冊を手に取り捲って少しだけ内容を読んで、元通りに置いた。
戻ってきたレアが椅子に座りつつ机の上を一瞥して、あーちゃんこの本、気になるの?。と敦が少しだけ手にした一冊を指差して言ったので驚かされたのだ。
何故そう思ったのかと聞いたら、読んだでしょと言い切った。敦は僅かに本が動いていたのを見逃さなかったのかと思ったが、曰く、あーちゃんの手癖が付いていた、との事。良くは分からなかったがあの人は自分の私物に他人が触れると気付くくらいには鋭い。目利きも当てになるのやも知れない。
そうして大体の食材を購入してスーパーを出る。レアの購入した分の袋がそこそこ大きいので持ちましょうかと敦は一応言ったが、すげなく断られた。この人は自分の持分を侵されるのは嫌がるタイプだから何となくそうなるだろうと思った。
その癖、逆にこちらの事は犯してくる事もある。購入時には会計を別々にするのが面倒くさいと言って全て自費で払おうとした。そこに面倒くさい以外に全く他意がないので、ある意味で自分本意な人である。
荷物を持ったまま敦は早足でレアについていきアパートに帰宅。レアの部屋へと共に戻り食材を置いた。
「んー、まだご飯の時間には早いねぇ。どーする?」
レアは本日二度目の粗茶ならぬ水道水を敦に渡しつつ、椅子に座り言った。
「もう暫くしたら調理を初めればちょうどいいと思いますよ」
敦も腰を下ろし、渡された水道水を一口飲みつつ答えた。
「じゃあ何かお話しでもしてよう!何がいい?」
「そうですねぇ……」
「あーちゃんって冷たいとか言われない?」
レアは提案するや否や問い、そしてそれに何か敦が答えようと考えたところで、結局自ら話題を振った。
「あー、何回か言われた事はありますね。ドライとか。レアさんはどう感じます」
「確かに一般的な感覚の人からすると冷たいとかドライと思われるんじゃないかなあーちゃんは」
自覚はある。人の情は勿論持っているが、しかしそれを、そもそもあまり良いものと思っていないし、レア程ではないにせよ人と近すぎるのは煩わしいと感じるタイプだ。
「レアさんは冷たい俺は嫌ですか?」
クスリと一つ含み笑いを漏らしてレアは答えた。
「まさか、あーちゃんの温度は好きだよ。じゃなかったら今ここに居られる訳ないでしょ」
「ありがとうございます」
知っていた。少なくともベタベタと人好きするような人物だったら一歩たりともレアの部屋等入れる筈がない。そのくらいは分かるくらいには敦もレアを理解している。
「そもそもボクは温情溢れる善人が嫌いなんだよ」
「でしょうね」
今度は敦が一つ笑って答えた。それも知っている。レア程純度が高くないにせよ。敦もそう言った人間を煩わしいという気持ちはある。二人は少なからず似た者同士な所があるのやも知れない。いや、似た者夫婦というべきか。
「以前話したね。世の中は多数派が回している。少数派はわきまえるべきだ、と。けれどボクだって切り捨てられ続けてきたマイノリティとして、思う所がなかった訳じゃない」
「……それはそうでしょうね」
以前話した時にはレアが語らなかった事だ。切り捨てられる少数派の思い。それを語る気になったのは彼女が敦に心を少しずつ許している証左か。
「……昔、まだ子供の頃。家族で植物園、所謂フラワーパークに行ったことがあるんだ。そういえばまだあの頃は母もいたっけ」
少し遠い眼をしてレアは語り出した。懐かしい記憶に、母親。敦は以前聞いた話を覚えている。レアを愛そうとした故に、レアに狂い、愛しきる事が出来ずに決別したという母親。
「色とりどりの花がパークの中に畑のように、いや文字通り花畑だね。咲いていたのを眺めながらボクは思った」
「これはなんなんだ?と。この庭園はなんの意味はあるのか、と。いや、意味が分からない訳じゃなかった。表向きそれは美観を呈するものだとはボクも知っていた」
「……」
「でも、ボクは人為的に理路整然と咲いた色とりどりの花が、ちっとも綺麗とは思えなかった。なんだろうこれは?と思った。ボクはむしろ、ただ学校に行く道すがらの原っぱにポツポツと咲いている蒼い矢車菊の方がよっぽど綺麗だと思った」
こくり、と敦は一つ頷いて、先を促した。ここに自身の言葉は要らない。ただレアの話を聞きたい。
「ボクは以前は、そう言ったものを綺麗だとか、こういった事は良くないとか、これが欲しいとかそういう人の価値観は一種の韜晦のように思ってたんだ。ただ、皆そういう方便にしたがって振りをしているだけだ、と」
「それは……」
敦はいくらなんでもそれは、と思って口を開いた。それをレアが引き継いだ。
「そう、それはボクが愚昧だった」
「皆は、それらを本気で美しいと思っている。家族と共に花を見に行き初めてそれを知った」
「……驚いたよ。そうして母と上手くいかなくなったのもそれからだった。面白いものでね、ボクはボクが当たり前だ。別に周りも自分もおかしくないと、いや、違うかな。何がおかしいという発想もない内は案外そんなに問題なかったんだよ」
「……そういうものですか?俺の場合は最初から噛み合わなかったですけど」
ふむ、とレアは一つ頷き続けた。
「そりゃボクとはケースは違うからね。ボクは実親、あーちゃんは養親。それにあーちゃんは最初から実のお母さんを意識していたんでしょ。ボクとは違って最初から自分が、あるいは養親さんが間違えていないかとは思っていたでしょう?」
それはそうだと敦は頷いた。確かに敦の場合最初の一歩から狂っていたのは自身自覚している。
「だからボクの場合はそれが切っ掛けになったんだ……母はボクを異端視し始めていた。そこにボクが自覚を持ち初めたら決定的だよ。だってそうでしょ?相手がおかしいと思ってても相手がそうではないと居直ってるなら何も言えないかも知れない。けど、相手と自身がおかしいと思い始めたなら、心置きなく攻める事が出来る。自他共に認めるというやつだからだね」
「……ボクは善人が嫌いだ。彼らは善意なら相手の意思を無視して押し付けていいと思っている。……それでボクは思い知らされる。大多数が持つ価値観。良い悪いはボクより先なんだ。ボクがどう感じるか何て関係なく、皆にとって良いものは良く悪いものは悪いんだ。人それぞれ、なんてよく言われる事は詭弁だ。善人は自分達とは違った価値観をそのまま許容してはくれない」
「……」
敦にも少なからず共感出来る話だった。そして少し耳が痛かった。善意であるなら押し付けても良い。いや相手が遠慮しても押し付けるべきだ、何故ならそうするのが世の中規範だから。そういう風に敦もやってきた部分がある筈だ。
「多分誰しも多少なりとも考えた事はあると思う。何から何までそうあるべきという価値観の持ち主なんてそう居ないからだ。ただボクという異邦人は悉くがそうだったんだ」
「悉く、ですか?」
レアは、一息吐いて間を作ってから話を続けた。
「そうだね、悉く、だ。今の大多数が良いとするものの中でボクが本当に良いと感じるモノは少ない。ボクは……花なんて邪魔だ。犬なんて汚い。赤ん坊なんて気持ち悪い。音楽なんて煩い。テレビなんてつまらない。映画なんて退屈だ。旅行なんて面倒くさい。食事なんてどうでもいい。家族なんて煩わしい。そして、太陽が眩しいーー」
敦はぞくり、とした。レアという人は本当に魂の形とでもいうべきものが余人とは違う。それを改めて思い知った。
しかし、本当にそこまで悉く、良いとされる価値観から外れてしまっては果たしてどれ程の生きにくさを感じるだろうか。
敦は、思った。レアは、可哀想だ。
「ボクはそういうモノなんだよ。皆が欲しがるような射幸心を煽るだけにある刺激の強い娯楽なんて要らない。ボクはただ、孤独に思索に耽る、豊かで静かな日々が過ごせればそれでいいんだ。どうか皆ボクをそっとして欲しいんだ。誰にもボクを見られたくない、見つけないで欲しい。触らないで欲しい。ただ」
レアがその両手を挙げると、敦は応じるように片手を差し出した。するとレアはその手を包み、頬を寄せた。
「あーちゃんが居ればそれでいい」
とても満ち足りた表情でレアはそう言った。
……敦はふと思う。自分も大概だが、レアさんも俺の事、実は大好きなんじゃないか、と?自惚れなのか?少なくとも凄く懐かれている気がする。
敦という男は元々愛されるという事に懐疑的で、自惚れるなと思う。しかし、普通に夫婦として考えればドライなレアの言動が、彼我が死んでも尚、飽きたらぬほど愛しているのが伝わってくるのだからしょうがない。
まぁ、どちらにせよ自分が居る事で、この人が豊かになってるならそれで良い。
「とはいえ、以前言ったようにボクはボクとしてある限りボク以外はボクとして生きて、死ぬ事は出来ない。ボクはボクとしてのみ生きて、死ぬ。その絶対的孤独が保証されているという点でボクはもう救われているんだ」
レアは楽しそうな顔で敦の手をもみゅもみゅと握り込みながら言った。
「ボクの事はもう良いんだ。だけど、誰かと共に生きて死ぬ。なんて事が出来ると錯覚している不自由な皆が可哀想だ」
「皆が、可哀想ですか?」
敦はどきりとした。今しがたレアの事が可哀想だと憐れんだが、そのレア自身が返す刀で皆が可哀想だと喝破したのだ。
「そうだよ。人は、自分の生しか生きられないし、自分の死しか死ねない。それは自分一人でしか出来ない。なのにそれを誰かと共に生きて死のうだなんて土台無理な事を信じて、錯覚で自身を慰めて生きる。不自由じゃないか」
そうだ、敦だって本当はレアの言う事は分かっている。敦はレアにどうしようもなく惹かれているが。しかし、レアだけの生と死に敦が入り込む余地は無い。逆もまた然り。敦だけの生と死にレアも誰も関われない。
「ただ、己のみの生を生きて、死を死ぬ。その絶対的孤独の玄妙な味わい深さを豊かに噛み締める。これが世界で一番の自由だ」
「だけれど、皆はこの孤独の妙味を楽しめないらしい。それはそうかも知れない。何処までも自由という事は何処までいっても全ての自分の能力、技術、性格、情緒、容姿から生まれも育ちもーー外部のせいに、誰のせいにも出来ない。全ては自分に帰属するが故に自由だ。多分大抵の人はこれに耐えられない。だったらそういう人は卑しく環境や他人や世界に社会に不平不満を垂れ流しながら不自由に生きる事で自分を慰めるしかないんだろうね」
そこでぱっとレアは満足したのか敦の手を解放した。敦は小さくて熱いレアの手の感触の残る、自身の指を握り込んだ。
「……確かに自由は、そんなに甘い考えで手に入るものではないのでしょうね」
「そうだね。飽くことない欲望で、ただ求めて持ち続ける事によって人はどんどん動く事も考える事も出来なくなっていく。だから、全て切り捨ててしまえばいいんだ。そんなものになんの価値はない」
ーー幸あれ、わが子よ! ただひたすらに進みゆけ! 一切を失う者は、一切を獲るのだ!
「何故、なのでしょうね。あれさえあれば、金さえあれば。そう思う気持ちは分からない事もないです。ただ、俺も、一体どれだけの金が、物が、手に入ったら幸せになれるのだろう?と、思います」
「ただの紙幣、紙切れ。あるいは金塊、鉄屑。そう言ったモノに価値をおいている限りは何処までいっても人は飽くなく喰らい続けるしかない餓鬼だ。そもそもそんなあり方が不幸なんだ。幸せには程遠い」
「だからね、あーちゃん。ボクは可哀想な皆に幸せになって欲しい。ボクは、優しくなりたい。皆が、皆が幸せになってくれたらどんなにいいだろう?」
少し面食らった。敦はレアはそう言った人々に倦み、無視していると思っていたからだ。
「……どうしたら皆が幸せになると、思いますか?」
「決まっているじゃないか、他人は変えられない。だからボクが皆を幸せに、皆を一つにするんだよ」
「一つに?」
どうやって?
「そうだよ。そして存在を一つにする力なんて、昔っからもう皆が分かってる事だよ」
「……それは?」
「愛だよ」
ドクリ、と敦の胸が鳴った。
愛、だって?それは余りにも古く。余りにも使い回され。余りにも安っぽく。故に底の知れない言の葉。
「レアさん、それは……」
「うん、ここまでにしよう。夜ご飯の時間が近いね。そろそろ作り出そうか?」
言われて敦は時計に目を向ける。話をしている間に夜も更けていた。確かにそろそろ調理を始めた方が良さそうだ。
「……そうしましょうか」
敦は立ち上がった。話の続きを促す事に意味はないだろう。レアは、話す時には話す。黙るべき時に黙る。人間というのは話すのは簡単でも黙る事は難しい。
きっと然るべき時に、続きは聞かせてくれるだろう。
「ん、つくろー」
レアも続いて立ち上がり、二人共に台所に向かった。
「れっつ、くっきーん!」
レアは台所で俎板を前に、やる気の無さそうな声色でかつテンション高く言った。真似しようとしても出来無さそうな、地味に器用な言い方だった。天然だろうが、どんな心境ならそんな言葉が出るのか。
レアは、右手に持った小ぶりなキッチンナイフを指の間と手の甲で器用にペン回しの如く回して見せた。側から見てて危険極まりない。
「危な、くないですかそれ?」
「ん?危ないよ。ミスしたら肉少し削げたりするから」
唖然としつつ突っ込むと、レアは平然と返した。言いながら、ナイフを指の間をクルクルと回してはしっと握って止めた。
「でも危ないからいいんだよ。刃物に対する恐怖や抵抗を克服するのと、指先の柔軟性や微細な感覚を養うにはこーいう手慰みはおすすめだよ」
「……まぁ、怪我しないように気をつけて下さいね」
言いつつ、さてどうするかと考える。もともと一人暮らし用のアパートのキッチンは少々手狭だ。本来複数人で調理するには向かないだろう。だが、レアが子供のように小さいので、二人でも多少余裕はあるから、共に作る事くらいは出来なくもないか。
と、考えている間に、レアは洗ったアスパラガスをトントンと小気味良く等間隔でカットし終わっていた。続けてしめじを袋から取り出し洗う。
「あーちゃん、鍋にお湯沸かしてジャガイモ茹でてくれる?」
「分かりました」
敦もジャガイモを取り出して洗い、鍋に水を張った中に投入して火にかける。
しかし、敦はジャガイモを何に使うのかは知らないが、何を作るのだろう?
そう思いつつ、傍らに目をやるとレアはしめじをカットし終わっており、既に鱈の切身の下拵えを始めていた。というか手が早い。手際の良さに敦は驚いた。
それでは、置いていかれないように敦もさっさと調理を始めようと野菜を取り出して洗い、包丁を取った。
そうして、敦は野菜たっぷりのスープと焼き茄子を作った。レアは鱈のムニエルに付け合わせにキノコとアスパラのソテー。レアの仕事が早いのと、割と手早く作れるレシピだったので、出来上がりのタイミングを合わせる為下準備が終わったレアが敦を軽く手伝っていた。
敦はレアが料理を出来る事も意外であったが、本人曰く出来なくはない程度のレベルのその手際も良いのもまた意外であった。案外多芸なのかも知れない。
そうして二人で作った食事を運んで食べる。食卓もないので、レアは自分の机の上。敦は……いつものように床に座って、床に食事を置く。なんだかなぁと思わなくもないが、しかし他に卓や机もない為致し方ない。
「この茄子凄く美味しいよあーちゃん!」
レアは敦が作った焼き茄子を口にして感激していた。焦げ目がついた茄子は香ばしくも、ふっくらトロトロと甘く焼き上がっており、それに鰹節と薬味におろし生姜を添え、上から醤油をかけて供する。普段の作り置きの差し入れと違い、出来立ての熱々な為当然美味い。レアは喜んで食べた。
「簡単なんですけど、シンプルなだけに美味いんですよね」
答えつつ自分でも焼き茄子を一切れ食べる。うむ、確かに美味い。
そして敦は続けてマッシュポテトを口にする。食事にはたっぷりのマッシュポテトが添えられていた。
それはそうである。この食事ではご飯やパンに当たる主食なのだ、マッシュポテトが。
やけに沢山ジャガイモを茹でると思ったが、レアは茹で上がったジャガイモをすり潰した。聞くと、レアはジャガイモが好きだから主食をポテトにする事があるのだそうだった。ドイツ人みたいだと敦は思った。まぁ、敦も流石に主食にした事はなかったが、別にジャガイモは嫌いではないので構わないのだが。レアも嬉しそうにポテトを食べている。
しかし、茄子やスープに関しては別に食べるまでもない。自分で作ったから、不味くないのは分かっている。敦にとって未知の好奇はレアの作った魚のムニエルである。
手際は良かったから、おそらく味も期待出来ると思ってはいるが、レアの料理とはどのような味なのかは中々想像が出来ない。
見た感じ、衣がカリッと焼き上がり、バターソースがかけられている。びっくり箱を開ける心持ちでとにかく、一口食べてみる。
ゆっくりと咀嚼して、味わう。なるほど。
「これは美味いですね」
「でしょう、案外ボクも一応食べられる程度のモノなら作れるんだよ」
「ご謙遜を」
これは……美味い。カリっとした外側に柔らかい中の身。下拵えやソースにディルやバジル等のハーブを上手く使っており、魚らしい生臭さを消しつつ香り高い。バターソースも濃厚でよく合っている。
美味いし敦の舌に合う。これは良い。しかし、何というか、敦は気に入ったがそこはかとない違和感も感じる。はて何だろうと思いながら、付け合わせのアスパラガスのソテーも口にする。これもやはり美味い。
そこで、違和感が何なのかに気づいた。この料理には、女性の手料理とか、家庭的な料理と言ったニュアンスがあまりしないのだ。例えるなら外食する時、レストランのシェフが作った料理に近い印象を受ける。
悪く言えば家庭的な暖かみのようなものが一切ない。シェフは客がどんな人間であろうと、常に均一に公平に自分が作れる最高の料理を出すだろう。つまり良く言えばそういう誠実さが伝わる料理だった。
それに、敦はーー自分でも捻くれていると思うのだがーー家庭料理の暖かみとなどという物言いが嫌いだった。なるほど確かに家庭の人が作る料理は、如実に作り手の心証、気分が出る。それはつまりは暖かくもなれば、冷たくもなる。
誰でも少しは分かるのではないだろうか?家族の母でも父でも親代わりでも、妻でも夫でも誰でもいいが、そう言った人が作る相手への情が冷めた時。この程度でいいや、とほんの少し手を抜く気持ちが出てくる。それを食べる人は、段々、段々と料理に思いやりの気持ちが薄れていく事を案外感じ取ってしまう。
そういう意味では敦は家庭料理の残酷さも知っている。
だから敦にとっては、余計な熱の籠らないレアの料理が。
「あぁ、やっぱり美味しいです」
とても好ましかった。
「あーちゃんの野菜料理も美味しいよ」
レアは嬉しそうに返した。
二人は食事を済ませた。敦は割と手早く食べてしまう方だが、小柄な体躯からは意外な事にレアも食べるのが早かった。
「美味しかったねぇ」
「えぇ、どうぞ」
お腹いっぱいになり満足げにしているレアに、敦は自分で淹れた茶を一杯差し出した。なお、レアの部屋には茶器などはなかったので敦は自前のを持ち出した。
「ん、ありがとう」
礼をいいつつ、茶碗を見る。お茶など久しぶりだとレアは思った。飲み物等に頓着がないので普段もっぱら水道水しか飲まずわざわざ茶など口にしないからだ。
はて、緑茶とはどんな味だったかと一口含む。
……熱いかと思い、猫舌のレアは恐る恐る口にしたのだが、丁度いい温度ですぐ飲めた。若草のような、フレッシュな香りに、甘くまろやかな舌触りで、喉に落ちる時に僅かな渋みが後味を残す。雑味がなく、食後の口内をスッキリする爽やかな茶であった。
「あーちゃん、このお茶美味しいね。いいお茶なの?」
「いえ、茶葉自体は大したものでもない煎茶ですよ。コツさえ抑えれば結構美味しくは入れられるんです」
敦は以前茶の淹れ方にハマっていた事があった。ツボさえ抑えてしまえば、それなりのものは淹れられるものだ。
「あーちゃんは色々出来て凄いねぇ」
むしろ敦からすれば、料理の手際やらレアが存外に器用だったのが驚かされた。
その後、敦は後片付けを申し出たがレアは自分がやっておくと言ったので任せる事にした。深夜にもなってレアもバイトがあるという事なので、敦は暇乞いをして自室へと帰った。
今日は良い日だった。
………
……
…
「どーぞ、粗茶ですが」
その日、自分の勉強がひと段落した敦はちょうど良い時間だったので、温野菜を土産にまたレアの部屋を訪れ、いつもの粗茶(コップに注いだ水道水)でもてなされていた。
レアは机の上で開かれたままの三つほどの本に栞を挟んで閉じ、同じく開かれたノートに楽しそうな表情でハミングしながらペンで何かを書き込んだ。ゆったりとしたハミングはアヴァマリアのようだった。
「ご機嫌ですね」
水道水を一口飲みつつ敦がいうと、レアはペンを置き、笑って椅子に座った。
「うん。最近は調子が良くてねぇ。あーちゃんが良く聴いてくれて話すからかな。次から次へと考えが湧いて、凄く楽しいんだ」
「お役に立てているなら何よりです。良く人と話すと考えが纏まると言いますしね」
「うんうん、まさにそれだねぇ。まぁ今までも対話をしなかったわけじゃないんだけどね」
「そうなのですか?誰と?」
「うーん頭の中の誰かと?」
おぉ、また何やら可笑しい事を言い出したぞ。と敦は思った。
「こうね?ふと考えている時。あるいは全く考えていない時。いきなり頭の中で誰かがこうじゃない?ほら?って囁いてくるんだよ。ボクはその内容を吟味して自身なりに意見を考えだす。すると暫く経つとまた頭の中でそれに対して何かが答えて囁いてくるんだよ」
「なるほど」
何となく分からないでもない。敦に経験はないが、創作をやる人間や研究者などは良く天啓が降りてくると聞く。
「ソクラテスなんかも良く神霊(ダイモン)の声を聞いていたと言うけど。多分そういうものなのかもね。頭の中でボクはそうやって対話しているんだ」
トントンと自身の頭を指先で叩きレアは言った。
「やっている事は所謂弁証法だね。ソクラテス流に言えば産婆術。ほら?と何かが言ってくるから、そうかな?と返す。するてほらやっぱりって具合に一つの命題が出来る。するとそれにまた次の声が聞こえる。そうやって少しずつ思索が進むんだ」
「なるほど、つまり頭の中でプラトンの対話編みたいな事が起きるわけですか」
「そういう事だね。そして、ボクのダイモンはきっとボクそのものなんだ。同時にボク自身、誰かさんのダイモンなんだろうね」
誰とは言わないけど。そうレアは誰にともなくそう言って、クスクスと何処か意地悪に笑った。
「まぁ、話を戻すと、そんなボクだけどあーちゃんとお話しするのもまた違った刺激になって楽しいんだよ。今日はなんのお話する?」
そしてやっぱりご機嫌な様子で、そう言った。何の話をするかとリクエストを聞かれて敦は少し考えてみる。
「うーん、そうですね……じゃあ俺の専門の経営学に関わる事でレアさんの意見は何かありますか?」
経営系は組織論、マーケティング、生産管理、戦略論、他にも様々な多くの分野を包括しており学際性の高い学問だ。それだけにレアならば何か話せるものもあるだろうと敦は思った。というかこの人は乱読だから割と経営系の本も普通に書棚にある。ドラッカーやコトラーの著書が大体揃っている程だ。
それに専門畑出身者ばかりではなく、全く専門分野が違う人の意見を聞くというのは経営系、組織や企業では硬直化を防ぐためや柔軟な発想を得るために大事だとよく言われる事だ。哲学者(フィロソフィア)の立場の話を聞くのもいい学びになりそうだ。
「そうだね……じゃあ専門外で僭越ながら、社会的責任について少し関わる事で、ちょっとボクの思う事を話そうか」
「CSRですね」
CSRーー企業の社会的責任ーーこれは色々広範に渡る為一概に何とは言えないが、企業は社会に影響を及ぼすものとして、利害関係者、地域社会、消費者、環境、多くのものに倫理的価値に乗っ取り貢献していくべきである。という責任である。
例えば、企業が自身の利益のみを追求して環境汚染をしてはいけない。といったものだ。
高度成長期には工場が有害な産業廃棄物を垂れ流して多くの公害病で健康被害を引き起こした事がある。これは当たり前だが現在のCSRの観点からは許されない事だ。もちろん社会的責任は何も環境保護に限った事ではないが。
「似たものではソーシャルマーケティングもあるよね。レイザーの方のね」
「良く勉強されてますね」
浅学ながら。などとレアは韜晦する。しかし、敦は専門外の知識がそれ程あるのに舌を巻いた。ソーシャルマーケティングとは良く知られているのは、それまでは企業などの営利組織のものとされていたマーケティングを、学校や病院と言った非営利組織にも必要であるとして取り入れていこうという考えである。これはマーケティングの第一人者のコトラーが提唱したものである。
しかし、ソーシャルマーケティングにはもう一つの意味合いがあり、そちらはレイザーが提唱したもので企業等が社会的責任を果たす活動をいうもので確かにCSRにも通じる。
「だから最近は大企業ではコンプライアンスにはうるさいよね。例えば労働基準法無視で過労死でも起これば大事件だ。ニュースにもなる」
「大企業では特にそうですね。そういった事があればそれこそ社会的信用がなくなりますから今は徹底しているそうです」
ふ、と息を吐き一つ間を置いてからレアは言った。
「奇妙に思う」
「……と、いうと?」
「何で企業の方が過労死させないように〜、なんて従業員に配慮する必要があるんだろう?」
敦は少し考える。彼も少しはレアの思考法も分かってきている。彼女はまず前提を疑い、それを考える。その上で敦は答えを返した。
「そうしないと過労死、労災も出るからでしょうね」
「うん。確かにそうなんだろうね。過労死しかねない仕事を課す企業があれば、過労死する人が出る。それはその通りなんだろう」
「でもボクみたいな組織なんかにはどう足掻いても着けない人間からすると心底わからない」
レアは本当に理解出来ないと言ったように小首を傾げて続けた。
「何で人は過労死なんてするんだろう?死ぬ前に休めばいいんじゃないの?」
「まぁ、その通りですね」
敦は思った。なるほど、レアが言っているのは至極当たり前過ぎる程当たり前の話だった。
「果たして、異常なのは過労死するほどの業務を課す企業なのかな?それとも過労死するまで働く従業員かな?」
「……どちらも異常ですね」
こっくりとレアはゆっくり頷いて続けた。
「確かに過労死しかねない程仕事を振る会社はおかしい。でもボクはそれ以上に死ぬまで働く人の方がおかしく感じる」
「人が死なないようにコンプライアンスを守って〜なんていう風に企業を変えていく。という事自体がボクには良く分からない」
「……なるほど」
少し考えて、敦は問い返した。
「責任は働く従業員にある、と?」
「そうだね。少し考ればわかる事だよ。仮にボクが企業に勤めるなら、そもそも過労死なんて出した企業には最初から入らない。そして、いざ会社で働いたとして、この会社はボクが死んでも構わないんだな、という業務内容ならばボクはとっとと辞める。当たり前だよね、死ぬかも知れなければ辞めるに決まっている」
「当たり前ですね」
「人が死んでも構わないような企業は誰もが辞める。そうすれば、その企業は従業員が居なくなる。そうすれば業務が立ち行かなくなってその企業は潰れる。したがってそんなブラック企業は世の中から消えていく。これも当たり前の話だよね」
「……その通りですね」
「ならば、悪いのはそんな企業で働き続けて存続を許している従業員に決まっているじゃないか。彼らが全員辞めればあっという間に問題は解決する」
「変えるべきは企業ではなく、働く個人の方だよ」
「……なるほど」
レアの言っている事は至極当たり前だ。当たり前過ぎて考えもしなかった事だ。コンプライアンスなんて従業員個人個人が先に変われば必要はないのでは、という視点は面白いと敦は思った。
「仕事をしなければ、生活が出来ないからかな?それも分からない。食い繋いでいくだけの方法なんて探せばいくらでもあるし、なんなら過労死するくらいならホームレスでもやって生き延びた方が遥かにマシじゃないかな?」
「まぁ、そんな会社に勤め続ける必要はないのは確かですね」
「よく生活しなきゃだから、まず生活出来なきゃ、という人が多いけど。そのせい何だろうね、生活する為に馬鹿げた仕事すらする」
「そもそも生活なんてのは生きるための手段でしかないはずだ。必要だから生活するだけ。なのに生活する為に生きている。そういう転倒を起こしている人が多い」
「いみじくもソクラテスがぼくは生きるために食べているが、皆は食べるために生きてる。と言った通りだ、順番を間違えちゃいけないよ」
レアは、そう穏やかな口調でしかし歌い上げるように言った。敦は一つ頷く。
「確かに生きる為の手段としての仕事で死んでては本末転倒でしょう」
「だから門外漢のボクが思うのは『企業』が社会的責任を担うのではなく個々人こそが社会的責任を担うべきではないか。という事かな」
「具体的に個々人が果たすべき社会的責任とは?」
「そんなの決まっているよ」
敦の問いかけに、レアは前髪を指先でこよるような仕草を見せて答えた。
「考える事。ただそれ一つだよ」
これを、社会的っていうのはボク的にはちょっと抵抗があるけどね。とレアはボヤいた。
「考える。ですか」
「そうだね。人間に責任があるとすればそれはボクは考える事だと思う」
「だって、過労で死ぬまで企業で働くなんて、まるで機械じゃないか?機械なら壊れるまで作業するよね。なら過労死する人間なんてただのロボットと同じだよ」
相変わらず、シビアな考えと容赦のない切れ味の言葉だと敦は思った。少し痛快ですらある。
「そしてロボットがロボットたる所以は考えたりしない事だ。彼らが自分で考える事の出来る人間なら死んだりしなかった筈だ」
クスリと一つ笑ってレアは続けた。
「結局のところ、最近の人は考える事が出来ないんだと思う。ただ命じられるまま考えずに死ぬまで働くんだから。それの方がきっと楽何だろうね」
「死ぬ方が楽、というのもおかしな感じですけどね。死ぬより考えるべきだと思いますが」
敦が答えるとレアはこくりと頷いた。
「そうだね。でも、皆そうしない。死ぬ事も生きることも自分の意志で出来ないなんてこんな不自由な事はないのに。多くの人は不自由に不平不満を述べる。だけれども本当は皆、自由なんか欲しくないんだと思う。不自由な家畜でいた方が楽なんだ。多分皆、自由が決して楽でも甘い物でもないと直感しているのだろう」
「自由ですか……レアさんの言う自由は」
「そう、自由とは孤独の自覚だ」
「生きることも死ぬ事も自分一人でしか行えないと自覚して、その孤独の中で考え続ける事。それが自由なんだよ」
「もちろんその考えも絶対的に自分一人のものだ。つまり、自由とは豊かで、静かで、残酷で、優しくて、厳しくて、救われていて、絶望的なんだ。多分皆、この自由を生きるのに耐えられないんだろうね」
水道水で唇を湿らせて、一つ間を置いて考えて敦は言った。
「自由には責任を伴う。とは月並みな言葉ですが、なるほど。責任とは考える事ですか」
「その通りだね。考えるなんて誰でもやっていると勘違いしている人もいるけど、大多数の人は考えるんじゃなく、悩んでるだけだ。悩むという行為は、考えるという営為とはまるで真逆だ。考える事とは、ただ上へ上へと不断に止揚し続ける事だ。でも悩む事はどうしようどうしようとその場で足踏みし続けるただの思考停止に他ならない。大抵の人は考える事じゃなく悩む事しか出来ない」
「なるほど、確かに悩む事程無為な営為もないですね」
敦にも心当たりはある。悩みに悩んでいても、それで悩みが解決するわけではない。それは考えてないからだ。思考停止と言われると中々耳が痛い。
「そう、だから平凡な大多数の人は考えない。故にただのロボット人間だ。つまらないんだよ」
そう言って、レアは目を細め。ふと、ハッと口元に手をやった。
「あぁ、ちょっと人の事を悪様に言い過ぎたね。ごめんね、あーちゃん」
いえ、と敦は微笑して首を振った。
「別に俺もレアさんが聖人君子とは思って居ませんよ。いや、レアさん風にいうなら聖人君子なんてつまらないじゃないですか。むしろ俺としてはレアさんが何を思うのかもっと聞きたいです」
ん、と一つ喉を鳴らしながら、レアは少し頬を紅潮させた。
「……ずるいなぁ、あーちゃん。ボクだってあーちゃんにはあんまり嫌な所見せたくない気持ちだって、あるんだよ」
「良い部分も、醜い部分も見てそれを許容するのもいいんじゃないでしょうか、夫婦ですし」
「いじめっ子」
レアは眼を逸らしポツリと呟いた。
「じゃあもう少し続けちゃうよ。ボクは普通の人達がつまらない」
「はい」
どーにでもなれと話続ける事にしたレアに、敦は相槌を一つ打つ。
「仮に……人間一人一人が書物だとしよう。大半の本は似たり寄ったり、予定調和の退屈な本ばかりだろうね。きっと殆どの本が大差ない内容だろう。もちろん、中には面白い本もあるだろうね。でも」
とんとん、とレアは指先で中空を叩くような動きを見せて続けた。
「そんな本はどれだけ読めば見つかるだろう?何百冊に一つか、あるいは千か、もしや万に一つかもね」
「そして、どの本も例外なくデッドエンドだ……どうしてボクは読んだ事もない本の結末だけ何故か知っているのだろう?」
「人生録、ですか。ちょっと読んでみたい気もしますね」
敦のコメントにクスリ、と一つ自嘲めいた笑みを一つ溢してレアは続ける。
「でもこれは比喩にしても破綻しているね。人を本とするなら、ボク自身も本だ。本が本を読むことなんて出来っこないからね」
「まぁ、それはそうですね」
「それならボクは、ボクは何故ボクというこの本であるのか?あるいは本とは何か?という問いの方が面白いなぁ」
「レアさんらしいですね」
一つ笑って敦は水を一口飲む。レアは一通り話終わると、照れ笑いを浮かべて頬をかいた。
「あははー、経営学系って話だったのに大分脱輪しちゃったね。ごめんねぇ、話下手で」
「いえ、面白かったですし。問題は組織が先か個人かという点は参考になりました」
「まぁ、強いて言えばそこら辺はトップダウンかボトムアップかのアプローチに通じなくもないかもねぇ」
「それに経営学は広範ですから。おおよそどんな学問や思想からでも学ぶ所があります」
うんうん、とレアは頷いた。
「わかるよ。経営学は兵法によく似ているというか、むしろ現代の兵法だ。兵法を前提にすれば色々な学問の理解の助けになるし、またどんな学問の教えも兵法に取り入れる事が出来る」
「はは、レアさんは兵法家ですもんね」
「あっ!違うよ!ボクはぶんけーだよ!」
うっかりと口を滑らせたレアは慌てて訂正する。
「まぁ、ボクの話はこんな所だけれど。ボクもあーちゃんに専門の観点からお話聞きたいな」
「いいですけど、何の話がいいですか?」
「そうだねぇ……じゃあBtoCマーケティングに対してBtoBマーケティングの差異はどんなものなのかちょっと気になってるかな?」
「おぉ、ずいぶん突っ込んだ所攻めますね。まぁ、上澄程度の所で良ければ少し話せますよ」
にぱっとレアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ是非聴かせて!」
それから敦は、レアが尋ねた事についてなるべくポイントを抑えて端的かつ分かりやすく論じた。レアはとても興味深そうに聴いてくれた為、敦も久々に興が乗って舌が回った。
一通り話終わるとレアはしきりと、凄い分かりやすくて面白かった。専門の人はやっぱり違うね。と喜んでいた。そうしてその日は互いに違う視点からの交流的対話を楽しみ、お互いに満足して淳は部屋へと帰った。