その日、敦は買い物に出かけ、その帰り道についていた。
表通りから路地を一本入り少し歩けばもうすぐに自宅のアパートが見える。が、そこで敦は足を止めた。
スッ、と軽く電柱の陰に身を寄せる。アパートの前に人影があった。
それだけならだから何なのかとスルーしてしまう所だが、どうも立ち止まったままアパートを窺っている様子なのだ。
誰だ?敦は思った。見たところ、中年か初老の間くらいの男。敦が知る限り、このアパートの住民にも関係者にもあんな人物は居ない。身なりを見ても、セールスや勧誘の類いとも思えない。そもそも今はもう夜だ。控えめに考えて、不審者ではないだろうか。
どうしたものか。若干気味が悪いが、いっそ無視して部屋に帰るか?レアさんならどうするだろうか。ふとそんな事を思う。あの人なら一顧だにせずに帰りそうだと思って敦は笑みを浮かべた。
少し考えた末に敦は一応声を掛けてみる事にして、男性へと歩き出した。敦が近づいてくる気配に気がついて、男は敦に振り返った。
「今晩は」
「……今晩は」
敦が声をかけるより先に、男の方から挨拶をしてきたので、敦も答える。柔和そうだが厳しさも混じった声色だった
「このアパートに何か用事でしょうか?」
敦は率直に尋ねる。相手が不審な反応を示したら見逃さないように注視しながら。
しかし、男は落ち着いた様子で表情は変わらなかった。こうして近くでみると何処か疲れたような愁いを帯びた顔付きをしている。髪も真っ白だ。もしかしたらそれらの印象から殊更に老けて見えるだけで実年齢は見かけより若いのかも知れない。
「あぁ、失礼。私は怪しいものではなく、と自分で言うのも可笑しな話で説得力はないかも知れないね」
男はそう言って、少し笑った。敦から見ても邪気が感じられず、不審者では無く何か事情があるのかも知れないと思った。
「君はこのアパートの住民かな?」
「はい。そうです。もしかして誰かに用事ですか?」
「そうだね、君は野々村という女性は知っているかな?ここに住んでいるのだが」
レアさん?この人はもしかして。敦はある予感がした。
「お隣に住んでますが、貴方は……?」
「私は野々村レアの父親でね……いや、彼女はもう野々村ではないか」
やはり、あの人の父親だったかと敦は思った。以前に少し昔の事を聞いているが、母は居ないが父親はいるとの事だった。
いや、もしかしたら父親を騙っているだけという事もあり得るが、口ぶりからして結婚した事を知っているようだ。恐らく本物か。
「いえ、あの人は野々村のままですよ」
「……レアが結婚したと聞いて、居ても立っても居られずに来てしまったのだが……つまり君が」
敦は恭しく一礼をして言った。
「初めまして。レアさんの婿となりました野々村敦と申します。挨拶にも伺わなかった非礼をお詫びします」
「そうか……君がレアの……どうして、君はレアと、いや。ともかくレアは元気だろうか」
「はい。あまり外には出ませんし、毎日会えるわけではないですが、いつも楽しそうにしています」
「そうか……夫の君でも毎日は会えないか。彼女は相変わらずらしい」
親子にしては何処か遠い距離感のコメントとともにレアの父親は少し苦味の走る笑みを浮かべた。
「……レアさんを尋ねに来たのでは?会いに行かないのですか」
アパートまで足を運んできて、何故こんな所で立ち止まっているのだろう?それにそんな事俺に聞かなくても本人に聞けばいい。そう思って敦は言った。
「いや……彼女がどの部屋に住んでいるか知らなくてね」
「それでしたら……」
「いや、今のは情けない言い訳だな。正直に言うと……親として失格だと自分でも思うが……ここまで来ておいて、私は怖いのだよ、レアに会うのが」
「っ!」
親なのにそんなだから!
一瞬で敦は激昂した。あまり感情的にならない彼にしてはここまで怒りを覚えたのはいつぶりだろう。しかし、彼は歯噛みして怒りを抑えた。
怒りのような感情は激しいが短期的だ。それを律する術はとにかく抑えて一呼吸置く事だ。そうすると敦は冷静さを取り戻してきた。
「……お察しします」
この人が悪い訳ではない。決して親がこうだからレアさんがああなのではない。レアさんがああなのだから親がこうなったのだ。あの人ならそう言うだろう。そう敦は思った。きっとこの人も親としての苦悩は他人には測れないものがあっただろう。
「レアさんは訪ねても疎んだじはしないと思います」
「そう、だろうか。いや、ここまできて辞めよう。彼女の部屋に案内してくれないか」
敦はスマホをポケットから取り出して時間を見た。訪ねても大丈夫な時間だ。ただ今日、戸が開かれているかは運だ。
「ついてきて下さい」
そう言って敦は先導してアパートの階段を登り、レアの部屋前まで来た。
「ここです」
敦は告げて、インターホンを鳴らす。横でレアの父は緊張を隠せないようだった。
「……留守、だろうか?」
「いえ」
応答がない事にレアの父はそう言ったが、そもそもレアはインターホンに応答したりしない。鳴らすのはあくまで来訪を告げる以上の意味はない。
敦は続けて、ドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「貴方はツイているようですよ」
「え?」
敦は今日訪ねても、会える確率は3:7か良くて五分五分と踏んでいたのだが。
敦はドアを開けて、いつものように踏み入りつつ声を出した。
「今晩はー。レアさんにお客さんですよ」
「今晩は。客?ボクに?」
奥で本を読んでいたレアが本を机に伏せつつ首を傾げながら答えた。自分に客とは解せないという風に。
敦が促すと、レアの父はおずおずと入室して、姿を見せた。
「ん〜?」
父親を前にして、レアは目を細めて小さく唸った。裸眼であった。敦はすぐに気がくつ。この人、父親が誰なのか判別出来ていない。
「レア……久しぶりだな」
「うわぁ!びっくりした!とーさんか、久しぶりだねぇ、ご無沙汰してるね!じゅーねんぶりくらいかな?」
しかし、レアの父親が挨拶すると声で分かったのか、父だと判別出来たようだった。そして父親相手にも変わらないノリに、敦はギョッとした。十年も会ってないのにこれか、と。
「いや、流石にそんなに経ってはいないよ。四年ぶりか」
それに対してレアの父親がやんわりツッコむ。敦はなんだ、と一瞬思ったが、いや四年ぶりの再会も結構なものだぞと思い直した。
「そだっけ?まー、十年も四年も一ヶ月も大して変わらないよ!細かい事気にしないで、まー座ってよ」
そういいつつ、レアは立ち上がりキッチンへ向かった。レアの父親は座ってと促されたものの、座布団もなく、椅子は先程レアが座っていた一脚しかない。何処に……と困惑している様子だったので、敦は率先して床に胡座をかく。それを見て、レアの父親も倣って敦の隣に腰を下ろした。
「どーぞ、粗茶ですが!」
そして、レアが水道水を注いだコップを持って戻り、父親、そして敦にいつも通りのもてなしをした。
やった……この人、父親にもこれをやった。と敦はレアのブレなさ具合に地味に感動していた。そして父親の方はコップを片手に当惑していた。
しかし、彼はふっと一つ笑って言った。
「レア、随分雰囲気が変わったな」
「うん?そーかな」
レアは椅子に座り直しながら応じる。
「あぁ、ずいぶん明るくなったし、楽しそうだ」
父親は何処か安心したように穏やかに笑って言った。
「やはり、彼のおかげなのだろうか?」
「そーかもねぇ」
「いや、俺が初めて会った時からこんな感じですけど」
敦は冷静に訂正する。敦とレアはそこまで長い付き合いという訳ではないし、初めて会った時から割と愉快で変わったお隣さんだったのだ。
「でも、最近はあーちゃんのおかげで考えるのが楽しいよ」
誰かがいるおかげで、一人の時間が益々豊かになるなんて考えても見なかったな。とレアは宣いつつクスクス笑った。それを見て、父親は穏やかな微笑を浮かべて言った。
「何にせよ安心した……結婚したと聞いた時はまさかと思って、こうして来た訳だが。会えて良かった」
「おぉ、とーさん知ってたの?なんかねー、気がついたらなんかプロポーズされたり、結婚してたりしたんだ」
「どちらかと言うと結婚はレアさんから提案したような……」
そう、敦は控えめに発言する。確かに言い出しのはレアが先だったが、本当に結婚する事になったのは主には敦のごり押しなので強くは言えない。無論レアの悪ノリによるところも大きいが。
「ふむ、正直お前が結婚なんてするとは私は思っていなかったから。驚いたよ」
「とーさんもそう思う?ボクもボクが結婚するなんて思った事がなかったから、ボク自身も驚いたんだ」
父親の言葉に、レアは同調した。普通の父と娘なら、結婚して親から離れていくなんて当たり前に起こり得る事だろうが、この二人の共通認識として到底起こりえぬ事だったのだろう。
父親はふっ、と笑って聞いた。
「ならどうして結婚したんだい?」
「えー、と?何でだっけ?」
「レアさんが結婚する?と言ったので」
父親の問いにレアと敦が答える。
「そうそう、そしたらあーちゃんが本当に婚姻届持ってきてね」
「必要な記述で書ける所は俺が全部書いたので、レアさんが書くだけだと言いまして」
「だからなんか書いたら、本当に提出して結婚したみたいなんだ」
二人の説明に、父親は苦味走った笑いを浮かべた。
「そういう所はやはり昔と変わらないのだな。大方紙切れ一枚の契約くらい、なんて言ったのではないか?」
「言ったような?言わなかったような?」
「いや、言ってましたよ」
まさに、結婚に対してレアが言った事そのままだった。流石に父親、娘の事は割と分かるのかと敦は内心関心した。
はは、と何処か愉快そうに一つ笑って父親は言った。
「そういう所は変わらないのだな。でも以前より確かに楽しそうで、お前は綺麗になったな」
「そうかな?ボクは見てくれだけはいいらしいからねー」
「いや、昔よりずっと綺麗になったよ……レア、結婚おめでとう」
「……うん。ありがとう、とーさん」
父親は穏やかな微笑をたたえたまま祝福し、レアも何処か似通った表情を浮かべて、答えた。
「あぁ、良かったよ。お前が元気そうな姿が見れて良かった。すまなかったな、ずっと顔も見せないで」
「ん?顔を見せなかったのはボクじゃない?」
事実、レアは父親に会いに行こうとすればいつでも行けた。特に必要がなかったから行かなかった。だから二人は会う機会がなかった。それだけ。そうレアは心底思っているのだ。自分が父親に四年間ほっとかれた、などとは考える筈もなかった。
苦い笑みを浮かべて父親は首を振りながら立ち上がった。
「私はそろそろ帰るよ。私はまた、会いに来てもいいだろうか?」
「もー帰るの?べつにいーよ、いつでも。ありがとうね、とーさん」
レアは柔らかく笑って答えた。父親は敦に目線を送った。とても静かで深い眼だった。
「では、俺がそこまでお見送りしますよ」
それを受けて敦も立ち上がる。クス、とレアは笑った。
「うん、ばいばい。どーさん」
そう言って椅子に座ったまま、優しい笑顔で手を振ってレアは手を振って部屋を出て行く二人を見送った。
父親と敦は共に連れだって、無言でアパートの階段を降り、少し離れた場所まで歩く。そこで、レアの父親はポツリと言った。
「ずいぶん変わったものだ」
「……そうなのですか?」
それに敦は応じる。父親は足を止めて話始めた。
「あぁ、明るくなったし、楽しそうで、そして……遙かに底知れない雰囲気だった」
「……」
「敦君と言ったね。こうして君に言うのも何だが、親として失格というのは理解しているが……久しぶりに会ってみても、やはり私は彼女が怖い」
そう、久々に会った野々村レアという存在は、もはや父親では理解の及ばぬ異邦人だった。彼は潔くもう実の娘が理解の及ばぬ何かなのだと認めていた。
「……」
「もう、私には彼女が何を思っているのか、検討がつかないよ。情け無い話だが、親としてレアが理解出来ないんだ」
親なのに、と敦は思う。しかし、敦とて子供でもない。分かってはいるのだ。
親だって。と。
子供が子供の頃は、親が無敵の存在だと無根拠に信じている。たまたま血の繋がった親だと言うだけで、何か自分の親は周囲の誰かとは違う特別な人間だと思っている。
だが、子供もいつまでも子供ではない。段々と成長して、大人になり、物事の道理を理解するにつれ分かってくるのだ、親は無敵で特別などではないと。
そして、やがて自分が親になったり親と同じ年齢になった時に、自分の親達がどれ程の苦労や懊悩しながら自身に接していたのか理解する。
これはしかし、実の親がいなかった敦には分からなかった事だ。
だけれども、それが健全な在り方なのかも知れない。
子供は根拠なく親が全能だと思い込み、親はそんな子供の前で必死に虚勢を張る。どんな親子でもきっと不完全にしか出来ないだろうが、そんな在り方が当たり前なのかも知れない。
そうやり切れない親子だっているのだから。
例えば……敦の養親は、敦が実の親は死んだ、養親は瑕疵があると最初から思っていたから失敗した。
例えば……レアの両親は、レアという別の世界の何かの親としてあろうとし続けて限界を超えてポキリと折れてしまった。
何が悪かった、と言う訳ではないのだ。誰が悪かった訳ではない。でもレアの母親は逃げ出した。
そして先に逃げられた事により父親は、自分は逃げ出せずに、しかしレアとまともに向き合えもせずに中途半端な所で立ち止まるしかなかった。
誰がそれを責められるのか。敦は疲れ切ったような風体のレアの父親を前にそう思った。
そして、敦にも理解し切れなかった所。レアの父親は娘に恨まれているとすら覚悟して、恐れを抱きながら会ったのだ。
そして、数年ぶりに会ったレアがまるで昨日別れた相手と今日また会った程度の気安くて、明るくて、レアは全く父親に思う所などないのだと彼は理解したのだ。
それに、安心し、そして同時にそれが、底知れず恐ろしかった。
数年前まで実の娘とどう付き合って来たのか、その恐怖を彼は思い出した。
「……俺も、レアさんの事は分かりません」
レアの父親の心境を慮り敦が絞り出すように言うと、父親は夜空を仰ぎ息を吐いて、続けた。
「そうだろうね……でも、私は最近になってこれでいいのではないのかとも思っているんだよ」
「良い、ですか?」
「あぁ……これは、娘がレアだったからこそ気付けたのかも知れないが。そもそも自分の子供だからとか家族だからとかで相手を理解出来て当然だと思う事自体傲慢じゃないか、とね」
「……」
長年の懊悩の為か、髪は真っ白になり顔にも皺が刻まれて老け込んだ顔に、しかしその老いに見合った深みのある表情を彼は浮かべた。
「例え夫婦でも、子供でも、やはり他人なのだ。どうしたって、自分では理解出来ない所はある。決定的な違いはある。だけどそれを認める事。そういう寛容さが、相手を思うなら大事なのではないかと、今はそう思う」
「……分かります。あの人はそうですから」
「好きだから思うようになって欲しいという傲岸。愛するから自分の期待を押し付けるという不遜。突き詰めてそれこそが人と人との軋轢のもとなのだろう」
父親は夜空を見上げて疲れた溜息を吐いて続けた。
「あぁ……親になったばかりの頃の私達は、何故それがわからなかったのだろう、な」
ふっ、と苦い笑みを浮かべて彼は目線を敦に戻した。
「君がレアと関係を続けるつもりなら、今私が言ったことを少し覚えておいて欲しい」
「……分かりました。ありがとうございます」
「……君はレアに私達の事。昔の家族の事はどれくらい聞いているんだい」
そこでふと父親は転換した話題を振ってきた。
「軽くは、母親は段々と様子がおかしくなり出て行ってしまった事などは聞きました」
「……彼女の弟の事は?」
「弟?」
弟、レアのだろうか。敦は以前レアの両親の話を聞いた事はあるが、弟がいるなんて話は出なかった。もっともあの時の話は両親についてだから兄弟関係は話の筋には関係なかったとも言えるが。
「聞いていないようだね」
「はい、初耳ですね」
「まだ、私達が一緒に暮らしていた時。私達は四人家族だったんだ。私達夫婦に、長女のレア。その弟の息子の四人。レアと息子の二人姉弟だった」
「……それが、仲のいい姉弟でね。レアは弟を良く可愛がって一緒に遊んでいたよ。……それこそ私達親すら例外ではなく他人に興味を示さない彼女の、唯一特別な人間だったのかも知れない」
「……」
黙って傾聴している敦をチラリと見やって父親は続けた。
「彼女に聞いたかと思うが、彼女の母親……私の元妻は彼女を理解仕切れずに段々とおかしくなっていった。その帳尻を合わせるように、息子の方を溺愛……いや、依存するようになっていった」
「それで、レアさんの弟さんはどうしたのです?」
「息子もまた聡明だった。自身が母親に求められ、母親は娘を厭うようになると。それを機敏に感じ取り、息子は段々とレアを避けるようになったのだよ」
いや、と父親は一度首を振り続けた。
「私がそう思いたいだけかも知れない。もしかしたら、単に息子は……ただ、自分を愛する母親を苦しませる姉……レアが悪者だと思って嫌うようになったのかも知れない」
くしゃり、と父親は顔を歪めた。
「それは、あまりに……レアが可哀想だ。レアは間違いなく弟だけは愛していたんだ。その弟に疎まれたのなら、レアは……」
敦もまた、その痛みに同調して胸を押さえた。
「悲しそうだったんだ。レアのあんな姿はあれきりだった。いつも通りに接しようとするレアを、息子は無視してばかりだった。その度にに浮かべるレアの顔が忘れられない」
声を震わせながら父親はそれを言った。
「そして私の元妻は、息子を連れて出て行った。それきりだよ。レアはそれきり弟とは連絡すら取れていない」
「実は、少し違和感を覚えた事があります……」
一息に語った父親に、敦はそう切り出した。
「レアさんから話を聞いた時。レアさんは自身の母親に悪感情を抱いているように感じました。それは自分を捨てたような母親に対してはおかしくはないです」
でも、と敦は続けた。
「高々自身を見切り、捨てた程度の事をあの人が根に持つか?と」
そう、普通の人間なら親に疎んじられ、切り捨てられたとなれば、深く傷つくだろう。
だが、少し考えてらしくないと思った。高々切り捨てられたくらいの事をレアさんが恨むか?と。
あの人な深淵にいる。彼岸にいる人だ。そんな当たり前に当てはまらないと思った。
「君もそう思うかね……実は私も今思うと母親が出て行った事自体は、レアは本当にどうでもいいと思ってたのかも知れないと。ただ、レアにとって深刻だったのは弟を母親が引き連れて出て行ってしまった事だったのだ、と」
あぁ、やはりそうだったか。と敦は思った。
「レアは……可哀想だ。元妻は全くこちらとは関わろうとはしない。結果レアはあんなに好きだった弟とそれ以来連絡も取れていない……それどころか今どうしているかすら父親である私すら分からないんだ」
溜息を長く吐き父親は告げた。
「私は……もしかしたらレアは君に弟を見ているのではないか、とそう思った。君自身は今の私の話を聞いてどう思ったかな」
レアが、敦に弟を見ていて敦自身を見ていたなら……敦は瞑目して少し考えて言った。
「それは、分かりませんね。俺には分かりません」
それに父親も深く頷いた。
「そうだ。私も同じだ。分からないんだ。もしかしたらレアは君など見てなくて、君を通して弟を思っているのかも知れない。あるいはとうに弟を忘れてただ一心に君を思っているのかも知れない」
そう言って空を仰いだ。
「……そうだ、分からないんだ。だけど、分からないと、分からない事を、理解出来ないと言う事を認める事が、娘を理解してあげる唯一の方法だと、今はそう思える」
いみじくもソクラテスは言った。ただ、考えた末に、自分が何も知らない事を、何も理解出来ない事に気付く事。それが無知の知だと。知らないと知る事において世人より遥かに進んでいるのだと。
人は愚かしくも、愛する者、近しい者の事は自分が一番よく知っていると思い込む。そしてそれは多くの場合思い込みだ。むしろ他人、対して関係の深くない程度の方が正しくその人を捉えているものだ。
そんな事をする人じゃない……!こんな人だとは思わなかった……!良く溢れるありきたりな、愚にもつかない戯言だ。
愛するなら……愛するなら何故相手の事など分からないと認める事が出来ないのだろう。
「俺は……分からない、あるがままのあの人をこそ、あるがままに愛したいのです。そうでありたい」
それを聞いてふ、と父親は何処か寂しげで、だが安心したような笑みを浮かべた。
「……話は少し戻るんだが、レアの母親と弟は揃って出て行ってしまった後は彼女はより内にこもるようになった。元々自分で考えているのが好きな子だったからね。今より遥かに無口で、他人には弟くらいにしか構わなかったから弟も居なくなってしまうと自然とそうなった」
「その後、レアさんは?」
「そうだね……そのすぐ後くらいだったろうか。レアは一時期体調を崩していた事があってね、心配したし、あの頃の事は印象に残っている」
「病気ですか?」
「それがよくわからないんだ。どうも慢性的な吐き気や不調があったようなんだが、彼女は自分の事を訴えないから気付くのが少し遅れた。だけどその頃は殆ど食事も取れなくなってしまってね」
「病院には?」
「勿論行った。もっとも彼女は昔から病院嫌いで、嫌がったがね。でも少し様子見してもよくなる気配がないから半ば強引に連れて行ったけど、原因がよくわからなかったんだよ。彼女は医師にも殆ど語らないから私が色々話した。それで最近母親と弟が出て行ったという経緯から精神的なものではないかと言われた」
「それで、心療内科へも連れて行ったのだがね……彼女はただ黙り続けて医者も私も困り果ててしまったよ。何も訴えないのではどう直せばよいのか分からない。結局病院でも改善はせず、彼女はあの頃大分やつれて、同年代の子供と比べても明らかに異常な域にまで体重が減ってしまった」
「……その病は結局どうなったのですか?」
「ある時を境に回復したんだ。食事もほぼ元通り取れるようになってね、体重も大分戻った。……あれから殆どレアの身体の大きさは変わってないのだが。彼女の成長が止まってしまったのはもしかしたら、成長期にそうやって栄養失調になったせいなのかも知れない」
「考えすぎかもしれないがね。あくまで一時期の事だったから」
確かに、レアの身体はまるで子供だ。敦は思う、その理由は単なる体質なのか、あるいは成長期の問題なのか。レアさんなら……
ーーボクはボクが小さい事を知っていればいいだけで、別にボクが何故小さいかなんてボクが知る必要はないよ。
驚いた。あの人なら間違いなくこういうだろう。というのを更に突き抜けて、本当に今敦の頭の中でレアの声がした。
なるほど、確かにそんな事どうでもよい。
「彼女が何故あの不調に陥ったのか、医師も言っていたが私はやはり当然母親と弟を失った事の精神的ショックが大きかったのだろうと、私は思っていたのだけれどね……」
そう言って、少し間を開けて父親は敦を伺うように目線を向けた。
「実際の所は分からない……ですが、俺は違うような気がします。それは、あの人らしくない」
ふー、と父親は長く溜息を吐いて言った。
「そうだね……今は私もそんな気がする。きっかけにはなったのかも知れない。ただ、実際はタイミングの問題なのかも知れない。弟も居なくなりそれまで以上に大好きな思索に耽るようになり、そして何かに思い至ったのかも知れない」
「食事を取れなくなる程の不快な、何か。にですか」
「そう、かも知れないね。実際には分からない。推測としてだ。だけど彼女は回復した、でももしかしたら彼女はその時囚われたそれを考え続けているのかも知れない……全て推測だ」
ふ、ともう一つ父親は息を吐き言った。
「もしかしたら君にならレアは話す時が来るかも知れないな。私では無理だったが」
「俺も気になります。まぁ、話してくれるかは分かりませんが」
「君は先刻、結婚の挨拶にも来なかった非礼を詫びたね」
「え、はい」
突然に、レアの父親は話を変えた。痛いところでも合った為に流石に面くらいながら敦は肯首した。
「確かに普通に考えれば、無礼で非常識だろうな……一人娘を任せる相手なのに挨拶にも来なかった」
だけれど。と父親は続けた。
「だが、そんな君を責める資格が私にあるわけもない。私はずっと彼女を恐れて放っておいたのだ。こんな時にだけまともに父親振る資格などあるわけもないし、するつもりもない」
「……」
「実は先程レアと会ったとき。試す意味合いで、少しその非礼で君を詰る。という事も考えたのだよ。出来なかったのだけれどね」
「何故出来なかったのですか?」
「私は分かっているが、弟に対してがそうであるように彼女の愛する相手に対する愛は、余人のそれとは比べ者にならないのだよ……直感的に、彼女は深く君を愛していると思った、その君にフリだとしても悪意を向ける事は……出来なかった」
「……」
「情け無い話だがね。結局の何処私も娘が怖かったのだよ。どうしようもないな私は」
「だから、やはり君を責めるつもりはそもそもないよ」
「それで、いいのですか?」
「いいんだよ。ただね」
「レアは可哀想だ」
父親のその言葉に、ドクリと敦の胸が高鳴った。
「彼女だって決して望んであぁなったわけではないのだ。どうしようもなかったのだよ。私も、元妻も、あたり前に子供を産んで、当たり前の子供が生まれ、当たり前に育てられると思っていた。馬鹿な、考えだった」
「その結果がこれだ。望んで彼女を生んだ私達はいい、しかし彼女は……だけどね今日レアに会えて良かった」
「何故?」
敦がそう尋ねると、皺の入った顔に穏やかな笑みを浮かべ、父親は言った。
「彼女は、それでも楽しそうだった。あんなに明るいレアは初めてみたよ……君のおかげで、彼女が今を楽しめているのなら感謝こそすれ責めることなどはないよ」
それは私には出来なかった事だからね。と父親は寂しげに笑った。
「それにそれを言うならレアとて君のご両親に挨拶などしていないだろう。いや、するわけがない」
「それは確かに……」
敦もつい先日養父が鬼籍に入ったが養母は健在である。しかし、別にレアに挨拶に来てくれなど要請などしていない。頼んだ所で今しがた父親が言い切った通り生粋の無精者のレアが来るわけもないだろう。あの人ならあーちゃんの養母なんてボクは興味もないし、関係もない。と言いそうだと敦は思った。
まぁ、そんな事頼むつもりも意味も敦にはないのだが。
「だから君にはレアを、いや……」
宜しく頼む。そんなありきたりの言葉が続くのだったかも知れないが、しかし父親は口を噤む。あまりにもそぐわないと思ったのかも知れない。今更真っ当に父親らしい言葉をかける事にか、あるいはレアという女性の事を男に頼むという事にか、その両方か。
「……君も薄々感じているかも知れないがレアは恐ろしい所がある。彼女に浅からず関わった人は少なからず狂わされた」
でも、と父親は続けた。
「例え君がレアと共に真っ当には生きられないように狂ってしまっても。その狂気の涯にも幸福はあるのだと、私は願っているよ」
レアの父親は去っていった。敦に娘を頼むとも、また会おうとも言う事もなく。歩いていくその背中を敦は立ち尽くしたまま見送っていた。
一人の親なのに、なんて、小さくて寂しげな背中をした人なのだろうか。レアは言っていた。人は一人でしか生きられない。彼女は寂しさという感情を理解出来ない。なるほど、あの父親はレアを思っている。だけれども根本的に分かり合えないのかも知れない。そう敦は思った。
そしてこうも思った。彼はレアにまた来てもいいかと聞いていた。だが、もしかしたらもうここに来る事はないのかも知れないとーー
………
……
…
ある日の深夜。野々村レアは一人、ノートの開かれた机の前に座って書見をしていた。
夜行性の彼女の性質上、基本的に万年カーテンの引かれた部屋の照明の光量はやや薄暗いくらい。深夜故に外からも同じアパートの建物ナからも音一つしない静寂。薄く漂う青林檎のニュアンスの混じる花の香り。
レアの大好きな豊かな静寂と孤独の世界だ。今日は特にバイトの予定もないので、自由に本を読めるし、いくらでも思索に耽る事ができる。
机の上には愛用の眼鏡が置かれている。一応手元の字くらいは見えるから本を読むなら眼鏡は必要としなかった。
とはいえ、レアは細かいモノを見る必要がない時は裸眼でいる事もまた多かった。
彼女の眼は近視に乱視混じりで、その弱視は決して低度ではない。正直眼鏡なしでは日常生活に支障を来たす。普通の人なら常にコンタクトか眼鏡をしているだろう。
だが、彼女にはかえってその弱視は好都合であったのだ。レアには兎角見たくも無いものが多すぎる。だから眼鏡を外してれば良い。
口元にあるかなしかの笑みを浮かべて本のページを捲っていたレアがふと、動きを止めて顔を上げた。振り返る。
部屋の隅に、気配があった。別に何もない、何の音もしなければ、何も見えず、何の匂いもなく、如何に人より高い感受性を持ったレアからしても、そこには何もないと分かる。
だが、相反するように、レアはどうしてもそこに何もない何かが在る事を感じてしまう。そういう気配がある。そこにあるのだ、確かに。
ゾワゾワしたものを感じ取る、部屋の隅から存在の気配とでもいうものが伸びてくる。睨まれている。レアは動けない。
あ、まずい。と思った時には来た。胸に疼き。ムカつき、不快感が来る。レアは椅子に座ってまま前がかりになった。嫌に普段は静かなまま一定のリズムを刻んでいる心臓が嫌に高鳴り、その上から胸に手を添えきゅっと押さえた。
「っつ」
かたり、と音を立てて立ち上がる。はっ、はー、と呼吸が乱れる。それに合わせて精神も乱れていく。気持ちが悪い、不快だ。
曲がりなりにもレアは兵法者だ。本人は決して認めようとはしないが。しかし、始めてたかが数年という程度のキャリアではないし、技量も低いレベルでは決してない。普段なら、武術的な心身を律する術として呼吸法で精神に働きかけて、激情を納め冷静にーーもっとも彼女は激情とは縁遠いからそういう使い方をした事はないーーなったり。逆に精神を昂揚させて身体のパフォーマンスを上げたりなど出来る。
だが、このこれ。存在の気配に睨まれた時はどうしても呼吸を整えられずに、動揺を抑えられない。胸の不快感が邪魔をする。全く、自分はなんて未熟者だと心底思う。
落ち着こうとキッチンに向かい、震える手でコップに水を注ぐ。
「粗茶だけど、ね」
強がるように、誰も聞いていない諧謔を口にして水を飲む。一口の生温い水を嚥下すると、食道を伝って、胃に落ちて滞留する。その感覚がありありと感じられて、……不快だった。
コ、とコップを置き、部屋に戻りベッドに身体を横たえる。先程の一口の水が胃の中で転がるのが分かり不快だ。
いつもこの時、心身とも思うようになってはくれないのに妙に身体感覚が過敏になる。どくり、どくり、と心臓がポンピングするのを感じる。身体中の血管内の血がそれに合わせて流れるのを感じる。筋肉の繊維が緊張し弛緩するのを明確に感じる。
それがどうしようもなく疼き、どうしようもなく不快で、横たえたままじっとしていられなくてレアは身体を起こす。普段は、植物のように静かで動きのない彼女だが、満身で感じる不快感を紛らわす為にゆら、ゆら、と上体が動く。彼女は心身が文字通り動揺していた。
この不快。レアはこれをこう思う。これは自分が野々村レアとして生まれ落ちた瞬間に感じた原初の不快なのだろう。
キルケゴールが謳った死に至る病とはこれの事だったのかも知れない。いつかレアは敦に言ったが、決して死に至れない病でもあるのだが。
これは、何か。何とも言えない、存在としか言えない何か、が『野々村レア』をやっている事の自覚。その不可解をどこまでも、なめかましいまでに感じてしまう故に不快なのだろう。何故、『これ』がこの『人間』をやっているのかという疑問。
それが、堪らなく、不快だ。
さっき、レアは気配を感じた。そしてレアを睨んだのは多分他でもないレア自身なのだ。
夜にたまに訪れるこの不快をレアは一人噛み締める。疼く胸、不快感を抱きながら、立ち上がり、その場にしゃがみ込み、椅子に座り、ベッドに横たわり、上体を起こす。普段の落ち着きと動きの少なさと打って変わって、多動的だ。疼きと不快でじっとしていられないのだろう。
段々と、レアはベッドの上で座って胸を押さえている時間が長くなってくる。こうして不快を噛み締める。この不快こそが存在の証明。どうしようもなく、どうしても自分が在ってしまった。その事を実感させる。何故、何もないのではなく、何かがあるのか。
それはただ、その事を想う。それにおいてそれが在る。
ーーいい変えるならば、cogito, ergo sum
そうして、レアはいつしかベッドに大の字になっていた。不快は薄れ、呼吸もゆっくりと整ってきた。
彼女は、疲れたような表情で漠とした眼のままベッドサイドの本を取って開いた。
彼女のベッドサイドには二冊の薄めの本が置かれている。これはいつもの書見の時とは別に、普段寝る前に少しずつ読む日課となっている本だ。言わば座右の書。いや、ベッドに置いてあるから寝右の書と言うべきか。
毎朝寝る前に少しずつといってももう数え切れない程繰り返し繰り返し読んできたからそれこそレアはこの二冊は内容を誦じる事が出来る。
それでも何度でも繰り返すのは習慣なのだろう。今こうして手に取り、分かりきった文面をなぞっていくのは二冊の片割れ。ーーカミュ著『異邦人』
「今日、ママンが死んだ」
レアは全く抑揚のない声で、極めて有名な冒頭の一節を口にした。パラ、パラ、と読み飛ばしながら、ページを捲っていく。
「星々とに満ちた夜を前にして、私は初めて、世界の優しい無関心に心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った」
そうして今度は逆に物語の末尾の一説を噛み締めるように口にした。最後の方は大きく息をつくように。そしてパタリと本を閉じて元通りベッドサイドに置いた。
レアは瞼を腕で覆うようにして、ゆっくりと溜息をついた。少し苦しげだった口元には普段の穏やかさが戻っていた。不快は完全に去っていた。大の字になったまま呼吸法で改めて心身を整える。
復調したレアは、ベッドから起き上がり机の上に開かれたままの読み止しの本を取った。椅子には着かず、またベッドに戻るとべたっとうつ伏せになりリラックスした様子でまた読書を始めた。
そうして、暫く書を楽しんでいたが、ふと集中が切れ何気なく時計に目をやるともう夜が明けそうだった。
食事の時間かな。
そう思って、レアは本に栞を挟んで閉じる。立ち上がりキッチンに向かう。
あまり食器等、物の少ないキッチンだが棚には急須が置かれていた。
先日食事を共にした時、敦がお茶を淹れてくれたが、その味にレアが喜んだ事で敦が茶器一式と茶葉をくれたのだった。
それでレアも淹れ方を調べて自分で淹れてみたが、悪くはないものの、敦が淹れたモノ程美味くはなく。二、三回試して結局自分で淹れるのは辞めてしまった。結局敦が淹れた方が美味しいから、敦が訪問してきた時にたまにおねだりして淹れてもらっている。
冷蔵庫を開く。食材の類は殆ど無く、基本的にすぐ食べられる食料が少し入っている。適当に買い置きのコンビニのサンドイッチに、もう一品兼飲み物として缶入りリキッドタイプのカロリーメイトを取り出す。
椅子に座ってカロリーメイトの缶を開けて一口飲み、サンドイッチの包みを開けてもそもそと食べだす。
全く食に無頓着極まりない食事だが、レアも一応普通の人間らしいところもある。彼女も美味しいものは好きだ。敦のくれる野菜料理は大好きである。誰だって快は好むし、苦痛は嫌う。
とはいえ、美味しいものが食べたいからと言って、わざわざ自分で作ったり何処かに食べに外食に行くほどではない。面倒くさいし、労力を払ってまで美味を追求するほどの拘りはレアにはないのだ。そもそもサンドイッチとカロリーメイトでも充分に美味しいし彼女は食事を楽しんでいた。
レアからすれば、お腹も空くしちゃんとモノが食べられる心身を持ち。食べる食料にも困らない。この二つ以上何を望むというのか。どちらかも手に入らない人もいるというのに。
そうしてサンドイッチを食べて、カロリーメイトを飲み干して食事を終えると後片付けをする。空が大分明るくなってきた。
少し呑むか、と思いレアは台所から一升瓶を引っ張り出した。
レアは自身の事を嗜好品の類いはあまりやらないし、拘りもなければ、趣味らしい趣味もなく我ながらつまらない人間だと自負しているが唯一酒は好んで嗜む。主には日本酒だ。
彼女が好きなとある銘柄の純米酒か、純米吟醸酒のどちらかを気分で飲むがその日は吟醸酒にした。
レアは小皿に塩を小さく盛り、グラスを取り机の上に置いて椅子に座る。キュポンと一升瓶の栓を開けてグラスに冷やのまま酒を注ぐ。
グラスを揺らし、まず香りを立てる。メロンに似た果物のような華やかな吟醸香が鼻をくすぐる。一口呷ると、甘く濃厚な口当たりに、良く磨かれた米の旨味が広がり、フルーティな吟醸香な鼻に抜ける。
ほぉ、とレアはうっとりと息をつく。やはり旨い。良い酒だ。
小皿からほんの僅かに塩をつまみ、ペロっと舌先で舐めた。少し含みのある塩辛い味。ただの塩ではなく所謂旨味調味料を加えてある食塩だ。
そうして、まだ口の中に塩気の残っている所に酒を含む。すると塩味が酒の甘さを引き立てるとともに、旨味調味料の旨味と米の旨味が相乗効果となり、まるで昆布や鰹などで丁寧にとった上等な出汁のような素晴らしい旨味が何倍にも口の中で広がる。
「くぅー」
思わず小さく声を出してしまう。旨い。これは堪らない。外見上は幼い女の子のように見えるレアが、塩を肴に酒を呑んでいる姿は側からみたら中々にシュールだ。もっとも別に誰も見てはいないのだから良いが。
ゆっくりと旨い酒を呑んでいると段々頭に酒精が回ってくる。そうして、レアは酒を楽しみながら、酔い初めた頭で思索の宇宙へと一人飛び出していく。
つらつらと存在の疑問と謎について考える。考えれば考える程分からない事が分かる。しかし、同時に何かを自分は理解している。本質に近いところを直感する。
その直感する謎を論理化しようと頭を回す。こうして、存在の謎に深く思い巡らす時、レアは確かに舌に甘味を感じる。酒の甘みではない。蜜のような甘みだ。
あぁ、美味しい。この世にこんな美味しい事はない。ただ、これだけでもうレアは満たされていた。こんなにも自分はもう幸福だったのだから。
朝日が登り、外では鴉が鳴いていた。
ーーねぇ、君たちは人々を目覚めさせるのではなく、本当は夢に誘っているのではないかい?
そんな事を思い。ただ、レアは満ち足りた顔で幸せそうに暫し酒を呑み。その日は寝た。
………
……
…
その日、淳は買い出しから帰ってきた所だった。
もう日も暮れた時間。カンカンとアパートの階段を登る。鍵を出ながら歩き、自分の部屋の前に立つとドアを開錠して開き、玄関へと入り帰宅した。
ばたり、とドアを閉めて、内側から鍵を掛ける。そうして、ふー、と一つ息を吐きながら買い物袋を片手に部屋の中に入る。
そこに、あり得ないものが居た。
「お帰りー、あーちゃん」
「うわぁぁぁぁっ!」
「ゆぁっ!」
何故か、帰ってきた所の自分の部屋の真ん中にレアがさも当たり前のように居て敦を迎えた。誰もいない筈の部屋で出迎えの挨拶に合い、敦は驚きのあまり叫びながら飛び退く。敦の驚きように驚かせたレア自身も驚いて妙な声と共に飛び上がった。
「な、なん?何で?部屋に?」
おかしい。留守中にレアさんが上がり込んだのか?いや、おかしい。鍵はちゃんとかかってたぞ?ならどうして中にいるんだ?すり抜けた?驚きすぎて敦の頭の中は支離滅裂だった。
「ご、ごめん。驚かせたね。落ち着いてあーちゃん」
「え、あの。どう」
「これ見て」
まだ混乱したままの敦が言いかけた瞬間にピッとレアは人差し指の先を突き出して強く言った。反射的に敦はその指先を見る。
レアはその右手人差し指をすー、と下ろし中に何か包むように軽く右手を握るとゆらゆらと一定の拍子で上下させる。そしてゆっくり下ろした所でふわっと手を開いた。
「はい。落ち着いた?」
「え?はい」
落ち着いていた。何か至って平常心に戻っていた。さて、落ち着いた所で改めて敦が思ったのは、やはりどうやってこの人は部屋に入ったのだろう。という事だった。ついでにもう一つ、そもそもレアから敦の部屋に訪ねてきた事自体一度もないのに何故?
「えー、と。どうやってこの部屋に入ったんですか?」
「今さっき、あーちゃんと一緒に入ったんだよ」
レアは笑顔で答えた。
「は?」
「あーちゃん帰って来て、鍵とドア開けた時一緒に入ったんだよ」
事実である。実はアパートに帰って来た敦の死角を潜って一緒にドアを通って先に部屋に入っただけでタネも仕掛けもなかった。
「……俺しか居なかった筈ですが」
「ボク存在感ないからねぇ。眼に入らないと気付けないでしょう?」
タネも仕掛けもないが、普通に考えてそんな事気付かずに出来る筈もない。
「忍者か何かですか?」
「外物には忍術の教えもあるよ」
「え?」
「いや、何でもないよ」
ふ、と一つ笑ってレアは続けた。
「ごめんね。ちょっと驚かせたかったんだけど、勝手に入っちゃったのは良くないね」
「いや、別に構わないですよ。滅茶苦茶びっくりしたので今度は俺にも分かるように入ってくれるとありがたいですけど」
「そーするよ。次からはね」
ぱっ、とレアは笑って言った。驚かせたかったというのが上手くいってそれは満足したのかも知れない。だから、二度同じ事はしないだろう。レアは自己中心的でありながら他人の嫌がる事はしない。そういう立ち位置なのだ。
もっとも、レアは本来全く他人に拘うタイプではないので、本来他人に好かれるも嫌がられるもないのだ。そんな人物がこんな事してくる事が異常か。
「まぁ、ちょっと待って下さい。お茶淹れますから」
「本見ていいー?」
「構いませんよ」
答えつつ、敦は台所の冷蔵庫に買い物の食材を入れる。それを終えると急須を使い緑茶を淹れて部屋に戻る。レアは卓の前の座布団に座って、敦の本棚の蔵書を一冊抜いて読んでいた。
「どーぞ、粗茶ですが」
「ありがとー」
敦はいつもやられている粗茶返しをする。もちろんレアの水道水とは違いそれなりに良い葉で良く淹れた茶だ。皮肉に取られかねないが、まぁこのくらいの冗句は通じる。
レアは、くっ、と一口飲みほぅ、と息をつく。
「あーちゃんの淹れるお茶はやっぱり美味しいねぇ」
「恐縮です」
そう言いながら敦は椅子に座る。しかし、用事なく全く外に出ないレアが自分の部屋に居るというのは敦にとってもどうにも違和感だ。別に直ぐ隣なのだからおかしくないと言えばそうなのだが、普段敦の方が訪ねる立場でまさかレアの方から訪ねてくるなんて事があるとは思わなかったから尚更。
ふと、レアの手元の本を見る。自分の蔵書から何に興味を示したのだろうかと気になった。そして読んでいるタイトルを見て感嘆した。
「流石レアさん。お目が高いですね」
「ん、これ?」
レアは目を落としていた本を軽く掲げる。タイトルは、T.レビット著のマーケティング発想法。
「ん……マーケティング近視眼について概念は知っているし、実際の記述を一度は読んでおきたくてね」
「レビットのマーケティングマイオピア(近視眼)の論文は、この分野においては20世紀に出た数多の論文の中でも白眉のものですから確かに一度読んでおいて損はないです」
その語り口は敦にしては珍しくやや熱がこもっていた。なんだかんだで彼も学問好きなのだろう。
「それにその本もマーケティングを学ぶなら是非読むべきです。俺の大学のマーケティングを教える教授がいるのですが、その方はマーケティング関連の文献だけで一万冊を読んでいるそうですが、曰くその中から最高の一冊は何かと聞かれたなら、まさにそれだそうです」
「ふーん。一万冊の中の一冊か。そう言われると通して読んでみたいなぁ」
「お貸ししますよ」
「いや、自分で買って読むよ。一万冊の一冊ならボクも是非欲しいから」
そう言いながらあえて今は読まないという風にパタリと本を閉じた。
「それは絶版なので、割と高価なんですよ。俺も思い切りましたし」
「いや、それならば尚更ボクの蔵書にしたい。お金が幾らかかってもね」
そう言った後、ハッとして、レアはお茶を飲んで苦い笑いを浮かべた。
「やっぱりボクは駄目だなぁ」
「何がです?」
「こうして……この本が欲しいと思う。あーちゃんに足る事を知る事なんて以前言ったけど。やっぱりボクも欲しいんだなぁ」
「……」
「ボクの先生は言ったよ。執着なんてそうそう捨て切れないって。だってそうだろう?執着や欲求はやっぱり人間捨てられない」
「何も欲求しなければ……」
「それは最早生き物じゃないんだろうね」
クスクスと笑ってレアは言った。
「人は、生きてる限り欲求する。分かりやすく言えば人は死ぬまでは食べる。それが欲だ」
「ボクは……欲まみれだよ。この本をボクの蔵書にしたいし、ただ怠惰に寝るのが好きだ。美味しいものを食べるのも好きだし、こうしてあーちゃんとお話するのも大好きだ」
自分と話のが大好きとまで言われ敦は顔を紅潮させる。だって、だってだ。
「欲まみれ……ではレアさんは誰かから10億のお金が貰えるとして欲しいですか?」
「要らない」
全くどうでも良さそうにレアは答えた。
「大企業の名経営者として社会的地位を得るのは」
「嫌だ」
吐き捨てた。
「芸能界で誰も意見出来ないほどの大御所になるのは」
「なにそれ?」
ふっ、と笑いレアは言った。
「やはりレアさんは何も要らないのでは?」
このように何の価値も求めぬ人に、自分が価値を見出して貰えるなんて、それは幸福な事ではないか。そう敦は思った。
ふふふ、とレアは笑った。
「違うんだよ。あーちゃん、それは違う」
「違う、とは?」
レアは茶を一口啜って答えた。
「あーちゃんはボクを足る事を知っている。まるで悟りきった賢人か何かと勘違いしているのかも知れないね」
「ならば言うと、ボクは悟りどころか、俗だ、それはもう俗だ、ボク程の俗物はそうは居ないだろうね」
敦も自分の茶を啜りながら、問い返す。
「大して欲しないのに俗物ですか?」
「そう、そりゃもう俗物だよ。だってさ、大抵の俗物は金だとか地位だとか名声だとかを欲しがるよね」
ふむ、と考え俗物とはそういう印象だと敦は頷いて答える。
「でも、逆に言えばそういう俗物は、とんでもない資産とか、名声だとかで自分の価値を証明してある程度満足出来るんだよ。自分は下賤な者とは違う、と」
「ではレアさんは?」
「もっと救いようのない俗物なんだよ。ボクは」
クスクスと笑うレア。それは自嘲か。
「ボクは……結局の所、何億、何兆、何京あっても満足出来ない。世界中の要人、大物を支配してもつまらない。そんなものはまるでくだらない」
「つまりね、ボクは何を持っても満足できなくて、もっと美味しいものがあるはずだとすべ全てを投げ出しただけだよ。金も、人も、地位も、全て足りない、満ち足りないと全て捨てた。そんな俗物が他に居るわけないじゃないか!」
「ははは、つまりレアさんはお金を何兆持っても、国のトップに立っても満足出来ませんか」
「出来る訳ないじゃない。そんな程度」
笑うレアと敦。
「
そういって、レアは哄笑した。さも楽しそうに。
あぁ、と敦は思う。確かにこの人は普通のこの世の人の価値観ではまったく満足出来ない人なのだろうな、と。
「そうですね、レアさんはそんなものじゃ足りない。求めるのは」
「愛なのでしょう」
その瞬間、レアの動きが止まった。そして、クスリと笑った。
「そうだね。本物の愛こそを僕は求める」
「……ひとつ聞いていいですか?」
「いいよ」
茶を一口含み、レアは答えた。
「レアさんは俺の事、実は愛してます?」
口の中で茶を転がし風味を楽しんでこくりと飲み下して。レアはん〜、と考えた。
「それ以前にボクはね。愛しているという言葉を軽々しく口にするのは好きではないんだ。本当に相手を、真に愛するなら決してそんな事は簡単に口に出来なくなる。言葉は使えば使う程に自ら価値を下げてしまうから。だからボクは愛していると簡単に口にする人の愛は全く信用していない」
「……なるほど。口にすればする程愛を安っぽくしてしまう、ですか」
最もらしさは感じる意見だ。敦はそう思った。ならば敦が続けて聞きたいのは。
「では、レアさんの真の愛とは?」
「……ボクもあーちゃんも他の誰もが、生きている限り絶対的に孤独だという話は前にしたよね」
「人は自分の生しか生きられず、自分の死しか死ねない。でしたね」
こっくりと緩い笑みを浮かべて頷いてレアは続けた。
「そうだね。だからボクは誰かと共に生きようと他人と連む人々は理解出来ない。他人の生を生きることは出来ず、他人の死を肩代わりも出来ないから、誰かと生きるなんて大前提からして不可能なんだ」
ふむ、と敦は頷く。確かに以前も聞いた論調だ。
「だけど」
そこでレアは一つ前置いた。
「逆説になるけど。そういう生き方、絶対的孤独の自覚。それのみが他者と共に生きる事を可能とする唯一の方法なんだよ」
正直どういう事か分からず、敢えて敦は口は挟まずに、もっとよく聞こうと茶を一口飲みつつ眼で先を促す。
「……そうだね。少し回り道をして、カントの物自体の話からしようか」
「物自体ですか。聞いた事はありますが……」
有名な概念だが、敦はカントは読んだ事はないので詳細は分からなかった。
「まあ、実際プラトンのイデアの系譜と言えるものだよ。イデアが空想的なら物自体は現実的なだけで、実際は指しているものは一緒なんだ。空想、現実的というのも単に受ける印象の問題なだけなんだけどね」
「では物自体が指すのものというのは?」
敦はレアの逸れかけた話を本筋に戻すように、肝心な事を聞く。敦はこれまでの付き合いでレアの話し方は極めて取り留めなくあっちこっちに飛びながら中々本筋が進まない事が多々あると理解し始めていた。学際的な性癖のせいもあるのだろうが、論理的なのに案外そういう体型的に話をしない所は女性らしい印象だ。
「物自体はつまり、ここに湯呑みがあるよね」
レアは敦が淹れたお茶の湯呑みを指先で軽く叩きつつ言った。
「はい」
「じゃあ、あーちゃんはこの湯呑みそのまま、それ自体を捉えられているのかな?」
「えっ、と」
「もうちょっと分かりやすく言うと。今あーちゃんの目の前にいる、野々村レアという人間をあーちゃんは捉えられているかい?」
「あぁ、なるほど」
そう言われると何を言われているのかと納得する。そんな事捉えられない。レアという存在は敦にとって謎そのものだからだ。
「人間ってブラックボックスだと理解しやすいよね。そう、自分は自分でしかない以上、誰かを理解するなんて無理なんだ。だってその人は他人であって自分じゃない。それがなんなのかは分からない」
「最もですね」
敦は頷く。他人というものが全く分からないというのは敦も実感する所だからだ。レアや敦のような外れ者は特に他人の分からなさがよく分かるのではないだろうか。
「まぁ、普通の人?程、愛する身内の事を自分は良く理解しているって考えがちだけどね」
クスクスと何処かシニカルな笑みを浮かべてレアは続けた。
「ちなみに実際ある心理学の実験であったそうなんだけど、ある人物の家族なんかの近しい身内の群と、ただの知人の群。その二つにその人物のパーソナリティをどっちがより適切に理解しているかというテストでは、あの人の事はよく知っている。と自信満々に答えた身内群の答えは的外れで、客観的に見てる知人群の答えの方が遥かに正確だったって結果になったそうだよ」
嬉々としてレアはそんな事を言った。皮肉屋なのは分かっているが、人間嫌いなのか人間好きなのか、よく分からない人だと敦は思った。
「まぁ、話を戻すと物自体は、近代哲学の祖と言えるデカルト的二元論に連なる代表的概念と言えるだろうね。つまりは主観と客観。物自体は単純に言えば客観という事だね」
「自分は自分以外は生きられず、主観としてしか湯呑みを見ることは出来ないから。ですか」
ず、とその湯呑みから茶を啜りレアはクスリと笑って頷いた。
「そうだね。それにその主観も人の数だけある。この湯呑みは今あーちゃんとボクが同じ物を見ているけど、あーちゃんから見た湯呑みとボクが見てる湯呑みが同じ様に見えているとは限らない。いや、むしろ絶対に違う見え方をしている」
「少なくとも主観である以上、レアさんと答え合わせは出来ないですからね」
自分の主観そのものを他人に出力する事は不可能な以上当然である。
「いや、そんな事はない。湯呑みは誰が見ても同じ湯呑みだーーと思う人も居るかも知れないけれど。ならばもっと分かりやすく言えば、犬がこの湯呑みを見たら?蛇はこの湯呑みをどのように観測している?蝶はどう知覚している?」
む、と敦はつまる。それを言ったらもう。
「そもそもそういう風に生き物が違えば根本的に世界の認識のルール自体が違うんだ。湯呑みはボクらには想像も出来ない見え方をしている筈だ。ならば、どれが正解なんだろう?僕が見ている湯呑みか、あーちゃんが見ているものか、犬か、蛇か、はたまた蝶か?一体誰が湯呑みを正しく認識しているのかな?」
「……正解など無い?」
「そう。ボクらが湯呑みを見たところでそれは湯呑みそれその物を認識する事は出来ない。客観としての湯呑みは誰も知ることはそれこそ神様じゃないと知ることは出来ない。故にカントは物自体を知ることは出来ないと言ったんだよ」
「なるほど」
実にもっともらしい話で腹に落ちると敦は感じた。つまりは人は客観は知り得ないという訳だ。
「だけど、だ。デカルトに端を発する近代哲学が積み上げてきたものを一気に突き崩して近代哲学を終わらせた巨人が出た。それがヘーゲルだ」
「そしてカントが物自体を知る事は出来ないと言ったのに対して、ヘーゲルは物自体を知る事は簡単だと言ったんだ」
「……真逆ですね。しかし、ヘーゲルは如何にして知る事が出来ると言ったのでしょう」
主観に立つ人間は客観的な観測は出来ない。その論法をどう破るというのかと敦は首を傾げる。
「まぁ、言ってしまえば案外簡単なものだよ。ヘーゲルといえば極めて有名なのは弁証法だ。これは矛盾命題を対立させて、より高次の命題へ止揚する。というものだ」
「といいますと?」
「えーとね。まず一つの命題があるよね、これが正(テーゼ)。そしてそれと対立する反対命題がある、これが反(アンチテーゼ)。この対立から高次の統一命題、これを合(ジンテーゼ)を生み出すというのが概要だね」
「なんだかディベートみたいですね」
「流石あーちゃん。それもまた弁証法だよ。特にヘーゲル以前のプラトンの対話篇における弁証法なんかはまんまディベートと言えるしね」
ふむ。と敦は茶を啜る。そう言われると分かりやすい。ディベートでは対立する立場の人間に分かれて議論する。しかし勘違いされがちだがディベートは対立する意見を潰してやり込め自分の立場を無理矢理通す、いわゆる論破が目的ではない。それはなにも生み出さず非生産的とされる。つまりはそう言う事だろう。
「一応、例を挙げると、ボクが夕飯に猛烈にトンカツが食べたくなったとする。しかし、昨日作ったカレーが残っていてこれを夕飯に食べないとカレーが無駄になってしまう。この二つは対立しているけど、ならば……」
「夕飯はカツカレーにすれば良い。という訳ですか」
「その通り!」
敦の出した答えにパチ、と指を鳴らしてレアは言った。
「そもそも実際カツカレーというもの自体いつかの何処かにあった洋食屋さんの店主が、自分はトンカツも好きだけど、カレーも好きだ。という対立から生み出した物なのかも知れないね」
「まぁ、そんか風にこういう弁証法的理論は現実の問題解決や、あるいは小説、漫画なんかの物語の中でもいくらでも見られるものだね」
「そしてヘーゲル哲学はおおよそ何処を切ってもこの弁証法、正-反-合で構成されていると言ってもいいくらいだ」
なるほど、と敦は頷く。確かに、物語などでは、主人公側とそれと対立する敵役側。どちらも最もな主義主張を持ってぶつかり、そしてどちらが勝つにせよ、その両者の対立からどちらとも違う結末を迎える。というのは多い。それが弁証法的論理なのだろう。
特に敦は、レアもだが。そういう少し捻くれた者にとっては単純に主人公側の善が勝つという勧善懲悪モノの物語は嫌う人もいる中、弁証法的物語は魅力もあるのだろう。
「ですが、その弁証法で物自体が知れる、と?」
「そだね。当然知れるんだ。だって近代的主観と客観の対立というのは典型的矛盾対立じゃないか」
「あっ」
確かにその通り。決して交わらない対立だ。
「ならば、だよ。物自体は客観が主観と差別されているからこそ捉えられない。故に、主観と客観の対立を止揚して、超克するならば当然物自体は容易に捉えられ、超えられていくんだ」
「つまり、対立を超えていくヘーゲルが二元論から始まる近代哲学を終わらせたのは当然の事なんだ」
対立で始まった近代哲学が、それを止揚して終わる。それは道理だった。
「だけど、限界を超えていくヘーゲル哲学はまた次の限界に行き当たる。これがアルファにしてオメガ」
それは以前レアが言っていた事で、敦は覚えていた。線は点と点の間の限界を超えて、面に、面は線と線の限界を超え、立体に。
「そして、ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ。ヘーゲルが終わらせた時、次の時代へと梟は飛び立った」
「そして、今梟は此処にいる。今、此処に。充分に羽休めをして、さぁ、また飛び立とうとする梟がね」
す、とレアが前腕を水平に上げた。その腕にとまった何かが見えるような気がしたのは敦の錯覚か。
「見えました。俺にも梟が」
ただ見えた気がした己の直感をこそ、敦は信じる事にした。
レアはそんな敦を見て、クスリと楽しそうに一つ笑った。
「話を今のを踏まえて物自体以前に戻そうか……つまりね、ボクが言う人の絶対的孤独。どこまで言っても自分しか居ない世界。それを自覚する事それが」
そこでレアは一口茶を飲み間を取った。
「全てだと気付く事なんだよ。己が己自身でしかなく、己しか居ないと言うこと。つまり
「この在り方において、世界は我の内にしかなく、故に我が世界そのものなんだ」
コギトエルゴムスーー近代哲学の祖であるデカルトの第一命題と絡めて、近代を終わらせたヘーゲルを語ったのはまさにレアの皮肉であり、そしてまさにアルファにしてオメガ。
「一にして全、全にして一。つまりはそれがアルファにしてオメガという訳ですね」
言わんとする所は敦にも伝わる。つまりは世界が人を内包するのではなく、人の中に世界がある。逆もまた然り。
「その通り!……だからね、あーちゃん。自分が絶対的孤独に存在している。それすらも分からずに他者を浅ましく求める人々には分からないんだ」
「彼らはどんなに他者や愛を求めても、一と全の壁に阻まれ続けて、その実誰とも触れ合えないんだ。分からない限りは、永遠に」
レアは一つ嘆息した。
「二人が別の事を欲するのは、それぞれ喜びを得ようとする仕方が異なるからではないか。にも関わらず全ての人は、幸福になりたいという点は一致している」
「外へいくな、内へ戻れ。汝の中にこそ神はすみたもう」
「……どちらもアウグスティヌスだ」
「つまり、ボクがボク以外の何者でもない絶対的孤独において、ボクは全てであると気がつく。そういう在り方で初めて人は人を愛せる。つまり真性の愛だ」
そこまで言って、レアは両手の指を合わせてほぅっと息をついた。
「……でもね、人は大抵孤独を許容出来ない」
どこか苦い口調でレアは続けた。
「寂しい。等とのたまい、自分以外の他者に愛を求める。そうして、恋人や妻、夫を得る。それが大抵の人の愛だ」
だけど、とレアは歯噛みする。
「相手に失望を覚えれば、安易に別れて別を探す。あるいは相手が死ねば、別の人を探す。それが普通だ」
レアは両手を広げて差し出し、それをギリと握り込んだ。
「……許せないよ。そんなモノが愛だなんて。だってそうじゃないか、相手によって変わったり、失われたり、移ったりするものが愛な訳がないじゃないか」
「認めない。ボクは認めない。そんなものは悪性の愛だ。そんなものを愛とは認めない。かけがえないから愛なんだ。変えが効かないから愛なんだ。取り返しが付かないから愛するんだ」
その時、敦はレアの眼を見て背筋に冷たいものが走った。彼女の眼に、どこまでも冷たい氷のように燃え盛る焔が確かに灯っていた。
「きっと人が争うのはそんな悪性の愛故なのかも知れない」
「ボクは、ボクとしてある事のみにおいて、あーちゃんを抱きしめられる。そしてあーちゃんは、あーちゃんとしてのみ立つ事によってボク自身なんだ。この愛が分かるかい?」
レアの問いに敦は一つ間を置いて言う。
「つまり俺は俺を愛するようにレアさんを愛する」
「そうだね。そうしてその在り方で人は全てを愛せる。つまりね、アガペーとは究極の自己愛そのものなんだ!」
だから、と。レアは言う。
「言えないんだ。真に愛するなら言葉には出来ない!愛してるなら愛している等の言葉は安くし過ぎてしまう。いや、愛などと言う語彙では真の愛を表すには愛は甘すぎる!」
ならばどうすればいいーーと声なき声が聞こえる。
「……あーちゃんはリア王は読んだ事あるかな?」
「はい」
「……リア王は、王としての富、土地、名声。それらを娘達に与えようと思った。するとリアの娘達は父であるリア王に美辞麗句を弄して愛を伝えた……父の資産目当てで愛なんてないのに」
「……」
リア王ーーシェークスピアの作品の中で、四大悲劇と言われる作品の中でも最高傑作と言われる、最大の悲劇。
「だけど末娘のコーディリアだけは真っ直ぐに父であるリア王を愛していた。だからコーディリアがリア王に自身への愛を問われた時コーディリアは言ったんだ」
「Nothing」
「何も無し。ですね」
「そうだね。彼女は愛を言葉では、いや何をもってしても表せないと知っていたんだ。だからコーディリアはリアを一心に愛していたからこそ何も言えなかった。しかしリアは、そのコーディリアの愛を理解出来ずにコーディリアに失望した」
「そしてリア王は、甘言を弄したコーディリアの二人の姉を優遇して権力や領地を与え……だけどコーディリアは捨てられた」
「その末路はあーちゃんも知っている筈だ」
姉二人はただ権力が欲しかった。適当にリアを煽て、それが手に入ると父であるリアが疎ましくなった。
そして皮肉な事に、コーディリアを冷遇して捨てたリアは、今度はその姉二人に冷遇され追放されてしまう。実の娘二人の仕打ちにリアは狂気にすら陥る。
「美しいコーディリアは、貧しくなってこよなく富み、見捨てられて無上のものに、蔑まれてこよなく愛おしいものとなった」
そして、リアとコーディリアが再会した時、リアはコーディリアの愛を理解して、和解する。しかし、それは余りにも遅すぎたのかも知れない。
「神にとって人間は、腕白な手にある虫けらと同じ。気まぐれに殺される」
敦はその結末を、リア王の作中の引用で答えた。
「……そう、物語の最後、コーディリアも死んでしまい、最愛の娘を失ったリア王は、その亡骸を手に狂い喚き、全てに絶望して自らも後を追うように死ぬ」
シェークスピアの四大悲劇の中でも壮絶な幕切れといえるだろう。四大悲劇の中でも最高傑作と賞賛する声が多い作品だ。シェークスピアの作品の中でもやはり敦も一番印象深かった。
「コーディリアはリアを確かに愛していた。しかし、本物故にそれを証明出来ない。蒙昧なリアは愛ですらない姉達が自分を愛していると勘違いした。こんな事の為に全ての悲劇は起こった」
「リアがコーディリアの愛を少しでも理解したていたのなら……違う結末があったのかも知れませんね」
こくりとレアは頷いた。
「だけどコーディリアは愛していたからこそ、何もない。と言ったんだ。いや、そもそも真性の愛は決して誰かに伝えるものではない。伝わるものでもないし、伝える必要もないのだろうね」
「……」
ーーどうだろうか?ふとそう敦は思った。
コーディリアはリアを愛していた。ならば、ならばだ。仮にコーディリアがその愛を言の葉を使い、伝えようとしたのなら。何もない。ではなく、愛を言葉にしていたなら。
リアとコーディリアはあのような救いのない結末を迎えずに済んだのかも知れないーー
「ただ愛するなら、愛すればいい。浅ましく相手から愛されようと望む事も、傲慢にも自分の愛を理解されようとする事も要らない。それでも強いて言えば」
ぬるっとレアは立ち上がる。唐突ながら認識しにくい独特の身のこなし故に敦はぴくりとも反応出来なかった。
なんだなんだ?と思ってるうちにレアはスルスルと椅子に座る敦の前に立つ。
ふっ、とレアは微笑して敦を包み込むように抱きしめた。小さな体躯のレアは丁度、椅子に座る敦を胸に掻き抱く事が出来た。ふわり、と青リンゴと花のニュアンスの混じるカモミールの匂いがする。
「レアさん?」
「こうするだけでいいと思うんだ。ボクはこれでいい」
満ち足りた表情でレアは敦を抱く手にきゅ、と力を込めた。
「あぁ、それで良かったのかも……知れませんね」
そうだ。レアとコーディリアはあれで良かったのだ。二人の結末は悲劇だったかも知れない。だが、悲劇で何が悪い。
毒にも薬にもならないような話なら、物語にすらならない。リア王という物語は無かっただろう。ただコーディリアはリアを愛していたし、リアもコーディリアを愛していた。ならばあの二人の物語はそれで良かった。
レアはただ、言葉は無く、愛おしげに笑みを浮かべ。優しく敦を抱きしめて、その小さな手で頭を撫でていた。
そのどうしようもなく分け隔たれた相手に、言葉ではなく目一杯の愛を伝えていた。
あぁ、この人の身体は小さいけど、凄く暖かい、な。
ふとこれまでの事を敦は思い出す。懐かしい実母、施設、義父、義母、数々の過去や人。
それでも、こうしている俺は幸せだったのかも知れない。
そう思い、レアの腕の中で敦は静かに目を閉じたーー
………
……
…
その日、いつもレアの訪問受け付け時間になって、敦はここ暫くはレアを放っておいてあまり尋ねずに間を空けがちだったので久々に顔を見に行こうと思いたった。
この前は初めてレアの方から敦の部屋を訪ねてきた、というより侵入してきたなんて事もあったがやはりというかあれ以来あんな事もない。まぁ、レアが気が向いたらまた向こうから来る事もあるのかも知れない。それが明日になるか一年後になるのか、数十年後か、もう二度とないのかは分からないが。
いつもの手土産の温野菜を手にとる。葉野菜や根菜をコンソメで柔らかく煮た野菜たっぷりのスープである。そして部屋を出て隣へ向かう。
レアの部屋のインターホンを鳴らして来訪を告げる。応答はいつも通りない。ここでドアに鍵がかかっていたら今日は来訪を受け付けてないという事で無駄足であるのだが、敦がドアに手を掛けるとあっさり開いた。
「お邪魔します」
敦は挨拶したが、返礼が無かった。おかしいな?と思う。まさか留守で鍵を掛けずに出たのでは?いや、この時間に居なかった事なんて無かったのだが。
「いないんですか?」
色々思いつつ敦は声をかけつつ室内に踏み入る。そこで何故か室内でしゃがみ込んでいるレアを見つけた。
「レアさん?どうしました」
「ん〜、あーちゃん?いらっしゃい」
敦の言葉にレアは蹲ったまま力の無い声を返した。どうやら只事ではないぞと敦は考えてすぐにレアに歩み寄る。
「大丈夫ですか?体調悪いんですか?」
「ん〜、悪くは無いけどくらくらするよー」
「それを体調不良というのです」
ツッコミつつ、いつも以上に顔色の白いレアの額に手を当てる。発熱はない。というか普段は体温が高めの印象なのにむしろ今日はひんやりしている。風邪等ではないのか。
「とりあえずこっちへ」
床でしゃがんだままにさせておくのもなんだと思い、敦はレアを半ば抱えるように手を貸してベッドに運んだ。とさり、と自分のベッドに腰を下ろしたレアはまだ目眩がするのか眉間を押さえている。
「具合はどうです?何か薬もってきましょうか?」
「じゃあ、冷蔵庫の中にあるゼリーのパックを一個……いや、二個取ってきてくれるかな」
「ちょっと待っててください」
敦はキッチンに移動して冷蔵庫を開ける。中は調味料の類いが少し入っているくらいで食材、食料の類いは殆ど入ってなかった。ただパック入りのエネルギー補給目的のゼリー飲料が複数あったので言われた通り二つ取り出しす。引き換えに手にしていた差し入れのスープの入ったタッパーを冷蔵庫に入れた。ついでに水道水をコップに注ぎ、レアの元に戻る。
「これでいいのですか?薬とかは……?」
まだ目眩がするのかベッドに腰掛けたまま眉間を抑えているレアに敦はゼリー飲料を渡す。
「大丈夫。ありがとうねぇ」
レアは礼を言いながらパックのキャップを切り、ちぅとゼリーを吸った。
珍しく体調を崩していると思いきや、カロリー補給を最優先するレアを見て敦は一体何んだと考えて、まさかと口にする。
「レアさん、もしかして……ご飯食べてません?」
「ん」
こくん。とパックを咥えたままレアは頷く。
「それはなんでまた?」
「ん〜」
一パック飲み切って、くしゃりとレアは空のパックを握りつぶす。レアからコップを受け取り水を一口飲みつつ答えた。
「ボクいつも決まった時間にご飯食べてるんだけど。ふと別にボクお腹空いてもいないなって最近気付いたんだよね。そしたら別にお腹減ってもいないのに食べなくてもいいかなって」
「えぇ……」
まさかそんな事で?と敦は思った。
「そしたら食べなくても別にお腹減らなかったんだよね!これはいいなと思って!何せ食事しなければ食費と時間も節約出来るからね」
レアはもう一個のゼリーのパックを開けつつ答えた。
「で、どのくらい食べてなかったのですか」
「多分……一週間か一週間ちょい?あ!あーちゃんが来た時にくれたお野菜は食べたよ!」
「即身仏にでもなる気ですか?」
しかも天然で。食欲も消え絶食して緩やかに死に走るとかこの人は実は馬鹿なのだろうかと敦は思った。確かに数日前に訪ねた時差し入れした覚えはあるが、あれ以外一週間以上何も口にしていないなら完全に飢餓状態であろう。
実際、レアは目眩が酷くなってきて、はてなんだろう?と思い、流石にカロリー枯渇状態で活動し過ぎたと気が付いてゼリー飲料を取りに行こうとした所で立ちくらみで倒れそうになり咄嗟にしゃがみ込んでいたのだ。そこにタイミングよく敦が来たのだった。
レアは手早く二つ目のゼリーを吸い尽くすと、コップの水を飲み干す。やたら規則的な生活してる印象だったが、唐突に断食し出すとは敦にもやはりレアはまだまだ読みきれない。そういえばと敦はレアの父と会った時の話を思い出す。
レアは一時期、原因不明の食欲不振に陥り食事が取れなかった事があると聞いた。まさかとは思うが、多分今回は関係ないだろう。倒れそうになるやゼリーでカロリー補給は出来るのだから。
「何か食べられそうですか?」
「食べられるよ?やっぱりお腹は空いてないけどね」
一応尋ねるが、とりあえず食事を取る事は問題無さそうだ。
「何か作りますよ。台所お借りしてもいいですか」
ゼリー飲料なら吸収も早いだろうし、とりあえずのカロリー補給にはいいだろうがしかし、流石に一週間ほぼ絶食状態の枯渇したエネルギーを補うには足りないだろう。さっき冷蔵庫を見た限りでは多分この部屋にはもう敦が持ち込んだスープ以外に食料もない。
「作ってくれるの?自分で何か買いに行こうと思ってたんだけどな。じゃあお願いするね。ありがとうねぇ」
お任せを。と敦は返す。無駄に遠慮しない辺り、レアも結構敦に甘えるようになってきたのかも知れない。敦としても危なっかしいので自分に任せて貰いたかった。
どうにも……放っておいてあげる必要もあるのに、完全に目を離すのも危なっかしい人だ。そう敦は思った。
とりあえず、一旦自室に帰り食材を取ってきてレアの部屋の台所を借りて調理を始める。
レアは、身体に力が入るかと手をにぎにぎして確かめていた。
なるべく早く済ませようと、出汁を用意すると味付けて、具材を入れて冷凍うどんとともに煮込む。
レアはベッドに寝そべり、のんびりと本を読んでいた。
「出来ましたよ」
敦は器に盛り付けたうどんをトレイに乗せて運ぶ。レア好みに、長ネギ、大根、にんじんに舞茸など野菜類を具にした煮込みうどん。
カロリー補給の必要があるが、一週間ほぼ絶食状態だと胃が弱っていて急に食べたら胃がびっくりしてしまうかも知れない。このうどんなら消化の良さと吸収の面で回復食としても丁度良いだろう。
「ん、ありがとー。机に置いてくれる?」
そう言って、レアは本を置いてベッドから立ち上がり机へと向かい椅子に座った。その足取りは普段通りヌルッとしたものだった。目眩が収まったのだろう。ゼリーの急拵えカロリー補給が効いたのか。
「どうぞ。簡単なものですが」
「美味しそうだねぇ、いただきます」
レアはそう言いつつ手を合わせ、箸を取りうどんを啜る。
「ゆっくり含んで良く噛んで下さい。急に食べると胃に悪いので」
「ん、なんかあーちゃんは、お母さんみたいだねぇ」
うどんをもくもくと咀嚼して、飲み下すとレアはそうコメントした。敦は床に腰を下ろしつつ空笑いして流した。この歳の男としては母扱いされるのは流石に複雑だった。ましてや母親が居ないレアからだと尚更。
「このおうどん美味しいよあーちゃん!」
「お口に合ったなら良かったです」
レアは感激して敦に言う。敦からすると別に特別な事は何もしてはなく、簡単に作っただけのものなのだが。あるいは、レア本人は自覚していないだけで飢餓状態での食事が事様美味に感じられているのかも知れない。
食事に集中するレアから、敦は意識を外して適当に近くにある本を手に取り暇つぶしに捲った。
「……人というのはやっぱり不思議だね、あーちゃん」
「はい?」
うどんを食べながら、ふとレアはそう溢した。
「ボクみたいな人でなしが、こうして旦那様にご飯作って貰っているなんて。少し前までは可能性としても思っても見なかった。生きていると何が起こるか分からないものだね」
ふむ、と敦は目線を泳がせつつ一考して応える。
「それは俺も同感です。こうして奥さんにご飯作っているなんて考えても見なかったもので」
うどんを飲み下し、レアはクスクスと笑った。
「お互い様かぁ。似た者夫婦ってやつかな?」
「そうかも知れませんね。でも、必然なのかも知れないとも思います」
その心は?とレアはうどんを口にしているので無言で眼で問いかけてくる。
どうでもいいが、結構眼や表情で言いたい事が敦には分かるのだが、これはレアが存外に情緒豊なのか?あるいは敦がレアに対して感受性が高いのか?
「人には縁がある。とそう俺は感じます」
「つまり?」
「強いて言えば、人と人とは出会うべくして出会う。と言うだけの当たり前の事ですかね?」
「ボクとあーちゃんが夫婦となってるのも当たり前の事?」
レアはクスクスと笑いながら、そう言った。敦は答える所を持たずに肩を竦めた。
あり得ないとも思うし、当たり前とも思う。類は友を呼ぶとも言う。結局のところ人は、自分と近い次元、同じ深さの人としか出会う事はないのだろうと敦は思う。
浅瀬に生息する魚が、いくら泳ぎ回って必死に探した所で深海魚に出会う事などない。
レアという深海魚と出会えたのは、出会うべくして出会ったという事だ。これを言葉にするなら。
「縁……か」
「ん?」
「いえ」
そんな事を考えている内に、レアはうどんを出汁まで飲み干し綺麗に完食して、ご馳走様でしたと手を合わせた。
「片付けますよ。休んでて下さい」
「そ?ありがとねー。じゃあお願いするね」
レアはここでも遠慮せずに敦に任せて、自分はベッドに戻った。敦は食器と調理に使った器具を手早く洗う。以前レアと一緒に料理した経験から、この台所の勝手は慣れたものだ。
敦が部屋に戻るとレアはベッドの上で上体を起こして本に目を落としていた。普段より漠とした眼に、暖かい食事によってカロリーが回ってきたのか上気した頬が何処か幼い容姿に似合わぬ色香を漂わせていた。
「うどん鍋にまだあるのでお腹空いたらまた食べて下さいね。」
「あと、冷蔵庫に作ってきた野菜スープ入れておいたので、こっちも良ければ食べて下さい」
「うん、ありがとうねぇ。あーちゃん」
「今後はある程度ちゃんと食べて下さいよ。じゃないと毎日来ますよ?」
「うん。倒れない程度にたべるよー」
ほっ、と敦は小さく安堵の息を吐いた。まぁ、同じ轍を踏むほど愚かな人ではない……と思っているのだが、ならそもそも倒れるまで絶食しないとも思う。だがまぁ、敦が気にかけすぎてもしょうがない。また、次来た時にでも確認すれば良い。
「では、俺はこれで」
消耗しているレアと今日は話し過ぎてもなんだと、今日はお暇する事にした敦。だが。
「あーちゃん、待って」
「はい?」
その敦を呼び止めると、レアは少しの色香を感じさせる顔色のまま両の腕を広げて言った。
「抱っこ」
「は?」
「抱っこして、抱っこ」
ベッドの上で上体を起こしたままレアは敦にそう要求した。初めての事に敦は少し驚く。レアがたまにスキンシップしてくる事はあれど、本人からねだってきたのは初めてだったからだ。
ならばと、答えて敦はベッドの上のレアに歩み寄り、膝を突いて、ぎゅっと掻き抱いた。直ぐにレアからも抱き返してくる。
「あーちゃんは暖かいねぇ」
むしろいつもはレアの方が小さい体躯に高い熱量を持っていて、暖かい事を敦は知っている。今はカロリー枯渇で体温が下がっているのだ。とはいえ先程触れた時より熱量を感じるので少し安心したが。
「今日はレアさんは甘えん坊ですねぇ」
そんなレアが可愛くて、敦はレアを抱きしめながら頭を撫でる。
この人は、超然としてて、不気味で、孤高。でも、甘えられて、こんなにもちっちゃくて、可愛い人だという事に敦は気がついた。
「そうだよ。ボクは甘ったれだもん」
嘘だ。この人は他人と触れるのが嫌いだ。敦はそう思った。人と理由なく触れたくないはずだ。
何故それが分かるか、敦もそうだからだ。他人の肌が触れ合うのに常に不快感が伴う。誰しも知りもしない相手とベタベタくっつくのは気持ち悪いだろう。
でも、何でだろう?何でこんなにこの人を抱きしめるのは嬉しくて、気持ちいいんだろう。
「ねぇ……なんでだろう?」
まるで敦の疑問に応じるように、レアがそう呟いた。
敦の疑問は、何故こんなにも喜ばしいのかという喜びから出たものだった。しかし、レアの声には深刻、何故心地よいのかという問いだった。
これでよいのか?という風に。
………
……
…
「どーぞ、粗茶ですが」
「ありがとー」
その日、粗茶と言いつつ本当に茶を出したのは敦だった。レアは茶碗を受け取り、丁度良い温度の茶を啜る。
「美味しいねぇ。これ粗茶じゃないんじゃない?」
その旨みが豊で雑味も無い茶を正味してレアは言う。しかも猫舌気味のレアにも飲みやすい。それは緑茶の適正温度の関係だろうが。
「いえ、茶葉自体は別にそこまでいいものじゃないですよ」
淹れた敦はそう応じる。使った茶葉は敦がレアにあげたものだが、茶の愛好家には評価されている銘柄を使っているのだが、しかし別に高級品という訳ではない。
「ふーん。でもボクが淹れるより余程美味しいよ?茶葉の問題じゃないんじゃない」
「まぁ、いくら高品質な茶葉を使っても淹れ方が駄目だと台無しって事は勿論ありますよ」
若干苦い顔で敦は続ける。
「高級品の茶葉をわざわざ買って、雑に淹れて台無しにしちゃうって人も居るんですよ。安物だって丁寧に淹れればそれなりに美味しいのが分からずに」
「それは人間性の問題かもね」
レアはそう言った。
「つまりは、高ければ良い。グレードが高ければ自分も良くなると人は勘違いしがちなんだよ」
「なるほど。いいものを買えばいいものが淹れれると確かに人はそう考えるがちです」
「だけどそれは違う」
レアが断言すると敦は続けた。
「どんないい茶葉を買ったところで淹れる人が素人なら不味くなります。大した茶葉でなくとも上手い人が丁寧に淹ればそれなりに飲めます」
レアはゆっくりと頷いた。
「つまりは、茶葉そのものではなくて淹れる人の問題だね。つまりはいつだって大事なのはその人だ」
「そして案外それが分からない人が多い」
「宝の持ち腐れ。という奴ですか」
「そうだね。不味いお茶しか淹れられない人が高級茶葉なんて買っても分不相応という事だねぇ」
「まぁ、せっかくの良い品を台無しにされるのもあまり気分は良くはないですね」
敦が言うと美味そうに茶を啜り、レアは答えた。
「それが、良い茶葉を手に入れればそれだけで自分は一流の茶人とでも思えちゃう人が多いんだよ」
「そしてこれは茶に限らない。何でもそうだよ」
クスリと、無邪気にしかし、皮肉に一つ笑って続けた。
「例えば、多くの人は服、小物、車なんかの日用品やアクセサリーなんかは有名な高級ブランドが好きだよね。なんでかな?」
「それを持っている事自体がステータスだからですね。高値で、流通も専門店に限られる。そう言った高級志向の製品はニーズがあります」
うむうむ。とレアは笑顔で頷いた。
「そうだね。そして高級ブランド品を身につけていれば、一流の人間。成功者の証ってアピール出来て皆も羨む……そんなものつけた所でその本人の中身や人間性は何一つ変わらないのにねぇ」
今度こそ完全に皮肉にレアは暗く笑った。くっと敦も似たような笑みを返した。
「なるほど。ガワだけ飾って中身は空っぽ。な人間も多いと」
「そだね。無論そういうものを自然と着こなす、使いこなす。そういう人も居るんだろうけど、そう言う人が本当に凄い一流じゃない?多分極一部だろうし、よく分かんないけどね」
ふむ、と敦は思う。確かに成金など、身の丈に合わぬものを付けてそれをアピールしがちだ。それは多く場合、鼻につくだろう。
本物は、安物だろうが超高級だろうが、身につけているもので物腰が変わるわけではない。
古代ギリシャ。当時の世界のほぼ全てを手中にしたマケドニアの征服王アレクサンドロス三世。
彼はある逸話がある。時代を同じくする哲学者に、服も着ずに裸で樽を住処に暮らしていた犬のような哲学者ディオゲネスがいた。アレクサンドロスは自ら足を運んでディオゲネスに会いにいった。
日向ぼっこをしていたディオゲネスを前に、自ら、王であるアレクサンドロスであると名乗り。そしてアレクサンドロスは何でも望みを言ってみよ。とディオゲネスに言う。
ディオゲネスは答えて言う。そこに立たれると日を遮るから退いてくれと。
アレクサンドロスは帰路に言ったと言う。私がアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたい、と。
「でも、レアさん。分かるんですね?着飾ったブランド品とかって」
「え、分からないよ?」
「えぇ?」
じゃあ何で言ったんだと敦は思った。
「分かるわけないじゃんボクに。見てくれで高級品か安物かの良し悪しなんて。そもそも、服?車?とかのブランドなんて皆同じに見えるし、自慢でもしてくれないと分からないよー」
「分からないんですね……」
「むしろ自慢されても分からない事あるよ。いつも何々って店を使ってるって言われて、何それ?って聞き返しちゃった事あるよ。なんかスーパーだってゴニョゴニョ教えてくれたけど。後から調べて、何か有名高級志向スーパーの事だったらしいって知ったりね」
「あぁ……」
なんか、それはちょっと相手が気の毒だ。自慢のつもりで言ったけど通じなくて、直接凄いんだぞとも言えずにどん詰まり。自慢する相手が悪かったのかも知れないが。後から気付いてくれたならまだいいが、レアは、多分自慢を自慢とも気付かなかった事も割とありそうだ。
「そんな事言って、あーちゃんこそ高級ブランドとか分かるのかよー?」
「一応、俺、経営学専門ですよ。ブランドについてくらいは学んでますよ。要は差別化戦略ですよ」
「マックドナルドに対するモスバーガーってね。やっぱり専門の人は、服とかも見てブランド分かるんだ。凄いねぇ」
「そりゃあ……」
正直分からない。無論マーケティング、ブランド戦略を学ぶ上でテキストに事例は実際、ブランドを挙げたものが載っていて学んだし、実際に商品を買ってみたり店に行って目で見て勉強した事はあるが。
だが、別に服だのなんだの自体に一々興味があるわけではないから商品を見た所でなんのブランドだかなんて知らない。精々分かるのは有名な車の車種がどこの企業かくらいか?
返答に窮した敦を見て、レアの眼がニマリと笑った。同じ穴の狢だと察したのだろう。
敦は少し悔しかった。そして思った。自分もレアの事は言えない。存外に物知らずなのではないかと。
その通りである。レアの浮世離れは世捨て人のそれだが、敦も大概ではある。執着や物欲が対して無いのだ。
本人達に自覚はないのかも知れないが、似た者夫婦と言えるかも知れない。
「まぁ、茶も何でもそうですが、そもそも高級だから良い。売れているから良いものとは一概には言えませんからね」
敦は小さく咳払いして話の方向性を少し逸らすように言った。
「あぁ、それはそうだね。今はモノが飽和した時代だからね。良いものを作れば売れる、なんて事あるわけがない。ってのはあーちゃんの専門では基本だよね」
「良いものなら売れるなんて簡単な話なら、マーケティングも戦略も必要ないですからねぇ」
高度成長期。まだモノが少なかった時代ならとにかく作れば売れた。だが、モノに溢れた今の時代はどんなにいいモノを作ったところで埋もれてしまうのだ。
「むしろ、製品は普通のクオリティでも、マーケティング戦略が上手くハマってヒットというパターンは多い気がしますね。そして、あまり知られてない商品やブランドの中にも非常に良いものはあります」
「あるねぇ。知る人ぞ知るってヤツ。例えばお酒とかでも有名銘柄で高価なモノにも味で決して見劣りしない、でも割と安価。なのに余り知られていない。みたいなの。そういうの見つけると嬉しいよね」
確かに、知名度はないが、安価でしかも質がいい。というものはありがたい。特に天邪鬼な所のあるレアは如何にも好きそうだと敦は思った。
「だけど、やはりそういうのは今の時代中々珍しいです。そもそも全く売れなければ商品として成り立たないですからね」
知る人ぞ知る。というのはつまりニッチな需要はあるという事だ。他の競合の少ない需要を供給したり、少数だが、固定の根強いファンをちゃんと取り込んで生き残っている。そうでなければ全く誰にも知られずに消えている。
「例えば……おーいお茶ってペットボトル入りの緑茶ありますよね?」
「あるねぇ。飲んだ事ないけど。いやあったかな?ないと思う?まぁいいか!」
釈迦に説法かも知れませんが。などと嘯きつつ敦は続けた。
「当然あの商品は、ペットボトルの中にお茶が入っているというだけのものです。ですがこう、バリっと」
敦は実際にはお茶のペットボトルを持たぬ為、無手で、引き剥がす仕草をした。
「パッケージを引き剥がしてしまいます。すると黄緑の液体の入っただけのペットボトルになりますよね」
「なるねぇ」
「それを店頭、あるいは自販機に並べたら売れるでしょうか?」
「売れないねぇ。一本10円で売ってても買う人居ないんじゃないかな?」
その通りだろう。店に黄緑の液体が入っているだけの無地ペットボトルが茶として売られていても誰も買わないだろう。
「例え中身は同じものでも、裸のペットボトルだと誰も買わないのに商品名な企業名の書かれたデザインされたパッケージが貼ってあると皆が買う。平たく言ってマーケティングってそういうものなんですよね」
「もしかしたら皆、お茶を飲みたくてお茶を買っている訳ではないのかも知れないね」
「先日のレビットのマーケティング近視眼的見方だとそうなるかも知れませんね。まぁ、消費者も情報が無いと買うにも、意思決定が出来ないのもあるでしょうが」
「そうだね。沢山のブランドの色んな種類のお茶が売ってるのに、仮にお店に並んでいるのが全部裸のペットボトルに入ったお茶だったらそもそもどれがどれだか分からないから決めようがないね」
レアは、クスリと笑って続けた。
「そうなるとどれももう同じだから、皆適当に買ってどの商品が当たるかは運だよね。今日はなんのお茶が当たるかくじ感覚も面白いかも」
「はは、昨日のが美味しかったから同じのを買おうとしても、全部ガワが同じだからやっぱりどれか分からないですね」
「いや案外皆、違いなんて分からなくなるかも知れないよ」
割と皮肉屋なレアはそう笑って言った。
「ありそうじゃない?人間の知覚は存外いい加減だしね。少しのバイアスで認識がねじ曲がってしまうって心理学系の実験結果で色々な事例があるよね」
「人は茶を味わっているのではなく、パッケージを味わっている。ですか、暴論のようですが中々面白い」
「実験したら面白そうじゃない?仮にコカコーラの缶の中にペプシコーラ。ペプシコーラの缶にコカコーラを入れたら。九割九分の人は味を逆に感じるんじゃないかな?」
「まぁ……そうなりそうですね」
中身がオレンジジュースとかなら流石に気付くだろうが、同じコーラなら銘柄の入れ替わりに気付く人なんていないだろうなと敦も思う。
「味というより。パッケージ、情報、値段、如何に付加価値を与えるかというのが商品において基本……というのは門外漢のボクも何となく分かるけど、正直馬鹿馬鹿しくも感じるな」
専門のあーちゃんにこう言うのは悪い気がするけどさ、とレアは続ける。
「お茶だなんて美味しければいいじゃないか。だから」
チン、と空になった茶碗を指で一つ弾いて言った。
「だから、ボクはこれでいい。変哲ない茶碗に注いだ、誰でもないあーちゃんが淹れてくれた美味しいお茶がボクは好きだよ」
ふふ、と敦は笑った。この人にそう言って貰えるのが嬉しかったのだ。
「おかわり要ります?」
「いや、いいよ」
そうレアは、首を振る。
「でも、いいなぁ。ただお茶の入っているだけのパッケージも何もない名もないペットボトル。それは素敵だ」
「……」
それを聞いて敦はふと想像した。パッケージも貼られてない黄緑の茶が入っている裸のペットボトルがスーパーの一角にぽつりと一つだけ陳列されている。なんだこれは?と客達は一瞥して誰もそれを手に取りもしない。
「いつも話たね。ボクは何でも無い。誰にも理解されず。誰にも認められず。何者でもなくなってしまいたいと」
「パッケージの剥がしたペットボトル。ですか」
「いいや、まだ甘いかな?だって裸のペットボトルなんてお店に並んでいたら逆に目立つじゃないか?」
確かに。と敦は首肯した。さっきの想像でいればスーパーに裸のペットボトルが陳列されてても少なくとも誰も買わないだろう。だが逆に誰もがこれは何だ?と目をつけるだろう。
「以前話した通り、ボクは強欲過ぎるし俗物だ。いっそ全てを捨てられたら、何もかも捨てて最後に残る、そのものになれたら。とそんな夢を見る」
「捨てて、捨てて、捨てて、捨てて、捨てて、捨て果てる事でレアさんは」
全てを得る。
「人は事実を語る事は出来ない。ボクは騙ってばかりだね。だからここで一つ物語でも試しに語ろうか」
真実を語るのはいつの時代も物語と相場が決まっているからね。とレアは続ける。
「聴かせて下さい」
では、とレアは語りはじめた。
ーー昔々、ある国にお姫様がいました。
お父さんである王様に可愛がられ。玉のように美しいお姫様は、大事に育てられました。
豪華絢爛なお城。お姫様にかしずく召使達。沢山の宝石やドレスなどの贈り物。贅沢な食事。多くの貴族の男の人がお姫様に結婚を申し込んで来ました。お姫様は何でも手に入ったのです。
でもお姫様はいつもつまらなそうにして、笑う事も無く、あまり喋りませんでした。
何でも欲しいものは手に入り。思い通りに何でもいきます。でもお姫様は自分が不自由だと思っていたのです。
何を手に入れても満たされないお姫様は、やがて自分の物を捨て始めてしまいました。お姫様のお部屋は伽藍堂になり、服も簡単なものを最低限しか持たなくなりました。
日がな一日、黙して座ったまま物思いに耽るばかりになりました。召使達が話しかけても喋りません。ずっと一言も喋らなくなったので、お城の中ではお姫様はおかしくなってしまったのだと噂されました。
心配した王様は高名なお医者様を呼んでお姫様を診てもらいました。しかし、お医者様が何を聞いてもお姫様は黙ったままです。身体を診ようしてもお姫様は黙ったまま嫌がるので無理に診れません。
何も答えて貰えず、診察も出来ないので一体何が悪いのかさっぱり分からずお医者様は困ってしまいました。
王様は直接お姫様と話そうとしましたが、やはりお姫様は黙るばかりで会話になりません。王様は諦めずに色々話しかけます。何か欲しいものはないかと聞いた時、とうとうお姫様は答えました。
私は何も欲さない事を欲します。
久しぶりにお姫様の声を聞いて王様は驚きました。何故今まで喋らなかったのかと続けて訪ねました。
何も話す事がないから黙っているのです。
そう答えたのを最後に、お姫様はもう二度と喋りませんでした。王様は諦めました。
物を持っても満たされない事に気付いたお姫様は全てを捨ててしまう事にしたのです。
お姫様は何も喋らず。何もせず。まるで植物のように毎日を過ごしました。そうして少しずつ自分に関わるものを自分の中から捨てていきました。
そして、お姫様は自分そのものまで捨てていきました。もう何もいらなかったのです。
まず思想を捨てました。記憶も捨てました。人格も捨てました。容姿も捨てました。そして身体も捨てました。
お姫様は何もかもを捨て去ってしまいました。
後に残ったのは、お姫様だった存在。何一つ持たない。ただののっぺらぼうでした。
全てを捨て去っても、それでものっぺらぼうだけは残ったのです。
しかし、お姫様だったのっぺらぼうは、もう誰にも認識されませんでした。
召使達も、王様も、のっぺらぼうには気付きません。お姫様の事はもう誰も覚えて居ませんでした。王様もお姫様なんて記憶から消えてました、もちろん何者でもないのっぺらぼうなんて見えません。
のっぺらぼうの方も王様なんて分かりません。自分がかつてお姫様だったなんてのっぺらぼうは覚えていません。だってのっぺらぼうは何もないからのっぺらぼうなのです。
のっぺらぼうはただ世界を徘徊し始めました。何も思わずに、何にも縛られずに、全てを見て回りました。のっぺらぼうは自由だからです。
しかし、何を見ようと何処に行こうと、のっぺらぼうは何も、何も、何も何も何も何も何も思いませんでした。何故ならのっぺらぼうは自由だからです。
ある村に、一人の老婆が居ました。
老婆は結婚もせず、子供も居らず。孤独でした。村では昔から偏屈者だと言われ、誰も関わろうとしない為、老婆は殆どの人から無視されていました。
そんな孤独に暮らす老婆をのっぺらぼうは見ていました。
老婆はのっぺらぼうに言いました。そこに誰か居るのかい?
のっぺらぼうは答えを持ちませんでした。しかし、老婆は誰かにのっぺらぼうがそこに居る事に気づいたのです。
のっぺらぼうは、何も思う事なく老婆の家で老婆と共に過ごしました。老婆ものっぺらぼうと共に毎日を過ごしました。そんなのっぺらぼうと過ごす毎日は老婆には満ち足りた日々でした。
そうして、何ものでもないのっぺらぼうと共に過ごしている内に老婆もまた自分が何も欲さない事に気付きました。
そして老婆ものっぺらぼうになりました。
のっぺらぼうはのっぺらぼうとなる事で、のっぺらぼうと一つになりました。
二つののっぺらぼうは一つとなって世界そのものと一つとなりました。
そうしてのっぺらぼうは永遠に全てとなりました。
「めでたしめでたし……とね」
そう言って、レアは話を締め括った。
「最後の方はのっぺらぼうと言い過ぎ感があるね、これ」
クスクスと笑ってついでに一つ諧謔を弄する。敦は一つ息を吐いた。
「全てを捨て去って。それでも残る何か……」
「そう、何も無くしてしまって。最後にただ『在る』という事のみが残る……それは素敵だ。この世界で一番の自由だ」
レアは雄大な絶景を眺めているかのような眼で微笑を浮かべつつ両手をゆっくり広げて言った。
「それが、のっぺらぼうですか」
「強いていえばそうなるね……話は一旦逸れるけど。哲学があれば哲学者がもちろんいるね。あーちゃんは哲学者って聞くと誰が思い浮かぶ?」
「?レアさんですね」
「いや、ボクじゃなくて、もっと一般的な」
敦の答えに珍しく少し頬を紅潮させつつ、レアはツッコむ。
「プラトンとかカント、ニーチェとかですか」
「そうそう、誰でも知っている。哲学者と言えばと聞かれればいくらでも出てくる名のなる人は沢山いるね。いや、沢山って程はいないかな?高名なのは紀元前からの歴史で高々二、三十人だし」
「でも、そのくらいは大哲人と言われる人は出ているわけですね」
「そう、それだよ!」
ぴっ!と鋭く指先を向けて我が意を得たりとばかりにレアは言った。
「どれです?」
「つまりね、史上に名の残る大哲人って人達は哲学者としてはある種、半端者なんだ」
余りに大胆な論法に敦は面喰らう。しかし、今までレアと話をして来た事を踏まえて考えると何が言いたいかは遅れて分かった。
「名が残っている……からこそ、ですか」
「流石あーちゃん!そう、名を残してしまったからだ」
こんな事を言ったら哲学研究家さん辺りに何様のつもりだとお叱りを受けそうだけどね。とレアはクスクスとシニカルに笑って嘯く。
「つまりね、偉大な哲学者が名を残している蓋然性が無いんだよ。ここら辺は他の学問の学者と違う、哲学の特殊性なのかも知れないね」
「転倒を起こしてるのかも知れません。名のある哲学者が偉大な哲学者だと」
敦の指摘にレアは、多分そうだろうね。と頷く。
「彼らは、どうあれ自分の思索や理論を形に残して発表せずにはいられなかった。だから名前が残った。でも、もっと彼岸にいってしまった何も語らずに、何も残さずに消えていった、もっと徹底していた哲学者。それはきっといつの時代にも、場所にも数多くいた筈だ」
「哲学者である故に、名が残る事がない……と」
「そうだね。スピノザはね、それが分かっていたんだ。彼は自分の論文を発表するに当たってそれがスピノザである必要がないと分かっていた。自分がスピノザである意味がないと理解していた。彼はそういう領域にいたんだ。だから彼は遺言で自分の論文は匿名で発表するように、と言い残したそうだよ」
そう考えると彼は思想といいヘーゲルと同じく結構東洋的な哲人だね、と継げ足す。
「それらが、主著、エティカを始めとしたスピノザの没後に出された名著達だ。ただ、気の毒な事にどうしてか、スピノザの遺言は守られずに結局スピノザの名の下にそれらが出されてしまった。故にスピノザと言う名前が残ってしまった。惜しかったね」
「手違いでスピノザは名前が残ってしまった……ですか」
「そうだね。もっともスピノザからすれば、もう名前が残ろうが残るまいがどうでも良かったのかも知れないけどね。だってスピノザはもう死んでいるもの」
クス、と笑いレアは茶碗を手の内でクルリと一つ回すと言った。
「あーちゃん、やっぱりおかわり頂戴」
お茶のおねだりに、敦も一つ笑って答えた。
「いいですよ」
そして小休止代わりに敦が改めて茶を淹れて、自分の分と一緒にレアの茶碗に急須から回し注いだ。
レアは淹れたての暖かいお茶を一口飲み、美味しそうにほぅ、と一つ息をつく。
「何かお茶請けがあるといいのですが」
「ん〜、でも甘い物あんまり食べられないからなぁ」
「いえ、お茶請けは甘い物とは限りませんよ。例えばお新香とか煎餅とかもよく合わせますし」
甘い物苦手だったのか、と思いつつ敦は言う。火を通した野菜の甘さは好むようだが、多分ショ糖のキツい甘さが駄目なのだろう。
「そういうばそうだねぇ。お煎餅は欲しいかも」
サラダ味が好きだなぁ、などと宣うレア。そこで話が大分逸れてる事に気がついた。
「話を戻すけど。スピノザはしくじってしまってスピノザと言う名が後世に残ってしまった……ボクは上手くやる。誰にも見られず。聞かれず。認められないまま、野々村レアは消えて、そうしてのっぺらぼうだけが後に残る」
「それが、レアさんの目指す所ですか」
ずっ、と自分も茶を一つ啜りつつ敦は相槌を打った。
「そうだね。ニーチェは、人は何も欲さないより、まだしも無を欲すると言った。だけど、人は無を欲した所で零には至れない。何故なら人である以上は、まず先に存在がある。存在は有だ。有は零には成れない。在るが無い事には至れない」
だから、とレアは続ける。
「ボクはむしろ無を欲する事より、何も欲さない事で至りたいんだ。人は無には触れられない。だけど空には触れられる」
「空。仏教ですか」
「そう。無ではない、空だ……あーちゃんにはいつだったか話たよね。名前は体を表すけど。体をやっている主体は決して表せないと」
暫く前に聞いた事だった。名には意味がある、名が何か確かな実在を指す。そういう考えが人々を欺く、誤謬だとレアは喝破していた。レアが人の名前に頓着しない癖もそういう思想故だろう。
「ボクがボクの持つ物を全て捨てて、野々村レアである事すら辞める。何もかも無くしたボクに最後にそれでも残る物」
「ボクが『在った』以上、必ずそれだけは在る。絶対的に無には至れない、根源的有。それが空だ」
「そして、それこそが、お姫様様と老婆が至った……のっぺらぼうですか」
こくり、とレアは頷く。
「こののっぺらぼうを、空とも言えるし、プシューケーと言ってもいいだろう。神とも言えるし。端的に魂とか、あるいは力への意志なんて言った人もいる。でももっと簡単で単純に一言で言えてしまうんだ」
「それは?」
「存在、だよ」
「ボクが有るという事は存在として有るという事で、遍く全ての有もまた存在なんだ。そしてこれだけは紛れもなく確かな事だ」
「Cogito ergo sumーー我思う。故に我有り。デカルトのこの命題も、思索している存在だけは確かに存在していてそれだけは、疑い得ない。という事に気付いただけの事なんだ」
デカルトはこの存在である我と自分であるデカルトを同一視してしまう陥穽にはまり込んでしまったのは、デカルトの過ちだと思うけどね。等とレアは続ける。
「ついでに言うとデカルトの命題は哲学史に残る至上命令と言えるけど。これはもっと単純に言い表せる。ボクならこう言うね、『有るものは在る』……ボクはこれだけは絶対的真理だと自負しているよ」
「在るという事だけしかなく。それで満ち足りいる。誰にも認められず、知られる事のないのっぺらぼう。それは何にもないし、意味もないけど、世界で一番の自由で、きっと凄く幸せだよ」
「だからね、あーちゃん」
レアは柔らかい微笑を浮かべて言った。
「ボクを必要とする者が居なくなったその時、野々村レアは綺麗に消えてそして何かが残るんだよ」
さっぱりするね。とレアは結んだ。