Dasein   作:ㅤ ْ

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野々村敦という人間は、空虚である。

 

敦は自身をそのように自認していた。

 

情も薄く、強い意志があるわけでもなく、過去に影響されながらも、未来を夢見るでもなく、大事な思い出もない。端的に言って何かどうしても譲れぬ何かが無い。人間としての芯が無い。

 

だが、空虚たる所以はその中途半端さにある。つまり色々な点で何も無いという事を徹底して極めるという所も無い。生きながらにして諦めながら、しかし様々な未練、そして欲を残す。つまりはショボいのだ。

 

故にこそ野々村レアという人間に惹かれたのだろう。彼女は自身を誰よりも愚かな俗物と称していたが、敦はレアを虚無の領域にある狂気の存在だと思っていた。自分のような半端者ではない。きっと極点まで行ってしまう人だ。

 

だから憧れた。一緒に行きたいと思ったのだ、彼女の創る彼岸。涯の涯へと。

 

強いて言えば、敦にはそのくらいしかない。他人(レア)ありきの芯なんて如何にも軟弱。レアについて行ける価値など今のところはないだろう。

 

だから自分もこれから自分の頭で考えていこうと、そう思っている。

 

総じて、野々村敦は自身をこのように考えていた。

 

その証左に一つ。敦はかつてレアに自分の生い立ちを話した時、一つの嘘をついていた。

 

「兄さん」

 

その日。夕刻、帰宅の途に着く敦は、アパートへの道すがらに聞き覚えのある幼き声に呼び止められて凍りついた。

 

一瞬、止まったように感じられた心臓は徐々に鼓動が早くなっていく。

 

ゆっくりと振り向く。そこには幼い体躯をして、色素の薄いロングの髪を背中に流した少女がいた。丸い眼をした幼気な可愛らしい顔だが、歳に不相応な落ち着いた表情だ。

 

服装なフォーマルなデザインのカーディガンにスカートと、学校の制服のようにも見えるが、私服であった。

 

「……紬」

 

その少女の名は中島紬。敦の血の繋がらぬ妹だった。

 

「何をしに来たんだ?」

 

「……」

 

「いや、すまない……」

 

引け目もあって、つい硬い声が出てしまった。敦は一つ息を吐いて冷静になる。

 

「話なら俺の部屋でいいだろう?」

 

「はい」

 

「分かった、じゃあ行こう」

 

紬が頷くと、敦は先導するようにさっさと歩き出す。妹は何回かは敦のアパートに来たことはある為、気兼ねする必要はお互い無い。

 

すぐ近くだった為、兄妹は直ぐにアパートに着いて、敦は自室に妹を招き入れる。とりあえず緑茶を淹れて差し出す。

 

ベッドに座り、啜らずに、静かに茶を一口飲み紬は落ち着いたように息を吐いた。

 

「兄さんのお茶はやっぱり美味しいのです」

 

「あぁ、……ありがとう」

 

敦は自分も椅子に腰掛けつつ、久しぶりに会う妹に目を向ける。こうして対峙していると独特の空気を感じらる。幼い肌の瑞々しさがそのまま拡散しているように、温い湿気が感じられて少女がすぐそこにいるという生々しさがあった。

 

ふと考える。ここにレアが居た時に纏っていた空気と全然違う。彼女は涼しげで乾いた、薄く甘い芳香の混じるものだった。あの人とは違う、人間の生々しい重みを感じさせる妹の雰囲気に敦は少しの緊張を覚えた。

 

「兄さん、そんなに硬くならなくていいのですよ?私は今日兄さんを責め立てたりしに来た訳じゃないのです。ただお話ししたかっただけなのです」

 

その紬の言葉が刺さると共に、敦は少し安心した。その声色は敦を気遣っているのが分かったからだ。

 

だが、それでも敦も負い目は感じていた。

 

「紬、すまない」

 

「いいのです。兄さんは出られなくても仕方なかったのは私にも分かるのです」

 

主語が無い。紬のたまに出る癖だ。だが、敦の感じる負い目は理解していた。つまりは彼女の父親ーーそして敦の養父ーーの葬式に参列しなかった事。しかし紬の声色はむしろ優しげですらあった。

 

ーー敦がレアに過去を語った時、嘘をついた事が一つ。そして言わなかった事が一つある。

 

敦の養父が養母と離婚し、敦とも決別した後、養父がその後どうしていたか知らないと言った点ーー会う事こそ無かったが、一応、離別後にどうなったかについては知ってはした。それが一つ。

 

そして言わなかった点ーー養父は離婚後に再婚し、その後すぐ今度こそ実の娘をもうけた。つまり敦には血の繋がらぬ妹に当たる存在がいるという事ーーそれがこの中島紬だった。

 

ーー正直な心情を述べるなら、敦は紬の事を妹と思ってはいない。そもそも血の繋がりはないし、事実上縁が切れた後の養父が知らぬ所で作った娘を妹と思えるか考えれば、それは難しかろう。

 

しかし、法律上だけで客観的に述べるとーー法律上の事実が客観的事実なのかと問いを投げれば甚だ疑問だがーー敦は養親との間に特別養子縁組を組んでいる為に法律上実の親子となっている。もちろん養親が離婚した所でこれが無かったわけもないので、血は繋がらぬとも戸籍上は養父の娘である紬とは実の兄妹になる。

 

「……父さんの事、紬は大丈夫なのか」

 

「沢山泣いてたら段々と落ち着いてくるものなのです。長患いで覚悟、みたいなのもある程度あったですし」

 

「……強いな。落ち着いているなら良かったが」

 

しかし、実の妹のようにこそ思ってはいなくとも、敦にとって紬は少々特別に思っている相手だ。他人でもなく、妹でもなく、友人でもなく、家族でもなく、何と思っているかは敦にとっても定かではない。しかし、養親とも上手くはやれなかった敦にとっては紬は——もちろん少々複雑な思いはあるのだが——大事な相手と言えるし、弱みでもある。

 

ふるふる、と紬は首を振った。自分は強くなどない。といいたいのだろう。

 

「今日は兄さんにお話ししたい事と、伝えたい事があって来たのです」

 

「……聴くよ」

 

事実上縁の切れた後の養父が作った紬と敦。一応兄妹関係ではあるが、何故この二人に親交があるのか。本来ならお互いの存在自体知らないままでもおかしくない関係であった。

 

ある時、紬の方が父が何かを隠してる事に気がついて問い詰めて、それで自身に兄に当たる者がいる事を聞き出した。そして敦に連絡を取り、相見える事になったのが初対面であった。あれは敦にとっては晴天の霹靂であった。

 

「兄さん、何がありました?」

 

「何、とは?」

 

紬は敦にいきなりそう聞いてきた。尋ねている風だが確信的な口調である。

 

「お父さんの事とは違う何かが……雰囲気が全然違うのです」

 

やはり気取られている。父親を亡くしたばかりなのだからーーそれが血も繋がらず縁が切れているとは言えーー態度の変化等はあってもおかしくはなかろうが、しかし確かに敦に変化があったというならそれとは別のファクターが大きいだろう。紬のこういう所は敦は苦手でもあった。

 

「それは」

 

「……恋人、出来ました?」

 

あっさりと、紬は言ってきた。これは女の勘などと言った生優しいものではない。紬は人並み外れた共感能力と感受性の高さを持っており、会話や表情等から相手の感情や内実等を読み取ってしまう能力を持っていた。

 

もちろん、得た情報から演繹的に即座に答えを出してしまう頭脳も極めて明晰な為。周囲からは神童扱いされているそうだった。敦は内心で紬の事を密かに妖怪サトリ扱いしている。あるいはそれも読まれているのかも知れないが。

 

かつて、父親が隠していた息子である敦の存在に気がついて、敦へとたどり着けたのもこの能力の為だった。

 

が、しかし今回に関しては紬の指摘は、完全な正解ではない。当たらずとも遠からずではあるが。しかし、まさか恋人を飛び越して——もしくはそれ未満ながら——夫婦とは、希代の慧眼の持ち主を持ってしても読みようがない。

 

「恋人じゃない?おかしいですね?片思い、でもないですし」

 

敦が答えるより、その反応で自身の誤謬に気がつく。しかし、どうも大きく外した訳でもないとも解釈するが正答が分からずに困惑した様子だ。

 

無理からぬ事である。それだけ紬という少女が読みを外した事がないという事。

 

「恋人ではないのだが……」

 

「恋人ではなく?」

 

紬は指先を顎に添えて小首を傾げる。可愛らしい仕草だったが、その眼が、敦の眼を真っ直ぐに覗き込み、底の底を読み取ろうと燗と光っていた。

 

「……結婚をした」

 

「けっこん」

 

「結婚」

 

敦の端的な報告に、紬は鸚鵡返しに応じる。

 

「つまり、夫婦。ですか?」

 

「そういう事になる」

 

「ふうふ」

 

紬の確認に敦が頷くと、またも鸚鵡返しにしながら、眼を中空に向けて、落ち着いて噛み砕こうとしているかのように考え込む様子だ。極めて利発な紬には珍しい仕草だ。

 

そんな妹の様子にそんな場合でもないのは承知で敦は、内心でしてやったりと思っていた。何せ、紬という少女はこちらが何か言う前には何を言うか了解している。何かを明かそうとした時には何が出るか既に了承している。とそんなサトリ具合なのだ。本人に悪意はないが、ずっと話していると流石に辟易とする事もある。

 

しかし、常にそんな澄まし顔の妹に出会って以来初めて、完全に慮外の一撃を食らわしてやったのだ。そのどういう事か把握しきれないという顔を初めてみて、我ながら小物らしい満足感を敦は覚える。

 

「その……なんとまず何から言えばいいか困りましたが、ともかくおめでとうございます」

 

「あぁ……ありがとう」

 

少しして、まだ幾許かの当惑は残しつつも平静さを取り戻したのか、ともかく祝辞を述べるのは流石の自制心か。

 

「色々と普通の結婚や夫婦生活ではないようですが、そこは今はアレコレ聞きません。ゆっくり知れれば良い事です」

 

全く紬の言う通りで、結婚したと言うにも関わらず別に以前と変わらぬ暮らしをしていたり、一応身内の紬にすら報告すらなかったり色々まともではないのは伺い知れる。

 

しかし、それをこの場で一つ一つ問い詰めていても中々先に進まないので一旦脇に置いておく分別が紬にはあった。もっと重要な事、優先順位がある。

 

「でも、そうですね……」

 

一つ間を開けて、微笑んで紬は言った。

 

「兄さんがちゃんと人を好きになれて、安心しました」

 

紬から見て敦は、その生い立ちからか明らかに人間不信の気があった。特に紬から見て悲しかったのは、それは他人が悪い訳でもないと、敦が他でもない自分自身を信用出来てない事に起因していた。

 

故に紬はずっと心配だったし、兄には幸せになって欲しかった。どういう形にせよ、人を好きになれたならそれはきっと前進だろうから。

 

実際久々に見た敦の纏う雰囲気は一変していたのだ。以前は、孤独な陰を纏っていて人を寄せ付けないような雰囲気があった。しかし、しかし今は孤独の中にも穏やかな雰囲気になっている。

 

良い変化……と思うのだが、一方で以前には有った——例えそれが負のものとしてもーーエネルギーが今は乏しく、なんだか以前以上に気勢が無くなったように感じるのが紬には少し引っかかった。

 

何はともあれ。

 

「ご結婚相手は、お隣の方ですか」

 

その紬の言葉はカマをかけるなどという風でもなく確信口調だった。

 

「……わかるのか」

 

敦はあまり驚きはなかった。紬はこのくらいは良く見透かしてくるからある程度は慣れているのだ。

 

「兄さんの目線と意識がそちらへ向かうので。お隣さんもさっきこっちに意識向けましたよ、私の事が気になったみたいですが、すぐ興味無くしたみたいで数秒だけでしたけど」

 

「うわぁ……」

 

敦は二つの意味で若干引き気味の声を出した。まず、相も変わらぬ紬の恐ろしい感受性に。この少女、一般家屋程度の中なら何処に誰が居て何をしているか感覚的に把握する事が出来る程なのだ。

 

あまり同じ家庭に住みたくはない。敦は内心そう思った。

 

そして、どうやら隣室にいるらしいレア。もう起きてる時間だし多分書見でもしているのだろうが、気になっても数秒でどうでも良くなるというあまりにもらしい無関心っぷり。

 

こちらは同じ生活範囲内でも気楽だろう。むしろそうなったら向こうが根を上げてしまうか。

 

「やっぱり変わった人ですね。なんか透明で、男の人か女の人かすら分かりませんでした」

 

「普通はわからない」

 

訝しげに首を傾げる紬に、敦は冷静に突っ込む。隣室の人間が意識を向けてきたなど分かる時点で大概おかしいが、それでどんな人間か読まれてはいよいよ、人間離れし過ぎていると敦は思った。以前よりも鋭くなってないだろうか?

 

「とりあえずご結婚相手の事は一旦置いておきます。先に私の方の話をしていいですか?」

 

再び話を後回しにして何だか、色々話す事や聞く事が多くなって、今夜中に終わりますかね。などと内心思いつつ紬は尋ねた。

 

「あぁ、いいよ。……父さんの事か?」

 

「はい」

 

こくりと紬は頷いた。

 

「お父さんは、最後の方は兄さんの話をするようになりました」

 

「……」

 

敦は内心驚愕した。あの養父は敦の事を間違いなく疎んじていたからだ。最初は間違いなく愛していただろう。血の繋がりの有無など関係ないと、お前こそが俺の実の息子なのだと。

 

しかし愛憎は表裏一体。呆気なく裏返った後に残る感情は、失敗の一言に尽きた。結局の所、血の繋がらぬ息子など偽物だった。養父にとって敦はただの縁無き他人だったのだ。

 

分かっている。だから養父は養母と敦と決別した後、敦という忌まわしい失敗を取り戻そうとしたのだ、つまりは……

 

敦はふるりと首を振り、口を開いた。

 

「そう、か」

 

そう、養父は敦を疎んじていた。それは新しい家庭を持ってからの事で分かっていた事だ。事実、養父は紬に問い詰められて隠し切れずに養子の存在を白状した時しか敦の事を語ろうとはしなかったのだと敦は聞いていた。

 

紬にしても、父に敦の話を振るのは忍びない思いがあったから結局敦の話題はタブーのようになってしまった。人の心に用意に触れてしまう紬は、触れられたくない痛みもあると弁えていた。

 

兄を居ないものとして振る舞う事の自分の痛みなら耐えられるのだから。

 

「父さんが何て言っていたか気になりますか?」

 

「……」

 

それに対して、敦は一つ考えるように目を伏せる。しかしその時、口元に小さく笑みが掠めた。

 

(笑った……?)

 

その笑みを紬は見逃さない。しかし、紬を持ってしてその意図が読み切れなかった。このタイミングにおいて自嘲とか皮肉とかの色ではなく、本当に面白がっていた笑みだと分かったからだ。

 

やはり、以前の兄と違う。

 

最も、笑みの理由は大した事ではなかった。敦はもしレアだったなら、と考えたのだ。そしたらあの人が、どうでもいい。と即答するのが目に浮んだだけの事だった。

 

しかし、それは今は関係の無い空想だ。敦自身としては、どうでもいいとは切って捨てられない。

 

「父さんは、なんて?」

 

「後悔を口にしていました」

 

「……」

 

それは、一体どういう後悔なのか?敦の胸が不快に高鳴った。

 

「兄さんに、申し訳無かったと。悪い事をしたと」

 

あぁ。

 

敦の想像したような後悔では無かったが、養父が晩年抱いた悔恨の念は、敦の胸の内の不快感を消してくれるようなものでは無かった。

 

「思えば、俺はあいつをちゃんと一人の人として考えて引き取ったのではなく、自分達の慰みの為に引き取ったのかも知れない。あいつはきっとそういう所を感じ取っていたのだろう」

 

紬の言った言葉は、そのまま父の台詞の要約のようだった。そしてその言葉は、敦の昔の心情を幾許か捉えていた。

 

「その過ちを直視出来ず、自ら望んだ息子に向き合う事もなく逃げ出した俺は、一体何をやっていたのだろうな……と」

 

「あぁ……」

 

そうか養父は、そう考えていたのか。ずっと疎んじられているものとばかり思っていた。

 

「父さんは、謝りたいが兄さんにもう合わせる顔がない。だから謝罪を伝えて欲しいと、言伝を預かって今日来ました」

 

「そうかぁ……」

 

父は、後悔していたのか。

 

「和解の目はあったのか……」

 

そう知っても、敦の胸には喜びも、さりとて悲しみもなくただ空虚だった。

 

その、敦の眼を見て紬の心は軋んだ。感受性の高さ故に人の痛みに彼女はとても弱いのだ。親しい人程同調し易くなってしまう。

 

相手が苦しんでいるのを見て、自分も引き摺られて苦しみを感じる。そういう共感性は誰にでもあるが、紬の場合それに加えて同調性で本当に相手の苦しみが伝わってしまうのだ。自分と相手とで二乗になってしまう。覚悟はしていたが辛い。

 

「別に、父さんが悪いわけじゃなかったのになぁ」

 

「兄さん」

 

「母さんが死んで……一度は失った家族」

 

「それでも、また得られたそれを壊してまで、俺は、一体何が欲しかったんだろうなぁ……」

 

そう、天井を仰いで呟く敦に、とんと軽い衝撃が走った。紬が椅子に座る敦に縋るように抱きついて、涙を流していた。

 

「ご、めんなさい。兄さん、ごめんなさい」

 

「何でお前が謝るんだ?」

 

泣きながら謝罪する紬を敦は抱き返しながら問う。

 

無論、敦は分かっている。養父の生前、敦と養父は混じり合える可能性は有ったのだ。

 

ただ、皆臆病過ぎたのだ。敦は養父に嫌われていると自らを遠ざけた。養父は、悔やみながらも恨まれているだろうと自ら歩み寄れなかった。

 

そして、二人の心情を理解していながら、歩み寄れる可能性があると知りながら、兄と父、二人の不興を買うことになるのが怖くて、結局最後まで二人の間を取り持つ事が出来なかった紬。

 

だからこそ紬は後悔する。手遅れになってから。やはり父が生きている内に自分が何とか出来たのだと。

 

何が神童だ。人の心が分かるのに、自分は何一つ大切な人の役に立てない。

 

「ごめ、んなさい」

 

「お前は、何も悪くない。悪いのは」

 

自分一人だったと。

 

そう思った刹那、またあの人の声が聞こえた気がした。

 

「誰も悪くなんてないんだよ」

 

あの人ならこう言うと敦は思った。

 

そうだ、誰も悪くない。教えてくれたじゃないか、誰も悪と知って悪を為すものは居ない。皆、父も自分も紬も、ただただ、幸福になりたかっただけなのだ。

 

ただ、皆が幸福を願って、それで万人が上手くいくような世界ならどんなに良かっただろう。

 

現実には皆が皆、幸福を願った結果が万人が万人に対する闘争となる。

 

敦は顔を上げた紬の、涙を指先で拭った。

 

「ありがとう、紬」

 

後悔は残るけど。でも、少しの救いにもなった。

 

「父さんは、兄さんを愛していました」

 

くしくし、と紬は自分で涙を拭いながら言った。

 

「どうか許してあげて下さい」

 

「憎んでなんていないよ」

 

ふるふると首を振り敦は言った。そう別に憎んでいた訳じゃない。

 

それに多分愛されたかった訳でもない。

 

そして、恐らく養父とも上手くいかなかった一つの要因。それの敦の性が今も顔を見せていた。

 

(何をやってるんだ俺たちは)

 

何処か場の空気に酔ったような、自分と妹。それを俯瞰している酷く醒めた敦がいる。

 

(まるで安っぽいドラマだな)

 

こういう冷笑的な部分こそが敦の欠点でもあり長所とも言えるかも知れない。よく言えばどんな時でも幾許かの冷静さを保てる。しかし、ただその瞬間に無我夢中になるような、生きる事への懸命さに欠けているとも言える。

 

野々村敦は気勢の無い男である。そして紬もそれは知っていた。

 

敦はとりあえず仕切り直しとばかりに、温かいお茶を改めて淹れ直した。一服して紬も落ち着きを取り戻す。

 

「それで、改めて聞きたいのですが」

 

「うん」

 

平静とした口調に戻った紬が話題を変えてきた。

 

「ご結婚相手はどのような方なんです?」

 

まぁ、やはり気になるのはそこだろう。

 

「見かけは……俺より年上なんだが凄く小柄で、顔立ちも幼い子供みたいな、可愛い人だよ」

 

紬は、兄はロリコンだったのだろうか?と口には出さないが思った。紬自身、人の嗜好や志向を読む事には自負があったので今まで気付けなかったとしたらちょっとした屈辱だ。

 

「……人柄はどのような人なのですか?」

 

「一言で表すのは難しいな……分かっていると思うけど相当変わっている」

 

「まず夜行性だ。陽が落ちる頃に起きて、朝日が登ってから寝る」

 

「それだけだとずぼらな印象ですね」

 

「それは違う。いや、そういう面もあるだろうが……かなり規則的な生活だからな」

 

「ならば人嫌い……ですか?」

 

む、と相変わらずのサトリっぷりに敦は閉口しかけるが改めて口を開く。

 

「どうだろうな……人が嫌い云々は分からないが、少なくとも人間の刺激がキツいのは確からしい。夜中は静かで人が居ないからと言っていた」

 

「何となく分かります」

 

紬は、お茶を一口飲み続けた。

 

「私と同じ所がある人、でしょう」

 

「……」

 

それに敦は即答は出来なかった。是とも言える、否でもある。確かにあの人も感受性が高すぎる部分があるのだろう。しかし、紬のように人に関わるタイプでもない。

 

「分かりますよ……人の心が映るのが辛くて辛くて、向き合えないというのは」

 

「いや」

 

敦は思った。紬の言う事は的外れではないが、正答とも思えない。第一会ってもいないのに、あの人の事が分かるなんて顔されるのは、流石に妹相手でも敦は不愉快だった。

 

「そんな単純に理解は難しい人だよ」

 

「なら、兄さんはどんな人だと思っているんですか?」

 

「言っただろう、分からない」

 

「それでも、強いていうならあんなに優しい人もいないし、あんなに怖い人もいない。かな」

 

そう独白するように言う、敦の目線は伏せられていたが、紬はそんな兄の眼を真っ直ぐに覗いていた。

 

「でも、その人が兄さんは好きなのですね」

 

「あぁ」

 

「結婚しても……それでも共に暮らせなくても、ですか」

 

その言葉に、敦は暝目した。そうして、暫しの後に答えた。

 

「例えばだが、紬はどう思う?好きな相手がいつか出来た時に自分はどうしたいと思う?」

 

「どう、ですか?そのような人もいないのでまだ……」

 

「一度も考えた事もないか?例えば、いつか自分も好きな男が出来たら結婚して、子供を産んで、幸せな家庭を作ると、漠然と思った事はないか?」

 

「……」

 

答えられなかった。紬もそんな何処か当たり前のテンプレート通りの幸福を漫然と将来に思い描いていた部分がないとは言えない。如何に幼くても、いや幼いが故にそんな事も考える。

 

思えば、そんな当たり前を得ようとした大人達に踊らされた目の前の兄を知りながらだ。

 

「子供は、出来るとは限らない。そんな下らない理由から結婚生活が瓦解する可能性はある」

 

それはまさに、敦の養親が辿った道であった。紬の父でもあるが、昔を知らない紬と、その当事者の敦では、同じ父でも見ていたものは違う。

 

「お前が好きになれるのは男ではなく女かも知れない。そうしたら少なくとも結婚は無理だ、それ以前に誰一人、人を好きにはなれないという事もありうる」

 

「……」

 

如何に強い共感能力を持っていたとしても、紬は誰かではない。自身とは決定的に違う人の立場に自身を置いて考える……という訳ではない。その能力は必ずしも人以上ではないのだ。

 

「ごめんなさい。私も、兄さんに当たり前を押し付けたのかも知れないです」

 

「俺の事は別にいいんだ。だけどあの人にはあまり押し付けたくはないんだ」

 

当たり前の価値観を当たり前のように押し付けられる。あまり真っ当には生きてこれなかった敦にとってそれ自体は業腹だが、仕方ないと弁えている。

 

だが、あの人は多分それに自分以上に倦む所があるだろう。敦は思う。あの人は俺より深いから、きっと自分自身も気付かず犯してきた部分があるはずだ。それはなるべくしたくない。

 

「後は、俺自身の理由もある」

 

「欲しいモノは手に入れたくない。ですか」

 

「有り体に言えばそうだ」

 

敦の心情を読み取った紬に、頷いて答える。もしかしたら、先の理由は方便でこちらの理由が殆どなのかも知れない。

 

「花が美しいからと、自らのものにしたいと手折ってしまう」

 

「そうすると途端に萎れてかつての美しさや香りが見る影もなくなってしまった花を呆然と眺めている」

 

そう話す敦の眼に無情な痛みが宿っているのを紬は見た。

 

「男の欲っていうのはそういう所があると思う。いや、男に限った話でもないかも知れないが……」

 

「なるほど」

 

紬は頷いた。言っている事はもっと小さな話でも自分でも身に覚えがある。多分誰にでもあるのではないか。

 

例えば、店に売っている商品がどうしても欲しくてなけなしのお金で買って手に入れる。しかし、いざ手元に来ると、あんなにも欲しかったのに、それが酷くありきたりなつまらないものに思えて結局見向きもしなくなる。

 

「思うに、花を愛するなら手折ってしまうべきではない。ただあるがまま咲き誇る美しさを自然に愛でればこそ、花は喜んで綺麗に咲くんだと」

 

買わずに後悔するより、買って後悔しろ。などという言葉はあるがどうか?買っても手に入れても満足出来ないくらいなら、手に入らずに悔いを残す方が上等なのかも知れない。

 

「兄さんは……」

 

「兄さんは、手に入らないモノしか愛せないのですか」

 

紬の指摘に、敦は頷いて答えた。

 

「そう、かも知れないな」

 

「あるいは、手に入る程度のモノは、手に入れる価値がないのかも知れない」

 

以前、他ならぬレアが自身は俗物で誰よりも強欲だと自称していたが、その論法で言うなら敦も大概なのかも知れない。

 

「兄さんは、変わりましたね」

 

紬はポツリと言った。

 

「以前は、足りないと、飢えていたのに」

 

「それは、別に今も変わらないよ。ただ、あの人と話している内に飢えているというその事によって案外俺は幸福だったのかも知れないと、今はそう思う」

 

「得られる事はなく、満足もする事がない。それでも良いと」

 

生きていても何も得られないと分かっていて、諦めている。紬は思う。そんな絶望を幸福と言うのか。いや、敦の眼にも口調にも自己欺瞞の色はない。本気で言っている。

 

「と、言うかだ。そもそもあの人なら多分こう言うと思う」

 

「どのようにですか?」

 

「人は、一人でしか生きられない。故に絶対的個人が、恋人や夫婦関係において、相手は自分のものだとか、自分は相手のものだ、なんて考える事自体、傲岸不遜にも程がある」

 

そうだ、あの人ならきっとそういう。この瞬間、敦は自分の口を借りてレアが喋っている気すらした。

 

「そんなものは愛とは認めない……と、きっとこう言うだろうな」

 

なるほど、話を聞くだけで一筋縄ではいかない人らしいのは分かった。恐らく超個人主義で、内省に耽ってばかりいるイメージだろうか。しかし。

 

「又聞きでは、何とも判断出来ませんね」

 

相手を理解したくば直接会って、観て、話す。紬にとってこれが一番だ。むしろ本人に会う前より、他人の評価を聞きすぎるとバイアスがかかってしまうというものだ。

 

「では、挨拶に参りますか」

 

「会う気か……」

 

まぁ、そう言い出すだろうと思っていた敦は軽く嘆息した。

 

「それはいくら私でも会ってみないとどんな人かは分からないのです。幸い今ご在宅ですしね」

 

「そうなんだが、気難しい所もある人だからな……」

 

あの煩わしい事大嫌いな人の所に、全く知りもしない他人ーー実際は義妹の関係にあるのだがーーを連れて行ってどんな顔をするか。むしろ、レアをここに呼んだ方がまだいいか?大差ないかも知れないが。

 

「兄さんのご結婚相手に、妹として一言挨拶するだけですよ。別におかしな事でもないのです」

 

「まぁ、な」

 

退けるのが難しい程に正論だ。確かに至極当たり前の事だが、結婚したから、相手の血縁とも親戚付き合い〜などと、如何にもあの人が嫌いそうだ。というか敦だって面倒だ、事実、敦も向こうの父親に挨拶すらしなかったという非礼を犯している。

 

敦はチラリと時計を一瞥する。とりあえず訪問は可能のいつもの受け付け時間だった。

 

今日は別に尋ねるつもりはなかったから、手土産の用意もなく手ぶらになるが。

 

「分かった。行くだけ行ってみよう」

 

ふ、と一息吐いて敦は観念したように言った。

 

敦もいっそ、この妖怪サトリの様な妹とサトリならぬ悟り澄ましたような自称俗物のレアを引き合わせてどんな化学反応が起こるか少し気になってきた。

 

「えぇ、是非」

 

ぱっと笑顔を浮かべて紬は応じた。

 

「ただ、会えるかの保証は無いぞ。あの人は誰にも会う気のない日は鍵を閉めて、一切対応しない。携帯の類も持ってないから連絡も取れないしな」

 

そういいつつ敦は重い腰を上げる。実際にはレアは携帯は持ってはいるが、使わないし、敦も連絡先を知らないので、分かりやすくそう言った。

 

「多分だけど、今日は会えますよ」

 

予言じみた紬の言葉に、敦は小さく苦笑した。

 

何となく敦もそんな気がした。

 

敦と紬は共に部屋を出て、お隣の扉の前に立った。敦はいつも通りインターホンを鳴らす。

 

紬は、インターホンなど鳴らさずとも、敦の部屋から出た時点で中の住人の意識がこっちを伺っているのを把握していた。いや、相手の意識の広がりに包まれているような独特の感覚は、把握されていたというべきか。

 

ごくたまにこういう空間把握能力の持ち主がいる事を紬は経験から知っていた。

 

勿論応答はないので、敦はドアに手をかけるが、あっさり開いてしまった。

 

ほら、やっぱり。敦はそう思いつつドアを開けて入室する。

 

「お邪魔しますー。今日客を一人連れて来たんですけどいいですか?」

 

「こんばんはあーちゃん。んー?お客様ー?だれ?」

 

敦の言葉に中からレアは応じる。その惚けたような声色に紬は狸め。と内心思った。私の事は兄の部屋にいた時に気がついていたのに。

 

「お邪魔します」

 

紬は夫婦の問答を待たずに、兄に続いて室内に踏み入りながら、挨拶する。鼻先を爽やかな青林檎に花のニュアンスが混じった香りがくすぐった。

 

その間取り自体は兄の部屋と同じだが、書棚やら積まれた書籍だらけの部屋。その机の前の椅子に腰掛けている兄の妻となった人物。

 

紬はその人をちゃんと視界に収めて意識したのに、上手く認識が出来なかった。顔立ちは?体格は?表情は?一瞬何も分からずに混乱しそうになった。

 

「ありゃ、これはまた一段と可愛らしいお客様だねぇ」

 

のんびりとした風鈴のように涼やかな相手の声が耳に届いたので、それをとっかかりに意識を繋げるようにして紬はやっとそこにいる人物を感覚で捉えた。

 

なるほど、聞いていた通り幼い顔立ちと体躯だと紬は思った。実際下手すればレアは、紬より幼く見えかねない。

 

レアはゆったりした部屋着だから体つきなど分かりにくいが胸などは、紬の方が少し発育がいいくらいだ。背も僅かに紬が高い。

 

レアは椅子の上で立てた片膝に、開いていたらしい本を伏せて持った手を置き。首を傾げて、漫然として色のない流し目で紬を見上げていた。

 

その口元には、あるかなしかの笑みが浮かんでいる。紬には、その何処か面白がっているようで無関心なような全体の雰囲気が印象的であった。

 

何処となく不気味に紬は感じた。

 

「これは、実は俺の……妹で、紬といいます。今日、挨拶したいとの事で」

 

「初めまして。私は、中島紬と申します。兄さんとご結婚された義姉さんとこうして、お会いできて嬉しいです」

 

兄の紹介に乗っかるように、紬はまず初手はなるべく丁寧に挨拶をした。それに対して、レアは自分の格好が無作法と思い、机に本を伏せて置き、姿勢を改めて、返礼した。

 

「これはご丁寧に、初めまして。私は、私は〜…」

 

そこまで言ってレアは先の言葉を見失ったように、何とか口を開きかけて、結局噤んで少し考えこんだ。そして結局諦めてこう言った。

 

「あーちゃん。ボクの名前って何だっけ?」

 

『は?』

 

その質問に、兄妹は異口同音に間抜けた声を返した。いやこの場合は桁外れの間抜けはレアであった。

 

「……紀昌ですか貴女は、野々村レアですよ」

 

「あぁ!そうだった。野々村レアと申します。以後お見知り置きをー」

 

それに対して、紬は答えを返しあぐねた。今のが、ただの諧謔として惚けてみせただけならーーまぁキツい冗談だがーー笑って流す事も出来たのだ。

 

しかし紬は、真面目にレアが自分の名前を忘れて困ったというのがありありと分かってしまっただけに笑いようがない。

 

室内に入り、兄と並んで硬い床に腰を下ろしながら、あの人は若年性認知症なのだろうか?と紬は素で心配した。この後の話でおかしな所があったなら病院へ連れていかなければ。などと考えていた為、座布団一つない事は気にもならなかった。

 

そして、レアはキッチンへ行き二つのコップに水道から無造作に水を注ぐと、戻ってきて二人に差し出した。

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

レアはこれが言いたかったのだという風にニコニコ笑っていた。

 

「頂きます」

 

「あ、ありがとうございます?」

 

紬は、兄が微笑んで何でもないように水道水を受け取ったのを見て、戸惑いつつも自分も受け取った。

 

とりあえず一口飲む。ぬるくて、僅かにカルキ臭い本当にただの水道水だった。

 

「いやぁ、自分の名前をど忘れとかよくあるよねー」

 

そこで更にレアが自分の席に着きながらあるある、という風に追撃してきたので紬が水道水で咽せそうになったがなんとか飲み込んだ。

 

「ないですね」

 

敦は冷静に突っ込んでいた。

 

「あー、いや。でもた、たまに私もど忘れってありますよ」

 

そして、紬は気を遣ってフォローした。我ながらかなり苦しいが。

 

「ねー、あるよねぇ」

 

おかしいのはあーちゃんだ。などと嘯きながらレアはクスクスと笑った。

 

最初の第一印象から一転、畳み掛けるように三つボケを重ねられる茶目っ気に紬は笑うべきか迷った。

 

「あの、ちなみに名前をど忘れって本当に良くあるのです?」

 

しかし、後のは意図した冗句だが最初の大ボケが素だったのは分かった為、紬は確認してみた。

 

「いやー、本当の事言うと良くあるって程じゃないよ。子供の頃からたまーにあったくらい」

 

紬は、病院を勧める方向に思考が傾き始めた。しかし、兄を横目で見ると彼は特に顔色を変えずに水道水を飲んでいた。

 

敦はもう一々大袈裟に驚きはしないくらいにレアの無茶苦茶加減には慣れていた。

 

ただ彼は、今日はレアさんテンション高いな。嫌がられるかもと思ったが、意外と客に喜んでいるのだろうか?などと考えていた。

 

「あれ?野々村……」

 

そこで遅れて紬は気がついた。結婚したのに中島姓ではないのか。夫婦別姓を名乗っているのだろうか?

 

「俺が野々村姓になったんだよ」

 

敦は紬の疑問を汲み取って答えた。

 

「えっ、婿入りしたのですか?」

 

「あぁ」

 

敦は肯首した。

 

「何故です?」

 

「そうだな……単に野々村って名前が気に入った、からだな」

 

「そう、ですか……」

 

紬は俯いた。もう兄は自分と同じ姓ではないのだ。これで、自分は敦の妹だと言える根拠が一つ無くなった事になる。

 

それはいいとしても、今の兄の答えには含みが合った。兄には養父と同じ姓を捨てたいという思いがほんの幾許かにせよあった事を悟ったのだ。紬は流石に少し堪える。

 

「あの、レアさん。とお呼びしてもいいですか?」

 

「何でもいーよ」

 

先程までは笑っていたレアは、兄妹間で問答が行われている間に笑みが消えて呆けたような表情で、焦点の定まらない目線を中空に向けたまま、紬の問いに本当に何でも良さげに答えた。

 

「レアさんは、何で兄と結婚したのですか?」

 

「んー、何でだっけ?」

 

「俺は知りませんよ」

 

紬の質問に、ぼんやりした目線を敦に向けて、レアははて何でだろうという風に言った。

 

敦もレアがどういうつもりで結婚したかなんて分かるわけもない。と答える。

 

「確か……あーちゃんが婚姻届持ってきて、書いてって言ったから、かな?」

 

なんなのだ、この人は?紬は思った。

 

「……なら兄さんは何故婚姻届を?」

 

「レアさんが結婚する?みたいに言ったからしてみようかな、と」

 

「そだったけ?」

 

確かに先に結婚を口にしたのはーー半ばおふざけでだがーーレアだったのだが、本人はもうそんな事は忘れていた。

 

「まー、そんな大した理由はなかったんじゃないかな?きっと太陽が眩しかったからだよー」

 

そう言ってクスクスとレアは楽しげに笑った。

 

「二人ともふざけてますか?」

 

真面目に話を聞こうとしてるのに全く取り合って貰えないような受け答えに紬は、流石に少し撫然として言った。

 

「あー、ごめんねぇ。そうじゃないんだよ」

 

レアは少し困った様子で弁明した。少しの疎わしさが混じっているのは、レアのピントの外れで視座しているような態度に相手を怒らせてしまう事が恐らく少なからず有って食傷気味なのだろう。

 

「紬、別に俺もレアさんもふざけている訳じゃない。言っただろう」

 

普通を押し付けるな、か。

 

最もだ。紬は思った。ここで自分が子供のように(子供なのだが)感情的になっても誰にとっても全く利得にならない。そんな事より自分の感情なんて捨て置いてこの人を見極める事に徹するべきであろう。

 

そう考えて紬は一つ息を吐いて自制した。

 

「いえ、こちらこそごめんなさい。好きにお話を進めて下さっていいです」

 

「そう?じゃあ、本当の所を言うけどね。やっぱり同じなんだ。大した意味はないんだよ。逆に結婚するのに大袈裟な意味だとか、理由だとかって必要かな?」

 

レアはのらりくらりしていた所を、少し正対する姿勢になったのかそう答えた。

 

「……人によると思うのです」

 

紬は当たり障りのない返事をする。その眼がじっと、レアの眼や表情を覗き込んでいた。

 

「ボクはね、人達が結婚するのに大した意味も理由もないように思う」

 

クス、と何処かシニカルなニュアンスの混じる笑みを漏らした。

 

敦は紬の隣りで、おっ、今日は皮肉屋が現れそうだぞ。などと思っていた。

 

「何となく出会った二人が何となく付き合って、何となく結婚して何となく一緒に暮らして、何となく子供出来たりもして、何となく育てて、何となく死んでいく。そんなもんじゃあないの?」

 

「むしろそんな深ーく深刻に考えてたりしたら誰も結婚なんか出来ないよきっと」

 

そう言ってレアは何処か品を作るように椅子の上で片膝を立ててクスクスと笑った。

 

敦は口出しせずに、そんな様を見てレアさんって意外と少しあざとい仕草するよなぁ。しかも微妙なバランスで可愛いな。などと全く関係ない事に思考を巡らせていた。

 

この人、多分自分がかわいい事知っているよな。いや、そもそも以前から自分は見てくれは良いらしい。とか言ってたし、客観的な評価を自認しているのだろう。本人自身が主観的に自分の容姿をどう思っているのかは知らないが。

 

「まぁ、そんな訳で大した意味もないのだから、結婚なんて大抵が勢いだよ。そういう意味ではボクも多分、例に漏れず」

 

特に紬が口を挟まないのを見て、レアは話し続ける。

 

「あーちゃんが婚姻届持ってきて、ボクはまぁ面白いかも知れないし書いてもいいかぁ。と思ったから記入した。単にそれだけなんだ」

 

ごめんねぇ、つまらなくて。とレアは微笑して言った。

 

「兄さんの親については聞いていますか?」

 

それに対して紬は何か自分の所感を述べるでもなく、全く別の話を切り出した。

 

「聞いてるよ。養子だったとかでしょ」

 

「そうです。ですから気になりませんか?」

 

紬はいつもの悪癖で主語を抜いて尋ねた。

 

「気にならないねぇ」

 

しかしレアは即答した。紬の言わんとしている所をちゃんと汲み取ったのか。

 

否。紬の問いかけが何を指すのかは、レアは別に理解していなかった。ただ何か気になる事がないか?と言われれば特にない。それだけだった。

 

「……気になりませんか。私が、兄さんのどの親の娘なのかという事がです」

 

レアが理解していない事を読み取って、紬は今度はちゃんと明確に言った。

 

「あぁ!そっちね!なるほどねぇ」

 

確かに、敦の親に当たるのは実の両親と血の繋がらぬ両親。総勢四人いる事になる。じゃあ、敦の妹を名乗るこの少女はその四人の中の誰の娘に当たるのか?

 

「えーと、あー?ごめんね、お名前なんだったっけ?」

 

レアは問いかけようとして、先程名乗りを聞いた紬の名前をもう忘れている事に気付き、改めて聞く。

 

「中島紬です」

 

「ん、じゃあつーちゃんだね」

 

「つーちゃん……」

 

紬は唐突につけられたニックネームに、少し困惑する。そんな渾名で呼ばれた事は一度も無かったのだ。

 

そして、レアは目の前の、敦の妹である少女の形に『つーちゃん』と明記すると、中島紬という名は五秒程で何処かに溶けて消えた。

 

「そんでね、つーちゃん。それはちょっと気になるけど、聞く方が面倒かなぁ。覚えるのが大変だから」

 

「……」

 

紬は絶句した。レアの頭の中が単純明確、無駄を削ぎ落としてとことんシンプルに構成している事を理解したのだ。

 

つまり、オッカムの剃刀である。レアは色々な情報で重要じゃない部分はすぐに切り捨ててしまう癖がある。

 

例えば、知り合いから、自分には一つ歳上の兄と、二つ下の妹がいると聞いたとする。レアはざっくりこう覚える、この人には兄妹がいる。

 

そして、その兄妹が兄か弟か妹が姉か、そもそも何人か忘れてしまうという具合だ。ぶっちゃけ他人に対して覚えいる事など、その程度でも案外事足りるのだ。

 

だから、敦の親。単純に言っても四択ーーさらに誰が誰と、という組み合わせを考えたら更にややこしいーーなどレアははっきり言って覚えてられる自信がない。なら最初から聞かない方が覚える必要もなくて助かる。

 

「私は、兄さんの養父の実の娘なのです」

 

「ありゃ、そーなんだ」

 

そう思っていた所に聞いてもいないのに紬から教えられてしまった。聞いてしまったら聞いてしまったらで仕方がない。一応覚える努力はすべきか。まぁ、多分徒労に終わるのだが。

 

あーちゃんの妹は養父の娘。妹は養父の娘。妹は養父の娘。レアは頭の中で三回繰り返した。

 

「ん、養父さんの実の娘さん……?」

 

紬はそう言った事にレアは遅れて気がついて考えた。確かあーちゃんの場合は決別したのが養父さんだから……

 

「今何を考えました?」

 

その時、紬はほとんど睨むような眼付きでレアに言った。

 

あぁ、やっぱりそういう事かとレアは得心がいった。

 

敦の養父は養子である敦を実の息子と見る事を諦めてしまった。それはレアをして重要な所だと思い覚えていた。

 

そして今の紬の感情を露わにした反応。つまりは、養父にとって敦と紬は言わば偽物と真作の関係なのだ。

 

子供が出来なかったが故に求めた養子である敦。その養子に対する失意の後に求められた実子。考えるまでもない関係性だ。

 

もっともそれは、あくまでも養父からの視点での関係だが。

 

否、それだけでなくーー

 

「つーちゃんが思っている事は、ボクは全く考えてないよ」

 

やっぱりこの人は、兄を偽物だと!そう紬は激昂した。が、しかし。

 

「だって、ボクはあーちゃんが真作だろうと、偽物だろうと関係ない。そんな事はどうでもいいんだ」

 

その言葉を聞いた瞬間。紬は困惑した、この人は兄が本物でも偽物でもどうでもいいと?そう言ったのだと理解した瞬間に、紬自身の背筋がスッと冷えた。

 

この人は本当にどうでもいいのだ、ならば今それに拘ったのは……

 

「そうだね……一口の刀、刀剣があったとする。その刀の茎には銘が切られている。それには真作もあれば、名工を騙った銘を切った偽物もある」

 

そして。

 

「そして、もちろん無銘もある。でも、それら真作だろうと偽物だろうと、無銘だろうと。皆等しく刀剣、一口の刀だ」

 

「同じく、ボクにとっては、あーちゃんはただの一個人に過ぎない」

 

「だ、だったら……」

 

そうだよ。とレアは頷いた。

 

「自分が真作。そしてあーちゃんを偽物と貶めているのは、他ならぬつーちゃんだ」

 

「っ」

 

その、レアの指摘に紬は天地が逆転するかのような錯覚に、一瞬自分が何処かに転落してしまうのではないかと咄嗟に自身の額を抑えた。

 

そして、その極めて辛辣なレアの意見を側から聞いていて、敦は両者に何もフォローはせずに静聴していた。

 

あるいは……あるいは、敦は、紬が自分に対して強い親愛ーーあるいは執着ーーを見せるのは、敦に対する紬の一種傲慢な哀れみから来ていると気づいていたのかも知れない。

 

 

そういう妹の無意義の優越にうんざりしてた部分が敦にもあったのかも知れない。

 

「つーちゃんはボクを鏡として映った自分の思考をみたんだよ」

 

人を見る眼には自身があった。しかし、無意義の投影。相手に映る自分の心が混じっている事は、紬をして今まで気づいた事が無かった。

 

「兄さんを見下していたのは、私自分なのです?」

 

「そういう面はあるんだろうね……ボクからすれば、人に真も偽もない。万人は等しくボクと同じただの人に過ぎない」

 

今まで気付かなかった自身の心の内を恐るように言った紬に、レアは答える。

 

「つーちゃんはとてもいい眼を持ってるけど、なまじ眼がいいから人の事ばかり見過ぎちゃうんだね」

 

同じ高い感受性を持っていながら、そこがレアとの違いだった。

 

外に目を向ける余り、自分に対する智見が浅いのだ。性質は近いのだがレアとは向いているベクトルが真逆、レアはとことんまでに内省に拘る。曰く、汝自身を知れ。

 

レアを理解しようと眼を向けていたら、まさか逆に、レアに自分も知らない自身の卑しい部分を刺され、紬は傷を負った。

 

ニーチェの箴言は正しい。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

 

レアを理解しようと紬はレアの深い所を覗いた事により、また同時にレアは紬の事を理解した。そういう事なのだろう。

 

レアはぽむと両手を合わせてそれを離して広げて言った。

 

「つーちゃん、そんな事一々気にしないの。ボクはね、他でもないボク自身が無意味で無価値なように、またあーちゃんも無価値で無意味なんだ」

 

無価値と断じられた敦は、特に不服そうでもなく、むしろさもありなんとばかりに二人の対話を静聴して口を出す様子はない。

 

敦にとって、敦になんら価値を見い出そうとしない、そんなレアの自然な態度が救いだったのかも知れない。

 

「そんな事はないのです!兄さんが無価値な訳ないのです」

 

「あー、それはねぇ。つーちゃんが自分には価値がある。とか価値が無くちゃいけない。みたいに思っているからじゃないかな?」

 

紬が反論すると、ぴっ、と指を一本立てて微笑して穏やかに、しかし厳しくもレアは言った。

 

「つーちゃんは、きっと良いご両親や環境。理解のある友人なんかに恵まれて来たんだね。もちろん辛い事だって色々あっただろうけどさ。でも周りに恵まれたのはとても幸福だね」

 

「はい。私は幸せだったと思います」

 

レアの言葉に、紬は頷く。様々な人を見てきた、しかし、自分に近しい人達は皆良い人ばかりだと紬は思う。人の内面を透かしてしまう紬にとってその有り難みはよく理解している。

 

故に中島紬はきっと幸福なのだ。

 

こっくりとゆっくり頷きレアは言った。

 

「幸福な家庭は全て似通っているが、不幸な家庭はどこもその不幸の様が異なっているのである」

 

「……トルストイのアンナ・カレーニナの有名な冒頭の一節だ」

 

「名前は聞いた事ありますが、読んだ事はないのです」

 

「まぁ、書評をしたい訳じゃないから別にそれはどうでもいいんだよ」

 

面白いがっているような歌うような口調でレアは言った。興が乗ってきたのかも知れない。

 

「つまりは、平均的幸福な人達は皆考え方が似たり寄ったりなんだ。ちょっときつい事ばっかり言っているけどごめんねぇ」

 

「いいえ、お気遣いなく。忌憚ないお話を聞かせて欲しいです」

 

軽くフォローを自ら入れるレアに、紬は自らの心が刺される痛みは一切黙殺し、興味深そうな目線でレアを見ながら答えた。

 

「つまりね、つーちゃんは当たり前に愛されたから。自分には愛される価値があると思っているし、逆に言えば価値があって然るべきだと思っているんだ」

 

「……とりあえず、否定はしません」

 

「だけどそれ故に」

 

「私は兄さんを見下している、ですか」

 

レアが言わんとした所を紬は自ら引き継いで言った。レアは微笑を絶やさぬまま頷いた。

 

「つーちゃんは、幸福で」

 

「兄さんはそうでは無かった」

 

「つーちゃんは価値があるから愛されて」

 

「兄さんは価値が無いから愛されなかった」

 

「……」

 

二人のやり取りを敦は黙って、水道水をちびちびやりながら聞いていた。自分の事であるが、他人事のように。

 

「そう私は思っているとレアさんは言いたいのですね」

 

「意識的に思っているとは言わないけどね。でも、つーちゃんがあーちゃんを想う気持ちの(シャドウ)にはそういうものがある」

 

「……」

 

一考して紬は思う。確かに自分は兄を見下したりする気持ちは一切ない。しかし無意識の働きの中にそういうものがあると言われると、もしかしたらそうなのかも知れないとも思う。

 

「幸福とは、突き詰めて自己に愛される価値があるからだ……と考えに依るのが躓きの石なんだ」

 

「価値が無ければ幸福に成れず。無価値ならば不幸になる。突き詰めてそういう貧しい思想こそが禍福の格差の大元じゃあないかな?」

 

「人に価値を見出すのは、商品にお値段をつけるのと変わりない、と?」

 

レアは笑みを浮かべて頷いた。

 

「そうだね。自身の値札に第三者に値段を書いてもらってどうだ?と他人に誇る。我を買えるか!と売り込む。そう考えると実に卑しいと思わないかな?」

 

「言いたいことはわかるのです」

 

しかし紬からして、レアの比喩はある種露悪的でげんなりする所があった。ただ、人に愛されるというだけの事をそこまで悪様に考える必要があるのか?

 

だが、そういう一面も否定は出来ない。それは紬も思う。

 

「……ボクが思うに、価値があるから愛するとか、無価値だから嫌いとか、そんな悪性の愛こそが世界を無限に分かつ諸悪だよ」

 

「どうして無価値なものをあるがままに無意味に愛したらいけないんだい?」

 

「ッ」

 

刺さった。

 

少なくとも自覚してしまったからだ。紬は兄をあるがままにしておけずに、価値を必死に付加しようとしていた。

 

ぐらりと身体が傾ぎそうになり、床に手をついて自身を保つ。紬は傍らに座ってずっと口を挟まない兄を見た。

 

兄もまた紬を見ていた。特に表情は無い、しかし眼だけは複雑な感情が混ざって後暗く光っていた。

 

その眼の中から確かに紬に対する感情を読み取った。

 

兄の眼には、ざまぁみろ。と確かに紬を嘲笑している部分があった。

 

あぁ、紬は理解した。そうか、どうしても昔から兄が自分に対して壁を張っているように感じたのは何故か。

 

分かってはいたのだ。兄は、私が煩わしかった。

 

何故そう思われるのか。今までは、実子と養子という間柄故と思っていた。しかしそれは、間違いではないが本質ではない。つまり紬はこう考えていた。有体に言えば実子の自分に敦は嫉妬していたのだと。

 

だがレアが暴いた通りそれは紬の傲慢。

 

今初めて気がついた。兄はその傲慢こそが煩わしかったのだと。

 

何故?何故私にはそれが見えなかった。人を見透かす事には嫌になる程自信があったのに。

 

紬と同じく、鋭い感受性を持ちながら、しかし何も見ていないような漠とした、焦点の定かでない、ある種白痴めいてすらいるレアの眼。

 

自分とこの人は一体何が違うというのか。

 

「なんの価値もないボクはそんなボクが割と好きだし。何一つ意味のないあーちゃんも何の意味もないけどボクは好きだよ」

 

その言葉で、何故兄がこの女性と結婚したのかを悟った。それは必然ですらあったのだろう。

 

何の価値もない二人が一緒に、特に意味もなく夫婦をしているのだ。

 

「……凄く気が楽だし、心地良いんだ」

 

それまで黙っていた、敦がポツリと補足する様に言った。

 

そう、無意味な人間など居ない。誰しも愛される事も幸福になる価値がある。そんな当たり前で善良な考えを抱く紬はここでは一人異端者だった。

 

「人に価値なんてないといいたいのですか?」

 

「無価値だからこそいーんじゃないかな?」

 

紬の疑問に何言ってんだとばかりにレアは切り替えす。

 

「そーだねえ。もう少しお話しようか。つーちゃんは老荘は読んだ事あるかな?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ、荘子からボクの気に入っているお話を一つしてあげるよ」

 

昔々。などと諧謔のつもりか殊更に陳腐な話出しでレアは話を始めた。

 

「大工の棟梁が、斉の国に出かけたんだ。そしてある所で社に聳える神木の櫟の木を見たんだ。その木はあまりに雄大だった。幹の太さは周り百抱え程あって、その高さは山を見下ろす程だったんだ」

 

はて、何を語りたいのか。紬は語る内容にも耳を傾けてつつ、レアの目の動きや表情、仕草に注視していた。

 

「その木を材料として船を作ったら何十艘も出来そうな巨木だった。その見事さに大工の棟梁のお供の弟子は、じっと見とれた。しかし棟梁は見向きもせずに素通りしたんだ」

 

「何故です?」

 

「そう棟梁の弟子も思った。慌てて棟梁を追って追いつくとこう尋ねたんだ。私が棟梁の家に弟子入りして以来このような素晴らしい材は見た事がありません。それなのに棟梁は視もせず素通りしてしまわれた。一体どういう訳でしょう?」

 

すると、棟梁は答えて言ったんだ。とレアは続けた。

 

「下らぬ事を言うな。あれはつまらぬ木だ。船を作れば沈む。棺桶を作ればすぐ腐る。道具を作ればすぐ壊れる。門や戸にすれば樹脂が出る。柱にすれば虫が食う」

 

そこでレアはシニカルな笑みを深めて言った。

 

「つまり全く役に立たない、使い道のない木だ。だからこんなに長生き出来たのさ」

 

「そうして棟梁が家に帰るとその夜、その櫟の巨木が夢枕に立って、こう言ったんだそうだ」

 

「お前は私を立派な木と比べたいのだろうが、梨や橘、柚や木の実の類は、実が熟すともぎ取られる。また、大きな枝はへし折られ、小さな枝も引っ張られる」

 

「なまじ役に立つ取り柄があるために、かえって己の生命を苦しめるもの。だから天寿を全うしないで、自ら俗人に打ちのめされて、若死する結果になる。これは木に限らない。あらゆるものがこうなのだ」

 

「私は以前から、役立たずでありたいと願ってきた。その死に近づいた今になって叶えられ、真に役立つ存在になったのだ」

 

ふ、とレアは小さく息を吐き告げた。

 

「これがね、荘子の一編。何故巨木は長生き出来たのか、なんだよ」

 

「つまりそれが、貴女の……」

 

紬が言いかけると、レアは笑って言った。

 

「そうだよ。ボクは無意味で役立たずの巨木になりたいんだ。この世界全ての無価値なものを包むほど……あーちゃんも全部ボクが愛するモノになるんだ」

 

そう夢心地で言うレアの眼の恐ろしい程の昏さに、吸い込まれそうになり、紬は吸い込まれそうになり目眩を起こした。

 

この人は異常だ。異質な愛に狂っている。

 

「価値があるから()()()。そんな悪性の愛こそをボクは悪む。分けて代表的ななのは」

 

クスクスクスクスと、心底愉しそうに嗤いながらレアは紡ぐ。

 

あぁ、この人はいけない。駄目だ。そう紬は理屈ではなく直感で理解した。だからきっとこの後続く言葉はとびきり最低な論法なのだ。

 

「母親からの、実の子供に対する愛だ」

 

ほら、みろ。

 

「母親と言うのは、まず子供を自分のものと考えるね。まぁ、気持ちは分かるんだよ、自分のお腹の中に宿って、自分が苦しい思いして必死に産んだ子供だもん。母親は一目みてそれを自分の()()()だと思う」

 

「さて、つーちゃん。君はある産まれた赤ん坊がその母親の物と思うかな?」

 

幼い紬は、まだ子供を産む苦しみも、それによって与えられる赤ん坊も知らなかった。ならば母親から生まれてきた自分の立場しか知らない。

 

その立場からすると……

 

 

「少なくとも母親だからと子供は所用物では、ないとおもうのです」

 

そう言うしかない。無論幸福な環境で育ってきた、善良な紬は自分の母親への深い敬愛を抱いている。だが、母親の所有物として言いなりになるか、と言えば……

 

「でも、つーちゃんのお母さんはそう思っているのかな?」

 

「っ!」

 

レアの醒めたような声に、紬は少しかっとなったが、底冷えするような、レアの眼の底の光りに、反論を失う。

 

「全くないかな?つーちゃんがお母さんに反発を抱いた事。この人は自分を所有物のように扱っているんだー。って思った事が、一度でも無かったと言えるかな?」

 

「……ありますよ、それくらい」

 

紬は抱いた反発心を抑えて、正直に答えた。

 

それはそうだろう。仮にどんな幸福な家庭でも口喧嘩くらいある。そして、百人の子供が居れば百人が一度は母親に対して思った事があるはずだ。

 

「あるだろうね。でも仕方ないよ、お母さんからするとつーちゃんはあくまで『私の子供』なんだ」

 

「私がお母さんの子供なのは間違いじゃあないじゃないですか」

 

その通り。とレアはゆっくりと深く頷いた。

 

「でもそれはね。お母さんからしたら『子供』じゃ駄目なんだ。『私の子供』じゃなきゃダメなんだ。これは全く大きな違いだと分かるかな?」

 

なんだ、この人は。紬は思った。この話は兄に対する当て付けのつもりか?実の子供じゃなきゃいけないと言いたいのか?よりによって兄の目の前で私に対して。さっきから紬の癇に障った。

 

しかし、紬から見て、レアには皮肉の色はあっても決して敦への当て擦りのような毒気は一切無かった。それどころか、レアの意識はほぼ紬に向けられて、敦が眼中にない様に感じる。

 

そもそも前提として紬から見て、レアには善意も悪意も何も色が見えなかった。

 

紬は、兄を横目で見る。敦もまた口を挟む様子もなく興味深げに傾聴しているだけだった。

 

「よくわかりません」

 

まさか、兄の前で実の子供である事かとも言えずに紬はそう返した。

 

「単簡だよ。『子供』と『私の子供』の違いは、『私』の一文字。つまりね、私、じゃなきゃダメなんだよ」

 

つまりね、とレアは微笑して言った。

 

「私じゃなきゃ駄目。というのはただの自己愛なんだよ。母親が『私の子供』に見ているのは他でもない『私』つまり母親自身なんだ」

 

「『子供』に『私』をつける事で子供と私を自己同一化しているんだね。突き詰めてそこに子供なんていない。とも言える。母親は『私』を抱いて喜んでいるんだ」

 

違う。紬はレアが実の子供云々という話をしたいのかと思ったが、違った。紬は浅く見ていた。

 

「お母さんからしたら、私は『私』ではなく『お母さん』そのものだと言うのですか?」

 

「……滑稽じゃあないかな?産みの苦しみを越えて、現れた赤ん坊を抱いて、自分が産んだ。私の赤ちゃんだ。と」

 

紬の問いには答えずに、レアは暝目して静かに言った。

 

「ボクには赤ん坊は産めないけれど、もしボクがその立場なら間違いなくこう思う。お前は一体何処から来たんだ?お前は一体何なのか?」

 

その言葉に敦は引っかかるものがあったが何も言わなかった。いや、彼は何か納得していた。

 

「父親の場合には多くあると思うんだ。突然産まれでた自分の子供。その存在にお前は何処から来たんだ?という()()が父親にはある」

 

「……」

 

その言葉に、紬は父親の事を再考する。父はもう死んでしまったがしかし……

 

 

「母親にはそれが無い。そして自分の子供が『私』ではないと、乖離を感じる事に子供を憎むようにすらなる」

 

「なら、私のお母さんも私を憎むようになると?」

 

ぼんやりとした目を開き、レアは応じた。

 

「一面的にはね。ただ、母親というものはそうして自己同一視していた子供が、自分と乖離していく中で、段々と自己とは違う別人だと区別していくんだよ。そうしてやがて『私』だった子供が『他者』だと認められる」

 

「それが、母親というものの自分の子供への課題だと思う」

 

「母親がそうだというなら、つまり父親は逆。だというのです?」

 

まさに、とレアは指先で座る椅子を叩き。言った。

 

「正しくその通り!……母親が子供に対して、自己同一化から他人へと区別の移り変わりが正常な成り行きなら、父親は、ある時いきなり現れた他人を、自己同一化していくのが課題と言う事だね」

 

「つまり、つーちゃんの言う通り。母親は子供が産まれた瞬間に母親となり、そしてやがて他人となる。父親は子供が産まれた瞬間は他人だけど、やがて父親となる」

 

「順番の違い。というだけですか」

 

「そう、順番が逆なだけだ。だけど逆である事によって決定的に違う部分が父母の間にはある」

 

なるほど、それがつまり。

 

「驚き。ですか」

 

「そう。母親が自身の子供に辿る、『私』から『他人』へのプロセスは驚きが無いんだ。まず最初の一手で私のだ!と感激してるんだから当たり前だよね」

 

「父親はまず最初に驚いている。これは誰だ!?と。これは大きな違いだよ。驚かない限りそれが何なのか考えない。考えない。つまり思考停止というのは色々な意味で恐ろしいものだよ」

 

だからね、とレアは微笑んで続けた。

 

「両親というのは、どちらがと言えば、母親の方が重要であり恐ろしいんだ」

 

その言葉に紬は兄を横目で見る。兄を見限ったのか父である。ならば逆に言って兄にとって自分を大事にしてくれたのは養母であったと言える。

 

いや、そもそもが敦が養親に馴染めなかった理由こそ実の……

 

「話が逸れたね。まぁ、つまり。プロセスが逆というだけで。結局子供には価値が必要だというのは確かなんだ」

 

「親ならどんな子供でもかわいいと言う」

 

「つーちゃん、そんな月並みな言葉信じているなら、コウノトリが赤ん坊を運んでくる。なんて事を信じているより凄いよ」

 

レアは紬の言葉を言い終わるのをまつでもなく、やや呆れたように言った。

 

まぁ、確かに少し無邪気というか、陳腐にも程があった反論だと紬も言っておいて思った。

 

レアは中空に目を向けながら、でも赤ん坊は何処からくるかボクは知らないからコウノトリがもたらしているというのは可能性でいえばまだあるかな?などと独りごちるように言っていた。

 

しかしまぁ、この話をしている印象からして、紬はレアが自分の母親にある種のコンプレックスを抱いているらしいのは理解した。

 

何があったかは分からないが。おそらく真っ当な家庭ではなかったのだろうと察した。

 

「まぁ、そんな事はいいか。話を戻すと愛する子供に価値を求める。付加価値を与えようとする。それこそボクが言う悪性愛だ」

 

「だけど、これは当たり前と言えば当たり前なんだ。大前提として、子供というものが悪性の愛の象徴的な現存在と言える」

 

「……男女が愛し合うという事自体もお互いに価値の見出し合い。だからですか」

 

紬が言うと、レアは立てた人差し指をゆっくりと振って返した。

 

「それもある。でも重要なのはそこじゃ無いんだ。まず愛する事の在り方の問題なんだ。そこに激しい転倒がある」

 

「愛する事の在り方?」

 

「そうだねぇ。つーちゃんはまだそんな感情を抱いた事もないかも知れないけど。本気で愛し合った男女、いや、男女に限らなくてもいいんだけど。それが深い愛な程、彼らの多くはこのように思った事があるはずだ」

 

「……」

 

「いっそ、お互い溶け合って一つになってしまいたい。と」

 

確かに、紬には実体験としてそのように思った事はないが。確かに昂った恋愛感情がお互い一つになりたいという点に行き着くというのはよく聞く話だ。

 

「ここにおいての愛は真性のモノに近い。つまりね。分化した存在を合一させようとする力が働いているからだ。故に恋愛には当然そう言う感情が伴う」

 

「それが正しい愛の在り方ですか」

 

まぁ、有り体に言えばそうかな。とレアは頷く。

 

「突き詰めて、恋人夫婦がセックス。性行為にかりたてられるのもその為だよ」

 

「セッ!」

 

唐突に性の話へと突っ込まれ、紬は赤面しつつ驚愕した。一方敦は集中して拝聴していた。どうも今まで聞いてきた事を理解する上でも今日のレアが重要な事に言及している事に気がついたからだ。

 

「考えてみたら当然だよ。あれなんか一つになる。なんて表現されるじゃない。結局の所どんなに愛し合っても二人は、区別された個人と個人。決定的に一人でしかない」

 

「つまりセックスは擬似的な差別的現存在の合一。と言えるかもね。つまり二人が一つになりたくてするんだ。ここまでは正しい愛の作用。でもね」

 

ふー、とレアは溜息を一つ吐く。そうして残念そうに言った。

 

「ただしここで、ヘラクレイトスの唱えたエナンティオドロミナが起こる。これは平たく言えば一切のものはいずれ、その対立物へと転化する。という原理だ」

 

まさに万物流転を唱えたヘラクレイトスらしいね。と言いつつレアは続ける。

 

「つまりセックスの結果生まれるのが子供ってわけだね」

 

ともかくと、紬も落ち着いてレアの話を噛み砕く。

 

「つまり合一しようとした結果が分化している。というのです?」

 

「そうだね。考えても見たら笑い話だよね。二人が一つになりたいと思ってセックスしたら三人に増えちゃってる訳だから。一体何やってんだろうね」

 

クスクスとレアはシニカルに笑う。

 

「まぁ、そういう訳で愛はここに悪性へと転化する。という働きがあるわけだね。まぁ、このおかしさを大抵の人は疑問にも思わない訳だけど」

 

「良いところまではいくんだよ。愛し合って、二人で一つに。という精神の働きは正しく人間のみしか持てない人間の精神の最も高潔な指向とボクは思う」

 

紬は語りながら苦味の混じる微笑を浮かべて目を伏せるレアに歓喜しつつ絶望しているような複雑で静かな、だが激情の色をみた。

 

「だけど、そこまでだ。結局は獣の衝動のまま考えなしに分化してしまう。世界をより複雑にしてしまう方向に転化する。獣性を捨てきれない人の限界なのかもね」

 

「いみじくもユングの言った通り、多くの獣性は文化人を歪曲し、多くの文明は病める動物を生み出すと言った通りだね」

 

ならば、と紬は考えて口を開く。

 

「なら、愛し合った人同士は子供を生んではいけないと?」

 

「いいや、そういう訳じゃないよ。ボクはそれは好きにしたらいいと思うよ」

 

ふるふると首を振り、あっさり前言を覆すようにレアはそう言った。

 

ただしね、と続けて口を開いた。

 

「それは子供が生まれてくる。という現象を考えて考えて考えた末に、生もう。と答えを出した末の人間の精神にのみ許されるべきだとは思う。ただ、獣の衝動のままに快楽目的で生み出すのは全く人間的ではない」

 

まぁ、そんな観念論じゃなくて、即物的に言ってもそうでしょ。とレアは続けた。

 

「自分の子供への感情。金銭的事情。環境。そう言ったものを考慮せずに考えなしの親に生み出されて不幸になる恵まれない子供は多いじゃない。可愛そうだよ」

 

「それは、分かります」

 

現実的なレベルでそう話されると、まぁ否定のしようはない。

 

「もっとも、親や環境が悪いから、イコールで子供が不幸になるのかと言ったらそれも違うけどね。無論相関はあるだろうけどね」

 

ついでとばかりに継ぎ足したレアの言葉の真意は紬にも不透明だった。

 

凄いなぁ。と紬はやや呆気に取られていた。この人とんでもない自閉体質なのはよく分かる。なのに凄い喋る。自分の宇宙を展開しっぱなしだ。ここまで訳の分からないような分かるような人は初めてかも知れない。

 

そんな紬の考えはお構いなしに、レアはまだまだとばかりに口を開く。

 

「反出生主義、なんていうけどアレはお話にもならない。辛い思いをする子供を作りたくないから生まない。それは立派な自由意思だ。だけどそれで人類皆を救えるだなんて世迷言だよ」

 

「?、その主義で皆を救えるという人がいるのですか?」

 

「それがねぇ、居るんだよ」

 

クスクスと楽しげにレアは紬の質問に答えた。

 

「つまり、誰一人子供を生まなければ人類は緩やかに絶滅するでしょ?そうすればもう苦しむ人間はこの世から消える。これこそ救済だと」

 

「なるほど?」

 

紬は首を傾げつつ、相槌を打つ。別にその主義に関する感想は置いておくとして……

 

「全く、その通りの主張でぐうの音もでないよねぇ」

 

「でも、どうやって人類皆に子供を産ませないのです?」

 

皮肉げなレアに、紬は真っ先に浮かんだ疑問を呈した。

 

「その方法はね……誰も提示してないんだよ!ただ生むのは正しくないから生むな。それだけ」

 

「いや、正しく不可能という点に目を瞑れば完璧な理屈という奴だよね」

 

そう言って、レアはきゃらきゃらと笑った。

 

この人凄く楽しんでいるなぁ。と紬は思った。

 

敦もレアさんがこんな楽しそうなの初めてかもなぁ。等と思っていた。

 

「そもそも不可能以前に、百歩譲って人類絶滅が叶ったとして。その主義を唱えている人は既に生まれている以上、絶対に救われないのにね」

 

「確かに。手遅れなのですね」

 

だって生まれてしまったのだから。そんな主義振り翳しても本人はもう遅いのは道理だ。だって生まれてしまったのだから。そんな主義振り翳しても本人はもう遅いのは道理だ。そして生まれるのは苦だと断じて生を否定した時点でもう彼らには絶対に生きている限り救いはないのだ。

 

仮に至れるとしたら絶対絶望。

 

「まぁ、そんなものは、ただ生きる事が辛くて耐えられない人達が自分へ処方した鎮痛剤としての主義だよ。皆を救えるとでも思わないと生きていけないだ。本質的には弱者の救済としての宗教と同じ働きだね」

 

そういう意味では害がある訳ではないし慰めとしてはあっても良い主義だろうね。とレアは嘯く。

 

「ボクに言わせれば、反出生主義なんて甘いよ。そもそも気づいている人間なら子供なんて生まないのなんて当たり前だ。子供を作らないというのは人間の最も高い自由意思による行為の一つだからね」

 

そんなのは大前提だ。とレアは続けた。

 

「ただ辛い人達は、決して自らの自由意思による行為として子供を生まない訳じゃないんだ。そういう人達は仮に子供を生めば自分が楽になるとすればほぼ間違いなく生むだろうからね」

 

「実際、そういう考え。辛いけど子供さえ生まれれば。と考える女性はいるよね。そういう人って大抵子供生んだ後更に地獄になるんだけど」

 

そう言って、レアは殊更シニカルに笑った。

 

「つまり、レアさんが言うのは」

 

その時、それまで黙って対話を聞いていた敦が急に口を挟んだ。

 

「レアさんがいう真の愛とは、一つになるものですか」

 

「うん、流石あーちゃん。そのとーり」

 

「そして、悪性というのは……」

 

敦が言いかけて辞めたそれに、レアはクスリと一つ笑って続けた。

 

「まず初めに言葉があった」

 

それはレアが以前にも口にしていた、ヨハネの福音書の冒頭の一節だと敦はすぐに気がついた。

 

「そして、この世界の原初の過ちは、神が光あれ。などと口を滑らせてしまった事なんだ」

 

レアは眼を伏せて訥々と語る。

 

「最初はただ一つ切りの虚無で世界は完結していた。そこを光が切り開き。無であった一を光と闇の二つに分けてしまった」

 

つまりは光と闇なら闇が先だったわけだね。とレアは告げ足す。

 

「何故神様はそんな事を望んでしまったのか?その果てにどうなるかただ見たかったのかも知れない。ただ彼が持ち込んだ、分割していく力。それこそが悪性だ」

 

「つまり、神が悪いのですか?」

 

紬の質問に、レアがどう答えたものかと考える。

 

「難しいね、この話だけで取るなら、悪を持ち込んだのは確かに神様だ。しかし、ボクの言う真と悪は言わば便宜的なものだ」

 

「先程のエナンティオドロミナはここでも起こる。正しい事は正しくある事をやめて、間違いは間違いである事をやめる。きれいは汚い。汚いはきれい。という事だね」

 

マクベスの一説を引いて、レアはそう論ずる。

 

「つまり、悪だって突き詰めたら真理に通ずる。単に指向性の違いに過ぎないともいえるね」

 

「悪くないのなら、問題はないのではないのですか?」

 

「問題ないのかも知れない。ただやはりボクの指向性の問題だよ。まず美しく無いし、何より煩わしいんだ」

 

紬の反論に、レアはあっさり切り替えす。

 

「人々や世の中が、どんどんと分たれていき、歪みあって闘争にふける。そんな人間のあり方が幸福だと思うかい?」

 

「争いなんて、理由は要らない。むしろ理由なんて建前だ。政治思想の相違だとか最もらしい事から、何となく顔が気に入らない。何でもいい。そうやって人は人と人とを完全に決別させ。世界を複雑にさせていく」

 

終わらない闘争の歴史。人類史とはそういうものと言えるかも知れない。

 

そうして、今も昔も争いを根絶を夢見る人達がいる事は紬とて知っている。

 

「幸福ではない。と私はそう思います」

 

正直な所を紬が述べると、レアも頷いた。

 

「正しくだね、ボクもそう思うよ。ならば、ボクは、ボクこそが世界を単純に合一させるべきだと思うんだ」

 

「それが貴女の真性の愛……」

 

つまりは、この世界を全て平らかに慣らす。そんな愛、それは。

 

「そうだよ。ただ、集団として意味なく争い、対立分離していく人々を、ただ個人として愛して、一つに、合一するんだよ」

 

そう語るレアの眼には常軌を逸した光があった。

 

そんな問答をやはり暝目して敦は聞き入っていた。 

 

「……正気ですか?」

 

そう思わず漏らした紬に、レアはぽつりと言った。

 

「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある」

 

これは、誰でも心当たりがあるかも知れないね。とレアはいう。

 

だけど、とレアは続けた。

 

「しかし狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある」

 

「そして、ヘーゲルは言った。理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」

 

「ね?正気か、と言えばそもそも愛なんてものは狂気の産物だろうね」

 

紬は絶句する。しかし、確かに愛などと言われるものは、理屈を張説した狂的なものではなかったか。

 

「でも、その紛れもなく狂気が、現実なんだよ」

 

そう、レアは楽しそうに言った。

 

「つーちゃんは、ずっと、ボクを見ているね」

 

「そうして、ボクが何なのかを気にして、ボクと自分の相違に困惑してしまっている」

 

「つーちゃんは、ボクと違って頭がいいね、だから逆にシナスタジ(共感覚)に振り回されてしまうんだ」

 

「ボクが何なのかなんてどーでもよくないかな?そんな事よりつーちゃんは君自身が何なのかを考えた方がいいよ」

 

ねぇ、だから……

 

孤独を楽しもうよ。

 

紬は一通り話して、レアという存在に当てられそうになり、敦とともに部屋を辞する。またお話したい。と最後に言い添えた。

 

レアはさようならと最後まで笑顔で二人を見送った。

 

カンカンと音を立てて、紬はアパートの階段を下り、道路へと降りる。敦も付き添っていた。

 

紬は、電柱に寄りかかると気疲れしたように一つ息を吐く。年齢以上に大人びた仕草だった。

 

「頭がクラクラします」

 

そして、端的に対話の感想を述べた。

 

「珍しいな。そんなに当てられるまで同調する事もないだろうに」

 

「こっちを意識したり、私に働きかけようとして話してくる人は、いくらでもいなしたり弾いたり出来るんですけどね……」

 

「あの人は私に話しているのに、私の事なんて見向きもしてないです。人の型をした宇宙があるみたいでした」

 

故に吸い込まれそうになった。いみじくもヘラクレイトスはこう言った。魂は、それ程深いロゴスを持っている。

 

「合一とはよく言ったものです……なんだか頭の中にまだあの人が居るみたいな感じがして抜けません」

 

こめかみを指先でコツコツと叩きながら紬は言った。

 

「それは分からないでもない」

 

あの人の空恐ろしい所だ。紬のような感受性がない敦も、レアと話している内に彼我が混じっていくような感覚がある。

 

「別に悪くいうつもりはないですが、凄く怖い人と結婚しましたね。……きっとあの人の近しい人の中でおかしくなった人がこれまでにいると思います」

 

「それは本人が言っていた。母親は狂ったらしい」

 

さもありなん。と紬は思う。しかし、憐れむべきではない。というか憐れむべき対象がないというべきだろうか。

 

あの人はああいう存在で、それはしょうがない。どうしようもないのだ。レアという存在は自閉してしまって、自己完結している。故に他者や自己の憐憫が入り込む隙がない。

 

臨床心理学的に野々村レアという人間のパーソナリティやセクシャリティを判断するとすれば、レアはスキゾイドパーソナリティとアセクシャルの傾向があると言えるだろう。

 

もっともレア自身は、臨床心理などで、人の事を類型に当てはめてパーソナリティを十把一絡げに診断するなどという行為は精神に対する冒涜だと間違いなく嫌うであろうが。

 

「母親ですか……」

 

せめて母親くらいは、どんな存在でも娘を無条件に肯定して続けてもいいじゃないか。

 

あの人は、どう足掻いても人並みには成れない。そういう自分に決して葛藤や苦痛が無かった訳じゃない。そう紬は思う。

 

きっと苦しかった事を忘れてしまったのか。或いは苦しみを感じなくなってしまったのか。

 

「でも、あの人はきっと大丈夫でしょうね」

 

「うん?」

 

紬は誰にともなく言った。

 

そう、母親では無くとも、あの人を認めてくれる人はここにいるから。

 

「私は兄さんの方が心配です」

 

「……そうか」

 

「あの人は周囲の人を狂わせる。でも殊更にあの人に狂わされるのは、あの人が愛した人だと思います」

 

「そうかもな」

 

分析するように、話す紬に敦は淡々と返す。

 

「分かっているのですか?兄さんはあの人に誰よりも()()()()()()のですよ!」

 

「そうだな」

 

「兄さんも狂わされたいのですか!」

 

紬が必死にそう訴えた。もういいじゃないか。だって兄は今まで色々狂わされてきたのに、この上なんでさらにおかしい人に狂わされなければならないのか。

 

「別に構わない」

 

それを敦は一言で切って捨てた。

 

「お前も分かってる通り俺も、あまりまともには生きられなかった」

 

「もう幸福をまともな人生に求める気はないんだ」

 

「それが本当に幸せなのですか?」

 

紬の反駁に、敦は少し考えるように間を開けて言った。

 

「確か臨床心理学か何かの本で読んだ記述だ、細かい事は覚えてないから大雑把になるのだが」

 

「一昔前の精神病院に、とある婦人が入院していたそうだ。その婦人は結婚したものの夫との夫婦関係が上手くいかず夫には逃げられ、本人はある時発狂したそうだ」

 

「……はい」

 

「その婦人は病室で精神科医に毎日こう報告するそうだ、昨日、自分が赤ん坊を生んだんだ、と。先生にも赤ん坊を見せてあげる。と実に幸せそうに」

 

「毎日毎日、そう同じ事を幸せそうに医師に報告するんだそうだ」

 

「……」

 

紬はなんというべきか分からず絶句した。

 

「そしてその精神科医はこう言ったそうだ」

 

「この人を治療する手立ては無いし、仮にその手立てがあったとしても私は彼女を治療するつもりもない。何故なら彼女は今のままが幸せなのだから」

 

敦はふっ、と一つ息を吐き言った。

 

「……俺はこの医者を誠実な医者だと思う。病のおかげで幸福な人間の病を治すべきではないと、俺もそう思う」

 

「なぁ、この狂った婦人の幸福を否定する必要があるのか?」

 

「兄さん」

 

「兄さん!」

 

紬は、語る敦を一喝した。

 

「分かっているのですか!あの人は兄さんが好きです。だけど兄さんがどうなろうと何とも思わない、そういう人なのですよ」

 

「分かっているさ、そんな事は」

 

しかし、敦は即答した。

 

「逆に聞くが、俺がレアさんを好きなら、レアさんを俺が幸せにしなければいけないのか?レアさんが俺を好きならば、俺をレアさんが幸せにしなければいけないのか?」

 

「そういう……」

 

もの、だと、思う、夫婦というのは。しかし、紬は返答に窮した。

 

「最近分かってきたのだが、俺はあの人が居れば幸せになれるとか、あの人が幸せにしてくれるとか、そういう考え方は嫌いらしい」

 

まず間違いなくレアさんもそうだろう。と敦は続けた。

 

「あれさえ手に入れば、或いは、あの人が居てくれれば、幸福になれる。幸福にしてくれる。そんな物や他者に依存したような幸福を求める。その在り方自体が既にどうしようもなく不幸だ」

 

それに。と敦は言う。

 

「この考えに関していえば、別に俺はそれ程おかしな事を言っているつもりはない。確かに一般的な考えとは言えないのだろうが、何なら皆何故そう思わないのかとすら思う」

 

「それこそ既に、兄さんがあの人に拗られてる証左じゃないですか」

 

「……そうかも知れないな」

 

紬の指摘を否定は出来ず、敦は苦笑した。

 

「だが、自惚れじみているかも知れないが、レアさんだって俺じゃなかったら流石にノリなんかで結婚なんてしていないだろう……」

 

「……それは、あの人が兄さんを必要としてないからですか?」

 

敦は肯首した。

 

「レアさんは俺なんか居ようが居まいが、別に自身の幸不幸には関係ないんだ。それは俺も同じだ、別に俺が幸福になるのにレアさんなんて必要ない」

 

それをあの人から教えてもらった。そう敦は言う。

 

「突き詰めて、明日にも俺かレアさんは居なくなっているかも知れない。それならそれでお互いにまぁ良い。もしかしたらずっと関係が続くかも知れない。それも一興」

 

「これって、案外良い夫婦関係じゃないか?」

 

そういい終えた、敦の眼をじっと覗き込み紬は一つ息を吐いた。

 

「そうかも、知れませんね」

 

否定は、出来ない。確かにパートナーが幸せにしてくれる等という受け身の姿勢などシンデレラシンドロームと何が違うというのか。

 

レアならこういうだろう。その人が幸福であるのは、その人の精神の在り方が自ずから幸福である事によってのみ可能であり、他者が誰かを幸福にする事など不可能だ、と。

 

「それでも、私は兄さんに幸せになって欲しいです」

 

紬は、敦の眼の奥にはどうしても諦念がある事を見てとってしまう。

 

諦めてしまった人にも幸福があるのだろうか?

 

「あぁ、ありがとう」

 

「今日は帰ります。兄さん、また」

 

「あぁ、またな」

 

そう二人は別れの挨拶を告げると、紬は踵を返した。

 

「兄さん」

 

数歩行った所で紬は足を止めて呼びかける。敦も背を向けた所で応じた。

 

「あぁ」

 

「おめでとうございます」

 

「あぁ」

 

「ありがとう」

 

そうして二人は別れた。

 

「もう一度、あの人とは話す必要がありますね」

 

紬は歩きながらそう独言た。

 

………

……

 

数日後、朝。

 

レアは気持ち悪い太陽の光を遮るカーテンのかかった部屋でぼんやりと本を読んでいた。

 

今日は深夜のバイトを終えて帰宅して、食事も取り、後は自由時間だといつものように書見しながら思索に耽っていた。

 

アリストテレスの自然学の時間論を読み返しながら、理解を深める。しかし、頭の回転も鈍くなってきて、レアは一つ伸びをしてくぁ、と猫のようにあくびを一つした。

 

そろそろ今日は寝ようかな。などと思い始めた所で、ピタリとレアは動きを止めた。

 

中空に向けた目線が、ふっとカーテンで閉ざされた窓の方へと走った。

 

彼女は置かれていた眼鏡に手を伸ばした。

 

………

 

レアと敦の住むアパートの外の道路に、一人まだ幼い少女が立っていた。

 

敦の血の繋がらぬ妹に当たる、紬だった。また兄を訪ねて来たのか、しかし彼女はアパートの中に入らずに、少し離れた場所でじっと二階へ目線を送っていた。

 

兄を訪ねてきたのなら、さっさと兄の部屋へと向かうなり、或いは兄の携帯へ連絡を入れるなりすればいいのだ。つまり、今回紬が用があるのは兄では無い。

 

あの後、兄に聞いてみたがレアに連絡をつける手段は無いらしく、用のない限りずっと部屋で本を読んでいる為、他人とは会わず、そもそも会える事自体が難しいとの事だった。

 

元来なら、敦が間に入らなければ、全く生息域の違う野々村レアという深海魚に紬が出会う事は無かっただろう。

 

逆に考えると敦は生息域が近かったと言えるのだろうか。

 

閑話休題。そういう訳で、レアに兄を介さずに連絡を入れたりの手段はないので、こうしてアポ無しで訪れて、レアのいる辺りの部屋の中にアタリをつけて少し集中する。

 

あの人なら、上手くすればこれで……。

 

そう思っていた時、遠目に二階の一室が開かれたのを紬は確認した。あの部屋は確か先日訪れてた部屋だ。

 

どうやら上手くいった。そう紬は思った。

 

ゆったり、ぬるりとした足取りで階段を降りてアパートを出てきた人物は、小柄な身体にダボついた服を纏った野々村レアだった。

 

す、と紬は右手を上げて合図を送る。少し離れたレアはそれを見てとって歩み寄ってきた。

 

「こんにちは。んー、と」

 

近くまでくると、レアは挨拶をしつつ眼鏡の奥で目を細める。誰だか戸惑っているのだろう。数日前に会ったばかりだが一回会っただけではレアの記憶に残るのは難しいか。

 

「こんにちは。先日はありがとうございました」

 

「ん、んー?先日。あぁ!その声はつーちゃん!お久しぶり、ひと月ぶりだね!」

 

いや、ちゃんと記憶はしていたらしく紬の返礼を聞くと誰だか思い出したようだった。どうもレアは人の判別には眼より耳に頼るらしい。

 

「いや、四日ぶりなのです」

 

「そだっけ?まぁ、一か月も四日も一年もおんなじようなもんだよ。細かい事気にすんなつーちゃん!」

 

レアは、いつだったか敦に言ったのと同じような事を、同じようなテンションで言い切った。紬はツッコむべきかも分からず絶句してしまう。

 

「んで、今日はボクに用かな?あーちゃんの事?」

 

「いや、どちらかというとまた貴女とお話したかったのです」

 

「ふーん」

 

なるほどなるほど、などと特に意味もなく頷きながらレアは中空に目線を向け考える。

 

レアは正直面倒くさいなぁ。とまず思った。元々人と関わるのは億劫な人間なのだ。しかも、今し方寝ようと思っていた所。

 

普通の人なら午前中、日中だが、レアからするとそこそこ遅い時間に訪ねられたようなものなのだ。まぁ、迷惑と言えば迷惑である。

 

「うーん。じゃあちょっと出ようか。適当に話せる所へ」

 

だが結局、アパートを一瞥するとレアはそう言って歩き出した。

 

直接部屋を訪ねずに、自分が出てくるのを待った所から紬が兄を抜きで、或いは知られずにレアと話したかったのだろう事を配慮したのだろう。

 

レアからしたら自室に招き入れて話すのが一番楽でいいが、今は敦も隣に在宅だった。さして厚い壁でもないアパートの部屋に紬を上げたら直ぐに気取られるだろう。ましてレアの部屋に訪ねる人間など今まで敦とレアの父親しか居なかったのだ。

 

紬も異論は挟まずに、レアについて歩き出した。どうでもいいが、レアの服装は今さっきまで部屋でだらけてましたと言わんばかりの無造作な部屋着だ。

 

どう考えても他所行きの格好ではないが、本人が気にしないなら一々指摘するほどでもないので紬は何も言わない。

 

表通りへとレアは歩く、しかし紬は早足でも置いていかれそうになる。敦もやられた歩きだ、ぬるっとしたある種気持ち悪く、ゆったりすらしてるのにスルスル先に行ってしまうレアの歩法。

 

「ちょっとま、すみません。レアさんもうちょっとゆっくり歩いて下さい!」

 

引き離されそうになり、小走りで追いすがりながら、已む無く紬はレアに訴えた。下手したらはぐれる。

 

「うん?別に急いでないけど早かった?」

 

「レアさん、武道か何かかなりやってますよね」

 

「うん。いちおーかじる程度には」

 

当然そのくらい紬は先日最初に会った時の佇まいで見抜いていた。知っている限りで、合気道の高段者に似たような歩き方をしている人も知っていた。

 

割と一般の人は、自分が歩けていると思っているのだが、実は正しく歩くと言うのは人間にとって高等技術なのだ。大体一般人の歩き方は雑で汚い。

 

レアのように歩けるのは身体操作術、つまり体術の練度が高い人だけだ。頭の位置の上下動が無く、軸の左右のブレがないから、ホバークラフトのようにスルスル行ってしまうのだ。上下左右動に拍子が消えると早さも分からない滑るような錯覚を受ける。

 

「こんくらいでいいかな」

 

そういいながら、レアは歩みを緩めた。もっともやはり遅くなったか見かけから分かりにくいが、紬でもついていけるようになった。

 

二人は少し歩いた所にあるファミレスに入った。談話するならまぁ妥当だろう。

 

レアは適当に店員と言葉を交わして、案内された席に二人で掛けた。

 

店内は時間帯故か客は疎らだった。話しを人に聞かれる心配はあまりないだろう。別に二人は密談しに来たわけではないのだから良いのだが。

 

「まぁ、好きなの頼みなよー、お姉さんの奢りだー」

 

レアはそう気前良く言いながら、紬にメニューを手渡した。

 

「いえ、自分の分は払いますよ」

 

「いや、遠慮……ん!?」

 

レアは言いかけた所で自分の腰に手を当てて声を上げた。

 

「……どうしました?」

 

半ば悟りながら紬は聞いた。

 

「財布忘れちゃった……」

 

まぁ、顔に描いてあったから分かってた。というか考えてみればそんなずぼらな服にポケットすらあるようには見えない。

 

普段携帯すら携帯しないレアだが、今日に至っては、外の様子を見に手ぶらのまま出てきたままここまで来たので、財布以前に何も持ち出してない。

 

自分の名前を忘れたり、このボケ具合は何らかの障害なのかも知れないが、まぁ紬は別に医者でもない為なんとも言えない。別に本人が不便を感じてないのなら他人が言う事でもあるまい。

 

「ごめんねぇ、取ってくるね」

 

「いえ、いいですよ。出しますから」

 

レアはそう言うが、紬は面倒だとそう申し出る。

 

「うーん。じゃあお願いするね、帰ったら返すね。ありがとうねぇ」

 

それにレアはあっさり甘える。無駄に遠慮する良くある反応を省く辺りは紬が抱いている人物像通りか。

 

「メインて、肉料理ばかりだねぇ。野菜はサラダくらいかなぁ」

 

メニューを捲りながら、温野菜料理を何となく探しつつボヤく。

 

「お肉嫌いなのです?」

 

「いやー、好きだよ。だから逆に火の通った野菜だけのも食べたくなるんだけどね。まぁいいや」

 

温野菜なら敦が居れば食べられるし、別にレアはここに食事に——元々食事は決まった時間以外摂らない——来たのではないからどうでも良い話しである。

 

結局、二人ともドリンクバーだけさっさと注文すると、揃って飲み物を取りに行き席に戻った。ちなみにとって来たのは紬はメロンソーダ。レアがコーヒーだった。

 

レアはコーヒーに砂糖は入れずミルクだけ入れて、スプーンでかき混ぜると一口飲む。

 

ミルクで苦味もマイルドになり、まぁまぁ香りも良く、雑味も少ない。まぁ、決して不味くは無く中々飲める味だ。

 

だが、どちらかというと自分はあーちゃんの緑茶の方が好きかな。などとレアは思った。

 

「さて、ボクと話しがしたいとの事だけれど、何が聞きたいとかある?」

 

カチャリと、カップをソーサに置いてここまで殆ど口を開かない紬に対して、レアはそう口火を切る。

 

「……貴女は何故、哲学などを行なっているのですか?」

 

その紬の質問に、レアは口元にあるかなしかの微笑を浮かべた。

 

「ふーむ。その問い方は、つーちゃんの前提としてボクの哲学には価値や意味があると思っているね」

 

ならば、とレアは続ける。

 

「それは誤謬だよ。大前提からして誤っている。ボクのに関わらず、そもそも哲学というものには価値も意味も無いんだ」

 

「……しかし、貴女は世界の合一や愛を先日語っていましたが、アレは貴女の目的で哲学でないですか。それが無意味だと?」

 

あれ程はっきり荒唐無稽な哲学ーーというべきなのかも怪しいがーー語っておいて、それに価値がないと断ずるのは矛盾ではないか。

 

「それは必然としてそれを目指す事になっただけだねぇ。それに意味があるとか価値があるからそうすべきだ。などとは別にボクは思っていないんだ」

 

「例えば地面から石を拾って、手を離すと石は地面へと落ちるよね。これは必然だ。だけど石が落下するという『運動』に何の意味や価値があるかというのは全く別な話しでね」

 

ちょっとズレるかな?などとレアは首を傾げつつコーヒーを口に運んだ。

 

「そうだね……そもそも一般論で、哲学って何やるのかよく分からないイメージじゃない。大体の人は哲学ってなんの役に立つの?みたいに言ったりね」

 

「まぁ……明確に何をするのが哲学というと、皆抽象的にしか考えてないかもしれないのです」

 

実際一概に哲学と言っても、政治哲学、道徳哲学、分析哲学、論理学、実在論、存在論。など様々な分野、立場があるから詳細を語ろうとしたら大変だ。

 

「だけど、まず学問というのは、何かしらの意味があり、価値があるよね。という前提がそこにはあるんだ。例えば数学。物理学。工学。心理学経営学言語学化学医学薬学etc.」

 

「これらは、人間の文化、文明やテクノロジーを発展させて来た、正しく意味や価値のあるものと言えるよね」

 

「では、哲学はそうではないのです?」

 

「まぁ、そこは人により主張が違うだろうね。哲学ってのは考える事だし、そう捉えるとあらゆる学問の源流とも言える。実際哲学者アリストテレスは万学の祖なんて言われているしね」

 

そう前置いておいて、レアはしかし、と続けた。

 

「ボクの考えはそうではない。哲学は、何かに役立たせたり、意味があるものじゃない。突き詰めて()()とは言うけれど、ボクは『学問』とすら思っていない」

 

ストローでメロンソーダを吸いつつ、紬は目線で続きを促す。

 

「極論しちゃうと哲学なんて何の役にも立たない。故に学問ではない。むしろ社会から見れば極めて危険な反社会的なものですらあるんだ」

 

「哲学は反社会的……?」

 

初めて聞く意見だ。が、紬も少し考えてみる。分からなくはないかも知れない。

 

「哲学ってのは全てを考えるし前提を疑うね。社会ってのは常識とか当たり前な事で出来ているけどさ、でも哲学は当たり前が何故当たり前かを考えるんだ」

 

そうだ、つまり。

 

「考えてもみなよ?人間社会ってのは、当たり前な事が当たり前だと皆信じきっているから正常に回るんだ。当たり前が当たり前ではない人ばかりになったらそこで社会の回転は止まるよね」

 

紬からすれば世界中が目の前のレアのような人間ばかりになったらと想像してみると分かる。それは社会が終わる。あるいは一つの世界が。

 

「一つ例を挙げてみよう。社会を回す血液とも言える経済、お金というものを哲学で考えよう」

 

「はい」

 

紬は頷く。お金の哲学とは聞いた事もないので少し興味は惹かれる。

 

「まずこの社会においてはお金は分かりやすい価値だね。とりあえず皆お金は欲しい。お金持ちにさえなれば幸せになれる。そこまで思ってなくてもあるに越したことはない。ほぼ全ての人はそう思っているね」

 

「貴女はそうは考えないのですね」

 

レアはコーヒーカップに口をつけつつ手を上げて制する。

 

「まぁまぁ。それをここから考えるんだから結論を急がないの」

 

「で、だね。なんで、お金がそんな価値があるのかと言えばそれは当然それがあれば何でも買えて、何でも手に入るからだよね。でもさ」

 

カチャリとカップをソーサーに置いてレアは続けた。

 

「何でも手に入るからお金に価値があるのか、お金に価値があるから何でも手に入るのか、はて、どちらだろう?」

 

鶏が先か卵が先かみたいな話だろうか、紬は首を傾げた。

 

「どちらかとだとおかしくなると?」

 

「順当に答えで言えば、何でも手に入るからお金には価値があるんだろうね」

 

「しかし、考えるとやはり妙だ。本質的にただの紙切れでしかない紙幣なんてものに何でそんな価値なんかあるのかな?」

 

首を傾げ、レアはそう疑問を呈する。

 

「それこそ社会が作り出した制度故になのではないです?」

 

「果たしてそうかな?お金、つまり紙幣、あるいは金銀。挙げ句の果てにはネットワーク上を行き来する実態のないデジタル上の数字」

 

「どこまで行ってもその本質はただの紙切れや金属片や数字に過ぎないんだよ。少し考えてみなよつーちゃん」

 

ピッと指を立ててレアは論じる。

 

「人は紙切れ一つの為に、自殺もすれば人も殺す。ただの紙切れのためにそこまで?なんだか滑稽じゃないかな?」

 

「……滑稽かはともかく、おかしいというのは同意するのです」

 

金の為に人を殺す。絶望して自ら死ぬ。そんな事世の中にいくらだって例があるのだが、それが紙切れの為と考えれば人は愚かしいと嘆くべきなのか、あるいは喜劇だと笑うべきか。

 

「事実、お金に本質的な価値なんてないんだ。はっきり言ってしまえば紙幣制度というのは集団幻覚だね」

 

「殆どの人がそれに価値があると思い込んでいるから、結果的にそれに疑似的な価値が生まれる。紙切れにせよ金属片にせよデジタルの数学にせよお金という制度はそんなものだよ」

 

つまりは、お金に価値などないと言う。それは紬も分からなくはない。しかし、現実としては。

 

「例え、それが全員の勘違いだったとしても、価値が生まれている以上はお金には価値があるのではないのです?」

 

「まぁ、それはその通りだね。じゃなかったら貨幣制度なんてとうに消えてるからね」

 

紬の反論にあっさり是と頷くレア。しかし、カチャカチャと意味も無くティースプーンでカップの中をかき混ぜつつ続ける。

 

「でも考えてみたら面白くないかな?皆が突然、お金がただの紙切れだと言う事に気がついてそれを捨ててしまう。貨幣制度の崩壊だ。そうしたら、経済の前提が破壊されて、既存の社会システムは崩壊する」

 

痛感だよね。とレアは何処かシニカルに笑って言った。

 

「思考実験としてはしては面白いかも知れないですけど……」

 

紬が言いつつグラスを置くとカラリと氷が音を立てた。

 

「現実的には無理だと思うのです」

 

それこそ、レアが不可能と笑い飛ばした反出生による人類絶滅と現実性にはさしたる違いはないのではないか?と紬は思う。

 

「もちろんそのとーり。社会が崩壊するとしてもそんな愉快な崩壊の仕方はまずあり得ないとボクも思うよ」

 

人類全員が子作りを放棄した結果、人類が滅ぶ程度に馬鹿げた話だというのはレアも理解している。

 

「まぁ、まず有り得ないのは前提として、その有り得ない可能性を秘めているとしたら哲学なんだよ」

 

レアは欄と目を光らせて言った。

 

この人はそういう有り得ない可能性に何かを見出している事を紬は悟った。

 

「お金のついでにもう一つ言えば、ボクは日本に生まれた日本人だ。とりあえずそうなる事は分かる。つーちゃんもそうだよね?」

 

「はい。血筋も生まれも日本なのです」

 

「では、ここで一つ問いを投げよう『日本』て何かな?」

 

カップに残ったコーヒーを飲み干しつつレアは言った。

 

「何が、『日本』……?」

 

「ちょっとおかわり淹れてくるからちょっとその間考えてみてよ」

 

そういいつつレアは空になったカップを手に取り、席を立ってぬるりと歩き去って行った。

 

紬は課題として与えられた問いに対して一考する。さして時間を立てずにレアは湯気の立つカップを手に戻ってきたが、紬はそこまでかけずに答えを出した。

 

「さて、どう思うかな?」

 

音を立てずにカップを置いて着席しつつレアは聞いた。

 

「何が日本か、私には分からないのですが、レアさんの考えは分かるのです。国もまた集団幻覚なのではないですか?」

 

「そうだね」

 

クスリと小さく笑ってレアは肯定した。まぁ、お金に引き続いて例を出したら大抵の人はレアが言いたい事はわかるだろう。

 

「国。と人は当たり前に言うけど、じゃあ国って何か?土地?指導者?法律?政府?国民?一体何処を探したら国とやらがあるのさ?」

 

「だからこれもやっぱり同じ、何処を探したって国なんて実態はない。集団幻覚だ」

 

レアは今度はミルクすら入れず、しかしまた無意味にスプーンでカップの中をかき混ぜながら言った。

 

「人間の精神や言葉って面白いものだよね。実態として存在しないものに名をつけて皆で思い込めば実在する概念に出来る。ここら辺はボクは人間の無限の可能性を感じるよ。言ってみれば国や金のイデアなんて無いはずだ」

 

 

ブラックのままのコーヒーを一口飲みながら、そう言うレアの口調に皮肉の色は無かった。

 

「そう考えるとこれが中々面白いよ。お金や国なんてつまり実在しない。実在しない概念と考えるとお金も国も立派に形而上の存在と言えるね」

 

「この世の何処にも実態が無い。だから形而上というのです?」

 

「そうだね。そしてもうこの世には無い形而上の存在という意味では幽霊と同じだね」

 

「これもまた面白い。今の科学的物質主義の現代では幽霊は実在するなんて多くの人が馬鹿げていると言うだろう。でも同じく実態のない幽霊のお金や国の実在は誰も疑わないんだから」

 

「そして、幽霊により異常な言動をきたす事を一般に、取り憑かれている。呪われているというね」

 

ならば、とレアは微笑して続ける。

 

「この世のほぼ全ての人は、お金や国の事で、一喜一憂したり大騒ぎ。そんな物の為自殺もするし、なんなら他人も殺す」

 

「皆、幽霊に取り憑かれて呪われているようにボクには見えるかな」

 

レアはクスクスと邪気のない笑いを浮かべた。そんな笑顔を前に、紬は自分が当たり前に信じていた土台がひっくり返されるような一瞬の恐怖を感じていた。

 

そして気がついた。この人も、半ば形而上の存在なのではないか。

 

野々村レアは肉体こそ形而下のものであれど、半分幽霊なのだ。

 

そこまで語ってレアはハッとした。

 

「と、また話がとっ散らかっちゃった。話を戻すね。でだ、今のを踏まえて社会や文化にとって哲学の危険性は言うまでもない」

 

「集団幻覚を解いてしまったら、社会は崩壊すると?」

 

「まぁ、真っ当に考えて崩壊するだろうね。国やお金なんてどこにも無い。と皆が思えばそこまでだ」

 

「つまりね、哲学は妥協せずに考えるという営為なんだ。これは徹底している。前提や実在すら疑うし、考察する。皆が皆こんな事をやり出したら社会経済なんてあっという間に死滅するだろうね」

 

つまり、とレアは言う。

 

「故に哲学は文化的には役に立たないし、社会的には危険極まりないんだ。哲学の祖、ソクラテスの最後を忘れちゃいけない。彼は国法によって処刑された」

 

古代アテナイでは正しく哲学の危険性に気づいてたんだね。とレアは言った。

 

「しかしまぁ、今の社会システムにとって幸いなのは誰も哲学。つまり考える事をしないから、そんな心配はないって事かな」

 

「新しいイデオロギーや主義による、社会変革、革命だ!なんて考えている人はたまに居るらしいけど、アレなんてボクから言わせれば方法論が徹底的に間違っているよ。正しい意味で社会変革を可能とするのは、哲学による精神革命のみだよ」

 

「まぁ、そんなこんなで色々言ったけど。何故哲学を?と問われたら、哲学とは考える事。人間とは考える動物だ。故にボクはただ考える人間で在るから。答えとしてはそんなものかな。」

 

なるほど。この人が一つ分かった気がする。紬は思った。

 

この人は、真面目なのだ。クソがつくほどに。間違いなく、やると言ったら徹底的にやる人なのだろう。半端は許さない。

 

「ついでだから補足するとね。だからこそ皆哲学なんて、と思うらしい。だって皆生活しなければならない。生活が成り立たなくちゃ哲学なんてやってられるか。と思うようだね。なるほど、かくして本質的な問いは忘れ去られるというのは分かる」

 

でも、とレアは言う。

 

「いみじくもソクラテスは皆は食べる為に生きているが、ぼくは生きる為に食べている。と言った」

 

「正しく、生活するなんて事は生きる為の手段な筈だ。しかしこの世の大半の人間は、生活する為に生きているという転倒を起こしているんだ。おかしくはないかい?だって考えてみるまでもなく人は、生活するよりも先に生きているのに」

 

はっと紬はさせられた。確かに紬も日々、学校に行ったり勉強をしたりと幼いながらも生活がある。まるでそれが生きる義務のように。さて、紬は生活する為に生きていたのか?生きる為に生活していたのか?順番を間違えはいなかったかと思わず内省する。

 

「極論、人が生きる事と生活する事は何ら関係性すらないんだよ。仮に生活の全てを辞めたとしてイコール死に繋がるわけではないんだ。生活しても、しなくても、遍く人間は死ぬまでは生きているんだから」

 

これは絶対普遍的事実だね。とレアは言う。

 

「哲学とは考える事そのものだ。人が生きる事は考える事だ。ボクにはね、人が無内容に生活して、哲学をしない事が非常に奇妙に思える」

 

「最初の答えからの逆説になるけれど、哲学の意味とはこれなのだと思うよ」

 

まぁ、ボクからはこんな所かな。とレアは口を噤む。

 

「哲学に意味はない。しかし、人は生きているなら哲学をする筈。ですか……」

 

なるほど逆説だ。紬は考える。哲学に意味は無い。故に必然生きる事にも意味はないと言う事か?

 

否。紬はそんな愚鈍ではない。それを考えろとレアは言っているのだ。生きる意味とは?いやそもそも生きるとは何だ?誰が生きているのだ?生きている自分とはなんだ?

 

レアはそういう問いを立てているのだ。なるほど、そう問われば一度はとことん考えるべき事なのかも知れないと紬は思った。

 

思索に沈みそうになり、紬は我に返った。今はそうでは無かった。自分に向き直り問いを投げるのはいつでも出来る。

 

今は目の前のこの世から半分離れているような宇宙猫と向き合わなければ。

 

 

「ちょっと失礼するのです」

 

紬は一体席を立ち、飲み物のおかわりを取りに行った。

 

カルピスを手に戻ってくると、レアはメニューを開いて眺めていた。

 

「何か食べるのです?」

 

「いや、いらないよー。ただ、割とこういうお店のメニュー読むの好きなんだよね」

 

何故?と紬が目で問うと、レアは答えた。

 

「見ているだけで、美味しいもの沢山食べた感じになって幸せになれるからね」

 

「私は美味しそうで、お腹が空いてきて食べたくなるのです」

 

「そう?むしろ食べた気になってお腹一杯にならない?」

 

ならない。と紬は思ったが、そう言えば兄も自炊すると作っている時点で食べたような気になってしまって食事があまり面白くなくなると言ってたのを思い出す。そういう心理はあるのだろうと思い直した。

 

「それはいいのですが、もう少し聞かせてもらっていいのですか?」

 

「うん?何を?」

 

「レアさんは兄さんをどう思っているのですか」

 

「また漠然とした問いだね、あーちゃんの事は人間だと思っているよ」

 

紬の問いかけに、レアはメニューを捲りながら答えた。

 

その返答に紬は考えた。この人は真面目だ。今だっていい加減に煙に巻いたのではない。本気で、本質しか言わない人間なのだ。

 

ならばどう問うか?

 

「兄さんは幸福になれるでしょうか?」

 

「なるほどねぇ」

 

しかし、レアはその問いを聞くとパタンとメニューを閉じた。

 

レアの論理はすぐにその問いの立て方故に、本質に気がついたからだ。

 

「善意なのは分かっているけどねぇ、あんまり自省の無い善意は傲慢なものだよ」

 

窘めるようなレアの口調に紬は、言葉に詰まった。何か急所を刺されたような気がした。

 

「そんなにあーちゃんは可哀想かな?不幸かな?」

 

「そうまでは言わな、いのです」

 

「なら何で幸福になれるかなんて聞くの?」

 

何故ってそれこそ何故だ、と紬は思う。何故自分が弾劾されなければならない。

 

「大切な人に幸福になって欲しいなんて事当たり前なのです」

 

「確かに言う人は多いね。あの人には幸せになって欲しいとか。だけどボクはそういう物言いは嫌いだな」

 

あくまで穏やかな口調でしかしきっぱりとレアは言い切り、カップを持ち上げつつ続けた。

 

「人間を馬鹿にするな。といつも思う」

 

つまり、また兄の事を見下すのか?と言外にレアが言っているのを紬は見てとった。

 

しかし、それが何故にかは分からない。まさか自分みたいな子供が兄を心配するなんて烏滸がましいと言いたいのか?

 

それこそ人を馬鹿にしている。そう思って紬の目つきは険しくなる。

 

「違うよ、つーちゃん。幸せになって欲しいという前提が傲岸なんだ」

 

レアも、紬の言いたい事を読み、勘違いを是正する。

 

「単純な話で、あーちゃんの幸福を望むつーちゃんはあーちゃんを不幸だと考えているんだ」

 

その言葉に急所を刺されたような気がして紬は動きが止まった。

 

「別にそこまで……」

 

「でも幸福になりたいとかさ。幸福になって欲しいとか言うって事は前提として今が不幸じゃなきゃ成り立たないよ」

 

論理的にね。とレアは淡々と言う。

 

「幸福ならば、もう幸福なんだから幸福を欲し得ないよね。突き詰めて、人は幸福を欲するという事において自分や誰かを不幸にしているんだと思うよ」

 

「もっと単純に言って不幸だから幸福を望むんだよ」

 

「……」

 

紬は閉口した。そんなつもりはなかった、が、紬は確かに兄を不幸だと憐れんでいたからこそ、幸福になって欲しいなどと思ったのでは無かったか。

 

「先の問いの答えとも兼ねて言うと、ボクはあーちゃんが幸福になって欲しいとは思わない」

 

「……兄さんは幸福だと思っているからなのです?」

 

「いや、幸福とまではボクには分からないけどね。ただ少なくとも世の中の大半の物質的快楽を幸福と勘違いしているどうしようもなく卑しくて浅ましい、不幸な人達とは違うのも確かだね」

 

さらりと、割とキツめの毒を吐きつつ紬は答えた。

 

「まぁ、あーちゃんは少なくとも不幸に違いない。という風には見えないからそも幸福になって欲しいとは思えないよね。もう幸福なのかも知れないしね」

 

そこまで言ってからレアはカップをとりコーヒーを一口飲む。

 

「……もし不幸だったらどうなのです?」

 

レアがカップをカチャリとソーサーに置いたタイミングで紬は聞いた。

 

「そうだとしても、なって欲しいとは思わないかな」

 

あっさりとレアは答えた。

 

「そんな事をボクが思っても仕方がないんだ。だってあーちゃんの人生を生きているのは他ならぬあーちゃんで、ボクが肩代わりは出来ないよね」

 

人は自分の生を生きる事しか出来ない。他人の生を代わりに生きて、死を代わりに死ぬ事は出来ない。レアが以前も口にした絶対的普遍的事実。

 

「つまり、あーちゃんが生きる事はあーちゃんの自己責任だ。幸福か不幸かはあーちゃん自身の課題であって、ボクがそれをどうこうは出来ないんだ」

 

「……貴女の為に不幸になっても、なのですか?」

 

人間的な暖かみというものが感じられない、酷薄ですらあるレアの意見に、紬はそう問い返す。

 

うーん。とレアはまた無意味にカップの中身をスプーンでかき混ぜつつ少し返答を吟味する。

 

「ボクが誰かを幸福にしたり不幸にしたり出来ると思うの?」

 

「もちろん出来るのと思うです」

 

ふむ。とレアはカチャリとスプーンを置く。

 

「ボクはそうは思わないな」

 

暝目してポツリとレアは言った。

 

「ボク、というか人が他人を幸福にしたり不幸にしたりするのは、どだい無理ではないかな」

 

「だって幸福になるのは誰かな?その人本人だよね。その人が幸福足り得るのはその人が幸福においてのみだし、不幸足り得るのもその人が不幸においてなんだよ」

 

「ただのトートロジーなのです」

 

「そんな事はないよ、要は幸不幸はその人の精神の在り方でしかないという話」

 

反論にレアは確と答える。

 

「不幸な精神は不幸でしかないし、幸福な精神は幸福でしかない。その人の精神を外部から変えたりは出来ないんだよ」

 

良く馬を水辺に連れて行く事は出来ても水を飲ます事は出来ないっていうよね。と続ける。

 

「人が幸不幸なのはその人の精神、つまり主体の在り方である以上は、外部の環境や人間関係は全く幸不幸には関係がないんだ」

 

また紬は痛い所を突かれた気がした。兄は不幸だと無意識化に見下していると喝破され、何故そうかと考えれば、それはやはり恵まれない兄の環境や育ちを憐れんでいたのだろうから。

 

「というかむしろ、割とそういう人はいるけど恋人さえ居れば、とかお金があれば、幸福になれる。と考えるような低劣な精神の在り方をしている人はまさにそういう在り方によって不幸なんだ」

 

「外部の人物、環境に価値を置くのがそもそも徹底的に間違っているんだよ。外に価値を求めるのは、逆説、自分自身に価値を見いだせないからだね」

 

人の内。その理性において己のどこまでも深い存在について考えるという、どこまでも甘美で豊かな事を知らないなんて。とレアは嘆くように言った。

 

「なら、レアさんは幸福なんですか?」

 

「ボクはね、生まれてきていい事なんて一つも無かったよ」

 

紬の問いに、レアはあっけらかんと答えた。

 

「ボクは自分にとって何が良い事なのかも良くわからずに善いとは何か考えていた。良い事を知らないが故に今まで特に悪い事も無かったよ」

 

レアは穏やかな顔をして、語る。

 

「だからこそ、ボクは今まで幸福だったし、これからも幸福なんだ。何故ならボクは幸福になりたいと願った事はないのだから」

 

ぞくり、と紬は背筋に冷たいものが走った。一瞬、今目の前に座るレアが誰なのか、いや、何なのか分からなくなったのだ。

 

なんなのだ、この人は何かが豊かに在るはずなのに、在って無しという虚無も感じさせる。分かってはいたが、紬も深入りすると目眩を起こす。

 

「まぁ、つまりボクが言いたいのはあんまりあーちゃんを甘く見ないで欲しいという事かな。彼はボクなんか居なくたって問題ない。彼はそんなに弱くないよ」

 

「……貴女はそれでもいいのかも知れません」

 

そう語ったレアに紬も静かに反論する。

 

「でも、あまりにも冷たいのです。人は感情の生き物です。環境や社会が悪いのではない。本人が悪い。確かに良く聞く弁です。ですがそんな事を言う人は」

 

そこで一つ間を置いて紬は言った。

 

「本当に辛い思いを知らないのに恥知らずに言う人か」

 

あるいは、と。

 

「知っていて、それでも言えてしまう人。誰もが貴女みたいに強い人ではないのです」

 

ーー皆お前みたいに強くはない。

 

いつか、誰かに言われたような事と同じ事を言われてレアは息を呑んだ。

 

確かに一般論で言えば、レアの論理は厳し過ぎるきらいはあろう。誰のせいにもさせない。全ては己の精神のみにおいて己は己たらんとする、そのあり方。

 

それは余人にはあまりにも辛すぎるのかも知れない。辛すぎるから、自分は環境や他人のせいで不自由だと、仕方ないと慰めているのだろう。

 

苛烈な自由と、安楽な隷属。

 

しかして人が望むのはどちらか?

 

ーーあぁ愛しき者よ。貴方が毒人参の杯を手渡すのなら、私はそれを呷ろうーー

 

言うまでもない。しかし、あえて()ろう。

 

「つーちゃんのいう事もよく聞く話だね。確かにそれも人を慮っているんだとは思うよ」

 

レアは静かに口を開いた。

 

「ボクもあーちゃんと、社会とやらが悪い、環境が良くない。などと傷の舐め合いをすれば正しいのかな?」

 

そこでレアはシニカルに笑って言った。

 

「残念だけど、ボクは誰かがとか社会とかが悪いとか思った事がないんだ。つまり前提からしてそれは無理なんだよ」

 

そのレアの眼の奥が心底分からないと言っている。紬はそれを見て取った。

 

「誰かと傷を舐め合い、慰めあいながらいきていく。それは分かるようで分からない。その誰かは他人である以上、やっぱり本人は自分の人生を生きて、自分の死を死ぬしかないじゃないか」

 

レアは全力で理解出来ないと、問いを発していた。

 

分からない、分からない。誰かがこう言う。誰か私を助けて。

 

誰が、誰を助けるというのだ?助けられる私とは誰なのだ?何故そんな当たり前の事を考えない。

 

それを考えれば、そんな事は言えなくなる筈。いや、そこに置いてひとまずの()()()()()。なのになぜそれに気づかない。

 

「当たり前の事なのに、なんで皆無駄に悩んでばっかりで、自分で考えないんだろう?」

 

 

レアは首を傾げて言った。

 

「その程度も分からない、自分の人生を他人のせいにするような薄志弱行な精神の者は端的にボクには縁がないだろうね」

 

「それが出来る人ばかりじゃないのです」

 

「確かにそれはそうなんだろうね。分からない人は分からない。考えない人はどうあっても考えない。それはボクも分かる」

 

「でも、あーちゃんにそれが出来ないとでも?」

 

「それは……」

 

紬は返答に窮した。

 

「申し訳ないけれど、ボクは他人を慮って手加減は出来ないんだ。昔はそれで身内が壊れた事もあったよ」

 

それは紬は兄に又聞きしていた事だ。しかし、この時こう思った。それはレアに狂わされたが故に壊れたのか?

 

もしかしたら、強引に正されて、苛烈な真実の元に耐えきれず壊れたのかも知れない。そんな事を紬は思った。

 

「だからボクはちゃんとあーちゃんに確認したよ?いいの?って。それでもあーちゃんはボクの隣を選んだんだ」

 

「……」

 

「それは紛れもないあーちゃんの自由意志じゃないか。素晴らしい。それをつーちゃんにせよボクにせよ、外野がどうこう言うのなんて、彼への冒涜じゃあないかな?」

 

言い返せなかった。心配、兄を思う気持ちに嘘はない。しかしそれに託けて兄の自由意思に対して干渉する自分の中の傲慢さを紬は少しずつ自覚したのだ。

 

「つまりは覚悟の上だ。一人の男が本気で挑んできたんだ。こちらも一人の女として、手加減してやろう。だなんてあーちゃんに対する最悪の侮辱じゃないか」

 

しかして、レアという女性は一切敦を甘く見ないし、舐めない。否、敦に限らず、今こうしているように何人であっても、関わる以上は己と同じ一人の人間として対等に挑む。

 

それでついてこれないならそれまでだ。

 

「ボクだって一応は女をやっているんだから、そのくらいじゃないと女が廃るってもんじゃないかな。ついてこれないなら置いていく。それでいいんだよ。ボクも一々人を引っ張り起こす程暇じゃないからね」

 

しかし、紬から見てレアという女性のなんと奇怪な事か。まるで幽霊じみた半分あの世の存在。俗世事一切無意味也と目も向けない。しかして、この充実した力への意思。

 

「ボクはボク自身が善く生きればいい。他人を外から善くする事は出来ないんだから。ただボクが善くあれば、きっと他の人もついてくる。あーちゃんに限らず、人間へのそういう信頼は大事だよ」

 

故に常に命題は一つ。汝自身を知れだよ。とレアは結ぶ。

 

「確かにそうなのかも知れないです」

 

紬は思う。なるほど、この人の言う事は常に普遍的で正しいのかも知れない。

 

「けど貴女はどこまでが本気なのです?」

 

そう疑問を呈した。

 

「汝自身を知れ?詭弁なのです。だって」

 

でも本当の事も言っていないのではないか。だって、

 

「貴女は自分に興味なんてないのです」

 

それは紬にははっきり分かった。

 

「うん、その通りだよ」

 

それにレアはあっさり肯首した。

 

「それはそうだよ。ボクが知りたいボクの事はそんな事じゃあないんだ。確かにつーちゃんの言う通りボクは野々村レアなんかに興味はない。正直生きてても死んでてもどうでもいいんだよ」

 

そうだ、紬から見てこの人は自分に全く頓着していない。しかし、それをあっさり認められて鼻白んだ。だってそれでは汝自身を知れという命題に背くではないか。

 

「それでは矛盾するのです」

 

「いや、していないよ。ボクが知るべき汝というのはね、野々村レアではなく、何でか野々村レアなんかをやっている所のその主体なんだ。つーちゃんはそこを勘違いしているね」

 

野々村レアをやっている主体?それこそ知るべき汝?思いもよらない言葉に紬は考えこんでしまう。

 

「別につーちゃんだけじゃない。割と皆考えないからそこに躓くんだ。汝自身を知れ。そう聞いたのが山田太郎さんだったら、山田太郎とは一体何なのかと問われている、と山田太郎さんは思ってしまうんだ」

 

「コギト・エルゴ・スム。デカルトの有名な命題も同様に誤解されやすい。デカルトは徹底的な懐疑により、疑っている我だけは疑いえない。と言った。しかしこれを聞いて多くの人はデカルトはデカルトが在ると言ったと思っている」

 

指先で摘んだティースプーンで宙を混ぜるようにクルクル回しながらレアは言った。

 

なるほど、紬にも言わんとする所は察せられた。

 

「デカルトがいった我はあくまでデカルトではない。という事なのです?」

 

「そうだね。ここが陥穽だけど、我≠デカルトなんだ。デカルトはデカルトは在る。なんて言っていないんだ」

 

「ただ、デカルトをやっている所の我。主体であり、確かにある何か。それだけは在ると気付き、同時にそれは決して()()()()()()()()()()んだ。デカルトは驚いたろうね」

 

「つまり、汝とは……」

 

それか、と紬は知るべきものは何かを理解する。

 

「そう、野々村レアという人間を何故だかしている、我。その何かだ。それは形而下の肉体として野々村レアをやっているが、しかし決して野々村レアではない。言ってみれば野々村レアという実在の否定態としての存在でもあるそれだ」

 

「魂、みたいなものと思えばいいのです?」

 

「まぁ、有体に言えばそうかな。ただこの何かは何とも言語で定義するのが難しいから人により言い方もまちまちだ。先のデカルトのようにコギトと言えば、古代ギリシアではプシュケー。あるいは絶対精神。まぁ色々だね」

 

ただ、理解としては概ね間違ってないよ。とレアは続ける。

 

「貴女は肉体とは関係無い魂をこそ知れ。というのですね」

 

「まぁ、そう言われると二元論的で語弊があるかもだけど……いや、そう言えるのかも知れないけど別にボクは身体と魂?のどちらかが真であり偽であると思っている訳でもないからねぇ」

 

とは言え、とレアは続けた。

 

「でも、間違いじゃあないよ。確かにボクみたいなのが知るべきは肉体ではないところのこれだ。何故なら野々村レアという肉体なら形而下の科学者、解剖学者が頑張ってくれるだろう。だからボクは形而上のこれをこそ相手にするべきだからね」

 

まぁ、要は役割分担だね。などとレアは嘯いた。

 

「……」

 

紬もまた考える。そして聞いた。

 

「何故、それを知るべきなのだとおもうのです?」

 

「逆説的だけど、それを知らないからかな。要は汝自身を知れ。これは哲学の祖ソクラテスの始まりの命題なんだ」

 

そこで、レアはカップを持ち上げてもう空だと気づいて立ち上がった。

 

「と、ちょっと飲み物取ってくるねー」

 

「では、私も」

 

「ん、じゃあボクが一緒に取ってきちゃうからいいよ、何がいい?」

 

紬は一瞬遠慮しようかとも思ったが、わざわざ二人で行くのも不合理だし、レアもその無駄を良しとはしない——悪いとも思わないかも知れないが——だろうし、頼む事にした。

 

「ではカルピスソーダで」

 

「ん」

 

頷いてグラスを取り、レアは歩き去って行った。

 

それを見送りながら、紬は考える。曰く考える事即哲学。

 

「人を見る眼には自信があったのだけどな……」

 

そう小さく、独りごちる。兄の伴侶。その人を知りたくてここまで来た。

 

しかし、少し分かったと思ったら手を離れていくような捉えどころのないレアの印象が上手く固まらない。感情の動きも良く掴みきれない。

 

なんだか、微笑するレアから言外に、他人の事を分かった風に思う事の傲慢さを皮肉られているような気がした。否、それはおそらくレアがそう言っているのではなく、紬自身の内がそう言っているのだろう。

 

ふと紬は思い出した。昔、近所で良く見かけた一匹の猫だ。

 

白地に黒斑の猫だったが、しかし毛皮は薄汚れ、骨に皮が張ったような見るからに老いた猫だった。

 

若い猫のような優美さやしなやかさ等は最早見られない。まるで枯れ木のような老骨の猫。猫らしい俊敏さも失われて、無駄に動かずじっとしているか、ゆるりと歩いていた。

 

若い野良猫などは車が通る道路に飛び出し、他意もない人が近づいても意味もなく走り出し、運動量も能力も高いのに無駄や危なげを感じるものだ。

 

しかし、老猫はそんな身のこなしながら、道路を歩いても車や自転車にぶつかるような危なげなく、無駄に動かなくても人間に触られる事もない。不思議な老獪さがあった。

 

いつも同じ近所を通りかかると居たような気がするが、いつの間にか居なくなっていた。いつ居なくなったのか紬も良く覚えていない。いつも居たのに大して印象にも残っていなかったのだ。

 

老猫なのだから、多分寿命で死んだのだろうが、まるで煙のように消えていた猫。今まで忘れていた猫の事を何故か思い出した。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい」

 

そこでレアが戻ってきた。紬の前にグラスを置いて座る。

 

ちなみにレアはドリンクバーにて、カルピスソーダに何か別のジュースをブレンドしようかと稚気を抱いたが、やられても別に面白くもない悪戯なので辞めた。

 

「で、話の続きだけどね」

 

「はい」

 

紬は答えつつ、ストローから一口ソーダを吸う。

 

「汝自身を知れ。それに乗っ取ってボクがボクをやっているところのさっき言ったこの()()を考える」

 

 

レアはスティックシュガーを一本とって破り、取ってきたコーヒーにサラサラと入れると、スプーンで混ぜつつ言った。

 

最初にミルク。二杯目はブラック。三杯目に加糖と地味に味の違いを楽しんでいるようだ。

 

「しかし、そのこれ。仮に魂として。それが分からないんだ。ボクがボクをやっているという当たり前の現象が分からない」

 

「つまり無知の知」

 

それ即ち、分からないという事をわかる事という逆説。そうレアはコーヒーを啜りながら言った。

 

「これが汝自身を知ろうとしたソクラテスたどり着いた命題だ」

 

「分からない。というのが答えなのですか?」

 

「答えであり問いだよ。ソクラテスは曰く哲学の祖だ。つまり彼の出した答え、無知の知は実は終わりじゃなく、そこから始まりなんだよ」

 

「つまりはαにしてΩだね」

 

「つまり、結局始まりに戻ってくるのです……?」

 

知らないから知ろうとする。知ろうとして知らない事にたどり着く。なんだか堂々巡りだと紬は思った。

 

事実これは悪無限と言えるだろう。あるいはニーチェの言った永劫回帰もこれではなかったか。

 

「違うと言いたい所だけれども、確かにそうかも知れないね。哲学の祖ソクラテスから今に至るまでニ千年。さて哲学は二千年の間に何を突き止めたか……」

 

「いや、実際ね。何も進んじゃいないんだ。我々は二千年前のソクラテスの頃から足踏みしていると言えるだろうね」

 

そう。一体古代ギリシャの時代から愛知者が考え続けていた頃から、一体今の哲学者が何を導き出したというのか?

 

西洋哲学の歴史とは、なべてただのプラトンの脚注だ、とはとある哲学者ホワイトヘッドの言である。

 

「なら成果も出てないのですか?」

 

それこそ自然科学、科学技術は目覚しい発展をしているだろうに。と紬は思う。

 

「出てないと言えばそうだね、だけどまぁそれも仕方ない。始まりにして終わりだからね。つまりもし成果が出たときは並べて人類が次の高み(始まり)へと至る時だろうね」

 

「その高みとは何なのです?」

 

それが分からないから無知の知。と言っているのは承知で敢えて紬は問いを投げた。

 

しかし、レアはシニカルに笑って答える。

 

「一つ言えるのは、こうだよ。って言ったら皆、はい分かりました。と至れないのは確かかな」

 

「まず勘違いしている人が多いけど、知識と知恵は違う。幾ら外部から知識を蒐集した所でその人自身が変わるかと言ったらそうじゃないんだ。その人が自分で考えられる人じゃないと衒学的(ペダンチック)な人で終わりだ」

 

言わんとする所は紬にも分かる。特に今は情報化社会。知識なんてネットで検索すればすぐに見つかる。しかし、だから今の人間は昔の人間より知恵があるのか?

 

「知識を良く良く消化して知恵としているものだけが碩学者だ。そもそも哲学をお勉強するもの、と勘違いしている人が割と多い」

 

勉強するものではない。との言に紬は引っかかりかけたが、しかしレアはさっき哲学を学問とする事すら怪しんでいた事を思い出す。学問でないなら確かにお勉強ではない。

 

「この事をカントは哲学を教える事は出来ない。哲学する事を教えるだけである。と言っているんだ」

 

「つまりね、プラトンはこう言いました、カントはこう論じた、それに対してヘーゲルは〜となぞるだけなら、なれても唯の()()()()だ、愛知者ではないよ」

 

つまり、と一つ間を置いてレアは続ける。

 

「真理とは、これが真理ですよ。と提示されて皆が了解出来るものじゃないんだよ」

 

「ならば、真理とはなんなのです?」

 

その紬の問いにレアは肩をすくめていう。

 

「それは、皆の内にしか見いだせないよ。考えてもみなよ。今まで覚者は沢山居た。だけどこれが悟りだと教えてみんな悟れるなら、今頃皆悟っているはずじゃないか」

 

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。ウィトゲンシュタインのこの命題には、確かに一定の理がある。

 

「もちろん覚者も言葉を残した人はいる。だがそれで悟れた人なんて一部も一部だ」

 

「有体に言えば、真理なんていくら言葉を尽くしても、分かる人は分かるし、分からない人には絶対に分からない」

 

「教えてもらってもわからないのです?」

 

然り。とレアは頷きコーヒーを一口飲んで告げた。

 

「分からないよ。哲学っていうのは、才能と努力が必要なんだ。だからさっき言った通り知恵と知識は違うって事なんだよ」

 

「分かりやすくいえば、プロ野球選手が、どうやって球を打つか?理論を言葉に出来る人はいるよね。でもその人の打撃理論を聞いたら誰でもプロ野球選手の投球を打てるようになるかな?」

 

「なりませんね。少なくとも凄く練習してる人じゃなきゃ、その理論を聞いても役に立たないとおもうのです」

 

その通りだろう。弛まぬ努力はもちろん、そもそもプロになれる程の天稟があって初めて理論を実践できるようになる。

 

「そう、これがスポーツなら皆それが分かるだろうね。だけど、知恵に関しては、人間って読んだ本やネットからの外部から取ってつけた知識で、賢くなったり自分が変わったりする気になっちゃうんだよね」

 

「だけど残念。哲学だって、いやむしろ哲学こそ分かるにはその人の才能と努力が必要だ。むしろ大事なのは、才能。ない人間にはどうやったって分からない」

 

そうして、才能のない人が努力だけしても、上部だけ様々な哲学者の理論の流れを勉強しただけの、先に言った哲学学者にしかなれない。

 

何処までも生々しく、この宇宙が存在するという謎に驚愕する。そして自分が生きて死ぬという奇妙奇天烈。それをただ考える。

 

それが理解出来ない魂に哲学など土台無理な話だ。下手の考え休むに似たり。というが無駄という意味では理解出来ない人は眠りこけていた方が遥かに有意義だろう。

 

「だけど分かる人には必ず分かる。必然ボクの言葉は聞こえる人には届く筈だ」

 

そう語るレアの眼は、この世の何処も見てはいなかった。

 

紬は思った、なるほど、この人は控えめに言っても非常に変わっている。しかし……

 

「レアさんの考え方は分かった……とは言えませんが、これから考えてみるのです。私からも良いですか?」

 

「もちろん。ボクが一気に喋っちゃったからね。今度はつーちゃんの話を聞こう」

 

紬の言葉にレアは頷く。互いに話して聞く。これぞ言葉のキャッチボールだろうと。もっともレアから投げられた言葉は明後日の方向どころか宇宙へ飛んでいっていたのかも知れないが。

 

「あくまで聞いていて思っただけの、まだ感想なので的外れなのかも知れないですが」

 

そう前置きから紬が語り出した。

 

「まず、現実的ではないのです。今を生きる人々は地に足付けてこの現実を生きているのです。それを全く無視して形而上の事のみでその人達を論ずるべきではないのではないのです?」

 

「ふむふむ」

 

紬が語り出した反論をレアは爛々とした眼で聞いた。

 

「私は、形而上の論理で正論を言うのは、おかしいとは思わないのです。でもそれが形而上であれ、形而下であれ」

 

そこで一つ区切って、紬は一口ジュースを飲むと続けた。

 

「……正論というのは人を傷つけてるのです。レアさんのいう形而上の言葉が分からない人は傷つく事はできませんが、そういう人でも分かる現実的な正論は、人は反発します」

 

ならばましてや。

 

「貴方の言ったとおり、貴方の言葉が届く人ならばきっとその人は尚更傷つくとおもうのです」

 

「なるほど、そうだろうねぇ」

 

そう、レアの言葉がまるで届かない隔絶した人種は、レアを嘲笑うか憐れむかくらいだろう。その言葉は如何なる意味でも響かない。

 

しかし届いてしまう人は、その言葉で切り刻まれてしまうのかも知れない。

 

「そして、貴女は愛を前に語りました。全てを合一するのが真の愛、と。それは万人に対する平等な愛の形、と言う風に私は解釈したのです」

 

ふむふむ、とレアは頷きコーヒーを一口飲み、返した。

 

「なるほど、言い換えてみればそれで間違いではないと思うよ」

 

所謂所のアガペーって奴と同類なのかもね。とレアは続ける。

 

もっともボクはキリストのような聖人でもなんでもない、ただの俗物だけどね。と一つ諧謔も挟んだ。

 

しかしそれは、逆説。

 

 

「翻って誰も愛さないという事なのではないのですか。貴女は兄さんを愛してはいないのではないですか?」

 

その紬の言及に、中々鋭い切り込みだとレアは感心した。

 

もし、レアが敦を愛しているなら、それは一例の特別な愛を持っているという一点で万人に対する普遍的な愛が破綻する事になるからだ。つまり真性の愛は成り立たない。

 

「そして貴女は、根本的に人との関わりを避けているのです」

 

それは自明。なるべく人と関わらなくて済むからと夜行性になる人が、人付き合いに捲んでいる事など言うまでもなく。考えるまでもない。

 

「ふむふむ、つまり?」

 

レアは微笑したまま先を促した。

 

「貴女は、人や世界と向き合わずに形而上へと逃げているだけなのではないですか?」

 

紬は抱いた感想を忌憚無く吐き出した。言ってしまってから口が過ぎたかとも一抹の後悔がよぎった。

 

聡明な紬なら当然推測は出来る。レアという女性とて、好きでこうなったわけではない筈だ。誰しも少なからずそうだろう。この人がこうなったのは然るべき経験があったからだ。

 

その結果としてのレアの在り方を逃げと断ずる傲慢ではないかと自覚はあった。

 

しかし、レアのあるかなしかの笑みはいささかも変わらず、その眼には僅かの苦味の色も浮かばなかった。

 

「なるほどねぇ。確かにボクにはそういう一面があるのも確かだろうね」

 

それどころか、あっさりと肯首した。紬は鼻白む。

 

でも、とレアは続けた。

 

「反駁は幾つかあるよ」

 

「聞かせて欲しいのです」

 

「そうだね、じゃあまず……と言いたいところだけど、今日のところはこれくらいにしておこうかな。結構喋ってつかれちゃった」

 

眼をしぱしぱさせてレアは言う。時間が時間だし眠気もあるようだ。

 

む、と紬は肩透かしを食う。ここで終わっては尻切れとんぼだがしかし、突然訪問して長々と話を始めたのは紬の都合ではあるので無理強いをすべきでもない。

 

そう。だからそろそろこの宇宙猫が語り、騙るのもあと少し。

 

「ただ、一つだけ」

 

「何ですか?」

 

レアはカップに残ったコーヒーを飲み干しつつ、告げた。

 

「人を愛そうとするなら、誰かを求めては駄目だ。一人きりになって初めて人を愛せるんだよ」

 

まぁ、少し考えてみるといいよ。と言いつつレアはカップを置いた。

 

「続きは、もしお互い生きている内にまた会えたら話そうよ」

 

「それは次会えたらという約束じゃないのですね」

 

「生きている事に約束なんてないよ」

 

「もしボクがもうキミに語る(騙る)事が無かったなら、それは単にボクかキミが死んだのだろうね」

 

それだけの事だよ、とクスリと笑って、レアは答えつつ伝票を取って立ち上がった。

 

「ここはボクが払っておくよ」

 

ばいばい。と手を振りレアは歩き出した。

 

「待って下さい!」

 

紬が血相を変えて立ち上がり、呼び止めた。

 

「お財布忘れたんじゃなかったのです?」

 

「あっ!そうだった」

 

………

……

 

逃げる。逃げるな。それは逃げだ。

 

逃げるという語彙を、世の中で人がよく言う使い方にこんなものがあるだろう。有体に言って否定的な言葉。負の意味合いが込められている。つまりは逃げてはいけないという価値観だ。

 

このような風潮に疑問を抱いてきた。逃げるというのはあらゆる生物種が取る生存の為の手段ではないか。生きる為に逃げるというのは普遍的な戦略である。

 

逃げる事をしない生物など生き残れない。ライオンに狙われたガゼルは逃げる事で生き残り種を反映させる。逃げるのが正しいのだ。襲いくるライオンに立ち向かう草食動物などいないだろう。

 

例えば大地震の後大津波がおし寄せて来たら、誰でもすぐに高台へ逃げる筈だ。逃げるんじゃない!などと言いながら津波へと突っ込んでいく人間は居ないし、居たらただの狂人だ。

 

そこまで極端な話ではないにしても、様々な危機に際して適切に逃げる事を出来ない人というのは心身ともに壊れやすい。実際今の時期そういう人は珍しくないのだ。はっきり言えば逃走を悪となす風潮は害悪でしかない。

 

「誤解を恐れずに言うなら、凡そ逃げる事の出来ない人は弱いんだ」

 

先のライオンの例えで言えば、ライオンは捕食者。ガゼルは逃げる事しか出来ない非捕食者。百獣の王などと言われる通りライオンは文句無しに強い生物であろう。

 

しかし勘違いされがちだが、自然界の掟は弱肉強食などでは決して無い。

 

適者生存なのである。

 

事実、捕食者たるライオンやトラは多くの種が絶滅に瀕しているが、逆に非捕食者の草食動物は繁栄していたりする。

 

狩る側の強き者が、捕食される弱き者より生物として成功するとは限らない。

 

武の観点から見ても、これは共通点がある。

 

武の道を行く者は恐らく分かる人が多いだろうが、強さと逃げ足の速さは比例する。

 

つまり、強い人は大抵逃げ上手なのである。

 

当然と言えば当然だ。武において強者とは生き残る能力が高い者であり、生き残る為には逃げ足が肝心だからだ。

 

逃げる事を知らない猪武者などすぐ死んで終わりだ。

 

何処か適当に護身術を教える教室にでも行けば分かるが、何処の教室でも最初に教えるのは逃げる事であろう。

 

身を守る事において最重要となってくるのが即ち遁走なのだからさもありなん。

 

つまり、逃げを恥や悪とする考えは、逃げるくらいなら人に死ねと言うような暴論だ。

 

むしろ逆なのだ。逃げる。という行為を超克するには徹底的に逃げなければならない。

 

嫌な事があれば逃げれば良し。怖い事があれば逃げれば良し。危ない事があれば逃げれば良し。

 

そう全ての人に勧めたい。世の中が逃げて、逃げて、逃げまくる人で溢れたら通快ではないか。

 

そうしてあらゆる事から逃げた果てにきっと人は気がつく。ただ一つだけ逃げられない事がある。

 

「ゆっくり行くと日射病にかかる恐れがあります。でも、急ぎ過ぎると汗をかいて、教会で寒気がします。と彼女は言った。彼女は正しい。逃げ道はないのだ」

 

異邦人の何気なくはあるが、好きな一節だった。

 

そう、人は、自分が生きて、そして死ぬという事からは絶対に逃げられない。

 

遍く人々に逃げ場は無く、己の生を己で生きて、己の死を己で死ぬのだ。

 

中には、生きる事から逃げて死ぬ自殺者もいるではないか。と反論する人もいるだろうが、これは安直な考えであろう。

 

確かに自殺者とは自分の人生から逃げようと死ぬという事と確かだ。

 

しかし、大抵の人は漠然と生きて、漫然と死ぬ。

 

それに比べて、自殺者は自分が生きているという事実に真摯に向き合った結果、自ら死する。そのあり方は自分の人生を逃げずに全うした。そういう他ないじゃないか。それは紛れもない勇気だ。

 

凡そ、自殺者ほど、己の生と死。存在と虚無に真っ向から立ち向かっている人はいない。本人が無自覚であってもだ。

 

ならば自殺者の意思は、間違いなくこの世でもっとも自由な意志の発露だ。その勇気に祝福を。

 

そして、自殺者でなくとも人は逃れられぬ生、そして死を迎える。今までの全人類がそれを例外無く行って来たのだ。

 

ならば、だ。どんなに生きる事を考えず。死ぬ事にも向き合わない人も最後は必ず生きて死んでいく。今までの総人類が全てそうだった。

 

つまりは、遍く人は逃れえぬ生と死を絶対的に踏破出来ると約束されているのだ。

 

人生とは。熱力学の三原則と同じだ。敗北は不可避。そして逃走も不可能。つまり、死と言う名の負け(勝ち)は必然である。

 

ならば、ならば、だ。ある人が死んだのなら、それを悲しむよりも、自分の生を、死を全うした勇者を讃えるべきではないか。その勇気を寿ぐべきではないか。

 

畢竟全ての人間は逃れられぬ己の生と死を必ず踏破出来る事を約束された勇者なのだ。ならば己が存在する事に誇りを持て。

 

生まれた命。それが例えどんなに醜悪であっても、欠陥を持っていても、人でなしであろうと、害悪であろうと、誰か一人くらいはその人間を肯定し続ける人がいてもいいではないか。

 

そういう者を軽蔑し、侮蔑して、嫌悪する。それも仕方はない。しかし、その人が生と死に向き合って現に存在する。その事に一片の敬意を抱いて然るべきではないか。

 

「とまぁ、そんなところかなぁ」

 

「なるほど。全ての人は勝利を約束されている、ですか」

 

レアはその夜、そんな事をつらつらと敦に語っていた。紬と話した後に思った事を整理する為という意味があったろうか。

 

敦もそれは、中々面白い考え方かも知れないと思った。世の中には生きている間に何をしようとどうせ死ぬのだから意味が無い。そんな風に言う人は一定数いる。いや、誰しもそう思った事が一度くらいはあるのではないか。

 

事実、他ならぬ敦もそう考えた事もあった。

 

言わば、神は死んだと喝破したニーチェの語ったニヒリズムのひとつの形式と言えるだろう。いみじくもパスカルの言った、神なき人間の惨めさは正しかった。

 

しかし、どうせ必ず死ぬ。その事実を絶対的で普遍的な勝利と考えるのは極めて毅然として精強さを感じさせ、良い考えだと敦も思った。

 

同じくニーチェで言えば力への意志であろう。

 

それは究極、ニヒリズムの超克。

 

超人への道。

 

「つーちゃんの言う事ももっともだったけどね」

 

「紬の?」

 

「形而上に振り切れたボクの考えはなるほど現実的ではないのだろう。とね」

 

不可能という事に目を瞑れば完璧。それは奇しくもレア自身が先日紬に何気なく言った事だったが、それはそのままレアにも当てはまるのではなかったか。

 

「でも、逆説。不可能事は可能だから不可能足り得るんだよ」

 

「……あるものはある。無いものは無い。ですか」

 

「そうだね。そもそも可能性が無いものはそもそも無い。不可能ですら無い筈だからね。つまり不可能性は可能態でしかない」

 

そう言いながら、自身の不可能性すらも結局は存在論。形而上学へと戻ってきてしまう事の皮肉にレアはクスクスと笑う。

 

「今の時代は一つの特異点だと思うんだ。あーちゃんはそうは思わないかな?」

 

「……人類史を見渡してみても、ここまで変化の激しい時代はないでしょうね」

 

少し考えて敦は答える。

 

「そうだね。二十世紀に入ってから一世紀ちょいで世界人口は指数関数的に増大。科学技術もまた、目まぐるしい勢いで発展しているね」

 

「神が死んでから、一世紀以上経ち、今や物質的科学が支配する世界だ。いつか皆科学がこの世の未知を駆逐すると思っているのだろう」

 

「けど、それは間違い。でしたよね」

 

敦はそう先取って言った。そう、それはいつかのレアが言っていた事だ。

 

「そう。例えば……科学諸学問において土台となる基礎的な数学や物理学諸般があるように、この世の全ての前提となる土台となるのが形而上学」

 

それが他でも無い大哲人であり、同時に万学の祖。つまり科学の父と言えるアリストテレスが立てた第一学。

 

それを無視して積み重ねる科学など、砂上の楼閣に過ぎぬとしたのがレアの批判だった。

 

「余りにも歪に発達した物質的科学信仰。さて、あーちゃんはどう思うかな?」

 

「……エナンティオドロミナ、ですか?」

 

先日紬と共に聞いた概念。一切のものは対立物へと転化する。これヘラクレイトスの唱えた万物流転。

 

「そのとーり!流石あーちゃん。つまりね。大局的に見れば一方に偏ったら必ず揺り戻しが来るんだ。俯瞰すればバランスは必ずとれているという事だね」

 

パッと笑って、レアはそう言った。そして、指を立てて振り子のようにゆっくり振って続けた。

 

「ヘーゲルが歴史哲学として論じたように、人類の歴史を見渡すとそうなっているんだ。物質と精神。強制と自由。そして、治と乱」

 

「歴史はそうした揺り戻しを繰り返しながら一人の人間が成長するように、進歩していったんだよ」

 

つまり、と敦はそれに対して口を開いた。

 

「それも、エナンティオドロミナ?」

 

「そうだね。ボクはエナンティオドロミナはヘーゲルの弁証法に通じると思う。精神現象学における奴隷と主人の弁証法なんてまんまだしね」

 

レアは振り子にゆっくり振っていた指をクルクルと回しながら機嫌良く言った。

 

「と、閑話休題だ。つまり、こうまで歪に突出した物質的信仰は、間違いなく近い未来に大きな揺り返しが来る」

 

だから、そこに好奇がある。レアはそう言いながら立ち上がり、窓際へと歩いていくと夜空に浮かぶ月を仰ぎ、振り返った

 

「例え、どんなに不可能に思えてもきっと……」

 

 

きっとボクの言葉が届く人達がいる。

 

「ねぇ、あーちゃん」

 

「ボクは諦めてないよーー」

 

 

かみよ、すべてのつくりぬし  

 

あまつみそらをしろしめす

ひるはあかるきひかりもて

よるはめぐみのねむりもて

よそおいたまえばもろびとは

ゆるみしからだよこたえて

あすのちからをやしなえり

つかれしこころやすらかに

 

 

 

なやみはとけてあともなし


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