原作:BanG Dream!
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なお作中で場合によっては不快に感じる表現、展開、残酷な描写、暴力的表現等が含まれます。十分注意の上お読みください。
また、正直に申し上げますと、元々書く予定の無かった部分を書いておりますので、確認はしているものの力及ばず本編と矛盾が生じる場合もございます。そもそもが人によっては蛇足とも取れかねないものでもありますので、本編だけで満足という方はブラウザバックを推奨いたします。
「あっ、蓮、……いらっしゃい」
朝早くから店先に現れた私の恋人。私の家で立ち込める酵母の匂いを全て掻き消してしまうような、そんな言葉にできない凄まじい魅力がそこにはあった。それは惚れた弱みと言われればそうであるし、きっと今、このような関係性に落ち着いているからこそ私はこうやって酔いしれることが出来るのである。
「……沙綾」
「蓮……ん」
ほんの一瞬、交わされた契り。
それは私と彼、豊岡蓮の穏やかな日常を象るものであり、未来永劫こんな細やかな幸せが続くのだという予感めいたものを感じさせるものであったはずなのだ。
その日の空は、雲一つない、雨空だった。
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蓮との交際が始まったのはほんの偶然だった。だって蓮は勿論花女の生徒ではないし、本当にふらっと、山吹ベーカリーを訪れただけだったのだ。丁度半年近く前だろうか? 詳しい時期は覚えていないけれど、それも蓮との交際が順調であったからに違いない。世間の多くが私たちの交際を順調と言うのかは知らないけれど、少なくとも私はそう思っていた。
私と蓮が会う時はいっつも何も決めてなかった。行き先も、することも。私にとってはただ蓮が隣に居てくれることが一番だったから。だから私にとってはこれこそが私と蓮の正しい関係だと思っていた。
それにポピパのみんなにすら蓮のことは何にも言ってなかった。だって盗られたらやだもんね。香澄も有咲もおたえもりみもみんな可愛いから。蓮に限ってそんなことないとは思うけど、蓮にとっての一番は私であって欲しいもん。他の女の子のことなんか考えてほしくない。
そんな私のちっぽけな独占欲も、蓮は知ってか知らずか受け止めてくれた。私にとっては蓮しかいなくって、蓮にとっては私しかいなくって。
それは、そんなくだらない幸せは、一瞬にして弾け飛んだのである。
あの日は雨だっただろうか。詳しいことは覚えていない。だって覚える必要がないことは覚えなくていいんだから。私にとって忌々しいと言うほかないことなど、考えることすら無駄だったから。けれど、これと向き合わないと、私はきっと次には踏み出せない。
「ねぇ、お姉さん」
「え?」
傘に打ちつける雨音は軒下に居たそいつの声を殆どかき消してしまって。呼び止められたことしか私には分からなかった。すでに暗くなり始めてたし、雨も降っていたから早く帰ってしまおうと思って、足早だった私は尚のことだった。
「実は急に雨降り出しちゃったから傘の用意もなくて、通りまでだけでいいから傘入れてくれない?」
そういえば雨は本当に急に降り出したんだっけな。近年流行りのゲリラ豪雨なんていう奴かな。しかも急いで帰ろうとしていたもんだから、裏路地も裏路地、きっとこの人にとって私を逃したら次誰が来るか分かったものじゃない。通りまでなら良いかな、なんて考えたのだけど、私とて傘の用意は1本しかなくて、そう考えたら見知らぬ男をこの傘に入れることになる。それはまるで蓮への裏切りのように感じて、私は少しだけ押し黙った。
「通りまでだけでいいから! 頼むっ!」
私が渋っていると見たからか、必死に頭を下げていた。なんだかこれを断るのも申し訳ない気がして、私は仕方なく入れることにした。
「いやぁ恩に着るよ」
「この雨ですもんね」
「雨か……はぁ」
「何かあったんです?」
雨音の割に聞こえてくる大きなため息で、なんだか気になった私はそう問いかけた。
「いや……後悔先に立たずって、ね」
「……後悔?」
「大事なものは失ってから気づくんだよってことだ」
「……そう、ですか?」
その男の並々ならぬオーラに、思わず私は怖気付いた。きっとこの男の経歴というか、生きてきた世界を聞いておけばそれは想像に難くはないのだけれど、会って数分の私に分かるわけはなかった。
「その……元気出してください」
「……はっ、元気ねぇ」
その男の目がこちらを向いた。落ち窪んだ深淵が覗いたその瞳は、その男が途方もない絶望を生きてきたのではないかと思わせるほどだった。
「……なんだか、似てるんだよ」
「……似てる?」
「なぁ、ごめんな」
「え?」
私の意識は闇に落ちた。
次に私が目を覚ましたのは、見知らぬ部屋だった。生活感があるようでまるでない。そんな矛盾した空間。けど、そんな空間を認識する間も無く、私は困惑し、思わず叫んだ。
それは、私の体は今まさに衣一つ纏わぬようにされようとしていたからである。
「わっ……起きたのか」
「……え?! なんで……?!」
あまり体に力が入らなかったものの、私は慌てて壁際へと後ずさった。目の前にいたそいつはさっき私がわざわざ雨から救おうとした悪魔だった。しかし、悪魔の割にはそいつは押し黙ったままでいたから、酷く不気味だった。
逃げようにも、こんな姿では逃げることも叶わない。それに、蓮以外に私のこの生まれたままの姿を見せてしまったという事実はあまりに大きく私の中に響いた。
「……何するつもりですか?!」
「……わかんねぇのか? はぁ、めんどいな。寝たままならこっちだってなんも考えずに……」
「ふざけないで!」
「……まぁいいや、股開け」
「やだっ!! やめろっ!」
私は必死にもがいた。もうこの辺りから記憶は定かではない。
「……男でもいんのか」
「そうよ! やめて!!」
「……はぁ。なんか萎えたわ」
「へ?」
「まぁいいよ。今日は帰れば?」
「……は、はぁ?!」
「ま、その代わり俺が呼んだら、すぐ来いよ。
「なっ?!」
唐突に呼ばれた私のフルネーム。
「お前のこと、全部知ってるから。それに、これもな?」
「……は?」
そいつが私に見せたのは、スマートフォン。……まさか。
「インターネットって怖いんだぜ? ちょーっと上げた写真から自宅も分かっちまうし、きっと家族も大変だろうな」
「え……は……え……」
「ばら撒かれたくないだろ? 別にお前のには興味ねぇって言ってるんだから、大人しく来れるよな?」
「あ……あ……」
「返事は?」
「は……い……」
「……世の中にはどうにだってなんないこともあるんだって、な」
私は一目散に逃げた。ベッドの上に散らばってた服を着て。そいつは窓から真っ暗な空を見上げてタバコを吹かしている。息のたびに外に噴き出すその煙は地獄からの熱風だった。きっとこの硝煙に焼かれていくものも多くいたのだろう。
どうやって帰ったかなんてのは覚えていない。気がついたら私は自分のベッドの上で震えていた。通知の音が来て、心臓が飛び跳ねたのを覚えている。灯りひとつない部屋の隅で、青白い光りでその存在を伝えていたのは、一番会いたくて、一番会いたくなくなってしまった、蓮からの他愛もない雑談だった。
意識することもなく私は何故か涙を流していて、メッセージを数往復して落ち着かせて、蓮に電話をかけてしまっていた。電話口から聞こえてくる蓮の声はいつも通りの蓮の声で酷く安心した私は通話中だったのに、胸にスマートフォンを抱えたまんま、眠りに落ちた。いつも通りの蓮の声は天国からの子守唄だった。
一晩明けて、私をまたも地獄に突き落としたのはそいつだった。そいつが言うには数日後の週末の夜に来いってことだった。私はその日付を見て、動揺して思わずスマートフォンを落としてしまった。
その日は私と蓮がデートしようと言っていた日。いつも通りの日常が始まるはずだったのに。ふと私は前日の晩を思い出した。蓮以外の人に見せてしまった私のカラダ。純潔が奪われてないにしろ、蓮への裏切りに他ならなかったのだ。
私は戦慄した。私にとって、蓮しかいないのに。
私は慄然とした。私の全ては蓮だけのものなのに。
これが純や紗南に見られたのとかだったらどんだけ良かったか。それこそお父さんでも。けれど、現実は違う。
私はその日、少し遅れて学校に向かった。前日を思い出させ続ける意地悪な雨に降られながら。
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蓮とのデート。いつもは退屈さこそが幸せだったのに。蓮と話すこと全てで焦燥感と恐怖だけが私の胸中を支配していた。ねっとりと熱くドロドロに溶けてまとわりついた嫌悪感と厭悪感が私の心を殺した。
「……そういや、半年ぐらい経つなと思って、……はい」
「え……。……うん、ありがと」
デートの終わりがけに、蓮がプレゼントをくれた。きっといつもの私なら恥ずかしさを隠しつつ、こっそり心の中で小躍りして、もっともっと蓮のことが好きになるはずなのに。けど、けど。
私は怖くなってしまった。
不本意ながら、数日前にあの悪魔が言っていた言葉が思い起こされた。
『大事なものは失ってから気づくんだよってことだ』
私は蓮に何を言えば良いのか分からなくなって、もらったリボンを結ぼうと俯いた。蓮の顔が見れなかった。
「……ん、どう?」
「……うん。似合ってる」
「……ふふ、ありがと、蓮」
形だけのありがとうを言うのがこんなに虚しいだなんて知らなかった。ありがとうよりもごめんねと許してを言いたかった。けど、言えなかった。
だって、私は今から蓮を裏切りに行くんだよ? 私は蓮との逢瀬を終えた後に、浮気に走って。そんな最低な女が何を腑抜けたことを言っているの?
馬鹿だなって思ったよ。自分が嫌いで嫌いで、仕方がなかった。今まさに下卑た女に成り下がる自分が嫌いで、蓮のことがもっと好きになった。
好きになったからこそ、怖かったのだ。きっと蓮のこと、信じきれてなかったんだろうな。ほんの少しでも疑っちゃったから。そんな私への天罰なんだろうって。この雨は天罰で天の恵みだった。
「ん。……それじゃあ帰るね。傘とリボン、ありがとう」
「いいんだよ、気をつけてな」
せっかく貸してもらった蓮の傘も、何度も何度も外す。それはそいつと会ってからも。降り頻る雨でしか、私の心の汚れ切った歪みを埋めてくれるものはいなかったから。誰にもこの歪みから溢れ出す膿を見せたくなかったんだ。
どこからが裏切りなんだろうって、少しだけ考えた。体の関係を持ったら? 心が離れちゃったら? 今私のしていることは蓮への裏切り? でも蓮のこと、この世で誰よりも愛してるんだよ? 愛って何? 私と蓮が築くはずだった幸せってなんだっけ。
あの日常を取り戻したい。私が欲しかった日常ってなんだっけ。私にとっての幸せってなんだっけ。
分からない。分からない。もう何にも分かんないよ。なんにも……。
「いやあああぁぁぁぁぁっっ!!!!」
私は逃げた。悪魔の部屋から逃げて、私は誰も私を詰らない部屋へと逃げ込んだのだ。それ以来悪魔からの連絡はなかった。悪魔からの連絡はなくなったけど、一番連絡が欲しくて、話したくない人からの連絡もなくなってしまった。他ならぬ私の手によって。私の穢れた手が、私にトドメを刺したんだ。助けて欲しかったのに、自分から幸せの糸を引きちぎったのだ。
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私が鳥籠に入ってからどれくらい経っただろうか。ずっと黒い布が被されていたのに、その扉はある日突然開いた。
「沙綾! いつまでそんな引きこもってんだ!!」
「あり……さ……?」
出口がない
けれど、私がそんなことに気がつくのはもう少し後だった。だって、有咲に何が分かるの? って。
有咲は知らないでしょ?
私が蓮と幸せに生きるはずだったこと。私だって知らなかったよ。この幸せが突然終わるだなんて。
有咲は知らないでしょ?
私がなんでこの暗闇の絶望に浸ってるのか。私だって分からないよ。この絶望の方が蓮と描く幸せより幸せな理由だなんて。
有咲に何が分かるの?
私がどれだけ蓮を愛していたか分かる? 分かるわけないよね。私だって本当に蓮のこと愛してたかなんて分かんないんだもん。
有咲に何が分かるの?
私がどれだけ消えてしまいたかったか。分かるわけないよね。だって本当に消えるのは怖いんだもん。
有咲に分かるわけないよ。
私が本当に欲しい幸せが何かなんて。私だって誰が幸せなのか分からないもん。
有咲に分かるわけないよ。
私が本当に欲しい愛が何かなんて。この鳥籠に蓮の餌が欲しいのに、私は自ら拒んだから。
ねぇ蓮。どうして消えちゃったのかな。
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結局私はその鳥籠を追い出された。だってこの世界にはどうにだってならないことはあるんだから。
けど、追い出されたなんてのはそんなマイナスなことではない。だって有咲のおかげで知れたから。蓮は蓮なんだって。私は蓮を裏切ったのに、蓮はいつまでも私の味方でいてくれるんだって。あの時はすごい幸せだったなぁ。きっと有咲がいなくなったその部屋で、恍惚とした笑みを浮かべて、気持ち悪く高笑いしていたのだろう。今だって思い出すと、その時の幸せが思い起こされるもん。胸を貫くような幸せが。
私は蓮にメッセージを送った。あれ以来だ。私が蓮を拒絶したあの時。蓮も画面の向こうでびっくりしてるかな、なんて少しだけ考えちゃった。それは蓮が本当に私を許してくれるか、不安だったから。だって私は裏切ったんだもん。それこそ『お前のような女、もう知らない」なんて言われてもおかしくないぐらい。事実、蓮も私を忘れようとしたらしいじゃないか。けれど、それに対して私が文句を言うのはお門違いだ。私は蓮のものなのに、その掟を破った私は詫びても詫びきれないほどの業を背負ったのだから。
……怖かった。本当は。
会うなんて言って、どんな顔して貴女はかつての恋人に会おうと言うの? 貴女が捨てたんじゃない。それに向こうだって、もう貴女から心が離れてるかもしれないんだよ? 単に謝りたいだけ。勘違いの誤魔化しをしたいだけ。
貴女があの日、あんな場所を通らなければ。
貴女があの日、悪魔に傘を貸さなければ。
貴女があの日、もっと警戒していたら。
貴女があの日、蓮とずっと一緒にいれば。
貴女が一生、ひと時たりとも蓮と離れなければ。
「黙れ!!」
私だって、蓮と一緒に居たかった。蓮と同じ傘に入りたかった。蓮と体を重ねたかった。蓮と愛を育んで、一生の契りを結んで、ただ普通の人生を送れればそれだけで、それ以上は何も望んでなかった。
捨てられたくなかった。蓮と離れ離れになるなんて嫌だった。だから私は過去の思い出を愛でていただけ。だからこそ私はこの世界の残酷さになかなか気がつくことすらできなかった。
それを乗り越えて、今もう一度歩み出そうとしてるんだよ? 許されるなら、私はもう一度蓮と。ただそれだけだった。
なのにどうして?
どうして私はこんなに苦しんでいるの?
どうして貴女の隣には今蓮がいないの?
どうして私は蓮の愛を受け止められなかったの?
どうして貴女は今ひとりぼっちなの?
どうして私は蓮に会うのが怖いの?
どうして貴女と蓮は離れ離れなの?
どうして?
蓮、許して。
もしも愛してるなら、許してよ。私は喩え蓮の心が他に向いていようと、何も言わないから。だから許して。お願い。
一縷の望みをかけた私の祈りへの答えが返ってきたのは、意外とすぐのことだった。
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返事こそすぐきたものの、蓮に「待ってて」と言われてから、その消息は不明だった。その頃には学校にもまた行き始めて、なんとか普段通りの日常を取り戻そうと出来る程度には私はかつてを思い出していた。けれど、決定的に足りないのは、蓮だった。
私の心を覆い隠していたのは不安であり、恐怖だった。本当は心の底では私のこと、許してくれないんじゃないかって。だからこそ会いたかった。本当の意味で詫びたかったのだ。許して欲しかった。許されないほど大きな罪を抱えた私を許して欲しかったのだ。
焦燥感が私を突き動かしていた。はやる気持ちは私を蓮の家へまで赴かせた。だって、会えるかも知れないんだもん。待つように言われてたとしても、ずっとずっと会いたかったんだもん。別の女の人の男になってたとしても、きっと蓮が許してくれるなら、私たちはやり直せるだろうから。
インターホンを押して、私は新たな不安の味を知った。蓮も、妹ちゃんも、ここには居ないんだって。きっと蓮の身にとんでもないことが起きてるんだって。私の嫌な予感は的中してしまったんだって。
私は蓮を探し始めた。なんて言っても手がかりはほとんどなかった。だって、実質的には失踪してしまったようなものだったから。蓮の知り合いだなんて私は全くと言って良いほど知らなかったし、共通の知り合いなんてのももちろん居ない。
蓮のことをよく知っているであろう蓮の家族ですら分からないなんて、まさに暗闇の中で砂粒より小さな探し物を見つけるぐらいの難しさだ。
「え……」
「……え?」
世界が止まった音がした。目の前に現れた、僅かにやつれた絆ちゃん。私と蓮を繋いでくれる、か細い糸。
私は何度も家に通った。蓮のことを知るため。蓮に謝るため。蓮に許してもらって、やり直すために。
何度も拒絶された。罵倒もされた。けれど、私はついに蓮に繋がる糸を手繰り寄せることに成功したのだ。
……でも、俄には信じがたかった。蓮と千聖先輩の繋がりって何? ポピパのみんなすら知らない蓮と千聖先輩が、どうして繋がっているの? まるで分からなかった。
だから私はその答えを確かめた時。蓮の居場所を確かめた時。狂ってしまったのだ。そこは本当なら、私がずっと居たはずの場所だったから。
その時私が噛み締めた心の味ははっきりとは覚えていない。二度と思い出したくもない味。そんな気持ちを味わうことになったのは自らのせいだというのに、そんなことすら忘れて怒り狂うほどの醜い気持ち。嫉妬だとか、羨望だとか、嫉みだとか、そんな言葉では収まりがつかないほどの憎しみの感情。蓮と一緒になることができなかったことへの憎しみ。
きっと他人がその私を見たら、それは八つ当たりだと言うのだろう。
「……そっか」
私は絆ちゃんを傷つけた。蓮の居場所を知った。
全てが憎くなった。けれど自分と蓮が一番憎くて、蓮が愛おしくなった。だってそうじゃないか。明日、私は蓮に会ってやり直せるんだから。蓮に謝って、許してもらって、全部が全部やり直すんだ。そう考えただけで気分が高揚して、顔面が羞恥で赤く染まる。蓮を助け出すことができれば、私は蓮とやり直せるから。明日のことを考えるだけで、私はもう何もかもどうでも良くなりそうだった。
そっか、これが愛なんだ。蓮ともう一度あの幸せを紡ぐんだ。
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その日は雨が降りしきっていた。朝からずっと酷い雨。私が悪夢を見始めたあの日と同じ。横殴りで私の中の気持ち悪い部分を吐き出させてくる。町のあちこちの水溜りから不吉な音がざわざわと心の中まで響めいて。酷く不快だったな。
町の外れの集合住宅。その5階の奥から2番目の部屋。
「……蓮、久しぶり、だね」
「……沙綾?」
「なんで、ここに」
「……蓮に会いたかったから」
「……そう、か」
「蓮? ……あら、……少し出るのが遅かったわね」
「……千聖先輩」
「……やっぱり、昨日私の後を尾けていたのは、貴女だったのね、沙綾ちゃん」
「……バレてたんですね」
「それで、一体何のためにここに来たのかしら?」
「……蓮に会うためです。蓮に謝らなきゃいけないから」
「……そう。なら、私は邪魔しない方がいいかしら」
意外なほどにもあっさりと、千聖先輩は引き下がった。私の尾行に気がついてたぐらいだから、もっと私のことを警戒してると思ったのだけど、どうもそうではなかったらしい。
私は蓮と向かい合う。その瞬間かつての、忌々しい自分の愚かさが蘇った。暗く狭い世界に生きたあの頃を。けれど、蓮と私はやり直すんだ。
「蓮、まずは私が、……あの男と浮気紛いのことして、ごめんなさい。きっと……蓮のことを……悲しませたから。……謝って許されるものじゃないとは、分かってるけど、……ごめんなさい」
蓮は俯いたまま何も喋らない。きっと唐突に会ったものだから、困惑しているだけだろう。私とてすぐに許してもらえるだなんてそんな甘いことを考えているわけではなかった。むしろ許しを乞うために自らを全て捧げるのだと。裏切った私に向き合おうとしてくれた蓮の愛に報いようと。だから私は静かに返事を待ったのだけれど、先に声をあげたのは千聖先輩だった。
「……話は、それだけかしら。それじゃあ」
「待ってください」
だから。
「……千聖先輩。蓮のこと、解放してください」
邪魔をするなら、それを取り去る他なかった。
「……解放? まるで意味がわからないけれど」
「蓮が、監禁されてるってことは、知ってます。蓮のことを、痛めつけているってことも。絆ちゃんのことも」
「ぇ……」
「……言いがかりはよしてくれるかしら?」
「それじゃあ、なんで蓮は、そんなに怯えているんですか?」
「……蓮?」
「ぁ……ぁ……」
「……これは愛よ。蓮は私に愛を、誓ってくれた……。囁いてくれた……」
「蓮を脅して、忠誠を誓わせるのが、愛って言うんですか?」
違う。愛はそんなものじゃない。
私と蓮は、例え境遇がすれ違っても、過去の幸せを永遠のものとするために、もう一度全てをやり直して、またあの時の幸せを紡いでいく。それが愛だって。そんな蓮に強制する愛なんて間違ってる。私は千聖先輩を睨みつけた。
「脅してなんかいない。そうでしょう、蓮?」
千聖先輩の声に、蓮からの返答はない。
「ほら、蓮はそんなの、思ってないんですよ。……帰ろう、蓮」
「……ふざけないでっ!! 私たちは今から……2人で幸せになるの。邪魔しないでっ!!」
千聖先輩の声には憎しみが籠っていた。まるであの夜、あの悪魔に反撃の叫びを上げた私のように。
「貴方に……私の大切な蓮は渡さない!!」
ダメだった。誰も傷つけないつもりだったのに。千聖先輩は狂っちゃったんだって。どうしてか分からないけど、直感的に分かった。私は懐から仕方なくそれを取り出したのだ。
「……千聖先輩のエゴに、蓮を巻き込まないでください! ……今助けるからね!」
千聖先輩の反応はとても鈍かった。
私は迷いなくその邪魔者を刺すつもりだった。
「何してんの蓮! その人は……蓮を監禁して拷問してたんだよ!!」
だから本当に何が起きたのか分からなかった。
どうして……? 蓮は私と幸せになるんだよ? どうしてそいつの目の前に立ちはだかるの? 蓮は私を許してくれるんでしょ? 裏切り者の私をも寛大にも許して、全て最初からやり直してくれるんだよね? そうなんでしょ?
けど。……蓮が私の声に応じることはなかった。
「え、何して」
振り上げていた腕を掴まれた。ナイフを奪われた。ナイフで、切り裂かれていた。
「え……ぁ……」
何が起きたか分からず、私の喉からは掠れた息が漏れる。その息に宿っていたのは絶望と困惑の声。世界が崩れていく音がした。
「……え? ……蓮?!」
「千聖を守れるのは俺だけだから」
私じゃ、ダメだったのかな。
「千聖は、俺が、絶対守るから」
そうなんだよね。裏切ったのは、私だったから。
「ぁ……ぁ……」
「千聖の敵は……みんな消えちゃえばいい」
私は、その時分かったのだ。
私が欲しかったその愛は、愛じゃなかった。私が欲しかったのは過去の綺麗な思い出。あの時をもう一度やり直したかっただけ。
本当の愛は違うんだ。蓮は千聖先輩を守るために、この刃を私に向けたのだ。
愛なんてなかったんだ。蓮はもう私のことなんて見てなかった。だって私はずっと過去に囚われた未来を見ていたのに、蓮はもう未来へ歩き始めようとしていたんだもん。私は
でももう後悔しても遅かった。私と蓮が見ているものは違ったのだ。そんな簡単なことにすら気が付けなかったんだ。
たった一度のすれ違いが、こんな残酷な結果にしかならないだなんて。神様って、意地悪だな。
けれど、私は、ようやく愛というものが何か分かったかもしれない。私はあの日、全て狂って、あの世界で生きることが、蓮と穏やかな日々を過ごして、そうやって育んでいくのが愛だと思っていた。
けど、違った。それも愛ではあるのだけれど、違ったのだ。
私がこの残酷な世界に打ち拉がれたように、この辛い世界を生きていく中で、大切なものを守るために、命を賭すのが、愛なんだって。未来に生きていくために報いる愛だったんだ。
蓮は裏切った私に向き合った上で、千聖先輩を選んだんだ。私が報いようとした愛は虚構だったんだ。
「……」
「……ダメ。蓮……」
「……なんで、止めるんだよ」
「……たしかに、私は蓮だけのもの。蓮は私だけのもの。……邪魔をするなら、私たちは抵抗する……つもりだった。けど、……蓮がもう、これ以上手を汚す必要はないから……。蓮が……手を汚しちゃったら……意味がないから……。ひぐっ……、罪を背負うのは……私だけでいいからぁっ」
「あ……ぁぁ……」
「だからもう……止めて……」
苦しい。傷口から血が噴き出ている。あの日々とはまた違う痛みが私を包んでいる。
でも、これで、これで良かったんだ。
これで、ようやく、ようやく私は未来に向けて歩き出せるから。本当の愛の意味を知ったから。
そう思わないと、悔しくて悔しくて、泣いてしまいそうだったから。だってあんまりにも惨いじゃないか。自分の裏切りで自滅した憐れむ必要すら感じられない無様な私。でも……それでも……、愛の意味を知った。きっと、今の私の顔は満足げなんだろうな。
「れ……ん……」
蓮の顔。綺麗だなぁ。当たり前だよね。私が愛した人なんだもん。愛した人で、これからもずっと心の奥底で愛し続ける人なんだから。けれど蓮。お互い愛し合ってるのに、私たち2人じゃ、幸せにはなれないよ。
でもね、私、蓮に会えてよかった。蓮は最初から最後まで、私に幸せを教えてくれたから。愛の意味と幸せを教えてくれたから。私はようやくこの世界から飛び出せるよ。
私も蓮のくれた'愛'に報いるんだ。
「あり……がと……う」
あぁ……幸せだなぁ。
雲ひとつない晴天。真っ白な鳥籠は私が幸せを紡ぐ場所。
忘れ去られた愛に報いて、未来に生きる第一歩。
私、幸せになるよ。
またね。さようなら。