でも肝心のあのセリフを作中で使えていない…。
私が巡回を終え警備室に戻ると、長椅子にサラリーマン風の若い男が寝かされていた。
「本当に大丈夫ですか。救急車を呼んだ方が…。」
「呼ばないでください…本当に、大丈夫です。ホント…精神的なもの…ですから…。」
男性スタッフの蒔田さんが男に話しかけていた。
男はこの施設のどこかで体調を崩していたところを、蒔田さんに保護されたようだ。
「蒔田さん。」
「ああ、武蔵君。」
失礼、名乗りが遅れてしまった。
私は黒鉄武蔵。海神警備・岩川台営業所の艦娘だ。
この日は金剛の代役として、この施設の警備を担当していた。
(この日金剛は海上保安庁の要請を受けて、海上保安庁の艦娘部隊と共に出動していた。)
「こちらの方は?どうかされたのですか?」
「うん…二階の男子トイレで執拗に手を洗っている人がいると聞いて、行ってみたらこの人がいたんだ。…声をかけたら、そのまま崩れ落ちそうになってね。とりあえずここで休んでもらうことになったんだが…。」
「救急車を呼んだ方が良いのではありませんか?」
「私もそう思うんだが…呼ばないでくれと強く言われてしまってね…。」
「そうでしたか…ここは一旦私が引き継ぎましょう。」
「済まないね、面…いや、任せたよ。ありがとう。」
そして蒔田さんは巡回に出かけ、私がこの男の様子を看ることになった。
「本当に救急車を呼ばなくても良いのですか。」
「…さっきの人にも言いましたが、ホントに、気持ちの問題ですから…ちょっと休ませてもらえれば…大丈夫ですから…。」
今にして思えば、まずここで#7119に電話して状況を説明し、相談員からこの男を説得してもらうという選択肢もあった。
(まあ男は尋常ではない雰囲気を漂わせていただけで、意識もはっきりしており、緊急性はないと判断されていたかもしれないが。)
しかし私はここで…
「お手洗いで執拗に手を洗っておられたということですが…。」
…男に質問してしまった。
「俺の手は…汚れてしまったんです…汚れが…落ちないんです…。」
「…ハンバーガーソースや、フライドポテトの油に塗れているようには見えませんが…。」
「そうじゃないんです…。」
…まあ、それはわかっていた。
「…俺は妻を…愛してるんです…ホントなんです…それなのに…でもホント、俺…。」
私はそのまま男の話を聞くことになってしまった。
男の名は仮に「立木」としておく。
先に「サラリーマン風の若い男」という書き方をしたが、実際にサラリーマンだった。
勤め先がどこなのかは聞かなかった。
立木は結婚していて、既に妻との間に子も授かっていた。
毎週土日の家族サービスを欠かさず、育児や家事を手伝い、常に良き夫、良き父であることに努めてきたと言う。
ただ子を授かってから、妻をセックスの対象と見ることができなくなり、妻とはセックスレスの状態が続いていた。
そんな時、ふとしたことから同僚の女―――仮に「田中」としておこう―――と夕食を共にすることになった。
そこで(私から見れば)どういうわけか、セックスレスの話題になった。
「一緒にいたいっていうのと、性欲は別です。ちゃんと両方、私は満たされたいと思いますし、その相手は違っててもよいと思います。」
「無理をするくらいなら風俗店にでも行って、一緒にいたい人とはセックスをしなくても一緒にいればいいじゃないですか?」
「それで、どうします?セックスレス…。」
「迷ってるなら一度、私の見方で見てみません?」
「浮気がばれるのはほとんど男です。女だって浮気しているのに、男の方がバレるから悪いんです。…だから、バレない浮気をすればいいんですよ?」
「たかがセックスですよ?」
…そして立木は田中に誘われるまま事に及んだのだが…。
全く満たされない。
ただセックスがしたかったのではない、あくまでも妻とのセックスがしたかったのだと今更ながら思い出す。
そして次々と不安が湧き上がる…離婚…慰謝料…子供のこと…。
「普段から愛妻家とかイクメン気取ってるからどうするかと思ったら、結局あなたもそこらのヤりたがりと一緒じゃないですか。まともぶってる分ダサいです!」
「誠心誠意反省して、謝れば?…はっ!反省して、浮気が許されるんですか?それとも、誠心誠意謝った人は許さなければならないとでも考えてます?あんたは女を下に見過ぎ、キモすぎですよ。」
「浮気ってのはした時点で既に悪なんですよ。もう、あんたの手は私を抱いた段階で汚れたんです。可哀想ですよね。奥さんも子供たちも、そんな汚れた手で触れられるなんて。」
「自分が見えてないクズが一番イラつくんですよねぇ。せめて自覚はしときません?あ、私もクズですけど。」
…立木はこうして田中に心をへし折られた。
そして立ち直れていない状態のまま、この日、この施設の男子トイレで蒔田さんに保護されることになった…。
立木の話を聞き終えたとき、私の方には「言っておかねばならないこと」が二つ生じた。
あまり時間はとれない。
私は取り急ぎ、頭の中で方針を定め、立木に言葉をかけた…。
「自分が見えてないクズ、ですか…。立木さん、確かに私の目から見ても貴方は人間として矮小で薄っぺらいです。」
「!?」
「毎週土日には家族サービスを欠かしません?家事や育児を手伝っています?何ですかそれは?努力を誇示しているのですか?貴方の良き父、良き夫であるための努力は赤の他人に認めてもらえなければ報われないものなのですか?」
「浮気、バレる、離婚…慰謝料…子供のこと…それは結局我が身についての心配ですね?奥様とお子様については心配されないのですか?」
「大体セックスレスの問題というのはご夫婦の問題でしょう?何故赤の他人・ただの同僚に過ぎない田中さんとセックスレスの話などされたのですか?そもそも田中さんと話される前に、奥様とは話されたのですか?」
「やめてください!なんで!なんでこんなところでまで、見ず知らずのあなたにまで責められなくちゃならないんです!あなたには、あなたには関係ないことでしょう!?」
立木は長椅子の上で身を丸め、耳を塞いだ。
私の言葉は効果があった…ようだ。
そう推定して、私は話を続けた。
「正直申し上げて、貴方が今何を感じておられるのか、私にはわかりません。」
「遣り場のない怒り?自分への失望・絶望?」
「その感覚を何と呼ぶかはともかく、苦痛を感じておられる…のは確かですね?」
「………。」
「貴方は今苦痛を感じておられる。」
「ですがその苦痛は、今貴方が自分の矮小さ、人間としての薄っぺらさと真摯に向き合えている証左だとは思いませんか。」
「え…。」
「確かに貴方は人間としては矮小で薄っぺらい。でも貴方は今そんな自分自身に真剣に向き合っておられる。だから行動に異常を来すほどの苦痛を感じている。」
「田中さんに貶められ、私に糾問されて貴方が感じたその苦痛は、決して無意味なものではないのですよ。」
一息おいて私はさらに続けた。
「自分を虫ケラだと思って、そこから這い上がろうとする奴は虫ケラとは言わない。それは人間だ。」
「それは…?」
「以前、同僚に見せてもらった漫画にあったセリフです。今の貴方にふさわしいセリフだとは思いませんか。」
「今貴方は、自分はクズだと嫌というほど思い知らされ、激しい苦痛の中にいる。そして、そこから這い上がらなければならない時が来た。」
「ただ無意味に苦しみ続けるのはもう十分でしょう。貴方は這い上がらなければならない、変わらなければならない。」
「で…でも…這い上がるって言ったって…変わらなければって言ったって…どうしたら…。」
「申し訳ありません、さすがにそこまでは私も…。」
「ただ、ヒントをくれるものなら、結構あります。」
「それは…?」
「プライベートのご友人、会社の(田中さん以外の)同僚、上司、カウンセラー、お寺のお坊さん、教会の神父さんや牧師さん…ヒントだけということであれば私も。」
「そして何よりも、貴方の奥様とお子様です。」
「この人たちと対話を重ね、行動を共にし、自分の言動を省みる。どうするべきであったのか、どうするべきであるのかを常に問い続ける。」
「要するに、今まで通り、それでいてしっかりと生き続けると言うことです。」
「そうすれば、貴方は必ず変われます。どう変わるのかまではわかりませんが、変わるのは間違いありません。」
「そうすれば、少なくとも貴方は今のままのクズではなくなります。むしろクズのままで居続けることは不可能だと言っても良いでしょう。」
「…そ…そうですか…。」
少し間を置いて、今度は立木の方が尋ねてきた。
「あ…さっき、お寺のお坊さんとか教会の神父さんや牧師さんとか仰ってましたけど…それは何で…。」
「…少し、余裕が出てきたようですね。」
「え…そ、そうですか?」
「私がお坊さんや神父さん、牧師さんの名を挙げたのは、そもそもこれが宗教者の仕事だからです。人生のあらゆる側面について『どうしたら良いのですか』という問いに答える…ヒントだけでも与えることが、共に考えることがお坊さんや神父さん、牧師さんの本来の仕事だから、ですよ。」
…それから私は、二つ目の「言っておかねばならないこと」に話を移した。
「お話に出てきた田中さんという女性ですが…私の目にはどうにも異様な人間に見えます。」
「そうですか?彼女にはひどく罵倒されましたけど、言われたことはそれなりに正論って言うか…筋が通っているって言うか…。」
「本当にそう思われますか?」
「え?」
「彼女は何故貴方に『浮気ってのはした時点で既に悪なんですよ。もう、あんたの手は私を抱いた段階で汚れたんです。』と言ったのでしょうか。」
「そりゃあ…やっぱり浮気ってのは悪いことなんだから…。」
「でも彼女は『一緒にいたいっていうのと、性欲は別です。ちゃんと両方、私は満たされたいと思いますし、その相手は違っててもよいと思います。』と言っていたのでしょう?」
「確かにそう言っていましたけど。」
「だとしたらやはり彼女の言動は異常です。」
「…どういうことですか?」
「この際言ってしまいますが、私には何人も愛人やセックスフレンドがいますし、行きずりの男や女、艦娘とセックスすることについても全く罪悪感を感じません。」
「ええ!?」
「だからセックスを気軽な行為と捉えている点で、私は田中さんと同類だと言えます。」
ここから私は少し長く語りはじめた。
「ですが私なら、浮気は悪なのだとか、貴方の手は汚れたとか言った類の言葉は絶対に口にしません。倫理的にも論理的にもあり得ないことです。」
「自分と浮気したことを後悔している人を見ても、私なら『この人は私とは住む世界が違うんだな』としか思いません。」
「仮にその人を許せないと思ったのなら、私がその人に何か言葉をかけるということ自体あり得ないでしょう。後悔しているということ自体が既に苦痛であり、その苦痛に対して何もしない…何も手当てをしないことこそが、何よりの制裁なのですから。」
「対して田中さんは現実に、浮気したことを後悔している貴方に賢しらぶった罵倒の言葉をかけました。これは何故なのでしょうか。」
「それは…武蔵さんと田中さんは同類だと言っても、全く同じって訳じゃないんですから…。」
「確かにそう言ってしまえばそれまでの話です。」
「確か田中さんは『自分が見えてないクズが一番イラつくんですよねぇ。せめて自覚はしときません?あ、私もクズですけど。』とも言っていたのでしたね?」
「え?…はい…。」
「このセリフには明らかに『あなたも私もクズだけど、自分がクズだとわかっているだけ私の方があなたより上等だ』という意味が含まれています。」
「このセリフから、田中さんは人と人との関係をまず『上か下か』で捉える傾向があることが見て取れます。」
「『迷ってるなら一度、私の見方で見てみません?』、『だから、バレない浮気をすればいいんですよ?』、『たかがセックスですよ?』…こう言ったのも田中さんの方でしたね?」
「そうですが…。」
「そして事に及んだ後に賢しらぶった罵倒の言葉を投げかけた上に『私はあなたより上等!あなたは私より下等!』と言う…。」
「そうすると田中さんは、あなたを精神的に捻じ伏せ、下に置き、屈服させるためにあなたとセックスをしたと言うことになります。」
「お気づきですか、いわばあなたはレ…。」
私は言いかけて、やめた。
私は熱くなりすぎていた。
少し冷静にならねば…と、思っていたら…。
「あ、あの、武蔵さん…もしかして、怒っていませんか?」
「…!!」
指摘を受けて、思わず私は赤面した。
「あ…これは…いや、お恥ずかしい。」
「本当にお恥ずかしい話ですが、確かに私は憤っています。」
「あまり詳しくは言えませんが、私は田中さんを『自分は少年法に守られていると嘯いて犯罪行為を繰り返す未成年』のような奴だと思っています。」
「理解しろとは言いませんが、私はセックスが大好きです。」
「セックスという行為は、『気持いい』を分け合って、時には親愛の情を交わす(大人の)遊びだと思っています。」
「だから貴方の心を捻じ伏せ、屈服させるために貴方とセックスした田中さんは、セックスという遊びを冒涜している…最低最悪の人間だと思ってしまったのです。」
動揺のあまり、前半と後半で論理的整合性に欠ける話をしてしまった。
(それでも嘘を言ったわけではないが。)
気を取り直して、私は話を続けた。
「彼女は何故貴方を『自分の下』に置こうとしたのでしょうか。」
「それは…田中さんが人間関係を『上か下か』で捉えてると言うのなら、俺の上に立つためなんじゃ…。」
「それなら他人を引き摺り下ろして自分の下に置くのではなくて、自分自身がそこから這い上がる方が先でしょう。ちょうど今、貴方がその一歩を踏み出したように。」
「でも田中さんは自分が這い上がるのではなく、貴方を引き摺り下ろすことを選びました。何故でしょうか。」
「それは、彼女が本当に最低の人間で、こうして『自分より下の人間』を無理にでも拵えなければ、誰の上にも立てないと思っているからです。自ら這い上がろうとする力も意志も、彼女には備わっていないからです。」
「それと、田中さんは何故貴方を標的にしたのでしょうか。」
「田中さんは、俺が普段から愛妻家とかイクメンを気取っているからだ…とか言ってましたが…。」
「そうでしたね。」
「先ほどは私も『何ですかそれは?努力を誇示しているのですか?』などと言いましたが、『普段から愛妻家とかイクメン気取ってる』人間は、なんとなく『人生がうまくいっている人』であるように見えます。」
「そして田中さんは『人生がうまくいっているように見える』貴方に攻撃を加えました。」
「田中さんは…他人の幸せを許せない人間なのです。他人が幸せそうに見えるだけでも、不愉快に感じる人間なのです。」
私は話をまとめに入った。
「こうして見ると、やはり田中さんは異様な人間だと言わざるを得ません。」
「他人の幸せを許すことができない。」
「人間関係を、まず上か下かで捉えようとする。」
「そして自力で這い上がるのではなく、他人を貶め引き摺り下ろすことで人の上に立とうとする。」
「私から見ると、田中さんはこういう人間です。」
「田中さんは『自分が見えてないクズが一番イラつくんですよねぇ。せめて自覚はしときません?あ、私もクズですけど。』と言ったそうですが。」
「『私もクズですけど』と言うセリフが、自分が立木さんの浮気相手になったことを指して言ったセリフなら、田中さんの方こそ自分の姿が見えていないと言わざるを得ません。」
「田中さんがクズである理由は、そんなところにはありません。」
「先程私は『自分を虫ケラだと思って、そこから這い上がろうとする奴は虫ケラとは言わない。』というセリフを引用しました。」
「田中さんという人間は、自分が何故クズなのか本当にはわかっていませんし、他人を引き摺り下ろすことで人の上に立とうとして、自ら這い上がろうとはしていません。」
「このことは何を意味していると思いますか。」
そして立木は、警備室を後にしようとした。
「ありがとうございます。何て言うか、ちょっとだけ気力が出たような気がします。」
「お礼を言われるには及びません。あえて無礼を承知で申し上げますが、私としては貴方には警備室からさっさと出て行ってほしいと思っていただけですから。」
「あ…いえ、ほんと、それは済みません。…ですが…。」
「どうされました?」
「俺、自分は田中さんよりマシな奴なんだと思って安心してしまってるんです。でもそれって結局俺も田中さんと同類だってことになるような気もして…。」
「確かにその通りです。ですが、誰かから指摘される前にご自分でそのことに気づいたのなら、少なくとも私から見れば貴方が田中さんよりマシな奴だということは確かですよ。」
「………。」
「ああ、それから…。」
「な、何ですか?」
「田中さんへの対応の仕方ですが、これからは完全無視を決め込んでください。彼女とは絶対にお仕事以外の話をしてはいけません。彼女のことは人間ではなく書類か、業務メールの類だと思ってください。」
「え!?で、でもそれは…。」
「彼女は、幸せになろうとする全ての人の敵です。そして失礼ながら、貴方では彼女に太刀打ちできないでしょう。絶対にお仕事以外で彼女に関わってはいけません。」
「あ…はい。」
「もし、彼女が無視できないほどに貴方に絡むようになってきたら、海神警備・岩川台営業所敷地内にある甘味処『間宮』までお越しください。そこで間宮さんに…店主に金剛という艦娘に会いたいとお伝えください。」
「金剛さん…ですか?その方は、どういう…。」
「私の同僚にして友人です。彼女なら田中さんをどうにかしてくれるでしょう。」
「どうにか…というと?」
「金剛なら田中さんを救うか…田中さんに引導を渡してくれるはずです。」
「引導って…。」
「口喧嘩で…あくまでも口喧嘩で、二度と立ち上がれないくらいに田中さんのプライドや自尊心を打ち砕く、と言うぐらいの意味です。」
「わ、わかりました…。」
「それでは本当に、ありがとうございました。」
立木はそう言って、警備室を出て行ってくれた。
入れ違いに、蒔田さんが警備室に戻ってきた。
「あれ、今の人…さっきまで長椅子で休んでた人だったよね?」
「はい。」
「なんかずいぶん感じが変わったなぁ…武蔵君、あの人に何をしたの?」
「ちょっととりとめのない話をしただけです。あの人が言っていた通り、精神的というか気持ちの問題だったようですね。少し話をして気を紛らわせたら、すっかり元気になってくれましたよ。」
「ふうん…でもまあ、元気になってくれたんなら良かったよ。」
「ええ、本当に…。」
…それから数ヶ月経ったが、今のところ立木が金剛を訪ねてきたという話は聞かない。