崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
麗しきイザベルの楽団がコーズ渓谷に掛かる大橋を渡ると、少し離れて前後に囲むように人集りができる。熱烈な愛好家ではない。全員が重装備の兵士──練度と装備から黄都の兵だ。つい最近確認した、間違いない。
老将が素手のまま一歩前へ出る。
「あ、あー。止まれ、止まれ。聞こえてるよな? 歌手なら耳は良いはずだ」
「あら、今ちょうど急ぎの用事があるの。後でまたいらしてくれない?」
「ダメだ、こっちも急ぎなんでね。なに、用件は簡単だ。手短に済ますさ」
惚けた歌姫に引き攣った笑いを返す老将の名を、青錆錠のキノイチという。左手を
「浮島のガルナーを引き渡せ」
「……はい?」
「演技はいらないぞ、ここは劇場じゃあない」
「いえ、演技もなにも……ガルナー様の身に何か?」
「……正気か?」
下らない芝居だと一度は嘲笑ったキノイチも、イザベルの偽言でないと気づいた。もしガルナーを拐ったのが彼女であれば、ここで強行突破を企てる。彼女はそれができると信じているし、現にガルナー邸でされている。キノイチに芝居を打って時間を浪費する理由がない。遅れれば遅れるだけ、遺産の争奪戦には不利になる。イザベルが足を止めているのはガルナーの顛末を聞くためだろう。
「いやはや、だとしたら振り出しじゃあないか……」
麗しきイザベルは無関係だとしていい。キノイチは顎を撫でながらそう結論づけた。ならば一体誰がガルナーを拐ったのか。
「もう一度聞きます。ガルナー様に何か?」
「……拐われたんだよ。おたくらが訪ねたその日に。痕跡からしておたくらじゃないかと思ったんだが」
「私は知りませんよ」
「無関係ではないがな。邪魔されなければガルナーは黄都で保護できていた」
歌姫の美貌を眼球に写しながら、キノイチは別の可能性を見ていた。あの日、歌姫の一行以外に銃弾を止める硬壁を切り裂き、ガルナーを誘拐できる者がいたのか。
まだ橋の封鎖は解除しない。黄都の命である限り、小一時間は橋の出入りを制限できる。まだ疑念があった。
「……確かにイザベル嬢は無関係かもな。なら、他の楽団員はどうだ?」
「私の楽団員が、ガルナー様を拐ったと?」
「あり得ない話じゃあない。楽団に軍規なんて無いだろ? いつ誰がどこで何をしていたか記録があるわけでも、部下の勝手な暴走に罰則があるわけでもない」
麗しきイザベルは力を与えるだけで、力を振るうのは彼女ではない。容疑者は楽団の全員だ。
「早く終わると言ったのはすまなかった。今から楽団の全員に話を聞かせてもらう」
「そんなお時間があるのですか? 我々には無いのですが」
「だからすまないと。それから、心配されなくても遺産の捜索には別の部隊が当たっている」
「……仕方ありませんね。メルサラン」
交渉を諦めた歌姫が指揮者を招く。楽器箱が開き、各々の奏者が受け持つ楽器を掲げる。その中で打楽器だけが欠けている。
「結局こうなるのか……」
「湖面を跳ねる五行の閃き/一筋二筋淡交を経て──」
短剣がキノイチの二腕二足の節部を制した。風切り音が弦楽器の波長に紛れる投擲。戦乱を生きたキノイチであっても対処できなかった、紛れもない英雄の技だ。
膝蓋腱を断たれた激痛で退避もできず崩れ落ちる。直線の軌道ではない。蛇行する軌道で表層のみを斬った。ナイフの刃面を傾けて投げる事で、望む軌道に必要な気流を産み出している。
「ぐゥ……やはり殺意はない。一班は投げナイフだ。二班以降は待機」
「はっ、生術士を!」
傷口を土に浸しながら、キノイチは次の指示を出している。駆け寄った生術士の足に飛ぶナイフを、後方からの投げナイフが弾き落とした。耳障りな金属音が連続する。
「投降しろ、麗しきイザベル」
治療されながら、キノイチは自軍の勝利を確信している。殺意もなければ戦術眼もない。かつてガルナー邸での銃撃戦でも、歌姫を狙った者は必ず三発以上の報復を受けていたという。英雄の弾丸ならば一発で十分だというのに。今もそうだ。
麗しきイザベルの楽団は、英雄の力を持っていても音楽家だ。戦闘の専門家ではない。戦況における優先度や分担、その他の取捨選択で専門家の兵士を上回ることはない。
手負いの黄都兵を狙うナイフが、地面に縫い付けられる。あらかじめ三人一組で相互に支援するよう指示してある。どの武器が逸脱の技巧を獲得するか、判明するまでの一瞬で討たれた兵もいるだろう。だが討たれた兵よりも、討った楽団員の方が多い。
「聞こえてるだろう? このくらいの騒音、劇場の喝采に比べればなんて事はないよな」
尺度が変わっただけで、キノイチの慣れた戦場と同じだ。一人の英雄では十人の英雄に勝てない。
橋の上という逃げ道の限られた戦場。混乱を起こさぬ兵の練度。準備されたあらゆる武器の質。咄嗟の判断を下すための戦法への素養。すべての要素が黄都兵の有利に働いている。
「逃げられると思うな」
戦況打破の手段を封じ、拒絶する。青錆錠のキノイチはそのような策を好む将だった。
「……メルサラン」
「はい」
「総員攻撃やめ」
(次はなんだ。まさか自爆覚悟の突撃は無いよな。それは怖いが、楽で助かる)
ナイフが仕舞われ、隊形が変わる。キノイチは副官に寄越させたラヂオを通して対岸の軍にも命令を伝える。今なら楽団は無力だが、焦る必要はない。焦って接近し、予想外の武器を持ち出された方が厄介だ。じりじりと包囲網を狭めるだけにしておく。その威圧感から恐慌し、瓦解するかもしれない。彼らは兵士ではなく、ただの音楽家なのだから。
やがて新しい歌が聴こえる。子守唄のようにゆったりとした独唱だ。伴奏はない。“彼方”の言語の歌なのか、意味はわからない。
銃に触れる。何も起きない。
長剣に触れる。何も起きない。
歌詞が違うが、念のため投げナイフに触れても何も起きない。弓や斧、携行してきた全ての武器に触れても何も起きない。歌姫の歌を静聴しながら、見渡した他の兵士も黙って首を振っている。
何が逸脱を獲得したのか。彼らは後手に回るしかない。
(不味いな。こちらが持っていない特殊な武器のための歌なら)
「一時撤た……あ?」
ラヂオにそう伝えた瞬間、酔夢のような奇妙な全能感がキノイチを襲う。
──今、何を使ったか。
(……
ラヂオに唾を飛ばす。戦況を自軍に有利になるよう押さえ込んだつもりだった。甘かった。
「包囲を下げて距離を取らせろ! 今すぐにだ!」
一つ、教授できるのは肉体の動きのみ。
二つ、体構造の類似。
三つ、イザベル自身の技巧の理解。
条件は三つ。これさえ揃っていれば良かった。
黄都の兵団が一体の怪物のように連帯した動きで後退する。命令から実行までが短時間で成立している。
だが。
「斜陽に奔れ/早の影は寂滅──」
「湖面を跳ねる五行の閃き/一筋二筋淡交を経て──」
「悪逆淋漓の濁血よ/我が剣には栄光の鞘──」
「天願叶いて
音の洪水に呑まれる。英雄の軍勢が突貫してくる。協調性は無いが、その方が早く動ける。当然の摂理だ。
投げナイフが、銃弾が、長剣が、槍が。英雄の技巧で同時に襲い来る。無策にも軍陣の中央まで食い込み、複数人を相手取る者もいた。戦術など欠片もないが、そもそも不要だった。英雄とは、単騎で戦場を蹂躙する生物だ。
「ああッ!?」
「聞こえない、
「……予想外だ」
「ここは退きましょヴッ……!」
無数の悲鳴が不協和音の合唱に消える。キノイチの隣の副官も護衛の
楽団は戦闘の専門家ではない。音楽の専門家だ。彼らだけがこの
「残念だけど、あなたたちはまだ同じ舞台に立てないのよ」
イザベルが土煙に少し煤けた髪を掻きあげて歩み寄る。その些細な仕草に金を払ってもいいと思った。手を伸ばせば触れる距離だ。しかし触れられない。
最初から台本があって、ここは彼女の為に用意された舞台であったと錯覚するほどに隔絶していた。もはや歌ってすらいない。歌っているのは、他の楽団員だ。
イザベルは自分がどのように喉を震わせ、聴衆の脳に伝えているかを理解している。そしてその聴衆も歌姫と同じ人間の肉体と喉を持つ。条件は揃っていた。
「言ったわよね。英雄になれたら会いましょうって」
彼女も英雄の一人だった。
麗しきイザベルは、自らの歌唱技術を他人に教授できる。